身辺雑記
――『日本のこころ』を囲って――
中谷宇吉郎
私がものを書き出したのは、四十くらいからのことで、まだ十二、三年にしかならない。それにしては、ずいぶんたくさん書き散らしたもので、曠職のそしりは、所詮まぬかれないものと、内心観念している。
しかし少しくらい、あるいは大いに、評判が悪くなっても、それを償ってあまりあるくらいの歓びがある。どんなに小さいものでも、ものを創る歓びは、何ものにも換えられない。実験が一段落ついて、何か瑣細なしかし新しいことがらが分った時と、少し気に入った随筆を一篇書き上げた時とは、同じような興奮と安堵とを感ずる。どうせ人間百年は生きられないのであるから、こういう歓びを享受しなくてはつまらないと、すっかり度胸をきめて、この頃は悪びれずに書くことにしている。
ところが、最近そういうささやかな歓びとは、比較にならぬ大歓喜にめぐり遭って、いささか呆然とした。それは﹃あるびよん﹄の九月号に載った、如是閑先生の﹁イギリス式日本のこころ﹂である。褒められたといえば自惚れになるが、私が現代の日本人中最も尊敬している人の一人である如是閑先生が、非常な好感をもって、私の本について八頁にも及ぶ長文のものを書いて下さったことを、冥加の至りと感じている。ものを書き出してから十数年の間に、あんなに嬉しかったことはなく、また今後もないことだろうと思う。嬉しかったのだから、悪びれずに喜んで、こういう雑記を書くことにした。
ついでのことに、少し図に乗って、いい気なことを書くが、一番嬉しかったことは、イギリス式と銘を打たれたことである。実は、若い頃から英国が好きで、留学国としては、一も二もなく英国を選んだのである。私は運がよくて、若いうちに留学が出来た。大学を出て三年して、旧年齢二十八歳で外国へやられたのであるが、当時の日本の物理学界は独(ドイ)逸(ツ)万能であった。原子物理学勃興時代で、独逸がその方面で世界の花形であり、錚々たる学者が雲の如く輩出した。それで物理の留学生といえば、独逸へ行くものと決っていた。事実、本気で物理学をやろうと思えば、独逸へ行くのが正統であり、また一番有効でもあったのであるが、私は自分の好き嫌いだけの問題で、英国を留学国に選んだ。たしか私一人だったかと思う。そして独逸へ行った連中が、華々しく原子物理学の研究に突入している噂をききながら、私は倫(ロン)敦(ドン)のキングス・カレッジの陰気な地下室で、古ぼけた器械を使って、長波長X線の退屈な実験をしていた。それでも別に不満はなかった。自分で好きこのんで行ったのだから仕方がない。
留学中に、長岡先生が、欧洲の学会へ出席された帰りに、倫敦へ立ち寄られたことがあった。キングス・カレッジも訪問されて、たしかアップルトン卿︵当時はまだ卿ではなく、新進の電波学者であった︶だったかの案内で、実験室を見て廻られた。地下室の私の部屋へこられた時、先生は途端に﹁なんだ、君、こんなところにいたのか。こんな馬鹿なところにいてどうするんだ。今の物理学は独逸だよ﹂と、例の大声でいわれた。もちろん日本語である。私はへどもどして﹁ええ、いや、ここをすませたら、独逸へ行こうと思っていたのですが、独逸はどこがいいでしょうか﹂と、下手な挨拶をした。そしたら﹁独逸ならどこだっていいよ。こんな古臭い実験なんかやってるところはないよ﹂と、また叱られた。アップルトン先生は、多分日本語というものは、非音楽的な言葉だと思われたにちがいない。
英国へ留学したなどということは、物理の方では、あまり自慢になる話ではない。それで、私は帰ってからも、あまり吹聴しないことにしている。随筆にも滅多に書かない。従って、如是閑先生も、私の英国留学は、多分御存知なかったことだろうと思う。それでいて先生が、あの文章の冒頭で、これはイギリス式の日本のこころであるという意味の言葉をいっておられる。私は大いに安心した。これからはこれも悪びれずに、﹁わが英国は﹂といおうかと思っているくらいである。
英国もこの頃はひどく貧乏をして、戦勝国のくせに、衣食、少なくも食の方は、無条件降服の日本よりももっと不自由だという話である。しかしそれは生産が上らないというよりも、輸出に全力を傾倒しているからだということである。再び昔日の英国に戻るか否かは、誰にも分らない。多分戻らないかもしれない。しかし戦争に勝ってから五年も経過した今日でも、依然として全国民が耐乏生活にたえて、国力を自力で盛り返そうとしているところが、流(さす)石(が)に英国人である。太陽の没することのない英国よりも、今日の英国の方が、もっと身近かに感ぜられるような気がする。
ある人が、あるところで、﹁人間はいつかは必ず死ぬ。それが動かし得ない真理である﹂という文章を書いた。ところがその人が、別のところで、﹁シェクスピアは、今も英国人の心の中に生きている。人間は永久に死なないという一つの例である﹂といった。
そうしたら批評家がたいへん喜んで、﹁あいつのいうことは全く出鱈目だ。人間は必ず死ぬというかと思うと、すぐその後で、人間は永久に死なないといっている。読者をだましているか、あるいはからかっている。からかうにしては、たちのよくないからかい方だ﹂と、大いにたたいたそうである。
これは一つの笑話である。たいていの人は、笑話にもならないくだらない話と思う。しかし人間という言葉にいろいろな意味のあることを知らない人たちには、この批評家の言が、立派な議論と聞えるであろう。そして厄介なことには、﹁あいつは人間でない﹂という言葉を、﹁あいつは魚である﹂という流儀に解する人が、現在の日本では、案外に多いようである。
こういう妙なことを書くのは、これも私の﹃日本のこころ﹄に関係のある話なのである。日本で一流の大新聞社の出しているある週刊誌の書評に、﹃日本のこころ﹄から次の三つの言葉をぬき出して、その矛盾を論じている文章が載ったので、実はびっくりしたのである。日本の文化の一般の水準は、案外こういうところに現われているように思われるので、その資料としてとり上げてみることにした。
三つの言葉というのは、次の通りである。
第一は私がよく使う﹁科学は良識の精髄である﹂という言葉である。これは水害の科学的研究を論じた文章の中で、洪水の科学的研究といっても、微分方程式や精密測器を使うことではなく、日本の川の水の動きを合理的に、かつ自然に即して調べることであるという議論をした時に使ったのである。
第二は﹁日本の国は、まだ科学の知識を活用するところまでは行っていないので、せいぜいのところ科学者の智慧が役に立つことがあるくらいのところであろう﹂という言葉である。これは粉鉄鉱が冬期輸送中に凍結して困るので、その対策の研究を委嘱された時の話である。無蓋貨車に積んだ粉鉄鉱の上に乗って、粉鉄鉱と一緒に走ってみたら、ほとんど凍らないことが分った。要するに貨車をためるから凍るので、着いたらすぐおろせば何でもないのである。ところがこの対策の研究に、東京から大研究所の所長以下五、六名の先生たちが、室蘭までわざわざやってきたのだから驚いたのである。それで前の悪まれ口は、こういう問題の解決には﹁精密な器械はいらない。冬の北海道で無蓋貨車に一日乗ってみれば分ることである﹂という意味である。
第三は﹁人間の作った科学は、現在では人間よりもずっと強くなっているから、人間の感情などは簡単に踏みつけて前進するであろう﹂という言葉である。これは﹁水爆と原爆﹂という題の文章の最後につけ加えたもので、この方は説明を要しないであろう。
ところで、以上三つの文句を、私はちゃんとしたつらなりがあるものと思っていた。少なくとも私の頭の中では、これらの間に矛盾は感じていなかった。ところが、前にいったある週刊誌の評者には、これが非常な矛盾に感ぜられたというのである。世の中は広大なものと少々驚くとともに、これは一応考えてみる必要がある問題と思った。
その評者の意見によると、第一の言葉、即ち﹁科学は良識の精髄である﹂というのを肯定すると、第二は﹁もはや日本は良識を必要としない国だと、見下げ果てられたわけである。だが疑問は消えない。科学が良識の精髄だというなら、良識ぐらいはいかに日本でも必要であり、活用も出来るだろうにと思う﹂ということになるのである。第三の言葉からは﹁人間の良識が、人間を簡単に踏みつけて前進するとは、どういうことだろう。いよいよ判らなくなってしまう。人間を踏みつけて前進するようなものは、良識の精髄ではあり得ないはずである﹂という結論が出されている。
匿名批評であるから、書いた人は分らないが、とにかく日本一流の新聞の姉妹誌であるから、相当な有識者の言であろう。ところがそれが前の笑話を地で行っているのである。
﹁科学は良識の精髄である﹂というのは、私が戦争中からいい出した言葉で、東条首相のスローガン﹁科学の力をもって、不可能を可能ならしめよ﹂に対抗するスローガンである。科学は可能を可能ならしめるものであって、不可能を可能ならしめるものならば、それは魔術である。戦争中及び戦後の日本は、可能を可能ならしめればそれで十分であって、それさえ出来れば、今日のような惨めな国の姿にはならなかったであろうと思う。
科学という言葉は、今日あまりにも普及し過ぎたために、その意味も考えずに、ぼんやりと使われていることが多い。それで案外広い意味に使われているが、それらを整理すると、だいたい二通りに分類される。即ち﹁科学﹂は、科学的な考え方︵科学者の智慧︶という意味と、科学の法則及びその実験事実︵科学の知識︶という意味と、この二通りを心得ていれば、たいてい間に合う。その両者をまとめて科学という場合もある。
ところで﹁良識の精髄﹂というのも、曖昧な言葉であるが、もともと広い範囲に使われる多義的な言葉を、五字ぐらいで表現するのだから、もちろん厳密な定義になるはずはない。私はここで、学としての科学即ちヴィッセンシャフトの定義をしようとしているのではない。それならば哲学辞典を見れば分ることである。一般に現在使われている科学という言葉の意味を、なるべく分かりやすく、かつ本質を失わないように表現しようとしているのである。
それで私のいう﹁良識の精髄﹂は、科学的な考え方の方を指している。﹃日本のこころ﹄でも、このスローガンの直ぐ前に、﹁科学という言葉は、日本では、非常に謬った意味に解されている。実用から遠く離れたむつかしい基本的な理論の代名詞として、科学という言葉が使われてきた。そういう理論も、もちろん科学の一部に含まれるが、科学というものは、本当はもっとずっと広いものなのである﹂という説明がついているとおりである。
問題とされた第二の言葉、即ち﹁日本の国は、まだ科学の知識を活用するところまでは行っていないので、せいぜいのところ科学者の智慧が役に立つことがあるくらいのところであろう﹂というのは、次のような意味である。現在の日本では、科学者の智慧即ち科学的な考え方の方が、科学の知識それ自身よりも余計に役に立つ、そういう国の状態であるということを言っているのである。即ち敗戦後の我が国では、科学的な考え方、即ち良識の方が大切であるという意見である。誤解を招くといけないと思って、わざわざ科学の知識と、科学者の智慧と、二つに分けて書いておいた。
今の日本では良識の方が大切であることを分らすために、これほど注意して、書いておいたにも拘らず、それを﹁もはや日本は良識を必要としない﹂という風に、全く反対の意味に誤読する人があろうとは、夢にも考えていなかった。しかもそれが一流ではなくても、相当な有識者と思われる人であるとしたら、日本の文化の水準を考え直す必要がある。
第三の言葉については、説明を必要としない。私が﹁人間の感情などは簡単に踏みつけて前進する﹂と書いたのを﹁人間を簡単に踏みつけて﹂と読まれたのであるから、これはそそっかしさの問題である。評者の言葉の中に、﹁人間を踏みつけて﹂という言葉が二度も出ていて、﹁人間の感情﹂というのが一度も出ていないのだから、そそっかしい人だと思われても仕方がないであろう。﹁地球は太陽系の遊星である﹂と書いたのを﹁地球は太陽系である﹂と読まれたようなものである。誤読は勝手であるが、それでもって﹁あの男は小学校の理科の知識ももっていない﹂というような匿名批評をされるのは、ちと迷惑である。そういえば、﹁良識の方が大切である﹂ことを、口を酸っぱくしていっているのに、﹁良識がいらないというのはけしからん﹂と忿(いか)るのは、やはりそそっかしさからきているのであろう。無邪気といえば、無邪気な話であって、ちと迷惑なことさえ我慢すれば、この評自身はあまり問題にする必要がない。
問題は日本一流の新聞紙の姉妹誌に、こういう議論が、堂々と印刷されるというところにある。後世、敗戦五年後の日本の文化水準を研究する人にとって、これは一つの資料になるかもしれない。そういう意味で、こういう馬鹿げた話を書いておくのも、まんざら意味のないことでもなかろう。
先日ちょっと名古屋へ行った時に、民間放送をたのまれた。読書の時間とかであって、﹁自作を語る﹂というのをやってくれといわれて、いささか閉口した。とくにアナウンサーの人から﹁先生は今度の﹃日本のこころ﹄で、神仙道の研究にはいられたようですが﹂と註を入れられたのには、大いに辟易した。
あの神仙道は、私の身辺では、大分論議の種になったようである。盛岡の鉄道局長をやっている私の畏友兼悪友からは﹁いよいよ科学なき日本に愛想をつかして、神仙道へ逃避ですか﹂と冷やかされるし、方々で大いに老人扱いをされて閉口した。一生物理学をやっていても、最後は神仙道へ戻ってくる。やはり東洋人の血は争えない。などということになると、ちょっと茶の間の話題にはなるのであるが、私はそんなにかれたわけではないので、まだまだ大いにやにっこいつもりなのである。
もっとも露伴のものが好きになったのは、やはり齢のせいかもしれないが、ああいう長いものを書くほど熱中したのは、小宮︵豊隆︶さんの煽動にうまく乗ったことが、一番大きい理由である。露伴の最後の言葉﹁じゃあ、おれはもう死んじゃうよ﹂に注目されたのは、小宮さんであって、それを話のまくらに使う必要上、小宮さんのところへ、その点をことわる手紙を出した。ところがその返事に、僕も一時露伴の神仙道に凝ったことがあるが、あまり難渋なので途中で途切らしたら、もうすっかり忘れてしまった。ああいうものは熱があがった時に、やり通してしまわねば駄目なもののようだ、という意味のことが書いてあった。なるほどそういうものかと思って、到頭﹃仙書参同契﹄を読み上げたわけである。
どうも話が楽屋に落ちるが、わたしのあの解説は、露伴の﹃仙書参同契﹄を一度読まれた方でないと、存在価値を認めてもらえないと思う。それほどあの﹃仙書参同契﹄は難渋をきわめた文なのである。今までずいぶんいろいろなものを読んだが、露伴のあの文章くらいの難物には、滅多に出遭った経験がない。韋編三度絶つというほどでもないが、とにかく﹃遊塵﹄を一冊ぼろぼろにして、やっとあれを書き上げた次第である。途中で何度も投げ出しそうになったが、小宮さんの手紙を思い出して、今投げ出したらそれ切りになってしまうと思い直して、どうにかやり通したわけである。
先日学習院で小宮さんに会った時﹁あれには驚いたよ。大した根気だね﹂と褒められて、大いに慰められるところがあった。まる三月かかったのだから、根気の方は、褒められてもいいであろう。それにしても、神仙道にまる三月つぶしたのだから、まだ大いにやにっこいところがあることはたしかである。これから新しく留学でもして、物理学を初めからやり直して、八十歳まで働くと、ちょうど大学を卒業してから今日までと同じ年月だけあることになる。なかなか楽しみでもありかつ厄介でもある。
露伴の最後の言葉﹁じゃあ、おれはもう死んじゃうよ﹂というのは、小宮さんが驚かれただけではなく、たしかに注目に値する言葉である。古来の達人傑士の臨終の様子を詳しく研究しておられる亀井︵勝一郎︶さんも、ああいうことをいった人はいなかったようだと、大いに瞠目しておられるようである。我流の解釈をすれば、あれは﹁おれはもう寝るぞ﹂というのを、一廻り大きくしたもののように思われる。一日中忙しい用事がたくさんあって、それらが一応巧く片附いて、草臥れはしたが、気持よく草臥れたという日には、たいていの人が、夜は﹁じゃあ、おれはもう寝るぞ﹂といって床にはいる。そして明日起きてからのことに考えをめぐらすこともせずに、満ち足りた気持でぐっすりと寝入る。露伴の最後の言葉は、丁度これに相当するのではなかろうか。それだとすると、人間この境地に達するには、どうしても八十五歳ぐらいまでは、働かねばならないようである。しかも働き甲斐のある働きをしなければならない。神仙道もなかなか楽な道楽ではないことになる。
﹃日本のこころ﹄を出して、一番嬉しかったのは、前にも書いたように、﹃あるびよん﹄に出た如是閑先生の批評兼随想である。その中で、神仙道のことについては﹁ミイラ取りがミイラになりそうなところまで行っている﹂という意味の言葉があったが、正にそのとおりであって、一時本当にミイラになりそうなところまで行ったのである。女房が﹁あなた本当に露伴に凝っちゃったわね﹂と心配したくらいであったが、もう大丈夫である。小林秀雄の言を借りれば、狐はもう落ちてしまったわけである。もっとも私の力では、それくらいにしなければ、あの﹃仙書参同契﹄をもみほごすことは出来なかったのである。碁や玉突に凝ったと思えば、三月ぐらいつぶしても、まあかんべんして貰えるだろうと、有利に解釈している。
あまりひどく凝るのは、もちろんよろしくないが、何といってもわれわれの本来の教養は、中国の文化を母体にもっているので、その大切な要素の一つである神仙思想について、一応の知識をもっていることは、差しつかえのないことと思っている。実は最近紐(ニュ)育(ーヨーク)の湯川さんのところから手紙が来て、﹃日本のこころ﹄の読後感の中に、湯川さんも若い頃から老荘の思想に興味をもっていたことが書いてあったので、大いに驚いた。私信をこういうところに引用するのは少し悪いようであるが、一度か二度しか会ったことのない名士の書評の手紙を、新聞広告に使うのが平気な世の中であるから、まあいいだろうということにして、左に紹介する。もっともこの手紙自身が、一つの意味をもっている手紙とも私には思われるからである。
拝啓その後お変りありませんか 貴兄アメリカへ来られるかも知れないという話をどこかで見ましたが如何なりましたか 小生九月下旬メキシコ大学創立四百年記念学会で一週間ほどメキシコ市にいましたが、大昔にアジアから来た人々とスペイン人が一緒になって出来たこの国の文化には非常な興味を感じました 文化が余り homogeneous になると面白味がなくなります 貴兄の御近著﹃日本のこころ﹄有難う御座いました その中のアメリカ文化に対する御批評小生にも同感の点が沢山あります 人間が幸福になるための必要条件は恐らくアメリカのような国においてもっとも満されやすいでしょうが充分条件の方はまた別です 少し位客観的条件が悪くても日本人の方が主観的にはより幸福な場合が随分あるかも知れません しかし人口問題がこう深刻ではいくら呑気な日本人でも本当に幸福にはなれないでしょう せめて電源の開発にでもうんと力を入れて一年中夜の明るい日本になればと思います
多少ともゆとりのあるのは潜在的な水力だけの由ですから
小生は幸田露伴には今まで余り興味を持っていませんでしたが貴著を読んで成程露伴には神仙思想老荘思想の背景があることに今更ながら気がつきました 日本人は儒教と仏教とは充分取り入れたのに老荘思想が極く一部の人にしか理解されなかったことは私は不思議に思います 私自身は中学時代から老子や荘子が非常に好きでそのお蔭で年がら年中切端詰った気持でいなくてすむのだと思っています
﹃鞍馬天狗﹄子供達大喜びで読んでいます スミ子よりも貴兄御奥様に宜しくと申出ました
湯川さんが、中学時代から、老荘の思想に親しんだということを、今の日本に紹介することの可否は、大いに問題である。物理学の方はろくに勉強もしないで、神仙道混りの新しい物理学などに凝る連中が現われてはたいへんである。戦争中の文部大臣が、生理学と﹃無門関﹄とを﹁融合﹂して、日本的な科学を創り出した例は、まだわれわれの記憶に新しい。生理学の教科書と﹃無門関﹄釈義とを、それぞればらばらにして、一枚ずつ入れまぜて製本したような﹁日本的科学﹂の出現に、一つの温床を与える懼(おそ)れがある。しかし考えてみれば、そういう馬鹿気たものが、少しくらい出てきても、現在の日本の科学界は、そういうもので影響されはしないであろう。それくらいの自信はもってよいと私は思っている。もっともそういういんちき科学が出現した場合、代議士などの中には、それに加担する連中が現われ、研究費をどうのこうのいうような話が出てきて、実害があるようになるかもしれない。しかしちょいと痛いくらいのことはあっても、日本文化の発展に本質的の影響はないであろう。
︵昭和二十六年十月︶
底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「イグアノドンの唄」文藝春秋新社
1952(昭和27)年12月5日
初出:「文学界 第六巻第一号」文藝春秋新社
1952(昭和27)年1月1日発行
入力:kompass
校正:岡村和彦
2021年3月27日作成
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