居士は東とう京けいに生れ東とう京けいに長そだちたる者なり。僅に人事を解せしより、市川團十郎氏の演しば劇いと三遊亭圓朝氏の談はな芸しを好み、常に之を見、之を聞くを以て無上の楽しみと為せるが、明治九年以来当地に移住せるを以て、復両氏の技芸を見聞する能わず。只新聞雑誌の評言と、在京知人の通信と、当地の朋友が東京帰りの土産話とに依て、二氏の技芸の、歳月と共に進歩して、團十郎氏が近古歴史中の英雄豪傑に扮して、其の精神風采を摸するに奇を専らにし、圓朝氏が洋の東西、事の古今、人の貴賤を論ぜず、其の世態人情を写すに妙を得たるを知り、彌仰慕の念に耐ず、一ひと囘たび之を見聞せんと欲するや極めて切なり。去る十七年の夏、偶事に因て出京せるを幸い、平ひご素ろの欲のぞ望みを達せん事を思い、旅寓に投じて、行李を卸すや否や、先ず主人を呼で二氏の近状を問う。主人答て曰く、團十郎は新しん富とみ劇ざに出場せるが、該かの劇ざは近この日ごろ炎帝特に威を恣にするを以て、昨日俄に場を閉じ、圓朝は避暑をかねて、目今静岡地方に遊べりと。居士之を聞て憮然たるもの暫やゝ久ひさしゅうす。此この行こう都下に滞留すること僅に二周間に過ず、團十郎再ふた度ゝび場に登らず、圓朝氏留って帰らざるを以て、遂に二氏の技芸を見聞する能わず、宝山空手の思い徒に遺憾を齎らして還る。其の翌十八年の夏酷暑と悪病を避けて有馬の温泉に浴す。端はしなく会あい人づのひと無々君と邂逅して宿やどを倶にす。君は真宗の僧侶にして、学識両ふたつながら秀で尤も説教に長ぜりと。君一日浴後居士の室に至る、茶を煮て共に世事を談ず。君広こう長ちょ舌うぜつを掉い無むげ碍べ弁んを恣にして頻に居士の耳を駭おどろかす。談偶文章と演説の利益に及ぶ。君破顔微笑して曰く、文章の利は百世の後に伝わり、千里の外に及ぶ、演説の益は一席の内に止まり数人の間に限れり、故に利益の広こう狭きょうより言えば、素より同日の論に非ず、然れども其の人の感情を動かすの深浅より言えば文章遠く演説に及ばず、且近来速記術世に行われ演説をそのまゝ筆に上して世に伝うの便を得たり、親しく耳に聞くと、隔りて目に視ると、感情稍薄きに似たれども尚其の人に対し其の声を聴くの趣おもむきを存して尋常文章の人を動すに優れり、余は元来言文一致を唱うる者なり、曾て新井貝原両先輩が易読の文を綴りて有益の書を著わすを見て常に其の識見の高きを感ずれども、然れども尚其の筆を下すや文に近く語に遠きを恨みとなす、維新以降文章頗る体裁を改め、新聞雑誌の世に行わるゝや、文明の魁さき首がけ社会の先進たる福澤福地両先生高見卓識常に文を草する言文一致の法を用い、高尚の議論を著わし緻密の思想を述ぶるに、佶きっ屈くつ牙ごうがの漢文に傚わず、艶麗嫻雅の和語を摸さず、務めて平易の文字と通常の言げん語ぎょを用い始めしより、世の後進輩靡然として其の風に習い、大いに言げん語ぎょと文章の径へだ庭たりを縮ちゞめたるは余の尤も感賞する所なり、いな大いに世の文明を進め人の智識を加うるに稗益あり、且かつ夫それ試こゝろみに言げん語ぎょと文章の人の感情を動かすの軽重に就て爰に一例を挙んに、韓かん退たい之し蘇そし子せ瞻んの上に駕する漢文の名人、紫むら式さき部しきぶ兼けん好こう法ほう師しも三舎を避る和語の上手をして文を草せしめ、之を贈りて人の非を諫めしむると、訥弁鈍舌の田夫野老をして面まの前あたり言ことばを呈して人の非を諫めしむると、其の人の感情を動す孰いずれか深き、韓かん蘇そし紫け兼んの筆恐くは田夫野老の舌に及ばざらん、又他の一例を引んに、後醍醐天皇新田義貞に勾こう当とうの内侍を賜わる、義貞歓よろ喜こびの余り﹁されば死しねとの仰おおせかや﹂の一語を発せる旨太平記に記せるを、或る漢文の名家、其の語を漢訳して曰く﹁吾をして死なしむるなり﹂と原訳両文の人の感情を動す孰か深きと言うに、原文の妙、訳文に優ること数等なるを覚ゆ、蓋原文は言こと語ばに近く訳文は言こと語ばに遠ければなり、又本多作左が旅中家に送りし文に曰く﹁一筆ぴつ申もうす火の用よう心じん、阿おせ仙ん泣なかすな、馬うま肥こやせ﹂と火を警いましむるは家を護まもる第一緊きん要よう的てきの事、阿おせ仙んは一子の名泣なかすなの一語之が養育に心を用いん事を望むの意至れり、馬うま肥こやせの一句造ぞう次じて顛んぱ沛いにも武を忘れざる勇士の志こゝ操ろづけ十分に見ゆ、又遊女高尾が某なに君がしのきみに送りし後きぬ朝〴〵の文ふみに曰く﹁ゆうしは浪の上うえの御おん帰かえり御おん館やかたの首しゅ尾び如いか何ゞ此こな方たにては忘わすれねばこそ思おもい出いださず候そろかしく、君きみは今いま駒こま形かたあたり時ほと鳥ゝぎす﹂と此この両ふた尺つの牘てがみ文章字句の上より論ずれば敢て鍛練の妙を尽せしに非ず、推敲の巧みを求めたるに非あらねども、僅々の文字に能く情理の二ツを尽し、之を退たい之しが孟もう尚しょ書うしょに与うるの書、兼好が人に代って鹽えん谷やの妻に送るの文ふみに比するも、人の感情を動かすの深き決して渠かれに劣らざる可し、是も亦他に非ず其の文の直たゞちに言ことばを写せばなり、抑も人の喜怒哀楽直に発して言ことばと成り再び伝って文と成なる、言ことを換かえて之を言えば、言ことばは意を写し文は言ことばを写せるものなり、直写と復写と其の精神を露わすに厚薄あり、随て他の感情を動かすに軽重ある又宜ならずや、方今漢文を能よくするを以て世に尊まるゝ者極めて多く、中に就て菊きく池ち三溪けい翁依よだ田ひゃ百くせ川ん君の二氏尤も記事文に巧みに、三溪けい翁は日にっ本ぽん虞ぐし初ょし新ん誌しの著あり、百ひゃ川くせん君は譚たん海かいの作あり、倶に奇事異聞を記述せるものにて文章の巧妙なる雕ちょ虫うち吐ゅう鳳とほう為に洛らく陽ようの紙価を貴からしめしも、余を以て之を評さしめば、未落語家三遊亭圓朝氏が人にん情じょ話うばなしの巧に世態を穿ち妙に人情を尽せるに如しかず、其の人の感情を動す頗る優劣ありと言いわんとす、嗚あ呼ゝ圓朝氏をして欧米文明の国に生れしめば、其の意匠の優れたる、其の弁舌の秀でたる、大いに公衆の尊敬を蒙り、啻に非常の名誉と非常の金銀を得るに止らず、或は爵位をも博し得て富ふう貴き両ふたつながら人に超え、社しゃ会かい上じょ流うりゅうの紳士に数えらるゝや必せり、惜おし哉いかな東洋半開の邦に生れたるを以て僅に落語家の領おや袖だまと呼よばれ、或は宴会に招かれ或は寄よ席せに出いで、一席の談話漸く数十金を得るに過ず、其の位置たる尋常一様の芸人と伍して官吏学者の輩に向て一等を譲らざるを得ず、実に不幸と謂つ可し、と口を極めて之を賞しょ賛うさんす。居士も亦其の説の当れるを賛して可と称す。爾来居士の圓朝氏の技に感ずるや又一層の厚きを添え、同氏の談話筆記怪談牡丹灯籠、鹽原多助一代記等一編出る毎に之を購い、目もく読どくの興を以て耳聞の楽たのしみに換ゆ、然り而して親しく談話を聞くと坐ら筆記を読むと、自おのずから写真を見ると実物に対するの違い有れば稍やゝ隔かっ靴かそ掻うよ痒うの憾かん無きにあらず、且かつや圓朝氏固より小説家ならねば談話の結構に於ては或は間かん然ぜんするところ有るも、話中出るところ夥か多たの人物老若男女貴賤賢愚一々身に応じ分に適かなえ、態を尽し情を穿ち、喜怒哀楽の状目前其の人を見るの興味有らしむるに至りては実に奇絶妙絶舌に神しんありと言う可し。益無々君の言文一致の説に感じ、文章の言語に如しかざるを弁わきまえ、且曩さきに無々君が圓朝氏の技を賛する過言に非るを知る。頃この来ごろ書肆駸々堂主人一小冊を携えて来り、居士に一言を冠かんせん事を望む、受て之を閲けみすれば、即ち三遊亭圓朝氏の演えんぜし人にん情じょ談うば話なし、美びじ人んの生いき埋うめを筆記せるものなり。其の談はな話しは、福ふく地ちげ源ん一郎ろう君が口こう訳やくして同氏に授けたる仏国有名の小説を、同氏が例の高尚なる意匠を以て吾国の近事に翻案し、例の卓絶なる弁舌を以て一場の談話として演述したるものにて、結構の奇、事状の異、談話の妙、所謂三拍子揃い、柳の条えだに桜の花を開さかせ、梅の香かおりを有もたせ、毫ごうも間然する所なきものにて、曩さきに世に行われし牡丹灯籠、多助一代記等に勝まさる事万々なり。居士一読覚えず案を拍うって奇と叫び、愈無々君の説に服し、圓朝氏の技に駭おどろき、直に筆を採て平生の所感を記し、以て序に換ゆ。 明治二十年四月二十日 半痴居士 宇田川文海識