一
﹁親分、御存じでせうね、あの話を﹂ ガラツ八の八五郎が、獨り呑込みの話を持込んで來ました。 早咲の梅が、何處からともなく匂つて來る暖かい南縁、錢形平次は日向を樂しんで無精煙草にしてゐるところへ、八五郎がいつもの通り其日のニユースをかき集めて來たのです。 ﹁藪やぶから棒に、何を言ふんだ。江戸中の人間の借金を帳消しにする御布令でも出たといふのか﹂ ﹁そんな事なら驚きやしません。どうせあつしは借金は返さないことに極めて居るんで﹂ ﹁あんな野郎だ﹂ ﹁ね、親分。世の中には、ボロイ話もあるものですね、あつしも少しばかり元を卸おろして見ようと思ひますが﹂ ﹁大きな事を言やがる。まさか、銅脉︵贋にせ金がね︶を拵へる相談ぢやあるまいな﹂ ﹁こちとらの雁がん首くびに祟たゝるやうな物騷な話ぢやありません。あつしの聽いたのは御信心の方で﹂ ﹁信心をね﹂ ﹁信心が金儲けになるんだから、こいつはたまらねえでせう。まるで持參付きの小町娘が、押しかけ嫁に來るやうな話で﹂ ﹁下げ司すな心掛けだ。そんな野郎は請合ひ八寒地獄へ眞つ逆樣に墮ちるよ﹂ ﹁地獄の拔け裏が極樂でこいつはまたたまらねえ。結構な娘と年増が歌念佛で總踊りと來る﹂ ﹁どうも言ふことが變だぜ。何處かの赤い鳥居へ、小便でもしなかつたか﹂ ﹁さう思ふのも無理はありませんがね。まア、聽いて下さいよ。親分﹂ 八五郎は縁側ににじり上がつて物語らんと膝つ小僧を揃へました。尤も合掌した手を膝と膝との間に挾んで、肩と顎あごで梶かぢを取り乍ら話すのですから、あまりお品は良くありません。 ﹁大層改まりやがつたな﹂ ﹁根岸の梅屋敷――龜戸梅屋敷と違つて、此處は御隱殿裏で、宮家住居の近くだから、藪やぶ鶯うぐいすだつて三さん下さがりぢや啼かねえ。簫しやう篳しち篥りきに合せてホウホケキヨ――﹂ ﹁止さねえか、馬鹿々々しい﹂ ﹁その梅屋敷の隣に、近頃紫御殿といふのが出來ましたよ。江戸では御ごは法つ度との銅瓦三階建、何とか院樣の御許しがあるとかで、町方で手のつけやうはねえ﹂ ﹁その話は聽いたよ。三輪の萬七親分が、――お膝許にあんな化物屋敷をおつ建てられちや、こちとらは睨みがきかねえやうで、世間樣に顏向けがならねえ――と腹を立てゝ居たよ﹂ ﹁三輪の親分なんざ、ごまめの齒ぎしりで、お長屋の總そう後こう架かから赤あか金ゞねの庇ひさしを睨んで、半日いきんでゐたつて、良い智慧は出ませんよ﹂ ﹁口が惡いな。――お前といふ奴は、人間が甘い癖に﹂ ﹁斯んなところで溜飮を下げなくちや、――年中三輪の親分に嫌がらせを言はれて居るぢやありませんか﹂ ﹁ところで、その紫御殿はどうした?﹂ ﹁さう〳〵忘れて居ちやいけない。お宗旨は紫教、教祖は紫しき琴ん女、良い女だ相ですが、これは四十を越した中婆さん、別當は赤井主水といふ立派な公くげ卿ざむ侍らひ、祈祷僧は法來坊といふ、武藏坊辨慶のやうな大坊主、鉦を叩いてお經を上げて、鈴を持つて踊を踊るんだから、こんな面白いお宗旨はないでせう﹂ ﹁フーム﹂ ﹁教祖紫琴女と別當の赤井主水は、八はつ宗そう兼けん學がく、天地神明に通ずるといふ、大層な智惠、法來坊は豪力無双の惡僧、その他多勢の先達が、紫教といふのを擴め、日本橋通三丁目の大分限、井筒屋豊三郎その外の寄附で、根岸に紫御殿といふのをおつ建て、歌と和讃と、祈祷と踊で、夜も晝もない賑はひだ﹂ ﹁で、近所の衆や、お屋敷方で默つて居るのか﹂ ﹁お宗旨もあんなに威勢がよくなると、手のつけやうがありませんね。うつかり文句を言はうものなら、氣狂ひ見たいになつた信者達が押し寄せて、どんな目に逢はされるかわかりません。それでもいけない時は、法來坊が四十八貫の鐵棒を持つて押し出し、大地を叩いての強こは談判だ。大抵の者は顫へ上がつてしまひますよ﹂ ﹁だが、それ丈けのことでは、うつかり荒立てるわけにも行くまいよ。禁制の切支丹と違つて、表向差止めの御布令でも出なきや、手のつけやうもあるまい﹂ ﹁御法度や禁制どころか、金儲けにもならうといふ御宗旨だから、あつしも一と口御信心に乘出さうかと思つて居る位で﹂ ﹁何をやらかせば、金儲けが出來るのだ﹂ ﹁御本尊へお供へをあげるのですよ。三方に載せて名札を添へて、ほんの心持や一と身上をとね﹂ ﹁慾張つた本尊だね﹂ ﹁勿體ない。そんな事を言ふと罰が當りますよ。佛罰が當つて、大事な寶を召上げられるとか、ひどい損をするとか﹂ ﹁安心しなよ。罰が當つたところで、身體一つの外には、ろくなものゝ無いこちとらが召上げられると、清々する位のものだ﹂ ﹁金や身上より大事な、お靜さんといふ姐さんがあるんぢやありませんか﹂ ﹁馬鹿なことを言へ﹂ ﹁兎も角も、御本尊へ供へた金が、本人の信心次第で、三日目には倍になつて返るんだから、これは結構過ぎるほどの御宗旨ぢやありませんか﹂ ﹁フーム?﹂ ﹁三百供へた者は六百文になつて返り、一兩小判を供へると二兩、百兩出せば二百兩になつて返るんだから、大したものでせう﹂ ﹁勘定に間違ひは無いのか﹂ ﹁冗談言つちやいけません、神かみ業わざですよ。大晦日の次に元日が來るほど確かで﹂ ﹁間違ひもなく眞物の小判だらうな﹂ ﹁あつしは青錢か小粒しか見ませんが、小判を供へた人は、間違ひもなくピカピカする吹き立ての後藤小判が、丁度倍になつて返るさうで、からかつた野郎が、褌ふんどしに三つにくるんだ、八十六文を取出して、三方の上にガチヤリと置いたら、こいつは綺麗に無くなつて、何なん日にち待つても返されなかつた﹂ ﹁時々そんな事があるのか﹂ ﹁十のうち九つまでは二倍になつて戻つて來る相ですが、信心氣が無かつたり、アヤフヤな心持だつたり、御本尊樣の惡口を言つたりすると、不思議に返らないと言ひます。あつしも八やと所ころ借がりをして、せめて五兩も供へて見たいが﹂ ﹁おつと、その無心は御免だよ。信心を元手に稼がうなんて野郎は大嫌ひさ。その代り、袷あはせを受出すとか、友達の義理とか、筋の通つた話なら、遠慮することは無い。どかりと持ち込んで來るが宜い。身の皮を剥いでも達たて引ひくぜ﹂ ﹁急に飮み度くなつたのなんかいけませんかね、親分﹂ ﹁此野郎、足許を見やがつたな、――宜いとも、望みとあれば、隨分浴びるほど呑ませてやる﹂ ﹁有難い仕合せで、――ところで、親分も一つ信心をやつて見ませんか﹂ ﹁御免蒙らうよ。俺は金儲は嫌ひだ﹂ 平次はさう言つてカラカラと笑ふのです。二
それから三日ばかり、冬の月が美しく冴えた晩、駕籠を路地の外に留めて、一人の立派な町人が、平次の家を訪ねて來ました。 ﹁甚だ勝手ですが、私名前は後で申上げます。實は折入つてのお願ひがございまして﹂ 人品骨柄賤いやしくないのが、四方を憚かり乍ら、格子の中に揉手をして申入れます。 ﹁どんな御用で? 構やしませんとも、餘つ程の御心配があるやうで﹂ 平次はそれを迎へ入れて、靜かに訊ねました。客といふのは四十五六の立派な仁にん體てい、身みな扮りは地味で目立ちませんが、行屆いたたしなみで、何樣容易ならぬものを感じさせます。 ﹁思案に餘つて、夜分そつと參りましたが、此處で何を申上げても宜しいでせうか﹂ 客はいかにも落着かない樣子です。 ﹁淺あさ間まな家で物騷なやうですが、路地の口に駕籠屋が見張つて居さへすれば、野良犬だつて滅多に入つて來やしません。――お勝手に居るのはあつしの女房で、仕事のことになると耳は節穴見たいなもので﹂ ﹁では、申上げますが、紫御殿のことは、親分も御存じでせうね﹂ ﹁詳しいことは知りませんが、一と通りは聽きました﹂ ﹁その紫教といふ御宗旨へ、フトしたことから私は深入りいたしました。耻かしいことですが、配つれ偶あひにわかれて、長い間獨り身で暮して居る私は、宗祖樣の紫しき琴ん女に打ち込んでしまつたので御座います﹂ ﹁待つて下さい、宗祖とか教祖とかの紫琴女といふのは、もう四十過ぎの中婆さんだと聞きましたが﹂ ﹁いえ、六十とも七十とも、百になるのだとも申しますが、三十と言へば三十、二十歳と聽くと二十歳とも見れる、不思議に綺麗な人で﹂ ﹁で?﹂ 平次はその後を促しました。 ﹁つい、望まれるまゝに、私は、あの紫御殿といふ途方もないものを建てゝ寄進いたしました﹂ ﹁あ、では、お前さんは、井筒屋の旦那?﹂ ﹁お耻かしいことで、――商あき人んどが、御宗旨で金を儲けようとしたのが間違ひの基で﹂ ﹁?﹂ ﹁紫御殿にかけた金がざつと一萬兩、それを取返さうとして、井筒屋の力の及ぶ限りの工面をして、この身も細る思ひで、もう一萬兩の金を作りました。それを――﹂ ﹁紫御殿の祭さい壇だんに供へたといふんでせう?﹂ ﹁よく御存じで、――別に拵へた、五つの大三方に、二千兩づつを載せ、紫御殿の祭壇に供へて、三日三晩、揉もみに揉んで祈りました。が、四日目になつて十の千兩箱を取おろすと、十の千兩箱が二十に殖えて居るどころか、元のまゝの十で、それも一つ殘らず空からつぽになつて居りました﹂ ﹁なる程、それは大變なことで﹂ ﹁それ丈けなら、私の不信心のせゐと諦めますが、それから先が、我慢のならないことになりました﹂ ﹁――﹂ ﹁紫御殿の別當赤井主水樣の仰しやる事には、お前の信心は掛引だらけで、眞心が通つてゐない。此上宗祖樣のお心を宥なだめるには、其方の覺悟一つ――と斯う申されます﹂ ﹁で?﹂ ﹁いやもう覺悟はきめてをります。井筒屋が立ち行けば、先祖樣への申澤も立つ、いかやうな事なりと、仰しやつて下さるやうにと申しますと、――お前にはお組お蝶といふ、二人の娘があつた筈。宗祖樣の御腰元、御本尊樣への御給仕に、その二人を暫らく差上げたならば、何んとかお詫びの仕やうもあらうと、斯樣に申しますが、此上二人の娘を召上げられては、私の立つ瀬が御座いません。そればつかりはと、強たつて御辭退申上げますと――﹂ ﹁?﹂ ﹁それから七日經たないうちに、お組お蝶の二人の娘は、煙のやうに消えてしまひました。――何處へともなく姿を隱したので御座います。今は身代限り同樣の私が、僅かに殘る寶の二人の娘を失なつては、生きた心持もいたしません。八方に人を馳せて搜しますと、その娘が二人共、根岸の紫御殿に、安穩に隱されて居るとわかりました﹂ ﹁それなら、呼戻すことも出來る筈だが﹂ ﹁申す迄もなく、二度も三度も掛け合ひました。私が出掛けて行つて、別當赤井主もん水ど樣と、直々のお話もいたしましたが、お組もお蝶も、宗祖樣ことの外お氣に入りで、容易に歸してくれ相もなく、三輪の萬七親分にも頼み、寺社のお係にも申上げましたが、紫御殿へ再應掛け合つたが、本人のお組お蝶が、此まゝに留り度い、日本橋の家へは歸り度くないと申す相で、手のつけやうが御座いません﹂ ﹁――﹂ ﹁二萬兩の金は諦めて居りますが、せめて二人の娘だけでも、私の手許に歸して貰ひ度いと、いろ〳〵工夫もいたしましたが、どんな手てだ段ても行詰つた揚句、親分さんにおすがりする氣になつたわけで御座います。私の店の四方は、夜晝妙な人間に見張られて、うつかり出掛けることもなりませんので、夜分に出入の駕籠屋を裏に廻し、此處まではやつて參りましたが、どうやら、矢張り後を跟つけられて居るやうで﹂ 井いづ筒つ屋豊三郎は苦笑ひをし乍ら、氣味惡さうに四方を見廻すのでした。三
八五郎は何處をほつつき廻つて居るか、この三四日は顏を見せず、錢形平次はたつた一人、その翌る日根岸の紫御殿に行つて見る氣になりました。 谷中へ來た頃は、もう晝過ぎでした。其處から梅屋敷の方へ、小春日の日ひな向たを享樂するやうに崖下を辿つて來ると、 ﹁あツ﹂ 不意に頭の上から、三つ四つ石垣が崩れ落ちて來たのです。錢形平次のモーシヨンが少し遲かつたら、間違ひもなく、石の下に潰されて大怪我をしたことでせう。 僅かに避よけて、上を見上げると、高々とした畠に小笹と雜木が繁つて居り、その間をチラリと人影が見えたやうですが、道の無い崖を追つかけて登つたところで、相手はそれを待つて居る筈もなく、その醜體さを考へただけで、平次は思ひ留つてしまひました。 平次はそれを見捨てゝ、御隱殿裏から梅屋敷の方へ辿りました。其處からはもう、木の間に銅瓦が隱見し、やがて近頃江戸ツ子の膽を冷させた、御法度の三階建の威風が、晝下りの陽を受けて、四方を拂ひます。 暫らく平次はどうして御殿の中へ入つたものか、それを考へて居りました。正面から善男善女の一人に化けて入らうか、それとも、夜になるのを待つて、夜盜のやうに忍び込まうか、思ひ惑つて居たのです。 間もなく平次は、正面から乘込んで、入口から追つ拂はれる間の惡さに氣が付いて、夜になるのを待つ外は無いことを覺りました。それと無く樣子を見て居ると、紫御殿の出入には、その頃の役所などの出入に使つた、小判形の門もん鑑かんが要るらしく、空から手てで入つては飛んだ耻を掻かなければならないことに氣が付いたのです。 お宗旨の御本山とも言ふべき、紫御殿に入るのに、一々門鑑を調べるといふことは、一應不思議なことのやうにも思はれましたが、後で聽けばそこがまた仔細のあるところで、御宗旨と見せて、何んか外の企たくらみがあるらしく、信者も人から人と紹介するやうになつて居り、フリの者は一切寄せつけないやうな仕組になつて居るところでした。 お行ぎやうの松と梅屋敷の間を、平次は何べん歩いたことでせう。やがて四方が雀色になつた頃、紫御殿の裏から、そろ〳〵潜り込む隙を平次は狙つて居りました。 紫御殿には、あちこち灯が入つて、夕方のお勤めが始まつたらしく、多勢の女の聲で、お和讃の大合唱が始まりました。その節廻しの見事さ、平次の緊張も解けて、思はずうつとりさせられます。 裏木戸のあたり、此處から入れないものかと、板塀をそつと撫でて居ると、 ドーン。 と夕空に木こだ靈まして、紛れも無い鐵砲の音、彈丸は平次の耳をかすめるやうに、木立の中に射ち込まれた樣子です。續いて、プーンと匂つて來る煙えん硝せうの臭ひ。 ﹁お止し、鐵砲で殺しては可哀想﹂ 女の聲、――あたりをクワツと明るくするやうな、不思議な艶と魅力のある聲です。 聲のした方を見ると、夕闇の中に浮出した美しい顏が、ニツコリして居るではありませんか。 眼の前、ほんの五六尺、飛びかゝれば飛びかゝれる距離ですが、相手はそんな事を考へてもゐない樣子で、續け樣にまたニツコリするのです。 ﹁錢形の親分ね、表から名乘つて下されば、どんなにでもお相手をするのに、默つて入ると、あれ、あのやうに、鉛つ彈た丸まが飛んで來ますよ。今のは私がチヨツ介を出して、危ないところで狙ひを外そらせたけれど﹂ ﹁――﹂ ﹁錢形の親分さんなら、私の方でよく存じ上げて居ります。でも、今日は駄目、あの通り鐵砲は二ヶ所から狙つて居るし、元込めで續け撃ちがきくから﹂ ﹁――﹂ ﹁御用があつたら、どなたかに頼んで、先せん達だつに引合せて貰つて下さいよ。通三丁目の井筒屋なんか、差當り結構な手てづ蔓るぢやございません?﹂ ﹁あツ﹂ 平次も思はず聲を出しました。其處まで調べが屆いて居るところを見ると、迂濶なことは出來なくなります。 ﹁もうお歸り? では又、お待ちして居ますわ、ウフ、フ﹂ 妖あやしい含み笑ひ、香氣馥ふく郁いくたるものを殘して、女は何處ともなく消えてしまひました。錢形平次はまさに、不用意に近づいたばかりに、存分に飜ほん弄ろうされた形です。 隨分不思議ですが、女の生暖かい調子に中あてられて、此まゝ尻尾を卷いて歸るより外はありませんが、フト外に手段はないものか知ら――と、負けじ魂が、ムラムラとコミあげて來るのはどうすることも出來ません。 歸ると見せて、十歩、二十歩、元來た道を梅屋敷の方へ引返すと、後ろからは、何やら物の氣はひ、そつと振り返ると、先刻の男らしいのが、短銃を腕だめにしたまゝ、執しつこく後を跟つけて來るのです。 ﹁野郎ツ、ふざけた事を﹂ 平次の反抗心は勃然として湧き起ります。 少し急ぎ足に、とある屋敷の角を曲ると、其處に待ち構へて、ヌツと後から來た男の鼻の先へ姿を現はしました。 ﹁あツ﹂ 飛込んで一當て、水落へ喰はせると、男は脆もろくもヘタ〳〵と崩折れるのを、引摺るやうに、木立の中へ。 平次は其處で、氣を喪うしなつた男から、袷を剥ぎ取り、腰に下げてあつた、小判形の門鑑を拜借し、手拭の頬冠りに、手早く變裝して、手に持つた短銃までも取上げてしまひました。 日頃の錢形には無い荒療治ですが、紫御殿の秘密が容易ならぬものと見て取つて、精一杯の陣を立てるのです。 男がやゝ氣を取直したときは、自分の帶でメチヤ〳〵に縛られ、丁寧に猿さる轡ぐつわまで噛まされて、林の中の薪小屋に抛り込まれて居りました。 ﹁氣の毒だが、暫らく我慢しろよ。その代り、一刻ときもすると、お前の持物は皆んな返してやる﹂ 丁寧な捨ぜりふを殘して、平次は紫御殿の中へ入つて行くのです。四
﹁お、兄あに哥きか、變な野郎は追つ拂つたのか﹂ 門番に聲を掛けられて、平次はギヨツとしましたが、持つてゐた短筒を見せて、 ﹁ウン﹂ たつたそれ丈け、顎をしやくつて、庭へ入りました。小判形の門鑑を取出すにも及びません。 御殿の中の和わさ讃んは、素晴らしく美しいものでした。それは異國的で、妖艶で、美しい女聲の大合唱が、岸を打つ浪のやうに、夜の空氣をかき立てるのです。 その頃日本中に流行つた。隱し念佛の歌の無い合唱を、もう少し派手に美しくしたもので、心ある人が聽いたら、それは切支丹宗門のお祈の歌に似て居ると言つたかも知れません。 その女聲の大合唱を支配して、リン〳〵と響く、若々しい乙女の聲は、まことに鈴を振るやうで、何に譬へやうもなく、聽く者の肺腑に沁み入ります。 部屋から部屋、廊下から廊下を過ぎて、奧の一と間に近づいた平次は、漸く大合唱の湧き起る場所を突き留めて、几きち帳やうをかゝげて、そつと覗きました。 ﹁――﹂ 危ふく聲を出しかけたのも無理はありません。中は百疊敷ほどの大廣間で、正面に羽二重と錦の帳とばりをかゝげ、かけ並べた燭臺に照らされて、二十四人の巫み女こが、聲を合せて歌ひ乍ら、翩へん飜ぽんとして舞つて居るのです。 巫女は皆若く美しく、さながら繪にある天女の裝ひです。羽衣を飜ひるがへし、朱の袴はかまさばきも見事に、歌ひ且つ踊るのです。歌も踊も、曾て見慣れたものでは無く、全く此世のものとも覺えず、言葉の無い大合唱は、船を覆くつがへし舟人を殺すといふ傳説の人シレ魚ネの歌を聽くやうな、得も言はれぬ妖しさと美しさです。 平凡で退屈な生活に馴れた人達は、此世の中に、斯うした歡樂境もあつたのかと、たつた一と目で膽をつぶすことでせう。平次はさながら、龍宮城とやらに迷ひ込んだやうな心持で、暫らくは自分を忘れて居りました。 わけても、歌の音おん頭どをとる十八九の娘と、踊のリーダーになつて居る、十六七の娘の非凡さは大したものでした。言葉の無い歌は、聽く人々の心持を有頂天にし、踊る手振りの見事さは、そのまゝ羽が生えて飛ぶ、天女の舞のやうな感じがするのです。 妖惡で邪よこしまな美しさ、聽く者、見る者を、全身的な陶醉に誘ふ道具立の數々、つい平次もうつとりして了ひさうです。いや平次ばかりでは無く、廣間の疊の上に並んだ、百人あまりの信者達も、兩手を合せ、何やら小聲に稱へ乍ら、全くの恍エク惚スタ境シーに陷つて居るではありませんか。 やがて、歌も踊も一段落になつた頃、平次はそつと几帳のかげを離れ、尚も奧へと進んで行きました。 何處からとも無く射して來る薄灯を便りに、此冒險は果てしも無く續きます。ところ〴〵道が盡きると、窓から月の光が射し込んだり、思はぬところに部屋があつたりします。 ヒソヒソと囁やく人の聲に驚いて、幾度此まゝ引揚げようと思つたか知れませんが、平次は分捕つた短銃を握りしめて、それを頼りに、三階へ登つてしまひました。 覺おぼ束つかない足さぐりで、此處まで來るのは、まことに容易ならぬ骨折ですが、三階の大廣間を開けて、平次は此處まで來たのが、決して無駄では無かつたと氣がつきました。其處には、滅多には見られぬ、渾こん天てん儀ぎが据ゑつけてあつたではありませんか。 天體の觀測、わけても星せい辰しんの運行を測る渾天儀は、幕府の天文方にでも行かなければ、容易に見られる品では無く、こんな場所にあらうとは、想像も出來ないことです。 尤も、日本の昔の天文學は、今日考へたよりは進歩したもので、徳川時代の初期には、月日の蝕しよくも暦の上で豫言され、學者達は既に地動説も知り、日月星せい辰しんの運行も、一と通りは觀測して居たのです。 だが併し、民間の――しかもお宗旨の建物に、斯んな機構を持つて居るといふことは、全く客易ならぬことであり、平次の分捕つて來た、和蘭渡りらしい、精巧な元もと込ごめ短銃と照し合せて、事件の重大さに、平次の五體が引き緊ります。 もう一つ驚いたことは、この建築の見事さでした。勾こう欄らん、廻廊、すべて異國的で、戸一枚、柱一本にも、並々ならぬ仕掛がありさうですが、平次の眼も其處までは及びません。江戸の五重塔の多くが、此時代前後に造られ、桂離宮のやうな、世界的な美しい建築も造られた時代で、井筒屋の寄進で、金に飽かして造れば、これ位のものが出來たのも無理のないことです。 一萬兩と言ふ金は、今の相場にして、何億に相當するでせう。 ﹁あ、根津の辰三郎だ﹂ 平次はフト思ひ當りました。江戸の大工では、彫ほり物ものの左甚五郎、建物の辰三郎と並び稱された棟梁で、その名匠が金に飽かして造れば、この建物も別に不思議ではありません。 三階の渾天儀の側に、一つの臺があります。それは天井から太い鎖くさりで吊つた臺で、一間四方ほどの眞ん中に、床几を据ゑてあるのが、妙に平次の好奇心をそゝります。 フト、その上に人間が乘つて、何をするのだらう――と、そんな事を考へ乍ら、半分は惡戯兒らしい氣紛れで、平次はその上に乘つて見ました。 そんな事を考へ乍ら、床几に腰をおろした平次は、 ﹁あツ﹂ 思はず聲を出しました。臺は平次を乘せたまゝ、スル〳〵〳〵と下へ落ち込んで行くのです。 エレベーター、と今の人には直ぐ氣がつくことでせうが、平次はもとよりそれを知る筈もなく、あれよ〳〵と思ふうち、臺は平次と共に、三間、五間と落ちて、建物の底と思ふあたりに、フンワリと止つてくれたのです。 あとで考へて見ると、臺が平次を載せて下へ降りる途中、もう一つの臺が、下から上へ同じ早さで昇つたやうです。多分ハネ釣つる瓶べの仕掛けを、齒車で加減して、下から上へ昇るのは人手を借り、上から下へ降りるのは、獨りでも動いてくれるのでせう。 ところ〴〵に鐵の網を掛けた夜明しの行燈が掛けてあり、明りは、覺束ない乍らも、何處からか射してをります。此處から廊下を辿つて居るうちに、外へ出る道が見付かるでせう。 平次はそんな心持で、五六間進むと、 ﹁おや﹂ 足にさはつたのは、一つの懷中煙草入です。手に取上げて、疎うとい灯に透して見ると、妙に貧乏臭くて、中が空つぽで、カラリと落ちた眞鍮の煙管が少し潰れて、紛れもなくそれは、八五郎愛用の品ではありませんか。 此間から見えなかつた八五郎、さてはこんなところに潜つて居たのかと思ふと、謎は一應解けますが、さて心配が又一つ殖えたわけです。 さて、煙草入が落ちてゐる樣子では、八五郎は此邊に居るかもわかりませんが、お互に人目を憚はゞかつて居ては、合圖をかはす手段も無いのです。 思ひ付いたのは、何んかの事件で、八五郎と合圖を交したとき、三つづつ二つ、三つづつ二つと、戸を叩いたことがあります。試みにそれを用ひて、廊下の戸を其處から始めて先へ〳〵と叩いて行きました。 ﹁お、親分﹂ 不意に押し潰つぶされるやうな聲、それは二つ三つ先の戸を叩いた時、納戸らしい板敷の一と間から、ドタリ〳〵と駄々つ兒の足音らしいものと一緒に聽えるのです。 ﹁馬鹿ツ、――そんな大きな音を立てる奴があるものか、靜かにしろ﹂ 入つて見ると、當の八五郎は、散々に縛り上げられた上、布團で卷かれて猿さる轡ぐつわまで噛まされ、でつかい蓑みの虫むしのやうに轉がされて居るではありませんか。 手早く解いてやると、 ﹁濟みませんね、親分、どうなるかと思ひましたよ﹂ 八五郎は隨分長く縛られて居たらしく、手足關節などを念入りに揉んで、漸くあんよは上手と立ち上がりました。 ﹁何んて間拔けな恰好をして居るんだ。何時から縛られて居たんだ﹂ ﹁面目次第もありません、全くあつしが惡かつたんで﹂ ﹁何んか惡事に加擔でもしたのか﹂ ﹁そんな氣のきいた話ぢやありません。紫教が、あんまり御利益があらたかなんで、ちよつと覗いて見ようとしましたが、町方役人とわかつて、どうしても入れてくれません。無理に潜り込んで調べると、半日も經たないうちに見付かり、町方の御用聞などは不ふじ淨やうだからと、繩を打つてこの有樣で﹂ ﹁お前が、どうして町方のものとわかつたんだ﹂ ﹁この良い男つ振りを知つてる奴があつたんで﹂ ﹁長なんがい顎が證人か﹂ ﹁まア、そんなことで、その上十手と捕繩を見付けられちや、どうすることも出來ません。口惜しいが昆こぶ布ま卷きにされて、此處へ抛り込まれてから二日﹂ ﹁何んといふことだ﹂ ﹁その代り、いろ〳〵のことがわかりましたよ。兎も角外へ出ませう﹂ 八五郎に促がされて、二人はどうやら塀を乘り越えました。丁度月が隱れて、庭には人影もなく、その上、林の方で何やら騷いでゐるのは、平次に縛られた男が猿轡を外して、騷ぎ立てゝ居るのでせう。 ﹁あ、腹が減つた、もう歩けませんよ、親分﹂ ﹁仕樣のねえ奴だ、話は後で聽くとして、それでは﹂ 本當に動けさうも無い八五郎を、近所の蕎麥屋に連れ込んで、喰はせ乍ら話させる外はありません。五
﹁こいつは全く一世一代の大おほ縮しく尻じりでしたよ﹂ ﹁一世一代が顏見世毎に出て來るよ﹂ ﹁からかはないで下さいよ。あつしが斯んなに腹の減つたのだけでも一世一代ぢやありませんか﹂ ﹁成る程ね。それにつけても、あんまり詰め込むなよ、毒だぜ。爺とつさんが、仕入れた蕎そ麥ばがおしまひになり相で心配して居るぜ﹂ ﹁大丈夫ですよ、まだ八杯しか喰ひません﹂ ﹁あんな野郎だ、――ところで一いち伍ぶし一じ什ふをブチまけても宜からう、お前の腹も底が入れば、喰ひ乍らでも話せる筈だ﹂ ﹁全く大縮尻で、――親分が考へるやうに金儲に入つたわけぢやありません。供へた金が倍増しになると言つたところで、穴のあいたのが二三十枚ぢや、百倍になつたつて多寡が知れてますよ﹂ ﹁成程、御利益も貧乏人には大したことは無いといふわけか﹂ ﹁あつしは手柄を立てゝ、世間の人をアツと言はせ度かつたんで、親分の前めえだが、何時までもガラツ八扱ひぢや可哀想でせう﹂ ﹁そいつは氣が付かなかつたな。これからは八五郎親分と、親の附けた名で稱よんでやらうよ﹂ ﹁親分に當てつけたわけぢやありません。あつしはガラツ八でも、ガラ六でも結構ですが、世間樣に、錢形の親分の子分に、斯んな男がゐると思はせ度かつたんですよ。いつも錢形の親分と一緒で無きや、ろくな巾きん着ちや切くきりも縛れないと思はれると、口惜しいぢやありませんか﹂ ﹁よしわかつた。お前が俺を相手に手柄爭ひをしてくれるのは、嬉しいことだよ。ところで、その先はどうした﹂ ﹁二日の間縛られて、布團むしにされただけのことで、小便を堪こらへるのが精一杯﹂ ﹁馬鹿野郎﹂ ﹁だつて、垂れ流しちや、親分の顏にも拘はるでせう﹂ ﹁よし、その話はいづれ春永に、小便を堪こらへる法といふことにして承はらう。それつ切りか﹂ ﹁それつ切りかはひどいでせう。見付かつて縛られるまで、兎も角半日もあの紫御殿の穴藏から三階までウロ〳〵して居たんですから、大概のことは見てしまひました﹂ ﹁そいつは大手柄だつた。――ところで、どんな事に氣が付いた﹂ ﹁先づ第一に、紫琴女といふのは二十五六の、滅法良い女だといふこと﹂ ﹁フーム﹂ ﹁少し傳でん法ぽふで、仇つぽくて、水の垂れさうな年増ですよ、四十の五十のといふのは大嘘﹂ ﹁で?﹂ ﹁それが錢形の親分に惚れて居るんで﹂ ﹁馬鹿ツ、冗談も休み〳〵言へツ﹂ ﹁本當ですよ、本人が言ふんだから嘘ぢや無いでせう。――先刻も赤井主水の手下が、鐵砲で錢形の親分を狙ひ撃ちにしようとしたから、小石を飛ばして狙ひを狂はしてやつた。錢形の親分は何んにも知らずに、矢でも鐵砲でも持つて來いと言つた顏をするんだもの、お前の親分の平次も、男つ振りは良いけれど、大したもんぢや無いね――つて、面白さうに含み笑ひをして居ましたよ。あの含み笑ひが大したもので、聽いただけでウズ〳〵するでせう﹂ ﹁――﹂ 平次は恐ろしく苦い顏をして默つてしまひました。 ﹁そして、斯う言ふんです。錢形の親分を此處へつれて來たかつたけれど、大燒やき餅もちの赤井主水は何を言ふかわからないから、暫らく泳がして置く――つてね﹂ ﹁フム﹂ ﹁私は縛られて居るけれど、親分は泳がされて居るわけだ﹂ ﹁ふざけちやいけない。話はそれつ切りか﹂ ﹁赤井主水は凄い男ですよ。軍師で學者で、武藝が出來て、苦み走つた中年男で、紫琴女に夢中で﹂ ﹁何? 二人は夫婦ぢや無いのか﹂ ﹁間違ひありませんよ、唯の男と女で﹂ ﹁お前は妙なことに目が屆くな﹂ ﹁川柳にありますね、﹃そでなくてあの、處しよ置ち振りがなるものか――﹄つてね、喧嘩もせず目くばせもせず、甘つたれもせず、あんな夫婦があるものですか﹂ ﹁で?﹂ ﹁尤も、二人はうんと溜めましたよ。あの下げ臺︵エレベーター︶の下に、箱を敷き詰めた床があります﹂ ﹁フーム﹂ ﹁それが皆んな千兩箱ならどうします。チユウチユウタコカイナと勘定して見ると、ざつと六十八﹂ ﹁――﹂ あまりの話に平次も默つてしまひました。 ﹁その隣は開けずの間で、其處へは誰も入れません。下男がうつかり手燭を持つて近づくと、赤井主水に眼から火が出るほど叱り飛ばされましたよ。︵其處は入つちやならねえ、傍へ寄るんでも、冠かご行あん燈どんを持つて行け︶とね﹂ ﹁外には﹂ ﹁二階の紫琴女の部屋は、道具が皆んな、三つ葉葵あふひの紋が附いてますよ。それ丈けでも縛れると思ふんですが﹂ ﹁いや、赤井主水は公くげ卿ざむ侍らひで、如才なく寺社の方に渡りをつけて居る。それに紫琴女は御連枝だとも言ふ﹂ ﹁そいつは大變ですね、親分﹂ ﹁調べて見なければわかるまいよ。ところで、疲れて居るだらうな、お前は?﹂ ﹁御冗談で、腹さへ一杯なら、此處から明神下へだつて驅けて行きますよ﹂ ﹁空きつ腹に、うんと詰め込んで、驅けちや毒だ、ソロ〳〵と行つて﹂ ﹁何處へ行くんです﹂ ﹁根津の辰三郎といふ棟とう梁りやう、江戸一番といふ名人だ。その人に逢つて、紫御殿を拵へたのは親方かと訊いてくれ。辰三郎に間違ひあるまいと思ふが、念のためよく確めてから、それならば、紫御殿の繪圖面を貸してくれと持込むんだ、建てた棟梁は必ず寫しの繪圖面を持つて居る筈だ。その上、繪圖面に描いてない隱し梯ばし子ごや、入口も出口も無い部屋、穴藏などがあることだらうと思ふ。それを詳しく訊き出してくれ﹂ 平次の頼みは行屆きます。六
平次が明神下の家へ歸つたのは、もう夜半近い時分でした。 ﹁今歸つたよ﹂ 格子をガラリと開けましたが、締りも無い癖に中は眞つ暗、いつも飛んで出る女房のお靜は、その晩に限つて返事もしてくれません。 ﹁おい、どうかして居るのか﹂ 中へ入つて、手探りで火打箱を見付け、せはしく鉦かねを鳴らして行燈に灯を入れましたが、それでもお靜は姿を見せなかつたのです。 ﹁?﹂ 平次はせはしく四あた方りを見廻しました。續いて狹い家の中を全部、戸棚や押入まで開けましたが、其處にはお靜はおろか、鼠一匹居る樣子もありません。 フト氣がつくと、入口の障子際に、前掛が一つ、クルクルと丸めて置いてあります。お靜がちよいと小買物などに出かけ時、よくやる癖で、多分何んかの用事で、ツイ其處まで出かけたのでせう。が、まだ若くて美しいお靜が、夜半近い町へ、少し位の用事で出かける筈も無かつたのです。 念のため隣へ聲を掛けましたが、何んにも氣がつかず、お靜からの言傳も無いと言ひます。計畫的に出かけるのなら、必ず平次への言傳がある筈です。それが無いのは? ﹁――﹂ 平次は默つて考へ込みました。 部屋の中は綺麗に片付いて、少しも取散らかしては居ず、危害を加へられた樣子の無いことは前掛の疊み癖でもよくわかります。 どうかしたら、お靜は、夫の平次に逢ひに行く氣で出かけたのでは無いか――平次はそんな事を考へて、ゾツと身を顫はせました。夫の平次の迎ひでも來て、本人の平次に逢ひに行く氣で出かけたのなら、置手紙も言傳も無い筈です。 お靜の母親の家へ行つて見ようか――フトそんな事も考へましたが、此處に留守番が無いと、行き違ひになる惧おそれもあり、八五郎でも來てくれなければ、うつかり出かけるわけにも行きません。 が、間もなく八五郎が歸つて來ました。 ﹁親分、大變なことになりましたよ﹂ 眞夜中の路地口から怒鳴り込むガラツ八です。 ﹁何んだ、相變らず、御近所の衆が膽をつぶすぜ﹂ ﹁あつしも膽をつぶしましたよ。根津へ行つて、棟梁の辰三郎の家を搜すと、――どうなつたと思ひます、親分﹂ ﹁おれが知るものか﹂ ﹁つい先刻、殺されたといふ騷ぎぢやありませんか﹂ ﹁何?﹂ ﹁棟梁は大變な湯の好きな人で、朝行つて夜行く、――今晩も一人で町内の湯へ出かけて、それつ切り歸らないから内弟子が二三人で迎へに行くと、驚くぢやありませんか、藍あゐ染ぞめ川がはに落ちて死んでゐるんで、引揚げて見ると、土手つ腹を一とゑぐり、辻斬にしちや變だが、棟梁は評判の良い男で、人に怨を受ける筈は無く、濡手拭をブラ下げて、誰が見たつて湯歸りだから、物盜りの仕業ぢやねえ﹂ ﹁わかつて居るよ、八﹂ ﹁誰の仕業でせう親分﹂ ﹁紫御殿を建てたのが惡かつたんだ﹂ ﹁えツ﹂ ﹁こいつは容易のことぢや下手人は捕つかまるまい。それより生きてる者の命、通三丁目の井筒屋豊三郎の命が危ない――相手は自や棄けになつて居る﹂ ﹁其處へ行つたものでせうか、親分﹂ ﹁待て〳〵、お前はもう一度根岸へ行つて、棟梁辰三郎の家へ泥棒が入らなかつたか訊いて來てくれ﹂ ﹁それなら大丈夫で﹂ ﹁何が大丈夫だ﹂ ﹁泥棒ならもう入つて居ますよ。棟梁の死骸が藍染川で見付かつて、家中の者が皆んな川岸つ縁へ行つて、死骸を引揚げたり、泣いたり大騷動をして居る最中、横着な空巣狙があつたもので、棟梁の家へ行つて、棟梁の部屋に置いてあつた手文庫をさらつて逃げましたよ。手文庫は打ちこはして庭に捨てゝありましたが、中に入つてた物は、皆んな盜られた相で﹂ ﹁どうせそんな事だらうよ。狙ひはそれだつたのさ――手文庫の中には繪圖面があつた筈だ﹂ ﹁へエ?﹂ ﹁お前は通三丁目の井筒屋へ飛んで行つて、あの主人が、まだ俺に隱してることは無いか、それを聽き出してくれ。うつかりすると、取返しのつかない事になるから、無理にでも言はせるんだ。まだきつと、何んかあるに違ひない﹂ ﹁ところで、先刻から氣になつて居たんですが、姐さんは風か邪ぜでも引いて居るんですか﹂ ﹁いや﹂ ﹁姿を見せないやうですが﹂ 影の形に添ふやうに、平次の側に居るお靜が、早寢をする筈も無いと、八五郎は怒つたのです。 ﹁實は、先刻から見えないんだよ﹂ ﹁へエ? 親分が歸る前から?﹂ ﹁戸が開いて、灯が無くて、前掛をお勝手に取つてあつたんだ。腑に落らないことばかりだが、探しやうは無い。通三丁目へ行く序と言つちや惡いが、鍛かぢ冶ちや町うのお袋のところを覗いて見てくれ。其處にも居なきや考へなきやならない﹂ ﹁そいつは大變ぢやありませんか、親分。見當はつきませんか?﹂ ﹁大方付いて居るが、手のつけやうは無い﹂ ﹁で親分は何處へ行くんで﹂ 平次が手早く外出の仕度をするのを見て、八五郎は訊くのです。 ﹁寺社のお係へ行つて見る。紫御殿とか何んとか言つても、いづれ寺社の方に屆けはあるだらう﹂ ﹁へエ﹂ ﹁次第によつては手を入れて頂く。三つ葉葵の紋と、千兩箱が六十幾つと、渾天儀があれば、言ひ拔けはさせない。その上火氣を嫌ふ地下の部屋には、何があるかわかつたものでなく、俺を狙つた和おら蘭んだ渡りの短銃も、後の證據に取つてある――﹂ 平次はもう、これが最後のゴールと思ひ込んでゐる樣子です。七
その翌る朝、通三丁目の井筒屋豊三郎が、自分の部屋の外、縁側で斬られて死んでゐるといふ屆出がありました。 早速八五郎の知らせで、平次が飛んで行つて調べると、雨戸は何んの技巧もなく外からコジ開けられ、驚いて部屋から出たらしい豊三郎は、縁側へ出たところを、物蔭から飛出した曲者に、左肩先を深々と斬り下げられ、聲も立てずに死んだ樣子です。 その手際の見事さ、なか〳〵の達人業で、決して非力な女などに出來ることでは無く、部屋の中は隅々までもよく整頓されて、物盜りの仕業とも覺えません。 ﹁八、お前は昨夜、井筒屋の主人に、良い時逢つて置いたな﹂ 平次は八五郎を顧みて斯う言ふのです。昨夜遲くなつてから、疲れ切つて居る八五郎を督とく勵れいして、此處へ走らせ、無理に豊三郎の口を開かせて、殘る一つの秘密を聽き出したのは、平次の大手柄でもあり、八五郎の大手柄でもありました。 その時井筒屋豊三郎は、昨夜八五郎に訊ねられて斯う話しました。 ﹁これを申上げると、私の命は危いかも知れませんが、二人の娘を還かへしてくれ相もありませんので、思ひ切つて申上げます。あの紫御殿の別當赤井主水は何んか中納言樣に仕へた公卿侍で、文武兩道の達人であるばかりでなく、公卿衆の中に引きがあつて、町方のお役人でも、うつかりは縛れません。それに紫琴女といふ宗祖樣は、上樣の御連枝だとか申すことで――いえ、思ひ切つて申上げませう、先年高崎に御預け中、御切腹遊ばされた、駿する河が大納言忠長樣の忘れ形見だと申しますが――﹂ 八五郎も、それを傳へ聞いた平次も﹃そんな馬鹿なことが﹄と驚きましたが、 ﹁いろ〳〵伺つて見ると、嘘とばかりは申されません。證據の數々も揃つて居り、それを龍の口へ差出せば、今にも御召出しになつて、上樣と御對顏の上、何んとか身の恰好もつくだらう――と斯う申します、駿河大納言の御血筋とあれば、公儀の御沙汰があり次第、出世は見えて居ります。紫教の宗祖といふことで、世上の榮華は御辭退申上げても、一山一寺の御建立は安いこと、その時は私の一萬兩が五萬兩にもなるわけと思つたのが、素人量見の淺ましさで御座いました。二人の娘まで誘かど拐はかされては、迷ひの夢も覺めてしまひます。二人の娘のうち、姉のお組は歌が上手で、何んとやらの和讃の音頭をつとめ、妹のお蝶は踊が達者で、あの念佛踊りの先達をつとめて居る相でございます。何んとかして家へつれ歸らうと、二度も三度も親の口から申しすゝめましたが、まるで狐につまゝれたやうに、二人とも紫御殿を動かうとはしません。まことに困つたことで御座います﹂ ――井筒屋豊三郎が、八五郎に言つたのは大體こんな打明け話でした。それをその晩のうちに、もう一度明神下まで引つ返して平次に報告すると、 ﹁それでいろ〳〵の事がわかつたよ。狐つき見たいになるのは、人の心をかき亂す、惡い教にあり勝ちのことだ﹂ 憑へう據きよ状態になり易い、精神の弱い男女を引入れ、催眠術の暗示作用で、それを宣傳にも布教にも使ふと言つたやり方でせう。 それは兎も角、事件は次第に明らかになりましたが、いやしくも駿河大納言の遺わすれ形見とあつては、うつかりした手入れも出來ず、寺社奉行のお係も、調べに手間取つて翌る日になると、二人目の犧牲者、井筒屋豊三郎も口を封じられてしまひ、平次の女房のお靜も歸る樣子はありません。 井筒屋の主人の死骸は、娘が二人紫御殿から動かうともしないので、一と先づ奉公人や親類達の手で取片付け、葬ひは暫らく樣子を見る事になりました。そして何も彼も膠かう着ちやく状態のまゝにその日も暮れてしまつたのです。 一方、根岸の紫御殿では、此時思ひも寄らぬ事件が起つて居ります。 あらゆる人を遠ざけて、宗祖紫琴女と、別當赤井主水の二人、渾天儀を据ゑた三階の一室に、盃はい盤ばんを挾んで相對して居りました。 ﹁もう、宜からう、此邊で引拔いては﹂ 赤井主水は、少し醉が發したらしく、宗祖紫琴女の方へ、身體を摺り寄せました。三十五六の逞ましいが立派な男で、色の白い、青髯の濃い、鳳眼、隆鼻で、少し不氣味な人品でもあります。 ﹁何を言ふのです、宗祖樣と仰しやい﹂ 紫琴女は屹となりました。これも微びく醺んは帶びて居りましたが、なか〳〵の艶やかさ。二十五六の女盛りの魅力を、名殘もなく發散させるのです。 ﹁ウ、フ、お琴さんと言つた方がよからう、――だが、有金は六萬八千兩、邪魔になる人間は二人共死んでしまつた。伽がら藍んは上樣が建てゝ下さる。全く惡くないな。それも、これも、誰の御蔭だと思ひなさる﹂ ﹁止して下さいよ、汚らはしい﹂ 紫琴女のお琴は、首へ絡んで來る男の手の下をかいくゞつて、ドンと突きました。 ﹁あ、危ない、――が今更この赤井主水を嫌つては濟むまいぜ、恐れ乍らと訴へて出ると――﹂ ﹁お默り、人を殺したのはお前ぢや無いか。棟梁と井筒屋と、――私の知つたことでは無い。第一女にあんな仕事が出來るわけは無い﹂ ﹁二人を殺してくれと言ひつけたのは、どなたでしたつけ。その他、人の心を惑はす、からくりの數々﹂ ﹁えツ、言ふな﹂ 紫琴女は此時もう、赤井主水に抱きすくめられて、兩足を宙に、唯もがくばかりです。 ﹁大きい聲は出せない、――同じことなら、祝言の盃としてはどうだ。まだ紫琴女には軍ぐん師しが入り用だぜ﹂ 紫琴女は抱きすくめられて、暫らく默つて居りましたが、やがて、赤井主水の首を卷き返すと打つて變つた優しい調子で、 ﹁負けた。私はどうせ、お前には叶はない﹂ ﹁よし〳〵負けとわかれば、それで結構、さア、氣の變らぬうちに﹂ ﹁祝言の盃でせう、仕度をしませう﹂ 紫琴女は、やゝ亂れた盃盤を直すと、新しい銚子を一本取寄せ、盃を洗つて赤井主水に差しました。 が、爛らん醉すゐした上、情火に燃えた赤井主水の眼には紫琴女が別の銚子から、自分の盃に酒を注いだ事には氣が付かなかつた樣子です。 ﹁こいつは有難い、高砂やアと來るか﹂ 赤井主水はその盃を一氣に傾けて、フーと息を吐くと、續けてもう一杯、二杯と紫琴女が重ねさせます。 ﹁どう、氣分は?﹂ 紫琴女はケロリとして訊くのです。 ﹁ウーム﹂ 赤井主水は唇を噛みしめて、胸をかきむしりました。 ﹁ま、大變な御機嫌ね﹂ ﹁やつたな、女﹂ 苦悶の手がグイと伸びて、紫琴女の袖を掴むと、女はそれをフリ切つて立ち上がりました。 ﹁フ、フ、フ﹂ 湧き上がるやうな笑ひ、女の頬には可愛らしい笑くぼが渦を卷きます。八
平次が紫琴女の手紙を受取つたのは、その晩の戌いつ刻ゝ︵八時︶過ぎでした。文句は至つて簡單ですが、﹃棟梁辰三郎と井筒屋の主人を殺した下手人を引渡し、お靜さんの安否もお知らせする、親分たつた一人でお出で下さるやうに﹄といふ意味です。
寺社と町方の手入れの打合せは、八五郎に頼んで置いて、平次は兎も角根岸に向ひました。
今夜は言ひ含めてあつたものか、誰もとがめる者もなく、大玄關から聲をかけると、
﹁ま、錢形の親分、よく來て下さいました。今夜は家の者を皆んな出してあります、どうぞ此方へ﹂
紫琴女が自分で出迎へて、豪壯な御殿の三階へと導くのです。
平次は此女の馴々しさや、非凡の美しさ、身だしなみのよさから、宗祖といふ嚴しい名よりも、一流の料おち亭ややの女將か、年増藝者のやうなものを感じて居ります。
三階の渾天儀の側、先刻まで祝言ごつこをやつて居た部屋の唐紙を開けると、
﹁あツ﹂
中には黒血に染つて、赤井主水のこと切れた姿が横たはつて居るではありませんか。
﹁驚いたでせう、錢形の親分。赤井主水は身の罪を恐れて、毒を呑んで死んで了ひました﹂
中には盃盤があるわけでも無く、さう言へば、さう見られないこともありません。
﹁毒死?﹂
﹁え、御覽の通り、棟梁辰三郎と井筒屋の主人を殺した罪を責められ、此通り自害して相果てました﹂
﹁毒は何んで?﹂
﹁どんな毒か存じません。酒に入れて呑んだやうで﹂
﹁その酒は? 酒の道具は﹂
﹁あ、それは片付けてしまひました﹂
紫琴女の顏がサツと變つたやうです。
﹁で、御用と仰しやるのはそれ丈け?﹂
﹁もう一つお願ひが御座います﹂
﹁?﹂
﹁階し下たへ參りませう、そしてゆつくり申上げませう﹂
紫琴女は先に立つて、二階の一と間、恐ろしく豪華な八疊に案内しました。多分自分の部屋でせう。三つ葉葵あふひの紋がチラ付きます。
﹁で、御用は?﹂
座も定まらぬうちに、平次は切出します。此家の何處かにお靜が隱されてゐると思ふせゐか、さすがの平次も氣が氣でない樣子です。
﹁外では御座いません、――紫教も別當の赤井主水に死なれては、明日からの取締りに困ります。さぞ飛んでも無い事を言ふ女だと覺し召すでせうが﹂
﹁――﹂
﹁赤井主水の代りに、親分が、此紫御殿の取締をお引受け下さいませんか﹂
﹁えツ﹂
﹁決して御迷惑はかけません。――信者の數は江戸だけでも何萬人、此處に積んである現金だけでも、八五郎親分も見た筈、六萬何千兩、いづれは御公儀の御力で、大だい伽がら藍んも建てゝ下さる筈﹂
うまい事を言ひ乍ら、紫琴女は平次の側に寄ると、その手を握つて、自分の身體を、平次の膝に投げかけるのです。
宗祖と言つても、これ實に非凡の美色、よしやこれが惡魔の化けし身んであつたにしても、御釋迦樣でもない限りは、この誘惑に抗し切れないことでせう。
﹁ね、親分、少しは私の氣にもなつて﹂
それは宗祖紫琴女といふよりは、名ある華おい魁らんのポーズです。體温にぬくめられて、馥ふく郁いくとして匂ふのは南蠻の媚藥でもあるでせうか。
﹁賣ばい女た、退けツ﹂
平次の心は、併し、戀女房お靜のことで一杯です。立上がるとツイ、足が宙に浮くのです。許されゝば、此女怪を足蹴にしてやり度かつたでせう。
﹁――﹂
紫琴女の顏はサツと蒼くなりました。激怒が全身の血を凍らせたのです。
﹁紫教數々の惡あく業ごふが知れ、その上お前は駿河大柄言樣の血筋でも何んでも無いと判り、寺社の御係りと、町方の捕方が、何十人、何百人、此御殿を取卷いて居るのを知らないのか﹂
﹁嘘﹂
﹁嘘だと思つたら、雨戸の隙間から覗いて見るが宜い。塀の外は御用の提灯で一パイ、蟻の這出る隙間も無い﹂
﹁――﹂
紫琴女はさすがに不安になつたものか、雨戸を細目に開けて、チラリと外を覗きましたが、さすがに顏色を變へて元の座に戻りました。
﹁この勝負は、負けと解つたか。わかつたら、せめてお靜を返せ、何處に居る﹂
平次は矢張りそれが氣になつてならなかつたのです。
﹁いさぎよく、負けませう。そして、お靜さんを――無事な姿のまゝ還しませう﹂
﹁何處だ﹂
﹁いつか、八五郎さんの縛られた部屋の隣﹂
﹁よし、行かう﹂
﹁いえ、私が案内します﹂
紫琴女が先に立つて、第一階へ降りました。其處から又少し降りると、八五郎が縛られた部屋と、千兩箱を敷き詰めた部屋があり、その先に又もう一つの部屋。
﹁一寸待つて下さい、鍵を持つて來ますから。いえ、逃げるなんて、そんな卑怯なことはしません﹂
一寸小戻りして、板戸におろした錠をあけると、平次を促うながして、紫琴女もその部屋に入りました。たつた三疊ほどの板の間。
﹁何んだ、鍵をかけるのか﹂
﹁え、この部屋は、内からも鍵が掛けられます。此通り﹂
紫琴女は自分の手で大だい海えび老ぢや錠うの鍵かけると、その大きい鍵を、戸の下の僅かばかりの隙間から、ポンと廊下へ抛り出すのです。
﹁何をするのだ﹂
﹁暫らく斯うして、ゆつくりお話しようと思ひまして﹂
﹁馬鹿な﹂
﹁何んか、臭ひがしません﹂
﹁キナ臭いやうだが﹂
﹁萬一の時の用意、この穴倉には、煙えん硝せうを一パイ詰めた箱があります。私はツイ今しがた、それに差し込んだ火繩へ、チヨイと火を付けて參りました﹂
﹁あツ﹂
﹁今から煙草五六服の間に、火繩の火が煙硝に移つて、私も、親分も、お靜さんも、この紫御殿ごと吹き飛ばされ、微塵に碎けて飛ぶことでせう﹂
﹁あ、何んといふことをするのだ﹂
﹁私は嬉しい、親分と一緒に死ぬなら﹂
﹁えツ、馬鹿な﹂
首へ胸へと蔓つる草くさのやうにまつはり附き、からみつく女を振り切つて、平次は入口の戸に體當りをくれますが、板戸は恐ろしく嚴重で、平次の力でもどうすることも出來ません。
此時、その隣の部屋には、メチヤメチヤに縛られた上猿轡を噛まされたお靜が、いつかの八五郎のやうに、床の上に轉がされて居りました。口は利けなくとも、紫琴女の聲はよく聽えます。
今はもう寸刻の猶豫もなりません。お靜は恐ろしい骨折で猿さる轡ぐつわだけを外し、煙硝の箱の前に這ひ寄りましたが、手足を縛られてる上、火繩の一端は嚴重に箱に結ばれて、どうすることも出來ません。うつかり火繩を叩いたりつぶしたりしたら、火が飛んで爆發を早めることになるでせう。
お靜は直ぐ樣火繩に噛りつきました。火繩が短かくて、容易に口が屆きませんが、辛くもそれに口が屆くと、噛んだまゝ引いて見ましたが、火繩は拔けさうもなく、此上は火やけ傷どを覺悟で、火繩を噛み切る外に手段は無かつたのです。
幸ひ煙草五六服と言つたのは紫琴女のおどかしで、火繩は口で引つ張ると三寸位にはなりました。それを噛み切るまでのお靜の努力は、どんなものだつたか、後に殘つた頬と唇の火傷の痛々しさが長くそれを説明しました。
その間にも紫琴女は必死と平次に絡みつきますが、それを押へて板戸を叩くうち、漸くお靜は火繩を噛み切つたのです。
が、當のお靜は緊張が解けて、そのまゝ氣を喪うしなつてしまひました。が間もなく、どつと亂れ入る、寺社と町方の人數。
﹁錢形の親分は?﹂
﹁此處、此中﹂
お靜に指された板戸の外から多數の力で叩き割ると、床に崩折れた艶めく女。
﹁や、舌を噛んだな﹂
萬事は終りでした。紫琴女は平次の足に絡みついたまゝ息も絶え〴〵になつて居り、お靜は繩を解かれると、飛鳥のやうに夫の懷ふところに飛込んで行くのです、日頃のたしなみも忘れて。