本篇はわれらの愛する「錢形平次」がまだ獨身で活躍してゐる頃の話です。
一
﹁た、助けてくれ﹂ 若わか黨たうの勇吉は、玄關の敷しき臺だいへ駈け込んで眼を廻してしまひました。 八丁堀の與より力き笹野新三郎の役宅、主人の新三郎はその日、鈴ヶ森の磔はり刑つけに立ち會つて、跡始末が遲れたものか、まだ歸らず、妻のお國は二三人の召使を供につれて、兩國の川開きを見物かたがた、濱町の里さと方かたに招かれて、これもまだ歸らなかつたのです。 留守宅は用人の小田島傳藏老人と、近頃兩國の水茶屋を引いて、行ぎや儀うぎ見習の爲に來てゐる、錢形平次の許いひ婚なづけお靜。それに主人新三郎の遠縁に當る美しい中年増のお吉、外に下女やら庭には掃はきやら、ほんの五六人がなりを鎭しづめて、主人夫婦の歸りを待つて居りました。 そこへこの騷ぎです。 ﹁それツ﹂ と飛出して見ると、玄關にへた張つた勇吉の背中には、主人新三郎の一粒種、取つて五つの新太郎が、これも眼を廻したまゝおんぶして居りました。 ﹁あツ、若樣が﹂ ﹁何うしたことだらう﹂ 身みぶ分んが柄ら、贅澤な羅うす物ものを着せた、男人形のやうに可愛らしい新太郎を抱き取つて、醫者よ、藥よといふ騷ぎ。幸ひ間もなく正氣づきましたが、餘程ひどく怯おびえたものと見えて、啜すゝり泣いたり顫ふるへたりするばかりで、容よう易いに口も利けません。 若黨の勇吉は眼を廻したまゝ暫く玄關の板いた敷じきに抛ほつて置かれましたが、御方便なもので、これは獨りで正氣に還かへりました。さすがに面めん目ぼくないと思つたものか、コソコソ逃げ出さうとすると、 ﹁これ〳〵勇吉﹂ 小田島老人が後ろから呼止めます。 ﹁へエ、へエ﹂ ﹁一體これは何といふ態ざまだ。大事な若樣を預あづかり乍ながら、腰を拔かしたり、眼を廻したりする奴があるかツ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁第一、何んで。お前だけ先に歸つて來たのだ。奧樣方はどうなすつた。判はつ然きり言へツ﹂ 昔氣かた質ぎで、容よう赦しやがありません。 ﹁へエ――﹂ 勇吉といふのは、二十五六の好い若い者、見たところは、充じう分ぶん賢かしこさうでも、強さうでもあるのですが、何の因いん果ぐわか生れ付きの臆病者で、――﹃腰拔けのくせに勇吉とはこれ如何に?﹄――などと、のべつに朋ほう輩ばい衆から揶から揄かはれて居る厄介者だつたのです。 ﹁頭を掻いて濟むどころではない。何が一體お前を取つて食はうとしたんだ、言はないか﹂ ﹁へエ――、どうも相濟みません。兩國の人混みの中で、奧樣やお女中方を見失つてしまひましたが、どうせお歸り支度のやうでしたから、濱町へ一言お斷りして、若樣をおんぶしてやつて來ると――﹂ ﹁――フム﹂ ﹁どうも――、人間が皆んな兩國に集まつてしまつたせゐか、今晩の江戸の淋しさといふものはありませんでしたよ﹂ ﹁馬鹿野郎﹂ ﹁何處へ行つたつて人つ子一人居やしません。背せな中かの若樣といろ〳〵お話をし乍らやつて來ると、人形町の往來で、いきなり前に立ちはだかつた者があるぢやありませんか。何だらうと思つて、ヒヨイと見ると、ブル、ブル、ブル﹂ ﹁確しつかりしろ、何て間拔けな聲を出すんだ。好い若い者の癖くせに﹂ ﹁それがその、一件なんで﹂ ﹁何だ、一件といふのは﹂ ﹁磔はり柱つけばしらを脊し負よつた、血だらけな男で――﹂ ﹁えツ﹂ ﹁今日鈴ヶ森でお處しお刑きになつた、お主殺しの何とかいふ野郎ですよ﹂ ﹁そんな馬鹿な事があるものか﹂ ﹁馬鹿だか馬鹿でねえか、若樣に聞いて見れア判ります。――ハツと思つて驅かけ拔けると、そいつが又執しふ念ねん深く追つかけて來るぢやありませんか。人形町から八丁堀まで驅け通し、お屋敷の玄關へ着くと氣がゆるんでブツ倒れてしまひましたが、まだ門のあたりに磔はり柱つけばしらを背負つた血だらけな奴が居やしませんか、そつと覗のぞいて見て下さい﹂ 齒の根も合はないやうな恐きよ怖うふのうちに、これだけ話の筋を通すのは、勇吉にしては全く手一杯の努力でした。 ﹁そんなものが居てたまるか、馬鹿野郎。確しつかりしろ、皆んなお前の臆病がさせたことだ﹂ 小田島老人はまるで相手にしません。 ﹁さう言つたつて、途中でブツ倒れずに、此處まで辿たどり付いたんだから、少しは褒めてやつて下さいよ。背中に大事なお主がいらつしやると思つて、一生懸命氣を張り詰めたんだ。ね、さうぢやありませんか﹂ ﹁目の廻しやうを自慢するんぢやあるまいネ、呆あきれた野郎だ。この上若樣の御容體が惡かつたら勘かん辨べんしないぞ﹂ ﹁へエ――﹂ この騷ぎの中へ、主人笹野新三郎と、妻のお國は相前後して歸つて來ました。二
與力笹野新三郎一家に對する不思議な祟たゝりは、これをキツカケに、執念深く繰くり返されました。 伜せがれの新太郎があの晩から蟲を起して、夜もおち〳〵眠られない有樣。若い母親お國の心しん勞らうは一と通りではありません。 その晩も漸やうやく新太郎を寢かし付けて、さて雨戸を締しめようとすると夜よ更ふけまで開けて置いた窓の障子へ、遲おそい月に照らされて、ハツキリ映つてゐるものがあります。 ハツと思つて見直すと、紛まぎれもない人間の生首。 ﹁あつ﹂ お國は思はず聲を立てました。 併しかし、さすがは武家の女房で、生れ落ちるから躾たしなみを教はつて居りますから、その上騷ぎ出すやうなことはしません。 そつと床とこを脱ぬけ出して、隣りの室に寢てゐる夫新三郎を搖ゆり起おこしながら、 ﹁旦那樣、旦那樣、一寸、お目に掛けたいものが御座います﹂ と囁さゝやきます。 ﹁何だ、泥棒でも入つたといふのか﹂ 一刀を提ひつさげて、寢卷のまゝでやつて來た新三郎。お國の指さす方を見て、これも思はずギヨツとしました。 遲い月が一杯に射した窓格子に、生首が一つ、髷もとゞりを格かう子しに絡からんだまゝ、ブラ下げてあつたのです。 ﹁フーム﹂ 新三郎は一度は唸うなつて躊ため躇らひましたが、次の瞬間には、障子に手を掛けるとサツと引開けました。 水の如く流れ入る月影。 その青白い光を半面に受けて、窓格子に括くゝし付けられてゐるのは、血だらけの中年男の生なま首くび、クワツと眼を見開いて、白い齒に下した唇くちびるを噛んだ、怨うらみの物もの凄すごい形相は、二た眼と見られません。 ﹁あツ﹂ お國は氣が遠くなつたやうに其處へ崩くづ折をれると何に驚いたか、寢付いたばかりの新太郎は、火の付くやうに泣き出しました。 笹野新三郎の記憶にはこの首の相さう好がうが燒き付くやうに、まざ〳〵と殘つて居ります、忘れもしないそれは、今日鈴ヶ森の處しお刑き場ばで打ち落した首の一つ、死に際まで生の執しふ着ぢやくにもがき拔いて、一番醜みにくい、一番物凄い最さい期ごを遂とげた、贋にせ金がね使ひの男の首だつたのです。 それから引續いて起つた不祥事は、不思議なことに、なにか、お仕置のある日に限られて居りました。丁度吟味與力笹野新三郎を忌き避ひして、無實の罪を訴へでもするやうに、生首と死體とが實に頑ぐわ固んこな威ゐか嚇くをくり返しました。 いろ〳〵人手を殖やして、締りや夜廻りを嚴重にしましたが、結局は何の驗しるしもありません。家の中へ入られないと見ると、お處刑場から盜んで來た不淨のものを、塀の外から庭へ投込んで、スタコラ逃げ出して了ふのです。 ﹁旦那樣、何とか遊ばして下さいまし。このまゝ抛はふつてお置きになると、相手は増長して、何をやり出すか判りません﹂ お國は時折そんな事を言つて、夫新三郎の決意を促うながしますが、新三郎にはどんな考へがあるか、それを取上げようともせず、言葉少なにうなづく日が多くなるばかりでした。三
思案に餘つたお國は、夫新三郎の留守の時、そつと石原の利助を呼んで、相談して見る氣になりました。 お國は二十六の女房盛り、美しさも賢かしこさも不足はなかつたのですが、伜新太郎の容體がはかばかしくないのに、後から〳〵と不氣味な事ばかり續いては、ツイ我慢がしきれなくなつてしまつたのです。 ﹁利助、こういふわけだ。役やく目めが柄ら、こんな事が世間に知れてはまづいが、何とかなるものなら、一と骨折つてはくれまいか﹂ と言ふと、 ﹁よく判りました、奧樣。何の、多たく寡わが白こけ痴お脅どかしの化物ごつこくらゐ、口くち幅はゞつたいことを申すやうで恐れ入りますが、この利助の黒い眼で睨めば、一と縮みで御座いませう﹂ 利助は大呑込で、少し光くわ澤うたくのよくなつた中なか額びたひをツルリと撫で上げます。錢形の平次と同じやうに、笹野新三郎には恩顧を受けてゐる御用聞ですが、近頃は若い平次の評判が馬鹿に良いので、少しはムシヤクシヤして居るところへ、お國がこんな相談を持ちかけたので、渡りに船の心持で乘り出してしまつたのでした。 ﹁これは矢張り、内に手引するものがありませう。外からだけでは、そんな器用なカラクリは出來るものぢや御座いません。唯今お屋敷に居る人別を片つ端からお仰しやつて下さいまし﹂ ﹁主人と私と坊やの外には、身内の者といふと、主人の遠縁で、お吉さんといふのが居るよ。年は私と同じ二十六で、それは美しい人だが、お前は逢あつたことがなかつたかねエ﹂ ﹁いえ、存じて居ります。もと何んでも旦那樣のところへお嫁よめにいらつしやるやうなお話のあつたのが、御兩親がお亡くなりになつて、そのまゝ縁談は流れ、それつきりお宅の掛かゝ人りうどになつた方で御座いませう﹂ ﹁よくお前、そんな事まで﹂ ﹁へツ、へツ、商賣々々で、そんな事に拔け目は御座いません﹂ ﹁氣味が惡いねえ﹂ ﹁疑うたがへば、先づその方が疑へるわけで御座いますね。旦那樣にも奧樣にも、さう言つちや何ですが、怨うらみがましい心持を持つとすれば、このお屋敷の中では、その方が一番強いわけで――﹂ ﹁さうねえ、さう言へば言へないこともないけれど、お吉さんはそりやいゝ方なんだよ﹂ ﹁大それた事をする人間は、思ひの外人ひと觸ざはりのいゝもので御座います。それから外には﹂ ﹁あとは奉公人ばかし。先づ用人の小田島さんに﹂ ﹁あの方は化物とは縁が御座いません﹂ ﹁若黨の勇吉――﹂ ﹁あの臆おく病びや者うものの?﹂ ﹁それに、平次の許いひ婚なづけのお靜﹂ ﹁フーム﹂ お國は片つ端から雇やと人ひにんを數へ上げましたが、石原の利助の興味をひいたのは、お吉一人だけ。 ﹁そのお吉さんを呼んで頂けませんでせうか﹂ ﹁そんな事をしたら、一ぺんに主人へ知れて了ひます﹂ ﹁構かまやしません。今のうちに睨にらみを利きかして置かないと、増長してどんな事をするか解りやしません。それに旦那樣は下しも總ふさの御領地の方へお出かけださうぢや御座いませんか﹂ ﹁知行所の世話番の方が御病氣で、その代理にいらしつたから、四五日はお歸りがないだらうよ﹂ ﹁丁度いゝ鹽梅ぢや御座いませんか。鬼の留守と言つちやなんですが、その間に埃ほこりの出るものなら、引つ叩いて見ませう﹂ 事毎に若い平次にしてやられて、少し功を急ぐ心持のある利助と、賢いやうでも、夫新三郎と縁談の噂まであつたお吉に對して、日頃妙に嫉しつ妬とを感じて居るお國とが、到頭大變なところで意見が投合してしまつたのです。四
斯かう屋敷中で見張つて居るところへ、新太郎の膳のお菜さいの中へ、石いは見みぎ銀んざ山んの鼠捕りを入れたものがありました。幸ひ子供心にも、匂にほひを嫌つて食べなかつたから助かつたものの、さうでもなければ、一たまりもなくやられて了しまつたところでせう。 お國はツイかつとしてしまつて、石原の利助を呼寄せ、二人相談の上、主人新三郎は留守ですが、取敢へずお吉を一と間に閉ぢ籠め、利助は丁寧な口調乍ら、水も漏らさぬ調子で一と責め責めて見ました。 ﹁ね、お吉さん、こんな事を言ひたくないが、細工が器用過ぎて、お前さんのやうな方でなきア、出來ない藝當だ。旦那樣や奧樣を怨うらむのも尤もつともだが、何にも知らない若樣を脅おどかしたり、石見銀山で命まで奪らうとするのはヒドからう﹂ ﹁あれ、お前は何を言ふのだい。本當に呆あきれて物が言へない﹂ ﹁白しらぱつくれちやいけねえ。此處で口を開かなきア、お白しら洲すの砂じや利りを掴つかませるばかりだ。穩便に願つて身を退ひく方が、お前さんの爲ぢやないかね﹂ ﹁まア、何といふ事だらう。この間つからの不氣味な惡わる戯さが私の仕しわ業ざだとでも言ふのかい﹂ 今では掛り人で、奉公人も同樣ですが、もと〳〵育ちのいゝお吉は、老らう獪くわいな岡つ引に絡からんで來られると、口もろくに利けません。おろ〳〵しながらこんな事を言ふのが精々、利助の張り渡した罠わなに掛つて、やがては何んなことになるか判らない有樣です。 ﹁お前さんは、旦那樣と奧樣の仲の好いのを好い心持で眺めて居るわけぢやあるまい﹂ ﹁それア私だつて人間だもの、でも――今では何も彼もあきらめて居るんだから、お主だと思つてお勤めしてゐるよ﹂ ﹁うまく言ふぜ、そんな甘い口に乘るものか。兎に角、お前さんを放し飼にして置いちや物騷で叶かなはねえ。窮きう屈くつでも旦那樣のお歸りまで、此處で我慢をして貰はうか。尤も、その間俺が伽とぎをしてやるから、淋しがらせるやうな事はねえ﹂ 到頭お吉を納なん戸どに投はふり込んで、利助が鵜の目鷹の目で見張ることになつてしまひました。 驚いたのは、お吉と一番仲をよくしてゐたお靜です。 平ふだ常んから心掛の良い、少し氣の弱いお吉が、どんなに嫉しつ妬とに眼が昏くらんだにしても、そんな大それた事を仕出かさうとは思はれません。一言お吉の爲に――と思はないではありませんが、奉公人の悲しさで、奧樣へツケツケと意見がましい事が言へる身分でもなく。それに、お吉を封じ込んだ納戸の前には、少しばかり職業的な物凄さを持つた、老らう獪くわい無比の岡つ引きが、鼠一匹も唯たゞでは通さじと見張つて居るのです。 思案にくれて居るところへフラリとやつて來たのは、お靜とは許いひ婚なづけの仲の、錢形平次です。 新三郎はまだ下しも總ふさから歸つて來ないので、用事は足りませんが、奧へ一寸挨拶をして、何の氣もなくお勝手へ下がらうとすると、日頃仲のよくない石原の利助が、閉めきつた納戸の前に座布團を敷いて、少し脂やに下さがりに安煙草の輪を吹いて居ります。 ﹁お、石原の兄哥。どうしたい﹂ ﹁錢形のか、久し振りだつたな﹂ ﹁驅け違つて久しく逢はねえが、其そ處こで何をして居るんだ﹂ ﹁なアに、何でもねえよ﹂ ﹁――﹂ 少し妙な調子――、頭の早い平次は、仔しさ細いありと見て取つて、その上追及をせずに、天氣の挨拶かなんかをして引下がつてしまひました。 お勝手口から、八丁堀の往來へ出ると、 ﹁ちよいと、親分、待つて下さいな﹂ 少し息を切つて追つて來たのは、先刻お勝手でチラリと顏だけ見せたお靜です。 ﹁何だ、お靜しい坊ばうか。親分てえ奴があるかい﹂ ﹁だつて、私には何と呼んでいゝかわからない﹂ ﹁まアいゝやな。まさかこちの人とも言へまいから、何とでも言つて置くがいゝやな﹂ ﹁あら﹂ ﹁ところで用件は何だ。美しいところを見せようて寸法ばかりぢやあるまいね。大方納戸の前に頑ぐわ張んばつて居る石原の一件だらう﹂ ﹁え、さうよ、大變な事が始まつたんです。お吉さんが可哀さうで、可哀さうで﹂ ﹁何をいきなり涙なみ含だぐみやがるんだ。順序を立てて話して見るがいゝ﹂ 捕物の名人錢形の平次と一時兩國で鳴らした美しいお靜とは、人目と陽ひ射ざしを避さけて、街の片蔭へ入りました。五
それから錢形の平次は、お靜と諜しめし合せて、死物狂ひの活動を始めました。まかり間違へば、一方ならぬ恩おん顧こを蒙かうむつた笹野一家に、拭ふことの出來ない瑕き瑾ずの付く事件ですから、主人新三郎の歸りを便々として待つて居るわけには行きません。
石原の利助はすつかりお吉を張本人と決めてしまつて、屋敷の外から呼應した、相棒の名を言はせようと、手を替へ、品を替へ責せめ立てますが、お吉は執しつ拗あうに口を緘つぐんで、悲しくも眼を伏せるばかり、まさか拷がう問もんにかけるわけにも行かず、二三日の後には、石原の利助も少し持て餘し氣味になりました。
一方、その間に平次は、第一番に奉公人の身許を洗つて見ました。小田島傳藏老人の三十何年を始め大たい抵ていは五年十年と勤つとめた者ばかり、一番短いので一年以上ですから、主人を怨む者があらうとも思はれません。
お仕しお置きのある度に、何か嫌がらせな惡わる戯さをした事を思ひ付いて、この三年の間に、笹野新三郎の手掛けた事件で、無理な罪に落された者はないかと、いろ〳〵調べて見ましたが、笹野新三郎は近頃の名與力で、辛しん辣らつな加役などからは、手てぬ緩るいと評判を取つてゐる人物、人に怨まれる筋などがあらうとも思はれません。
平次の調べは遲ち々ゝたるうちに、又もう一つ大變な事が起つてしまひました。
それは、近頃はすつかり丈夫になつてお靜と一緒に庭や門の外まで遊びに出て居た新太郎が、水天宮樣の縁えん日にちへ行つて見たいと言ひ出したのです。
お國も思案に餘つて利助に相談すると、新太郎へ祟たゝつたお吉はこの通り取つちめて居るから、大たい概がい大丈夫だらうといふ話。子供には甘過ぎるお國は、それでもと留めるほどの母親ではありません。
念の爲、お靜の外に勇吉を附けてやりましたが、それから二た刻あまり、日が暮れさうになつて、勇吉がたつた一人。
﹁若樣とお靜さんはまだ歸りませんか﹂
フラリと、氣樂な顏をして戻つて來ました。
﹁坊やとお靜が、どうしたと言ふのだい﹂
お國も驚いて飛んで出ました。
﹁お靜さんが知つてる人に逢つて、境けい内だいの水茶屋に入りましたが、何時まで經つても出て來ません。どうかしたら裏から歸つたのぢやないかしらと思つて戻つて參りましたよ﹂
といふ氣のない話です。
﹁それツ﹂
と手分けをして、八方を探しましたが、何處へ行つたか、新太郎とお靜の行ゆくへ方は更にわかりません。
水茶屋で聞くと、混んで居る最中で、氣が付かなかつたと言ひ、お靜の里やら平次の留守宅やら、心當りへ全部人を出しましたが、何處へも行つた樣子はなく、二人の姿は、水天宮樣の境内から、煙のやうに消えてしまつたのではないかと思ふやうな、見事な失しつ踪そうぶりです。
お國は氣も顛てん倒だうして、
﹁坊やを探しだした者には、望み次第の褒美をやる﹂
と言ひますが、これだけに手際よく誘かど拐はかされては、手の付けやうがありません。
その騷ぎの中へ、一人の女中が變なものを持つて來ました。
﹁唯今、お勝手口へこんなものを投はふり込んで行つた者が御座います﹂
と差出したのは、急きふ拵ごしらへらしい結び文。
﹁どれ〳〵﹂
利助が受取つて中を開くと、拙い假か名な文も字じでたつた三行ばかり。
――新太郎を殺したくなかつたら、お吉をゆるせ。その女に罪はないぞ――
と書いてあります。
﹁畜生ツ、人を嘗なめた事をしやがる。外そとに居る仲間が、お吉を助けようとしての細工だ﹂
利助は地ぢだ團ん駄だふんで口惜しがります。
﹁坊やに萬一の事があつてはならない。口く惜やしいけれど、その女を納戸から出して、何處なと、好なところへやつておくれ﹂
お國はさすがに母親らしい弱いことを言ひますが、
﹁飛んでもない奧樣、これは術てですよ。女を助けたところで若樣を返すとは言やしません。それよりこの女をお白しら洲すに突き出して、言はせるやうにして物を言はせませう。この女さへ口を開けば、何も彼も判つてしまひます﹂
利助は意地になつて聽き入れません。
﹁どうなとお前のいゝやうにしておくれ。私には、何が何だか判らない﹂
お國は精も根も盡き果てて、たゞさめ〴〵と泣くばかりです。
﹁よし、此上は容よう赦しやしねえ。女來い﹂
納戸を開けて、三日越しの監禁に、すつかり弱り果ててゐるお吉を引出しました。
﹁これ、何をするのさ﹂
﹁默つて來て見りや判る。それが嫌なら、相棒と名前とその巣を言へツ﹂
いきなりねぢ倒して、悲鳴をあげるお吉の腕を後ろに、キリキリと縛り上げてしまひました。
﹁邪魔が入ると面倒だ、歩けツ﹂
邪じや慳けんに繩尻を引くと、
﹁あツ、ツ﹂
悲鳴をあげてお吉は縁側に倒れかゝります。
六
平次が飛込んで來たのは、丁度その後――。 ﹁若樣がお見えなさらない? 何ツ、水天宮樣で誘かど拐はかされたツ﹂ お勝手から奧へ眞一文字に、 ﹁奧樣、大變なことになりました。さぞ御心配でいらつしやいませう﹂ 今度の事件では、面白くないことばかりの平次ですが、斯うなつては遠慮しても居られません。敷居の外から聲をかけて、お國の機嫌を伺ひます。 ﹁お、平次よく來てくれた――。どうぞ坊やを助けてやつておくれ、お願ひだよ﹂ 日頃の嗜たしなみも忘れて、しどろもどろに取亂して居ります。 ﹁石原の兄哥は何うしました﹂ ﹁お吉さんに繩を打つて、どうしても仲間の事を白状させるつて、奉行所へ行つたよ﹂ ﹁えツ、そんな、そんな無法な事を﹂ ﹁さうでもしなければ白状する女ではない﹂ ﹁飛んでもない、お吉さんは何んにも知つちやゐません。それより吟味與力のお家から、繩付を出して其納をさまりが何うなると思ひます﹂ ﹁え?﹂ ﹁輕くてお役御免、重くて食しよ祿くろ召くめし放し。旦那樣が家事不取締の罪は免まぬかれません﹂ ﹁えツ﹂ ﹁それでなくてさへ、お若くて切れものの旦那樣、お役所向は味方ばかりと思ふと大當て違ひ、これは飛んでもない事になりましたなア﹂ 平次の恐れるのはそれでした。吟ぎん味みよ與り力きで相當に敵も作つて居る笹野新三郎が、家族から繩付を出して晏あん如じよとして居られる道理はありません。 お國は女で氣がつかないのも無理はありませんが、そんな事は百も承知の助の石原の利助が、宵とは言つても、人の目につかないとは限らない繩付を、與力の家の門から引張り出して、わざわざ奉行所まで伴れて行くとは何としたことでせう。 ﹁若樣は急に命に拘かゝはる事もありますまい。それより大事なのは、お家の瑕き瑾ずにもなる繩付の始末です。利助は何時頃此處を出かけました﹂ ﹁ツイ今しがた﹂ お國はさすがに恥入つて顏も擧げません。 ﹁それでは及ばぬまでも追つかけて見ませう。御免﹂ 平次は挨拶もそこ〳〵、眞一文字にお勝手へ拔けて、數寄屋橋の南町奉行所まで、韋ゐだ駄て天ん走りに驅け付けました。七
三十間堀へ來ると、宵よひ暗やみ乍ながら、向うへ急ぎ足に男女の人影。 ﹁石原の、ちよいと待つて貰はうか﹂ 平次は飛ひて鳥うの如く驅かけ拔けて、二人の前へ立ち塞ふさがりました。 ﹁何だ平次か、何の用だ﹂ 石原の利助は、以ての外の機嫌で平次を見据ゑます。 ﹁お吉さんは何にも知つちやゐねえ。氣の毒だが繩を解いて渡して貰へまいか﹂ ﹁何を言やがる、此こつ方ちには證據があつてすることだ。十手捕繩を預る利助に、人を縛つちやならねえといふ法でもあるのか﹂ ﹁さうぢやないよ、兄哥。吟ぎん味みよ與り力きの笹野の旦那のお屋敷から、繩付を出したとあつちやそのままぢや濟むめえ。お互ひに旦那には言葉に盡せねえ恩を受けて居る身體だ。よしんばどんな證據があつたにしたところで、お吉さんにお白しら洲すの砂じや利りを噛ませて、笹野の旦那の破はめ滅つにはしたくねえ。解つたかい、石原の。お願げえだから、その繩を解いて俺に渡してくれ。あの惡戯者や誘かど拐はかし﹇#﹁誘かど拐はかし﹂は底本では﹁誘がど拐はかし﹂﹈の惡者は、俺がキツと探し出して、お前めえの手柄にさしてやる﹂ ﹁えツ、何を言やがる。默つて聽いて居りや、惡者を縛つて、俺の手柄にさしてやるツ? 若僧の癖にしやがつて何て口の利きやうだ。憚はゞかり乍ながら石原の利助は手てめ前えよりは十年も前から十手を預つてるんだぞ。歸えれ、さつさと歸えりやがれ。尻尾を卷いて消えてなくならないと、只は置かねえぞ﹂ ﹁それぢや、兄哥。これほどまでに頼んでもか﹂ ﹁知れた事を言へツ、この女は近頃の大物だ。手てめ前えなどに横奪りされてたまるものか﹂ ﹁えツ、聞分けのない。笹野の旦那の爲だ﹂ 飛付くやうにお吉の繩尻を引つたくつて、急せはしく解きにかゝると、 ﹁何をしやがる﹂ 利助は年甲斐もなく、平次へ武者振り付きます。 ﹁兄哥、勘辨してくんな﹂ 身體を捻ひねつた平次、よろめく利助の後ろから、力任せに突き飛ばすと、一とたまりもなく道端の濠ほりの中へ。 ﹁あツ﹂ 折からの上あげ汐しほ、あつぷ、あつぷとやる利助を尻目に、 ﹁詫わびは後でする。兄哥勘辨してくんなよ﹂ お吉を促うながしてもと來た道へ、平次は飛ぶが如く取つて返します。八
平次が利助を追つて駈け出した後――。 笹野新三郎は下しも總ふさから歸つて來ました。蟲が知らせると言ふものか、妙に里心が付いて歸つて來て見ると、丁度下しも總ふさの知行所へ急使を立てたばかりといふところ、家の中はえくり返るやうな騷ぎです。 お國や奉公人達から、いろ〳〵話を聞いて、驚きに驚きを重ねて居ると、先刻水天宮樣からぼんやり歸つて來た勇吉が庭口からヒヨツクリ顏を出して、 ﹁旦那樣、今思ひ出しましたが、水天宮樣の水茶屋へ、お靜さんを誘さそひ入れた男が判りましたよ﹂ 妙な事を言ひ出します。 ﹁何だつて今まで默つてゐたんだ。誰だ、その男といふのは?﹂ ﹁すつかり忘れて居ました。――その男てえのは、名前はわかりませんが、なんでもお茶の水邊の男で――﹂ ﹁家は知つてるか﹂ ﹁行つて見たら大たい抵てい見當はつきませう﹂ ﹁よし、それぢや案内しろ﹂ 新三郎は、飛立つ思ひ、旅裝束のまゝ、駕籠を二梃ちやう呼んで、驀まつ地しぐらにお茶の水へ――。 昌しや平うへ橋いばしまで來ると、 ﹁此こ處こで降りて歩かなきアなりません。駕籠で行つては拙まづい﹂ 案内者の勇吉が飛んでもないことを言ひ出します。 仕方がないから駕籠を歸して、勇吉を先に立てた新三郎。聖せい堂だうの前をダラダラ登つて、お茶の水の方へ、その頃は橋はありませんが、眺めの良いところで、數丈の斷だん崖がいの上へお茶屋が二三軒建ち並んで居ります。餘談に亙わたりますが、その後江戸名所圖づ繪ゑを描かいた長谷川雪せつ旦たんが、此處のお茶屋で風景を寫生して、謀むほ叛んに人んと間違へられた――などといふ話の傳はつて居るところです。 お茶屋といつたところで、道端に建つた粗末な板屋根で、お茶の水の絶壁數丈の下から、足場を組み上げて張り出した、葭よし簀ず張ばりの凉しい別室が名物。晝はいくらか客もありますが、日が暮れるとサツサと店をしまつて、婆さんと娘が、菓子箱と緋ひま毛うせ氈んを背負ひ、大おほ藥やく罐わんをブラ下げて自分の家へ歸つてしまひます。 尤もつとも、この邊一帶、聖堂の前から元町へかけては、恐ろしく淋しいところ。明治になつてからでさへ、松平某の皮かは剥はぎ事件があつたくらゐですから、舊幕時代は追剥と辻斬りの本場といつてもいゝところだつたのです。 臆病者の勇吉が、其處へスタスタと入つて行つたのですから、笹野新三郎も少し面めん喰くらひました。 しかし、一子新太郎の生死にも拘かゝはる場合、贅澤を言つてゐる時ではありません。勇吉の後について、默つて行くと、三軒ある斷崖の上の茶店の一番奧、久しい前から立たち腐ぐされになつてゐる家の表戸を開けて、 ﹁此處で御座いますよ、旦那﹂ 勇吉は案内顏に入つて行きます。 ﹁此處に新太郎が居ると言ふのか﹂ ﹁確たしかに此處に相違ありません。灯あかりを用意して來ますから、ちよいとお待ち下さい﹂ 新三郎を中に誘さそひ入れて、勇吉は其儘外へ出てしまひました。 暫く待つたが歸つて來ません。何分ひどい闇で一寸先も判りませんが、床板一枚の下は、數すう丈ぢやうの絶ぜつ壁ぺきといふことだけは、遙かに聞える水音で判ります。 ﹁ハテ﹂ 新三郎は立上がりました。愚ぐち直よくな勇吉を信じきつては居ますが、何となく不安な心持になつたのでせう。立上がつて戸口の方へ探り寄らうとすると、床ゆか板いたの釘が拔けて居たものか、それとも、陷おと穽しあなの仕掛になつてゐたものか、足の下の板が一枚、パツと跳はね返ると、 ﹁あツ﹂ 新三郎の身體は、數十尺の下へ、支さゝへるものもなく落ちて行きます。九
﹁へツ、へツ、到頭陷おち込みやがつたか﹂ 何處からともなく、闇の中の人聲。 燧ひう石ちいしに鎌かまの當る音がすると、パツと蝋らふ燭そくが點された。 見るとそれは、今まで臆おく病びや者うものとばかり思ひ込ませてゐた若黨の勇吉。妙めうに引ひき緊しまつた凄い顏をして、裸蝋燭を片手に、新三郎の陷ち込んだ穴を覗きます。 ﹁おーい兄あに哥き﹂ ﹁勇吉か﹂ 遙はるかに下から應ずる聲。 ﹁野郎は何うなつた﹂ ﹁まだ落ちて來ねえぞ﹂ ﹁そんな事があるものか﹂ ﹁落ちて來さへすれア、ボチヤンとか何とか音がするだらう――萬一舟から岸へ這ひ上がるやうなら、竹たけ槍やりで芋いも刺ざしにするつもりで待つて居るが、一向音沙汰はねえぞ﹂ ﹁はてな﹂ 勇吉は左手の蝋燭を穴の中へ差し込むやうにして下を覗きました。 ﹁あツ、居るぞ、居るぞ﹂ ﹁それ見ろ﹂ 床の下の逞たくましい梁はりから垂れた握り太の麻あさ繩なは。その中程のところに、雁がん字じがらめにして猿さる轡ぐつわを噛ませた、新太郎とお靜を吊つるしてありますが、その繩の上から三分の一ほどのところに、もう一人、人間がブラ下がつて居るのです。 言ふまでもなく穴から落ちる機はずみに、運よく麻繩を探り當てた笹野新三郎、無我夢中で獅し噛がみ付きましたが、身體が落ちる勢ひが付いて居たので、兩手の掌てのひらをひどく磨すり剥むいた爲に、麻繩を掴つかむには掴んだものの、手た繰ぐつて上がることが出來ません。 齒を喰ひ縛つて辛からくも身體を支さゝへて居るうちに、上から射した蝋燭の光で、自分をこの九死の境さかひに陷おとしいれたのは、臆病者の勇吉だとはわかりましたが、下の舟に居る相棒がわかりません。 その顏を見るつもりで、大骨折で身體をねぢ曲げると、最初に眼に映つたのは、船の中の曲者ではなくて、自分の足の下、同じ麻繩に縛られて、宙ちうにブラ下がつて居る、伜新太郎とお靜の淺ましい姿です。 ﹁あツ、新太郎。――お靜も﹂ と言つたが、何うすることも出來ません。 上の勇吉は早くもそれに氣が付いたか、 ﹁旦那、氣が付きなすつたかい。父子主しゆ從じう三人一緒に死ぬのも因いん縁ねん事ごとだ。へツ〳〵、却かへつてあきらめが付いてようがせう﹂ 憎々しくも齒を剥きます。 ﹁勇吉、お前は何んだつてこんな事をするんだ。隨分目をかけて使つてやつた筈だが、何の怨うらみでこんな非道なことをする――、俺を怨むのは兎も角、罪も科とがもない新太郎やお靜をこんな目に會せて濟むと思ふか――﹂ 新三郎は血を吐く思ひ、次第に力の拔ける掌てに、僅かに身體を支さゝへて悲憤の眦まなじりを裂きます。 ﹁まだ解らないのか。今下の船にゐる兄哥に磔はり柱つけばしらを背負はせて、その餓が鬼きを脅おどかしたり、鈴ヶ森から梟さら首しくびを持つて來て、窓の外へ掛けたのは、皆んな俺達の深い怨みを思ひ知らせるためだつたよ――。血の巡りが惡いからお前は氣がつかなかつたらうが、何を隱さう俺達はな、――八合判のいかさま枡ますを使つたといふ罪で、三年前に獄ごく門もんになつた、米屋――越後屋勇助夫婦の忘れ形見だよ﹂ ﹁えツ﹂ ﹁惡い番頭が勝手にそんなものを拵こしらへて、自分の懷ろを肥こやして居たのを、何にも知らない俺達の親父とお袋が罪を背し負よはされ、いかさま枡ますは罪が深いと言ふので、鈴ヶ森で白しら髮がく首びを並べて梟さらされたことは、よもや忘れはしめえ。皆んなお前のした事だよ。その上、世上の憎しみが加はつて、お袋が臍へそくりでやらしてゐた、この茶店まで立ち腐ぐされになり、俺達二人は長い間食ふや食はずの路頭に迷つた上、讐かたきが討ちたいばかりに傳つ手てを求めて、弟の俺が、お前のところへ奉公に上がつたんだ﹂ ﹁――﹂ ﹁いかさま枡ますを拵へた張本人の番頭は、それつきり行ゆく方へ知れず。俺達兄弟の怨うらみは、兩親に繩を打つたお前――與力笹野新三郎にかゝるのは當り前の事ぢやないか﹂ ﹁――﹂ ﹁下にゐるのは俺の兄哥の勇五郎だ。その繩を這ひ上がつたつて、下へ飛降りたつて助けるこつちやねえ、――何時まで苦しませるのも殺生だ。この邊で引いん導だうを渡してやらう、――見ろ﹂ ﹁――﹂ ﹁兄哥、落してやるよ。氣を付けてくれ﹂ ﹁よし心得た。宙に留めて竹たけ槍やりで芋いも利ざしだ﹂ 勇吉は何處から持つて來たか、脇わき差ざしを拔いて麻繩を切り始めました。 三本縒より合せた丈夫な繩へ、ドキドキする刃を當てて、 ﹁それ一本﹂ プツリと切ると、繩のよりが戻つてキリキリと三人の身體は宙に廻ります。十
﹁もう一本﹂
﹁待て、待て勇吉。お前の怨うらみは筋違ひだが、今更それを言つても始まるまい。――私はあきらめて殺されもしようが、伜せがれとお靜には罪はない筈だ。私は此手を離して下の川へ落ちるから、繩を切らずに、後の二人を引上げて助けてくれ。頼むよ、勇吉﹂
新三郎は下から、僅かに支さゝへる身體をのし上げて、必死の言葉を絞しぼりますが、赤い蝋らふ燭そくの灯ほか影げに、物凄まじく描き出された、勇吉の顏の怨みは解けさうもありません。
﹁どうしような、兄哥﹂
﹁どうもかうもねえ。俺達は兩ふた親おややられたんだ。さつさと切つてしまへ﹂
﹁よしツ﹂
刃は又もプツリと第二本目の繩を切りました。
﹁さあ、あと一本だ。念佛でも稱となへろ﹂
逆落しに毒々しい聲。
﹁新太郎、お靜、氣の毒だが、お前達も聞いての通りだ。あきらめてくれ、一緒に死ぬんだぞ﹂
と觀念を決めた新三郎、俯うつ向むき加減に下へ言ひ送ります。
﹁いゝ覺悟だ﹂
と勇吉が最後の一本へ刃が、
﹁南無――﹂
その時遲く、
宙ちうを飛んで來たは一枚の錢。
勇吉の拳こぶしをハタと打つて、思はず、脇わき差ざしの手が緩ゆるむところへ、
﹁待て、待て﹂
闇の中から、錢形の平次が飛出しました。
﹁えツ、邪魔をしやがる﹂
振り上げた脇わき差ざしは叩き落されて、上になり下になり、暫く取ツ組み合ひましたが、平次の力は遙かに優まさつたものと見えて、勇吉をとつて押へて、猫の子のやうに掴つかみ上げると、
﹁何うともなれツ﹂
數十尺の下、夜のお茶の水の流れの中へ、水音高く投げ込んでしまひました。
× × ×
平次が危機一髮のところへ駈け付けたのは斯かうしたわけでした。
三十間堀に利助を叩込んで八丁堀へ引返した平次。主人新三郎が勇吉に誘さそはれて出かけたと聞くと事件の秘密が鏡かゞみに映うつしたやうに、判はつ然きりわかつてしまひました。
お靜からいろ〳〵の事情を聽かされた時、雇人のうちに手引のあることも、役向の事で怨を買つたらしいことをも直ちよ觀くくわんしてしまつた平次は、それから三日經たないうちに、獨特の探索で奉公人の全部の身許を洗ひ上げ、秘ひし隱かくしに隱して居るが、若黨の勇吉が刑死した越後屋の伜であつたことも、お茶の水に立たち腐ぐされになつた茶店のあることも知り盡してゐたのです。
勇吉が﹃お茶の水邊﹄と言つたと聞いて、大方事件の落着きを察さつした平次は、駕籠と自分の足とを存分に働かせて、危機一髮の場合に間に合つたのでした。
新太郎やお靜と一緒に、大骨折で茶店の床へ引上げられた新三郎は、
﹁勇吉兄弟を捕へろ﹂
と言ふと、平次は暗い夜の水を眺め乍ら、
﹁多分死にましたよ、放ほつて置きませう。親が無實で死んだと思ひ込んで居るんですから、可哀想ぢや御座いませんか――それに、あの兄弟は二度とあんな惡わる戯さをする氣づかひはありませんよ﹂
と、けろりとして居ります。