一
錢形平次が關係した捕物の中にも、こんなに用意周到で、冷れい酷こく無むざ慙んなのは類のないことでした。 元鳥越の大地主、丸屋源吉の女房、お雪といふのが毒死したといふ訴うつたへのあつたのは、ある秋の日の夕方、係り同心漆うる戸しど忠内の指圖で、平次と八五郎が飛んで行つたのは、その日も暮れて街へはもう灯あかりの入る時分でした。 ﹁へエー、御苦勞樣で――﹂ 出迎へた番頭の總助の顏は眞つ蒼。 ﹁錢形の親分さんで、――飛んだお騷がせをいたします﹂ さう言ふ主人源吉の顏にも生きた色がありません。 ﹁皆んな蒼い顏をしてゐるやうだが、何うした事だい﹂ 平次は單刀直入に訊きました。 ﹁皆んなやられましたよ、親分さん、運惡く死んだのは、平常の身體でなかつた家内一人だけで﹂ 主人源吉の頬のあたりに、皮肉な苦笑が歪ゆがんだまゝコビリ附きます。 ﹁フーム、一家皆殺しをやりかけた奴があると言ふのだな﹂ ﹁へエ――﹂ 主人と番頭は顏を見合せました。 ﹁そいつは容易ならぬ事だ、詳くはしく聞かして貰はうか﹂ 平次も事の重大さに、思はず四方を見廻しました。氣のせゐか、家中のものが皆なソハソハして、厄やく病びや神うがみの宿のやうに、どの顏もどの顏も眞つ蒼です。 ﹁今朝の味みそ噌し汁るが惡うございました。飯にも香の物にも仔しさ細いはなかつた樣子で、味噌汁を食はないものは何ともございませんが――﹂ ﹁味噌汁の中毒といふのは聞いたことがないな、――まア、その先を﹂ 平次は不審の眉を顰しかめ乍ながらも、主人の言葉の先を促うながしました。 ﹁朝飯が濟んで間もなく、皆んな苦しみ出しました。――散々吐はくのでございます。丁度、霍かく亂らんか何かのやうな、一時は臟ざう腑ふまで吐くんぢやないかと思ひました。が、それでもうんと吐いたのは容態が輕い方で、あまり吐かない女共は重うございました﹂ ﹁女共?﹂ ﹁死んだ家内と下女のお越ゑつでございます﹂ ﹁で?﹂ 平次はその先を促します。 ﹁町内の本道、全ぜん龍りうさんを呼んで、お手當をしてもらひ、晝頃までには、何うやら斯かうやら皆んな人心地がつきましたが、晝過になつて、つはりで寢やすんでゐた家内がブリ返し、一刻ときばかり苦しんで、たうとう――﹂ 主人の源吉はさすがに眼を落します。 ﹁それは氣の毒な﹂ ﹁晝頃一度元氣になつて、この分なら大丈夫と思つてゐただけに諦あきらめがつきません。どうか、親分さん、この敵を討つてやつて下さい﹂ この春祝言したばかりの、戀女房お雪に死なれて、丸屋の源吉は少し取りのぼせて居りました。 ﹁兎も角、御新造の樣子を見たいが――﹂ ﹁へエ、どうぞ﹂ 源吉は不承々々に案内してくれます。戀女房のもがき死にに死んだ遺なき骸がらを、あまり他人の眼に觸れさせたくなかつたのでせう。 大地主と言つても、しもたや暮しで、そんなに大きな構かまへではありません。元鳥越町の甚じん内ない橋ばし袂たもとに、角倉のある二階建、精々間數は六つ七つ、庭の廣いのと、洒しや落れた離室のあるのと、木口の良いのが自慢――といつた家です。 主人の源吉は三十そこ〳〵、歌舞伎役者にもないといはれた男振りと、藏前の大通達を壓倒する派手好きで、その頃江戸中に響いた伊だて達し者やでした。小唄、三味線、雜ざつ俳ぱい、楊やう弓きう、香道から碁ご將しや棋うぎまで、何一つ暗からぬ才さい人じんで、五年前先代から身上を讓られた時は、あの粹すゐ樣さまでは丸屋の大身代も三年とは保もつまいと言はれたのを、不思議に減らしもせず、あべこべに殖ふやして行つて、世間をアツと言はせました。 その算そろ盤ばんを預つたのは番頭の總助、四十前後の中年者で、丸屋の身代を貧乏搖ぎもさせないのは、この地味な忠義者の手柄のやうに、世間では噂して居ります。二
奧の一と間には、嫁のお雪の死骸が、まだ蒲團の上に轉がされたまゝになつて居りました。あまりの事に顛てん倒たうしたのと、一家中毒の半病人揃ひだつたので、誰も死骸を屏びや風うぶで圍かこふことさへ忘れたのでせう。 三十四五の女が一人、机を持つて來たり、線香を立てたり、時々はそつと涙を拭ひ乍ら、まめ〳〵しく立働いて居りました。 ﹁あれは?﹂ 眼顏で訊ねる平次に、 ﹁下女のお越ゑつですよ、十七年も此處に奉公して居りますが﹂ 主人の源吉は辯護がましく斯う言ひます。 ﹁――﹂ 振り返つて目禮したお越の顏を見て、平次も成程と思ひました。足が少し惡い上に、半面の大おほ火やけ傷どで、左の眉も、左の眼も滅茶々々、眼鼻立はそんなに惡くないのですが、これでは嫁の口も覺おぼ束つかなかつたでせう。十七年奉公する氣になつたのも無理のない事です。 平次は佛樣を片手拜みに、そつと膝ゐざ行り寄つて、顏へかけた手拭を取りました。 ﹁フーム﹂ 凄まじい形相ですが、美しさは一ひと入しほで、鉛色に變つた喉から胸へ、紫の斑はん點てんのあるのは、平次が幾度も見てゐる、﹃岩いは見み銀山鼠取り﹄の中毒です。 徳川時代の犯罪には、岩見銀山は附きものでした。斑はん猫めうや鴆ちん毒どくは容易に素人の手に入らず、山野の毒草は江戸の町では得難く、中毒死といふと、一番先に考へられるのは、この岩見銀山でした。 ﹁岩見銀山があるだらうな﹂ 平次は顏を擧げて、主人源吉の表情を追ひました。 ﹁へー、それがその、お越、お前は知つて居るだらうな﹂ 照れかくしらしく、下女の顏を見やります。 ﹁ハイ、あの、あんまり鼠がひどいんで、お松さんにお願ひして買つて頂きました﹂ お越は物を隱さうとする樣子もありません。それほど無むぎ技か巧うに、忠實に使ひ馴らされたのでせう。 ﹁お松さんといふのは?﹂ 平次は言葉を挾はさみました。 ﹁私の妹でございます。一度縁付いて、不縁になつて歸つて來たつ切り、この七年間、世帶の切盛りをしてくれてゐますが――﹂ 主人は何となく妹の方へ疑ひの行くのを好まない樣子です。 ﹁何處へその岩見銀山を置いたんだ﹂ 平次の問とひは委ゐさ細い構はずお越に突つ込んで行きました。 ﹁人が觸つたり、間違つて食たべ物ものに入つたりしては惡いと思つて、お勝手の戸棚の上へ置きましたが﹂ ﹁持つて來て見せてくれ﹂ ﹁ハイ﹂ お越は立ち去りました。その少し跛びつ足こを引く後姿を見送つて、 ﹁あの女は信用していゝだらうな、御主人﹂ 平次は問ひました。 ﹁十七年の間に一つも後暗いことのなかつた女です。――今時、あんな奉公人はございません﹂ ﹁さうらしいな﹂ さう言ひ乍らうなづく平次の眼には、滿足らしい輝きがありました。 暫らくは言葉が途切れて、お勝手の方の人聲が、ザワザワと聞えます。妙に押し付けられたやうな、不安と恐きよ怖うふを孕はらんだ聲です。 ﹁どうしませう、岩見銀山は見えませんよ、旦那樣﹂ お越は飛んで來ました。肝かん腎じんの平次には眼もくれずに、主人の源吉に訴へる眼まな差ざしです。 ﹁何うしたんだ、誰が盜とつたんだ﹂ 源吉もひどくあわてました。 ﹁私が隱して置いた戸棚の上にはございません﹂ ﹁お前が隱し場所を間違へるやうな事はあるまいな﹂ ﹁いえ、そんな事はありません、他の物と違つて﹂ ﹁その隱し場所を知つてるのは、お前だけか。他に、誰か知つて居る者はないか﹂ 平次は口を容れました。 ﹁――﹂ お越はギヨツとした樣子で振り返りましたが、直ぐ激しく首を振つて、 ﹁誰も、誰も知つてる筈はございません。私が隱したんですから﹂ ﹁疑ひはお前にかゝるが、それでも構はないのだな﹂ ﹁構ひません、え、少しも構ひませんとも﹂ お越の聲は激情に上づります。燒やけ痕あとのない方の半面はクワツと血に燃えて、どんな犧牲でも忍びさうな、この女の馬鹿正直さが、人を壓倒するのでした。 ﹁味みそ噌し汁るを食はない者は何ともなかつたといふが、誰が一體味噌汁を食はなかつたんだ﹂ 平次の問ひは核かく心しんに觸れます。 ﹁それは――あの﹂ 主人の源吉は思はず言葉を滑らして、ギヨツとした樣子で口を緘つぐみました。 ﹁旦那樣﹂ お越は、飛かゝつて、主人の口を塞ふさぎさうな氣組でした。 ﹁飯めしや香の物には仔しさ細いはなかつたさうだ、――これは御主人の言つたことだ。飯や香の物だけを食つて、味噌汁を食はないのは誰だい﹂ ﹁――﹂ ﹁この家の中に、岩見銀山の中毒にかゝらなかつたのが一人ある筈だ、そいつは誰だい﹂ ﹁――﹂ ワナワナと動く主人源吉の唇を、お越は必死の目くばせで封じて居る樣子です。 ﹁八、店かお勝手へ行つて、家中の者で、毒に中らなかつたのは誰か訊いて來てくれ﹂ 平次は事面倒と見て、八五郎を動員しかけたのでした。 ﹁へエ﹂ 立上がる八五郎、――が、その身體が部屋の外へ出るのを、外から押し戻すやうに、 ﹁申しませう、味噌汁の毒に中あたらなかつたのは、この私でございましたよ﹂ さう言つて入つて來たのは、二十七八の年増、まだ美しくも若くもあるのを、自や棄けに汚きたな作りにしたやうな、白粉つ氣のない女でした。三
﹁お前は﹂ 驚き騷ぐ源吉の前へ、女は靜かな顏を擧げました。﹃男まさり﹄といふ型タイプの、水のやうな冷たい表情です。 ﹁構ひませんよ、兄さん、本當の事をはつきり言つた方が、物事が早く片附くでせう、ね、親分さん﹂ 女は半分平次へかけて言つて、僅かに頬を綻ほころばせます。 ﹁お前は?﹂ ﹁主人の妹――松と申しますよ。今朝は御近所の方と、觀音樣へ朝詣りをする約束で、その方が誘さそつて下すつた時は、生憎御飯は出來て居りましたが、おみおつけが仕掛けたばかりだつたので、お茶漬にして、お香の物で濟ませて飛出しましたよ。お蔭で味噌汁には中あたりませんが、嫂あに殺よめごろしの疑ひを受けるわけですね﹂ お松はそんな事を言つて、ツケツケと平次を見上げるのでした。冷たい聰明な眼まな差ざしです。 ﹁そんな事を言つて、お前﹂ 驚く源吉、威ゐた猛けだ高かに妹をきめ付けようとしましたが、お松はそんな事には馴らされてゐない樣子で、なか〳〵引込みさうもありません。 ﹁――その上、お越ゑつが岩見銀山を隱して置いた場所も、この私だけは知つてましたよ﹂ ﹁まア、お松さん﹂ お越は飛付きました。が、さすがに口を塞ふさぎもならず、お松の袂たもとをグイグイと引くばかりです。 ﹁放つて置いておくれ、――私は物を隱してビクビクして居ることなんか大嫌ひなんだから﹂ お松は併し、そんな手てぬ緩るい事には牽けん制せいされさうもありません。 ﹁私も申し上げて宜しうございませうか、旦那﹂ 番頭の總助は後ろからそつと主人の顏をのぞきました。 ﹁何だい、何か知つて居ることでもあるのかい﹂ 平次がそれを横合から引取ります。 ﹁他ぢやございませんが――岩見銀山を戸棚の上に隱してあつたことなら、この私も存じて居ります、へエ――﹂ ﹁何だ、そんな事か﹂ 主人の源吉、事もなげですが、お松とお越の顏には何やら疑惑の色が浮びます。 ﹁これから、一人々々に内々で訊ききたい。先づお越だけ、お勝手へ來て貰ひたいが﹂ ﹁ハイ﹂ 平次は先に立つてお勝手に入つて行きました。續く、お越、ガラツ八。 ﹁さア、少しお白しら洲すめくが、正直に言つてくれ、嘘を吐つくと爲にならないよ﹂ ﹁ハイ﹂ 平次は二本燈心の行燈を引寄せて、踏ふみ臺だいの上に腰を掛けました。廣々としたお勝手は念入りに磨みがき拔かれて、塵ちり一つない有樣、十七年間忠勤を擢ぬきんでたといふ、お越の働き振りが思ひやられます。 ﹁お勝手はお前一人か﹂ ﹁もう一人お富さんといふ御ごは飯んた炊きが居りますが、父親が病氣で三日ばかり前から葛かつ飾しかの在所へ歸つて居ります﹂ ﹁一人では骨が折れるだらうな﹂ ﹁いえ﹂ お越は、いつもの習慣で、巧たくみに燒痕のない方の半面を見せて、愼ましく板の間に坐つて居ります。後に突つ立つたのはガラツ八、長い影が、ユラユラと戸棚に搖れるのも、少しばかり怪奇な趣おもむきでした。 ﹁お前の生れは?﹂ ﹁房州でございます﹂ ﹁親兄弟はあるのか﹂ ﹁兄夫婦が百姓をして居りますが――﹂ 餘り事件と縁のない訊じん問もんに、お越は不審の眉を擧げました。 ﹁この家の人達はどうだ、目立つて仲の惡いのはないか﹂ ﹁いえ、――皆んな良い方ばかりで﹂ ﹁亡くなつた新造は、主人の望で、大層な支度金を出して貰つたといふ話だつたが――﹂ それは神田から下谷淺草かけて、誰知らぬ者もない評判でした。きりやう好みの源吉が、飾かざ屋りやの小町娘を、金に飽あかして申受けたといふ經いき緯きつ、――半年ほど前に、幾つのゴシツプを飛ばしたことでせう。 ﹁でも良い方でございました。――氣前の良い﹂ お越は給金でも増してもらつた樣子です。 ﹁嫂あによめとお松さんとの仲は?﹂ ﹁そんなに惡くはございません、――お松さんはあの通りで、世間の小こじ姑うととは氣風が違ひますから﹂ ﹁もう一つ訊くが――番頭さんは、お松さんをどう思つて居るのだ、先刻は變に庇かばつて居たが﹂ ﹁私には何にもわかりませんが――﹂ ﹁よし、よし。次はお松さんを此處へ呼んでくれ、――それから、岩見銀山の鼠取りを隱して置いたのは、この戸棚の上だな﹂ 平次は、ガラツ八の後ろの古い戸棚を指さしました。 ﹁え、その小さいお重の中へ入れて置いたのです﹂ ﹁よし、それでいゝ﹂ 平次はお越ゑつの後姿が廊下に消えると、踏臺を戸棚の前に持つて行き、硫いわ黄うつ附け木ぎを一枚灯ともして、念入りに戸棚の上を調べ始めました。戸棚の上には、蓋ふたの無い古お重が一つ、その外側には、たつた一ヶ所指の跡が附いて居りますが、不思議なことに、お重箱の中には一面に埃ほこりが附いて、今朝まで物を入れて居た跡などはなかつたのです。 ﹁八、これを見て置け、――お重の中は一面の埃だ、――お越がこの中へ岩見銀山を隱したと言ふのが嘘か、でなきや、曲者はずつと前に此中から取出したのだ﹂ 平次がさう言つて踏臺から下りると、主人の妹のお松が取濟して入つて來るのと一緒でした。 ﹁まだ御用があるんですか、親分﹂ 何か平たひらかでないものがあるのか、お松は突つ立つたまゝ斯う先手を打ちました。 ﹁お松さん、お前さんは岩見銀山が戸棚の上にあるのを知つてると言つたが、ありや、お前さんの眼で見たのか、それとも――﹂ ﹁お越から聞きましたよ、鼠捕りを買つてやると、――戸棚の上の重箱の中へ入れて置きますよ――と言つたんで、其處にあると思つて居たんです﹂ ﹁何時頃だ、それは?﹂ ﹁五六日前ですよ﹂ ﹁すると、岩見銀山を見たわけぢやないのだね﹂ ﹁えゝ――でもお越ゑつなんか疑つちやいけませんよ。お奉行所へさう申上げれば、あれは御褒美の出る奉公人ですよ﹂ お松は少し躍やく起きとなります。 ﹁お前は、嫁のお雪と仲がよくなかつたさうだな﹂ 平次はズバリと言ひ切りました。 ﹁え、――あんな女はありやしません。下品で、阿あ婆ば擦ずれで、派手好きで、おしやべりで、食ひ辛坊で――﹂ 平次も少し呆あきれました。まだ下手人の見當もつかないのに、此の女は殺された嫂あによめの惡口を、何の遠慮もなく並べ立てるのです。 ﹁惡口はそれ位でよからう、もう生きちやゐないのだから。――ところで、番頭の總助はどうだ﹂ ﹁ありや馬鹿ですよ、私をどうかするつもりで居るんでせう、――あんな半間な庇ひ立てなんかして﹂ ﹁少し手きびしいな﹂ 平次は苦笑ひに紛まぎらせました。四
次は主人の弟吉三郎、二十五歳の冷飯食ひで、家中の不人氣と氣むづかしさを、一人で引受けたやうな男でした。 ﹁當り前ですよ。こんな事になるのは、半年も前から判り切つて居ましたよ、兄貴のあの癖くせが直らなきや――﹂ 吉三郎はさう言つてプツリと口を緘つぐみました。松まつ皮かは疱はう瘡さうでひどい大おほ菊あば石た、まだ若い盛りを何といふ醜みにくい顏でせう。光ひか源るげ氏んじのやうな兄の源吉とは、どう折合をつけて見ても、血を分けた兄弟とは思はれません。 ﹁癖?﹂ 平次は何やら思ひ當つた樣子です。 ﹁兄あに貴きと嫂あによめを怨む者は、町内だけでも五人や十人ぢやありません、現げんに――﹂ ﹁現に?﹂ 吉三郎の言葉は又プツリと切れます。 ﹁言つてしまひませう。隱して置いたつて、誰かから親分の耳に入るに決つてまさア﹂ ﹁――﹂ ﹁お向うのお光さんなんざ半歳前嫂あねが嫁に來た時は藁わら人にん形ぎやうを持出す騷ぎをやりましたぜ。そいつを五寸釘で何處かの杉かなんかに打ち付けるつもりのを、町内の者に見付けられて――いや大變でしたよ﹂ ﹁フーム﹂ 平次も薄々それは聞いて居りました。飾屋のお雪が丸屋の嫁になるのが口く惜やしいと言つて、元鳥越の丸屋からは、溝川一つ距へだてた猿屋町の粉屋のお光が、白しろ裝しや束うぞくを着て飛出したといふ話を――。 ﹁こんな事になるのも、元々兄貴が浮氣つぽいからでさ。ね、親分、三十になるまで、獨ひと身りみが面白くてたまらない兄貴だつたんですもの。家の者なんか搜さがすより、外へ出て、町内の娘や後家をあさつて御覽なさい。嫂のお雪さんに怨のあるのが、ざつと私が知つて居るだけでも十人はありますぜ﹂ 吉三郎の言葉は露骨な棘とげを含ふくんで居りました。美貌の兄に對する憤ふん懣まんと、抑壓された情慾のハケ口が、場所柄も何も考へる遑いとまもなく、熟うれて潰つぶれた膿うみ汁じるのやうに、果てしもなく噴出するのです。 ﹁それで、お光が怪しいといふのか﹂ 平次は獨り言のやうに呟つぶやきました。この男の毒氣に中てられて、さすが、探索の意氣込も挫くじけたのでせう。 ﹁怪しいのはお光ばかりぢやありません。女房を貰つて三月經たない兄貴と變な噂を立てた、師匠のお角だつて、白紙ぢやありませんよ﹂ ﹁師匠のお角?﹂ ﹁猿屋町の小唄の師匠ですよ、お光の粉屋から一軒置いて隣の――﹂ この男の呪のろひを聞いて居るのは、平次にも少し鬱うつ陶たうしいことでした。 ﹁ところで、中毒を起したのは朝の味噌汁だ、――家の外の者が味噌汁へ細工をすることが出來るだらうか﹂ 平次はこの男の呪ひの口を閉とざしてやるつもりで、ツイこんな事を言つたのです。 ﹁下女はお越一人切りでさ。お勝手元にばかり居たわけぢやないから、曲者は御用聞か何かの振をしてお勝手を覗き、仕掛けた味噌汁の鍋へ岩見銀山を投り込んで逃げ出すのはわけもない事ぢやありませんか﹂ ﹁眞ほん物ものの御用聞に逢つたら? 曲者はどうなるだらう﹂ ﹁逢はなかつたら? どうです、親分﹂ この男の惡魔的な空想は、何處まで發展するかわかりません。 ﹁ところが、この戸棚の上の岩見銀山が無くなつて居るんだ。外から女が入つて、踏臺をして岩見銀山を取つて、それを鍋へ投り込んで逃げ出したといふのか﹂ 平次は辯護側に廻つたやうな形勢です。 ﹁なアに、お越が置き場所を忘れたんですよ。大體あの女は忙いそがし過ぎるんです、――曲者は別に岩見銀山を外から持つて來たとしたら、辻つじ褄つまは立派に合ふでせう、親分﹂ ﹁――﹂ 平次はその上相手にはなりませんでした。頤あごをしやくつて、吉三郎を去らせたまゝ、踏臺に腰をかけて何時までも考へて居ります。 ﹁いやな野郎ぢやありませんか、親分﹂ ガラツ八は後ろから平次をのぞきました。 ﹁誰が?﹂ ﹁あの弟野郎ですよ、――嫂あによめを殺したのは、ひよつとしたら、あの菊あば石た野郎ぢやありませんか﹂ ﹁嫂だけぢやないよ、毒は家中の者が呑まされたんだ﹂ ﹁――﹂ ガラツ八は默つてしまひました。これ以上は考へたところでガラツ八には判りさうもありません。 ﹁親分さん﹂ 不意に、お勝手の障子が開きました。 ﹁何だ、お越ゑつぢやないか、用事でもあるのか﹂ 平次は踏臺にかけたまゝ、グルリと向き直ります。 ﹁一つだけ申し忘れましたが﹂ ﹁何だい﹂ ﹁御新造さんが晝頃になつて、少し氣分がよくなつたが、喉が涸かわいて仕樣がないから、水が欲しいと仰しやいました﹂ ﹁フム﹂ ﹁何しろ毒に中てられたのが五人もある騷ぎで、其時は誰も側に居てくれません、――私は這ふやうにしてお勝手へ參り、藥やく鑵わんと湯呑を持つて來て、御新造さんに呑ませましたが――﹂ ﹁お前は呑まなかつたのか﹂ ﹁湯呑が一つしかなかつたので、私はもう一度お勝手へ行つて、水みづ甕がめからくんで呑みました。――二度お勝手へ行つたわけですが、水を呑んでから氣分が精々して、御新造さんのところへ歸つて來ると、――﹂ ﹁――﹂ ﹁七轉八倒の苦しみでございました。びつくりして大聲を出すと、たつた一人御無事なお松さんと、旦那樣のお手當をしてゐなすつた、本道の全龍さんが飛んで來て介かい抱はうして下さいました﹂ ﹁お松さんと全龍さんは一緒に駈け付けたのか﹂ ﹁いえ、お松さんの方が先で――﹂ ﹁それから﹂ お越の話に、何やら重大さが匂ふのでせう、錢形平次は少し夢中になつて、踏臺から乘出しました。 ﹁それつ切りでございます﹂ お越の顏は――今朝の中毒のせゐか、まだ眞つ蒼です。 ﹁まだ何んかあるだらう、――皆な言つてくれ、大事なことだ﹂ ﹁いえ、もう何んにもございません﹂ ﹁その藥やく鑵わんは何處へやつた、奧にも此處にも見えないやうだが――﹂ 平次は四あた方りをキヨロキヨロ見廻しました。 ﹁その後で旦那樣が、その水を呑まうとなすつたので、私がお止めしました﹂ ﹁それはよかつた﹂ ﹁又誰か呑んでも惡いと思つて、皆な流しへ捨てゝ藥鑵はよく洗つて戸棚に仕舞ひ込んでしまひました﹂ ﹁何といふ馬鹿なことをするのだ、仕樣がないなア﹂ 平次はさう言ひ乍ら、水下駄を突つかけて流しの外を見廻りました。 ﹁親分、毒はとうに流れましたぜ﹂ 少し茶化し氣味のガラツ八の顏がそれを覗いて居ります。 ﹁だがな、八、下水の中に、蚯みゝ蚓ずがうんと死んでゐるぜ、――こいつは見て置く値打はあるだらう﹂ 平次はさう言つて、蟲むし唾づの走るやうな顏をお勝手に戻しました。五
丸屋の嫁お雪を殺した下手人は、秋あき酣たけなはになつても見當が付きません。疑へば、夫の源吉も、小こじ姑うとのお松も、弟の吉三郎も、下女のお越も、番頭の總助も、猿屋町の粉屋のお光も、小唄の師匠のお角も、悉こと〴〵く殺すだけの動機と機會とを持つて居るわけですが、疑はないとなれば、岩見銀山が偶ぐう然ぜんに味噌汁の中へ落ちたとしても濟まないことはありません。 錢形平次も悉く閉口しました。係同心漆うる戸しど忠内は、三みの輪わの萬七に、主人妹お松を縛らせましたが、これは本當に奉行所への申譯だけのことで、一と月經たないうちに、そつと許して歸すより外に手段もない始末だつたのです。 ﹁どうした事だ、丸屋の中毒騷ぎは? 矢張り鼠のせゐかな﹂ 與力笹野新三郎は、時折平次にそんな事を言ひますが、 ﹁鼠ぢやございませんが、あの下手人は、私などより、餘つ程智惠がありますよ﹂ 平次も頭を掻いて引下がる外はなかつたのです。 そのうちに、猿屋町の小唄の師匠お角が、大びらに丸屋の源吉に圍かこはれることになりました。女房が死んで百ヶ日も營いとままないうちに、後添の話でもあるまいと言ふのと、お角には先の亭主の子で、四つになる幸三郎といふ伜があるので、いづれ年でも明けたら、幸三郎を里にやつて、丸屋の後添に納まるだらう――といふのが、界隈の噂でした。 お角は二十四五の年増盛り、柳橋で左ひだ褄りづまを取つてゐる頃から、江戸中の評判になつた女で、その濃のう婉ゑんさは滴したゝるばかりでした。源吉は死んだ戀女房のことも忘れ、通と意氣との見榮も捨てて、たゞもう愚に返つたやうに、日が暮れるのを合圖に、猿屋町に入り浸びたりました。 川一と筋距へだてての狂態を見兼ねたのと、近所中の噂に閉口して、妹のお松は度々苦いことを言ひますが、源吉は耳を傾かたむけようともしません。近頃はお角の弟子達を全部斷つて、肌寒くなりまさる晩秋の一夕を、長火鉢を挾んで口くぜ説つの絲をたぐるのに餘念もなかつたのです。 お角は先月まで使つてゐた下女にも暇を出し、源吉との戀の遊いう戯ぎを憚はゞかりもなく續けました。四つになる伜の幸三郎は、陽のあるうちは外そ面とに追ひやられ、日が暮れると、床の中に追ひ込まれてしまひます。 ﹁おや? 坊やは何處へ行つたかしら﹂ お角はフト、先刻から幸三郎が見えないことに氣が付きました。陽のあるうちからの酒で、玉山まさに崩くづれ了んぬ狂態、源吉の膝に片手を凭もたれて、盃を斯かう斜なゝめに捧げたまゝ、美しい瞳が、少し三白眼に据ゑられたのです。爛らん熟じゆくし切つた歡樂の底から、ホロ苦い母性が蘇よみがへつたのでせう。 ﹁何處か其邊に居るだらうよ。馬も牛も通る場所ぢやなし、それに、外はまだ薄明りがあるよ。さアその盃をあけるがよい﹂ 源吉は銚子を取上げて、自分の胸のあたりに匂ふ女の額をのぞきました。 ﹁でも、斯んなに遲くまで外に居たことなんかないんですもの﹂ ﹁心配することはないよ。子供は正直だ、暗くなれば歸つて來るに決つて居るさ﹂ ﹁さうでせうか、――﹂ 切しきりにこみ上げて來る不安と憂いう鬱うつに、お角は思はず居ずまひを直しました。膝から兎もすれば襦じゆ袢ばんがハミ出しますが、酣かん醉すゐが水をブツかけられたやうに醒さめて、後から〳〵引つきりなしに身顫ひが襲ひます。 丁度その時、幸三郎は、川岸つぷちを、フラフラと歩いて居りました。子供心にも、源吉に白い眼で睨まれて、母親に床へ追ひやられるのがイヤだつたのでせう、ツイ敷居を跨またぎそびれた心持で、人通りもない川端を、甚内橋の上手の方へ、ヨチヨチと獨り歩きをして居たのでした。 フト、四つの兒にも不安の直感がありました。何うやら赤いものが、サツと襲つて來たのです。 ﹁あツ﹂ と言ふ間もありませんでした。宵闇の中を、通り魔のやうに襲ひかゝつたものが、幸三郎の小さい身體を、ドシンと力任せに突き飛ばしたのです。 子供の身體は毬まりのやうに宙ちうを飛んで、甚内橋上手十間ばかりの川の中へ――。 それは實に一瞬の出來事で、誰も見た者もありません。 いや、たつた一人、川の向岸、丸屋の裏木戸をあけて、ゴミを捨てに出たお越ゑつが、夕闇の中に、唯ならぬ悲鳴と、川に突飛ばされた子供の姿を宵闇の中に見たといふのです。 お越は咄とつ嗟さの間に石垣を驅かけ降りて、其處に繋つないだ小舟に飛乘り、棹さをを突つ立てて、浮きつ沈みつする子供に近づき、危ふいところで引上げました。 ﹁誰か來て下さいよ﹂ 思はず口から出たお越の叫び聲を聞付けて、三人五人と岸へ立ちました。近所の家からは、手てし燭よくや提灯を持つて飛出す者もある騷ぎです。その灯の中へ救ひ上げた子供をつれて來ると、 ﹁おや? お師匠のところの幸三郎ぢやないか﹂ 多勢の顏には、驚きと非難と、そしてほのかな嘲てう笑せうが浮んで來ます。此時、狹い川を隔へだてゝ猿屋町のお角の家からは、三味線の音につれて、艶めかしい歌が漏もれて居たのです。 幸三郎が、お越始め町内の衆の介抱で、漸く息を吹返した頃、お角は漸く事の始末を聞いて驅け付けました。 ﹁坊や、お前はまア何だつてあんな場所に居たんだい、――お母さんが、先刻から一所懸命搜して居たぢやないか﹂ お角は半狂亂の態ていでした。襟も裾も亂れたまゝ、熟じゆ柿くし臭い顏を、わが子の濡れた頬に持つて行くのです。 ︵――三味線をひき乍ら搜さがしてゐたんだとよ、迷子の〳〵幸三郎やアい――なんてのはいゝ節廻しだぜ――︶ 後ろの方で、そんな事を言ふ者もありました。 ﹁お母ちやん、――坊は川へ突き落されたんだよ、ひとりで落ちたんぢやないよ――﹂ 四つの早生れで、幸三郎は賢かしこい子でした。咄とつ嗟さの間に自分が川に落ちた、因いん果ぐわ關係を讀んで居たのです。 ﹁まア、この子は、何を言ふんだえ、お前を川へ突き落すなんて、そんな鬼のやうな人があるものか――こんな可愛い兒を﹂ お角は幸三郎のぐしよ濡れの身體を、自分の胸に抱きしめて、駄々つ兒のやうに身を振りました。 ﹁本當だよ、――赤いおべゞを着た小母さんが突き飛ばしたよ﹂ ﹁まア﹂ お角はゾツと身を顫はせます。六
この事が平次の耳に入つたのは、それから四五日經つてからでした。 ﹁それは本當の事かい、お角さん﹂ 猿屋町の師匠の家へ、平次が自分でやつて來て確たしかめると、 ﹁親分さん、怖こはいことですが、幸三郎の言つたことに少しの嘘もありません、――その翌る日この格子から、硫いわ黄うつ附け木ぎに消けし炭ずみで書いた、こんな物を投込んだ者があります﹂ さう言つてお角の取出した一枚の附木に、恐ろしく下手な字で、﹃げんきちとてをきるか、いやならこんどはほんとにおまへのこをころすぞ﹄と斯う書いてあつたのです。 ﹁心當りは?﹂ 平次は顏をあげました。 ﹁十人位ありますよ、親分さん﹂ ﹁先づ第一に?﹂ ﹁粉屋のお光﹂ お角の眼は口く惜やし涙にキラキラと光ります。 ﹁それから?﹂ ﹁丸屋の旦那の妹、――お松さん﹂ ﹁少しをかしいな﹂ ﹁私が乘込んで行けば、一文だつてあの女の勝手にはさせませんよ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁兩國の水茶屋のお樂、――あの女も旦那に夢中なんです﹂ ﹁それから?﹂ ﹁とても數へ切れるものぢやありません。兎も角、私は身を引きました。丸屋の後のち添ぞひになるのは本望ですが、伜せがれの命はそれよりも大事です。三日前に旦那とは手を切りましたよ、親分﹂ お角はさう言いつてサメザメと泣くのです。次の間ではあの晩から風か邪ぜを引いた幸三郎が、弱々しくも咳せき込んで居ります。 平次は暗い心持で甚内橋を渡りました。事件は女の嫉しつ妬とか、女の嫉妬と見せかけた、恐ろしくタチの惡い男の毒計でせう。 そのいづれにしても、平次にとつては、決して良い心持の捕物ではありません。 その足で丸屋へ行くと、主人源吉も、その事があつてから、二三日は小さくなつて引ひき籠こもつて居ります。 ﹁親分、これは﹂ 擽くすぐつたい顏に迎へられて、平次は縁側へ腰をおろしました。 ﹁誰も聞いちや居ないだらうな﹂ ﹁皆んな店の方に居ますよ、どんな御用で? 親分﹂ ﹁その障子や唐から紙かみを皆んな開けて、縁側へ顏を貸して貰ひませうか、――實はね、丸屋さん、お前さんは女出入りの多い人だが、打ちあけたところ、本當に怨まれさうな筋は幾つあるんで?﹂ 平次の問ひは唐たう突とつでした。 ﹁そんなにありやしませんよ、親分、世間の評判の方が大きいんで――﹂ 源吉は照れ臭く額を叩きました。全く良い男には相違ありませんが、自負心が強大で、生なまつ白ちろくて、平次が見ると、蟲むし唾づが走りさうでなりません。 ﹁だが、世間で氣の付かない、言ふに言はれない引つ掛りのがあるだらう。少し押付けがましいが、これへ心當りの女の名前を書いて貰ひませうか、――商賣人は別だぜ﹂ 平次は硯すゞ箱りばこと卷紙を引寄せました。 ﹁親分さん、本當のところ、人間はそんなに浮氣が出來るものぢやありません。商賣人を除のけると、幾人もありやしません。世間の評判が大きくなると、恥かしい事ですが、私もツイ自慢たらしく見せかけてやりたくなるまでの話で、いざとなると、皆んな向うから逃げてしまひます﹂ 源吉はすつかり恐れ入つて居ります。事實伊だて達し者や、通つう、粹すゐといはれる人達の内部生活が、思ひの外に貧しいのを、平次はマザマザと見せ付けられたやうな氣がして、これ以上追及する氣もなくなつてしまひました。 ﹁お角は子供の命に見返したさうだが、外に私の知つてるだけでは粉屋のお光、水茶屋のお樂――﹂ ﹁そんなところですよ、親分、後生だから、勘辨して下さい﹂ ﹁他ほかにうんと怨まれる筋はないだらうな、御主人﹂ ﹁あるわけは無いぢやありませんか﹂ 大汗になつて辯解する源吉を、平次は淺ましくも憐あはれに見て、それつ切り引揚げてしまつたのです。 が、事件はこれでお仕舞になつたわけではありません。その歳の暮には、源吉がせつせと通ひ出した、兩國のお樂の水茶屋が、原因も判らず燒けてしまつたのでした。 ﹁親分、餘つ程變ですぜ。丸屋の嫁を殺して、幸三郎を川へ投込み、お樂の茶屋へ火をつけた下手人は、鼻の先で笑つてるぢやありませんか。何だつて遊ばして置くんで﹂ ガラツ八の八五郎までが斯んな事を言ひますが、平次は容易に腰を切らうともしません。 ﹁八、曲者があんまり素直過ぎるんだ。證據があり過ぎて、縛しばれないよ。ところで、頼んで置いたものを集めて置いたかい﹂ ﹁骨を折つたぜ、親分。お松と、お樂と、お角と、お光と、――これは女の筆て蹟だ。次は吉三郎と、總助と、主人の源吉、――とこれが男の筆て蹟だ﹂ ガラツ八は帳面、卷紙、小菊、淺草紙、いろ〳〵の紙に書いたものを並べました。 ﹁男三人は相當に書けるが、女四人はお松の外は皆な下へ手たつ糞くそだな﹂ ﹁このうちに附つけ木ぎの字に似たのはありませんか﹂ ﹁無い、一つも無い。附木の字はもつと下手だ﹂ ﹁わざと下手つ糞に書いたんぢやありませんか﹂ ﹁多分そんな事だらう。――ところで、もう一人頼んだのがある筈だが、――女は五人だぜ、八﹂ ﹁下女のお越ゑつは一文不通ですよ、いろはのいの字も書けやしません。――字は知つてるか――といふと、馬鹿にしちやいけない、これでも知つて居るといふから、書かせて見ると、一二三の一の字が一つだけ。――これでも知つてるに違ひあるまい、一の字は一本、二の字は二本、五の字は五本で十の字は十本引くんだらうつてやがる。――それぢや萬の字を書くには小半日かゝるぜと言ふと、半日かゝつたつて一日かゝつたつて、おれの知つたことぢやない。村の庄屋の御隱居は三年も五年も書いてゐたが、あれは多分億おくといふ字だらう――つて﹂ ﹁ハツハツ、こいつは手てめ前えの負だ。お越の方が役者が上だよ﹂ 平次はカラカラと笑ひました。七
翌る年の二月、丸屋の主人源吉は、親類縁者――わけても妹のお松の反對を押切つて、兩國の水茶屋の女、お樂を二度目の女房に迎へることになりました。
世間の噂を憚はゞかつて、祝言は極く〳〵内輪に、三々九度の盃事も形ばかり、﹃高砂や﹄を謳うたひ納めて、お開きになつたのは宵のうち、花嫁のお樂が、仲なか人うどに導みちびかれて、離屋の寢室に入つたのはまだ亥よ刻つ半そこ〳〵でした。
母おも屋やにはいろ〳〵の不ふし祥やうなことがあつたので、新夫婦の部屋を、離はな室れに定めたのは、主人源吉の心盡しでせう。
その離室から、子こゝ刻のつ過ぎになつて、思ひも寄らぬ火事が起つたのです。
﹁それつ﹂
と母屋に待機してゐた若い衆、町内の鳶とびの者が、揉み消すやうに消してしまひましたが、離屋に寢て居た筈の、主人源吉と、花嫁のお樂の姿は見えません。
﹁旦那、旦那ツ﹂
驚き騷ぐ人々の中へ、ヌツと顏を出したのは、錢形の平次でした。
﹁皆の衆、騷ぐことはない、主人も花嫁も無事だ。母屋の方に寢んで居るよ。此處に泊つたのはこの私と八五郎だ。私は主人に化けたから無事だつたが、八五郎の女形は骨が折れたぜ﹂
平次は灯あかりの中に突つ立つて、こんな暢のん氣きなことを言つて居るのです。
ガラツ八の八五郎は、女形の裝しや束うぞくを脱いで、コソコソと人ごみの後に姿を隱しました。顏を見られるのが耻かしかつたのでせう。
﹁ところで、私と八五郎が此處に泊つたのは、曲者の仕掛けるのを待つためだ。先の新造のお雪さんを殺し、お角の伜幸三郎を川へ投げ込み、今度の花嫁お樂さんの家へ火をつけた曲者は、今晩はこの離屋へ火をつけたのだ﹂
平次の言葉は續きます。
離屋の前に集まつた三十人の群衆は、聲を呑んでその次の言葉を待ちました。
﹁曲者の姿は確かにこの眼で見た。火を附けるところを節ふし穴あなから覗いたんだから、間違ひのある筈はない﹂
﹁親分、その曲者は誰だ。早く言つて下さい﹂
群衆は異常な壓あつ迫ぱく感かんに堪へ兼ねて、ザワザワと搖れます。
﹁其處に居るよ、誰にも解る筈だ。――手の眞つ黒なのが證據だ﹂
平次に指さゝれて、ハツとした一人、思はず自分の掌てのひらを見たのを、
﹁あツ﹂
後ろから無圖とガラツ八が襟首を掴んだのです。
﹁太え阿あ魔まだ。神妙にせい﹂
ガラツ八の手の中に、一と握りになつたのは、見る影もない女、跛びつ足この大おほ燒やけ痕どの、あの下女のお越ゑつだつたのです。
﹁八、油斷するなツ﹂
平次が叫ぶ間もありません、お越はガラツ八の油斷を見すまして、その手をパツと拂ひました。たじろぐ隙すきに摺り拔けると、群衆を縫つて、バラバラと母屋の二階へ――。
﹁寄るな〳〵ツ﹂
お越は絹を裂さくやうな叱しつと共に、二階の奧の一と間、有明の光のほのかに搖れる障子をパツと、蹴け開あけたのです。
﹁旦那樣、お怨うらみ申します﹂
﹁あれツ﹂
紅くれなゐを亂して、花嫁のお樂は飛出しました。それを追ふのは、何時、何處で手に入れたか、出でば刄ばう庖ちや丁うを振りかざしたお越。
庭も家の中も、唯人間が渦を卷く大混亂です。
﹁お越ツ、執しふ念ねんが過ぎるぞツ﹂
平次の叱と共に、得意の投げ錢が夜風をきりました。
﹁あツ﹂
肘ひぢを打たれて、思はず庖丁を取落したお越、次の瞬間には、ガラツ八の我武者羅な膝ひざの下に組敷かれて居りました。
﹁旦那樣、お怨み申しますよ、旦那樣﹂
きり〳〵と縛り上げられ乍ら、お越は、半面燒やけ痕どの顏をあげて、二階を睨み上げながら、忿怒の聲を歇やめなかつたのです。
﹁八、早く、猿さる轡ぐつわをツ﹂
平次が聲をかける間もありませんでした。お越の口からはタラクラと血潮が、――振り仰いで、灯の中に源吉を求むる顏の凄さ、群衆は悉こと〴〵く色を失ひました。お越は觀念して自分の舌を噛み切つたのです。
源吉は物蔭に隱れて、ワナワナと顫へました。たつた一夜の、かりそめの戯ざれ事ごとが、人間幾人の命を棒に振つて、こんな恐ろしい破カタ局ストロフイーにまで導みちびいてしまつたのです。
× × ×
﹁八、いやな捕物だつたな﹂
この事件がすつかり片附いてから、早春の日向をなつかしみ乍ら、平次はつく〴〵述じゆ懷つくわいしました。
﹁親分は最は初なつからお越ゑつの仕業と解つたんですか﹂
とガラツ八。
﹁いや、少しも解らなかつたよ。どんなに巧たくんだ惡事よりも、少しも巧まない惡事の方が解り難い。――お越は最初から投げてかゝつたんだ。岩見銀山を隱して居たのも自分、お雪に二度目の毒の入つた水を呑ませたのも自分と、白状して居るだけに疑ひやうはなかつた﹂
﹁へエ――﹂
﹁戸棚の上の重箱の中へ、岩見銀山を入れた樣子のないのを見て少し變だと思つたよ。四五日前に岩見銀山を入れたなら、埃ほこりに形が付かない筈はない。あれほど賢い女が物忘れする筈はないから、――これはヒヨツとしたら最初から岩見銀山を懷へ入れて、折を覗つてゐたんではあるまいかと思つた、それが最初の疑ひさ。――吉三郎とお松はツンツンして居たが、最初から疑ひもしなかつたよ。主人はお越を庇かばつて居たが、あれに氣のつかなかつたのは、俺の大手ぬかりさ﹂
﹁――﹂
﹁幸三郎を川へ突飛ばした時は、お越も細工がうまくなつて居た。赤い着物を羽織つて、お光かお樂の風をし、子供を突飛ばして甚じん内ない橋ばしを渡つて此方の岸へ歸つた。――其處までは何でもないが、――子供を川に突落したのは、さすがに心がとがめて、急に舟を出して救ふ氣になつた。――これは、お越の氣性ではありさうなことだ、あの女は根が惡人ぢやなかつたから。――あの晩は雨模樣で、六つ半といふと恐ろしく暗かつた。川の向う岸の水音を聞いただけで、舟を出すやうな晩ではなかつたし、川の中の子供を何の苦もなく救ひ上げたくせに、突き飛ばして甚内橋を渡つて此方へ逃げて來た人間を見ないのはをかしい﹂
﹁――﹂
﹁あの時は、お越を擧あげようかと思つたが、どうも證擔がアヤフヤだ。附つけ木ぎに書いた下手な字も、お越は全くの明あき文めく盲らのふりをして居たので、手のつけやうがなかつた。奉公人下女端はし女ためは、なまじつか字なんか知つて居ると、主人や朋ほう輩ばいにイヤがられるといふ事に氣のついたのは、ずつと後の事だ﹂
﹁なる程ね﹂
ガラツ八は感にたへました。
﹁ところで、男のためにあれほどの事をするには、お越はあんまり不容貌過ぎた。まさか美男の源吉が人にん三さん化ばけ七しちのお越に手を出さうとは思はなかつたよ。多分、浮氣者の源吉が、ほんの出來心で、たつた一度ふざけたのだらうが、醜しこ女めのお越にとつては、命がけの事だつた。歌舞伎役者にもないと言はれた美男の主人を、他の女に取られる口惜しさで、お越の心は鬼のやうになつて居た﹂
﹁――﹂
﹁源吉はお越を見くびつて居たので、疑ふ氣にもならなかつた。――尤も後で、お越ではないかしらと氣が付いたらしいが、大通を氣取つてゐる源吉は、あの見る影もない下女に手を付けたとは自分の口から言へなかつた﹂
﹁へエ――﹂
﹁源吉は面目のために默つて居たし、お越はそれに思ひ知らせるために幾人でも殺す氣になつた﹂
﹁――﹂
﹁八、氣をつけるがいゝ。正直な女は此世の寶だが、一度騙だますと怖こはいよ﹂
﹁ね、親分﹂
ガラツ八はしんみりしました。
﹁何だ﹂
﹁源吉は憎いぢやありませんか﹂
﹁女を撫なで斬ぎりにするのを、美男で大通の自分の役得のやうに思つて居たのだよ。あれは本當のところは男の屑さ、大おほ燒やけ痕どの下女に追ひ廻されりや世話はない﹂
﹁お越は?﹂
﹁惡い事をしたには相違ないが、可哀想だよ。――手てめ前えも繩をかけた因いん縁ねんがあるから、思ひ出したら念佛でも稱となへてやれ﹂
﹁――﹂
ガラツ八は默りこくつてしまひました。妙に心淋しい日でした。