プロローグ
﹁徳川時代の大名生活のただれ切った馬鹿馬鹿しさは話しても話しても話し切れませんが、私にもその一つ、取って置きの面白い話があるのです﹂ 話し手の宇うさ佐みき美ん金た太ろ郎うは、こんな調子で始めました。飴の中から飛とび出だしたような愉快な江戸っ子で、大柄の縞の背広は着ておりますが、その上から白しろ木もめ綿んの三尺を締めて、背広に弥やぞ蔵うでもこさえたい人柄です。 ﹁私の話は、大名が乞食になった話で、こいつは、唯ただでお聴かせするのが勿もっ体たいないような筋です。――大名というのは、肥前島原四万石の城主、高こう力りき左さこ近んだ太ゆう夫たか高な長がの惣領で、同苗伊いよ予のか守みた忠だひ弘ろ、水の垂れるような好い男、もっとも曾祖父は有名な高力与よざ三えも右ん衛き門よ清な長がといって、これが徳川家康の股ここ肱う、家康の若い頃、三河国の三奉行として﹃仏高力、鬼作さく左ざ、どちへんなしの天あま野のさ三ぶ郎ろ兵べ衛え﹄といわれた名臣です﹂ 宇佐美金太郎はなかなかの話術家です。 ﹁枕が少し固くなりましたが、あとがグッと柔かくなりますから、暫しばらく我慢をしてお聴きを願います。――寛永十五年島原の切きり支した丹ん宗徒の乱が平定したとき、祖父の摂せっ津つの守かみ忠ただ房ふさ島原城主として四万石を食はみましたが、間もなく旅先で歿し、父の左近太夫高長その封ほうを継ぎました。仏高力といわれた与三右衛門清長の孫の癖に、その政治が甚はなはだ宜よろしくなかったらしく、徳川幕府の公の記録ともいうべき﹃寛政重修諸家譜﹄などを見ると、簡単に﹃家臣等の掟正しからず、下を苦しめ、その身の奢おごりを極むること上聞に達し﹄とあるだけで、詳しいことは何なんにもわかりませんが、ともかく、寛文八年には所領を没収されております。徳川の幕臣で明治の日本文壇に活躍した、史家の戸とが川わざ残ん花か先生なども、﹃詳細なること後世に伝わらず、高長は如い何かなる行状なりしか知らずといえども云うん々ぬん﹄と書いております﹂ 宇佐美金太郎の話はますます固くなりますが、本人は後の発展に自信を持ったものか、大した手加減もなく、グングンその筋を進めて行きます。 ﹁――いや、わからない筈はずで――わかっても幕府の編纂した系譜には明あからさまに書けない筈でありました。左近太夫高長は当主で名義人であったには相違ありませんが、此この時とき最早六十歳を越し、中風で廃人も同様、国の政治や江戸藩邸の命令は、その惣領で、若くて美男で物好きで、インテリで、少し奇矯にさえ見えた伊予守忠弘が一手に引ひき受うけて采配を揮ふるっていたのです。これが恋の殉教者で、乞食志願者であったのですから、手の付けようがありません。甚だ高慢臭くて恐縮ですが、少しく日記の中から筋を抽出し、小説風に潤色してお話を進めることにいたしましょう﹂ 話し手のプロローグはこれで漸ようやく終りましたが、宇佐美金太郎君の引用癖考証癖は、これで完全に打うち切きられたわけではありません。一
江戸の大火の恐しさは、関東の震火災から、ツイ先年の戦火災を御経験の方は、よくおわかりのことと思います。徳川時代にも幾度か恐しい大火がありましたが、そのうちで最もひどかったのは、明暦三年正月十八日、本郷丸山本妙寺から起った、いわゆる、振袖火事で、この因ゆか縁りが怪談じみているのと、災禍の大きかったことは、まことに後人の肝を冷させるものがあります。 この時の延焼は八百余町に及び、江戸城の本丸、二ノ丸、三ノ丸を炎上し、焼死者実に十万七千人という数字です。その頃の江戸の人口は、恐らく五十万以上では無かったでしょうから、罹災等の比率は大変なものになります。その時引取手の無い死骸を本所牛島新田に埋め、その上に築いた伽がら藍んがすなわち回えこ向うい院ん――そんなことはもう講釈種で皆様よくご存じのことと思います。 宇佐美金太郎の話は、いよいよ大掛りですが、調子は少し講釈師染みて、要領よく聴きき手ての注意を掴んで行きます。 高力家の屋敷は半蔵門外で、そちらに当主の左近太夫高長は病を養っておりますが、御嫡の伊予守忠弘は神田松永町の中屋敷に、古文真宝に構えた用人朝あさ倉くら忠ちゅ左うざ衛えも門んと一緒に住んでいるのでした。この朝倉忠左衛門は、まだ五十になったばかりの中老人ですが、慶元両度の戦に武功を立て、お家万代の礎いし石ずえを据えたと信じている大変な親おや爺じで、口やかましい事と、腕っ節の強いことでは江戸屋敷中の評判者、父左近太夫がこれを若いインテリの倅せがれ伊予守に付けて置いたのはまことにその人を得たものというべきであります。 明暦三年正月十八日の真昼、本郷丸山本妙寺の庭で焼いた呪のろいの振袖が、一陣の狂風にあおられて寺の本堂の屋根に絡み、それが魔の火となって、見る見る本妙寺の七堂伽藍を焼き払い、火先は疾風に乗って、アッというまに本郷台から神田へと燃え下ったのです。高力家の中屋敷の面々も、最初は川向うの火事のような心持で眺めておりましたが、 ﹁これは危い﹂なと気がついた時は、八方猛火の壁に囲まれて、中屋敷はまことに竃かまの中に投げ込んだ一片の木の葉としか見えませんでした。 ﹁若君様には、とにもかくにも、裏門外の川岸にお立たち退のきを願います。此こ処こにはこの朝倉忠左衛門最後まで踏み止とどまって、火の手と闘いますでございましょう﹂ ﹁危いよ、爺や、一緒に逃げてはどうだ﹂ 若君の伊予守忠弘は、手を取らぬばかりに勧めましたが、朝倉忠左衛門は頑として頭を振り、若くて元気な小者数人を号令して、襲いかかる焔の壁に取り組んで居ります。この時伊予守忠弘の左右に従った者は僅わずかに青侍と御女中が二三人、それも雨の如く降る火の子に追われて、夕景過ぎ川の岸にポツンと立っているのは、伊予守たった一人になってしまいました。 雪模様の鉛色の空に、江戸の大半を焼く紅蓮の焔ほのおが照り返して、梨地の様に降りしきる火の子、それを辛くも袖で払いながら、カッと左右から焼き立てられる火勢を避くるともなく忠弘は、真っ黒な水のほとりに近々と立っていたのです。 ﹁ちょいと御武家様﹂ ﹁――――﹂ どこからともなく、柔かくて静かで、そして愛撫するような声が聴えます。地獄絵巻のような凄まじい環境――死物狂いの絶叫と、焔の咆哮と、雪片に交まじわる火の粉の渦巻の中に、それはまたなんという、そぐわない、優しい声でしょう。 ﹁御武家様、そこではお危うございます、宜しかったら――本当に宜しかったら、こちらへお出いでなさいませ﹂ 声は紛れもない足の下、真っ黒な水の中から起るではありませんか。 ﹁舟の中か﹂ のぞくと脚下十数尺、火の粉の空を映した、真っ黒な夜の水に、形ばかりのとまを掛けた一艘の小舟、その舳みよしに立って若い女が、喉のあたり白々と、焔に追われて危うく岸に立った、伊予守忠弘を見上げているのでした。 ﹁左様でございます。そこはお危うございます。石垣の段々を伝わって、降りていらっしゃいませ﹂ ﹁辱かたじけない﹂ 今は遠慮も辞儀もありませんでした。伊予守忠弘は馴れぬ足つきで、石の段々を踏んで転げるように下へ―― ﹁あっ、お危うございます﹂ 舟の中から、十九歳の忠弘の身体をやんわりと抱き取ってくれたのは、なんと若いつる草のような感じのする異香馥ふく郁いくたる女だったのです。 折から高力家の下屋敷は、朝倉忠左衛門以下幾人かの尊い生霊を呑んだまま、恐ろしい音と共に焼け落ちました。石垣の上に揚った巨大な火柱が、カッと中天の雪雲を焼くと、一瞬舟の中は真昼のように明るくなってしまいます。 ﹁――――﹂ 伊予守忠弘――十九歳になる四万石の若殿様は、危うく声を立てるところでした。 自分の屋敷の燃え落ちる焔の光の中に、実に運命的なものを見てしまったのです。 自分の弾みのついた身から体だを受うけ止とめて、近々と寄せた女の顔、眉毛、唇――焔の色に燃えて、カッと赤くはなって居りましたが、それこそは、伊予守忠弘が日頃見慣れている、椎しい茸たけ髱たぼに厚化粧で、笹紅を含んだ御守殿風の女とは、およそ対蹠的な存在でした。野生的で情熱的で脂っ気も白おし粉ろいっ気もない女の魅力というものを、十九歳の殿様は初めて身近に感じたのです。 年の頃は二は十た歳ちそこそこ、色は少し浅黒い方、にっこりすると美しい歯並みが見えて、少しも鉄おは醤ぐろ臭くないのが、まず忠弘には嬉しい風俗でした。肩の当った木綿物らしい、ひどく粗末な袷あわせも、黒っぽい帯も、忠弘がかつて見たこともないほどお粗末なものですが、そのお粗末な装束に処女の体臭と、それから名香をたきしめたとしか思えぬ幽雅な匂いが漂って、十九歳の殿様をうっとりさせずにはおきません。二
﹁兄を待って居りましたが、この火事に途みちを塞ふさがれて何ど処こかへ廻ったことと存じます、――いえ、いえ、火に巻かれて間違いを起すような人ではございません、――兎とも角かくも大川へ漕ぎ出して様子を見た上、深川の叔お母ばのところへでも参りましょう、――それとも御武家様、どこかへお送りいたしましょうか﹂ 若い女はそういって立上ると、ともづなを解いた舟を中流に押おし出だします。 ﹁私は舟は不得手だが――﹂ 伊予守忠弘は、そういうのが精一杯でした。 ﹁舟は私が漕ぎます、――恐れ入りますが、火の粉が飛んで来て、とまへ火が付きそうになりましたら、その水垢くみの長柄ひし杓ゃくで、水をお掛け下さいませ﹂ 女は何んの躊躇もなく艪ろに寄ると、至って器用に漕ぎ始めながら、蟠わだかまりのない調子で、――こう忠弘に用事をいいつけるのでした。従五位下伊予守忠弘臍へその緒切って以来、人に物をいい付けられたのは、これが始めて、十九歳の殿様に取って、それが又、ゾクゾクするほど嬉しくてたまらなかったのです。 舟はやがて両岸の焔の屏びょ風うぶを潜り抜け、おびただしい避難の舟の間を縫って一刻ほどの苦心の後漸く大川へ出ました。 ﹁ここまで来ればもう大丈夫でございます﹂ 女は艪を捨てて、忠弘の側に来て坐りました。たった一枚の薄うす縁べり、後ろ手に両手を突いて、胸を反らせて大きい呼吸をする女の肩が、ともすれば男の肩に触れて――あッ、又あの馥郁たる異香が―― ﹁疲れたであろうな﹂ 伊予守には名君が臣下をいたわるというよりは、幼い弟が姉に甘えるような調子がありました。 ﹁馴れないものですから、――こんなに﹂ 忠弘の前に差さし出だして、パッと開いた女の両りょ掌うては、ひどい血まめで痛々しく脹はれ上って居ります。 ﹁痛いだろうな﹂ ﹁気が張っておりますから、大したことはございません、――でもいい按あん排ばいでございました。今頃まで愚ぐ図ず愚ぐ図ずしていたら、どんな事になったかわかりません﹂ 女はそういって、思い出したように、潜り抜けて来た焔の壁――江戸を焼き立てている紅蓮の劫火を顧みて、そっと衿をかき合わせるのです。 丁ちょ度うど緩ゆるい引き汐で、舟は放って置いても静かに永えい代たいの方へ流れております。水の面おもて一パイの避難船ですが、まださすがにこの辺までは燃え拡がらず、明日の運命を知らぬ江戸の町人達は、さすが不安にさいなまれながらも日本橋、築地あたりは、まだ立退きの支度もしてはおりません。 ﹁御夕食はお済みでございますか﹂ 女は何やら風呂敷を解きながら、忠弘に訊ねました。 ﹁いや、昼の食事もしなかった﹂ 出火のドサクサに紛れて、忠弘は昼の膳も取らなかったのです。 ﹁兄の弁当がございます、召し上っては下さいませんか、精一杯綺麗に作った積つもりですが﹂ 女は風呂敷の中から、二つ重ねの小さい重箱を出して上の一つを伊予守忠弘にすすめるのでした。 ﹁辱けない、御造作に預かる﹂ 忠弘はそう四角几帳面に礼を言って、弁当の箸を取るほど打ちとけていたのです。 素もとより簡素な食事で、大名の倅の忠弘から見れば、これで人間が生きて行くのが不思議な位ですが、餓ひもじい時の何んとやらで、沢たく庵あんの尻尾も照り田ごま作めも、時に取っての珍味でないものはありません。 食事が済むと、女は立ってもう一度櫓に寄りました。あの凄まじい豆の手で漕ぐのかと思うと、考えただけでも、寒気がしますが、女の辛抱強さはまことに非凡で、恐ろしい努力の後、永代の深川寄りの岸に着けたのは、その夜もやがて亥いつ刻つ半︵十一時︶過ぎる頃でした。 振り返ると本郷から神田の空へかけて、まだ燃えさかる焔を映して真赤、咆え狂う北風に煽られて、この劫火はいつ消えるとも見当はつきません。 ﹁いらっしゃる当あてが無ければ、八幡前の私の叔母の家へ参りましょう。それは気の置けない人ですが﹂ ﹁左様いたそうか﹂ 伊予守忠弘は、今ではこの女の意志に引ひき摺ずられる外ほかはありません。山の手一円の火の海で避難者の気違い染みた奔流が、あらゆる道という道を封じているので、これを押し切って、半蔵門外の上屋敷に馳かけ付けることなどは思いも寄らなかったのです。 八幡前はさすがに静かでした。とある狭い路地を入って、薄暗い格子戸の前に立った女は、暫く叩いたり、声をかけたり、格子を押したり引いたりしておりましたが、 ﹁叔母さんは留守かしら、随分呑のん気きねえ﹂ 薄暗い中で忠弘を顧みてにっこりすると、そのまま裏へ廻って、案内知ったお勝手口から入り、表へ突き抜けて格子をあけてくれました。 伊予守忠弘はこうして生れて初めて、町人の貧し気な家の中に招じ入れられたのです。女が火打箱を捜して灯を点けて、炭を起して湯を沸し、熱いお茶を淹れてくれるまで、忠弘は煎餅になった座布団の上で、神妙に待っておりました。 ﹁寒かったでしょう、まず熱いお茶を召し上って下さい――私も頂きますわ﹂ 女は行あん灯どんを中にして、忠弘と相対しました。静かに見るとこの女の素性はますますわからなくなります。色の浅黒さと、眼元の涼しさと、そして聡明らしさから来る抜群の魅力と、健康と野性と、情熱で醸し出された不思議の肉感が、若い殿様をグイグイと捕とり虜こにしてゆきます。 ﹁叔母さんはこの騒ぎに驚いて、どっかへ行ってしまったのでしょう。でも構いませんわ、御都合の宜しい時まで、ゆっくり泊っていらっしゃいませ﹂ ﹁辱けない、が、お前の兄とやらは?﹂ ﹁浅草の裏に家がありますが、彼あっ方ちも火になった様子です。いずれここへ参りますでしょう﹂ 話が尽きると、若い二人は継穂もなく黙り込んでしまいました。それにこの女の様子が、見れば見るほど腑に落ちないところがあります。身みな扮りは恐ろしく粗末ですが言葉には武家育ちの匂いがあり、取とりなしはテキパキとして、勝れた気性を見せますが、顔や身から体だの表情は娘々して、ナイーヴな魅力を発散するのです。 どうかしたらこの見る影もない粗末な着物に、名ある香でも焚きしめているのでは無いでしょうか、忠弘はそんな事まで考えているのでした。三
火事は翌あくる日も燃え続け、江戸城の本丸まで焼いて、三日目の正月二十日に漸く鎮まりました。その翌あくる日の二十一日迄まで三日三晩、伊予守忠弘は、八幡前の小さい町家に、素性も知れぬ美しい女とたった二人差向いで暮さなければならなかったのです。 叔母さんは何ど処こへか行ったまま帰らず、兄とやらもその儘まま姿を見せず、二人は全く途方に暮れながら、ここに籠って、江戸の町々の秩序と町人武家共の常識を取戻すのを待つ外はなかったのでした。 その三日三晩の間、この若い二人の男女は、どんな生活をしていたことか、それは歴史も伝説も伝えてはおりません。但ただし、二人共純潔であるにしては、あまりにも若く、そしてあまりにも美しく、周囲の事情と境遇が、あまりにも刺戟的であったことは事実でした。 四日目の朝、形ばかりの食事を済ませると、 ﹁芳よし江え﹂ ﹁ハイ﹂ ﹁私はもう帰らなければならぬが﹂ 当然来なければならぬ時が来たのです。大火が納まって、江戸の町々が元の静けさに返ると、伊予守忠弘は、幸いその辺は劫火を免れたという半蔵門外の上屋敷に駆け付けて、病める父左近太夫を見舞わなければならなかったのです。 ﹁又、いつお目にかかれるでしょうか﹂ ﹁いつでも、お前の望む時来よう、イヤ、それより、明日にもお前を屋敷に引取ろう﹂ ﹁お屋敷と仰おっしゃるのは﹂ ﹁松永町の焼けたのは中屋敷、――上屋敷は半蔵門外にある、高力左近太夫――それは私の父親、私は伊予守忠弘﹂ ﹁えッ﹂ 何気なくいう忠弘の言葉を聴くと、芳江はサッと顔色を変えました。 ﹁ところで、お前も唯の町人の娘ではないようだ、親は? 兄は? 何んと申す﹂ ﹁それはあの﹂ ﹁そして家は何ど処こだ﹂ ﹁それは申もう上しあげ兼ねますが﹂ ﹁何んという﹂ それは思いも寄らぬ気まずい別れでした。忠弘の身分が、並々ならぬことは、芳江も大方察していたようですが、それが肥前島原四万石の城主、高力左近太夫の跡取で、伊予守忠弘と名乗られると、俄然として態度を変えてしまったのです。 その理由が何んであったか、どんなに訊ねても芳江の口を開ける由よしもなく、強いて問えば、シクシクと泣き出すだけ、その痛々しい涙を見ると、伊予守忠弘も押して責め問う気力も無くなります。 その日の昼過ぎ、漸く心を取直した芳江に送られて、忠弘は半蔵門外の上屋敷に帰りました。 三宅坂まで行ったのは、もう夕暮。 ﹁では、ここでお暇いとまいたします﹂ 高力家上屋敷の門を遠く眺めて、芳江は立ち止りました。 ﹁悪あしゅうは取計らわぬ、屋敷へ参らぬか、私のためには命の恩人のお前を、父上も憎うは思おぼ召しめすまい﹂ 忠弘は未練らしく足を留めます。 ﹁いえ、私はお屋敷の門を潜れる身分ではございません。さらばで御ご座ざいます、――果は敢かない御縁でございました、――でも、芳江のことを、何い時つまでもお忘れ下さいませんように﹂ ﹁何を申すのだ、お前を一人帰してなるものか、一緒に来るがよい﹂ ﹁いえいえ二人はどうせ無い縁でございます﹂ 争う二人、――大名の若君と、町の賤しずか女のと、その不思議な図は、丁度通りかかった高力家の家来達によって掻き乱されてしまいました。 ﹁あ、若殿﹂ ﹁御無事で﹂ バラバラと駆け寄る人々、それを合図のように、芳江の姿は何ど処こともなく町の薄暗がりの中に隠れてしまいました。四
伊予守忠弘は、こうして禁断の果この実みを味わったのです。忠弘には絹きぬ姫ひめという従い兄と妹こ同士の許いい婚なずげがあり、朝夕顔を合わせておりますが、絹姫の絵に描いたような端麗な美しさも、取とり済すましたお行儀のよさも、学問諸芸の並々ならぬたしなみも、最早興味をひく対象ではなく、忠弘はその日から、芳江の情熱と野性と、そして不思議な聡明さに魅了されて、白日の夢を追う痴漢になり切ってしまったのです。 父の左近太夫は中風で生ける屍も同様、やかましやの老臣朝倉忠左衛門は火事の時死んで、高力の江戸屋敷に最も早はや若殿忠弘を押える者はありません。 若殿は無事御帰還の騒ぎが一段落になった三日目、 ﹁命の恩人を捜すのだから﹂ という名義で、忠弘は心ききたる家臣を深川八幡前の家へやって見ました。が、待ちに待ったその復命は、まことにもって予想外だったのです。 ﹁恐れながら申上げます。深川八幡前の、御申付の家に参り、お鳥とりと申す女に逢いました。賃仕事などをして細々とその日その日を送っている後家だと申すことでございます――が﹂ ﹁そんな事はどうでもよい、そのお鳥の家に芳江と申す姪が居る筈だが﹂ ﹁それがおりません﹂ ﹁何んと申す﹂ ﹁お鳥が申しますには、私には姪も甥もございません、五六日前から山の手の知しり合あいの家へ泊り込みで仕事の手伝に行っている留守中、御近所の衆のお話では、若い女と男と二人で入り込み、夫婦気取りで泊っていたと申しますが、別に紛失物も無いので、御届もいたしません、――姪などと、飛とんでもない、私は芳江という名を聴くのも初めてで、――と斯かよ様うに申します﹂ 報告はまことに予想外でしたが、重ねて幾人家来をやって訊ねさしても、返事は同じことです。 そればかりでなく、高力家の捜索があまりうるさくなると、叔母のお鳥もささやかな世帯を畳んで、何ど処こともなく引越してしまい、あとは全く捜しようも無い有様になってしまいました。 高力伊予守忠弘の悩みが、どんなに深刻なものであったか、この人の性格が純なだけに思いやられます。椎茸髱、白おし粉ろい、笹紅の御守殿に取かこまれ、許いい婚なずけの絹姫のたき姿を見ながら、忠弘は悩みに悩みました。 可愛らしい掌てを肉ま刺めだらけにして、火の粉の中を漕ぎ抜けたあの女――継の当った木綿物を着ているくせに、名香の匂いを持った不思議な娘、野蛮な情熱と、聡明さとを兼ね備えた芳江――忠弘はその幻を追って、夜も昼も、うつらうつらと考え続けていたのです。 その時、近臣の一人、岡おか崎ざき十じゅ次うじ郎ろうという者が現われました。放縦で、少し虚無的で、そして才気の鋭いこの男は、早くも若殿忠弘の悩みを察して、芳江兄妹の探索に乗り出してくれたのです。 ﹁若殿、――芳江兄弟が見付かりました、深川の叔母お鳥の引越し先を捜し出し、当人に逢って、脅かしと金で引出したのでございますが――﹂ ﹁どこだ、芳江はどこにいる﹂ 皆まで聴かずに忠弘は乗のり出だします。 ﹁芳江兄弟の隠れ家は突きとめましたが、大変な身分の者でございます。御関係はお家の瑕き理ずともなりましょう、このままお思い止まり遊ばすよう、私からお願いいたします﹂ 虚無的な岡崎十次郎がこんな事をいうのですから、それは余っ程変った素性でなければなりません。 ﹁構わぬ、申せ――断たって申せ﹂ 高力忠弘はもう前後の考えもありませんでした。 ﹁いたし方御座いません、申上げますが――芳江とその兄宗そう次じろ郎うは、非人頭、車くる善まぜ七んしちの配下に御座ります﹂ ﹁えっ﹂ 忠弘が驚いたのも無理はありません。その当時の暴ぼう戻れいな制度や社会通念のために、人別を抜かれて非人の配下になったものが、世間からどんな屈辱的な待遇を受けていたか、恐らく今の人の想像も及ばないところでしょう。 ﹁もっとも以前は身分ある者と聴きました。切支丹とやらの引っ掛りで人別を抜かれ、非人の配下にされたとやらで、袖乞いをするほど暮しに困るわけでもなく、心静かに釣などをして暮している相そうでございます﹂ ﹁――――﹂ ﹁しかし、非人はやはり非人に相違御座いません、御掛り合い遊ばさぬのが上分別と存じます﹂ 岡崎十次郎、一ひと通り世間並の諌いましめはしましたが、そんな生なま温ぬるいことで、諦める忠弘では無かったのです。 添い遂げることの出来ない相手と判ると、その思いは一段でした。遂には、 ﹁その兄の宗次郎とやらを呼べ、直じき々じきに逢って、元の身分に返せるものなら返してやる﹂ 忠弘の乗出しようは尋常で無かったのですが、当時の大名屋敷が、どんな事情があるにしても、いや、いかなる強力な暴君といえども、非人を屋敷に呼よび入いれることなどは思いも寄らなかったのです。万々一そんな事が大公儀の耳へ入ったら、踵をめぐらす遑いとまもなく、家祿を没収されて幾百千人の家臣は路頭に迷うことでしょう。 ﹁それはなりません、非人乞食を御屋敷に呼び入れるなどは以もっての外で﹂ こうなると、多勢の家来の方が強く、まごまごしたら伊予守忠弘、詰め腹を切らされるかもわからない情勢だったのです。五
残る手段はたった一つ、岡崎十次郎を案内に、浅草田たん圃ぼに、宗次郎芳江兄弟の隠れ家を襲う外はありません。 若くて一本調子で、少し破壊的な考えの持主だった、伊予守忠弘は、早速実行に取りかかりました。 浅草田圃の夜、虫の音に取囲まれたような、凄まじくも風流な宗次郎の小屋へ、四万石の大名が芳江を訪れたのは、振袖火事から九ヶ月目、秋も終りのある夜のことです。 兄の宗次郎は、その時唐物の香炉に、銀葉を置いて、秘蔵の名香をたきながら、静かに歌書を繙ひもとき、妹の芳江はその側で、兄の冬物のつくろいなどをしておりました。 ﹁御免﹂ 入って行った二人、――伊予守忠弘とその家来岡崎十次郎の顔を見て、兄妹はさすがに逃げもならず、互いに顔を見合せましたが、思い直した様子でいんぎんに迎えました。 兄の宗次郎というのは、三十前後の総髪、身みな扮りは至って粗末ですが、見るからに智的な人物、岡崎十次郎が主人に代って来意を申入れたのに対して、 ﹁大名の屋敷に非人が立入られないならば、非人の小屋に大名の立入るのも不都合では御座らぬか、お互いに疵きずのつかぬうちに、速すみやかに御立去りを願い度たい﹂ 剣もほろろの挨拶です。が、それに構わず、 ﹁芳江﹂ ﹁――――﹂ ﹁芳江﹂ 忠弘の声に引寄せられたように、芳江はその手の中に飛込んで泣いているのでした。 ﹁お帰りを願いたい、でなければ、伊予守様も非人の仲間になられて、此小屋に入られては如いか何が。――何を隠そうこの黒くろ川かわ宗次郎は、御領地島原の郷士、島原の乱後新領主高力様の苛政に煩わずらわされ、切支丹軍徒を匿かくまった罪とやらで人別を抜かれ、非人頭配下に落された者で御座る。御領主高力様御惣領の伊予守様が、我々仲間に入られれば誠に本望、黒川の祖先もさぞ苦笑いをいたすことで御座ろう﹂ ﹁――――﹂ 若い二人の恋愛情景を横目に、黒川宗次郎の長広舌は続くのです。 ﹁見得も、義理も、付き合いも無い、乞食の暮しの長のど閑かさはこの通り。行きたいところに行き、帰りたい時に帰り、橋の下も堂宮の縁の下もわが家にして、権勢にも富貴にも阿おもねらぬ境遇の気楽さは食祿と家名に縛られて、牢獄の中にいる大名に比べて、どちらが本当の幸せであろう。それで三度の食事と風流には事欠かず、香もたけば歌も詠む﹂ ﹁――――﹂ ﹁仲間の者の義理堅さ、青天井の下に援け合う暮しの晴々しさは、権謀ときっ詐さに浮身をやつす、大名高家とは雲泥の違いで御座るぞ。ここには不義もなく不信もなく奸臣も無く、暴君も無い――﹂ 月影の漏もれる小屋の中、一枚の莚むしろを分けて坐った兄きょ妹うだいは、四万石の大名の倅にこう存分の事をいうのでした。 ﹁よし、私も非人乞食になろう、――十次郎、其その方ほうは屋敷へ帰れ、高力の家は弟の秀ひで長ながに立てさせるのだぞ﹂ 伊予守忠弘は、ひた泣きに泣き濡ぬれる芳江の手を取りながら、敢然としてこういい切るのでした。フィナーレ
﹁此後の事はどうなったか――と仰しゃるのですか、寛文八年高力家は所領没収、左近太夫高長は仙台に、伊予守忠弘は出羽の庄内藩に預けられたというだけで十分でしょう。それは十七年後の貞享二年のことです。――身分の隔へだたりの為に思う男女が添い遂げられないなどは今から考えると馬鹿馬鹿しい話ですが、ツイ此間まで日本という国では華族の結婚にさえ妙な制限があったではありませんか。まして遠い徳川時代、浄瑠璃読本にまでなった、座ざこ光うじ寺げん源ざぶ三ろ郎うが、鳥追いおこよと夫婦になって命までも失ったというのも、決して無理ではありません。――思えば暴虐極まる制度が随分長く続いたものですね。私はこういった旧制度の犠牲者達、命も身分も投なげ出だした恋の戦士達に同情したい心持で一パイです。大名の子が乞食非人を志願したところで、今から考えると何んの変哲もないことですが、二百八十年前の人の心になって見ると、それは十分奇談としての値打があると思います﹂
宇佐美金太郎の話はこう終りました。