花嫁の自動車が衝突した
﹁花嫁の自動車は?﹂ ﹁まだ来ない、どうしたのだろう、急行の発車まで、五分しかないじゃないか﹂ ﹁迎えに行って見ましょうか﹂ 東京駅の待合室に集った人達は次第に募つのる不安に、入口からまっ暗な外を眺めたり、売店や三等待合室を覗いたりしました。 ﹁歩プラ廊ットホームに居るんじゃありませんか﹂ ﹁もう乗り込んだのかも知れませんね﹂ そんな事を言いながら改札口へ行った人達は、急行はたってしまって、狐につままれたように、歩プラ廊ットホームから降りて来る別の一隊と顔を合わせたのでした。 ﹁新婚の夫婦は汽車へは乗りませんよ﹂ ﹁新橋からたったんじゃありませんか﹂ ﹁そんな筈はない。親許の関せき谷やさんや、媒ばい酌しゃくの方もこの駅に見えた位だから﹂ ﹁それにしてはおかしいぜ﹂ こんな評議のまっ最中、乗車口に高級車を乗りつけて、その中から十三、四の可愛らしい少女が疾風のように飛んで来ました。 ﹁あッ、勇ゆ美み子こさん、どうなすったの?﹂ 花嫁の後見人で親許になって居る関谷文三郎夫人が訊きました。 ﹁詩ふみ子こ姉さんが﹂ ﹁詩ふみ子こさんがどうした﹂ 関谷文三郎は人波を掻きわけて来ました。中年者の勤人らしい堅実な男、巨万の富を遺された富める孤児の詩ふみ子こを、四、五年この方自分の娘のように世話をして来た人物です。 ﹁お兄様達の乗った自動車に、円タクが衝突したんです﹂ ﹁えッ﹂ ﹁怪け我がはないですか﹂ 大勢の人が小さい勇美子を取囲んで、質問の雨を浴びせかけました。 ﹁詩ふみ子こお姉様が﹂ 勇美子は漸ようやく息をつぎます。 ﹁それは大変ッ﹂ ﹁大したことはないんです、けれど、運転手は大怪け我がで、助からないかも知れないんですって﹂ ﹁すぐ引返そう﹂ 関谷夫妻と親しい友人達は、すぐ渋谷の春はる藤ふじ家へ車を走らせました。道々、勇美子の説明するのを聴くと、――花婿春藤良一と花嫁の詩ふみ子こを乗せた自動車が、渋谷の春藤家を出ると間もなく、暗い路地の中から、待ち構えて居たように一台のボロ円タクが飛出して、花嫁の詩ふみ子この乗って居る側へ、全速力で叩き付けたのでした。 ﹁詩ふみ子こお姉様は横っ倒しになって、ガラスのかけらを浴びましたが、お兄様が庇かばったので、手と足へほんの少しの傷をうけただけで済みましたワ﹂ ﹁それから﹂ ﹁後から来た車で運転手を病院に運び、詩ふみ子こお姉様はお母様と家へ引返して手当をするんですって、皆さんに宜よろしくって言いましたワ﹂ 思い出したように、勇美子はピョコリとお辞儀をしました。新郎の春藤良一の妹で遅生まれの十四、小学校の最上級に居る学校第一の人気者です。口紅の中に恐しい毒
自動車の衝突はよくあることですが、暗がりから飛出して、花嫁の自動車へ全速力で叩きつけるのは少し念が入り過ぎて居ります。 その上、前ヘッ燈ド・ライトも消したまま、番号礼もあったかなかったか、――多分なかったように思いますが――と言う春藤良一の言葉で、警察も捨てて置けないことになりました。 相手の自動車は、それっきり行ゆく方えを晦くらまし、時が経つと、突き止める手掛りもありません。あれだけの衝突をしたのですから、自分の車も大分破損して居るには相違ありませんが、早くも車庫へ入れたものと見えて、気の付いた時はもう、影も形もなかったのです。 花嫁の詩ふみ子こは清純そのもののように育った娘で、なんの後暗いことも、人に怨まれる覚えもありませんが、誰かこの結婚に不服なものがあって、詩ふみ子こを殺そうとしたのではあるまいか――、警察はごく常識的に、そう考えたのも無理のないことでした。詩ふみ子こはそう思われても不思議のないほど、美しくあり、富んでも居たのでした。 怪け我がは大したことはありませんが、それでも、旅先で間違があってはならぬと言う母親の心遣から、新婚旅行はそのまま中止になりました。 翌あく朝るあさ、 ﹁勇美子さん、其そっ方ちへ行ってはいけません﹂ 花嫁の化粧室へ入ろうとする勇美子は、母親に見付かって、そのはしたなさを叱られてしまいました。 ﹁だって﹂ ﹁何がだってです﹂ ﹁詩ふみ子こお姉様がいいって仰おっしゃるんですもの。それに、お化粧も学問だってお母様が仰おっしゃったことがあるでしょう﹂ ﹁まア、この子は﹂ 母親も二の句がつげませんでした。 その間に、化粧室に舞込んだ勇美子は、後から、前から、横から、言いようもなく美しい詩ふみ子こを眺めながら、コッティの白おし粉ろいを取ってやったり、クリームを取ってやったり、そっと髪を撫で付けてやったり、ハチ切れそうな好奇心で、お嫁に来る前からよく知って居る詩ふみ子このお化粧の世話を焼いて居りました。 ﹁あら、その紅はどうかして居るんじゃないの?﹂ と勇美子は、鏡の前の棒紅を取上げて、唇へ持って行こうとする詩ふみ子この手をとめました。 ﹁旅行しないことになったから、ボストン鞄ケースの中から肉色のを出したの、――あんまり紅いのは変でしょう﹂ 詩ふみ子こはまだなんにも覚りません。 ﹁その紅のまん中に穴があいて、小さい小さい水っ玉が付いてるでしょう、一ちょ寸っと﹂ 勇美子は手に受取ってその棒紅の頭に沁み出した水っ玉を嗅ぎました。 ﹁これは大変よ、お姉様、――私にはよく解らないけれど、化学の実験で嗅いだ○酸の匂がするワ。もしそうだったら、この紅を使った人は死ぬかも知れないワ﹂ ﹁まア﹂ ﹁ちょっと待ってね﹂ 勇美子は棒紅を持って飛出してしまいました。疑は求婚者の氏家青年へ
衛生試験所で検しらべさせると、詩ふみ子こが使いかけた棒紅の中には、犯罪史上にも珍しい詭計が仕掛けてあったのでした。 くわしく書くわけには行きませんが、とに角、棒紅のまん中に縫針で突いたらしい小さい穴が縦に開いて、その穴の中には、人間が三十人も死ぬほどの猛毒が仕込んであったのでした。 穴の上部は紅の屑で塞いでありますから、なんにも知らずに旅へ出かけたとしたら、三日目頃薬液が働きかけて、花嫁は旅先で死んでしまったことでしょう。 ﹁勇美子さん有難うよ。お蔭で命が助かりました﹂ 詩ふみ子こはそう言って、勇美子の手を取りました。日頃から落付いた詩ふみ子こですが、こう聴いた時は、さすがにまっ青になってしまいました。自動車の衝突は偶然ということがありますが、口紅の中に猛毒を仕込むのは、どう考えても偶然や洒しゃ落れではありません。 すぐ警察へ――と思いましたが、新婚早々それはあまりに人騒がせなので、勇美子の口を封じて、そのまま黙ってしまいました。 併しかし事件はそれだけでは済まなかったのです。先夜新郎新婦を乗せた自動車の運転手は、負傷がもとで死んでしまったのと、口紅に毒薬を仕込んであったことが、衛生試験所の方から知れた為に、警視庁と所轄警察署が大活動を開始し、その日のうちに、一人の青年を容疑者として挙げてしまったのでした。 それは、氏うじ家いえ竜太郎という若い技師で、詩ふみ子こに何べんも何べんも求婚しましたが、詩ふみ子こには春藤良一という許いい嫁なずけがあった為に、その都つ度ど断られ、詩ふみ子こがいよいよ結婚することになってからは、内地に見切をつけて、満洲へでも行って、一生を托する大事業でも見付けようか――と言って居た青年だったのです。 何より悪い事に、詩ふみ子こが怪我をした晩、十時から十一時まで何ど処こに居たか、どうしても言わなかったのと、右手の甲に、ガラスの破片かなんかで怪け我がをしたらしい、大きな傷があったことでした。あれだけの衝突をさせたのですから、叩き付けた方の自動車も窓ガラス位は割れたでしょうし、ハンドルを持った竜太郎が、手の甲へ怪け我がをしたのは、誰が考えても、あまりに当然のことです。 これだけなら言いのがれる方法もあったでしょうが、毒薬入の口紅は、竜太郎の姉の昌子がお祝に詩ふみ子こへ送った華麗な化粧函の組セッ合トの一つで、姉の部屋にあるうちに竜太郎には細工をする隙もあったわけですし、それに竜太郎は仕事の関係上、工業薬品として、その毒薬を始終使って居たことが解ったのですから、疑はやがて一番確かな事実のようにさえなって来るのでした。 ﹁氏家君は決してそんな人ではない﹂ 詩ふみ子この良おっ人との春藤良一は、一番先にそう言い出しました。 ﹁そうだ、竜太郎君はそんな卑ひき怯ょうな男ではない。これには恐しい間違がありそうだ﹂ 友人達もそう言い出して、いろいろ奔走して見ましたが、証拠があり過ぎて、手の付けようがありません。 春藤良一の父は有名な大百貸店の支配人でしたが、二、三年前に亡くなって、その遺子の良一は、若い勤サラ人リーマンとして、その百貨店に勤めて居たのです。そんな関係で、今は微力な一青年ですが、名家の子として世間にも知られ、何十年来関係して来た、老実な顧問弁護士もあり、 ﹁是ぜ非ひ氏家君を助けてやりたい﹂ そう男らしく決心をすると、一生懸命氏家竜太郎が潔白だという反証を挙げることに熱中しました。竜太郎の妹と探偵をするつもり
﹁陽子さん﹂ ﹁あらッ、勇美子さん﹂ 二人は飛付いて手を取り合いました。陽子というのは、今未決に繋がれて居る氏家竜太郎の妹で、勇美子より一つ年下の十三、学校は違いますが﹇#﹁違いますが﹂は底本では﹁達いますが﹂﹈、家と家との関係でよく知って居る上、この四月からは、同じ女学校へ入る約束で、お互に励まし合いながら勉強をして居る間柄だったのです。 ﹁陽子さん、本当にお気の毒ねえ﹂ ﹁有難う、勇美子さん、貴あな女たのお兄様が、うちの兄さんがそんな事をする筈はないと仰おっしゃって、いろいろ骨を折って下さるんで、母や姉がどんなに喜んで居るでしょう﹂ 陽子はもう泣いて居りました。有望な青年技師と言われて、若いながら特許権だけでも六つも七つも持って居る兄の竜太郎が、人殺の嫌疑で未決に繋がれて居るのですから、身内の者の心配は一通ではありません。 ﹁陽子さん、顔色が悪いワ。お兄様の疑はきっとはれるに決って居るから、あまり心配なさらない方がいいワ﹂ ﹁でもね、私よりお母様が、――近頃は毎日泣いてばかりいらっしゃるし、――この二、三日はなんにも食べずに寝たっきりなの、年をとって居るから、お兄様より此こち方らが心配だって先生も仰おっしゃるのよ﹂ ﹁そう――﹂ ﹁勇美子さん、自動車を衝突さして運転手を殺したり、口紅に毒を入れて詩ふみ子こ姉様を殺そうとしたのは、本当に誰でしょう﹂ 二人は神宮外苑の中を、春の光を浴びて歩いて居りました。どちらも軽い洋装ですが、勇美子はクリーム色のジャケツ、陽子は白のセーラー、ロング・カットが和やわらかい風に靡なびいて、知らない者が見たら、少おと女めの幸福に酔った散歩姿とも見るでしょう。 ﹁私、探偵をして見ましょうか?﹂ ﹁…………﹂ ﹁きっと、きっと、なんか解ると思うワ﹂ ﹁勇美子さんが?﹂ 陽子は眼を見張りました。あまりこのもくろみが突拍子もなかったのです。併し、勇美子はたった十四ですが、抜群のよい頭を持った少女で、どんなむずかしい考物や謎でも、三十分も経たないうちに解くし、ことに算術が得意で、こればかりは高等師範出の、学校で自慢の数学の先生も驚いて居るという話を思い出して、勇美子さんなら、探偵が出来るかも知れないという心持になるのでした。 ﹁黙っててネ、陽子さん、笑われるとつまらないから、――私は、自分で調べたことを石井さんにお話して、いろいろ骨を折って頂くわ﹂ 石井三太郎というのは、春藤家の顧問弁護士の名です。 ﹁勇美子さんならキットよい考が浮かぶワ。先まずどんな事をするの?﹂ 二人は噴泉の前の石垣にもたれて、数学の宿題を考えるように首を寄せました。勇美子の探偵はこんな工合に
勇美子と陽子は、それから毎日、学校の放課後外苑に落合って、渋谷の春藤家の門の前から、自動車の衝突した路地のあたり、それから東京駅までの間を、何べんも何べんも往復しました。 ﹁お兄様、自動車は正面衝突したんでしょう。あれだけ此こち方らの車を滅茶滅茶に壊して、向うの車は平気で逃げて行ったんですから、なんか特別な車ではなかったでしょうか、丈夫なトラックとか、競走用自動車とか――﹂ 勇美子は兄の良一にそんな事を訊いたりしました。 ﹁トラックなんかじゃない――が、競走用の自動車だったかも知れないな﹂ ﹁前ヘッ燈ド・ライトは点ついてなくても、此こち方らの灯が映って光るでしょう﹂ ﹁それが不思議なんだ。あっという間もなかったから、はっきりわからないが、前ヘッ燈ド・ライトなんかのない、のっぺら棒な車だったような気がするんだ﹂ ﹁おかしいわねえ﹂ 勇美子はこんな事を言い残して、今度は新婦の詩ふみ子この部屋へやって行きました。 ﹁お姉様、あの化粧函を竜太郎さんの姉さんが持って来て下すったのは何い時つ頃?﹂ ﹁そうね、式の一週間も前だったでしょうか﹂ 勇美子の問が滑らかだったので、詩ふみ子こもツイ心安く答えてしまいます。縮らせない毛の好みも素直で、心持ばかりの化粧も匂いそうな、高雅な美しさです。 ﹁その一週間の間、化粧函を何ど処こへ置いてらしったの?﹂ ﹁私のお部屋、――沢たく山さんのお祝物と一緒にして置いたワ﹂ ﹁お姉様はその間に開けて御覧になった?﹂ ﹁いいえ﹂ ﹁すると、棒紅だけそっと取って、二、三日してから函へ返しても判らないわねえ﹂ ﹁そうね、だけど﹂ ﹁関谷さんには疑われる人なんかないって仰おっしゃるんでしょう﹂ ﹁え﹂ 詩ふみ子こはうなずきました。詩ふみ子こには大きい財産があったにしても、戸主の兄が洋行中は、遠縁の関谷夫婦が後見をして、長い間なんの間違も起さなかったし、もし、詩ふみ子こを殺して財産を手に入れようとするなら、結婚式を挙げる前に、いくらも機会があったわけですから、これはどう考えても疑う余地はありません。 勇美子は、その足ですぐ陽子を誘って、神かん田だに事務所を持って居る顧問弁護士の石井三太郎を訪ねました。 ﹁おや、春藤さんのお嬢さん、これは一体どうした事です﹂ 半白の石井弁護士は回転椅い子すをグルリと廻して、この不思議な客を迎えました。 ﹁この方は陽子さん、氏家さんのお妹さんなんです。――氏家さんのお兄さんが、自動車を打ぶっ付けたのでもなく、毒薬を棒紅に入れたのでもないと判ったら、すぐ許して頂けるでしょうね﹂ ﹁それは言うまでもないことですよ、お嬢さん、が、その反証が容易に挙がらない。氏家さんは、あの晩十時から十一時まで何ど処こに居たかさえ言わない位ですから――﹂ 石井弁護士は、おさらいをすねた小学生をなだめるような調子でこう言いました、――先ず先ず余計な苦労はよせと言った口調です。 ﹁それがみんな判ったんです。今までみんなが氏家さんを悪者に決めてかかったからいけなかったんです﹂ ﹁え、それは大した事だ﹂ 石井三太郎弁護士は、口ではこう言いますが、まだ本当にする様子はありません。驚くべき明察――少女は疑を解く
﹁ね、石井の小お父じ様、警察ではあの晩使った競走用自動車を探しても判らなかったそうですね。競走自動車だって、前ヘッ燈ド・ライトのない車はないでしょう。お兄様の見た車は前ヘッ燈ド・ライトのないノッペラ棒な車だったんですって﹂ ﹁フーム﹂ 一本突っ込まれた形で、石井老弁護士は唸りました。 ﹁あれは、普通の自動車の先へ、鉄の三角な板かなんかで装甲したのじゃないでしょうか、衝突さして逃げる時、その鉄の板を隠せば、誰だって気が付きはしません、あの辺は十時過は滅多に人の通らないところだし﹂ ﹁お嬢さん、大変な事を言いますね﹂ ﹁それから、私達はあの近所を一軒一軒訊いて歩いて、丁度衝突のあった少し前に、不思議な自動車がエンジンの音をさせながら、なんか待って居るのを見た人があるんです﹂ ﹁えッ、――それは初耳だ。がそれだけでは、氏家さんを助けられませんよ﹂ ﹁氏家さんは潔癖な方で、自動車を運転する時、素手でハンドルを握るような事はしないんですって。手袋をして居れば、前の窓ガラスが壊れても、手の甲へあんな傷は受けませんね﹂ ﹁フーム﹂ 勇美子の推理は、いよいよ馬鹿に出来なくなりました。 ﹁それから、あの晩十時から十一時の間、氏家さんが東京駅のプラットホームに居るのを見た人があるんです﹂ ﹁何? それは本当ですか。じゃ、なぜ氏家さんはそれを黙ってたんでしょう﹂ と石井弁護士、 ﹁きまりが悪かったんですワ。始は氏家さんも、詩ふみ子こお姉様の新婚旅行を送るつもりで東京駅へ来たんでしょうが、いろいろわけがあって、人に顔を見られたくなかったんでしょう――昌子お姉様が︵弟はあの晩東京駅へ行って居たかも知れない。人に隠れて、そっと詩ふみ子こさんを見送るつもりだったかも知れない︶って仰おっしゃるんです。だから私達はすぐ東京駅へ行って、その晩プラットホームに居た駅夫さんを探し出して聞いたんです﹂ ﹁昌子さんもそれを見たのですか﹂ ﹁いえ、停車場に氏家さんの居るのを見たのは、東京駅の駅夫さんですワ。ずっと離れた降車口の階段の方に、衿巻で顔を隠して一時間も立って居た人があった。――って言うんです。あまり不思議だから、駅夫が顔も様子もよく見て置いたってんですって﹂ ﹁それが氏家さんに間違はないでしょうね﹂ ﹁駱らく駝だの黒い帽子、ロイド眼鏡、――それだけならよくあるでしょうが、赤帽の荷物と衝突して、手の甲を怪け我がなすったのを、駅夫は見て居たんですって、赤帽には過あやまちがなかったので、その顔を隠した人は、手ハン巾ケチで傷を結えながら、あべこべに赤帽にあやまって――その間も、神戸行の急行に目を離さなかったんですって﹂ 勇美子は実によく調べました。石井弁護士もこの二人の少女の熱心と頭のよさに舌を巻きましたが、 ﹁棒紅の毒薬は?﹂ 最後の大きい疑に行きつまってしまいました。 ﹁詩ふみ子こお姉様の針箱の中に、一糎センチばかり口紅の付いた針が一本入って居たんです﹂ ﹁…………﹂ ﹁お姉様も知らないそうです。第一近頃忙しくて針を取る暇もなかったんですって――﹂ ﹁…………﹂ ﹁多分、針で棒紅へ穴をあけて、注射針で毒薬を入れたんでしょう。その時人に見られそうになるかなんかして、注射針は隠したが、縫針は隠せなかったんでしょう﹂ ﹁すると――?﹂ 石井老弁護士はこの少女の智恵に圧倒されて唸りました。 ﹁悪者は、詩ふみ子こお姉様の側に居たんです。氏家さんなんかじゃありません。第一その棒紅でお姉様が死んだら、一番先に氏家さんが疑われるじゃありませんか﹂ 恐しい明智、もう疑の片影も留めません。 ﹁判りました、お嬢さん、早速行って来ましょう。多分貴あな方たのお兄様は助かりますよ﹂ 石井弁護士がそう言って振り返ると、白い水兵服の陽子は、もう顔も挙げられないほど泣き濡れて居りました。窓の外から詩子は撃たれた
氏家竜太郎はすぐ許されました。これだけ反証が挙がると一日も未決にとめて置くわけに行かなかったのです。 が、それまで鳴を鎮めて居た曲くせ者ものは、氏家竜太郎が自由の身になると同時に、又恐しい手を延べて、詩ふみ子この身辺に迫りました。 或日電灯会社から、﹁漏電があるかどうかを検しらべますから﹂ と言って来た男が、部屋部屋の電灯を見廻って行きましたが、その晩、寝室へ入るつもりで応接間の飾シャ電ンデ灯リアの紐を引いた詩ふみ子こは、 ﹁あッ﹂ 悲鳴をあげて飛とび退のきました。 頭の上の大電灯の笠――摺すり硝ガラ子スに切子細工の飾を付けた、何瓩キログラムとも知れぬのが、恐しい勢で頭の上へ落ちて来たのでした。 咄とっ嗟さの間に身をかわして、大した怪け我がもなくて済みましたが、まっすぐに頭の上に落ちたら、詩ふみ子こはどんな事になったかも解らなかったのです。 後で調べて見ると、大電灯の笠をとめた螺らせ旋んを抜いて、細い針金で細工をして、電灯の紐を下から﹁消オッフ﹂の方へ引くと同時に、落ちて来る仕掛になって居たのでした。 応接間や書斎の灯は詩ふみ子こが消すことになって居る事まで知り抜いた者の仕しわ業ざでしょう。 この事件も一応警察に報告して置きましたが、偽電灯屋の正体が解らないので、犯人の見当は少しもつきません。 そのうち主人の良一は会社の用事で大阪まで出張することになりました。 ﹁こんな物騒な時だから、会社の方へよく話して、代かわりの者を行って貰おうかしら﹂と言いましたが、 ﹁大丈夫よ、お兄様、私が引受けますから﹂勇美子はなんか自信があるらしい事を言ってニコニコして居ります。 ﹁それでは女探偵に頼むとするか、大阪の用事は二日で済むから﹂ 氏家竜太郎を救った手際を知って居るので、兄の良一も安心して大阪に出かけました。 その晩。 春藤家の庭に二人の曲くせ者ものが忍び込んで居りました。木蔭を拾って、詩ふみ子この居間の方へ行きながら、 ﹁おや、誂あつ向らいむきですぜ。窓際で、向う向いたまま編物をして居る――﹂ ﹁シ――ッ﹂ 二人の曲くせ者ものは窓から五・六米メートルのところまで忍び寄りました。 窓は締めたままですが、硝ガラ子スの内には美しい灯あかりが漲って、窓際の椅子に凭もたれた詩ふみ子この半身が、後向にはっきり浮いて居ります。何い時つもの簡素な束髪、美しく透き徹るような襟足と、温かい頬を少し見せて、お召めしの袷あわせらしい着物の柄まで手に取るようです。 ﹁首か、胴か﹂ ﹁心臓を狙うのだ、――外してはならぬぞ﹂ ﹁大丈夫、拳ピス銃トルは名誉の腕前だ﹂ 一人は拳を挙げました。ピカリと光る小型の拳ピス銃トル、詩ふみ子こはなんにも知らずに、大阪へ行った良おっ人との事などを考えて居るのでしょう。編物の手も暫くは動きません。 ﹁それッ﹂ ドーンと押し潰されたような、が低い音、多分消音装置がしてあるのでしょう。 同時に、恐しい音がして窓硝ガラ子スが割れると、詩ふみ子この身から体だは少し動いたようです。二人の曲くせ者ものはそれを見定める間もなく逃げてしまいました。閃光と同時に短刀は胸へ
不思議なことに、春藤家はなんの騒も起しません。翌あく朝るあさの新聞には、詩ふみ子こが撃たれたとも、怪け我がをしたともなく、更に驚いたことに、昨ゆう夜べ確かに射たれた筈の詩ふみ子こは、朝から機嫌よく勇美子と話したり、時々は庭へ出て来て、早咲の桜の莟つぼみを眺たりして居るではありませんか。 ﹁悪いた戯ずらっ子が窓ガラスを壊したのね。昼のうちに修繕させて下さい﹂ 勇美子がそんな事を書生に言い付けて居るのまで聞えます。昨ゆう夜べ忍び込んだ曲くせ者ものが、この様子を見て居るとしたら、どんなに仰天したことでしょう。 翌あく日るひの晩、 二人の曲くせ者ものはまた庭の中に忍び込んで居りました。 ﹁昨ゆう夜べの手際はどうした。窓硝ガラ子スは町の悪いた戯ずらっ子が石投で割ったと思ってるからいいようなものの、そうでもなきゃア今晩は来られやしない。名誉の腕前も当てにならないぜ﹂ ﹁それが不思議なんで、あれで心臓を撃ち貫ぬかないとなると、防弾チョッキかな﹂ ﹁若い女がそんなものを着るか﹂ ﹁窓硝ガラ子スに当って弾が外れたんだろうよ親分﹂ ﹁そうかなア、何しろ、今晩はお前に任せちゃ置けない。見張を頼むぜ﹂ ﹁親分がやんなさるのかい﹂ ﹁当り前よ﹂ 背の高い方の男は、建物の裏へ廻ると、窓枠に手をかけて、深い窓へソッと半身を覗かせました。今晩は居間の硝ガラ子ス越に撃つようなことをせずに、いきなり詩ふみ子この寝室を襲撃したのでしょう。大きい男はしきりに窓へ細工をして居りましたが、やがて盲ブラ扉インドを開けて、硝ガラ子ス扉どを開けると、なんの躊躇もなく部屋の中へ飛込みます。 中には寝室用の蛍光電灯が一つ点いて、なんとなく神秘な空気を漂わして居りますが、寝台の上の詩ふみ子こは、物音に目を覚す様子もなく、神々しいほど美しい片面を見せて、向うを向いたまま、スヤスヤと睡ねむって居ります。曲くせ者ものは二、三歩進みました。寝台の下の美しい絨じゅ毯うたんを踏んで、用意した短刀を振り冠ると、目の前でキラリと光ったものがあります。 ﹁あッ﹂ 驚くと同時に打ち下した短刀、寝台の上の詩ふみ子この胸に、柄つかも徹とおれと刺して居たのです。命がけの詭計――人形が可哀相
翌あく日るひ早朝、詩ふみ子この後見人関谷文三郎は寝巻のまま、自宅で捕縛されました。
自動車を衝突さしたのも、口紅に毒薬を入れたのも、飾シャ電ンデ灯リアに細工をしたのも、詩ふみ子こを撃ったり刺したりしたのも、悉ことごとく関谷文三郎とその子分の仕業だったのです。
関谷文三郎は元支那あたりまで押廻したゴロツキでしたが、詩ふみ子この兄が外国へ行くと、正直そうな顔をして日本へ帰り、巧みに親類方に取入って詩ふみ子この後見人になり、その夥おびただしい財産を片っ端から自分のものにしてたり、滅茶滅茶に費つかったりして居たのです。
詩ふみ子こが自分と一緒に居るうちは、殺すとすぐ疑をかけられますから、わざと結婚を急がせて春藤家へやった上、世間の習慣で、結婚の挙式と、法律上の入籍手続の間に、半年なり三月なりの余裕のあるのを見込んで、籍を入れる前に、なるべく春藤家で殺し、その疑を夫の良一か、求婚者だった氏家竜太郎に向くように細工をしたのでした。言う迄までもなく入籍する前に詩ふみ子こが死ねば、その財産は後見人の関谷の自由になったのです。
併し自動車の前を包んで衝突させた鉄の被おお覆いは、子分の捕縛と共にその家で見付かりましたが、その他の事はなんとしても白状しません。散々手て古こ摺ずらせた揚句、
﹁これはどうだ。これでも、覚えはないと言うか﹂
取調に当った警部に、一枚の写真を突き付けられると、関谷文三郎タラタラと冷汗を流しながら、
﹁恐れ入りました。私が悪う御座いました﹂
と一遍に白状してしまいました。写真というのは、関谷文三郎が短刀を振り上げて、寝ベッ室ドの上の女を刺そうとして居るところが映って居るのでした。帽子を目深に冠って外套の襟を立てて居りますが、首が延びたところを下から映したので、誰が見ても、たった一目で関谷文三郎ということが判ります。
その時丁度春藤家では、主人の良一が大阪から帰って来て、静かに事件の顛てん末まつを聴いて居りました。
﹁だから私、どうせ詩ふみ子こお姉様が狙われるのなら、悪者を引寄せて、その正体を見破ろうと思ったの﹂
と勇美子が説明役です。
﹁乱暴だね、勇美子は﹂
妹の大胆な計画に良一は、すっかり舌を巻いてしまいました。
﹁だって、そうするより外に工夫がなかったんですもの、――で、二、三年前お父様がお店から払い下げて来て下すった、マネキン人形があったでしょう、――ホラ、博覧会で大変評判になった、蝋ろう人形よ﹂
﹁フム﹂
﹁あれにお姉様の着物を着せて窓際へ置いてやったの。すると本当の人間と聞違えて外から拳ピス銃トルを撃ったんですもの﹂
﹁危いネ﹂
﹁それから、翌あく日るひはわざと詩ふみ子こお姉様に庭などへ出て頂いて、相手を散々惑わせた上、その晩は人形を寝室へ寝かして、お姉様は私のお部屋へ泊ったの﹂
﹁…………﹂
﹁すると、悪者はやって来て人形を刺したんです。絨毯の下にスイッチを隠して、それを踏むと、電球式の閃光器が点ついて、写真のシャッターが開くように仕掛けてあったんです。その仕掛を拵こしらえるのにお姉様も手伝って下すったワ﹂
﹁どうも驚いたね﹂良一もこの小さい妹の智恵と働きには、二の句がつげません。
﹁でも、可哀相よ、人形が胸を撃たれたり刺されたりしたんですもの。今日は陽子さんや、陽子さんのお兄様もお呼びして、みんなで祝賀会を開きましょう。ね、いいしょう﹇#﹁いいしょう﹂はママ﹈﹂
﹁…………﹂
良一と詩ふみ子こは顔見合わせて幸福そうにニッコリしました。
その日の午後の春藤家の賑やかだった事。