明治二十五年頃から、十年位の間、日本にも一としきり探偵小説の氾はん濫らん時代があった。それは朝ちょ野うや新聞から、後の万まん朝ちょ報うほうに立て籠こもった、黒岩涙るい香こうの翻訳探偵又は伝奇小説の、恐るべき流行に対する、出版者達の対抗運動で、当時硯けん友ゆう社しゃの根城のようになっていた、春陽堂あたりでさえも文芸物出版社としての誇りをかなぐり捨て、あられ小こも紋ん風の表紙、菊判百頁前後の探偵小説十数冊を出版し、後に文庫版の探偵文庫に代えたことは老人方は記憶しておられることだろう。 このうち前者の探偵小説には、硯友社の知名作家が筆を執とっており、現に泉鏡花や江見水蔭などが加わったばかりでなく、オン大の尾崎紅葉までが、匿名でこの叢そう書しょを書くとか、書く予定だとか伝えられたものである。 黒岩涙香は扶ふそ桑うど堂う一手に出版したのは、やや後のことで、初期のものは、出版社もいろいろ変ったようである。丸まる亭てい素そじ人んの翻訳探偵小説は裏表紙に渦巻模様のある今古堂から出ており、江戸川乱歩氏かの説によると、大阪の駸しん々しん堂どうなどは、無名又は匿名作家の探偵小説を、五十冊位も出しているだろうということである。 その頃の探偵小説は、いわゆるコナン・ドイル以前の偶然型、押しつけ型で、大した面白いものではないが、その時分、少年時代を過ごした私などは、一面幼稚なる文学少年であったにも拘わらず、探偵小説のもつ、スリルとサスペンスに惹ひかれて、お小遣を溜ためては、根気よく赤本の探偵小説を読んだことである。 その一面に私は、硯友社の作品のもろもろ、例えば尾崎紅葉の﹃不言不語﹄とか広津柳りゅ浪うろうの﹃河内屋﹄とか、幸田露伴の﹃五重塔﹄に夢中になり、﹃水滸伝﹄や﹃南総里見八犬伝﹄に寝食を忘れたのは、なんという浮気な文学少年であったことであろう。 やや長じて私は、正岡子規の俳句運動に傾倒して、下手な俳句を捻ひねったり、与よさ謝のて野っ鉄か幹んの新詩社運動に呼応する積りで、石川啄木らと共に、幾つかの歌を作ったこともあったはずである。でも私は散文的で濫らん読どく家で、詩にも歌にも俳句にも没頭し切れず全身的な注意と情熱で小説へ還って行ったのは已やむを得ないことであった。 一方では矢張り、探偵小説への情熱が醒さめ切れず、泉鏡花の﹃活いき人にん形ぎょう﹄から、江見水蔭の﹇#﹁江見水蔭の﹂は底本では﹁江美水蔭の﹂﹈﹃女の顔切り﹄、小栗風葉の﹃黒装束﹄と、文芸作品の中から、探偵的なものに興味を引かれて行ったのはまことに前世の約束的因果事である。 一高の入学試験を受けるとき、私は四月から七月上旬まで三ヶ月半の徹夜をした。全く眠くないわけではない、帯も解かずに机に齧かじり付いて一と晩を過ごし、ウツラウツラとしてまた勉強を始めるのである。なまけ者の私にとっては、全く一生に一度の大勉強であった。そのためすっかり痩せてしまって、晩年の尾崎紅葉みたいな顔になったと、友達に冷やかされたが、ともかくも当時秀才の登とう竜りゅ門うもんだった一高の入学が叶って、首しゅ尾びよく一高の健けん児じになりすまし、あらゆる文芸運動から遠ざかって、もっぱら向こう陵りょうの健児ということで、野次馬学に精進した。 その頃、絶えず私の興味を囚とらえたのは、泉鏡花の小説であったといってよい。当時私の同窓だった芦田均などは、今でも私を鏡花の崇拝者だと思っているらしい。ところが明治の末頃から、私は鏡花の因縁物と、一種のお義理と、不思議な文章とに興味を失い、鏡花の影響から免まぬかれるために、少なくとも十年は苦心した。 一時文芸に遠ざかったために、私はその頃天下を風ふう靡びした自然主義文学の影響から超然とすることが出来た。これは私にとっては幸せであったかも知れない。当時はリズムやメロデーのある文章が嫌われ、文章は所いわ謂ゆる下手に見えるのを以もって良しとした時代で、自然主義の洗礼は、あらゆる文芸は勿論、科学や法律や、哲学や、すべてのものに必要であったにも拘わらず、一方その害毒もまた重大であったことを考えて、私の三年あるいは五年のブランクは、必ずしも不幸ではなかったと考えているのである。 一高にいる頃、英語の教科書に﹁シャーロック・ホームズ﹂を採用して貰ったが、その発言者は私であったらしい。もっとも仙台の二高や早稲田ではその前から﹁シャーロック・ホームズ﹂が採用されており、当時はホームズの翻訳も、ボツボツ日本で見られた時代で、英語の先生を説き伏せたところで、大した手柄ではない。 大学から新聞社へ、私の生活は忙しかった。大正の初年は小説を読む暇も、芝居を見るヒマもなかったといってよく、それほど私は、精せい励れい恪かく勤きんな社員だったのである。遥か後年、たしか昭和の中頃のように思うが、久し振りで歌舞伎座へ行き、その運動場で多勢の知人に逢った時、﹁私は十五年目で歌舞伎座へ来た﹂と言っても、誰も本当にしなかった程である。新聞の政治部記者、社会部長、学芸部長、編集局顧問と働き続けた私は、好きな芝居を見るヒマもない程忙しかったのである。明治四十五年新聞社に入るとき﹁劇評も書ける﹂という振れ込みであったことを考えると、なんという違った社会へ飛込んだことであろう。その頃私は矢張り総理大臣になる野心に燃えていたのかも知れない。 その間にも私はコナン・ドイルと、モーリス・ルブランへの興味を失ったわけではない。当時の東京毎日新聞にいた三津木春しゅ影んえいは、姉妹新聞の報知にいた私と一脈の関係にあり、その作物には常に注目を怠おこたらなかったが、そのモーリス・ルブランの翻訳﹃奇巌城﹄や﹃八一三の秘密﹄がどんなに当時の私を喜ばせたかわからない。明快な文章や、歯切れの良い調子が、私を夢中にしたといってもよい。 私はそれから及ぶ限りルブランの英訳本を仕入れた。私はフランス語の出身ではあるが、長い間の怠慢で、フランス語は揮発してしまって、も早読む根こん気きはなく、手っ取り早く英語のルブランを集めたのであるが、新聞紙法違反で入獄する友人のために、その全部を寄贈してしまって、その後どうなったかわからない。そして、私のルブラン熱も次第にさめていった。コナン・ドイルは幾度でも読めるが、モーリス・ルブランは派手ではあるが幾度も読む根気はない。ドイルとルブランの違いは判はっ然きりしている。 それと並行して、当時の読書界の流行は、私までもロシア文芸の惑わく溺できに引き摺り込んでしまった。特にツルゲネーフと、ドストイェフスキーは私を夢中にさせ、ゴルキーやチェホフまで乗り出したが、トルストイはどうにも食い付けず、﹃アンナ・カレニナ﹄や﹃クロイツェル・ソナタ﹄で降参して、﹃戦争と平和﹄は眺めるだけで四十年過ぎてしまった。フランスのものは、学校でフランス語をやった関係で非常に親しさを持っていたが、翻訳のあるものは、大抵翻訳でゴマ化し﹃ベラミー﹄などはその頃の当局がやかましくて翻訳がなかったから、原本の弁べん慶けい読よみを始めたが、それもおしまいまでは続かなかった。 その頃私はもう激しい新聞記者の生活をしていたので、文芸に没頭する暇もなく、私の興味はまた元の探偵小説に還っていった。が、その頃の日本の探偵小説は、まだ貧弱で話にならず、ひどく歯はが痒ゆがっていると、大正六年一月から、博文館の文芸倶楽部が、岡本綺堂の﹁半七捕物帳﹂の短篇連続を始めたのである。最初の一篇はなんであったか、私の記憶は覚おぼ束つかないが、岡本経一氏の﹃綺堂年代記﹄によれば、第一篇は﹁お文の魂﹂で、第二篇は﹁石燈籠﹂であったということである。それから断続して、昭和十一年十一月の講談クラブまで、実に二十年間、六十八篇に及んだことは、なんという大きな収穫であったことだろう。量においても、質においても、まさにコナン・ドイルの﹁シャーロック・ホームズ﹂に匹敵する東西の二大探偵小説集というべきである。 岡本綺堂の﹁半七捕物帳﹂は、綺堂先生が風邪かなんかで臥ふせっていた時、退屈のあまり、﹃江戸名所図ず会え﹄を繙ひもといていて、フトこれを舞台に、江戸末期の風物詩的な捕物を書いて見ようと思い付いたということである。﹁半七捕物帳﹂の出発が明らかになると、あの全篇に沁み出る、江戸情緒の面白さの由来も呑込めるような気がしてならない。 続いて佐々木味津三の﹁右門捕物帖﹂が現われたことは、大方も知られるところであろう。右門と半七は対照的な捕物帖の二つの型であるが、それに刺しげ戟きされて、大正の末期から昭和の初年にかけて、いろいろの捕物帖が、いろいろの人によって描き出された。松居松翁は仙台を舞台にして明治物の捕物を、牧逸馬の林不忘は釘抜藤吉を、続いて栗島狭さご衣ろも、森暁紅と文壇的に老人達までが捕物帖を書き出したのは、まさに捕物帖流行前期の姿であったといってよい。白井喬二が捕物帖を書いたのは、それと前後し、あるいはそれよりやや早かったかも知れない。﹃桐十郎船ふね思しあ案ん﹄﹃怪建築十二段返し﹄など、私は今でも記憶している。筋立てが怪奇で、話術が特色的で、空想の飛躍の途方もなさは、これは人を驚かすに足るもので、私は白井喬二のこの頃の良さに敬服している。もっとも構成の合理性やトリックを論ずるものではなく、コナン・ドイル以後の探偵小説を標準にすると、これは神話に近い存在である。私の個人的な望みから言えば、日本には一人くらいこういった探偵小説や捕物を書く人があっても宜よろしい。 議論はいずれ春はる永ながとして、私の探偵小説から捕物小説への遍歴はかくのごとくである。大正の末年、森下雨村が﹁新青年﹂の編集に当り、続いて江戸川乱歩が出現して、日本の探偵小説界は一時代を画かくしたが、それは大方御存じの通りで、捕物小説の方は、それからまた十年も遅れて、漸ようやくあんよが出来るといった有様であった。