筆名の由来をよく訊かれる。胡堂などというのは、徳川末期の狂詩でも捻ひねる人にありそうで、どう考えても現代人のペンネームではない。いつか村松梢風氏が﹁お互に古風な筆名を持っているが、こんなのはもう流は行やらないね﹂と言ったことがあるが、まことに同感に堪えない。 親のつけた名は長一という。長四郎の長男で長一、至極簡単明瞭な名だが、この名前、世間にザラにありそうで、滅多にないから不思議である。昔では、織田信長の家来に、美み濃の金山の城主、森武むさ蔵しの守かみ長一というのがあり、森蘭丸の兄で、鬼武蔵と言われた豪勇の侍だが、二十七歳で若死している。尤もっとも武蔵守長一の方は、ナガカズと読ませたらしい。 私の長一はオサカズと読むのが本当で、子供の時私はそう呼ばれた。五十年前くらいまでは村へ帰ると近所の老人達はそう呼んでくれたものである。それが何時の間にやらチョウイチとなり、今では私自身でも振仮名を付ける場合は、チョウイチと書いている。 胡堂の方は、大正初め、新聞の政治記者をしている頃、政閑期には政治面の﹁かこいもの﹂という閑文字を書いていたが、筆名がないので、長某と署名すると、編集局の悪童共が、﹁お前も雅号を拵こしらえろ﹂と言うのである。その頃は筆名ともペンネームとも言わず、親の付けた名前でない、気取った仮名を昔からの言い慣わしで雅号と言ったものである。映画を活動写真、レコードを種たね板いたと言った時代のことである。 ﹁何かいいのをつけてくれ﹂と言うと、編集の助手達が、﹁お前は東北の生れだから、蛮人はどうだ、強そうで良いぞ﹂と言うのである。﹁蛮人では可哀相だ、人食い人種みたいじゃないか﹂と言うと﹁それでは胡堂と付けろ、胡馬北風に依るの胡だ、秦を亡ぼすものは胡なりの胡だ。堂という字はそれ、木ぼく堂どう、咢がく堂どう、奎けい堂どうなどといって皆んなエライ人は堂という字をつける。それにきめておけ﹂と本人の私の意見などを無視して、翌あくる日の新聞の閑文字から、胡堂という署名が入ったわけである。 それから、社会部の音頭を取って、部長というものに祭り上げられ、新聞に専念させるために、社の方針で他の新聞雑誌に一切書くことを禁じられ、しばらく胡堂という雅号も、実際に用いる折もなく、権利だけを留保して、温めておいたのであるが、大正十一年社会部長をよして学芸部長になり、再び雑文や、短評などを書いて、七年目にカビの生えた雅号を取り出し、昭和二年始めて﹁奇談クラブ﹂という小説を書いた時、本名を名乗るのも極りが悪く、新たに筆名を拵えるのも面倒臭いので、はなはだ不ぶし精ょうではあったが、堅いものを書いた昔の雅号をそのまま、胡堂と署名してしまったが、今日まで道連れになった因いん縁ねんである。 ﹁あらえびす﹂の方は、新聞に音楽や、絵のことを書くのに、胡堂でははなはだ堅いので、胡という字を柔らかく訓よんで、﹁あらえびす﹂としたまでのことである。﹁袖そで萩はぎ祭さい文もん﹂という芝居の中に、桂中納言に化けて出た安あべ倍のさ貞だと任うが、花道の中ほどで、引き抜きになり、﹁奥州のあらゑびす﹂と威張るところがある。これを歴史的にせんさくすれば、﹁にぎゑびす﹂に対する﹁あらゑびす﹂で、更に砕いて言えば熟じゅ蕃くばんに対する生せい蕃ばんである。本当の仮名遣いは、あらゑびすでなければならないが、仮名遣い問題のうるさかった時で、読みよく﹁あらえびす﹂としたに過ぎない。 一時ふざけた意味でR・A・B・Cと署名したこともあるが、気き障ざなので止よしてしまった。横文字と安倍貞任では少しく調和が悪い。雑文に長沢無人と署名したこともある。私の生家は長沢尻というところにあり、無人は傍若無人の無人だ、今は亡き友人の一人が、私の生家の小字あざまで知っており、長鞘尻の親分などとからかったハガキをくれて、私を困らせたことがある。 ところで、私には、本名の長一で来る手紙と、胡堂または﹁あらえびす﹂で来る手紙とがある。長一と書くのは、キリスト教関係か、若いキマジメな人達で、銭形平次などは読みそうもない人。胡堂と書いてくるのは全体の九十パーセントで、これは普通。﹁あらえびす﹂と書いて来るのは、音楽関係の人か、レコードファンで八パーセントくらいはあるだろう。 大分前のこと、本名と筆名で、全く同じ所得税の徴税命令が二通来たことがある。早速出かけて行って、わけを話して、一通は取り消してもらったことは申すまでもない。 三十年も前の話、新聞社の給仕が︵その頃はコドモと言った、今日は少年社員と言うそうだ︶私の卓の前で電話を取り次いでいて、﹁ナニ、野村コゾウ? そんなコゾウはいませんよ﹂と、電話をガチリと切ったことがある。