中山七里 二幕五場

長谷川伸




〔序幕〕 第一場 深川材木堀
     第二場 政吉の家
     第三場 元の材木堀
〔大詰〕 第一場 飛騨高山の街
     第二場 中山七里(引返)


川並政吉    女房お松  酒屋の作蔵
おさん     川並金造  同百松
流浪者徳之助  同三次郎  同高太郎
同おなか    同藤助   同老番頭
亀久橋の文太  木挽治平  猟師
餌差屋の小僧・恐怖した通行人・空家探しの夫婦・酒屋の小僧・深川の人々・高山の人々・そのほか。
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〔序幕〕




第一場 深川材木堀


西
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()()
()()()()()使


三次郎 ようッこのウ!
藤助等 よう。
三次郎 (手を挙げ)待った待った、ここでいいとしよう。さあテコをかってくれ、コロを抜いてしまうから。
金造  おい来た、そらよ。(鳶口棹を木製のテコに持ちかえ、角材の下に入れ)ううむ。
藤助  待て待て俺が一丁加わるから。(テコを入れ)それ来た、よいやさの、ううむ。
金造等 ううむ。

三次郎 もうちッともうちッと。よし来た。(コロを一本抜き取り)ご苦労ご苦労。さあもう一丁。(次のコロを抜きにかかる)








おさん あれ。(よろめいて地に坐る)
藤助  (おさんに背中を向けてテコを入れている)だれでえ。女のくせに仕事場の邪魔に来たのは、もし不浄な体だったら、俺達が災難にあうかも知れねえんだぞ。
三次郎 (笑いながら)黙れよ藤の字、顔をよく見てから啖呵たんかを切れ。
金造  本当だあ。ほかの人じゃあるめえしなあ、おさんさん。
おさん (とっくに起ちあがり着物の塵を払い)ご免なさい、そそっかしいもんだから、飛んだお邪魔をしてしまって済みませんねえ。
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三次郎 そうそうその通り。ただそそっかしくって云ったんだ。
金造  おさんさん何か用かえ。政ちゃんはあっちで仕事をしてる、呼んでやろうか。
おさん いいえ、別に用はないんですけど――。
三次郎 (金造に)気の利かねえ黙ってろい。きょう初めて仕事先へ来たおさんちゃんじゃあるめえし。
おさん え。
 調()()()()()()()()()
治平  どこの家でも嬶は同じだわい。
  
藤助  そこへ行くと金の字、俺やお前は一人身で、気が楽だ。
おさん まあ、みんなであたしを。口が悪いねえ。(行きかける)
 
おさん え、でも、また参ります。皆さん左様さようなら。
藤助  剣身を食わした入れ合せに、伝言ことづてを承わって置こうか。
おさん え(不安になりて)何の伝言を。
金造  知れたこと、晩のおかずに何を持って行くかということさ。
 
金造  (おさんを見送る)
  ()
  ()()
三次郎 また詰らねえことをいい出しやがる。よせよせ。
藤助  (金造に)そりゃ何のことだ。
三次郎 聞くなというのに、仕様がねえ。(コロやテコを集める)
金造  この頃、おさんさんが眼に立ってやつれて来たってことよう。
藤助  そういえば、俺も気がついていたんだが。何故だろうなあ。
三次郎 おおかた、体の調子でも悪いのだろう。いくらいい女だって他人のもの、そう気にするのはお節介というもんだ。
  ()()()()
三次郎 手前も見たのか――そうか。
金造  (三次郎に)叔父御おじごもそれを知ってたのか。
 ()
金造  それなら俺あ気にしねえんだが、どうも只ではねえらしい。気になってならねえから、さっき政ちゃんに聞いてみたんだ。
三次郎 馬鹿、馬鹿だなあこいつは。ずけずけと当人に、そんなことを聞く奴があるもんか。
  
藤助  じゃあ何も知らねえてんだな。

三次郎 よせったらよ。さあ一服しょうよう一服しょう。





調

  
政吉  (陸へ飛びあがり)治平さん、何でえその恰好は、ああ眼えおがくずでもはいったか。
  
政吉  何だ、眼の方で鋸ツ屑へ飛び込んだのか。頓狂だな、お前の眼は。
  
  
治平  政さんは男もよしキップもいいが、口だけはよくねえわい。
政吉  もうちょいと、上瞼うわめを引っ繰り返しな。
治平  おいしょ、こうか。

  

岡ツ引き亀久橋の文太郎(三十七、八歳)煙草休み三人の川並の後に来て、順に顔をみる。
金造  おやっ、これは親分さんで。(不安を抱く)
文太郎 金公か。この間みてえなことを、二度としちゃならねえぞ。
金造  ええ、もうあんな馬鹿な喧嘩は致しません。
三次郎 (藤助と顔を見合せ、黙っている)
文太郎 政吉ってのはだれだ。おめえか。
藤助  政ちゃんならここにゃ居ません。
文太郎 はてな、おさんの奴きょうは休み番か。家で二人、へばり付いているのだな。
藤助  いいえ。一番堀で、奥州物に乗ってますよ。
文太郎 そうか堀の中か。おうお前達の内で、政がおさんのことを何かいったのを聞かなかったか。
三次郎 え、薩張さっぱ[#ルビの「さっぱ」は底本では「さっば」]りそんな話は聞きません。
 
金造  (仕方なしに)ありゃ政ちゃんでさあ。
文太郎 あいつがそうか。金公当人に俺のことをいうな。
金造  へい。(不安をまた深くする)
文太郎 (三次郎等に)お前達もしゃべるな。(十手をちらりと見せ)ご用筋なんだからのう。
三次郎 へっ、ご用筋。
 
金造  (仕事着を脱ぎ角材にのせ)親分、お掛けなさいまし。
文太郎 うむ。(三次郎等に)どうだ、この頃いいのが出来るか。
三次郎、藤助は曖昧な返事を頭だけでしてシラけている。
治平  やあ有難う、お蔭で大助りだ。
政吉  そんなに礼をいいなさんな、働きッとは持ちつ持たれつだあ。
治平  そう云われると、もっと礼がいいたくなるわい。(仕事座に就き鋸の目を立てる支度をする)
政吉  お前なかなかお世辞者だなあ。(三人の方へ近づく)
文太郎 (政吉に近づき立ち塞がって顔を見る)
政吉  (文太郎の顔を凝視して、三次郎等の方に近づこうとする)
文太郎 (摺れ違って政吉の手首を掴む)
政吉  (かっとなり、振り払う)何をするんだ。
文太郎 (冷酷な薄笑いを浮べ)お前だな、政吉ってのは。
政吉  え、政吉はあっしだが。
文太郎 俺あ、こういう者だ。(十手をちらりと見せる)今のは冗談よ。
政吉  人を、面白くもねえ。何のことでえ。
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文太郎 それだったら天下泰平、世話なしでいいなあ。(去る)
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金造  この間二軒茶屋の前で、つくだの者と喧嘩して、相手に疵をつけた時、俺を庇ってくれたのはあの人だよ。
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藤助  政ちゃんお前今の人に、何か怨みを買ってるんじゃねえか。
政吉  心当りは皆目かいもくねえが、そんな気ぶりが見えたのか。
藤助  云っちゃならねえといったんだが。
三次郎 よさねえか。くだらねえことを。
政吉  そう聞くと気にかかる、話の善悪は構わねえ、聞かせてくれ。
藤助  じゃ云うが。
三次郎 藤の字、手前、口が軽すぎるぜ。
藤助  じゃあ云うめえ。
政吉  そうか。面と向って俺にいえねえ話なんだな。
三次郎 政ちゃん気を悪くしちゃいけねえや。くだらねえ話だから俺あとめたんだ。
政吉  あらかた俺にもわかっている。藤の字、おさんのことだろう。
金造  え。(不安をひどく感じる)
藤助  そうだよ。お前知ってたのか。
  
藤助  な、何をいうんだ。そりゃ話が少し違うらしい。
政吉  違うもんか。おさんのことは人一倍俺が知っていなきゃ嘘だ。
 
金造  (熱心に、政吉を宥めたくて)そうだとも。
藤助  それにこの叔父御が受け答えをして、何も聞いちゃ居りませんと云っただけだ。
政吉  それならそれでいいとしとこう。
小僧  (木挽を呼びにくる)きのう挽いたつがが寸法違いだというぜ、治平さんちょいと来なよ。
治平  そんな訳はない、墨打すみうち通りにやらかしたんだ。(口小言をいいつつ小僧と去る)
金造  政ちゃんお前、顔の色が悪いな、けさだって悪かったようだが、風邪でもひいたのか。
政吉  風邪か。うむ、そんなことだろう。
三次郎 (話題を打ち切るために)さあ、二番堀へ行こうぜ。
三次郎、藤助、金造、道具を分担して持つ。
政吉  (沈思している)
三次郎 政ちゃん、お前も二番堀へ行くんだろう。
政吉  俺あ行かねえ。
金造  (はっとする)
藤助  何故よ。
政吉  ハネ出し物が二本残ってるんだ。そいつの始末を付けなくちゃならねえ。
三次郎 そうだっけな。じゃあ俺達は先へ行こう。(藤助と共に去る)
金造  政ちゃん、お前、本当にどうもしていねえのか。
政吉  どうもしちゃ居ねえ。
  
政吉  え。
金造  お前のその眼つきは、八幡様の祭の大喧嘩以来、この三、四年にゃなかった眼つきだ――お前はだれかを怒ってそんな怖い眼の色をしてるんだ。
政吉  金公、お前にゃ隠せそうもねえ、俺あなあ――よそう。云うめえ。
金造  お前、もしや――なあ、もしや、おさんさんのことじゃねえのか。
政吉  矢っ張り知ってやがる――この野郎だって知ってやがるんだ。
金造  そう取っちゃいけねえよ。俺は何にも知りゃしねえが、おさんさんのことをもしや変に疑いでもしてるんなら大間違いだと俺あいうぜ。
政吉  何にも知らねえという傍から、おさんを疑っちゃいけねえとは、どうして云えるんだ――手前、俺よりもこの一件をよく知ってやがるな。
金造  な、何をいうんだな。
政吉  (金造の胸倉をとり)さあ話して聞かせろ、泥を吐け、相手はだれだ、云って聞かせろ。
金造  な、何をするんだな、おい政ちゃん、何をするんだな。
  ()
金造  そうじゃねえ、全く俺は知らねえんだ。
  
金造  まさか、あんな奴に。おさんさんはそんな人じゃねえよ。
  
  
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金造  だれも、どうもしてやしねえじゃねえか。
政吉  じゃあ何故、御用聞きのキザな野郎が、変に厭がらせの脅しをかけに来やがったんだ。
金造  ありゃお前、話が別ッ個だ。
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金造  行くよ。だが。
  
  
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金造  本当にそうか。え、政ちゃん、本当か。
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金造  じゃあ、今夜、俺と二人でゆっくり、話をするって約束をしてくんな。
政吉  うむ、いいとも。
  
政吉  あいつ来たのか――俺に口一つ聞かねえで帰ったんだな。
金造  そりゃ、みんなが居たから、気まりを悪がって帰ったんだ。
政吉  どうでもいいや。
金造  じゃあ帰りにゃ一緒に行こう。
政吉  うむ。(仕事にかかる気で鳶口棹をとる)
金造  (心配しつつ去る)
  
おさん (木挽の枠の方にそっと来ている。声をかける勇気がなく、躊躇している)
政吉  おさんじゃねえか。
おさん あ、政さん。(政吉の傍へは来たが眼に射すくめられ地に膝をつく)
政吉  (鳶口棹を地に突き立て、おさんを睨み下して)俺のところへ来い――厭とはいわさねえぞ。
おさん (覚悟すべき時がいよいよ来たのを知っている)ええ、行きます。(ガクリ俛首うなだれる)
政吉  さあ、行け。(引き起し)行かねえか。(突き飛ばす)
おさん あれ。(よろよろとなる)

政吉  (憎悪に燃えて、今にも殺すかと見える)


第二場 政吉の家







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おさん (政吉の家の戸が開いて、突き飛ばされて入る)
政吉  (入口を閉め、おさんを睨み、上へあがらせ、土間の片隅を探し、そま屋のつかう古いよきが手に触れるので、土間へ抛り出し、釘箱と金槌を持って、入口の戸を釘づけにする)
おさん (政吉のすることに恐怖し、釘の音を聞いて苛責を受ける気がして、畳にひれ伏し咽び入る)
  ()()()()()()()
おさん そ、そりゃ余りだ余りだ。
政吉  狐め、だましゃがるない。
 
  ()()()()
おさん ああ、あたしゃ一層殺されたい。死んだ方がいいのだろう。
政吉  殺せだと。よし殺してやる。(土間のよきを携げ来たる)
 
政吉  何だと。
おさん あたしがお前を想っているこの心だけはわかっておくれ、さもなければ、あたしゃ死にたくない、殺されたとて死に切れやしない。(泣き倒れる)
政吉  (よきを抛ち)それ程の料簡を持ちながら何で、俺を踏みつけにした。この阿魔あまあ今になっても、俺を騙す気だな。
 
政吉  それ見やがれッ。畜生め。(よきを取る)
 ()
政吉  そ、そんな云い訳を聞くものか。てごめにされたとは古い奴だぞ。
おさん そんなら政さん、お前さんがあたしだったらどうおしだ。
  
おさん そう考えるのは男の邪慳だ。女じゃそうは考えつかず、出来もしやしないんだ。
  ()()
おさん 死のうとはその時から考えついていたんだけれど。
政吉  じゃあ何故、死なねえんだ。
おさん だって――お前さんにあたしあ、――未練があって死ねないんだ。(泣き伏す)

政吉  (よきを擲ち、おさんを見詰める)


金造  (空家の前を過ぎ――政吉の家の戸を開けんとする、到底開かずと見て――空家へはいり、隣へ入る口はなきかと、うろうろする)
政吉  俺あいい過ぎた、自分のことばかり考えていて、お前の身にはちっともならずにいた。悪かった。
おさん 憎しみが少しはとれておくれかえ。
政吉  うむ。女は弱いので損だなあ。
おさん あたしゃこれで、もう、死んでもいい。
  ()()()※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)
  ()()
おさん いいえ――ね、そりゃ聞かないでくれないか、聞いたら却って気もちが悪いからねえ。
政吉  何故いえねえんだ。手前が隠す処をみると、(再び奮激して)畜生っ。(よきを取る)
 
政吉  だれだ。どいつだ。
おさん お前が毎日働いてる先の餌差屋えさしやの旦那だよ。
金造  (壁が毀れぬので、近所へ得物を借りに飛び出す)
  
おさん お前が世話になってるから、それを思っていわなかったんだよ。
政吉  (殺意を生じて)ようし。
おさん あれ、お前さん、ど、どこへ行くの。
  退退
おさん (泣き倒れ、やがて帯の間から覚悟の剃刀を出し、壁にかけた政吉の着換えを取って抱きしめ、自害する)
金造  (鉈を持って空家へ飛び込み、隔ての壁を破って政吉の家へ飛び込み)政ちゃん政ちゃん――おさんさん、おさんさん。政ちゃん。

空家の入口に一、二人、近所の者が駈け付けて顔を出し、のぞき込む。

日はとッぷり暮れている。


第三場 元の材木堀






政吉  (よきを携げ、金の入った財布の紐を腕にかけ、引き摺るようにして蹣跚まんさんとして来たる、殺人をやった後である)
金造  (後より跟いて来たる)政ちゃん。(口がきけなくなる)
政吉  (モガモガと口を開き、辛うじて)金公か。
金造  お、お前、やったな。
  
金造  ど、どこへ行くのだお前。
政吉  家へ行くんだ。おさんが待ってらあ。
  
  
金造  お前、逃げなくちゃいけねえだろう。
政吉  俺あな――俺あな、また一人ぽっちになった。(歩む)
  

政吉  死んだのか。そうか――おさんが死んだとよ。(よろめいて去る)



〔大詰〕




第一場 飛騨高山の街


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男の声 (遠く)鳥も通わぬ、嶽山たけやまなれど住めば都の、懐かしさ。

女の声 (近く、哀切な声)飛騨の高山、高いといえど低いお江戸が、見えはせぬ。



沿

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百松  叱言こごとをいわれなかったね。あれで柄になく声がいいのだから人は見掛けによらないものだね。
高太郎 だれだってあのおやじが、高山一のいい声だなんて、本当にしやしないよ。
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職人  (盆唄をうたう)八賀はちが上野うえので、高山みれば、浅黄暖簾が、そよそよと。
一同、手を拍き、口囃子を入れる者がある。
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 ()
作蔵、百松、長太郎の他は去る。
高太郎 聒し屋のおやじと来ると、一年中で笑うのは三度か四度だ。よくよく笑うのが嫌いなおやじだね。
作蔵  ところが。きのう宵の口に、筏橋いかだばしそばでにっこり笑ったよ。
百松  どうして。
作蔵  ほら、女の方が胡弓をすって、男の方が四ツ竹とかいうのを鳴らして歩いてる若い夫婦者が、この頃ここへ来てるだろう。
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作蔵  そうかも知れない、顔は見ないがいい姿をしてるからね。
百松  さすがの大番頭さんも、女がいいので相好そうごうを崩したというのかね。
  
高太郎 秋といえば今年は栗の出来がいいそうだ。
  ()
高太郎 哀れっぽい文句だね。
作蔵  どうせ江戸からでも流れて来た人達だろう。
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高太郎 いずれは色恋の末だろう、よくある奴さあ。




文太郎 (作蔵に)若い衆。ここは行き止まりじゃなかったな。
作蔵  土蔵について廻れば筏橋へ出ますよ。やあ、だれかと思ったら文太郎さんか。
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作蔵  その内におとっさんがいいと云ったら遊びに行こう。
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作蔵  田舎者でもいいさ。江戸ではどうか知らないが、高山ではよく云わない人のところだから、親に黙って遊びには行かれないよ。
 鹿
  
文太郎 まあいいやな。相手は朴念人ぼくねんじんだ。
作蔵  その人は内儀おかみさんか。この前来た時のと違ってるから、内儀さんではないと思った。
文太郎 何をいやがる。
お松  いけ好かない野郎だねえ。(文太郎と共に去る)
老番頭 (外出しかけて見ていて)今のは文左の倅の文太の奴だろうな。
作蔵  ええ文太の奴ですよ。
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作蔵  直き江戸へ行ってしまうでしょう、早く行ってくれた方がいい。
老番頭 あんな奴が江戸で十手をお預り申してるというが、飛んだことだ、高山だったら屹と牢へ入れられてる奴だ。(去る)

作蔵  (酒樽を再び担ぎかける)




おなか (疲れと飢のために目眩めまいを起す)
徳之助 どうしたい、また気分が悪くなったと見えるね。ここで少し休むがいいよ。
おなか え。この頃は毎日、あなたに介抱させるばかりですもの、済みませんねえ。
 
 ()()()
徳之助 水でも貰って来てあげようか。
おなか え。でも、ようござんすの。
 
おなか ええ。済みませんけど、それではどうぞ。
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おなか あなた。あなた。
徳之助 え。何だえ。
おなか かわらへ下りて、川の水を飲みましょう。

徳之助 そんなことをしないでも、貰って来てあげるから待っていておくれ。いいかい。(去る)


便()()()
  姿
おなか (目眩が鎮まったので、川を見る)
  
おなか え。(気味悪く思い、助けを空しく求め、後退りする)
  
 
政吉  ほっ、お前さん、江戸ですね。
おなか ええ。そういうあなたも、この辺の人とは違ったお言葉。
政吉  ええ。あっしは江戸の深――なに江戸で永らく奉公していました。
おなか (答えず、眼は怖れと警戒とで油断がない)
  ()()()()
おなか いいえ別に。
  ()()
おなか あたし、連れの者がございます、向うで待っている筈ですから。
  ()西()姿鹿
 ()
  ()
おなか (こらえ切れず)あれ、わたしは、あちらへ。
  ()
おなか あ、もし。
政吉  へ?
おなか そんなにわたしが、おさんさんとやらに似ているのでしょうか。
政吉  気のせいか、声までが――それも迷いなんでしょう。
 
政吉  (眼をしばたたく)
 
  ()()()
おなか 有難う存じます。(胡弓をとり直す)
  
おなか でも、おあしを戴きましたから、面白くもない唄ですけれど。
政吉  縁があってまた逢ったら、お二人揃っている時に聞かせてお貰い申します。
おなか (頭を下げて銭を仕舞う)
政吉  (未練を深く持ち、立ち去りかねている)
 
政吉  (ぎょッとし、危険を感ずる)
徳之助 どういう訳だか、あいつ、この土地に来ているんだよ。あいつの国はここだったと見える。
おなか えっ、あの悪者が。まあ。
 
おなか (徳之助の腕に縋り)逃げるといっても、わたしはこんなに意気地がないし。どう、どうしましょう。
政吉  (早速の隠れ場所と、小さき宮の後に潜む)
徳之助 こんかぎり逃げるより他はありゃしない。さ、一足でも先へ逃げのびよう。
 
おなか (身を悶え)とうとう、こいつの手にかかった。もう――もう駄――駄目になりました。(泣き伏す)
 
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 ()
 
 ()
徳之助 お前ばかりをやるものか、あたしも一緒に付いて行こう。
文太郎 手前には用がねえ。
徳之助 たとえ一町二町離れていても、あたしは屹とお前に付いて江戸へ行くよ。
 
徳之助 待っておくれ文太さん。おなかが火付けしたなどとは、お前の見込み違いなのだ。
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徳之助 あ、そうしておくれ、そうされれば本望だ。
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文太郎 五月蠅えなあ。さあ歩け。(おなかを突き飛ばす)
徳之助 (おなかを庇い)何をするんだ、怪我でもしたらどうするのだ。
文太郎 何をするものか、突き飛ばしたんだ。足がのろいと容赦なく、大道中だいどうなかを引摺って行くぞ。
 
徳之助 いいえ、わたしは諦め切れない。
文太郎 ええ埒のあかねえ奴等だ。(おなかを引摺るように引き立てる)
徳之助 (妨げんとする)
政吉  (この以前より、幾度か決心して逡巡し、遂に飛び出して、文太郎の眉間をつ)
文太郎 あっ。痛え。(倒れる)
  
徳之助 (おなかを連れて必死に逃げて行く)
政吉  (倒れている文太郎に注目し、殿しんがりの積りで、そろそろ引揚げかかる)
文太郎 野郎っ、やりやがったな。(起ちあがる)
政吉  (文太郎の襟に手をかける)
文太郎 やっ政か、政吉だなっ。

政吉  ジタバタするねえ。(絞殺しかける)






作蔵  (独り離れて)俺あ厭だ、文太郎の奴では、水もやるのは惜しい。
文太郎 (よろめいて起ち)野郎ッ逃げたな――逃がすものか。(政吉等の去れるとは、反対の方へよろめいて歩く)

一同、あっ気にとられて見ている。
作蔵のみは冷嘲している。


第二場 中山七里(引返)



沿

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文太郎 おうおう聞きてえことがあるから、待て。
猟師  旅の衆か、何だね。
文太郎 此方の方へ男二人と女一人とが来やしなかったか。女は胡弓を持っているんだが――お前、胡弓って物を知っているか。
猟師  そんな物は知らねえさ。
文太郎 知らねえか、ならそれでいい。今いった男二人に女が一人、通らなかったか。
猟師  おら、見なかったよ。
文太郎 そうか。じゃあ俺の方が先手せんてに廻ったか、そうだとすると占めたもんだ。
猟師  その人達は何だね、お前の連れか。
文太郎 よしてくれ。お尋ね者を友達にゃ持たねえ。
猟師  えっ、お尋ね者だとね。
 
猟師  おお、お前さんは目明しか。
 ()()
猟師  はい、はい、わかりました。(行きかける)
文太郎 こいつは一本道だったな。
  ()()()()()()()()
文太郎 木曾へ抜けるにゃ何処から入るんだ。
猟師  この先の佐和さわからも行けるよ。
文太郎 そこまでは此の道一と筋だな。
猟師  そうだよ。
文太郎 よし、もう行ってもいい。どれ、もう一とのしして網を張るか。(去る)

猟師  (文太郎を見送りて去る)





  ()()
徳之助 政吉さん、済みませんが、これが大変疲れたらしいから、少し休んで行ってはいけますまいか。
  
徳之助 おなか、見てごらん、いい眺めじゃないか。
おなか え。――見る限り、紅葉で一杯、まあ美しい。
徳之助 (おなかと共に四方を見て歩く)
政吉  (徳之助を殺そうとして思いとどまり、煙草を吸いつつ、文太郎の追跡を恐れ、監視を怠らず。時におなかに凝視を向ける)
おなか (政吉の素振りに心づけど、それは云わず、別れてしまいたいと徳之助に囁く)
徳之助 (おなかに囁き、漸く決心して政吉に)政吉さん、この度はいろいろとお助けを蒙りまして有難う存じます。
おなか お礼の言葉もございません。
  ()()
徳之助 就きましては。
政吉  え。
徳之助 (おどおどと)段々とお世話になったご恩は決して忘れませんが、三人一緒では人目に立ちます、ここでわたし達は、別れて行かせて戴きたいと存じますが。

政吉  (不快になり答えず、焦燥、狐疑が出てくる)



おなか 我儘のようで済みませんが、別々になっていたら、人目にそれ程つきもしまいと思いまして。
  
徳之助 いえ、別に訳は何もございません。人目についてはお互いの不為ゆえ。
  ()()()()()()()
おなか いえ、本当を申して居ります。わたし達故、あなたに難儀がかかっては済みません。
  ()()()()()
徳之助 (当惑して答えず)
  ()()()()
おなか はい――わ、わかって居ります。
政吉  徳さん、お前、おなかさんから聞いて知っているだろう。
徳之助 えい。おさんさんという方に、これが生き写しだということでしたら。
  ()姿
徳之助 お心のうちはよくわかります。ではございますが。
  ()()()
徳之助 (諦めて)悪うございました。別れてくれとは義理も恩も忘れたいい方、今のことは水に流して。
おなか いいえ、それではあたしが。
徳之助 だって、政さんには大恩をうけているのじゃないか。
おなか 恩を忘れはしませんけれど、三人一緒の旅ではねえ。
政吉  おなかさん、お前、俺が憎いな。
おなか いいえ、憎いなぞとは勿体ない。
政吉  (いらいらして)じゃ何故。
おなか 眼が――あなたのその眼が、このあたりへ来てからは、怖くて怖くて。
政吉  (抑えても出る妬みの眼を、見つけられて、答え得ず)
徳之助 これ、何をいうのだよ。
  
徳之助 えっ。別れてくださいますか。
  
徳之助 えっ。
おなか あれっ。何をするんです。(政吉に縋る)
  
文太郎 (三人の争いを知り呼び子を吹いて、渦中に飛び込み、十手で政吉の腕を叩く)
政吉  あっ痛っ。(脇差を落す)
文太郎 御手当だ神妙にしろ。(押え付けて縄を口で解きかける)
政吉  文太か。やって来やがったな。(文太郎と格闘する)
徳之助 (おなかと逃げんとする。逃げる気になれず、政吉を案ずる)
政吉  (文太郎の咽喉を扼し)おなかさんおなかさん、俺あこの野郎を殺しちまう。待っててくれ、屹と待っててくれ。
文太郎 (政吉の腕を解き、攻勢となり)野郎っ、洒落臭え。
政吉  (文太郎と格闘しつつ、岩の蔭に入る)
徳之助 (おなかの手を曳き逃げかける)
おなか (政吉の安否を案じ、立ち去る気にならず)
徳之助 (おなかを庇い恐怖と闘いつつ岩の蔭に少しずつ入っていく)――政さん――政さん。

文太郎 (政吉を捻じ伏せかけ)野郎、さあどうだ。
政吉  ちえっ、とうとう、この野郎にふん捉まるのか。(捻じ伏せられる)
文太郎 こんなことあ俺の方が、手前なんぞよりは場数を踏んでる、さあ神妙にしやあがれ。
政吉  さあ縛れ、縛りゃあがれ。
文太郎 (捕縄を出して口で解きかける)じたばたするな。人殺しの大悪人に似合ねえぞ。
徳之助 (声)政さん――政さん。
政吉  あっ、徳さんの声だ。(半ば刎返はねかえし)いけねえいけねえ、ここへ来ちゃあいけねえ。
文太郎 何をっ。(政吉を再び捻じ伏せる)
政吉  (徳之助等の方に)俺に構うな。おなかさんを連れて逃げちまえ、逃げるんだぜ、逃げろよ。
文太郎 (捕縄の縺れにじりじりして)阿魔をずらかせようとて、そうはさせねえ。
徳之助 ――政さん(岩の角から出る)政さん。おやっ。
おなか あれ政さんが。
文太郎 阿魔、逃げると為にならねえぞ。
  鹿鹿
文太郎 (政吉を押えつけ)これ、往生際が汚ねえぞ。
徳之助 この有様を見て、逃げて行く不人情な徳之助ではございません。(政吉を救わんと焦慮する)
文太郎 この野郎をふん縛ったら、その次はおなか手前の番だ。逃げたところで無駄だ、高山の御用聞きが網を張ってるんだ。
おなか えっ。
徳之助 (決心して、先に政吉が叩き落された脇差を取りに引返して行く)
政吉  何をいやがる高山の御用聞きは、とうの昔に横に切れて、木曾の中津川なかつがわして飛んで行った。おなかさんお前も見て知ってるじゃあねえか。
文太郎 (失敗ったと思いながら)いい加減なことをいやがらあ。
政吉  この目で見届けたんだ、嘘なら嘘にしておけ。
おなか 政さん、あたしが縛られます。文太さん、あたしを縛って政さんは見逃してあげて。
文太郎 さあ(捕縄が)解けた。頼まねえでも手前も縛ってやらあ。(政吉に縄をかける)
おなか あれ、待って。文太さん待って。(妨げる)
文太郎 邪魔しやがるな。
  ()()
文太郎 阿魔どきゃあがれ、手前の番はこの後だ。(掻き退ける)
政吉  しっかり縛れ。
文太郎 洒落臭え。(政吉の片手に縄をかける)
徳之助 (脇差を携げ引返し、機会を狙っている)
おなか 縛られるのはあたしだ、文太さんあたしを何故縛らない。(妨げる)
文太郎 ええ、邪魔な阿魔だ。(おなかに突き退けられ踏みとどまる、縄がピンと張る)
徳之助 (躍り出してピンと張った縄を切る)
政吉  (はずみで倒れ伏す)
文太郎 (よろめいて、縄の端を握ったまま、川の中に落つ)
岩の蔭からとりがぱっと立つ、暫くして元の処へ下りる。
おなか あれっ。
 ()()()
 
  
おなか あなた、政さんが怪我をなすって。
 
  ()()
徳之助 いいえ、こうなっては、ご一緒でなくては、西へも東へも参りますまい。
政吉  そいつあいけねえ。
おなか わたし故にこんなことになったのです。どうしてこの儘行かれましょう。
政吉  俺あ卑怯な奴に成下ってるんだ。おさんに似たおなかさんに良く思われてえばっかりに、自分の身を忘れて飛び出した、それもこれも心からの男気おとこぎなんかじゃありゃしねえ。
徳之助 いえ、いくら卑下ひげしても、政さんは男気で、わたし達を助けてくれたんです。
  
おなか (また新しき憂慮を抱き、政吉を恐ろしく思う)
徳之助 (手拭で疵口を結ぼうとする)
  
 
おなか あなた。(ひそかに徳之助の袂を曳く)

  ()()()()

とりが再びぱっと立ち飛び去る。
水面に文太郎が浮きつ沈みつする。
おなか あれっ。
政吉  (はっとして脇差を手にする)文太の奴め、まだ生きてやがったか。(二人に逃げよと刀を振る)
徳之助 政さん、それではお別れ申します。
おなか 左様なら。ご恩を忘れはいたしませんけれど。
徳之助 また逢える日が参りますよう、神信心だけは怠りません。
  
文太郎 (浮び出て、岩に手をかける)
政吉  (ただ一と打ちと身構える)
文太郎 うわっ。(岩の手を外し、沈みかけて、やや遠き岩に手をかける)
政吉  (焦って討とうと構える)
文太郎 (手をすべらせて沈む)
  ()()
文太郎 (縄を掴み)俺を、俺を助けるのか。
政吉  俺あ深川で、餌差屋を叩っ殺したんだ。だから縛られよう。
文太郎 えっ。(助け上げられる、疲労している)
政吉  文太、俺あグラグラと気が変ってならねえ。――お処刑しおきになりゃ、きまりがつくだろうよ。
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  ()()()
暮色迫り、鴉が鳴く。山寺の鐘がかすかに聞えてくる。
昭和四年八月作

昭和十年八月補






底本:「長谷川伸傑作選 瞼の母」国書刊行会
   2008(平成20)年5月15日初版第1刷発行
底本の親本:「長谷川伸全集 第十五巻」朝日新聞社
   1971(昭和46)年5月15日発行
初出:「舞台戯曲」
   1929(昭和4)年10月号
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2020年2月21日作成
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