トオマス・マン︵Thomas Mann, 1875-1955︶は、ゆたかな天分を、きびしい不断の自己たんれんによって、みごとにみがきあげた結果、多くのすぐれた作品に開花させた芸術家として、近代ドイツ文学の最高峰とみなされている。一九二九年度のノオベル文学賞をさずけられたことでもわかるように、かれのねうちは、ずっと前から国際的にみとめられたものであり、かれを知ることは、ドイツ文学のエッセンスを知ることになると同時に、もっとひろく、文学そのものの人生におけるやくわりを知ることにもなるし、ひいては、芸術と人間とのあいだの、ふくざつでげんしゅくな関係を知ることにもなると思う。 本書の原名は“Der Tod in Venedig”で、書かれたのは一九一三年、作者が三十八のときである。前々からたえずかれの追求してきた、芸術と実生活、芸術家と普通人との二元性というテエマを、かれはこの作で、独自のすみきった具体性と、円熟しためんみつな技法によって、いっそうはっきりと、いっそうてってい的に展開してみせた。その展開のあざやかさ、構図の整せい然ぜんとしたおもむき、なだらかな描写にこもるはりつめた気力という点で、この一編はたしかに、かれの長い作品系列のなかでも、一種特別な位置をしめていると言っていい。 初老の小説家、つよい意志で自分の生活を律しながら、芸術との安定したバランスのなかで、すでに世間的な名声をも確保している男が、ふと息ぬきをする気になって出た旅さきで、心のゆるみから、ギリシャ美を象徴するような、端たん麗れい無む比ひな少年のすがたにみいられて、いっさいの実生活的な節度と自制をうしないつくしたあげく、まるでわざとのように、伝染病のおそろしい毒に染まったなり、その少年と空想のなかでひとつになろうとしながら、あっけなくほろび去ってしまう――この特異ないきさつのなかに、われわれは、芸術と生活との宿命的な相互関係を、まざまざと見せられる気がする。結局、この関係のアンバランスが、主人公の時ならぬ破局をまねいたのである。 ふとはげしい旅ごころをそそられて、かれが栄誉と精しょ進うじんとしずけさにみちた生活を、みすてたせつなに、バランスはくずれた。そしてそれ以後、かれは何物かにかりたてられるようにして、一路、滅亡の方角へすすんで行った。どんよくな神である芸術は、ひたすらかれに仕えている、この芸術家自身を、なおあきたらず、このましいいけにえとして、みずから祭壇にそなえたのであろう。 芸術という神のおそろしさが、ここにある。作者は、まともな、ひたむきな芸術家として、それをだれよりもよく知っていた。そしてその恐怖をつたえるために、同時にまた、それをやがては克こく服ふくして、一段と高い境地へすすむために、この作を成したものと思われる。 その境地では、おそらく、芸術と生活との対立が解消されて、両者の渾こん然ぜんとした融ゆう合ごうが、実現されることになるのではあるまいか。じじつ、作者のその後の芸術活動にかんがみると、この推定は当っているようである。つまり、この作が書かれたのは、第一次大戦の直前だが、あの戦争をさかいとして、それ以後のかれの諸作には、芸術の完成をめざすのに、ただせまい意味の芸術的修練だけにたよらず、生活的な視野をひろめ、人間性をほりさげることにも、精進しようとする意欲が、あきらかにみとめられる。そしてその努力のゆたかな収しゅ穫うかくとして、かれの芸術は、そのあと一作ごとに、ますますはばと厚味を加えて行って、ついに世界的なかがやきをおびるに至ったのだと思う。 なお、同性愛というものが、重要なモメントとして、とりあげられているのも、この小説を特にきわだたせる点のひとつであろう。ギリシャふうの感覚によると、同性にひかれるきもちは、異性間の愛情よりも、さらに精神的な要素がつよく、さらに純粋無雑な力をもっていることになる。精神をたっとび、純粋を愛する初老の作家アッシェンバッハに、異国の美童タッジオをしたいもとめさせたのは、作者のギリシャへの共感にもとづくものかもしれない。ともかくこの特殊性が、この作全体に、一種独特の高いかおりと、すがやかなあじわいとを与えていることは、決していなめない気がする。︵訳者︶