前篇
一
私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽ひき匣だしに昔からひとつの小箱がしまつてある。それはコルク質の木で、板の合せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶来の粉煙草でもはひつてたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合がくすんで手触りの柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために今でもお気にいりの物のひとつになつてゐる。なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩もてあそびであつたこまこました物がいつぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。それはさしわたし五分ぐらゐの皿形の頭にわづかにそりをうつた短い柄がついてるので、分ぶあつにできてるために柄の端を指でもつてみるとちよいと重いといふ感じがする。私はをりをり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りを拭つてあかず眺めてることがある。私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほど旧い日のことであつた。 家にもとからひとつの茶箪笥がある。私は爪立つてやつと手のとどくじぶんからその戸棚をあけたり、抽匣をぬきだしたりして、それぞれの手ごたへや軋る音のちがふのを面白がつてゐた。そこに鼈甲の引手のついた小抽匣がふたつ並んでるうち、かたつぽは具合が悪くて子供の力ではなかなかあけられなかつたが、それがますます好奇心をうごかして、ある日のことさんざ骨を折つてたうとう無理やりにひきだしてしまつた。そこで胸を躍らせながら畳のうへへぶちまけてみたら風ふう鎮ちんだの印いん籠ろうの根付だのといつしよにその銀の匙をみつけたので、訳もなくほしくなりすぐさま母のところへ持つていつて ﹁これをください﹂ といつた。眼鏡をかけて茶の間に仕事をしてた母はちよいと思ひがけない様子をしたが ﹁大事にとつておおきなさい﹂ といつになくぢきに許しがでたので、嬉しくもあり、いささか張合ぬけのきみでもあつた。その抽匣は家が神田からこの山の手へ越してくるときに壊れてあかなくなつたままになり、由緒のある銀の匙もいつか母にさへ忘れられてたのである。母は針をはこびながらその由来を語つてくれた。二
私の生れる時には母は殊のほかの難産で、そのころ名うてのとりあげ婆さんにも見はなされて東桂さんといふ漢方の先生にきてもらつたが、私は東桂さんの煎薬ぐらゐではいつかな生れるけしきがなかつたのみか気の短い父が癇癪をおこして噛みつくやうにいふもので、東桂さんはほとほと当惑して漢方の本をあつちこつち読んできかせては調剤のまちがひのないことを弁じながらひたすら潮時をまつてゐた。そのやうにさんざ母を悩ましたあげくやつとのことで生れたが、そのとき困りはてた東桂さんが指に唾つばをつけて一枚一枚本をくつては薬箱から薬をしやくひだす様子は私を育ててくれた剽軽な伯母さんの真にせまつた身ぶりにのこつていつまでも厭あかれることのない笑ひぐさとなつた。 私は元来脾ひよ弱わかつたうへに生れると間もなく大変な腫でき物もので、母の形容によれば﹁松かさのやうに﹂頭から顔からいちめんふきでものがしたのでひきつづき東桂さんの世話にならなければならなかつた。東桂さんは腫物を内攻させないために毎日まつ黒な煉薬と烏うさ犀いか角くをのませた。そのとき子供の小さな口へ薬をすくひいれるには普通の匙では具合がわるいので伯母さんがどこからかこんな匙をさがしてきて始終薬を含ませてくれたのだといふ話をきき、自分ではつひぞ知らないことながらなんとなく懐しくてはなしともなくなつてしまつた。私は身体ぢゆうのふきでものを痒がつて夜も昼もおちおち眠らないもので糠袋へ小豆を包んで母と伯母とがかはるがはる瘡かさ蓋ぶたのうへをたたいてくれると小鼻をひこつかせてさも気もちよささうにしたといふ。その後ずつと大きくなるまで虚弱のため神経過敏で、そのうへ三日にあげず頭痛に悩まされるのを、家の者は 糠袋で叩いたせゐで脳を悪くしたのだ といつて来る人ごとに吹聴した。そのやうに母に苦労をかけて生れた子は母の産後のひだちのよくないためや手の足りないために、ときどき乳をのませるときのほかはちやうどそのころ家の厄介になつてた伯母の手ひとつで育てられることになつた。三
伯母さんのつれあひは惣右衛門さんといつて国では小身ながら侍であつたけれど、夫婦そろつて人の好い働きのない人たちだつたので御維新の際にはひどく零落してしまひ、ひきつづき明治何年とかのコレラのはやつた時に惣右衛門さんが死んでからはいよいよ家がもちきれなくなつてたうとう私のとこの厄介になることになつたのださうだ。国では伯母さん夫婦の人の好いのにつけこんで困つた者はもとより、困りもしない者までが困つた困つたといつて金を借りにくると自分たちの食べる物に事をかいてまでも貸してやるので、さもなくてさへ貧乏な家は瞬くうちに身代かぎり同然になつてしまつたが、さうなれば借りた奴らは足ぶみもしずに蔭で ﹁あんまり人がよすぎるで﹂ なぞと嘲笑つてゐた。二人はよくよく困れば心あたりの者へ返金の催促もしないではなかつたけれど、さきがすこし哀れなことでもいひだせばほろほろ貰ひ泣きして帰つてきて ﹁気の毒な 気の毒な﹂ といつてゐた。 また伯母さん夫婦は大の迷信家で、いつぞやなぞは 白鼠は大黒様のお使だ といつて、どこからかひとつがひ買つてきたのを お福様 お福様 と後生大事に育ててたが、鼠算でふえる奴がしまひにはぞろぞろ家ぢゆう這ひまはるのをお芽出たがつて、なにか事のある日には赤飯をたいたり一升枡に煎り豆を盛つたりしてお供へした。そんな風で僅ばかりの金は人に借り倒され、米櫃の米はお福様に食ひ倒されて、ほんの著のみ著のままの姿で、そのじぶん殿様のお供でこちらに引越してた私の家を頼りにはるばる国もとから出てきたのださうだが、その後間もなく惣右衛門さんがコレラでなくなつたため伯母さんはまつたく身ひとつの寡婦になつてしまつた。伯母さんはその時の話をして それは異国の切支丹が日本人を殺してしまはうと思つて悪い狐を流してよこしたからコロリがはやつたので、一コロリ三コロリと二遍もあつた。惣右衛門さんは一コロリにかかつて避病院へつれて行かれたのだが、そこではコロリの熱でまつ黒になつてる病人に水ものませずに殺してしまふ。病人はみんな腹わたが焼けて死ぬのだ といつた。 伯母さんは私を育てるのがこの世に生きてる唯一の楽しみであつた。それは、家はなし、子はなし、年はとつてるし、なんの楽しみもなかつたせゐもあるが、そのほかにもうひとつ私を迷信的に可愛がる不思議な訳があつた。といふのは、今もし生きてゐればひとつちがひであるはずの兄が生れると間もなく﹁驚風﹂でなくなつたのを、伯母さんは自分の子が死んでゆくやうに嘆いて ﹁生れかへつてきとくれよ、生れかへつてきとくれよ﹂ といつておいおいと泣いた。さうしたらその翌年私が生れたもので、仏様のお蔭で先の子が生れかへつてきたと思ひこんで無上に私を大事にしたのださうである。たとへこの穢いできものだらけの子でもが、頼りない伯母さんの頼みをわすれずに極楽の蓮の家をふりすててきたものと思へばどんなにか嬉しくいとしかつたであらう。それゆゑ私が四つ五つになつてから、伯母さんは毎朝仏様へお供物をあげる時に――それは信心深い伯母さんの幸福な役目であつた。――折折お仏壇のまへへつれていつてまだいろはのいの字も読めない子供に兄の戒名、伯母さんの考へによれば即ち私が極楽にゐた時の名まへであるところの 一いつ喚くわ即んそ応くお童うど子うじ といふのを空そらに覚えさせた。四
私は家のなかはともかく一足でも外へでるときには必ず伯母さんの背中にかじりついてたが、伯母さんのはうでも腰が痛いの腕が痺しびれるのとこぼしながらやつぱしはなすのがいやだつたのであらう。五つぐらゐまでは殆ど土のうへへ降りたことがないくらゐで、帯を結びなほすときやなにかにどうかして背中からおろされるとなんだか地べたがぐらぐらするやうな気がして一所懸命袂のさきにへばりついてゐなければならなかつた。そのころ私は浅葱のしごきを胸高にしめ、小さな鈴と成田山のお守りをさげてゐた。それは伯母さんのくふうで、お守りはもとより怪我のないため、溝どぶや川へ落ちないため、鈴は伯母さんが眼がかすんで遠くが見えないので、もしやはぐれたときにその音をききつけて捜しにこようといふのである。併し年が年ぢゆう背中からおりたことのない子には鈴もお守りも実はまつたく無用のものであつた。私は虚弱のため智慧のつくのが遅れ、かつ甚しく憂鬱になつて、伯母さん以外の者には笑顔を見せることは殆どなく、また自分から口をきくことはおろか家の者になにかいはれてもろくに返事もせず、よつぽど機嫌のいい時ですらやつと黙つてうなづくぐらゐのもので、意気地なしの人みしりばかりして、知らない人の顔さへみれば背中に顔をかくして泣きだすのが常であつた。私が痩せほうけて肋骨があらはれ、頭ばかり大きくて眼がひつこんでたため家の者はみんな 章たこ魚ぼ坊う主ず 章魚坊主 といつたが、自分ではわが名の□ぼうを訛つて □ぽん と名のつてゐた。五
私の生れたのは神田のなかの神田ともいふべく、火事や喧嘩や酔つぱらひや泥坊の絶えまのないところであつた。病弱な頭に影を残した近所の家といへばむかふの米屋、駄菓子屋をはじめ、豆腐屋、湯屋、材木屋などいふたちの家ばかりで、筋向ふのお医者様の黒塀と殿様のところの――私の家はその邸内にあつた。――門構へとがひときは目だつてゐた。 天気のいい日には伯母さんはアラビアンナイトの化けものみたいに背中にくつついてる私を背負ひだして年よりの足のつづくかぎり気にいりさうなところをつれてあるく。ぢき裏の路地の奥に蓬莱豆をこしらへる家があつて倶くり梨から迦も羅ん紋も紋んの男たちが犢ふん鼻ど褌しひとつの向ふ鉢巻で唄をうたひながら豆を煎つてたが、そこは鬼みたいな男たちが怖いのと、がらがらいふ音が頭の心しんへひびくのとで嫌ひであつた。私はもしさうしたいやなところへつれて行かれればぢきにべそをかいて体をねぢくる。そして行きたいはうへ黙つて指さしをする。さうすると伯母さんはよく化けものの気もちをのみこんで間違ひなく思ふはうへつれていつてくれた。 いちばん好きなところは今も神田川のふちにある和泉町のお稲荷さんであつた。朝早くなど人のゐないときには川へ石を投げたり、大きな木の実のやうな鈴を鳴らしたりしてよく遊んだ。伯母さんは私を塵のなささうな石、またはお宮の段段のうへなどにおろしてお詣りをする。孔あき銭がからからとおちてゆくのが面白い。どこの神様仏様へいつてもなにより先に この子の体が丈夫になりますやうに といつてお願ひするのであつた。 ある日のこと私が後ろから帯をつかまへられながら木柵につかまつて川のはうを見てたら水のうへを白い鳥が行きつもどりつ魚を漁あさつてゐた。その長い柔かさうな翼をたをたをと羽ばたいてしづかに飛びまはる姿はともすれば苦痛をおぼえる病弱な子供にとつてまことに恰好な見ものであつた。それで私はいつにない上機嫌であつたが、折あしくそこへ玉子と麦むぎ粉こぐ菓わ子しを背負つた女のあきんどが休みにきたものでれいのとほりすぐに伯母さんの背中へくつついた。女は荷をおろしかぶつてた手拭をとつて襟などふきながらなんのかのと上手に愛想をいひいひさしもの弱虫を手なづけてしまつて、そろそろ背中から降りかけるじぶんにはもう麦粉菓子の箱をあけて私を釣りにかかつた。女は小判なりの薫のたかい麦粉菓子をとりだして指のさきにくるくるとまはしながら ﹁坊ちやん 坊ちやん﹂ と手にもたせてくれたので伯母さんはしかたなしにそれを買つた。今でさへ、あの渋紙ばりの籠を大儀さうに肩からはづしてなかは籾がらに埋まつてる白い、うす赤い卵や、ぷんと匂のあがる麦粉菓子などを見せられるとありつたけ買つてやりたい気がしてならない。お稲荷さんはその後立派になり、賑かにもなつたが、その時の柳ばかりは今も涼しく靡なびいてゐる。六
お稲荷さんへ行かない日にはきたない財布にお賽銭と木戸銭用の小銭を入れて牢屋の原へつれてゆく。それは有名な伝馬町の牢屋のあとで、いろんな見世物がしよつちゆうかかつてゐた。また小あきんどが露店をならべて蠑さざ螺えの壺焼や、はじけ豆や、蜜柑水や、季節になれば唐もろこし、焼栗、椎の実などもうる。紅白だんだらの幕をはつた見世物小屋の木戸に拍子木と下足札をひかへてあぐらをかいてる男は手を口へあてて ほうばん ほうばん と呼びたてる。鎖につないだ山犬の鼻さきへ鶏をつきつけて悲鳴をあげさせるのもある。お皿のある怪しげな河童が水みづ溜だまりのなかでぼちやぼちややるのもある。でろれん祭文は貝をぶうぶう吹いて金の棒みたいなものをきんきん鳴らしては でろれん でろれん といふのでさつぱり面白くなかつたけれど伯母さんは自分が好きだもので度度つれていつた。あるとき珍しく人形芝居がかかつたことがあつて、桜がいちめんに咲いた草山に絵草紙でみるお姫様みたいな人が鼓をもつて踊つてるところの絵看板があがつてゐた。私は大喜びでそこへはひつたが、忽ちかちやんかちやんと恐しい音がして顔も手足もまつかな奴がねぢくれた襷をかけて飛び出したのでびつくりしてわあわあ泣きだしてしまつた。後できけばそれは千本桜の狐忠信だつたのださうだ。 気にいつた見世物のひとつは駝鳥と人間の相撲であつた。ねぢ鉢巻の男が撃剣のお胴をつけて鳥が戦ひを挑むときのやうにひよんひよん跳ねながらかかつてゆくと駝鳥が腹をたててぱつぱつと蹴とばすのである。ある時は駝鳥のはうが頸ねつこを押へつけられて負けになり、ある時は男のはうが蹴たてられて まゐつた まゐつた といつて逃げだした。そのあひだに交代の男がかた隅で弁当をつかつてたのを相手をなくしてぶらぶらしてたもう一羽の駝鳥がこつそり寄つてつていきなり弁当を呑まうとしたもので男はあわてて飛びのいた。その様子がをかしかつたので見物人はどつと笑つた。伯母さんは ﹁駝鳥がひもじがつとるにごぜんももらへんで気の毒な﹂ といつて涙をこぼした。七
私のやうな者が神田のまんなかに生れたのは河童が沙漠で孵かへつたよりも不都合なことであつた。近処の子はいづれも神田つ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさへあれば辛いめをみせる。なかでもむかふの足袋屋の息子なぞは伯母さんがぼんやりしてると後ろからだしぬけに人の横ずつ面をはつつけては逃げて行き行きしたもので私はひどくおぢけてとかくひつこみがちになつてしまつた。家にゐるときには往来へむいた高窓にのせ、格子につかまらして、伯母さんが後からおさへながら馬や車や目にふれるものの名など教へて遊ばせてくれる。筋向ふの米屋に車に轢かれたちんばの鶏がゐて、羽根や尻尾がぼろけて塵にまみれながらいつ見ても片足をあげてるのを伯母さんは見るたんびに可哀さうがつたので、終ひには私までがその鶏を見るのが厭はしくなつてきた。ふだん遊ぶのはお仏壇のあるごく陰気な三畳で、夜はそこが寝室になり、ときどきは姉たちの自修室にもなつた。そのころ十二三で小学校へ通つてた二人の姉が西洋の状袋の形した包みからまつ黒なお草紙をだし古い木机のうへにひろげて手習ひをしたことをおぼえてゐる。その机のひとつは長さ三尺ぐらゐの、抽匣が二つついたので、つまみがとれたあとの孔へ筆のぢくに紙をまいたのがさしてあり、もうひとつはわづかに子供の膝がはひるくらゐのもので浅い抽匣がついてたが、これらの机は兄から姉へ、私から妹へと、何十年かのあひだ順順に譲り渡されることになつた。それを踏台にして庭に向つた窓のうへへあげてもらふと黒塀のそばにある大株の躑躅がみえる。夏になればまつかな花が山盛もりに咲いて町なかながら時たま蝶蝶が飛んできては蜜を吸つてゆく。そのあわただしく翅をはためかすのを面白く眺めてると伯母さんは後ろから肩ごしに顔をだして 黒い蝶蝶は山やま家がのお爺ぢいで、白いのや黄いろいのはみんなお姫様だ といふ。お姫様は可愛いが山家のお爺がまつ黒な大きな翅をはばたいて飛びまはるのがおそろしい。伯母さんはまた草紙で丹念にはつた皮籠からいろいろな玩具をだして遊ばせてくれる。沢山の玩具のなかでいちばん大事だつたのは表の溝から拾ひあげた黒ぬりの土製の小犬で、その顔がなんとなく私にやさしいもののやうに思はれた。伯母さんはそれをお犬様だといつて、あき箱やなにかでこしらへたお宮のなかにすゑて拝んでみせたりした。それからあのぶきつちよな丑うし紅べにの牛も大切であつた。これらは世界にたつた二人の仲よしのお友だちである。八
そのほか刀、薙刀、弓、鉄砲など、あらゆる戦いくさ道具もそろつてゐた。伯母さんは私に烏帽子をきせたり、鎧どほしをささせたり、すつかり戦いく人さにんにしたててから、自分も後ろ鉢巻をし、薙刀をかいこんで、長い廊下の両はじに陣どつて戦ごつこをする。支度がととのへば双方真まが顔ほになつて身構へをしながらそろそろと近づいてゆく。廊下のまんなかで出会ふやいなや私が ﹁四王天か﹂ と声をかける。敵は ﹁清正か﹂ といふ。そして同音に ﹁よいとこであつたな﹂ といふと同時に ﹁やあ、たかたかたかたか﹂ と口で拍子をとりながら暫くは勝負もみえずきりむすぶ。これは山崎合戦の場で、私は加藤清正、伯母さんは四王天但馬守なのである。そのうち二人は得物をすてて取組みあふ。大立廻りのすゑ四王天は清正がいいかげんくたびれたころを見はからつて ﹁しまつたー﹂ とさも無念さうにいつてばつたりと倒れる。それを鼻たかだかと馬乗りになつておさへつけると伯母さんは汗をだらだら流しながら下から ﹁縄はゆるせ。首斬れ﹂ とどこまでも四王天でくる。そこで清正が脇差をぬいて皺くちやな頸をごしごし斬るまねをするのを四王天が顔をしかめてこらへながら目をつぶつてぐにやりと死んだふりをすればひと先づ勝負がつくことにきめてあつたが、雨の日などには七八遍もおんなじことをくりかへして、しまひに四王天がひよろひよろになるまでやらせた。伯母さんは ﹁まあどもならん どもならん﹂ と泣き声をだしながらもあきてやめようといふまではいつまでもやつてくれる。どうかすると伯母さんはあんまり疲れて首を斬られてしまつてもなかなか起きあがらないことがある。さうすると ほんとに死んだんぢやないかしら と思つて気味わるわるゆりおこしてみたりした。九
明神様のお祭りの時は場所がらおそろしい景気で、町内の若い者が軒なみに紅白の花をうち、巴と日の丸の提灯をさげてあるく。家の軒にも花をうつて提灯をさげるのが嬉しい。その日には店に毛氈をしきつめてしじんけんをかざる家があつた。でこでこの頭が二つ恭しく段のうへに据ゑられ、巻まき奉ぼう書しよのそぎ竹のやうなのがつくんと立つた大きなお神み酒き徳利が供へられる。金色の獅子は銀の眼玉をむいててつぺんに宝珠をいただき、まつかな狛犬は金の眼玉を光らせて鬣たてがみをふりみだしてゐる。伯母さんはお犬様や丑紅の牛をお友達にした手ぎはで獅子や狛犬までも仲よしにしてしまつたので私はその怖らしい顔を見ても泣きだすやうなことはなかつた。揃ひの浴衣をきた町内の若い者からやつと足の運べる子供までが向ふ鉢巻にかひがひしく鬱うこ金んの麻襷をかけ――私はあの鈴だのおきあがり小こ法ぼ師しだのをつけた麻襷が大好きである。――白足袋のはだしにむりむりした脛をみせて出来るだけ大きな万燈をふつてあるく。軒なみの提灯のなかにも、町をとびまはる万燈のなかにも蝋燭の焔がちらちらとまたたく。紅白に染めわけた頭でつかちの万燈のさきにふつさりと御幣のさがつたのがきりきりと宙にふりまはされるのは気もちのいいものである。各町内の要所要所には大供子供の一団が樽たる御みこ輿しをとりまいて喧嘩の手筈をしめしあはす。そんなことの好きな伯母さんは私にも人なみに襷をかけ、鉢巻をさせて表へつれだした。私ははしよつた著物の下から赤いふらんねるの股引をだし長い袂を襷にはさんで伯母さんの背中に小さな万燈をもつてゐた。さうしたらとある樽天王のまはりにかたまつてた腕白どものひとりが見つけて ﹁えくしよ。女におぶさつて万燈ふつてやがら﹂ といひながらいきなり二つ三つ石をたたきつけた。伯母さんははらはらして ﹁弱い子だにかねしとくれよ﹂ と急いで帰らうとするのを二三人の奴がばらばらと追つかけてきて足をひつぱつてひきずり落さうとしたので私は頸つたまに獅し噛がみついて火のつくやうに泣きだした。伯母さんは喉をしめる手をひきはなしひきはなし ﹁かねせるだ かねせるだ﹂ といつて逃げて帰つた。さうしてほつと息をついたときに折角の万燈と下駄をかたかた落してるのに気がついた。浅葱の紐でいはへる大事の下駄であつたものを。十
病身者の私はしよつちゆうお医者様の手をはなれるまがなかつたが、仕合せなことには烏犀角の東桂さんが間もなく死んだので代りに﹁西洋医者﹂の高坂さんにみてもらふやうになり、東桂さんが一所懸命ふき出さした腫物は西洋の薬できれいに洗はれてぢきによくなつてしまつた。この人は顔の怖いに似ず子供の機嫌をとることが上手だつた。で、それまで東桂さんのまづい煉薬にこりごりしてた私も喜んで甘味をつけた水薬をのむやうになつた。そのうち 私と母の健康のためにどうでも山の手の空気のいいところへ越さなければ といふ高坂さんの説によつて、幸ひそのとき殿様のはうの御用もひととほり片附いて暇になつてた父は自分の役目を人にわたして小石川の高台へ引越すことに決心した。 いよいよひき移るといふ日にはみんなして私に もうこの家へは来られないのだ といふことをよくよくいつてきかせたが、私は出入りの者が手伝ひにきて大騒ぎをするのが面白く、また伯母さんと相乗りにのせられて俥を列ねてゆくのが嬉しくて元気よく喋つてゐた。暫くして路がだんだん淋しくなり、しまひに赤土の長い坂をのぼつて――それまで坂といふものを知らなかつた。――今度の住居だといふ杉垣に囲まれた古い家についた。十一
このへんのものはみな杉垣をめぐらした古い家に静に住んでゐる。おほかた旧幕時代から代代住みつづけてる士族たちで、世がかはつて零落はしたがまだその日に追はれるほどみじめな有様にはならず、つつまやかにのどかな日をおくつてる人たちであつた。それに人家もすくない片田舎のことゆゑ近処同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知りあつてお互に心やすくしてゐる。朽ちたまま手をいれない杉垣のうちにはどこにも多少のあき地があつて果樹など植ゑられ、屋敷と屋敷のあひだには畑がなくば茶畑があつて子供や鳥の遊び場になつてゐる。畑、生垣、茶畑、目にふれるものとして珍しく嬉しくないものはない。私の家は隣のかなり広いあき地へ普請をするのでその出来あがるまでかりにこの家に住むのである。暗い陰気な玄関のわきにはゆづりはの木があつたが、その葉も赤いぢくも気にいつた。すべつこい葉をとつて唇にあてたり、頬をこすつてみたりする。越してきたあくる日に誰かが蝉をとつて有合せの鳥籠に入れてくれた。これまで見たことも聞いたこともないものゆゑ面白くはあつたけれどそばへよるとあばれてぢやんぢやんいふのが怖かつた。 私は毎朝はやく起されて草ぼうぼうとしたあき地を跣はだしで歩かされる。ぺんぺん草や、蚊帳つり草や、そこにはえてる草の名をおぼえるだけでも大変な仕事である。そのじぶん八十ぢかかつた祖母も坊主頭に毛繻子の頭巾をかぶつて杖をつきつきいつしよに露をふんであるく。祖母は性のいい三つ栗を裏の垣根のくろへ埋めて これは孫たちが大きくなるころには採つて食べられるやうになる といつてゐた。祖母がなくなつてから私どもはそれを お祖ばあ母さ様まの栗 と名づけて大切にしてたが、この節では三本ながら立派な木になつて、秋になればその昔の孫たちが笊に幾杯かの栗を落して自分の子供にむいてやるやうにさへなつた。 そのうちに普請がはじまつた。材木をひいてきた馬や牛が垣根につながれてるのを伯母さんにおぶさつて怖こは怖ごはながら見にゆく。大きな鼻の孔から棒みたいな息をつきながら馬は杉の葉をひきむしつてくひ、牛はげぶつとなにか吐きだしてはむにやむにやと噛む。落ちつきのない長い顔の馬よりもおつとりして舌なめずりばかりする丸顔の牛のはうが好きであつた。普請場には鑿のみや、手てう斧なや、鉞まさかりや、てんでんの音をたててさしも沈んだ病身ものの胸をときめかせる。職人たちのなかに定さんは気だてのやさしい人で、削りものをしてるそばに立つて鉋かんなの凹みからくるくると巻きあがつて地に落ちる鉋屑に見とれてるといつもきれいさうなのをよつて拾つてくれた。杉や檜の血の出さうなのをしやぶれば舌や頬がひきしめられるやうな味がする。おが屑をふつくらと両手にすくつてこぼすと指の叉のこそばゆいのも嬉しい。定さんはいつも人よりか後に残りぱんぱんといい音のする柏手をうつてお月様を拝んだ。私はいつまでも仕事場にうろついてゐてそれを見るのを楽しみにしてたが、ほかの職人たちは定さんに 変人 といふあだ名をつけて、ああいふ野郎はきつと若死にする なぞといつてゐた。きれいに箒目のたつた仕事場のあとを見まはると今までの賑かさにひきかへしんしんとして夕靄がかかつてくる。私は残り惜しく呼びいれられてまた明日の朝をまつ。そのやうに湧きたつ木き香がに酔つてなんとなく爽な気もちになりながら日に日に新しい住居が出来てゆくのを不思議らしく眺めてゐた。十二
すこしばかりの茶畑を間にして南隣りに少林寺といふ禅寺があつた。その寺内が広いのと、信心ぶかい伯母さんにはお寺といふものがなんとなく懐しかつたのであらうために私はときどきそこへつれてゆかれた。門から玄関まで二十間ばかりのあひだ二行に敷かれた石の両側が荒れた茶畑になつて、ところどころ杉の木やなにか立つてゐる。私はよくその茶の花をとつてもらつたが、枝にもろいその花はひとつとるとはばらばらといくつもいつしよに散つて地に落ちた。また雨のあとなどには茶の木茶の木に雫がいつぱいたまつてきらきらと光つてゐる。なんの奇もないながらかすかなさびのある茶の花は稚い折の思ひ出にふさはしい花である。円みをもつた白い花弁がふつくらと黄色い蕊をかこんで暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。それをすつぽりと鼻へおしつけてかぐのが癖であつた。左りての閼あ伽か井ゐのそばの木犀は花がさけば甘い香を漂はせ、その井戸車の軋きしる音は静な茶畑をこえて私の家までもひびく。本堂の玄関にある大きな衝つい立たてには極彩色の孔雀がかいてあつた。雄鳥が蓑のやうな尾をさげてなにかにとまつてるそばにやや小さい雌鳥が身を屈めて啄ついばむやうな姿勢をしてゐる。そのまはりに咲きみだれたいろいろの牡丹の花には蝶蝶がいくつか戯れてゐた。 また折折は近処の大だい日にち様さまへつれていつて遊ばせた。私がねぢねぢの太い綱をもつてこんこんと鰐口を鳴らすと伯母さんはお賽銭をなげておまゐりをする。さうして脳病のなほるやうに私の頭とお賓びん頭づる盧さ様まの頭をかはるがはる撫でて、それから今度は自分の眼をさする。お賓頭盧様はてかてかした手垢だらけの木地をだし大きな眼をむいて台のうへに足を組んでゐた。大日様には方方のお寺にあるやうに柿色や花色の奉納の手拭のさがつた掘りぬき井戸があつて、草双紙に阿波の鳴戸のお鶴がもつてる曲まげ物ものの柄ひし杓やくが浮いてゐた。伯母さんはそのお水をありがたさうに手にうけて眼を冷してから小さくなつた目を見ひらいてみて ﹁お大日様のお蔭でちいとはようなつたやうな﹂ といふ。 この大日様のおみくじは大層よくあたるといふ評判で遠方からわざわざひきにくる人さへあつた。それで伯母さんはあるとき私の病身がよくなるかどうかを伺つてみたことがあつた。お堂のわきの障子のたつてるところへいつて ﹁お頼み申します﹂ といつたら ﹁はい﹂ といつて頭を青青と剃つた若い坊さんが顔をだした。伯母さんは一部始終を話しておみくじを頼んだ。坊さんは本尊様のまへへいつて暫く拝んでから がらり がらり がらがらがら と調子をつけて幾度も箱をふつたのち一本のおみくじをひいてきてその文句を丁寧に紙に書いてくれた。伯母さんは﹁四角い字﹂が読めないので坊さんはいちいち訳をといてきかせたが、それは この子は将来丈夫になつて仕合せをする といふのだつたものでほくほく喜んで帰つてきた。十三
一町ほど淋しいはうへゆくと木むく槿げの生垣をめぐらしたあき地に五六羽の鶏を飼つて駄菓子を売つてる爺さん婆さんがあつた。私ははじめて見る藁屋根や、破れた土壁や、ぎりぎり音のする撥はね釣つる瓶べなどがひどく気にいつて伯母さんとそこへ菓子を買ひにゆくのが大きな楽しみのひとつになつた。爺さん婆さんは耳が遠くて呼んでもなかなか出てこない。さんざ呼んでるとそのうちやつとこさと出てきてあつちこつち菓子箱の蓋をあけてみせる。きんか糖、きんぎよく糖、てんもん糖、微みぢ塵んぼ棒う。竹の羊羹は口にくはへると青竹の匂がしてつるりと舌のうへにすべりだす。飴のなかのおたさんは泣いたり笑つたりしていろんな向きに顔をみせる。青や赤の縞になつたのをこつきり噛み折つて吸つてみると鬆すのなかから甘い風が出る。いちばん好きなのは肉桂棒といふのだつた。それはあるへいの棒に肉桂の粉をまぶつたもので、濃厚な甘みのなかに興奮性な肉桂の匂がする。あるひどい雨の日に私はどうしてか急に爺さん婆さんが可哀さうになり、それと同時に肉桂棒がほしくなつてきかないので伯母さんは私を半纏おんぶして出かけたが、あいにく肝心の肉桂棒がなかつたため私はがつかりして泣いて帰つたことがあつた。﹁牛の乳﹂をおとなしくのんだり、むづからずによく遊んだりした日には御褒美にがらがらを買つてくれる。桃や蛤の形の紅白に染めわけたのを背中でふつて楽しみながら帰つてわつてみると紙でこしらへた小鼓やブリツキ製の笛などがでる。それを宝ものみたいに大事がる。また泥色の皮で三角に包んで合せめを役者の似顔で封じたのもあつた。十四
生れつきの虚弱のうへに運動不足のため消化不良であつた私は、蜂の王様みたいに食ひ物を口に押しつけられるまでは食ふことを忘れてゐて伯母さんにどれほど骨を折らせたかわからない。羊羹のあき箱に握飯をつめ伊勢詣りといふ趣向で、伯母さんが先に立つて庭の築山をぐるぐるまはり歩いたあげく石燈籠のまへで柏手をうちお詣りをして、松の蔭にある石に腰をかけてお弁当をたべたこともあつた。またあるときは妹や乳母もいつしよに待宵の咲いてる原へ海苔まきをもつていつて食べたこともあつた。杉や榎や欅などの大木が立ちならんだ崖のうへから見わたすと富士、箱根、足柄などの山山がかうかうと見える。私はいつになく喜んで昼飯をたべてたのに折あしくむかふから人がきたものですぐさま箸をはふりだして もう帰る といひだした。生きもののうちでは人間がいちばん嫌ひだつた。そんな風で私がなにを食べてもうまがらないのを伯母さんは独得の弁舌で上手に味をつけてたべさせる。蛤の佃煮はあの可愛い蛤貝が龍宮の乙姫様のまへを舌を出して這つてあるくといふことのために、また竹の子は孟宗の親孝行の話が面白いばつかりに好きであつた。むつくらした竹の子を洗へばもとのはうの節にそうて短い根と紫の疣いぼがならんでゐる。その皮を日にすかしてみると金いろのうぶ毛がはえて裏は象牙のやうに白く筋目がたつてゐる。大きなのは頭にかぶり、小さなのはけばをおとして梅干を包んでもらふ。暫く吸つてるうちに皮が紅色に染つてすつぱい汁が滲みだしてくる。はちくも好きであつた。土鍋でぐつぐつ煮ながらさもさもおいしさうな様子をして煮えくりかへる竹の子の味をきくのをみればさすがの蜂の王様も奥歯のへんに唾のわくのをおぼえた。ときどきあまえて自分で箸をとらないと伯母さんは彩色した小さな茶碗を口へあてがつて ﹁すずめごだ すずめごだ﹂ といひながら食べさせてくれる。鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様が抱へてるのも嬉しい。眼玉がうまい。うはつらはぽくぽくしながらしんは柔靱でいくら噛んでも噛みきれない。吐きだすと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。歯の白いのもよい。十五
その頃□□さんといふ気ちがひがゐた。古い人の話によれば若いとき大変学問にこつて本ばかり読んでるうちに慢心して気がふれたのだといふ。髪を蓬蓬とのばして、垢と煤とでこけらの生えた身体に焼けこげだらけの襤ぼ褸ろをき、太い竹の杖をついてなにか考へこみながら夏となく冬となく跣のままさもしづかにさまよひあるく。昔を知つてる人たちが気の毒がつてむすびやなどやると鉄鉢をもつやうな形に大切に手にのせて帰つてゆくが、たまたま身につけるものを施す人があつても不承不承に一日ふつか著るばかりでぢきにもとの襤褸と著かへてしまふ。彼は私の家から二町ほどはなれたある農家のそばに穴を掘つて、そのなかで年ぢゆう焚き火をしてゐた。さうして気のむいたときには穴から出かけ、足のむくはうへ行きたいだけいつて、いやになればくるりと向きなほつて戻つてくる。そんなにして雨の日も風の日も何遍となくそのへんを歩きまはるのが常であつた。それゆゑどうかして一日その姿が見えないことがあると人は 今日は□□さんが機嫌がわるいのだ といひ、また三日四日も続けて出ないときには かげんがわるいのぢやないか といつて気の毒がつたりした。をかしなことに彼は往来で女に行きあへば二足三足あとへさがつてさも穢はしさうにぺつぺつと唾をはく。潔癖な伯母さんははじめて□□さんを見たときからその垢臭いのを気にして彼が三足さがらないうちにこちらから引返してしまふくらゐだつたが、ある日私をおぶつてれいの駄菓子屋へゆく途中でばつたり出くはしたら伯母さんはこらへかねて ﹁五銭あげるで、頼むに顔洗つとくれんか﹂ といつて帯のあひだから財布を出しかけた。それにはさすがの□□さんもすこし驚いたやうにたちどまつたが、さもさもいまいましさうに首をふり唾を吐くのさへ忘れて足ばやに帰つていつた。この狂人はそののち私が一人前の腕白になるまでも生きてたが、ある日のこと □□さんが昨夜のうちに焼け死んだ といふ噂がたつたのでこはごはその穴を覗きにいつたら、いつもの竹杖が粗そ朶だといつしよに焼け残つてるばかりで□□さんの姿は見えなかつた。十六
伯母さんは﹁木の実どち﹂をして遊ばせるといつて白玉椿の実を落してくれたが眼が悪いのと力がないのとで狙ひをはづして枝葉ばかり叩き落した。木の実どちといふのは国の遊びで、椿の種子のあるきめられた形のもののうちからいくつかを択んでめいめいが同じ数だけ出しあひ、それをいつしよにしてひとりづつかはるがはる両手のなかでふつてから畳のうへにあけてみて、白い芽の痕が多く上に出たものを勝ちとして種子のとりつこをするのである。その恰好と重心の関係によつて種子に勝負のうへの強弱がある。なかには漆を塗つて飾つたり、強くするために狡猾に鉛をつぎこんだりするものもあるといふ。落した実を拾ひあつめて殻をわると舟のやうなのや、鏑かぶらのやうなのや、つやつやしたのが隔壁のなかにしつくりとくひあつてゐる。その形にしたがつて もう、じやあ、とこ、かい などと呼ばれる。そんなにして五六十の種子をあつめて静な雨の日を木の実どちをして暮したこともあつた。 夏になればいろいろな形をした雲の塊が日光にあふれてぎらぎらする空を動いてゆくのを伯母さんは あれは文殊様だの、あれは普賢菩薩様だのとまことしやかに教へた。ある日のこと遊び疲れた私はひとり寐ころんで自分をまもつてくださる仏様の姿に似た雲のくるのを眺めてゐた。さうしたらちやうどそこへ通りかかつた雲の、観音様の仰むけになつたやうなのが不意に崩れて恐しい形になつたので、私は化けものが観音様になつてとりにきたのかと思つてあわてて伯母さんのところへ逃げていつた。それから私はさういふ形の雲を死しび人と観音と名づけてその影をみればすぐにかくれてしまつた。 皮籠には山崎合戦の戦道具のほかにおもちやもはひつてたが、なかにも鼓と笙しやうの笛は秘蔵の宝ものであつた。笙の笛の黒塗の壺には唐草の蒔絵がしてある。その輪がたにならんだ長い短い管の ひゆひい と柔い雑多な音をだすのが弱い神経に程よい快感をあたへる。鼓は私の小さな肩にふさはしいほどのもので、緋のしらべの緒、面白い胴の形などみな気にいつてゐた。なんでもちよいちよいかじつてる重宝な伯母さんはひとに鼓をうたせながら自分は太鼓を大革にしていい按排に拍子をあはせる。そのほかおしろい刷ば毛けにした兎の手だの、骨のたつたとき喉をさする鶴の嘴だの、目めぬ貫きをどうとかする真鍮の才槌だの、細かいものは小抽匣の沢山ついた箪笥の□ぽんの抽匣といふのにしまつてあつた。私はそのなかでどれがほしいといふやうなことはつひぞいつたことがなく、伯母さんがあれかこれかとひとつひとつ出してみせてうまくあたるまでは首をふつてぐづぐづいつてるが、大抵の時はれいのお犬様と牛を出されれば機嫌がなほつてしまふ。なにか気にいらなくて手あたりしだいにはふりだすと腹も立てずにどこかわるいのではないかと心配してぢきに額を押へてみる。熱があればすぐにお医者様へつれてゆかれるのである。それがいやさに額をおさへられるとへなへなとおとなしくなつてしまふ。菊のさくころならば伯母さんは ﹁菊毛氈をつくつたげるにおとなしうせるだよ﹂ と裏畑から菊をとつてきて菊毛氈をこしらへてくれる。それはいろいろの菊のさまざまの花びらを亜剌比亜模様のやうに紙にしいて暫く圧しをかけてから出してみると匂のいい毛氈になつてるのである。私は菊毛氈が大好きだつた。 また本箱にいつぱいある草双紙をぶちまけて気のながい伯母さんにあとからあとへと話させることもあつた。なにか叱られて泣いたあげくさんざすねて、なんのかのと賺すかしにくるのさへ腹だたしく、部屋の隅にひとりひつこんで草双紙をひろげたりおもちやをいぢくつたりして慰めてると、お犬様や、牛や、才槌や、草双紙のなかのお姫様などがものこそいはないが親切にいたはつてくれる。さうされれば泣きやんだくやし涙がまたとめどもなく湧きだして泣きじやくりしながら ﹁こんなに味方があるからいいやい﹂ といふ気になつてみんなを恨んでゐる。十七
夜は茶の間に集つてるみんなのそばでおもちやをぶちまけて遊んでるうちに、睡けがさしてくればあれもこれも癪にさはるので痒かゆい眼玉をこすりこすりむづかつてると、伯母さんは ﹁まあねむなつたかよ﹂ といひながらちらばつたおもちやをかたづけ半分力づくに頸すぢをおさへつけてみんなに 御機嫌よう をいはせるのを、寐ない 寐ない と意地ばりながら寐間へひつぱられてゆく。そこに伯母さんは私を、乳母は妹を抱いてねることになつてゐた。日がくれるとぢきに行あん燈どんをともし、床をのべて、機嫌のわるくなりしだい寐られるやうにしてある。冬ならば幾枚もかさねた寐巻があんかにかかつて湯気のたつほど温まつてるのを仰山な様子をしてふうふう吹きながら痩せた身体にほつこりと纏つてくれる。かけ蒲団のひとつは菊の模様、ひとつは更紗の海老色がかつた地に菊いただきや木の枝などついた舶来らしいものだつたが、その日向くさいのがよくて、ふつくらしたところへうつ伏せに顔をうづめて匂をかぐのが好きであつた。 私があかりの暗いのを怖がるもので、伯母さんは私を床にいれたあとで行燈の抽匣から新規に燈心をひとすぢ出してつぎそへてくれる。先をちよいと油にしましてずつぷりと沈んでる古いののそばへ並ばせるとぱりぱりと火花がちつて火がうつる。そして火皿からあまつたところがふらふらと後へ出るのを手をぶるぶるふるはせながらやつとかきあげて油壺の嘴からとくとくと飴色の種油をつぐ。ふかふかした燈心、それにぢいつと油のしみる具合、燈心おさへの恰好、油の煮える匂など。私は油のなかに虫の死骸が黒く沈んでるのと皿のふちに丁字がへばりついてるのがなにより嫌ひだつた。で、伯母さんは毎日油をかへてきりだしの刃のつぶれたのでがりがりと丁字をおとしてくれる。この臆病者には行燈といふものがなんとなく気味がわるい。ねむたい目をみはつて床のなかから眺めてると丁字がしらを心に紡ばう錘すゐ形けいにたつてる焔がきれの長いひとつ目にみえ、また鼻のさきを焦しさうに顔をつつこんで燈心をかきたてる伯母さんの影法師が行燈の紙に途方もなく大きくうつるのをみればなにかが化けてきてるのぢやないかといふ気がした。伯母さんは抽匣へ燐寸をしまひながら火に誘はれて焼け死んだ虫たちの後生のためにお念仏をとなへる。私はまたあかりのとどかない床の間の天井に魔がゐるやうな気がしてねられないことがあつた。さうすると伯母さんは ﹁やつとこさ﹂ と行燈をさげて天井を照してみて ﹁なんにもをれせん なんにもをれせん﹂ といつて私に安心させる。魔といふものは髪をばあつとさげたどす黒いもののやうに思つてゐた。伯母さんは ﹁夜なかに怖かつたら呼ばらんしよ、伯母さんはきついでみんな逃げてしまふに﹂ といつていろんな話をしながらねせつけてくれる。四角い字こそ読めないが驚くほど博聞強記であつた伯母さんは殆ど無尽蔵に話の種をもつてゐた。おまけにどうかして忘れたところは勝手な想像でいい按排につづけてゆくことに妙を得てるのであつた。さうして侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色をつかつて、しまひには化けものの顔までしてみせるのが行燈のうす暗い光に照されて真にせまつてみえた。十八
なかでもあはれなのは賽の河原に石をつむ子供の話と千本桜の初音の鼓の話であつた。伯母さんは悲しげな調子であの巡礼唄をひとくさりうたつては説明をくはへてゆく。その充分なことわけはのみこめないのだが、胎内で母親に苦労をかけながら恩を報いずに死んだため塔をたてて罪の償ひをしようと淋しい賽の河原にとぼとぼと石を積んでるのを鬼がきては鉄かな棒ぼうでつきこはしてひどいめにあはせる。それをやさしい地蔵様がかばつて法衣の袖のしたにかくしてくださる といふのをきくたんびに、私は息のとまりさうな陰鬱な気におしつけられ、また可哀さうな子供の身のうへがしみじみと思ひやられてしやくりあげしやくりあげ泣くのを、伯母さんは背中をなでて ﹁ええは ええは、お地蔵様がおいであそばすで﹂ といふ。地蔵様といへば路ばたに錫杖をついてたつてるあの石仏のとほりの仏様だと思つてゐた。 仏性の伯母さんの手ひとつに育てられて獣と人間とのあひだになんの差別もつけなかつた私は親の生皮を剥がれたふびんな子狐の話を身につまされてきいた。親の白狐は皮を剥がれながら わが子かはいや わが子かはいや といつて鳴いたといふ。これは私の知つてる鼓についての三つの話のうちの最もあはれな話である。それは神秘の雲につつまれて天から降つた鼓でもなく、つれない人が綾で張つたといふ音なしの鼓でもなく、大和の国の野原にすむ狐の皮で張つたただの鼓が恩愛の情にひかれてわが子を思ふ声をだしたといふのである。私は今でもこの話を思ひだせば昔ながらの感情の湧きおこるのをおぼえる。 伯母さんはまた百人一首の歌をすつかりそらんじてゐて、床へはひつてから一流のものさびしい節をつけて一晩に一首二首と根気よくおぼえさせた。伯母さんが ﹁たちわかれ﹂ といふ。私が ﹁たちわかれ﹂ とあとをつく。 ﹁いなばのやまの﹂ ﹁いなばのやまの﹂ ﹁みねにおふる﹂ ﹁みねにおふる﹂ そんなにしてるうちにいつか寐入つてしまふ。よくおぼえたときは ﹁あした御褒美をあげるにまあねるだよ﹂ といつて叩きつけてねせてくれる。私が歌をはやくおぼえるのをたいへんなえらい子ででもあるかのやうに思つて伯母さんは明る日母などに ﹁ゆんべはふたあつもぢつきにおぼえた﹂ なぞと自慢らしく話したりした。私はわからぬながらも歌のなかの知つてる言葉だけをとりあつめて朧おぼろげに一首の意味を想像し、それによみ声からくる感じをそへて深い感興を催してゐた。そのじぶん私は古い歌がるたをもつてたが、それには一枚のふだのなかに歌と歌にあはせた絵がかいてあつて、けばだつて消えかかつてはゐたけれどそれでも松に雪のふりつもつてるところや、紅葉のしたに鹿の立つてるところなどぼんやりと見わけられた。また百人一首の綴ぢ本もあつた。歌の好き嫌ひはかるたの絵とよみ人の姿、顔かたちによつてもきめられる。好きな歌は末の松山の歌、淡路しまのうた、大江山の歌など。末の松山のうたは私の耳にいひしらぬ柔なものさびしい響きをつたへて、かるたの絵には松の浜に美しく波がよせてゐた。淡路島の歌は涙をさそふ。海のうへを舟がゆき、千鳥が飛んでゆく。大江山の歌をきけばお姫様が鬼にとられてその山奥へつれられてゆく草双紙の話を思ひださずにはゐられなかつた。僧正遍照や前大僧正行尊などといふ皺くちやの坊さんは大嫌ひだつたが蝉丸だけは名まへからも可愛かつた。十九
雪の夜には伯母さんはあんかの炭たど団んをかきおこしながら 雪坊主が白い著物をきて戸のそとに立つてゐる なぞといつて人をおどかす。暑いときには寐苦しがるのをあふいでくれる団扇の絵にも好みがあつて好きなのでなければなかなか寐つかない。いい匂のする蚊帳のなかでそとを飛ぶ蚊の声をききながらいたづらに骨をひとつ折つてみたりしてると隣の寺の藪へごろすけがきて鳴く。伯母さんは ﹁ぽつぽどりは悪い鳥でひと声に蚊を千匹つ吐くげな。あすは蚊がえらいぞよ﹂ なぞといふ。すず風がたつころになればこほろぎが鳴きはじめる。あるとき可愛がつてやらうとおもつて蛍籠にいれておいたところ二声か三声ないたぎり黙つてるのでそうつとのぞいてみたら籠にはつた絽をくひ破つてみんな逃げてしまつてゐた。その声をきけば子供心にもなにがなし立つ秋のさびしさをおぼえる。伯母さんは さむなつたにつづれさせ と鳴くのだといひ、乳母は妹に ちちのめ ちちのめ ちちのむとくひつくぞ と鳴いてるのだといふ。 朝どうかして早く目をさますと少林寺の槙まきの木に巣をくつてる烏の声がきこえるのを伯母さんは ﹁まんだ一番烏だにまつとねるだよ﹂ といつてなかなか起してくれない。二番烏が鳴いて三番烏がなくとやつと起してくれる。そんなことをいつてちやうどいいじぶんまで寐かせておくのであつた。 夕がたになれば寐間のまへのこんもりした珊瑚樹のしげみに大勢の雀がねぐらをもとめにきて首をふつて嘴をといだり、枝をあらそつてつつきあつたりして騒ぐ。おてんと様がかくれてやがて残りのうすい光も消えてゆけばひとつふたつ ちゆく、ちゆく と寐おくれてたのまでが黙つて静になつてしまふ。その雀たちをお友だちのやうにおもつて、三番烏が鳴いてもまだ起きずにゐるとねぐらをたつてゆく彼らがちゆうちゆういひだすのを自分の寐坊を笑つてるやうな気がして大急ぎで床をでる。珊瑚樹はその名にそむかぬ真紅の実をむすぶ。柔な苔のうへに落ちてるのを拾ふのもうれしい。二十
三四十坪ほどの裏のあき地はなかば花壇に、なかば畑になつてゐた。夏のはじめのころになれば垣根のそとを苗売りがすずしい声をしてとほる。伯母さんはそれを呼んで野菜ものの苗をかふ。藁でこしらへた箱のなかにしつとりと水けをふくんだ細かい土がはひつて、いろいろな苗がいきいきと二葉をだしてゐる。菅笠をかぶつた苗売りの男がさも大事さうにそれをすくひだす。伯母さんは茄子だの瓜だのをすこしづつかつて畑へうゑる。茄子の紫がかつた苗、南かぼ瓜ちやや糸へち瓜まのうす白く粉をふいたやうな苗が楕円形の二葉をそよがせてるのを朝晩ふたりして如露で水をかけてやる。苗は見るたんびに成長して、蔓がでたり、葉がでたり、しまひには畑ぢゆうのたくりまはつて大きな実をぶらさげる。それを楽しみにして検分にゆく。そんな世話のすきな伯母さんは愚痴をいひいひ竹を立てて手をとつてやるとひと巻きふた巻きと日に日に蔓がまきついて、あらつぽい葉のあひだに黄いろや紫の花がさく。そこへ丸つこい虻あぶがきてわがもの顔に飛びまはつては花のなかへもぐつてゆく。むだ花がころころと落ちるうちにほんとの花の根もとにふくらみができて、平たくなり、長細くなりして、世にいふ唐茄子や南瓜の形ができあがる。茄子の巾著なり、糸瓜のぬうつとした恰好、つぶつぶしてにくらしい黄瓜など。葉をのけてみて思ひよらぬ実のいつたのを見つけたときの嬉しさはない。なた豆、ふぢ豆、ちび筆ににた葱の花。 あるとき唐茄子の苗をかつて植ゑたらそだつにしたがひ様子がかはつてきてたうとう瓢箪になつた。私はいくつとなくぶらさがつた瓢箪をみて大喜びだつたが伯母さんは苗売りにまんまと一杯くはされたのをくやしがつてろくに世話をしてやらなかつたものでみんな落ちてしまつた。それからは下の町の青物屋へ買ひにゆくことにしたが伯母さんはなにの苗を見ても瓢箪ぢやないかと疑つて、もし生えてから瓢箪がなつたら瓢箪の木を返しにくるがいいかと いつて青物屋をきめつけた。 畑をめぐる杉垣のくろには祖母の栗と私が拾つてきてまいた胡くる桃みが芽をだしてゐる。また祖母が好きで植ゑておいた鳳仙花の種がちらばつてあちらこちらに咲く。とりたてて見どころのない草ながら私も鳳仙花が好きである。いたづらに花をとつて爪を染めたりする。おしろいの実をつぶして白い粉をだすのが面白かつた。杏の花、緋桃の花。巴旦杏の古い木があつて雲のやうに青白い花をさかせたが、それは私たち兄弟のなによりの楽しみで烏のくるのを気にしては追ひにいつた。大きな実が鈴なりになるので枝がしなつて地びたについてしまふ。背のとどくところは手でちぎり、高い枝のは打ち落して重たい笊をかかへて帰る。花壇には鬼百合や白百合がさく。私はあまり明るい色、濃厚な色を見れば胸ぐるしい圧迫を感じるのが常であつたが、花でいへば百合の雄蕊の頭にこつとりとついてる焦げ色の花粉なぞがさうであつた。二十一
ぢき近くに閻魔様のお寺があつた。地獄の釜の蓋のあく日がきて陰鬱な鐘の音が人を促すやうに鳴りはじめると伯母さんは気のすすまない私に花色の帷かた子びらをきせ、唐縮緬のしごきを胸高にしめさせてお詣まゐりにつれてゆく。お盆にはきまつてその帷子をきせられたため花色といふ色までが私を陰気にするやうになつた。狭くるしい境内から門前へかけて一杯五厘の氷屋や、おでん、寿司の屋やた台いみ店せがぎつしりとならんで、ぴいぴいいふ風船の音、物うりの呼び声などが砂ほこりのなかに堪へがたい騒ぎをする。そして前垂がけの丁稚小僧どもが自分たちの閻魔様ででもあるやうにはしやぎまはる。私はことにこの種の人間が嫌ひであつた。二三段石段をあがつて千社ふだのべたべた貼りついた赤門をくぐれば右てに小さな閻魔堂があつて型のごとく野鄙な顔をした閻魔様がひかへてゐる。線香の煙がむんむとこもつてるなかで町の子がぎやんぎやんぎやんぎやんひつきりなしに鉦を叩くので頭がみぢやけさうに苦しいのを伯母さんはいつでも撞木をかりて私にも二つ三つ叩かせずにはおかない。さうしてよく閻魔様の顔を見せてからやうやくそこをでる。ほつと息をつくと今度は本堂にある三途の川のお婆さんのとこへつれてゆく。かなつぼまなこのなま白い婆さんが紅白の綿を幾枚も頭にのせて坐つてゐる。私は不愉快と炎天にさらされるために烈しい頭痛に悩まされるのが常であつたが、それにもかかはらず迷信家の伯母さんはなんのかのといつて毎年つれてゆかずにはおかなかつた。 涅ねは槃ん会ゑの日には燻くすぼつた寝釈迦さんの軸をかけ、そのまへに小机をすゑて香華をそなへる。この虫ばんだ軸とお仏壇のうへのまつ黒な大黒様の像とは伯母さんのとこの財産のたつた二つの残りものであつた。伯母さんは小机のまへに坐つてお念仏をとなへながら私にお線香をあげさせ、またいろいろとお釈迦様の話をしてきかせる。お釈迦様のまはりに集つてるものは象、獅子をはじめ、阿修羅、緊那羅、龍族、天人、それらはこのたつとい迷信家の巧な物語によつて見るみる生きて涙を流しはじめる。沙羅双樹の梢に棚引いた雲のうへから美しい人が見おろしてるのは摩耶夫人といつてお釈迦様のお母様だといふ。その摩耶夫人が天から投げた薬の袋が沙羅の枝にかかつてるのを誰ひとり気がつかないのだなぞとお釈迦様の涅槃を親にでもわかれるやうにいつてきかせるので、私はお釈迦様がかはいさうになつて泣いた。二十二
月三さいの大日様の縁日には雨さへふらなければかかさずにつれてゆく。私が袂につかまつてあるくために伯母さんの羽織がかたよつてしまふので路なかに立ちどまつてはなほしたが、人通りの多いところなどでは指を一本一本ほどかねばならぬほど獅噛みついてゐた。伯母さんの羽織の紐は私がこまむすびに結び、私のは伯母さんが琴むすびに結んでくれる。大日様へゆくとお賽銭を投げさせて ﹁お蝋をどうぞ﹂ といふ。お堂のなかのぴかぴかするへんで ﹁はい﹂ と返事をして若い坊さんが蝋燭をともして本尊様のまへに立てそへる。伯母さんは一心にお念仏をとなへて ﹁さあこれでええ﹂ といつて袂をつかませてお寺の門をでる。それは この子の病身がなほりますやうに、道を歩いても怪我をしませぬやうに などといろんなことを八の日八の日までに考へためておいて大日様にお願ひするのであつた。 縁日には大勢乞食がでてお寺の塀ぎはにずらりとならぶ。それが私の行くじぶんにはまだ出そろはずにちんばや躄などのなかで足のはやい奴が二三人あんぺらを敷いたりして支度をしてゐる。私はいつとはなしに伯母さんの感化をうけさういふものに施しをしたあとで淡いながら底深い子供の慈悲心の満足をおぼえるやうになつた。乞食のうちに顔かたちのととのつたひとりの女の目くらが琴をひいてるのがあつた。まだ今のやうに琴といふもののゆきわたらないじぶんのことで、伯母さんは乳母とよくその噂をして昔のお旗本か、さもなくば御殿奉公でもしたもののなれのはてにちがひないといつてゐた。彼女はききとれないほどつぶれた声で琴歌をうたふ。琴爪が糸のうへをさらさらころころとすべつてゆくのも、雲のやうなもくめのある胴のうへに雁の形の琴こと柱ぢがちらばらに立つてるのもみな珍しく美しくみえた。二十三
すこし早くゆけば見世物師が蜘蛛のやうに小屋がけをしてゐる。そばには見世物に使ふ道具や生きもののはひつた箱がおいてあるのを好奇心にみちて見てるとやがて絵看板があげられる。大概は気味のわるいのばかりで、海のなかを大きな眼玉の人魚が泳いでるところだの、大蛇が二ふた叉またの舌を出して鶏をのまうとしてるのなどだつたが、そのなかにときどき鼠の芸当のがあつて、空色の看板にいろんな著物をきた無数のこま鼠が日の丸の扇をもつたりして芸当をしてるところがかいてあつた。私はそれがひどく気にいつてそれのかかるたんびにはひつてみた。南京鼠が幾匹も出てきて荷車をひいたり車井戸を汲んだりする。いちばんしまひには張子の倉のなかから小さな米俵をくはへだして積みあげるのをやつた。茶の斑ぶちや、まつ白なのや、いりみだれて走りまはるのが可愛くてならない。鼠つかひは三十恰好の女で、そのころはまだごく珍しかつた束髪に帽子をかぶつて女異人のなりをしてゐた。女は鼠が俵を運びだすたんびに ﹁よいとよいとはこんでえつさつさ﹂ と拍子をとる。そそつかしい鼠のおとした俵が見物人のはうへ転げてくることがあるとほかの子たちはすぐに拾つて投げかへしてやる。女は ﹁ありがたうよ﹂ と愛想よくほほゑんで頭をさげる。俵は私のまへへもたびたび転がつてきた。私は拾つてやりたかつたのだけれどなぜか気ばかりはらはらしながらどうしても手をだすことができなかつた。鼠の芸当がすむと女は青と赤に染めわけた籠から一羽の鸚鵡をだして口まねをさせる。鸚鵡は手のひらへおとなしく乗つて女のいふとほりさまざまなことをいふのだが、機嫌のわるいときは冠毛を立ててきやあきやあ鳴くばかりでなんにもいはない。そんなときには女は術なさうに首をかしげて ﹁太郎さんは今日はどうしてさうなんでせうねー﹂ といふ。鸚鵡の絵のやうな姿、鉤なりの嘴、悧巧さうな眼などを思ひながら残り惜しく小屋をでた。二十四
夜店のうちでほほづき屋は心をひくもののひとつであつた。歯車のついた竹筒をぶいぶいとまはしながら ﹁ほほづきやーい ほほづき﹂ と呼ぶ。簀すの子にしいたひばの葉のうへに赤、青、白、いろいろなほほづきをならべて、雫がほとほととしたたつてゐる。団扇の形した海ほほづき、人魂ににた朝鮮ほほづき、天狗ほほづき、薙刀ほほづき、それらはみな海のほほづきで、革質の袋のなかに磯臭い垢がはひつてゐる。たんばほほづき、千なりほほづき。おやぢは竹筒をまはして ﹁ほほづきやーい ほほづき﹂ と呼ぶ。ほかのほほづきは鳴らせないのでいつも海ほほづきを買つてもらつて大切に手に握つてかへる。たんばほほづきは緋の法衣をきた坊さんの姿である。むいてみて蚊がさしてると姉はくやしがつて畳へたたきつける。蚊といふ奴はわるい奴である。まだ青いうちにこつそり甘い汁を吸つておく。そんなのは坊主頭にぽつちりとほしがあつて揉んでるうちに皮が破れてしまふ。 夏は虫屋の店に気をそそられる。扇、船、水鳥などの形をした虫籠に緋色の総をさげてりんりんれんれん松虫や鈴虫を鳴かせてゐる。きりぎりすは戸をひくやうに、轡虫はかさこそとなく。私は松虫や鈴虫がほしいのにいつもきりぎりすしか買つてくれないのであるときわざと伯母さんの嫌ひながちやがちやを買つて夜どほし眠らせなかつたことがあつた。それらは粗末な竹籠の四隅に赤や青の柱のあるのにいれてよこす。瓜のきれを格子にはさんでやると髭をふりふりくひかいてゆく。わけのわからない顔をして、不釣合に長い後脚がうしろむきについてるのもをかしい。 また鉢植ゑの草花をかつてくることもあつた。寐るときになれば夜露にあててやるといつて軒さきに出しておく。それらの花をみるときの子供心をなんといはうか。そののちもはや再びすることのできない清浄無垢のよろこびであつた。花にそそのかされて明る朝ははやく起き寐巻のまままぶしい眼をこすりこすりみると、花や葉に露がちろりとたまつて、天鵞絨のやうな石竹の花、髷の形した遊蝶花、金盞花などいきいきと目ざめてゐる。 絵草紙をかふとくるくると巻いてまんなかに帯をしてくれるのをそうつと手にもつてときどき筒のなかをのぞきながら帰つてくる。と、みんなが どんなに綺麗だか見せてくれ といふので勿体らしくそろそろほどいてみせる。誰も彼も眼をまるくして ほしい ほしい といふ。枠のそとには赤いんきで しんぱんけだものづくし などとかいてある。鼻を長くしてにこにこした象も、壺口の兎も、鹿も、羊も、みんな可愛い。ほかの獣はひとりでおとなしくしてるのに熊ばかりはまつかな金太郎と相撲をとり、鼻のさきが竹の子みたいにつきでた猪は仁にた田んの四郎におさへられてゐた。一順みせびらかせば 御機嫌よう をいつて寐間にはひり伯母さんの仰山な絵ときをききながらさんざ見かへしてから枕もとにおいてねる。二十五
意気地なしの私は人なかでは口がきけずなにかほしいものが目につけば袂をつかんだまま黙つて立ちどまつてしまふ。すると伯母さんは心得てあたりを見まはしあれかこれかとたづねる。うまくあたるまではいつまででも首をふつてるがよくよくあたらないとしかたなしにそつと指さしをして、その指ははづかしさうにひつこめて口にくはへる。三すくみのおもちやが大好きだつたが伯母さんは蛇が嫌ひだもので知らないうちにぢきにしまひこんでしまつた。竹の兎はぴよんと跳ねる。暖い日には膠がゆるんで威勢よくぴよんと跳ねずにそろそろ尻をもちあげて横つ倒しになる。そのほか籠のなかの鳥が籠についてる柄を吹くとぴいぴい囀りながらまはるのや、ちりちりと尾をふりながらすべりおりる鯛弓のおもちやなどが好きであつた。 木枯しの夜などには露店のかんてらの火が淋しい音をたてて燈心が血ばしつた眼玉みたいにみえる。そんなときにかはいさうでならなかつたのは葡萄餅をうる婆さんであつた。葡萄餅とはどんなものかしらない。七十ぢかい萎びかへつた婆さんが ぶだうもち とかいたはげちよろの行燈をともして小さな台のうへに紙袋を数へるほどならべてるが、つひぞ人の買ふのをみたことがない。私はそれを気の毒がつて無むじ上ようにせがんだけれどあんまり穢いのでさすがの伯母さんも二の足をふんで買つてくれなかつた。何年かのち私がひとりで縁日に行けるやうになつてからも婆さんは相変らず蕎麦屋の角に店を出してゐた。私は市のたんびに幾度となくそのまへを行きつ戻りつして涙をためてゐた。が、いつも買ひおほせずに本ほ意いなく帰つてきてしまつた。とはいへある晩たうとう思ひきつて葡萄餅の行燈のそばにたちよつた。婆さんはお客だとおもつて ﹁いらつしやい﹂ といつて紙袋をとりあげた。私はなんといつてよいかわからず無我夢中に二銭銅貨をはふりだして後をも見ずに少林寺の藪の蔭まで逃げてきた。胸がどきどきして顔が火のでるやうに上気してゐた。 八幡様の馬鹿囃子へはちつとも行かうとしなかつた。それはあの鼻つぴしやげの馬鹿の仮面、目のとんちんかんなひよつとこの顔、またあんまりひつつこい野鄙な道化が胸をわるくさせたからである。けれども家の者は私の憂鬱をなほさうとしての無智な親切から、伯母さんまでがみんなの味方になつてどうかしてつれださうとする。九つ十にもなつてからはそんなところへゆくことの苦痛をくれぐれも訴へたけれどみんなはそれを遁げ口上とばかりおもつて権柄づくで押し出すのが常であつた。そんなときには私は近処の原へいつて大木の立ちならんだ崖のうへに寐ころんで山を見ながら幾時をすごした。二十六
このへんの子は神田の腕白どもにくらべればさすがにおだやかだし、それに往来は静だし、私のやうなものにとつてはまことに屈竟な世界であつた。で、伯母さんは一所懸命私の遊び仲間によささうな子供をさがしてくれたが、そのうち見つかつたのはお向ふのお国さんといふ女の子であつた。――お国さんのお父様は阿波の藩士で、そのじぶん有名な志士であつたといふことは近頃になつて始めて知つた。――伯母さんはいつのまにかお国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛もちのことまでききだしてもつてこいのお友達だと思つたのである。ある日伯母さんは私をおぶつてお国さんたちの遊んでる門内のあき地へつれてゆき ﹁ええお子だに遊んだつてちやうだいも﹂ といひながらいやがる私をそこへおろした。みんなはちよつとしらけてみえたがぢきにまた元気よく遊びはじめた。私はその日はお目みえだけにし、伯母さんの袂につかまつて暫くそれを眺めて帰つた。その翌日もつれてゆかれた。そんなにして三日四日たつうちにお互にいくらかお馴なじ染みがついて、むかふでなにかをかしいことがあつて笑つたりすればこちらもちよいと笑顔をみせるやうになつた。お国さんたちはいつも蓮華の花ひらいたをやつてゐる。伯母さんはそれから家で根気よくその謡うたを教へて下稽古をやらせ、それが立派にできるやうになつてからある日また私をお向ふの門内へつれていつた。さうしていぢけるのを無理やりにお国さんの隣へわりこませたが意気地のない二人はきまりわるがつて手を出さないので、伯母さんはなにかと上手に騙しながら二人の手をひきよせて手のひらをかさね、指をまげさせて上からきゆつと握つてやうやく手をつながした。これまでつひぞ人に手なぞとられたことのない私はなんだか怖いやうな気がして、それに伯母さんに逃げられやしないかといふ心配もあるし、伯母さんのはうばかり見てゐた。あらたにこの調和しがたい新参者が加はつたために子供たちはすつかり興をさまされていつまでたつても廻りはじめない。それを見てとつた伯母さんは輪のなかへはひり景気よく手をたたいて ﹁あ ひーらいた ひーらいた なんのはなひーらいた﹂ とうたひながら足拍子をふんで廻つてみせた。子供たちはいつか釣りこまれて小声にうたひだしたので私も伯母さんに促されてみんなの顔を見まはしながら内ない證しよで謡のあとについた。 ﹁ひーらいた ひーらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた……﹂ 小さな輪がそろそろ廻りはじめたのをみて伯母さんはすかさず囃したてる。謡の声がだんだん高くなつて輪がだんだんはやく廻つてくる。平生ろくに歩いたことのない私は動悸がして眼がまはりさうだ。手がはなしたくてもみんなは夢中になつてぐんぐん人をひきずりまはす。そのうちに ﹁ひーらいたとおもつたらやつとこさとつーぼんだ﹂ といつて子供たちは伯母さんのまはりへいちどきにつぼんでいつたもので伯母さんは ﹁あやまつた あやまつた﹂ といつて輪からぬけだした。 ﹁つーぼんだ つーぼんだ、なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ……﹂ つないだままつきだしてる手を拍子につれてゆりながらうたふ。 ﹁つーぼんだとおもつたらやつとこさとひーらいた﹂ つぼんでた蓮華の花はぱつとひらいて私の腕はぬけるほど両方へひつぱられる。五六遍そんなことをやるうちに慣れない運動と気疲れでへとへとにくたびれてしまひ伯母さんに手をほどいてもらつて家へ帰つた。二十七
お国さんはお友達といふものの最初の人であつた。はじめのうちは私も伯母さんがそばについてゐなければ遊べなかつたし伯母さんもいはばぽつと出の子供の身のうへを気づかつてそばをはなれなかつたが、ここは神田へんとはちがつてまつたく私みたいな子のための世界といつてもいいくらゐ静な安全なところであることを見とどけて、車がきたら門の内へはひれの、溝のはたへはよるなのと細かい注意をくどくどいひきかせたのちひとりおいて帰るやうになつた。 二人がさしむかひになつたときにお国さんは子供同士がちかづきになるときの礼式にしたがつて父の名母の名からこちらの生年月日までたづねた。そしてなにの歳だといつたからおとなしく酉とりの歳だと答へたら ﹁あたしも酉の歳だから仲よくしませう﹂ といつていつしよに こけつこつこ こけつこつこ といひながら袂で羽ばたきをしてあるいた。おない年はなにがなし嬉しくなつかしいものである。お国さんはまた家の者が自分のことを痩つぽちだのかがんぼだのといふといつてこぼしたが私もみんなに章魚坊主といはれるのがくやしかつたので心からお友達の身のうへに同情した。いろいろ話しあつてみればいちいち意見が一致して私たちは間もなく仲よしになつてしまつた。お国さんは浅黒く痩せた鼻の高い子で、前髪をさげて赤いきれでおさげの根を結へてゐた。 二人は虫くひだらけの門柱によりかかつたり、しやがんで泥いぢりをしたりして頭がくつつきあふほど顔をよせながら、昨日何本めの歯がぬけたとか、どの指へ刺とげをたてたとか埒もないことを喋しやべりあつて、お互に意気投合すればなんといふこともなく あははははは と笑ふ。お国さんはたしか糸きり歯が一本ぬけて笑ふたんびにそこが洞穴みたいにみえた。家で伯母さんばかりを相手にしてた私はお国さんと友達になつてから善いこと、悪いこと、急に智慧がついてきたけれど、おない年とはいへよつぽど遅れてたのでなんでもいふことをきいて遊んでゐた。 近処にお峰ちやんといつて私たちよりひとつ年うへの子がゐた。お峰ちやんは意地わるなばかりかひどい焼餅やきでみんなに嫌はれてたが、毎日顔をあはすので子供同士のつきあひで時にはどうしてもいつしよに遊ばなければならないことがあつた。ある日のことまたお国さんと歳の話がでて こけつこつこ こけつこつこ といつて羽ばたきしてたらお峰ちやんは ﹁あたし申さるの歳だから﹂ といつてきやつきやつと二人をひつかいた。二十八
お国さんの櫛は赤く塗つて菊の花の蒔絵がしてあつた。緋と水色の縮緬でこしらへた薬くす玉だまの簪ももつてゐた。お国さんはなにか新しいのを買つてもらふと自慢してみせておきながらよく見ようとすれば袂へかくしたりして人を焦じらせる。私はそんなものを見るたんびに自分が女に生れなかつたことをくやみ、また男はなぜ女みたいに綺麗にしないのだらうと思つた。 お国さんはかくれんぼをしようとするときはいつでも 昨日裏の藪から三つ目小僧がでた の、山かがしがとぐろまいてた のとおどかしておいてから人を李すももの木の蔭に目をつぶらせてどこかへかくれてしまふ。私は家をぐるりとひと廻りして裏のはうへ捜しにゆく。お庭へ曲るところに竹矢来をして鵞鳥が二羽飼つてあるのが怖くてしやうがない。そうつと通らうとするのを恵比寿様の冠みたいな頭をのしあげてがわがわ追つてくる。やつとの思ひでそこを通りぬけて茶畑のはうへゆくと隣の乳牛が埒のうへから頸をのばして めえ といふ。それが怖いので茶畑のなかはいいかげんにしてお庭をさがす。大きな木が沢山あるのでなかなか見つからない。あたりを見まはしても誰もゐないし、帰り路には牛と鵞鳥が待ちかまへてるし、心細くなつて ﹁もういいかーい﹂ と呼んでみる。しんかんとしてるところへ自分の声ばかり響いてなんにも聞えない。お国さんは人を騙してどこかへ行つてしまつたのぢやないか なぞと思へばなほなほ淋しくなつて はやく伯母さんが迎ひにくればいいのに と思ひながらまた ﹁もういいかーい﹂ と呼んでみる。我ながら涙声になつてゐる。さうすると竹藪のへんで ﹁もいよ﹂ と小さな声でいふ。ゐるな と思つて竹藪の入口までいつても垣ひとへ向ふにはお寺の銀杏の木がまつ黒に立つてるし、竹のあひだには椿や皀さい角か子ちがごちやごちやに繁つていやにうす暗い。三つ目小僧が出たといふのはほんとかしら などと思つてたち竦んでると奥のはうでくすくすと笑ひ声がする。で、やうやく元気づいてはひつてゆくのだが、竹の切株や根つこが到るところ出てるうへにいたいいたい草がいちめんに生えてるのがふだん石ころひとつにも伯母さんがやかましく世話やいてくれる私には針の山をゆく気もちで足の踏みどころもない。おまけになんだかそこらぢゆう山かがしがとぐろまいてるやうな気がして気味がわるくてならないのを、やつとの思ひでひと足づつ踏みこんでいつていよいよ見つかりさうなとこまでゆくとお国さんは隅の暗いところから ﹁おばけー﹂ と白眼をして出てくる。それをお国さんだとは知りながらも総毛だつて ﹁いやだつてば、いやだつてば﹂ と逃げだせば面白がつてどこまでも追つかけてくる。そこでこんだはこつちが隠れる番になる。けれども私は藪のなかへは隠れ得ないし、それにさきは案内をよく知つてるのでぢきに見つかつてしまふ。でもどうかしてなかなか捜せないとお国さんは家へあがつてお菓子をたべてるのをそれとは知らずいくら待つてゐても来ないので ﹁もうよし夜があけた﹂ といつて出てゆくと ﹁ほら見つけた﹂ とむにやむにややりながら出てきて ﹁あなたにもひとつあげませう﹂ といつて金華糖のかけらなどくれる。二十九
私たちはうつし絵が大好きだつた。その油くさい匂をかぐときの気もちはない。はやくついたはうが勝ちだといつて貼つたうへへべとべとに唾をつけて ﹁はやくくつつけ はやくくつつけ﹂ といひながら指でこすつてゐる。いろんな色の鳥や獣などの押された手の甲をならべていたづらに皮をのばしたり縮めたりするのが面白い。すこしたつと乾いて痒くなるのをそうつとまはりを掻いてこらへてゐる。時にはおそろひの絵を二の腕に貼りいつまでもとつときつこだといつて著物にすれないやうに大事にしてるが明る朝みるときれぎれになつて訳のわからないものになつてゐる。朝飯をすますやいなやおそるおそるお国さんのとこへいつて ﹁こんなになつたからかんにんして﹂ といへばわざとつんとしてこれ見よがしに袖をまくつてみせる。と、やつぱしめちやくちやになつてるのを眼をまるくして ﹁あたしのもこんなになつちやつた﹂ といつてさもをかしさうに笑ふ。 桜の花のちるころには花びらを糸にぬいて数の多いのをきそふ。 ある日お国さんのとこの玄関のまへで赤のまんまを茶碗にもり、かたばみ草の実を黄瓜に見たててままごとをしてたらお峰ちやんが ﹁遊びませう﹂ といつてやつてきた。お国さんは ﹁にくらしいからいぢめてやりませう﹂ と耳つこすりをし垣根に生えてるほーれ草をこつそりとつていきなり ﹁おまいにほうれたほーれ草﹂ といつてぶつけた。さきも負けない気になつてぶつけかへした。お国さんが手にいつぱいもつてるのを半分よこしたから私も平生の意趣ばらしに思ふさまぶつけてやつた。 ﹁おまいにほうれたほーれ草﹂ ﹁おまいにほうれたほーれ草﹂ ﹁おまいにほうれたほーれ草﹂ 不意討ちではあり多勢に無勢で逃げだしたのを追つかけてめちやめちやにぶつけたらみるみるうちに背中いちめんにくつついた。お峰ちやんは怖い顔をして睨めておいてほーれ草をぶらさげたまま帰つてゆくのでいつけられはしまいかとこはごは見送つてたらひよいとふりかへつて憎にく体ていにをつきだしてかけていつた。 蚕そら豆まめの葉をすふと雨蛙の腹みたいにふくれるのが面白くて畑のをちぎつては叱られた。山茶花の花びらを舌にのせて息をひけば篳ひち篥りきににた音がする。 春になるとお儒者のやうな玄関のまへにある李すももの木が雲のやうに花をつけ、その青白い花がまばゆく日に照されてすーんとした薫があたりにただよふ。近処の子供たちはみんなその蔭へよつてきていろんな遊びをする。彼らの声がきこえると伯母さんは私をつれていつてみんなに耳うちをして帰つてゆく。彼らはみんな三つ四つ年うへだつたが子煩悩な伯母さんになついて □ちやんとこのをばさん □ちやんとこのをばさん といふやうになり、自然私をかばつてよく遊んでくれ、子供らしい世話もやいてくれた。をかしなことに彼らは私よりずつと大きいくせになにをやつてもぢきに負かされてしまふ。鬼ごつこをすれば誰も私をつかまへ得ないし、独こ楽まをまはせば誰のも不思議にあたらない。そしてなにがなんだかわからずにこちらが勝つてしまふ。家へ帰つて鼻を高くして話すとみんなは ﹁えらいえらい﹂ といつてほめた。このぼんやりが自分の味噌つかすにされてるのに気がつくのは容易なことではなかつた。三十
やはりこのへんに住んで百姓と商ひを半半にしてる水飴屋の親仁があつた。彼は天気でさへあれば必ずちやるめらをふきふき車を挽いてくる。あのすべてのものの調和をうちこはしてしまふやうな響が妙に子供の胸をときめかせて家にゐる者は家をとびだし、遊んでる者は遊びをやめてとんできて、棒ちぎれを刀にさした奴や、泥だらけの独楽を懐ふところへおしこんだ奴が車をとりまいてわいわいと騒ぐ。水飴のほかにあてものや駄菓子などももつてるのでみんなは我がちに赤や青の紙をめくつてあてものをする。親仁は桶のなかに琥珀色にをどんでる飴をきゆつきゆつとひつぱりあげて木箸のさきにてらてらした坊主頭をこしらへる。それを口一杯に頬張つてくるくる廻してると濃厚な甘味が唾にとけてだんだん小さくなつてゆく。 よかよか飴屋もきた。真鍮の箍たがをたくさんはめた盥みたいなもののまはりに日の丸の小旗がぐるりとたつて、旗竿のさきに鴛をし鴦ど鳥りの形をした紅白の飴がついてゐる。鯉の滝のぼりの浴衣をきた飴屋の男が うどどんどん と太鼓をたたきながら肩と腰とでゆらりゆらりと調子をとつてくるあとからあねさんかぶりをした女がぢやんぢやかぢやんぢやか三味線をひいてくる。たんと買つてやるとおかめの面をかぶつて踊るのを子供たちはずらりととりかこんで見物する。と、首をひねつたり、袖をふつたり、三味線にあはせていいかげんに踊りながらへんな足つきをして追つかけるものできやつきやつといつて逃げまはる。踊がすめば飴屋は ﹁へえおやかましう﹂ と盥を頭へのせながら御愛嬌にわざと盥をおつことして泣き泣き帰つてゆく。 お国さんのお父とう様さまは骨格の逞しい怖い人でお役のため留守がちだつたが、たまに家のときはいちんち二階に閉ぢこもつてなにか書きものをしてゐた。さうしてすこしやかましくするとぢきに叱られるのでこちらもお父様のゐる日には遊びに行かなかつたし、むかふも家に小さくなつてゐた。どうかしてそれを知らずにいつて ﹁お国さん、お遊びなさいな﹂ とよぶとお国さんは玄関の障子を細めにあけ拇おや指ゆびを鼻のさきへだしてさも怖さうに手をふつてみせる。 桃のお節句にお国さんのとこへよばれたことがあつた。日あたりのいいお座敷の正面に高く雛段をこしらへて立派なお雛様がかざつてあつた。家のは目にはひりさうな小さいのだのにお国さんのはその五つがけもある。お雛様は生きてるものとばかり思つてた私は体がすくむやうな気がしていくつもつづけざまにお辞儀をしたらみんながどつと笑つた。そこへ意外にも留守だと思つてたお父様が出てきたので、どうなることかとお雛様とお父様の顔を見くらべながら今にもべそをかきさうにちぢこまつてゐた。お父様は怖ぢけてる私を見ていつになく笑ひながら豆煎を紙に包んでくれて、年はいくつだの、名はなんといふのといろんなことをきいた。そして ﹁ここにゐる人のなかで誰がいちばん怖い﹂ といつたから正直にお父様を指さしたらみんながまたどつと笑つた。お父様も笑ひながら ﹁おとなしくさへすれば叱りはしない﹂ といつて二階へいつてしまつたのでやうやくほつと息をついた。三十一
あの静な子供の日の遊びを心からなつかしくおもふ。そのうちにも楽しいのは夕がたの遊びであつた。ことに夏のはじめなど日があかあかと夕ばえの雲になごりをとどめて暮れてゆくのをみながら もうぢき帰らなければ とおもへば残り惜しくなつて子供たちはいつそう遊びにふける。ちよんがくれにも、めかくしにも、をか鬼にも、石蹴りにもあきたお国さんは前髪をかきあげて汗ばんだ額に風をあてながら ﹁こんだなにして遊びませう﹂ といふ。私も袂で顔をふきながら ﹁かーごめ かごめ をしませう﹂ といふ。 ﹁かーごめ かごめ、かーごんなかの鳥は、いついつでやる……﹂ 雨のあとなど首をたれた杉垣の杉の若芽に雫がたまつてきらきら光つてるのを、垣根をゆすぶると一時にばらばらと散るのが面白い。暫くすればまたさきのやうにたまつてゐる。 遊び場の隅には大きな合ね歓むの木があつてうす紅いぼうぼうした花がさいたが、夕がた不思議なその葉が眠るころになるとすばらしい蛾がとんできて褐色の厚ぼつたい翅をふるはせながら花から花へと気ちがひのやうにかけまはるのが気味がわるかつた。合歓の木は幹をさすればくすぐつたがるといつてお国さんと手のひらの皮のむけるほどさすつたこともあつた。 夕ばえの雲の色もあせてゆけばこつそりと待ちかまへてた月がほのかにさしてくる。二人はその柔和なおもてをあふいで お月様いくつ をうたふ。 ﹁お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしや若いな……﹂ お国さんは両手の眼で眼鏡をこしらへて ﹁かうしてみると兎がお餅ついてるのがみえる﹂ といふので私もまねをしてのぞいてみる。あのほのかなまんまるの国に兎がひとりで餅をついてるとは無垢にして好奇心にみちた子供の心になんといふ嬉しいことであらう。月の光があかるくなればふはふはとついてあるく影法師を追つて 影やとうろ をする。伯母さんが ﹁ごぜんだにお帰りよ﹂ といつて迎ひにきてつれて帰らうとするのを一所懸命足をふんばつて帰るまいとすればわざとよろよろしながら ﹁かなはん かなはん﹂ といつて騙だまし騙しつれてかへる。お国さんは ﹁あすまた遊んでちやうだいえも﹂ といふ伯母さんに さやうなら をして帰るみちみち ﹁かいろが鳴いたからかーいろ﹂ といふ。私も名残をしくておなじやうに呼ぶ。さうしてかはるがはる呼びながら家へはひるまでかはるがはる呼んでゐる。三十二
そのやうにして安穏な日をおくつてるうちに二人にとつて一大事がおこつた。それは二人とも八つになつて学校へあがらなければならないことになつたのである。いつぞや伯母さんにおぶさつて姉のお弁当をもつていつたから学校の様子はわかつてゐる。あの意地のわるさうな子のうようよゐるところへどうして行かれよう。毎晩茶の間へおもちや箱をだして遊ぶ時になると父や母がくどくいつてきかせたが私は強情に首をふつてゐた。母は 学校へ行かなければえらい人になれない といふ。私は えらい人なんぞにならないでもいい といつた。父は 学校へ行かない子は家におかない といふ。私は 伯母さんといつしよにおもちや箱をもつて出てゆく といつた。小さな智嚢をしぼつた抗弁も、病身者の嘆願も、はじめのうちこそは笑つてききながされたが始業の日がせまるにしたがつて拷問はますます厳しくなり、あはれな子は毎晩泣きだしては伯母さんにつれられて床にはひるやうになつた。そのうちにも委細かまはず鞄が買はれて、厚紙の筆入れや、大きな手習ひの筆や、すつかり揃つてしまつた。姉たちは いいものが買つてもらへてうらやましい といふけれどそんなもの見たくもない。お犬様と丑紅の牛のほかなんにもいらない。さうして外ではお国さんと遊んで、家では伯母さんと木の実どちをしてゐればいい。こんなにいやなのをどうして無理に行かせるのだらう と思つた。 ある日思ひあまつてお国さんにその話をしたらお国さんは ﹁あたしも毎日叱られてる﹂ といふ。お友達もやつぱり学校がきらひでおなじ憂きめをみてるらしい。そこで二人は李の木の根つこに腰かけて恥をうちあけて慰めあつた。さうして別れるときにお国さんが ﹁あたしどうしても行かないからあなたも行くのおよしなさいね﹂ といつたので私は堅く約束して帰つた。三十三
いよいよといふ日になつたが私は朝から ﹁お国さんがいかなければいかない﹂ をくりかへしてどうやら一日がくれた。その晩私は寐間のかくれ家から無理やりに茶の間の白しら洲すへひきたてられて威おどしつ賺すかしつすすめられたけれど心をきめてがんばつてたら兄がいきなり衿くびをつかまへ妙なことをしてさんざ畳へたたきつけたあげく続けざまに頬ぺたを打つた。伯母さんは ﹁この弱い子をどうせるだ どうせるだ﹂ といつて ﹁私がよういつてきかせるで﹂ とかばひながら寐間へつれて逃げた。兄は高等中学で柔術をやつてゐた。明る日は頬をはらして食事もせずにじつと寐間にひつこんでたら伯母さんは心配して仏様のお供物をこつそり私にたべさせた。さうしたらその日から急にひどく熱が出て唯さへ癇の強い私が夜どほしろくに眠らないのを伯母さんはお念仏をくりかへしながら夜の目もねずに看病してくれた。四五日さうしてねてるあひだは学校の話もでなかつたが、やうやく頭痛もなほり、熱もひいておきるとその晩からまたもや拷問がはじまつた。私はすつかり覚悟をきめて相変らず お国さんがいかなければ といひはつたが、どうしてか今度は辛いめにもあはずにただ ﹁お国さんが行けばきつと行くか﹂ といはれたので ﹁きつといきます﹂ といひきつた。翌日伯母さんは蒼い顔をしてる私をおぶつて学校のひけるじぶん門のまへへつれだした。学校までは一町半ぐらゐしかない。ちやらん ちやらん と鈴の音がきこえると間もなくぞろぞろ生徒が帰つてくる。さうしたら意外にもお国さんがおなじやうに包みをかかへて元気よく帰つてきて伯母さんに えらい えらい といはれたもので得意になつて学校の話をしてきかせた。私は背中にゐて お国さんはひどい と思つた。その晩私はしかたなしに学校へゆくことを承知した。 あくる朝私は羽織袴で父といつしよに学校の門をはひつた。そして先生たちのゐる部屋へつれてゆかれたが、そこには硝子障子のはまつた戸棚のなかに地球儀や、鳥や魚の標本や、珍しい獣の掛け図や、心をひくものが沢山あつた。――これらはみな後におぼえた名である。――父が私の脳のわるいこと、体が弱くて臆病なことなどこまごまと話すのが恥しくてならない。それをきいて人の顔をじろじろ見ながらうなづいてた先生はもの柔やはらかに ﹁あなたの年はいくつ﹂ ﹁あなたの名は﹂ ﹁お父様のお名は﹂ ﹁お家は﹂ といろいろなことを尋ねた。そんなことは前から家で教はつてあるし、先生の案外やさしいのに安心してどうやら無事に返事ができた。先生は脳が悪いときいてばかとでも思つたのかさまざまなことをききためしたのち ﹁これなら結構です﹂ といつて入学を許してくれた。その日はそれなり帰つて姉たちに学校でのお行儀や、お辞儀のしかたや、鞄のびぢやうのかけかたなど教はつて暮した。そして次の日には桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけぬ鞄をはすにかけてなんともいへない混乱した気もちをしながら伯母さんに手をひかれて学校へいつた。この不慣れな様子を人に見られるのが恥しいのとまだ知らぬ学校生活の心配とに小さな胸を痛めて自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。姉たちは私を教場へつれていつていちばん前の机へ腰かけさせた。それは尋常一年の乙の級で、おなじ一年のうちでも年弱な者や頭の悪い者をいれるところだつた。三十四
さきにあがつた子供たちはもう学校になれてるし、それに私みたいな弱虫はひとりもゐないのでわがもの顔にわいわい騒いでゐる。さうかうするうちにいつもききなれてる鈴が ちやらんちやらん と鳴つた。そばできくときんきん耳の底まで響いていやでならない。姉たちは またこの次の遊び時間にくるから といつて、伯母さんは お稽古のすむまでちやんと戸のそとに番をしてゐる といふ約束で出ていつた。で、ひとりぼつちになつてこはごは見まはしてみたら強さうな意地のわるさうな奴ばかりがむかうでも変な顔をしてじろじろ見てゐる。私は小さくなつて机にあいてる節穴ばかりのぞいてゐた。そこへはひつてきたのは古沢先生といふ受持ちの先生だつた。この人は顔いちめんのあばたのためにちよつと見は怖いけれどほんたうは評判のやさしい先生で学校ぢゆうの生徒が 古沢先生 古沢先生 といつてなついてゐた。本は伯母さんに教はつた ちん わん ねこにやあ ちう の絵草紙や、いぬ はし ほん つくゑ の絵本とはちがつてたが、やさしかつたのでそのはうはろくに見ずに先生の白髪まじりの髪の毛がばらばら風にふかれるのばかり眺めてゐた。やがてお稽古がすんだ。まはりの教場から雪な崩だれでた腕白どもが運動場いつぱいの藤棚のしたで蛙とびをする、鬼ごつこをする、大将ごつこをする。今までお国さんのとこの小さな世界にばかりゐた世間みずの私にはたまらないほど眼まぐるしいのできよときよとして立つてたら姉のお友達は これが話にきいてた弟か といふやうにばらばらとよつてきて忽ち人をとりまいてしまつた。さうしてませくれたお愛想をあびせかけておきまりの 年はいくつ だの、名はなんといふの と四方八方から質問の矢をはなつ。あはれな臆病者は雌めへ豹うの群に襲はれた驢馬のやうにおどおどして顔もあげずに縦横に首をふるばかりだつた。そこへ運わるくひとりの先生がきていきなり私の帯をつかまへ やつ と掛声をして宙にさしあげたもので朝から眼の奥にいつぱい溜つてた涙が一時にあふれだして両足をぶらぶらさせながらわつと泣きだした。先生は胆をつぶして ﹁こりや大変。こりやあやまつた﹂ といひながら地べたへおろして手巾で涙をふいてくれた。あとで姉にきけばそれは姉のはうの受持ちの先生で、私を可愛がつてくれたのだといふ。さうして これからあんなことをされても泣いちやいけない といはれたのでやうやく訳がわかつて 今度こそは泣くまい と思つてたけれどさきはこりごりしたとみえてその後ちつとも私をさしあげなかつた。 その次の習字の時の騒ぎはまた格別であつた。墨壺をひつくらかへして泣く奴がある。草紙に団子ばかり書いて叱られる奴がある。そのなかを古沢先生は世間に面倒といふことがあるのを忘れたかのやうになにからなにまで世話をして腰をたたきながらひとりびとり手をとつて習はせてあるく。筆をもつ手のうへを白墨だらけの手でつかまれると体がすくんで筆の先がぶるぶるふるへるもので先生はいくたびもいろはを書きなほさなければならなかつた。あんまり烈しい刺戟や慣れない仕事などのために頭痛がして胸がわるくなりその日はそれで家へ帰つた。伯母さんは水で頭を冷してくれて ﹁えらかつた えらかつた﹂ と木枕の抽匣から肉桂棒を出してくれたし、姉は御褒美に南京玉の守袋をこしらへてくれたゆゑ頭痛もぢきによくなつてしまつた。私は家ぢゆうの者に えらい えらい と褒められた。学校のひけるころをみてお国さんのところへ遊びにいつたらやつぱりみんなして えらい えらい といつたので自分でもえらくなつたと思つて得意だつた。三十五
幾日か後には学校の門まで送り迎へしてもらへばあとは自分ひとりでゐられるやうになつた。伯母さんは私の好きな駄菓子を蛤の貝殻へいれ赤い紙で封じておいて学校から帰つて鞄をはふりだすとお仏壇の抽匣から出してくれる。それをあれかこれかとまよひながらよりどるのが楽しみであつた。そのうち私は甲の組へうつされることになつた。みんなは乙の組から昇進してきた新参者をとりまいてひそひそ評しあつてたがやがてひとりの奴が兄の書いてくれた鞄の独逸字をみて ﹁やあ、英語が書いてあら﹂ といつてよつてきた。ほかの奴らも やあ やあ といつて顔をつきだす。そして なんと書いてあるのだ といふから家で教はつたとほり 自分の名だ といつたら羨しさうに見てたがひとりが ﹁えくしよ。日本人のくせに毛唐人の名なんか書いてやがら﹂ といつた。またひとりの奴が守袋と鈴を見つけて穢い手でいぢくりはじめた。私はいやでしやうがなかつたけれど怖いのでするがままにさせておいた。守袋は水色と白の南京玉で弁慶にして、鈴には鈴虫の模様があり、紫の緒の他の端には小さな硝子の瓢箪をつけてゐた。そ奴いつが 鈴なんぞさげてどうするのだ ときいたから私は、迷子になつたとき音をきいて伯母さんが捜しにくるためだ といつたら彼らはさも軽蔑したらしく顔を見合せた。そのうち彼らがあんまり守袋をいぢくつたもので弱いかたん糸がきれて南京玉がばらばらと落ちてしまつた。私はぐすぐすべそをかきだした。彼らは とんだことをした といふ顔つきでてんでにすばやく身をひいて ﹁おいらのせゐぢやなーいと 三年烏のせーゐだ﹂ といひいひ遠方から心配さうに様子をみてゐる。私はどうしようかと思つたが誰もきてくれないし、泣くにも泣かれず散らばつてる南京玉を見つめてしくしくしてるところへ折よく姉がきたので一時に悲しさがこみあげてわつと手ばなしに泣きだした。彼らは姉に叱られるのが怖いもので ﹁泣虫毛虫、はさんですてろ﹂ と足拍子にあはせて囃したてながらどこかへ影をかくしてしまつた。姉は また編んであげるから といつて、もう家へ帰る とだだを捏るのをやつとなだめて涙をふいたり鼻をかんだりしてくれるうちに鈴が鳴つたので またこの次の遊び時間にくるから といつて出ていつた。部屋のそとからこつそり事の始末を見てた悪者どもは姉がゐなくなると同時にどやどやとはひつてきて ﹁今ないた烏がもう笑つたい﹂ といひいひ私のまはりを踊りまはつた。 今度の組の受持ちは溝口先生といふ髭のある人だつた。古沢先生同様子供の世話をするために生れてきたかと思ふくらゐいい人で、ことにおとなしい私に目をかけてよくしてくれた。 ひとつ机に並んでるのは岩橋といふ瓦屋の息子でいぢめつ子の通りものだつた。そ奴は机のまんなかへ鉛筆ですぢをひいてこちらの肱がちつとでもむかふの領分へはみだせばすぐに肱鉄砲をくれたり、鼻糞をなすつたりする。そ奴がお稽古の最中になにか話しかけたからいやだつたけれどいいかげんにあしらつてたら先生が見つけ黒板に二人の苗字を書きならべて頭へ大きな黒玉をつけた。岩橋はそれを見るやいなや石盤のうへへつつぷして泣きだしたが私はなんのことかわからずにきよとんとして先生の顔を見てゐた。お稽古がすんだときに姉がきて笑ひながら お稽古中に話をしたらう といふ。誰がもういつけたのかしら と思つたがなんだか悪いことをしたやうな気がして 話なんぞしやしない といつたら姉は そんなに匿かくしたつて黒板に黒玉をつけられてる といふ。黒玉は悪いことをしたときつけられるのだとわかつて急に悲しくなつた。三十六
岩橋の本は赤鉛筆でめちやめちやに塗つてある。火事場からお巡りさんが迷子の手をひいてくる挿絵の泣いてる子の頭から無茶苦茶に後光がさしてお巡りさんの眼玉がはちきれさうに大きくなつてゐた。彼は石盤に一つ目小僧や三つ目小僧の顔をかいて ﹁やい やい﹂ といつてみせる。こちらはこなひだの黒玉に懲りてるゆゑ知らん顔してゐれば机の蔭で拳骨をびくびくやつては眼をむいて横目に睨む。さうしてお稽古がすんで先生がゐなくなるとはあはあ拳固へ息をふつかけてかかつてくるので私は廊下へ出て見つからないやうなところへこつそり立つてゐた。さうしたらやつぱり同じ級の古参の者で赤つ面の穢い子が ﹁いいものやらう﹂ となにか握つてきて人に手を出せといふ。騙されるのだと思つたが怖いから素直に手を出したら赤い木の実を二つ三つ手のひらへのせてくれた。そんなものはほしくなかつたけれど親切にしてくれるのが嬉しくて ﹁ありがたう﹂ といつてにつこりした。それは裏にある美びな男んか葛づらの実だつたといふことを知つたのはその後五六年たつてからのことである。彼は赤つ面のために猿面冠者と渾あだ名なされ、また長平といふ名によつて ちよつぺい とも呼ばれてる伝でん法ぽふ院ゐん前の魚屋の息子だつた。それ以来ちよつぺいはただひとりのちかづきになつたが、こちらではなるべくならちよつぺいとも口をききたくなかつたのだけれど、さきではどこを見こんでかしきりに私に話しかけてきた。ある日のことちよつぺいは ﹁こんだのお稽古のときいつしよにしよんべんにいかう﹂ といつた。 ﹁先生に叱られるからいやだ﹂ といつたら ﹁いやならよしやがれよしべのこんなれ﹂ といつて怖い顔をしたので私はあわてて ﹁いくよ いくよ﹂ といつた。彼はすぐ機嫌をなほして ﹁あたいのまねすりや大丈夫だ﹂ といふ。お稽古がはじまると間もなく彼は手をあげて ﹁先生、お小用にやつてください﹂ といつた。先生は ﹁ほんたうにしたいのかい。嘘つくとちやんとわかるよ﹂ といふ。すこしも怯ひるまず ﹁ほんとに出たいんです﹂ といふ。先生も 漏らされては といふ気があるので ﹁そんならいつといで。すんだらすぐ帰つてくるんだよ。道くさすると黒玉だよ﹂ といつた。ほかの者もてんでに 先生、先生 と手をあげて五六人いつしよに便所へ行かしてもらつた。ちよつぺいはどやどやと出て行きながらちよつとこちらを見たのではつと気がついて、おそるおそる ﹁先生﹂ と見やう見まねに手をあげて ﹁お小用にいかしてください﹂ といつた。先生は私がちよつぺいに入智慧されてるとは知らずすぐに許してくれた。 便所は教場からはなれたところにあつてちやうど隣の八幡様の笹藪のしたになつてゐる。ちよつぺいはそこに待ちかまへてゐて ﹁相撲とらう﹂ といふ。見ればほかの奴らは廊下の手すりをのりこえて崖の甘根を掘つたり、へな土の団子をこしらへてぶつけあつたりしてゐる。彼らは小用にかこつけてちよつと息ぬきにくるのだつた。ちよつぺいが ﹁とらう とらう﹂ とせきたてるので今日が今日まで伯母さん相手に四王天清正の立廻りのほかやつたことのない私ははたと当惑したがのつぴきならず ﹁あぶないからそうつとだよ﹂ と弱いことをいひながらいいかげんに取組んだ。力のあるちよつぺいは ﹁はつけよい はつけよい﹂ と景気よく掛声をしながらくるくる人をひき廻したためむざんやさすがの清正も忽ち袴の裾をふんで尻餅をついてしまつた。彼は鼻たかだかと ﹁弱えな。またこんだとらう﹂ と先にたつて帰つてゆく。私もねぢくれた著物をなほして後についていつた。教場へはひるやいなや彼はなにくはぬ顔で ﹁先生ただいま﹂ とひよつこり頭をさげた。私も黙つて頭をさげた。ほかの奴もぞろぞろ帰つてきたが、甘根を掘つてた奴はあんまりいつまでもかじつてたもので先生に立たされ、おまけに懐からはみだしてる甘根をみつかつて大眼玉をくつた。私はもう二度と便所へは行くまいと思つた。三十七
学課のうちでいちばんみんなの喜ぶのは修身だつた。それは綺麗な掛け図をかけて先生が面白い話をきかせるからで、その絵には弾た丸まにあたつた親熊が蟹をあさつてる子熊をひしがないやうにもちあげた石をかかへたまま死んでるところ、大将が頬杖をついて蜘蛛が巣をかけるのを見てるところなどあつた。生徒らは美しい絵にみとれ、お話にききほれて もうひとつ、もうひとつ とねだる。先生は ﹁みんながお行儀よくさへすればいくらでも話してあげる﹂ といつて一枚一枚めくつては話してゆく。そんなにしていつも大抵一冊の掛け図をすつかり話してしまつたが、不思議なことにはいちばんはじめにある異人の女が子供を抱いて雪のなかに倒れてる絵をきまつてとばしてしまふ。生徒らもそれを見ながらちつともせびらない。私はまたなかでもその絵が気にいつて もうか もうか と待つてたけれどつひぞ話してもらへなかつた。鈴が鳴るとみんなはわいわいと先生の椅子をおつとりまいて、膝にのつたり、肩へつかまつたりして もういつぺん、もういつぺん とおんなじ話をくりかへさせる。私は彼らのやうに大胆にはし得ずにすこしはなれてぼんやりと絵を眺めてゐた。先生はこちらを向いて ﹁□□さんにもひとつしてあげようか。□□さんはどれがいい﹂ といつたが顔を赤くしてるので ﹁いつてごらん、いつてごらん﹂ と促した。私は一生の思ひで ﹁これ﹂ と口ごもりながられいの絵を指さした。みんなは不平らしく ﹁つまんないや、つまんないや﹂ といふ。先生も ﹁これは面白かないよ。いいかい﹂ と念を押した。私は黙つてうなづいた。先生は私がまだそれを知らないのに気がつき、つまらながる皆を説得して新しん参ざん者もののためにその話をしてくれた。それは雪のなかで路に迷つた母親が自分の著物をぬいではぬいでは子供に著せてたうとう凍え死にをしたといふ話であつた。絵も子供の目をよろこばすやうな彩色がしてなかつたし、話もただそれだけのことなので彼らはちつとも興がらず、先生もとばしてたのだが、私にはそれで充分に面白かつた。私は伯母さんに常磐御前の話をきくときのやうにあはれにきいた。話しをはつて先生が ﹁面白かないだらう﹂ といつたので正直に首をふつたら先生は意外な顔をし、みんなは軽蔑してくすくす笑つた。三十八
私はそのじぶんから人目をはなれてひとりぼつちになりたい気もちになることがよくあつて机のしただの、戸棚のなかだの、処かまはず隠れた。そんなところにひつこんでいろいろなことを考へてるあひだいひしらぬ安穏と満足をおぼえるのであつた。それらの隠れがのうちでいちばん気にいつたのは小抽匣の箪笥の横てであつた。それは蔵のそばにある北むきの窓からさしこむ明りにだけ照される最も陰気な部屋であつたが、その窓と箪笥のあひだにちやうど膝を立てたなりにすぽんとはまりこむほどの余地があつた。私はそこに屈んで窓硝子についた放射状のひびや、ぢきそばにある榧かやの木や、朽木にからんだ美男葛、美男葛の赤い蔓、蔓のさきに汁をすふ油虫などを眺めてゐた。さうして半日でも一日でもひとりでぼそぼそなにかいひながらいつとはなしに鉛筆でひとつふたつづつ箪笥に平仮名の﹁を﹂の字を書く癖がついたのが、しまひには大きいのや小さいのや無数の﹁を﹂の字が行列をつくつた。そのうち私があんまりそこへばかりはひるのを父が怪んでその隅をのぞいたため忽ちくだんの行列を見つかつたが、父はただ手もちぶさたの落書だと思つて 手習ひするならお草紙へしなければいけない といつたばかりでひどくは叱らなかつた。併しそれはゆめさらただの落書ではなかつたのである。平仮名の﹁を﹂の字はどこか女の坐つた形に似てゐる。私は小さな胸に、弱い体に、なにごとかあるときにはそれらの﹁を﹂の字に慰藉を求めてたので、彼らはよくこちらの思ひを察して親切に慰めてくれた。 こちらへこしてからも私は三日にあげず怖い夢に魘おそはれて夜よるよなか家ぢゆう逃げまはらなければならなかつた。そのひとつは、空中に径一尺ぐらゐの黒い渦巻がかかつて時計のぜんまいみたいに脈をうつ。それが気味がわるくてならないのを一所懸命こらへてるとやがてどこからか化け鶴が一羽とんできてその渦巻をくはへる といふので、もうひとつは、暗闇のなかでなにか臓腑のやうにくちやくちやと揉みあつてゐる。と、それが女の顔になつて馬鹿みたいに口をあけはなし、目をぱつとあいて長い長い顔をする。かと思へばその次には口をつぶつて横びろくし、目も鼻もくしやくしやに縮めて途方もないぴしやんこな顔になる。そんなにして人が泣きだすまではいつまでも伸び縮みするのであつた。そのやうに魘はれてばかりゐるのは伯母さんのお伽話のせゐだらうといふ疑がおこつたのと、ひとつにはまた寐間をかへてみたらといふので私は父のそばに寐ることになつた。が、毎晩父が話してくれる宮本武蔵や義経弁慶なぞの武勇譚もなんのかひもなく、化けものはおやぢぐらゐは屁とも思はずに相変らずやつてきた。先の寐間には床の間の天井に魔がゐたが、こんだの部屋では柱にかかつた八角時計が一つ目になり、四本の障子が大きな口になつてみせた。三十九
お医者様のすすめにしたがつてとかく弱りがちであつた母と私の健康のために父は二人をつれてある海岸へゆくことになつた。行く路すがらそれまで歌がるたの絵や粉本などでみて子供心にあこがれてた自然がそのまま目のまへにあらはれてくるのをみて私はむしやうに喜んだ。小さな想像の甕かめには汲みつくすことのできない不思議な海もみた。それは藍色にすんで、そのうへを帆かけ舟の帆が銀のやうに耀いてゆく。まつすぐにきつたつた崖のあひだをとほるときは堪へがたい淋しさをおぼえて、そこにかつかつに生えてる草たちをかはいさうに思ふ。龍宮みたいな南京人のお宮では南京のお婆さんが甃しきいしのうへへ石ころを落してはなにか祈つてゐた。さうして髪を油で塗りわけた人形のやうな子が可愛い足をふらふらさせてあるくのを綺麗だとおもつた。貝細工を売る店には海の底の宝ものがいつぱいに飾つてある。父は姉たちへのお土産に幾本かの簪と、私にひと包みの酢貝を買つてくれたが、私は こんな綺麗なものを父はなぜみんな買はないのかしら と思つた。海岸の松原を俥にのつてゆくといくらいつても松がある。お正月かける高砂の掛物にも松があるし、つねづね伯母さんにも松は神木だときいてたゆゑ私は松の木が迷信的に好きであつた。暫くして宿へついた。折角静な松原を楽しんでたのにそこには人ががやがやしてたので もう家へ帰る といつて泣きだしたら番頭や女中たちがとんできて旧いお馴染かなぞのやうに 坊ちやま 坊ちやま といつて騙した。で、安心してぢきに泣きやんだ。さうしていちんち潮風の香をかぎながら小松のむかふにどんどんと砕ける波になにもかも忘れて見とれてゐた。 夜になつて明りがついた。そのかさは円筒状の竹籠に紙をはつたもので黒塗りの風雅な台にのつてゐた。そこへ火影をしたつてよこばひが飛んできてはとまる。美しい緑色をして目のあひだのひろいよこばひが可愛くてならない。指でおさへようとするとひよいと横へゐざつて隣の籠のめへ逃げる。鳩虫もきた。 ある晩縁側へ出て庭で煙はな火びをあげるのを見てたら綺麗な女の人が菓子を包んできて ﹁あげませう﹂ といつた。私はその人が﹁げいしや﹂だといふことを小耳にはさんでたが、﹁げいしや﹂といへばなんでも人を騙したりする怖いものらしい。その﹁げいしや﹂がそばへよつてきて 可愛いお子さんだの、年はいくつ だのといひながら肩へ手をかけて頬ずりしないばかりに顔をのぞく。私はいい匂のする袖のなかにつつまれて返事もし得ずに耳まで赤くなつて手すりにくひついてたが、ふと これは自分を騙しにきたのだ と気がついたら急に恐しくなりしやにむに袖の下をすりぬけて母のところへ逃げて帰つた。私が胸をどきつかせてそのことを話したときに母はすこし笑ひながら私の無作法をたしなめた。それからは煙火を見るたんびに こんだなにかきかれたら返事をしよう、菓子をくれたらお礼もいはう と思つてたが、その人は怒つたのかその後はそばへもよらなかつた。私は自分の後悔してることを知らせる機会がないのを心から残念に思つた。 ある日父といつしよに深い松林の奥へはひつていつたことがあつた。松の匂がして松ぼつくりが沢山落ちてゐた。父はそろそろ歩いてるのだがこちらは松ぼつくりを拾ふので始終小走りに追ひつかなければならない。拾ひためて袂にも懐にもいつぱいになつた松ぼつくりと心で仲よく話しながらちよこちよことあとについてゆくうちに東屋があつて眉毛のまつ白な爺さんが熊手で松葉をかいてゐた。それを私は高砂のお爺さんがゐたと埒もなく喜んで――ほんとにさう思つたのだ。――いつもに似ず自分からいろんなことを父に話しかけた。父は宿へ帰つてから母に ﹁今日は章魚坊主がえらうものをいつたぞよ﹂ といつて笑つた。四十
旅行から帰つたら留守のうちにお国さんの家はお役の都合で遠方へこしてたので私はなんだか拍子ぬけのした寂しさを感じた。私はそれからは恐しい夢に魘はれることもなく体もめきめきと発育するやうになつたが、生得のぼんやりと学校をなまけることとは相変らずであつた。それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとつてあまり複雑で苦痛の多い学校生活が私をいやがらせたからである。ただ嬉しいことにはそのときの受持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあつた。中沢先生は私がいくら欠席してもなんともいはず、どんなに出来なくてもくすくす笑つてばかりゐた。が、いつか並んでる安藤繁太といふ奴と喧嘩したときにたつたいつぺん叱られたことがあつた。どうしたことかそ奴とはお互に虫が好かないでしよつちゆう仲がわるかつたところ、ある日算術の時間に彼は石盤にめつかちの顔をかきそれにひとの名まへをつけて ﹁やい やい﹂ といつて見せた。で、こつちでは大きな下駄に目鼻をつけてそのわきへ すげため と書いてやつた。さうしたら彼がいきなりひとの脛を蹴つたので私も負けずに横つ腹をついてやつた。そんなにして内證で喧嘩をしてるうちにたうとう先生に見つかつて学校がひけてから二人だけあとへ残された。先生はいつになく怖い顔をして なぜ喧嘩した といふ。私は一部始終を話して自分の悪くないことを主張したが繁太は 私が先にからかつた と嘘をついたもので先生は 喧嘩両成敗だ といつて二人とも帰してくれない。ほかの者はみんな包みをかかへていそいそと帰つてゆく。なかにはもの好きに戸口から覗いて笑つてる奴もある。学校ぢゆうの生徒がみんな帰つてしまつていやにしんとしてきた。もしかうして夜になつたらどうしようかしら。ごはんも食べられないし、寐ることもできないし、はやく伯母さんが迎ひにきてあやまつてくれないかしら などとさまざまなことが頭のなかに渦をまいて自然に涙がこみあげてくる。先生は半分べそをかいてる二人の顔をちよいちよい見くらべてくすくす笑ひながら本を読むふりをしてゐる。繁太の奴はさも帰りたさうに肩にかけた鞄の紐をいぢくつてたがたうとう泣きだして ﹁ごめんなさい﹂ とあやまつた。先生は ﹁あやまつたのが感心だから赦してやる﹂ といつて繁太を帰した。私も帰りたいのは山山だけれど悪くもないのを残されたのが業ごふ腹はらなのでいつまでも泣きかかつてはこらへ、泣きかかつてはこらへしてゐた。が、とどのつまりは泣くよりほかはなかつた。私はいつたん泣きだしたとなれば両方の拳骨で眼をこすりこすり図なしにぐすりぐすり泣いてる癖で、そのあひだに理非曲直をぼつぼつと考へて自分が悪いとわかればぢきに泣きやむし、さうでなければ自分がただ小さくて弱いために理不尽におさへつけられるのがくやしくて 今に見ろ と思ひながらしやくりあげしやくりあげ泣くのであつた。思ふ存分泣いたあとは胸がすいて気管のへんにゑぐいやうな一種の快感をおぼえる。それはさうと先生は手こずつて ﹁あやまれば帰してやる。あやまれば帰してやる﹂ といつたが どうしても悪くない といつていつかなあやまらない。併しだんだんお説法をきいてみれば 喧嘩を売つたのは繁太の罪だけれどお稽古中にそれを買つたのが善くない といふことがどうやらのみこめたので ﹁ごめんなさい﹂ と頭をさげて帰してもらつた。家では意気地なしの章魚坊主が喧嘩をしたのを奇蹟のやうにいつて笑つた。四十一
不勉強の報いは覿面にきていよいよ試験となつたときにはほとんどなんにも知らなかつた。ほかの者がさつさとできて帰つてゆくのに自分ひとりうで章魚みたいになつて困つてるのはゆめさら楽なことではない。なかでもつらかつたのは読本だつた。私は最後に先生の机へ呼びだされた。問題は蔚うる山さんの籠城といふ章だつた。蔚山なんて字はつひぞ見たこともない。黙つて立つてるもので先生はしかたなしに一字二字づつ教へて手をひくやうにして読ませたけれど私は加藤清正が明軍に取囲まれてる挿画に見とれるばかりで本のはうは皆目わからない。先生は根気がつきて ﹁どこでも読めるところを読んでごらん﹂ といつて読本を私のまへへ投げだした。私はわるびれもせず ﹁どつこも読めません﹂ といつた。試験がすんでからもやつぱり居坐りだつた。私はいちばん前にゐるから一番だと思つてゐた。名札のびりつこにかかつてることも、点呼のときしまひに呼ばれることも、自分が事実できないことさへもすこしの疑ひすら起させなかつた。好きな先生のそばにおかれてちつとも叱られずにゐる、これが一番でなくてどうしようか。それに私はつひぞ免状とりに出たことがなかつたし、学校から帰つて一番だといつて自慢するとみんなは えらい えらい といつて笑つてるので自分だけは至極天下泰平であつた。 その学期も終りにちかづいたころお隣へあらたに人がこしてきた。その家とは裏の畑を間にほんの杉垣ひとへをへだててるばかりで自由に往き来ができる。私が裏へいつてこつそり様子をみてたら垣根のところへちやうど私ぐらゐのお嬢さんがでてきたが、ついとむかふへかくれて杉のすきまからそつとこちらを窺つてるらしかつた。暫くしてお嬢さんはまた出てきてちらりとひとを見たので私もちらりと見て、そして両方ともすましてよそをむいた。そんなことを何遍もやつてるうちに私はお嬢さんがほつそりとしてどこか病身らしいのをみてなんとなく気にいつてしまつた。そのつぎに眼と眼があつたときに彼方は心もち笑つてみせた。で、私もちよいと笑つた。彼方は顔をそむけるやうにしてくるりとかた足で廻つた。こちらもくるりと廻る。むかふがぴよんととんだ。こちらもぴよんととぶ。ぴよんと跳ねればぴよんと跳ねる。そんなにしてぴよんぴよん跳ねあつてるうちにいつか私は巴はた旦んき杏やうの蔭を、お嬢さんは垣根のそばをはなれてお互に話のできるくらゐ近よつてた。が、そのとき ﹁お嬢様ごはんでございますよ﹂ とよばれたので ﹁はい﹂ と返事をしてさつさと駈けてつてしまつた。私も残りをしく家へ帰り急いで食事をすませてまたいつてみたらお嬢さんはもう先にきて待つてたらしく ﹁遊びませう﹂ といつて人なつつこくよつてきた。私はお馴染になるまでにはもう五六遍も跳ねるつもりでゐたのが案に相違して顔が赤くなつたけれど ﹁ええ﹂ といつてそばへいつた。さきはもうはにかむけしきもなくはきはきした言葉つきで ﹁あなたいくつ﹂ ときいた。 ﹁九つ﹂ と答へる。と ﹁あたしも九つ﹂ といつてちよつと笑つて ﹁だけどお正月生れだから年づよなのよ﹂ とませたことをいふ。わたし ﹁あなたの名は﹂ ﹁けい﹂ とはつきりいつた。型のごとく名のりあつて初対面の挨拶がすむとおちやんは ﹁あたしもうぢき学校へあがるからおんなじ学校へいきませう﹂ といつたので嬉しくて自分の学校のいいこと、修身のお話の面白いこと、受持ちの先生のやさしいことなぞ数へあげ小さな智嚢をしぼつておちやんをおなじ学校へひきつけようとした。おちやんは勝ち気な人なれた子で、ぱつちりした眼とまつ黒な髪をもつてゐた。蒼白い滑な頬には美しい血の色がすいてみえた。さうしてその気性とませた頭をもつて意気地なしのぼんやりな年弱に対してとかく女王のやうにふるまふ気味があつたが、私は満足してあらたに君臨したこの女王の頤い使しに身をまかせようと思つた。四十二
ある日のこと私はおちやんがお祖ばあ母さ様まにつれられ学校へはひつてくるのを見て今さらのやうに胸をときめかせた。その翌日からおちやんは包みをかかへてひとつ教場へはひるやうになつたが新入なのでいちばん前の私の隣に坐らせられた。私はお稽古にも身がいらずそつと横目でみたらおちやんは殊勝にじつと下をむいてゐた。遊び時間にもまだお馴染がないためひとりぼんやりしてるのでなんとか言葉をかけてやりたいのをみんなにからかはれるのがつらさに黙つてゐれば、さきでもちやんと知つてるくせにそしらぬ顔ですましてゐる。私は譬へやうのない混乱した気もちでやつと一日の課業をすませて家へ帰るみちみちも 今日はあんなことも話さう、こんなこともきいてみよう などと考へながら帰るやいなや裏へいつたらもうひとりでお手玉を投げてゐた。 ﹁おちやん﹂ さういつて私は飛びつかないばかりに駈けよつた。さうしたらおちやんはさも軽蔑したらしく ﹁びりつこけなんぞと遊ばない﹂ といつてさつさとはひつてしまつたので案に相違してすごすご家へ帰り伯母さんにそれをいつけた。 その晩れいのとほり家ぢゆうが茶の間に集つたときに私ははじめて自分がほんたうにびりつこけだといふことをいつてきかされた。私は初めのうちこそかたくなに一番だといひはつてたものの近いころ先生から 脳の悪いお子さんにあまり無理なことはいはないがこれまでのやうではとても及第がさせられないから今度の試験にはもうすこし気をつけてもらひたい といふ注意があつたといふのをきいて私はわつと泣きだした。私は永いあひだびりつこけだつた面目なさをいちどきに感じた。先生は私を脳の悪い子だと思つて休み放題に休ませ、いくらできなくても叱らなかつたのだ。私はやつぱしばかにされてたのだ。私だつてびりつこけの愧づべきことぐらゐは知つてゐる。ただいくら懶なまけても一番だと思へばこそ勉強しなかつたのだ。はやくさういつてくれさへすればおさらひもしたし、ずる休みもしなかつたのに。思へばみんなが怨めしい。私は頭が沸きかへるほど上気して思ひだしては泣き思ひだしては泣きするのを伯母さんは貰ひ泣きしながら ﹁泣かんでもええ、泣かんでもええ﹂ といつて寐間へつれていつた。 それからは小さな机をひとつあてがはれてその日その日のおさらひ、翌日のしたしらべ、これまでのところの復習をきちんきちんとさせられることになつて、伯母さんはそろばんだの手習ひだの自分のできるものを、そのほかは姉たち二人がひきうけてくれた。毎日教場でおちやんと顔をあはせるのがつらくもあり腹だたしくもあつたけれどそれ以来学校は決して休まなかつた。おちやんは平気の平左でお友達と遊んでゐる。私はもう同じ級の者にも気おくれがしてとかくひつこみがちにしてたが、それよりか家へ帰つて机のまへへ坐らせられるときのつらさはまた格別だつた。面目ないことだが私には今まで習つたことがかいしきわからない。で、落胆して何度投げ出さうとしたかしれないのを御褒美の菓子やなにかで騙され騙されしてつづけるうちになにか薄紙でもはぐやうにすこしづつわかりはじめた。読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題とけ、二題とけするにしたがひ次から次へと智識は幾何級数的に進んでゆくので終には自信もでき、興味も加はつて、家へ帰ればいはれぬうちに自分から机をもちだすやうになつた、もとよりひとに褒められたいのがおもな動機で。試験には間もなかつたが勉強のかひあつて次の学期には二番になつた。おちやんは女のはうの五番であつた。四十三
私は急に智慧がついてなにかひと皮ぬいだやうに世界が新しく明るくなると同時に脾弱かつた体がめきめきと達者になり、相撲、旗とり、なにをやつてもいちばん強い二三人のなかにはひるやうになつた。さうかうするうち首席の荘田といふ子の去つたあとを襲つて級長になつたときにはもうおちやんに対する慙愧も憤懣も消えてたので、私はその日美しく芽ぐんで今にも葉をさすまでになりながら花もつけずに根をたえかかつた友情の若草がふたたび春の光にあつて甘やかに蘇るであらうことをねがつてたし、おちやんとてもおなじ気もちでゐる様子はみえたけれど、ただなんとなくつぎほがなくてお互になにかいい折のあるのを待つてゐた。 子供の社会は犬の社会と同様にひとりの強い者が余よのものを一度に尾をまかしてしまふ。荘田がゐなくなつてから一人天下になつた私はみんなの従順なのをいいことにしてかなり暴威をふるつたもののその年ごろの餓鬼大将としては最も訳のわかつたはうであつたと自らゆるしてゐる。 あるときちよつぺいがなにかのことで仲間はづれにされて 猿面冠者 猿面冠者 とからかはれ真赤になつてひつ掻きまはつてたが、多勢に無勢でたうとう泣きだして机につつぷしてしまつた。それを見た私はいきなりわいわい囃したててる群のなかへはひつて 今後決してちよつぺいのことを猿面冠者といつてはならん といふ厳命をくだした。で、爾来彼は猿面の汚名をまぬかれた。これははじめて学校へあがつたときの赤い実のことを忘れないで聊か恩がへしをしたのである。 岩橋はこのじぶんも相変らず弱い者いぢめの張本で女の生徒にわるさばかりしてゐた。ある日いつものとほり先生に引率されてすかんぽ山へ運動にいつたときに彼はひとり藪のなかへはひつて一所懸命犬じらみをとつてるので またなにかいたづらをするな と思つてたら、やがて両方の手にいつぱい犬じらみを握つて武智光秀といふみえで眼玉を光らせながら出てきた。女の子たちはつねづね怖ぢけをふるつて誰ひとり彼のそばへよる者はなかつたのに折あしくうつかりそこを通りかかつたのはおちやんだつた。彼は いい鳥が といはぬばかりに忽ち通とほせんぼをして二つ三つ犬じらみをぶつつけた。おちやんは ﹁いやーよ、いやーよ﹂ と袂でよけながら逃げようとするのを執念ぶかく追つかけてぶつけたものでおちやんは身をかはすはずみに膝をついてわつと泣きだした。それを見た私は矢庭にとんでつて勝ちほこつてる岩橋を突き倒し、その吠え面づらを後しり目めにかけながら、起きあがつて塵もはらはずに袖を顔にあててるおちやんのそばへよつて髪にも著物にもいつぱいくつついてる犬じらみをひとつひとつとつてやつた。おちやんは誰が自分をいたはつてくれるかさへ知らずくやしさうに泣きじやくりしてひとのするままになつてたが、やうやう涙をとめて 誰かしら といふやうに袖のかげから顔を見合せたときにさも嬉しさうににつこり笑つた。長いまつ毛が濡れて大きな眼が美しく染まつてゐた。そののち二人の友情は、いま咲くばかり薫をふくんでふくらんでる牡丹の蕾がこそぐるほどの蝶の羽風にさへほころびるやうに、ふたりの友情はやがてうちとけてむつびあふやうになつた。四十四
私たちは学校から帰つて復習予習をするまも気が気でなくそこそこにすませて思ひでのおほい裏畑へでる。こちらが早いときはひとりで石蹴りや縄とびをしてもうかもうかと待つてゐる。むかふが先だと聞えよがしにぽんぽんまーりをつく。その鞠は赤と青の毛糸を縞にして綺麗につつんであつた。顔を見ればなによりさきにじやん拳をする。おちやんは負けるとじれるやうに肩をふる癖があつた。 ﹁おねんじよさあま、およねじよ十よ﹂ ﹁おねんじよさあま、およねじよ二十よ﹂ 私は鞠が上手なのでなかなか落さない。おちやんは待ちどほしがつて縄のちぎれをぶつけたり、棒つきれをつきだしたりして落させてしまふ。 ﹁おねんじよさあま、およねじよ十よ﹂ ﹁おねんじよさあま、およねじよ二十よ﹂ おちやんは上気した顔を鞠といつしよにうなづかせながら一所懸命にまはる。そのたんびにふさふさしたおさげの髪が肩にまつはつてふたつの足さきが追ひあふこま鼠のやうにくるめく。負けまいとして鞠をでおさへたり、胸にかかへたりしてよろよろするまでもつづける。 ﹁ほうほけきよや鶯や うぐひすや、たまたま都へのぼるとて のぼるとて、うーめの小枝に昼寐して、赤坂奴の夢をみた、枕のしたから文がでた、お千代にこいとの文がでた……﹂ 著物の裾のひきずるのもしらずに夢中になつてつく。兎の戯れるやうに左右の手が鞠のうへにぴよんぴよんと躍つて円くあいた唇のおくからぴやぴやした声がまろびでる。その美しい声にうたはれた無邪気な謡は今もなほこの耳になつかしい余韻をのこしてゐる。夕日が原のむかふに沈んでそのあとにゆらゆらと月がのぼりはじめると花畑の葉にかくれてた小さな蛾が灰白の翅をふるつてちりちりと舞ひあがる。少林寺の槙の木には烏が群つて枝をあらそひ、庭の珊瑚樹の雀はちゆうちゆくちゆうちゆくいふ。そのとき私たちはやうやく黄味のあせてゆくお月様をあふいで兎の歌をうたふ。 ﹁うーさぎうさぎ、なによみてはねる、十五夜お月さまみてはーねる。ぴよん、ぴよん、ぴよん﹂ 二人はつぼめた膝に手をのせ腰をかがめて跳ねあるく。さんざくたびれてる足は二つ三つ跳ねるうちにまつたく弾力を失つて思はずころころと尻餅をつくのをそれがをかしいといつてまた笑ひこける。そんなにして二人とも家から呼ばれるまではなにもかも忘れて遊びにふけつてるが、ききわけのいいおちやんはどんなときでも ﹁お嬢様もうお帰りあそばせ﹂ と呼ばれると ﹁はい﹂ とすなほに返事をして、帰りともない様子はしながらさつさと帰つてゆく。別れるときにはあすの遊びの誓ひのために小指をからめあつて指のぬけるほど指つきりをし、もしか嘘をつけばこの指が腐つてしまふ といふのを そんなこと と思ひながらもなんだか恐しいやうな気がする。四十五
そのやうにして日増しに隔てがなくなるにしたがつて負けずぎらひの私とくやしがりのおちやんとのあひだにはときどきたわいもないいさかひがおこつた。ある日私たちはいつものとほり裏でまありをついてたがあいにくつけばつくほどおちやんのはうが貸されるもので、しまひにはずるいとかなんとか苦情をつけて泣きながら両方の袖でぽんぽんひとをぶつた。その拍子に袂にはひつてたお手玉がぱらぱらと地びたへこぼれた。おちやんはそれを拾はうともしずに ﹁もうあなたなんぞと遊ばない﹂ といつて顔をおさへてゐる。さうして私が訳もなくあやまるのをきかずにいつてしまつた。おいてきぼりにされた私はあと先の考へもなくお手玉を拾ひあつめて持つて帰つたがこんだはそれがまた苦労の種になつて もしおちやんがくやしまぎれに私がお手玉をとつたといつたらどうしよう、そーつともとのところへおいてこようかしらん、あした学校で机のなかへ入れといてやらうかしらん などととつおいつ思案をめぐらした。が、とにかくひとの物をもつてきて抽匣に入れてあるのが気がかりでならない。そんなにして不安な一夜をあかした。あくる朝なんだか顔をあはすのが怖いやうな、あはせないのも心配なやうな気もちで誰より先に学校へゆき自分の席にしよんぼり坐つて昨日のこと、これまでのことなど思ひだしてるうちにひとりふたりとやつてきてだんだん教場が賑になつた。しかしおちやんの姿はみえない。もしか怒つて休むのぢやないかしら、だがまだ来る時刻ぢやないからわからない などともどかしがつてるうちにかなり遅い組のちよつぺいがきていよいよその時刻になつた。私はゐたたまらずに門のところへいつて扉の陰からうかがつてたらやがて坂のうへから包みをかかへてくるのがみえたのでやつとひとまづ胸をなでおろした。さきはそれとは知らず門をはひりかけたのをこちらもなにげなく扉のかげから出てふと顔をみあはしたところちよいときまりのわるさうな笑ひをうかべたなりなんにもいはずにはひつてしまつた。大丈夫だ。そんなに怒つてもゐないやうだ。そのもどかしい一日をおちやんは元気よくお友達と遊んでゐた。帰つてから私が机にむかひながら 今日は裏へ出てみようかしら、よさうかしら などと思つてるときに玄関の格子がしづかにあいて ﹁ごめんあそばせ﹂ と小さな声でいつた。私はすぐさまとびだして衝立のうしろから ﹁おちやん﹂ と呼びかけながら式台に立つた。そのときおちやんははじめての訪問のせゐかすこしはにかみながらもいつものさえざえしい笑顔をみせたので今まで背負つてた重荷がさらりと一時におりた。私はこの珍客を玄関のわきの自習室へ招きいれた。 おちやんはそはそはして部屋のなかを見まはしたり、肱かけ窓によりかかつてどうだんの提灯を眺めたりしてたがすこしおちついてから ﹁昨日はあたくしが悪うございました﹂ とちやんと両手を畳についてさも後悔したらしくあやまつた。あんまり大おと人なびて几帳面に詫びられたためにこちらはかへつてどぎまぎしながらもこんなにひとに苦労させたかと思へば面憎くもなつて あんなにあやまるのぢやなかつた と思つた。おちやんは 昨日あれから家へ帰つて叱られた といふ。さうして 後生だからお手玉ちやうだい といふのでさんざじらしたあげくやつと抽匣から出してやつた。その友禅縮緬のきれはもとよそいきの著物だつたとかで桐の花だの鳳凰の翼だのがきれぎれになつてゐた。二人はその因縁のあるお手玉をとつて遊んだ。蝶蝶のやうに飛びあがり飛びくだるお手玉といつしよにおちやんの顔がうなづくたんびに紅白だんだらに染めた簪の総ふさが蟀こめ谷かみのあたりにはらはらとみだれる。 ﹁お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ、お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ﹂ 手の甲にのつてるのを落すまいとしてずるいことばかりする。 ﹁小さい橋くぐれ、小さい橋くぐれ﹂ 細い指で畳のうへに橋をかけてお手玉をすいすいとくぐらせる。おちやんの耳たぶは美しくほてつてゐる。さうしてじれればじれるほどかたくなつて肝心のところでしくじつてはお手玉をはふりつけたり袂にくひついたりしたが、それからは毎日お手玉をもつて遊びにくるやうになつた。四十六
読本が一冊あがつたときに先生は復習のためだといつて﹁とりよみ﹂をさせた。それは組を男と女とにわけて、ひとの読みちがひをすばやく読みなほし読みつづけてしまひまでに読んだ紙数の多いはうを勝ちとするのである。男はふだんなんのかのと威張るけれどさて読みつくらとなるとさつぱり意気地がなくていつも負けどほしだつた。それにいざとなれば誰でもせきこむのでぢきに間違へてとられてしまふ。最初の読みてであつた私はそれを心得てそろそろと読みはじめた。みんなはいつになく私の渋滞するのをみて軽蔑して笑つてたがあいにくいつまでたつても一字も読みそこなはずにだらだらとつづけてゆく。日本武尊が草を薙ぎはらつてるところ、馬が何匹もゐて栗毛、鹿か毛げ、連れん銭せん葦あし毛げなどの話のあるところ、黒んぼが駱駝にのつて沙漠をゆくところなど一枚二枚と読んでもう終りにちかい元寇の章まできた。支那のいくさ船がめちやめちやに壊れてるところへ日本の小舟が漕ぎよせてゆく絵があつて、閏七月三十日の夜に神風が吹いて十万の軍勢がたつた三人残つたばかりだと書いてある。女の組ではいまさら油断したのを後悔してひとがちよつと息をつぐのにさへ手をあげてとらうとする。その狼狽の様子がをかしくなほなほ落ちつきはらつていよいよ陶器といふ章まですすんだが、困つたことに私は焼物の製法などにあまり興味をもたなかつたため平生そこだけはとばしておさらひをしてたのでやうやくしどろもどろになつて訳なくとられてしまつた。そこでしぶしぶ女に株をゆづらねばならぬことになり憎い敵は誰かと思つてみたら意外にもそれはおちやんだつた。私は嬉しいやうないまいましいやうな変な気がした。くやし泣きに泣いたとみえて眼のまはりを赤くしてゐる。そして本をもつて立ちあがりはしたものの泣きじやくりして一字も読めない。そのうち鈴が鳴つてその日は珍しく男の組の全勝になつた。 学校がひけてからいつものとほり遊びにきたおちやんはまだすこし腫れぼつたい目をしてきまりわるさうに ﹁でもあたしほんとにくやしかつたわ﹂ といつた。さうして袂からうち紐をだして ﹁綾とりしませう﹂ といふ。小さな膝と膝をつきあはせたうへに綺麗な紐が蒼白い手くびにまとはれ、細くそらした指にひきはられていろんな形になる。おちやんは ﹁水﹂ といつてわたす。だいじにとつて ﹁菱﹂ おちやんは十の指を順にかけて ﹁ぺんぺんことかいな﹂ と琴をつくる。わたし ﹁お猿さん﹂ ﹁鼓﹂ あだかもお互の友情が手から手へ織りわたされるかのやうに睦しくそんなにして遊びくらした。四十七
ある日のこと修身のお話のときに先生が ﹁今日は先生のかはりにみんながひとつづつ話をするのだ﹂ といつて自分は火鉢のそばへ椅子をひきよせてあたりながらなかで気の強さうな者や剽軽な者を呼びだして話させたことがあつた。平生立派に一方の餓鬼大将になり愛嬌者になつてる者でも教壇に立つて四方八方から顔を見られると頬がつれ舌がもつれてなんにもいへなくなつてしまふ。﹁所﹂といふふだんひとの馬にばかりなつてるのつぽな男がまつ先に呼出されて膝頭をがたがたふるはせながら ﹁足袋の話をします﹂ といつた。先生は ﹁なに足袋の話? こりや面白さうだ﹂ と油をかける。所はどもりどもり ﹁あつちから足袋が流れてきて、こつちから足袋が流れていつて、まんなかでぶつかつて、たびたび御苦労です﹂ といつてそこそこにひつこんだ。その次は吉沢といふ下歯が上歯にかぶさつた正直者で、えへへ えへへ とむやみに笑ひながら ﹁槍の話をします﹂ といつた。先生は ﹁こんだは槍の話か。これも面白からう﹂ といふ。 ﹁あつちから槍が流れてきて、こつちから槍が流れていつて、まんなかでかちやつて、やりやり御苦労です﹂ といつてひつこんだ。手軽な話はみんなひとにされてしまつて私も内内小さくなつてたところ運わるく最後にあてられた。話は伯母さんにきいていくらでも知つてるけれど短くて話しいいのがひとつもない。で、しかたなしに お皿をほされた河童の話 といふのをやつたが、話してみれば案外度胸がすわつて気になるおちやんのはうをちよいちよい見ながらぼつぼつと話しをはつた。さうして先生にお辞儀をして帰らうとしたら先生は ﹁おまいはなかなか面の皮が厚いよ﹂ といつて笑ひながら頭をひとつたたいた。それから女のはうの番になつたが机に獅噛みついてゐて誰ひとり出ないもので一番から席順に呼びだされることになつた。それでも出ないで泣きだす者さへある。で、おはちはたうとう五番めまでまはつていつた。おちやんは覚悟をしてたらしくすなほに ﹁はい﹂ といつて教壇に立つた。とはいへさすがに襟くびまで赤くなつてさしうつむいてたが、ややあつて夢ごこちに泳ぐやうな手つきをしながらひと言づつきれぎれに語りだしたときには私は心配と同情とにはらはらしてまともに顔を見ることさへし得なかつた。けれどもだんだん話がすすむにつれぱつちりした眼がしやんとすわつて大人びたりりしい様子になり、そのならびない澄みとほつた声ではきはきと順序よく話しつづけたその話はいつも私がきかせた初音の鼓の話であつた。生徒らは思ひのほかな話しての態度に魅せられ、珍しく面白い話にひきこまれていつとはなしに鳴りをしづめてゐた。話がすんだときに先生は ﹁今日は男のはうはみんなよく話したのに女はひとりも出なかつたから負けのはずだつたが今の□□の話ひとつで女のはうが勝ちになつた。先生は感心してしまつた﹂ といつた。女の子たちは思はずにこにこした。おちやんもさつと顔を赤めてふしめがちに自分の席へ帰つてゆくのを私は嬉しいやうな嫉ましいやうな不思議な気もちで見おくつた。あの話はおちやんにさせるのではなかつたものを。四十八
冬の夜の遊びはしみじみと身にしみて楽しいものである。おちやんは手をかじかませてきて部屋へはひるやいなや火鉢にかじりつく。それは伯母さんがこの可愛いお客様のために毎晩山もりに炭をついでおくことになつてゐた。おちやんが寒さうに肩をすぼめて暫くは火鉢のうへにのりかかるやうにしてるのを私は待ちどほしがつておさげの髪をひつぱつたり、お稚児の輪のなかへ指をつつこんだりする。と、さきも私に負けない癇癪もちなのでむきになつて泣きだしたりすることもあつた。さうなるとこちらは一も二もなく降参してひたあやまりにあやまつてしまふ。つつぷしてる耳もとへ口をよせて ﹁堪忍して、堪忍して﹂ といつても首をふつてゐてなかなかきいてくれない。が、ひと泣き泣いてしまへば ﹁もういいのよ﹂ とからりと機嫌をなほして怨むやうな淋しい笑顔をみせる。そんなとき私はそのほんのりした瞼まぶたから涙をふいてやることもあつた。 おちやんは泣きまねが上手だつた。つまらないことを二言三言いひあふうちに急にぷりぷりしたと思ふといきなりひとの膝に顔をかくしておいおいと泣く。私はその重たい温ぬくみを感じながら、簪をぬいてみたり、くすぐつてみたり、手をかへ品をかへて機嫌をなほさうとすればなほなほ泣きたてるのでこちらに咎とがはないと思ひながらも一所懸命にわびる。と、さんざてこずらしておいてから不意に顔をあげべろつと舌をだして ああいい気味だ といふやうに得意に笑ひこける。すべつこい細い舌だつた。私はあまりたびたびその手をくつたためしまひにはほん泣きかうそ泣きかを額に出る癇癪筋のあるなしで見わけることをおぼえた。 また睨めつこが得手でいつでも私を負かした。おちやんの顔は自由自在に動いて勝手気儘な表情ができる。あんがりめ さんがりめ なんといつて両手で眼玉をごむみたいに伸び縮みさせたりする。私はその睨めつこが大嫌ひだつた。それは自分が負けるからではなくて、おちやんの整つた顔が白眼をだしたり、鰐口になつたり、見るも無惨な片輪になるのがしんじつ情なかつたからである。 そんなにしてるうちにいつか私はお犬様や丑紅の牛といつしよにおちやんまでを自分のものみたいに思つてその身にふりかかる毀誉褒貶の言葉や幸不幸な出来事はそのままひしひしとこちらの胸にこたへるやうになつた。私はおちやんを綺麗な子だと思ひはじめた。それがどんなに得意だつたらう。併しそれと同時に自分の容貌は嘗て思ひもかけなかつたつらい重荷となつた。自分はもつともつと綺麗な子になつておちやんの心をひきたい。さうして二人だけが仲よしになつていつまでもいつしよに遊んでゐたい。私はそんなことを考へはじめた。 ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたつてゐた。そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとほるやうに蒼白くみえた。それはお月様のほんの一時のいたづらだつたが、もしこれがほんとならば と頼もしいやうな気がして ﹁こら、こんなに綺麗にみえる﹂ といつておちやんのまへへ腕をだした。 ﹁まあ﹂ さういひながら恋人は袖をまくつて ﹁あたしだつて﹂ といつて見せた。しなやかな腕が蝋石みたいにみえる。二人はそれを不思議がつて二の腕から脛、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。四十九
そのころ西隣へ縫ぬひ箔はくを内職にする家がこしてきてそこの息子の富公といふのがあらたに同級になつた。彼はさつぱり出来ない子だつたが口前がいいのと年が二つも上で力が強いために忽ち級の餓鬼大将になつた。で、自然私はこれまでのやうに権威をふるふことができないばかりか体面上さうさう頭をさげてゆくこともならず、ひとり仲間はづれのかたちになつてしまつた。彼は近処に友達がないもので学校から帰ると私を誘ひにきて裏で遊ぶ。私は彼をあんまり好かないのとおちやんと遊びたいのが山山なのとでちつとも気がすすまなかつたけれど、その反感をかふのを懼れてせうことなしにつきあつてゐた。もともとおてんばの好きなおちやんは私たちの遊びを垣根ごしに面白さうに見てたが終には自分も出てきて見やう見まねに縄とびや箍まはしなどをやるやうになつた。如才ない富公は お嬢さん お嬢さん と機嫌をとつて、さかだちをしたり、筋とん斗ぼがいりをしたり、いろんな芸当をやつてみせる。そんなことの大好きなおちやんは 富ちやん 富ちやん と彼のあとばかり追つてあるく。伯母さんひとりの手に育てられてお国さんとばかり遊んでた私は修業がつまないのでとてもそんなはなれわざはできず、器量わるくも富公がこの小女王の寵幸をほしいままにするのを指をくはへて見てるよりほかはなかつた。 おちやんは晩に家へきても富公の話ばかりして私が機嫌をとるためにもちだす絵本や草双紙なぞ見むきもしない。三人で遊んでるときにも富公がいい気になつてひとのことを下手つくその意気地なしのといへばいつしよになつてばかにする。さかだちも筋斗がいりもできない芸なしに自分をしつけた伯母さんが今さら怨めしい。そんなで私は富公がいやでならないのをじつと虫を殺して逆らはないでたがその堪忍も終に緒がきれて、あるときあんまりなことをいふのをむつとして口返しをしたら彼はさんざ口ぎたなく罵つたあげくおちやんに耳つこすりをして意味ありげにひとをしり目にかけながら ﹁あばよ、しばよ﹂ といつてさつさと帰りかけた。それをおちやんまでがまねをして ﹁あばよ、しばよ﹂ といひいひあとについていつてしまつた。自分のとこへつれてつたのにちがひない。それからおちやんはばつたり来なくなつた。たまに顔をあはせてもにこりともしずに隠れてしまふ。富公が意地をつけたのだ さう思へば私は小さな胸に煮えかへるほどの嫉妬と憤怒をおこさずにはゐられなかつた。学校でも彼はみんなをけしかけて私ひとりをちくちくといぢめる。私はさうした口前はもとより腕力に於ても確に彼に一目おかねばならぬ。で、今は纔に自分が首席であるといふことだけがせめてもの慰めであつた。とはいへそれもおちやんなくしては畢竟ただの空位にすぎないではないか。五十
気も狂ひさうな日がいく日かつづいた。ある日のこと私がまたひとり自習室にとぢこもつて思ひ悩んでるときにふとぽくぽくちりちりいふぽつくりの音がきこえた。はつとしたが胸をおさへて窓をあけることはしなかつた。すると忘れるまもないなつかしい声が ﹁ごめんあそばせ﹂ と格子のところでいつた。 ﹁どなた様でございます﹂ 伯母さんがそら恍とぼけて出ていつて ﹁おお おお どこのお客様かと思つたらこんなかはええお嬢様だつた﹂ といひいひ抱へあげる様子で、訳をしらないもので かぜをひいたか の、お泊りにいつたか のと尋ねてゐる。おちやんは伯母さんのあけた障子からおとなしくはひつてきて ﹁御無沙汰いたしました﹂ としとやかに手をついた。こらへにこらへてた私はそのひと言に張りつめた気の弦つるをきられてわれしらず ﹁おちやん﹂ と呼びかけると同時にくやし涙がさつとこぼれた。それをさまで気にするでもないらしく袂からお手玉をだしはじめるのを ﹁なぜ来なかつたの﹂ といへば案外平気で ﹁富ちやんとこへいつてたから﹂ といふ。畳みかけて ﹁なぜ今日はいかないの﹂ と詰なじれば事もなげに ﹁富ちやんとこなんかいつちやいけないつてお母かあ様さまに叱られたから﹂ と答へる。私は気を折られながらもいつぞやの怨みをすこしいつたらおちやんは ﹁ごめんなさいね﹂ と前おきをし、富ちやんが あんな子と遊ばないでも家へくればいくらでも面白いことがある といつたからだといひ訳をして ﹁お母様に叱られて富ちやんが大嫌ひになつたからまたあなたと仲よくしませう﹂ といふ。私の心をなんといはうか。おちやんはやつぱし私のものだつた。さうとは知らず富公は一日待ちくたびれてたのだらう。明る日学校でこちらが見張つてるとも気づかずこつそりそばへよつてなにかいひかけたがおちやんは もうあなたなんぞ嫌ひだ とけんもほろろの挨拶をした。おちやんはお母様に叱られて以来しんから彼を軽蔑するらしかつた。五十一
奸智にたけた富公は自分が疎うとんぜられるのをみるやしらじらしくも親しげに私のそばへよつてきていろいろと機嫌をとつたあげくおちやんを中傷するやうなことをいつて 自分もあの子とは遊ばないことにしたから君も決していつしよに遊ぶな といつたので、腹のなかで笑ひながらいいかげんに挨拶をしておいた。とはいへその後私とおちやんがもとのとほり仲よくなつたことを勘付くやいなや彼は恐しい仕返しをたくらんだ。彼は毎日学校で遊び時間になるとみんなをけしかけて二人を囃したてる。さうしてみんながくたびれて火の手をゆるめると勝手にこしらへた言語道断なことを耳うちしてひとりびとりたきつけてあるく。私たちは仲間はづれにされ意味ありげな眼にとりまかれてみじめな境涯に堕ちてしまつた。しかしさうなればいきほひ一層睦しくなり、厭はしい一日の課業をすませて家へ帰つて遊ぶときにはお互の胸にいひしらぬ楽しさと慰めのあふれるのをおぼえた。富公の意趣返しは日に日に悪辣になり、こちらの敵意もそれにつれてたかまつてゆく。私はほかの雑ざふ兵ひやうばらはものの数とも思はないし、それに奴自身も案外強くないに相違ない。その證拠にはときどき私が赫かつとしてむかつてゆくと彼は一騎打ちをしずにうまく逃げて遠巻きにひとを苦しめようとする。私はやうやく相手を見くびると同時にいつか思ふさまこの返報をしてやらうといふ気がむらむらとおこつた。そのうちある日のことれいのちよつぺいが学校のひけがけにこそこそとやつてきて ﹁あした待ちぶせするつていつてたよ﹂ といふなり見つかるのが怖いのかさつさと駈けていつた。私はちよつぺいの心根を嬉しく思つた。翌朝私は二尺ばかりの布ほて袋いち竹くのでこでこなやつを羽織のしたへしのばせて さあこい といふ気で学校へいつた。 最後の時間がすむやいなや富公は ﹁みんなこい みんなこい﹂ と相図しながらまつ先に教場を駈けだした。するとなかでもおべつかつかひの三四人の奴らがばらばらとあとについていつた。私は覚悟をきめてわざといちばんあとから帰つたら相手は案のぢやう人通りのない八幡様の笹藪のところで待ちかまへてゐておべつかが えへん えへん とばかにした咳ばらひをする。こちらは 今日こそ とおもふ心を色にもみせずすまして通らうとするのを富公は ﹁そら、やれやれ﹂ と下げ知ぢをした。ほかの者は格別意趣があるではなし、それに到底私の敵ではないのでただまはりからわいわいいふばかりだつたが、なかにひとり寺の息子の爛れ目の奴がどういふ忠義だてかいきなり後ろから頸つたまへ噛りついた。富公は内心びくびくしながらも頼もしい味方の振舞に力を得て ﹁こら、貴様生意気だぞ﹂ といつて寄つてきたので私はいきなり布袋竹で真向をくらはしてやつた。さうしたら富公は意外にも忽ちへなへなとして ﹁いやだあ、乱暴するんだもの﹂ といひながら額をおさへてめそめそ泣きだした。このきたない大将の負けやうを今更 とんだ者に加勢した といふ顔つきで眺めてた雑兵ばらはそろそろ自分たちの身がけんのんになつてきたのをみて ﹁おら知らねえと﹂ とてんでにいひながらこそこそと帰つていつた。ただ驚いたのは目くされの坊主で、大将もろとも討死の覚悟か目をつぶつて死に身にぐたりとつるさがつたなりどうしてもはなれない。さすがの剛の者もそれにはほとほと弱つたが、やつとのことでへばりつく奴をぎはなして帰つたときには実はこちらも泣きかかつてゐた。五十二
つららを折り、堅炭で雪をつるうちに桃のお節句がきた。家には神田の大火事に不思議に焼けのこつたといふ古いお雛様があつて、五人囃子が三人になり、矢しよひの矢があらかた折れてるなどさんざんだつたが、それでも毎年子供たちの慰みに必ず飾ることになつてゐた。伯母さんは家ぢゆうのがらくた物をよせあつめて、貝細工の屏風を立てまはしたり、千代紙のお三方にちりちりを盛つたりして調度のたりないところをふさげ、子供の眼にはさも立派なお雛様にみえるやうにうまくこしらへてくれる。緋の毛氈をしいた壇のうへに綺麗な人たちをならべ、いちばん上は私の、二段めは妹の、三段めは末の妹のときめて菱餅やはぜを供へるときの嬉しさといつたらない。寐てるうちに蠑螺が逃げやしないかと心配して笑はれたこともおぼえてゐる。お節句にはわざわざおちやんをよんだ。おちやんは大よそいきの著物に赤い総のついた被布をきてやつてきた。二人が雛段のまへへちよこなんと坐つて仲よく豆煎なぞたべてると伯母さんは三つ組みのお盃の小さいのをお客様に、なかほどのを私にとらせてとろとろの白酒をついでくれる。白酒が銚子の口から棒みたいにたれてむつくりと盛りあがるのをこくこくと前歯でかみながらめだかみたいに鼻をならべてのむ。子煩悩な伯母さんはこんなにして小さな者を喜ばせるのがなによりの楽しみで自分もほくほくしながら ﹁二人ながらかはええ かはええ﹂ と両手でいつしよに背中をなでてくれる。乳母はおきまりの お雛様のやうな御夫婦だ をいつて私たちをいやがらせる。おちやんは大よそいきだもんですましてゐて、まーりやお手玉もちやんと持つてるくせにいぢくつてばかりゐてしようともいはない。双六や、水中花や、十六むさしや、南京玉のぬきつこなぞやつてやつとすこしはしやいできたところをそのころ姉から譲りうけた成田屋の勧進帳と音羽屋の助六の羽子板をもつてやうやく裏へ誘ひだした。が、二人とも金魚みたいにぞろぞろしてるうへに大きな羽子板が手にあまつて二つ三つつくとは落してしまふ。 ﹁油屋おそめ、久松十よ﹂ それでも面白半分にぽんぽんお尻の打ちつこをした。五十三
お節句がすぎると間もなくお父様がなくなつたためにおちやんはその当座しばらくこなかつたがある晩不意にまたぽくぽくちりちりとぽつくりの音をさせて遊びにきた。併し思ひなしかひどく沈んでるので私は気が気でなく、家の者も気の毒がつていろいろと慰めたら あたしの家はあしたお引越しするのだ といつた。お祖母様とお母様とでお国へ帰るのださうだ。おちやんは
﹁あたしお引越しは嬉しいけど遠くへいけばもう遊びにこられないからつまらないわ﹂
とやるせなささうにいふ。で、私もどうしようかと思ふほど情なくなつて二人してふさいでゐた。これがお別れだといつてその晩はみんないつしよに遊んだが乳母もさすがに
﹁ほんとにお不仕合せなお子さんだ﹂
といひいひしげしげと顔を見つめてゐた。次の日にはお祖母様に手をひかれて玄関まで暇乞ひにきた。私はいつもの大人びた言葉つきでしとやかに挨拶をするおちやんの声をきいて飛んでも出たいのを急に訳のわからない恥しさがこみあげてうぢうぢと襖のかげにかくれてゐた。おちやんはいつてしまつた。あとを見おくつてた家の者はくちぐちに
﹁綺麗なお嬢様だこと﹂
といつた。おちやんはお雛様のときの著物をきてきたといふ。ひとり机のまへに坐つて なぜあはなかつたらう とかひもない涙にくれてるのを乳母ははやくも見つけて
﹁坊ちやまもおかはいさうだ﹂
といつた。
明る日私は誰より先に学校へいつた。さうしてそつとおちやんの席に腰かけてみたら今更のやうになつかしさが湧きおこつてじいつと机をかかへてゐた。おちやんはいたづら者である。そこには鉛筆で山水天狗やヘマムシ入道がいつぱいかいてあつた。
これはもう二十年も昔の話である。私はなんだかおちやんが死んでしまつたやうな気がしてならない。さうかとおもへば時には今でもおちやんが生きてゐて折ふしそのじぶんのことなど思ひだしてるやうな気もする。
(大正元年初稿)
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