危し※[#感嘆符二つ、1-8-75] 潜水艦の秘密
山本周五郎
﹁何だろう、これは?﹂府立第×中学の校庭には、七月の真昼の陽(ひ)が照りつけていた。眼の眩(くら)むようなその陽ざしの中で、蹴球の猛練習に熱中している二年級の生徒が四五人、いまトラックの一隅にかたまって、一枚の紙片を取(とり)巻(ま)きながら盛(さかん)になにか議論していた。
﹁なんだ下らない、出(でた)鱈(らめ)目(が)書(き)だよ﹂
﹁だが、暗号文らしいぜ﹂
﹁暗号なら春(はる)田(た)に見せてやれ。彼(あい)奴(つ)人間の作った暗号なら、どんな物でも解いて見せると威張っていたじゃないか﹂
﹁そうだ春田に見せて困らせてやれ﹂皆は口々にそう囃(はや)したてながら、紙片を持って、校舎の方へ走っていった。そして藤棚の下で春田龍(りゅ)介(うすけ)君がやってくるのに出会った。
﹁春田君、君はいつか人の作った暗号文ならどんな物でも解いてみせるといったね﹂春田君は濃い眉を神経質に動かしながら、しっかり頷いたきりで黙って微(ほほ)笑(え)んでいる。
﹁よし、じゃあこれを解いて見たまえ﹂
春田君は友達から紙片を受けとると、よく見もせずに――﹁明日の練習時間までに解いてくるよ﹂と無造作にいったまま、すたすたと向うへ去っていった。皆は思わず、
﹁がっちりしているなあ
﹂と呻(うめ)いた。
春田龍介は二年級の級長をしていた。お父様の春田博(はか)士(せ)は大学の物理の教授で、その感化もあったのであろう。龍介君は学校中での秀才、頭の良さといったら春田君の質問には、先生でも時々答えにつまるくらいだった。
家にかえった春田君は、勉強部屋に閉じこもって、例の紙片を取出し、叮(てい)嚀(ねい)に検(しら)べはじめた。それは極(ご)く上等の純白の模造紙にペンで書いたもので︵○ツエイ ハ ヨ○八時三十分 ヨリ行ウ ○ショップ ○ンセン同伴ス︶というだけの文句である。春田君は二時間ばかりというもの、夢中になって、その暗号を解くことに熱中した。
そしてまず文句の中の○の部分へ文字を当(あて)嵌(は)めて、左のような文章を作り上げたのである。︵サツエイ ハ ヨル八時三十分 ヨリ行ウ ビショップ ヤンセン同伴ス︶
﹁サツエイとは撮影のことだろう﹂と春田君は呟(つぶや)いた﹁ビショップとは英語で牧師さんのことだな、すると、︵夜八時半にヤンセンという牧師をつれていって撮影を行う︶というだけのことだ……﹂
それだけがわかると、こん度はその文章のかげに隠されている暗号があるに相違ないと思って、春田君は更(さら)に、ABC分解やら伊(い)呂(ろ)波(は)分解や、五十音分解法などを応用して、その文章を検べに取掛った。それから間もなく扉(ドア)の外で、
﹁お兄さま、お兄さま!﹂と呼ぶ声がした。
﹁お入り!﹂春田君は顔もあげずにいう。
﹁御免なさい﹂そういって部屋へ入ってきたのは、龍介君の妹で尋常六年生、文(ふみ)子(こ)さんという活溌な、少女だった。
﹁なにか用かい?﹂
﹁御飯ですって。今夜はね、実験室でお父様の実験があるから、早く御飯をすませてお手伝いにゆくのですって﹂
﹁よし心得た、すぐ行くよ﹂
﹁あら! それなあにお兄さま﹂
﹁これか、これはね或る重大な外国の軍事探偵の暗号文なんだ。これに、我日本帝国の安危が隠されてあるのさ﹂
﹁あら! まあ本当
﹂
﹁あはは、嘘だよ、学校の友達が僕を困らせようと思って拵(こしら)えたものなんだ。子供騙(だま)しのようなものだよ﹂
﹁まあ嫌だ、私びっくりしちゃったわ﹂
兄弟は仲よく、声をあわせて笑いあった。
﹁それはそうと、文ちゃん、君は僕の教えた春田式危険信号を覚えたかい?﹂春田君がいった。
﹁ええ覚えたわ、やってみましょうか﹂
文子はそういうと、ポケットから掌(てのひら)へかくれてしまうくらいの小さな懐中電灯を取だして、﹁・・――・・――﹂と光らせた。
﹁こん度は助けてくれをやって見たまえ﹂
﹁・――・ ・――・﹂
﹁うまいぞ
これからもっとたくさん教えてあげようね、いつどんな時に役にたつかわからないからなあ﹂
﹁さ、食(ごは)事(ん)に行きましょうよ﹂兄妹は手をとりあって部屋を出た。
その夜春田博士の実験室では、博士の発明した﹁C・C・D潜水艦﹂に用うる、世界最初の無燃料機関の実験をすることになっていた。なにしろこの機関が完全に成功すれば、潜水艦は何十時間でも何百時間でも水底にいられるし、速力も一時間二百哩(マイル)くらい出るので、たとえば水底をくぐって僅(わずか)の間に太平洋横断ができるという、まことに恐るべき発明であった。
むろん春田博士の発明は、世界中の学者の羨望の的になっているもので、各国の海軍では、どうかしてこの発明を手に入れようと、狂人のように騒いでいるのだった。
それ故その夜の実験は、春田邸の広庭に離れて建てられた実験室で、ごく秘密に行われるので、招待される人は、海軍少将山川八郎氏、機関大佐横田文(ふみ)人(んど)氏、の二人きり、それに博士と、龍介君に文子さんが助手役となって立(たち)合(あ)うだけだった。
実験は八時半からで、もう八時には横田大佐が実験室へ現われた。しかしどうしたことか、山川少将はなかなか姿を見せなかった。
﹁どうしたのだろう、山川さんは。もう八時三十分ちょっと廻ったがねえ﹂
横田大佐は懐中時計を見ながら頭をかしげた。﹁あの人が時間におくれるなんて珍しい﹂
そういっている時、扉(ドア)が明(あ)いて、ぜいぜい息を切らした山川少将があらわれた。
﹁いや失敬した。途中で自動車に故障がおこったものだから――﹂
﹁そうですか、私達はまたどうなすったのかと心配していました。では博士、実験にかかって頂きましょう!﹂
横田大佐がそういった。
実験室の窓や扉(ドア)には、厳重な鉄の鎧戸がぎりぎりと鳴りながらおろされた。そして人々は室(へや)の中央へと集まっていった。
そこには中央に大きな台を据えて、長さ二米(メー)突(トル)ばかりの複雑なC・C・D潜水艦用機関の模型が取附けられてあった。博士は、まず台の上へ、設計図をひろげて、静かな口調で発明の要点を話しだした。
龍介は一同からすこし離れた場所にたって、万一の場合にとわたされたモオビルの精巧な小型拳(ピス)銃(トル)を握りしめながら、じっとあたりを警戒していた。
﹁では模型を動かして実験に取りかかります﹂博士は一とおり説明を終ると、模型機関のハンドルを握った。
﹁つまりこのハンドルを引くと、このクランクを伝わって、中心原動桿(かん)に力が起されるのです。……﹂
博士の指がハンドルを引くと共に、一種微妙な音をたてながら、複雑極まる機関がしずかに動きはじめた。見ていた山川少将、横田大佐は驚嘆のあまり思わず叫んだ。
﹁素晴しいものだ!﹂
﹁国宝的な発明だ!﹂
その時、龍介君はその機関の響きの外(ほか)に、なにかひくい機械の廻転するような物音を耳にした。なんだか分らないが、遠くではない、すぐ近くでしていることはたしかだ、それはリリリリリと、云(い)うかすかな音だった。――と、何をみつけたか、龍介君は突然サッと顔色を変えて叫んだ。
﹁お父様、実験中止ッ
文子、電灯を消せ
﹂
﹁どうした龍介、なんだ!﹂
﹁設計図と模型を守って下さい。文子早く電灯を消すんだ。早くッ
﹂文子はいわれるままにスイッチを捻(ひね)った。実験室は真暗闇になる、とたん、
﹁あれ
兄さん
﹂という文子の叫(さけ)声(びごえ)が闇のなかに、けたたましくおこった。
文子の叫声をきいた龍介君、声のした方へ懐中電灯をむけると、実験室の壁の一部が外にひらいて、黒装束の男が、文子を横(よこ)抱(だき)にして外へ出るところだった。
﹁待てッ
﹂が遅かった
壁は元のとおり閉まって、押せども引けどもびくともせぬ。それと見るより拳(ピス)銃(トル)片手に龍介君は扉(とぐ)口(ち)に突進した。しかしそこにも厳重に鎧(よろ)扉(いど)が下りていたので、外へ出るまでにはたっぷり二分はかかっていた。――ようやく広庭へ出て見ると、一人の男が暗闇の中を走ってゆく。
﹁止れ、止れ、待たぬと撃つぞ
﹂大声で叫んだが止まる容(よう)子(す)もないから、龍介君は狙い撃ちに二発撃った――パッパッと赤い火が銃(つつ)口(ぐち)から走ったと思うと﹁あっ
﹂と声をあげて怪しい男はもんどり打って倒れた。
駈けよってみると、筋骨逞しい若者が、脛(すね)を押えてうんうん呻(うな)っている。むろん掠(かす)傷(りきず)だ。
﹁動くな、動くと撃つぞ
﹂春田君は拳(ピス)銃(トル)を向けながら叫んだ﹁立て、歩くんだ
﹂そしていやッというほど尻を蹴とばした。
龍介君が若者を追い立てて実験室へもどると、設計図と模型を守っていた博士と大佐は心配そうにいった。
﹁文子はみつかったか﹂
﹁いや駄目でした、しかし今は文子のことより先に取掛らなければならぬ仕事があります……ところで山川少将はどうしました、見えませんね﹂
﹁山川さんも文子と一緒に掠(さら)われたらしい﹂龍介君は歯噛みをして口(く)惜(や)しがった。そして若者の顔を睨(にら)みつけながら、
﹁この売国奴め
﹂と、どなりつけた。
すると若者はさっと顔色をかえて、
﹁僕ぁ不良青年かもしれねえが売国奴と呼ばれる覚えはないぞ、僕ぁメリケン壮太っていうちったあ知られた男だ、さあ僕がどうして売国奴だ、わけをいえ
﹂
﹁よし教えてやるから、貴様がこの実験室の前に忍んでいたわけを話せ……﹂
﹁訳は簡単だ。額にあざのある外国人の牧師に頼まれて、この中で骨(かる)牌(た)をやっている者がある。自分は警察へ密告してくるから、ここで見張をしていてくれといって、五円紙幣をくれたのだ、だから立ってたのよ﹂
﹁其(そい)奴(つ)が外国の軍事探偵だ、そして春田式C・C・D潜水艦の機密図を盗むために貴様を見張に雇ったのだ﹂
﹁本当か?﹂メリケン壮太はじだんだを踏んで口惜しがった。﹁畜生、よくも騙しやがったな、今にどうするか……﹂
﹁お父様、此(こい)奴(つ)を縛っておいてください。僕は外に重大な調(しら)物(べもの)がありますから﹂
そして博士と横田大佐が、騒ぎまわるメリケン壮太を縛りあげている間に、龍介君は鼠のような素早さで、実験室の中を調べまわった。
﹁あっ
﹂という龍介君の叫声に、驚いて博士と大佐が駈けつけると、北向の壁の頂上が、龍介君の指の触れるままに、ぽっかりと口をあけて、そこから黒い四角な筐(はこ)があらわれた。
﹁僕の考えが当ったッ
﹂龍介君はそう叫ぶと、その筐を引き出したが﹁だめだ、空だ!﹂と呟いて筐を抛(ほう)りだした。
﹁何だそれは?﹂と博士が訊(き)いた。
﹁これは……﹂と龍介君が云った時電話の鈴(ベル)が突然激しくなり出した。博士が受話器をとった。電話は山川少将宅からだった。
﹁あ、春田博士ですか、どうぞすぐおいで下さい。主人が書斎に倒れております。そして金庫の中の重要書類が盗まれております
﹂
春田博士が大佐と龍介君をつれて自動車で駈けつけた時、山川少将は書斎の長椅(い)子(す)の上で、頭に繃(ほう)帯(たい)をして横になっていた。少将は三人の客を迎えると苦笑しながら次のように話しだした。
少将は博士の実験に立会うつもりで、八時十分前に身支度をすませ、金庫の中から、実験に入用な重要書類を取り出していた。その時、いきなり後ろから頭をひどく殴られて、気絶してしまったのである。それから書生に呼び醒まされた時には、すでに重要書類も曲(くせ)者(もの)の姿も、そこにはなかったのであった。
﹁すると!﹂と博士が傍(わき)からいった﹁あんたは今夜私の実験室へこられなかったのですね﹂
﹁そうじゃよ﹂
﹁じゃあ、あの山川少将……いや山川少将に扮装した男は何者だろう﹂
﹁えッ
俺(わし)に扮装した男じゃと?﹂
少将に問われるままに、博士は今夜おこった事件の始終を話した。聞くより少将は跳びあがった。
﹁や、そりゃたしかにどこかの軍事探偵じゃ、そして発明は無事か
﹂
﹁はい、設計図や模型は安全……﹂
﹁安全ではなかったのです閣下﹂と龍介君が博士の言葉をさえぎりながら進みでた、﹁設計図や模型は元のままちゃんとしていますが、しかしそれは皆すっかり盗まれてしまったのです﹂
﹁え、何じゃと、それはどう云うわけじゃ﹂
少将も、博士も、横田大佐も、意外な龍介君の言葉に面喰らってしまった。
﹁訳は後でも話せます。閣下、この書斎になにか証拠になるような物は落ちていませんでしたか﹂
﹁いや別に……﹂と少将は考えているようだったが、やがて﹁おおそうだ、こんな物があったが、何かの役に立つかな﹂そういって一枚の紙片をさし出した。
受取った龍介君、ひと眼見るより﹁あっ﹂と驚きの声をあげた。それは昼間友達からわたされた暗号文と同じ紙で、しかも同じ筆跡のペン書きでこう書いてあった。﹁ゴクロウ○マ スミタ○ ウエハ コレデ シツレイ オチノ○ル ○ンセン﹂
﹁うん……同じ暗号だな﹂
﹁何かわかったかね﹂傍から博士が心配そうに覗きこむ。
少年はそれには見向きもせずに、ポケットの中から最初の暗号文を取り出して、照(てら)合(しあわ)せながら○の部分へ文字を当嵌めにかかった。それは二分と経たぬ間にできあがった。文章はこうなった。
﹁ゴクロウサマ スミタル ウエハ コレデ シツレイ オチノビル ヤンセン﹂
﹁そうだ牧師ヤンセン、メリケン壮太を雇ったのも牧師、まさに此(こい)奴(つ)だ
﹂
そう叫んだが――さてそれだけの文章では何がなにやら訳がわからない。
﹁さあ困った、どういうことがこの文章の中に隠してあるんだろう?﹂さすがに龍介君、頭を抱え眉をよせて当惑した。﹁早くしないと、大切な発明は、軍事探偵の手で国外へ持(もち)去(さ)られてしまうではないか……﹂
と、龍介君はもう一度、二枚の暗号文を比べて見たが、さっと悦(よろこ)びの色を見せて少将の前へ走りよった。そして顫(ふる)える声で、
﹁十日ばかり前、たしかサルビヤ号という外国船が入港しているはずですが、どなたかご存知ありませんか﹂と、訊ねた。
﹁ああ横浜へ泊っとるよ、たしか亜(ア)米(メ)利(リ)加(カ)の遊覧船だと思ったが﹂と少将が答えた。
﹁それだッ
﹂龍介君は喚くと共に電話器に飛びついた。
﹁え、サルビヤ号、ああそれはね。今日夕方に出帆しましたよ!﹂横浜の港務課の電話に、龍介君は思わず、﹁しまった
﹂と叫んだ。ひとりで線香花火のように活躍している龍介君を取巻いて、山川少将はじめ博士、大佐たちは、ぽかんと手を束(つか)ねている外はなかった。――龍介君は大声にどなった。
﹁さあ皆さん、のるか反るかの瀬戸際ですよ。しっかりして下さい閣下
貴(あな)方(た)は直(す)ぐ横須賀へ電話をかけて、駆逐艦にサルビヤ号を監視させて下さい。逃げるようだったら発砲しても構いません。――それから父様と大佐は僕についてきて下さい。追跡です
﹂
そして脱兎のように書斎を駈け出した。少将の自家用自動車に乗りこんだ時、龍介君は運転手に命じた。
﹁浦賀へ、フルスピイドだ、エンジンの焼(やき)切(き)れるまで走りたまえ
﹂
自動車が玄関を滑り出て、門をまわろうとした時、植(うえ)込(こ)みの蔭から一人の怪漢が走り出て、ひらりと自動車の後ろに飛びのったことは、誰も気がつかなかった。
﹁さ龍介、全体これはどういうわけだか話してくれ、浦賀までにはたっぷり時間があるだろう﹂自動車が東海道へ出ると、春田博士がそういって息子の方を見返った。
﹁そうですね、ではかい摘(つま)んで話しましょう﹂そして龍介君は話し出した。――龍介君は友達からわたされた暗号文の○の部分に字を当嵌めただけで博士の実験を手伝うために実験室へいった。そして実験が始まった時どこかでリリリリという微(かす)かな音がするのに気づいた、最初はそれが何の音だか分らなかったが、どうもそれは映画を写す時の撮影機のクランクの音に似ていると思った。とたんに気づいたのは、例の暗号文、﹁サツエイ ハ ヨル八時三十分﹂と書いてあったことだ。時間も実験の時間とぴったり合っている。そこで龍介君は、これはどこか外国の軍事探偵がこの実験室に精巧な撮影機を仕掛けておいて、人知れず実験の有様を映画に映しとっているのに相違ないとさとった。そこで電灯を消して撮影の邪魔をしたが、それと気づいて山川少将に扮装していた軍事探偵は、撮影したフィルムと文子を掠(さら)って、逸(いち)早(はや)くも逃亡したのである。
﹁なる程、それでどうやら分った。では実験室の壁から出てきたあの黒い箱は撮影機だったのだな、――しかしどうして其(そい)奴(つ)がサルビヤ号に乗ったということが分るね﹂と、博士が訊いた。
﹁これを見て下さい﹂龍介君は二枚の暗号文を見せた。﹁この二枚の赤インクで書いた文字は、○で抜いてあった所へ僕が当嵌めたのです。ところで、この赤い字だけを集めてみるとサルビヤとなります﹂
﹁なる程、こりゃ素晴しい頭だ!﹂大佐が膝を打って感心した。
﹁僕ぁ十日ばかり前に新聞で、こんな名の外国船が入港した記事を見たように思ったので訊いたら、正に入港していたし、今日夕刻、こそこそと出帆した容(よう)子(す)までが相違なく怪(あやし)いと睨んだのです。﹂
﹁偉い龍介君、立派な推理だ
﹂横田機関大佐は龍介君の肩をたたいて賞讃した。
浦賀には、山川少将の命令で、高速力のモータア艇(ボート)が三人の到着を待っていた。
﹁サルビヤ号は観音岬沖に碇(てい)泊(はく)しております。駆逐艦がこれを監視しております﹂そういう報告をきいて、龍介君はにっこり笑いながら、真(まっ)先(さき)に艇(ボート)へ乗り移った。艇(ボート)は闇の海上に、白波を蹶(け)立(た)てながら、沖に向って走りだした。
自動車のうしろへ飛びついていた怪漢はどうしたろう。――彼はいま去っていった龍介君たちの艇(ボート)を見送る間もなく、岸にもやってあった小型のモータア艇(ボート)に飛び乗ると、むちゃくちゃな速(スピ)力(イド)で沖へ向かった。
闇の海上に、魔のように眠っている汽船サルビヤ号の舷側へ、静かについたモータア艇(ボート)があったと見るまに、するすると龍介君を先頭にした、博士、大佐、着剣した銃を持った水兵十名の一隊が、甲板に乗(のり)移(うつ)った。とたん、
﹁其(フ)処(ウ)に(・)居(イ)る(ズ)の(・)は(ゼ)誰(ア)だ﹂とどなる船員の声、しかし大股に進み出た水兵のためにうんともいわず、その場に殴(はり)倒(たお)された。﹁さ船室へ早く﹂龍介君が喚いた。﹁額にあざのある男を逃がさないように頼みます!﹂
そして真先に、拳(ピス)銃(トル)を握って船室へとびこんで行った。が、意外や
そこには既に一人の日本青年が、多勢の外国船員を相手に乱闘のまっ最中だった。
﹁敵か、味方か!﹂と龍介君が呼びかけた。
﹁メリケン壮太だ
﹂と若者が叫んだ﹁ここは引(ひき)受(う)けた。あっちへいって早く大事な物を取返してくれたまえ!﹂
なる程それは、実験室へ縛ってきたはずのメリケン壮太だ。彼は知らずに犯した売国奴の罪を償うため、自動車の後(うし)部(ろ)にとびつき、身を挺してここへきたのだ。壮太自慢の拳(メリ)骨(ケン)がとぶたびに、ばったばったと船員共は倒された。
﹁よし任せた壮太! それ行け
﹂と一隊は更に船室の奥深く突進した。――捜査は三十分ばかり続いた。しかしついに文子の姿も、額にあざのある男もみつからなかった。
﹁残念だ、ここまで追(おい)詰(つ)めて逃げられたか﹂そういって龍介君が、歯噛みをしながら、ふと見るともなしに見ていると、船室の天井の隙間からうすぼんやりとした光がさして、それが点いたり消えたりするようである。
﹁やッ
﹂と更に注意して見ると、それは﹁・・――・――・﹂という、例の龍介君考案の信号で、﹁危険助けてくれ﹂という意味、いわずと知れた文子の信号。
﹁しめた、この天井に隠れているぞ
﹂
﹁それ
﹂と、勇み立った水兵たち、手に手に手斧を振り立てて、たちまち子供の通れるくらいの穴があく。待ちかねた龍介君、その穴から天井へ這いこんだ。と、闇の中から、﹁手(ハン)を(ド・)挙(ア)げ(ッ)ろ(プ)
﹂春田少年なにくそッと、身を沈めるとみるや声のした方へ飛(つぶ)礫(て)のように突(つっ)掛(かか)った。
﹁畜(ゴッ)生(デム)
﹂と叫びながら、ふいを喰(くら)って倒れる奴、おかせず飛(とび)掛(かか)ったが、なにしろ相手は大男の毛唐、双(もろ)手(て)で龍介君の首を掴むと見る間に、はっしと床へ叩きつけた……か
否(いや)々(いや)その時後(おく)ればせに這いあがったメリケン壮太が、後から毛唐の首へ腕をまわして、喉(のど)輪(わ)責めに締めあげた。
﹁オオ、オオ、待(ウェ)っ(イト)て(・ミ)呉(ニ)れ(ッ)
﹂と、弱音をあげたが、うんと締める壮太の力に、苦もなくそこへ気(お)絶(ち)てしまった。
﹁文ちゃん、文ちゃん
﹂叫び立てる龍介の声、闇の中から待かねたように躍り出た文子、兄龍介に抱きついて、
﹁お兄さん、お兄さん
﹂と唯(ただ)涙にくれるばかりであった。
﹁坊っちゃん﹂傍でメリケン壮太が悦(うれ)しそうに叫んだ﹁こいつですよ牧師ヤンセンは。この鞄(かばん)の中に何もかも入っていますぜ。畜生、これでメリケン壮太の男も立ったぞ﹂
そしてヤンセンの尻を力一杯蹴とばした。さっき自分が龍介君にやられたように。
春田博士の発明を撮影したフィルムも、山川少将の重要書類も、大事な妹も春田龍介君の手柄で無事に戻った。
それからメリケン壮太は不良青年をやめて、忠実な龍介君の助手として働くことになった。そして、いつでも友達にこういっている。
﹁へん、おいらの親分は龍介さんで、そしておいらはメリケンの壮太よ、矢でも鉄砲でも持ってこい
﹂
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年7月
初出:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年6月26日作成
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