福沢先生に処世主義というべきものが有ったかどうか知らぬが、我輩には処世主義というべきものがない。一体処世上主義というのは定められる理屈のものでない。それを世人が処世主義とか何とかいうのはいわゆる講壇的のもので、テーブルの上から学生に講義をする時の事である。ところがすべて世の中の事は、学校の講義のような趣向には顕われて来ない。で処世主義などいうことは講壇ではいえるけれども、実社会にはあまり必要のない事である。然しかるに近頃何主義某主義というように種々の主義が流行するが、主義という事は左さよ様うに無造作なものでない。
我輩は学者でもなければ天才でもない。頗すこぶる平凡な人間だ。凡人だ。多分福沢先生も凡人であったろうと思う。もし先生が非凡人で常に高く止って澄まし切っておられてあったら、あれだけの偉い人にはなれなかったのである。で強しいて申さば、福沢先生は凡人主義の勝利者である。
福沢先生と同一種類の学問をした人達の中で、非凡の主義を持った人があるかも知れない。けれどもそういう人はすべて失敗である。なるほど非凡人主義の人達は口が達者で、議論が好くて、処世の講義は巧うまかったかも知れないが、これは福沢先生の口調を藉かりて申せば、いわゆる空から念ねん仏ぶつで実際出来ない事をいうのだ。一体口の先は調法なもので、口の先では豪傑にも聖人にも孔こう子しにも釈しゃ迦かにもなれる。これは今の人間の智恵が、昔の人間の智恵よりよほど進んだのである。もし今の人間の口先にかかったら、耶ヤ蘇ソ孔子の如き古いにしえの大宗教家といえども、恐らく三舎を避けるであろうと思う。しかしこれは口先や議論の話でいざ実行となると、今人は古人に及ばない。非凡人主義の役に立たない理由はこれである。一体実行せずに高尚な理屈をいったところでそれが何になる。いうて社会を攪かく乱らんするよりはむしろいわずに実行し易き事を実行した方がいいではないか。
福沢先生は優れた才子で人格も高かったが、人間は存外平凡なものであるということを知っておった。恐らく自分自らも平凡なることを知っておったであろう。これが根本になって福沢先生の処世主義が成立っている。それで福沢先生はあくまでも実行し得る、頗すこぶる平凡な事の外は決して口にしなかったものだ。であるから憖なまじいな学者達、もしくは道徳家達は福沢は不都合な奴だとか、社会の道徳を破壊するとか、福沢の議論は浅薄だとか、いわゆる倫理、道徳、処世主義というようなものを標準としてしきりに攻撃したものだ。がこれらの連中は坊主の説教を無上に有難がる方の連中で、坊主自身が何が何やら意味を解せずに説教してるのを自分も解らずに聴きながら、随ずい喜きか渇つご仰うの涙を零こぼすという手合いだ。この調子で行くと御おき経ょうの文句は、梵ぼん音とか漢音とか、なるべく解らぬように誦そらんじた方がもっともらしく聞えていい。けれども社会の事はもっともらしく聞えるばかりで、その実詰つまらぬ事では何の役にも立たない。ここへ来ると福沢先生は誠に偉い。言語にも行動にも何ど処こに一つ表裏がない。
かの医師弁護士などの住居を見ると玄関は立派、応接室には美しい書籍――而しかも要いりもせぬもの――を飾っておどかすにも拘かかわらず、勝手元はなにやら怪しげなのが多いようだが、福沢先生にはそんな事が微みじ塵んもない。座敷へ通ってみると花が活けてある。お嬢さんが踊りを踊っている。三味線を弾いている。先生は平気で煙タバ草コを吸いながら、面白そうに見たり聞いたりしている。奥さんも傍に聞いている。親戚が来ても一緒に聞うじゃないかという風である。宛えん然ぜん俗人の家で、学者の生活としては実に平凡極まるものである。しかのみならず訪問客には坊主もいれば神主もいる。俗人も山師も新聞記者も種々雑多なものが来ている。先生閑ひまがあると、煙草盆を下げて出て誰にでも会って話をする。気に喰わぬから門前払いを喰くらわすとか、仏ぶっ頂ちょ面うづらをして話すとかいう事が更にない。誠にはや平凡なものだが、これも先生の凡人主義から来ておるので、先生の眼から見れば、君子も小人も学者も俗人もない。すべてが凡人で、彼も凡人我も凡人であるから、凡人同士の集合に、誰彼の差別のあるべきはずがない。ここが間口も奥行も一切平等なる福沢先生の純凡人主義の極致で、我輩の大いに敬服するところである。
ここで聊いささか我輩自身を紹介するが、無主義であるという我輩も、強しいて名づくればやはりいわゆる凡人主義で、最初の傾向からして福沢先生と同一経路を辿たどっているように思う。もっとも我輩は小僧時代から政治運動が好きで多くその方に身を入れておったから、書籍を読むことにかけては福沢先生ほど勉強はしなかった。また読んでも先生ほどの学者にはなれなかったかも知れぬ。けれども福沢先生が書籍から得た修養を、我輩は政治運動中に遭遇したあらゆる困難の中から得て、窮極凡人主義に到達したのである。しかし我輩とても更に本を読まぬのではない。福沢先生の読んだ種類の書籍はやはり我輩の読んだのと同一で、初めは医者を師として蘭学の書を繙ひもといた。その次は物理書である。いわゆる当時にあっては最文明思想の根源であった洋学書は、先生も我輩もご同様に読んだのである。――もっとも我輩の読んだ分量は先生のより少なくはあったが――既に最初の傾向が同一で、同一種類の書を読んだのであるから、先生と我輩との思想が相近づいて来たのは当然である。即ち先生と我輩とは期せずして凡人主義の流れを汲くんだのである。ただ先生は教育家として凡人主義を社会に皷こす吹いし、我輩は政治家としてこの主義を社会に展のべんと欲したという差があるのみで、非凡人主義なる封建思想を破壊し、凡人主義の文明思想を国民に与えんと尽力したのは同一である。
福沢先生と我輩とは、生れ落ちると物堅い武士的教育を受け、性質も聊いささか似通っておれば読んだ書籍も右の通り、而しかして目的とするところも文明思想の注入で、大観すれば一心両体といってもよいが、明治六年まではとんと先生に会った事がなかった。ただに会ったことがなかったのみならず、いわば喰わず嫌いで、気に喰わぬ奴だ、生意気な事をいう奴だと腹で思うばかりでなく、口に出してもいったものだ。向うが太いことをいう、此こち方らも太い事をいうのだから、勢い衝突するにきまっている。その頃我輩は偉い権力のある役人で、その上書生気風が抜けておらぬから図太い事をいう。福沢諭吉もまた偉そうな事をいって、役人などは詰つまらぬ人間のようにいう。両方で小こし癪ゃくに触るので一時は衝突しておったものだ。ところが明治六年であったと思う。上野の天王寺辺の薩摩人の宅で落ち逢うことになった。というのは先生と我輩とは以上の如く犬けん猿えんの間柄で、一方は民間学者の暴れ者、一方は役人の暴れ者、これを噛み合してみたら面白かろうというので、いわば悪いた戯ずら者ものどもが、芝居見物の格かくで我々を引き合したものだ。それを知らずに我輩が出掛ける。先生もまた知らずに出掛けて来たらしい。妙な人物がいると思ったろうよ。その時我輩は三十五、六、先生は四十になるかならぬかだ。これは福沢だ、これは大隈だというので引き合されて名乗りあって、不思議な所で初対面が済んだが、漸ぜん々ぜん話し込んでみると元来傾向が同じであったものだから犬猿どころか存ぞん外がい話が合うので、喧嘩は廃よそう、むしろ一緒にやろうじゃないかという訳になって、爾じ後ご大分心易くなった。それから義塾の矢やの野ふ文み雄お、故藤ふじ田たも茂き吉ち、犬いぬ養かい毅つよし、箕みの浦うら勝かつ人んど、加かと藤うま政さの之す助け、森もり下した岩いわ楠くすなどいう連中が我輩の宅に来る様になって、到とう頭とう何い時つの間にか我輩の乾こぶ児んになってしまった様な訳だ。
福沢先生も凡人主義、我輩も凡人主義、而しかも初め軽蔑し喧嘩したものが、意気相投じて交際したのだから、その交際たるや愈いよ々いよ深くなって来た。それで我輩も先生を訪とえば先生も宅へ遊びに来る。先生が来れば妻が酌をして酒を飲ませる。我輩が行けば奥さんなりお嬢さんなりの酌で飲むという次第で、ほとんど親族同士の懇意さになって来た。
それでいて両人の社会に対するところは同一事、俗界の役人なる我輩が法令訓令命令を以て国内を治め、政府の力で国を文明に導こうという趣向を凝らすと、先生は教育の立場から功利主義を皷こす吹いして、一生懸命に文明思想の注入に力つとめる。学校の講壇でも社会に発表する文章の上にも、また各所で行った演説の上にも、しきりに着実にして根こん蔕たい深き功利主義を皷吹したものだ。で交われば交わるほど先生の人格と学殖とに感心した。ことに先生は我輩より年齢も五つ六つ上であるしするので初めは同輩として交わった我輩も漸々先生を先輩として尊敬するようになった。
それであるから我輩の日常生活も大分先生に近いものになっている。もっとも我輩は子供が少ないのに先生は子供が沢たく山さんあるのだから、親子団だん欒らんの楽しみを先生同様にやる訳には行かないが、あったら必ず同一だろうと思う。それに先生は教育家で、何どち方らかといえばじみな商売、我輩は政治家で本来華は手でな商売であるから、他人からの見た目は非常に違うが、その行き方は恐らく少しも違わない。先生が虚飾を排して玄関前にも勝手元も同一様であれば、我輩もまたその通りだ。ただ先生のはすべてじみであるが、我輩のは玄関前も勝手元も打抜きの華手であるのだ。これは外面の差で性質上の差ではない。彼の表面倹約を装うてその実卑ひり吝ん貪どん欲よくの行為を成し、人の前では正直そうにして隠れた所で悪事を働くなどは、我輩も先生も断じて取らぬところの行動である。
ところで眼を翻ひるがえして現代を観ると、世の横着者どもが社会に対しても個人に対しても悪いと知りつつ、いいたい事を我慢して好い加減な事をいっておいて、自分一人が好児になろうとしている。これが抑そも々そも当世流の処世法でその方が世渡りには都合がいい。まあこれが普通一般の処世法であろう。ところが我輩や福沢先生はそんな辛抱強い陰険なことが出来ない。ごく正直に物に触れて心持がよければ喜ぶ。悪ければ怒るのだ。で善を善とし、悪を悪とする事に於ては、当世流の遠慮会釈が更にない。この辺は両人実に酷似してると思う。かように毒づくのであるから時々世間の人達のご機嫌を損うこともあるが、毒づいた当人にとっては心持のいい事夥おびただしい。腹中の毒気を吐き尽してしまうのであるから、身体上至極宜よろしいが、世人のためには至極宜よろしくないかも知れない。毒を吐かれて頭痛くらいはするであろう。がそれも宜よかろう。先生も我輩も毒づくばかりを能としない。時々は世人に解毒剤も飲ましておったものだ。この意気とこの無遠慮とがあったから、先生は教育家として明治の社会に文明思想を注入することに成功し、我輩もまた別途の方面から同様の貢献をなし得たのである。要するに先生と我輩とは、その活動の方面こそ違え同一の趣向、相似たる境遇、近似せる主義を以て社会に立ったのである。
以上説き来ったところで福沢先生及び我輩が如い何かなる考えを以て世に処したかがほぼ分明であろうと思う。すでに先生は没なくなられたが、思えば先生は行やり方が行り方だけに頗すこぶる敵が多かった。――我輩もまた敵が多い――が先生はそれに対して口でいうとか筆で書くとかいう薄志弱行の徒ではなく、平地に波瀾を起すような事は大嫌いであった。誠に温順な平和な人で、交われば交わるほど友ゆう誼ぎに厚い人であった。が如何なる圧迫を受けても決して所信を曲げない。これが福沢先生の人格の高いところで、この人格を取り除けば学者としては先生以上の学者がある。文章家としては勿もち論ろん先生以上の文章家がある。ただ口にいって而しかして衆人に実行させ、己おのれもまたこれを実行するという点に於ては先生の右に出ずる者がなかった。否いな今でもない。先生の名の久しうして売れてるのもこのためで、我輩の先生を尊ぶゆえんも此こ処こである。それで何い時つの間にか知らず知らず口調さえ先生に似て来る。果ては先生と我輩とは一心同体にして社会に尽すべき約束がある如くにさえ感じたのだ。それに今や先生がおられぬのであるから、二人の荷物を一人で背負うが如き思いで心私ひそかに安からぬものがある。でこの間交こう詢じゅ社んしゃ︵福沢先生の首唱になれる社交倶楽部︶に行った時﹁自分は今先生と二人前の仕事をしてるのだ。現に充分一人前の責任を尽しているのに、この上一人前の仕事をするのは困る。お前さん達も跡から付いて来い﹂といったくらいである。