ダニエル・スコット医師は夢中になって黒い瞳をめらめら輝かせていたが、やっと一息ついて外の街まち並なみに目をやった。 窓から見えるのは街の一部、部屋はハーマン・バック院長室、所はグランド・マーシ病院。一瞬の沈黙があった。 バック院長が、やや鷹おう揚ように、ちょっと、うっとうしげに微ほほ笑えみ、若い生化学者スコット医師の顔を見た。 ﹁ダン、続けてくれ。つまり、こういうことだな。病気や怪我が治るのは一種の適応にすぎないと。……それで?﹂ ダンは紅潮して、 ﹁それで、一番適応性が高い生物を探しました。何だと思いますか。昆虫、とうぜん昆虫です。羽を切っても生えてきます。頭を切断して、同種の首なし別個体にくっつければ元のように動きます。適応性がすごい秘密は何でしょう?﹂ バック院長が肩をすくめ、 ﹁何だい?﹂ ダン・スコット医師は不意に沈んでつぶやきながら言った。 ﹁確信はないのですが、きっと分泌腺、一種のホルモンのはずです。失礼、横道にそれました。一番適応性の高い昆虫をさんざん探しました。何だと思いますか﹂ と再び快活になった。 ﹁アリか、ハチか、白アリか﹂ とバック院長が探りを入れた。 ﹁いやあ、そいつらは一番進化していて、一番適応性がないので、違います。突然変異する割合の高い昆虫が1種います。変種を多く創り出し、生物学的にとても面白い昆虫です。モーガンが硬こうエックス線遺伝実験に使ったミバエ、つまりショウジョウバエですよ。覚えているでしょう。元々は赤眼だがエックス線を当てると白眼の子が生まれ、突然変異して白眼だけ育ちます。獲得性質は遺伝しませんが、これは遺伝します。だから……﹂ ﹁知っとる﹂ とバック院長がさえぎった。 スコットは一息入れて再開、 ﹁だからショウジョウバエを使いました。腐敗体を雌めう牛しに注射して、最終的に血清を採取し、何週間もかけてアルブミンを滴てき下か、真空乾燥、精製……。でも技法には興味ないでしょう。とにかく血清を入手しました。これを結核にかかったモルモットに注射したのですが――。治ったんですよ。結核菌に適応したのです。狂犬病にかかった犬にも試しました。これも治ち癒ゆ。背骨の折れた猫にも試し、くっついたのです。そこでお願いがあるんですが、人間に試す機会をいただけませんか﹂ バック院長が渋い顔をしてすごんだ。 ﹁準備不足だ。2年ばかり早い。サルで試せ。そのあと自分に試せ。そんな未熟な実験に人命は晒さらせない﹂ ﹁ええ、でも治ちけ験ん対象がありません。サルなら、理事会で購入資金を認可してください。できますか。そうすれば試します﹂ ﹁じゃあ、ストンマン基金へ相談しろ﹂ ﹁それじゃグランド・マーシ病院は信用を失いますよ。聞いてください、院長、お願いですから1回チャンスを下さい。治験患者をなんとか……﹂ 院長は睨にらみつけ、両手で制止して、 ﹁治験患者は人間だぞ。いいか、ダン、何回も許可できん。医療倫理に反するからな。しかし1件だけ、手の施しようのない場合、つまりどうしようもない場合許す、わかったか、患者が同意するなら許可しよう。これが最終回答だ﹂ スコットは不満げに、 ﹁じゃあそんな事例を見つけてください。患者の意識があり、院長が見て希望はあるが、患者が絶望している場合、患者は同意するでしょう? それで決まります﹂ しかし決まらなかった。1週間足らずあと、スコットがふと眼を上げると、研究室隅の拡声器から、雑音まじりで、 ﹁スコット先生、スコット先生、バック院長室へ﹂ ダン・スコットは滴てき定てい試験を切り上げ、数値を記入し、急行した。院長が床をそわそわ、うろうろしているさなか、スコット医師が到着。 院長が不ふし承ょう不ぶし承ょう、 ﹁ダン、見つかったぞ。まったく倫理違反だし、君の悪徳治療なんぞ、くそ見たくもない。じゃが、急ごう。さあ、隔離病室へ﹂ 2人は急いだ。真四角な小部屋をじっと見て、スコットが唖あぜ然ん。 ﹁女だ﹂ おそらく昔もさえない平凡な女だったのだろう。今そこに横たわっている顔には既に死相が漂っているが、面影に凛りんとした愛苦しさがあった。だが昔、魅力が、もしあったとしてもそれだけのこと。髪は黒色、短髪、脂ぎり、ボサボサ、よれよれ。容姿は平胸で魅力無し。呼吸はほとんど虫の息。眼を閉じている。 スコットが訊きいた。 ﹁これを治ちけ験んしろと? もう死にますよ﹂ バック院長がうなずいて、 ﹁結核の末期だ。肺が出血しておる。時間の問題だ﹂ 女がせきこみ、少量の血が青白い唇に滲にじんだ。力なく開いた眼は濡れ、ひとみは青かった。 バック院長が話しかけた。 ﹁やあ、気がつきましたか。この方がスコット先生。ダン、この人はえ〜と……﹂ 寝台の足元のカードをのぞき見て、 ﹁ミス……え〜と……カイラ・ジーラスさんだ。ジーラスさん、スコット先生の注射薬がありますけど、言っておきますが、効き目はないかもしれませんし、副作用もわかりません。やりますか﹂ 女がしゃがれ声で弱々しく、 ﹁ええ、ともかく散々。もうどうでもいい﹂ ﹁わかった。ダン、皮下注射器をくれ﹂ バック院長が無色透明の血清瓶びんを受け取り、 ﹁注射箇所の指定は? ない? じゃあ腕に﹂ 院長が女の腕に針を刺した。ダンが見ていると、針を刺してもびくともせず、じっとされるがまま、30の液体が静脈にはいった。女はまた咳をして、目を閉じた。 ﹁ここから出よう。こんなことは絶対好かん。負け犬の気分だ﹂ とバック院長がぶっきらぼうに言って、2人は広間へ出た。 だが、院長は次の日、負け犬の気がしなかった。スコットに、 ﹁ジーラスはまだ生きとる。わしの目が確かなら、ちょっと良くなっている。ほんの少しだ。でもまだ絶望的と言いたい﹂ しかしながら、次の日スコットが目撃したのは、院長が椅子に座って灰色の瞳に困惑の表情を浮かべている場面だった。 ﹁ジーラスはよくなっておる。間違いない。でもダン、冷静になれよ。こんな奇跡は前にも起こった。血清が無くてもな。長期観察して待とう﹂ 週の終わりごろになると、明らかに長期観察は必要なくなった。両人のじっくり観察するところ、カイラ・ジーラスの回復ぶりは早咲きの熱帯雑草のよう。妙なことに、青白いまま、痩せこけた顔がふっくらと肉付き、眼の輝きが増している。 バック院長がボソボソと、 ﹁肺の影が消えておる。咳も止まった。培養組織にも病原菌はない。しかし、ダンよ、一番奇妙で分からんのが、擦すり傷や刺し傷に対する反応だ。きのうワッセルマン試験をするために血を採ったんだが、これがまったく不思議なんじゃ。1採血するが早いか傷口が閉じて、くっついて治ったんだ﹂ 翌週。 ﹁ダン、もうカイラを入院させとく理由はない。治った。でも監察下に置きたい。君の血清には奇妙なところがある。それに、元の仕事に戻してまたここへ担かつぎ込まれるようなことはしたくない﹂ ﹁何の仕事ですか﹂ ﹁針仕事だ。よしんば働けても、タコ部屋の出来高仕事だろう。さえないブスで無学の女だが、何か引っかかる。適応性が速い﹂ スコットも怪けげ訝んな顔をして、 ﹁ええ、素早く順応しますね﹂ ﹁そこで、手元に置くことにしたんじゃ。な、監視できるだろう。家事手伝いぐらいはできよう。興味、くそ興味だが。いい機会だ﹂ スコットが居合わせたときに、バック院長がこれをカイラに提案した。カイラは笑みを浮かべ、青白いスッピン顔が輝き、 ﹁いいですよ。ありがとう﹂ 院長が住所を教えて、 ﹁私の妻のゲッツをお尋ねなさい。今晩は何もしてはいけませんよ。いや、2〜3時間公園を散歩するぐらいはいいでしょう﹂ スコットが見ていると、女はエレベータの方へ歩いて行った。肉がついたというものの、痩せおとろえて、ぼろい黒服があたかも木き切ぎれにぶら下がっているかのよう。 女がいなくなると、スコットは自分の仕事に駆けずり回り、15分ほどして、研究室に降りて行った。 1階で騒ぎが起こっていた。2人の警官が平凡な老人の死体を運び込んできた。頭が血だらけだ。ガヤガヤと興奮した声が聞こえ、外階段に野次馬が。 ﹁どうしました? 事件ですか﹂ 警官が早口で、 ﹁殺人事件だ。女が公園の縁から重おも石いしを拾って老人に近づき、殴って財布を奪った。そんなとこだ﹂ スコットが窓からじっと見てると、囚人護送車がバックしながら、通りの公園側に群がる野次馬に近づいていった。 でかい警官が2人、黒服を着た痩せた人物の両脇を固め、護送車に押し込んだ。スコットは息をのんだ。カイラ・ジーラスだ。 1週間後、バック院長が火のない居間の暖炉を見つめ、繰り返した。 ﹁わしらにや関係ない﹂ スコットも熱くなって、 ﹁全くです。関係ありません。一いっ切さい責任はありません。金こん輪りん際ざい注射ではおかしくなりません。内分泌なら可能です。ダウン症患者やクレチン病患者がそうです。先天的です。もしかしたら狂気を引き出したのかもしれませんが﹂ バック院長が、 ﹁わかった。いいか、明日の裁判に出よう。カイラが不利になったら、弁護士に頼んで証言台に立とう。こう証言しよう。カイラは重病で長期入院して退院したばかりで、全く責任はないと。これが真相だから﹂ 翌朝半ば、2人は満員の法廷にかしこまって座っていた。起訴公判が開かれていた。3人の目撃者が事件を証言。 ﹁この老人はハト豆を買うんですよ。ええ、私が毎日売ってます、いや売ってました。今回は小銭を持っておらず、財布を取り出し、覗くと、中にゃ札束が詰まってましたよ。1分後に見たら、女が石を拾って殴ってました。そして、現なまをひったくって……﹂ ﹁女の容貌は?﹂ ﹁やせて、黒い服を着てました。ちっとも美人じゃなかったですなあ。髪は茶色、眼は黒かったが、濃のう紺こんの青だか、こげ茶だかはわかりません﹂ ﹁証人!﹂ と検事がズバリ切り込んだ。新聞によれば検事は神経質な青年だそうだが、立ちあがって、しゃがれ声で質問した。 ﹁証人は、犯人の髪が茶色、眼は黒とおっしゃいましたか﹂ ﹁ああ﹂ ﹁では被告人、起立してください﹂ カイラ・ジーラスの背中がスコットとバック院長の前にあり、カイラが立ちあがったとき、スコットがギクッ。何か様子が違う。明らかに、よれよれ、だぶだぶの黒服ではない。スコットが見たカイラの姿はそうだなあ、気品さが……。 ﹁ジーラスさん、帽子を取ってください﹂ と弁護士が叫んだ。 スコットは息をのんだ。アルミニウム並に輝かんばかりの銀髪がふさふさ現れたではないか。 ﹁裁判長、申し上げます。被告人の髪は黒ではありませんし、見てくだされば眼も黒ではありません。可能性として考えられるのは拘留中に髪を染めたかもしれません。そこで……﹂ と弁護士はハサミを振りかざし、 ﹁裁判所の指定化学者に頭髪を提出しました。色素は自じ毛げそのものでした。眼につきましては、我が尊敬する検事殿はこれも染めたとお考えですか﹂ 弁護士は、ポカンとしている証人にくるりと向いて、 ﹁証人は、このご婦人を犯人と主張しますか﹂ 証人が目を見開き、 ﹁あー、言え……ません﹂ ﹁この人が犯人ですか﹂ ﹁い、いいえ﹂ 弁護士は笑みを浮かべて、 ﹁以上です。それではジーラスさん、証言台へどうぞ﹂ 女がしなやかに動くさまは、まるでピューマ。ゆっくりと体の向きを変え、顔を法廷に向けた。スコットは頭が混乱し、指でバック院長の腕をつついた。銀眼、銀髪、大理石のような白い肌、証人席の女は紛れもなく今までに見たなかで最高に美しい。 弁護士が再び、 ﹁ジーラスさん、何が起こったか、自分の言葉で法廷に話してください﹂ 女は均整のとれた足を無造作に組んで、話し始めた。女の声は、柔らかで、よく通り、ぞくぞくっ。スコットが苦しむ羽目になったのは言葉の意味、女の声色に負けそう。 ﹁ちょうどグランド・マーシ病院を出たところでした。私はここに数ヶ月間入院していました。公園を歩いていたら突然、黒服の女が私に体当たりして、空の財布を私の手に押し付け、去りました。しばらくすると、大勢の野次馬に囲まれて……ええ、以上です﹂ 弁護士が質問して、 ﹁空の財布と言われましたが、あなたの財布にはいくらあったのですか? 高名な同僚の検事は盗んだものと思っていますが﹂ ﹁私のです。700ドルぐらいです﹂ バック院長がひそひそ、 ﹁うそだ。病院に担ぎ込まれた時は2ドル33セントだった﹂ ﹁病院のカイラ・ジーラスと同じ人物ですかね﹂ とスコットが嘆たん息そく。 ﹁わからん。何もわからんが、君のくそ血清に関わったからなあ。見ろ、見ろ、ダン﹂ 最後のささやきは緊張していた。 ﹁何ですか﹂ ﹁髪の毛だ。日光が当たった時の﹂ スコットがまじまじ目を凝らした。真昼の日光が高窓からちらちら、日よけに揺れながら時々、女の銀髪に触れた。じっと眺めた。光が頭髪に当たると、少しずつ、確実に、女の髪が銀髪から金髪に変わっていった。 何かがスコットの脳に引っかかった。何か手掛かりがある。ただ見つけられない。パズルの切片はあるが、難しくて合わない。病院で切り傷に反応したあの女と、光に反応するこの女。 スコットがつぶやいた。 ﹁会わなくちゃ。なにか分かる――よおし﹂ 弁護士がまくしたてている。 ﹁裁判長、本件の却下を求めます。その根拠として、起訴は被告人同定に完全に失敗したからであります﹂ 裁判長が小こづ槌ちをたたいた。一瞬、裁判長の老眼が女の銀眼と見事な髪に止まり、やおら断じた。 ﹁起訴却下。陪審団、解散﹂ どよめきの声が起こった。フラッシュがパッパッと光った。証人席の女は非のない身のこなしで立ち上がり、愛らしいウブな唇で微笑み、降壇した。スコットが待ってると、やがて女が近くに来たので、呼びかけた。 ﹁ジーラスさん﹂ 女が立ち止まった。女は奇妙な銀眼を輝かせ、まごうことなく認めて、 ﹁スコット先生、それにバック先生も﹂ その声は鈴の音。 まさしくカイラだった。同じ女だ。隔離病室のさえない自じだ堕ら落くな女が、奇妙に美しい魅惑色の生き物になっている。じっと見ても、いまやその痕跡すら探しかね、変わりようはまるで奇跡。 スコットは写真屋や記者たちや、物好きな野次馬をかき分け、 ﹁泊まる場所はありますか? バック院長がまた提供します﹂ 女が微笑んで、感謝します、と言って、それから記者たちに向かい、 ﹁先生方は昔からの知り合いです﹂ 女は悠ゆう々ゆうとして、冷静で、落ち着いている。 ふと目にとまった新聞をスコットが購入して、素早く目をやった写真は、女が帽子を取った瞬間のだ。見れば髪は烏からすの濡ぬれ羽ばい色ろ。写真の下にコメントがあった。その趣旨。 ﹁印象的な髪は肉眼よりずっと黒く写る﹂ スコットは眉をひそめ、こちらへ、と女に言った途端、また驚き、目を見張った。 というのも、昼下がりの日光が燦さん々さんと降り注ぐ中、もはや顔色は大理石のような白じゃなく、日焼け乳白色、つまり日光に長時間さらした肌色となり、眼は濃のう紺こんの青あお紫むらさき色、髪は、帽子からはみ出た房が、地獄の玄げん武ぶが岩んのように黒かった。 カイラは、よれよれの黒上着1枚だけ買い換えるのは嫌だと言い張り、服一式を手に入れると気分がおさまった。 いまや、バック院長の書斎にある暖炉の前で、大型ソファーに深々と座り、白い首には黒い絹服をまとい、足にはかわいい黒靴を履いている。この世のものと思えないほど奇妙な美しさがあり、銀髪、銀眼、大理石の青白い肌に対し、対照的な漆しっ黒こくの絹服だ。 カイラがスコットを無邪気に見て、こう訊いた。 ﹁何でダメなの? 裁判所から返金されたので、自分の好きなものが買えるじゃない﹂ ﹁君のお金だって? 退院した時は3ドルも持ってなかった﹂ ﹁でも、今は私のものよ﹂ スコットがだしぬけに訊いた。 ﹁カイラ、そのお金はどこで?﹂ カイラの顔は天使のように純真無垢だった。 ﹁老人からよ﹂ ﹁きみ、きみが殺したのか﹂ ﹁ええ、当然よ﹂ スコットは息が止まり、うめいた。 ﹁なんてこった。わからないのか。言うべきだ﹂ カイラは首を横に振って笑いながら、やさしく2人を見た。 ﹁いいえ、ダン。言う必要はない。いいことないもの。同じ罪で2回は起訴されない。アメリカではね﹂ ﹁でもカイラ、なんで? なぜやった?﹂ ﹁先生なら瀕ひん死しの命でも蘇よみがえらせるじゃないの? お金が欲しかったの。お金がそこにあったから、取ったのよ﹂ ﹁でも殺人だぞ﹂ ﹁手っ取り早いからよ﹂ ﹁罰せられなかったからなあ﹂ とスコットは不機嫌に返事。 ﹁そう、無罪よ﹂ とカイラがやんわりたしなめた。 スコットはうーんと唸うなって、突然話題を変えた。 ﹁カイラ、日光やフラッシュに当たっとき、どうして眼や皮膚や髪の毛が黒くなるんだ?﹂ ﹁ふふふ、そうお? 気がつかなかった﹂ あくびして両腕を頭上に突き出し背伸びして、細い脚を投げだした。 ﹁もう眠たい﹂ と言い、とびきり魅力的な目で2人を見渡して立ち上がり、バック院長が提供した院長部屋に消えた。 スコットは院長と向き合った。感情が高ぶり、ひそひそ、 ﹁わかります? 何ということだ、わかります?﹂ ﹁ダン、君はどうなんだ?﹂ ﹁一部、ともかく一部ですが﹂ ﹁わしも一部しか分からん﹂ スコットが、 ﹁そうですね。見たとおりです。忌わしい血清ですが、私の血清が女の適応性を極端に高めてしまいました。生命と非生命の違いは何ですか。刺激する側と適応する側です。環境に適応するのが生物。適応すればするほどうまくいきます﹂ さらに続けて、 ﹁さて、ヒトはみな適応性がとても高いものです。日光に当たれば色素が沈着し、日焼けします。これが日光に対する適応です。右手を失えば努力して左手を使います。適用の一側面です。皮膚が傷つけば再生回復します。同様な一側面です。熱帯地方は皮膚が黒、髪も黒、北方地帯なら金髪になります。これも適応です。ですからカイラ・ジーラスに起こったことは、何の手違いか分りませんが、極端な適応力の増進です。環境適応が速いのです。日光が当たればすぐ日焼けし、日陰ではたちまち色あせます。日光下では髪と眼は熱帯人種、日陰では北方人種。そして、ああ、今わかりました。法廷で危険に遭遇し、男ばかりの陪審員と裁判官に対たい峙じしている場合、これにも適応しています。危険に対処しています。容貌を変えるのみならず、美を極限まで高めて有罪を宣告されないようにしています﹂ ここで一息入れて、 ﹁でも、どうやって? どうやって?﹂ バック院長が、 ﹁おそらく医学でわかろう。間違いなく人間は内分泌を出す生物だ。人種の違いは肌色が白、赤、黒、黄であれ、明らかに先天的。そしておそらく適応の最大要因が脳と神経系だろう。神経を随ずい時じ支配しているのは第3脳室にある少量の脂質だ。小脳の前にあり、古代人の考えでは魂の在所だ。もちろん松しょ果うか体たいのことだ。思うに君の血清にはピネアリンホルモンが含まれており、カイラの松果体が肥大した。だから、ダン、こういうことになりゃせんか。完璧に適応すれば無敵かつ不死身だぞ﹂ スコットがごくりと唾つばを飲んで、 ﹁そうですね。当然、電気処刑もできません。瞬時に電流環境に慣れますから。銃でも殺せません。注射針で刺した時のように素早く回復しますから。それに毒を盛っても……。しかし、どこかに限界はあります﹂ ﹁ああ、確かだ。50の機関車が体に乗り上げても不死身とは信じがたい。それにまだ重要なことを見逃している。適応には2種類ある﹂ ﹁2種類?﹂ ﹁そうだ。1つは生物的なもの、もう1つは人間的なものだ。当然君のような生化学者は前者、わしのような脳外科医は後者を扱う。生化学者の扱うのはすべての生命――植物、動物、人間だ。それぞれの環境にただ順応するだけのこと。たとえばカメレオンはカイラのような能力を示し、それほどでもないが北極キツネは冬に白くなり、夏、茶色になる。カンジキウサギも同様だし、イタチもだ。すべての生物が環境に最大限従う。そうしなければ死ぬからだ。しかし、人間ならもっとやる﹂ ﹁もっと?﹂ ﹁もっとだ。人間の適応能力は環境に順応するばかりでなく、人間に都合がいいように環境まで変えてしまう。穴あな居きょ人にんは洞窟を出て草ふき小屋を建て環境を変えた。そして同じような意味でスタインメッツやエジソンも行ったし、そういう意味ではジュリアス・シーザーやナポレオンもだ。実際、ダン、すべての発明や天才や将軍は1つの事実に行き着く。つまり、周まわりに従うのでなく、周りを変える﹂ バック院長は一息入れて、続けた。 ﹁今カイラに生物的な適応力があることは分かった。髪と眼が証明している。だが、もう1つの人間的な適応を同程度に持ったらどうだろう。もしそうなら、結果は神のみぞ知る。カイラがどんな行動を取るか見守るしかない。見守り、願うしか……﹂ ﹁でも、わかりませんよ。先天的なものかもしれません﹂ バック院長が反射的に眉をひそめ、 ﹁突然変異では、なんでも先天的になり得るぞ。突然変異では、つまりカイラの突然変異はショウジョウバエの白眼と同じ変異だから、何でもできる。思い切り哲学的解釈を拡大すれば、カイラはおそらく人間進化の具ぐげ現んし者ゃと言いたい。突然変異だ。これをあえて信じれば、ド・フリースやワイスマンは正しい﹂ ﹁進化突然変異説のことですね﹂ ﹁その通り。いいか、ダン、進化が起こったことは化石で明らかだが、目の前で起ることを証明するのは非常に難しいのじゃ﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁そうだな、ダーウィンの緩かん慢まん説では起こり得ないんだ。理由がたくさんある。たとえば眼を取り上げよう。ダーウィン説では、とてもゆっくり何千世代もかけて、海洋生物の中に、皮膚上の斑点が光を感じるように発達し、これがために眼のない生物より優位に立ったとされる。その結果この種が生き残り、他は消滅した。しかしこうも言える。もし眼がゆっくりできたのなら、最初の生物はまだ見えてないわけだから、ほかより何の利点もないだろう。翼を考えよう。飛べるまで何の利点がある? 跳びトカゲが前脚と胸の間に少し皮膚があるからと言うだけで、これが生き延びて他が死んだということにはならない。何が翼を発達させ続けて、実際に飛べるようにするのか﹂ ﹁何ですか?﹂ ﹁ド・フリースやワイスマンは何もないと言う。その説では、進化は飛躍的に起こる。だから眼が出現したときには既に生存価値があるほど役に立ったし、翼も同様だ。この飛躍を突然変異と名付けた。だからその意味では、ダンよ、カイラは突然変異体だ。ヒトから何かほかのものへ飛躍した。たぶん超人だ﹂ スコットはこんがらかって首を横に振った。ひどく戸惑い、完全にお手上げ、冷静どころではない。やおら、バック院長にお休みを言って、ふらふら帰宅し、体を横たえ、何時間も眠れなかった。 翌日、バック院長がグランド・マーシ病院を休診にしたが、スコットはやってきた。ある意味ではカイラ・ジーラスに好奇心をそそられたためだが、ある意味では人助けでもあった。カイラが殺人を自白したので、ひょっとしてバック院長を平気で殺しかねないと思い、手近で止めるつもりだった。 スコットはカイラとほんの数時間一緒にいただけで、院長の語った進化や突然変異のことが現実味を帯びてきた。それはカメレオンのような色変化でもなく、妙に純真無垢で聖人のような容貌でもなく、信じられないような美貌でもなかった。もっと何かある。これだと特定することはできないものの、明らかにカイラはまったくヒトではなかった。 このことを印象付けるようなことが夕方遅く起こった。院長が私用で外出したので、スコットが女に、これまでに経験した感想を聞いてみた。 ﹁じゃあ、自分が変わったことが分からないの? 自分自身の変化が分からないの?﹂ ﹁私じゃない。変わったのは世の中よ﹂ ﹁でも、きみの毛髪は元もと々もと黒なのに、今は灰のように白い﹂ ﹁そうお。白い?﹂ ﹁カイラ、自分のことをもっと知らなくちゃ﹂ カイラは魅惑的な銀眼をスコットに向けて、 ﹁知っている。欲しいものが手にはいるってことをね﹂ カイラの清純な唇に笑みが浮かんだ。 ﹁ダン、あなたが欲しいの﹂ その刹那、カイラが変化したように思えた。それほどでもなかった美貌に、なにかひどく酔いそうになった。意味がわかった。いまカイラのそばに愛人、つまり愛する男がおり、状況に適応しつつある。カイラが次第に抗しがたいほど魅力的になっていく。スコットはぶるぶるっ。 バック院長はわかっていたのかもしれないが、何も言ってくれなかった。スコットにとっては全くの拷問だった。というのも、わかりすぎるぐらい分かっていたからだ。好きになった女は怪物であり、生物変種であり、なお悪いことに冷血な殺人鬼であり、ヒトという生物じゃない。 しかし、数週間が無事に過ぎた。カイラは家事手伝いにいそしんだ。そんな中、依然として院長とスコットにとっては研究、調査の興味対象であった。 その後、スコットにいい考えが浮かんだ。モルモットに血清を注射して、カイラの傷口と同じ反応が出たことを確かめた。文字通り、モルモットを殺して、斧で半分に切断し、バック院長が脳を調べた。 ついに院長が、スコットをまじまじ見て言った。 ﹁正解だ。松しょ果うか体たいが肥大しておる。もしカイラの松果体にメスを入れて肥大を除去出来たとしよう。そしたら正常に戻ると思うか﹂ スコットは恐怖感を押し殺し、 ﹁でもなぜですか。ここで保護する限り無害です。どうしてそんなことして命をかけなきゃならないのですか﹂ バック院長がニヤリ、 ﹁我が人生で初めて、年寄りでよかったよ。わからんのか? 何かすべきだ。カイラは脅威で危険だ。危険度は神のみぞ知る。やるべきだ﹂ スコットはしぶしぶ同意。1時間後、実験だと偽って、院長が0.3のモルヒネを女の腕に打った。見ていると、女が顔をしかめ、まばたきして、そして、順応している。薬が効かない。 夜になって、バック院長が次の手を考えついてささやいた。 ﹁塩化エチルだ、瞬間麻酔薬だ。おそらく酸素欠乏で順応できまい。やろう﹂ カイラは寝ていた。2人は静かに、注意深く忍び込んだ。スコットがうっとり見おろす女の顔は、この世のものと思えないほど美しく、真夜中のかすかな光に照らされて、かつてないほど白い。 慎重に慎重に、寝ている女の顔の上で、院長が漏ろう斗とを持って、甘い香りのする揮発性の液体を少しずつ注いだ。数分経過。 ﹁象でも眠るはずだ﹂ と最後に言って、漏ろう斗とを女の顔に覆いかぶせた。 女が目を覚ました。ハリガネのような女の細指が院長の手首をつかみ、腕を払いのけた。スコットが漏ろう斗とをつかんだが、同様に女の指に絡からまれ、握力の強さを思い知った。 女が起き上がり、静かに言った。 ﹁まぬけねえ。全然効かないよ、ほら﹂ 女は寝台横の台からペーパーナイフをひっつかんだ。月光に青白い喉のど首くびをむき出して、突然、自分の胸にナイフを柄つかまで突き立てた。 スコットが恐怖で息をのんだとき、女がナイフを引き抜いた。女の肉体に1点の血ち溜だまりが現れ、これをぬぐうと、肌は真っ白、傷きず跡あともなく、きれいだ。 ﹁出て行って﹂ と女がやさしく言った。2人は退出した。 翌日、カイラは昨晩のことに何も触れなかった。スコットとバック院長は研究室で朝を悶もん々もんと過ごし、何もせず、ただ話し込むばかり。 それが間違いだった。というのも、書斎へ戻ってみると女がいなくなっており、ゲッツ夫人によると、扉からぷいと出て言った由よし。動揺してあたふたと、隣接区画を探したが見つからなかった。 夕刻に女が返ってきて、無帽で戸口に立ち止まり、スコットに入室を乞こい、スコットしかいなかった為、見ていると、女が夕日に照らされ部屋へ入るとき、超常現象が現れ、髪の毛がマホガニーの赤褐色からアルミの白色へと薄まっていった。 女が笑いながら言った。 ﹁ふふふ、こんばんは。子供を殺した﹂ ﹁何だって? まさか、カイラ﹂ ﹁事故ったの。罰しようなんて思わないでね、ダン﹂ ダン・スコットはぞっとして見つめるばかり、 ﹁いったい……﹂ ﹁ええ、少し歩こうと思ったの。1区画か2区画行くと急に車に乗りたくなった。1台キーがついたまま止まっていて、運転手は歩道で話し中だったので、乗り込んで、エンジンをかけ、走り出した。当然最速よ、だって運転手が大声を上げるもの。そして2番目の角で子供にぶつかった﹂ ﹁それで、きみは止まらなかったのかい?﹂ ﹁もちろん止まらない。その角を曲がって、もう1つか2つ角を曲がって車を止めて、歩いて帰ってきた。子供はいなかったが野次馬はまだいた。でも誰も私に気づかない﹂ 女は天使のように笑い、 ﹁ふふふ、全く安全よ。追跡できないもの﹂ スコットは両手で頭を抱え込み、呻しん吟ぎんし、つぶやいた。 ﹁どうしたらいいんだ。カイラ、警察へ言わなくちゃ﹂ ﹁でも、偶発よ﹂ とカイラが軽く言いながら、銀眼をきらきらさせて、スコットを気の毒そうに見た。 ﹁何が何でも、言うべきだ﹂ 女は真っ白い手をスコットの頭において、 ﹁あした言うよ。ダン、気づいたの。世の中で必要なのは権力ね。私より権力のある人が世の中にいる限り、衝突する。法律で私を罰しようとする。なぜ? 法が私に合わないからよ。私は罰せられない﹂ スコットは返事しなかった。 ﹁だから、あしたここを出て権力を探しに行くよ。どんな法律より強くなって見せる﹂ その言葉でスコットが我に返って、カイラの肩を掴つかんで、 ﹁カイラ、ここを二度と出ちゃいけない。約束してくれ、誓ってくれ、あの扉から一歩も出ないって。俺と一緒じゃないと﹂ ﹁もちろんよ、あなたが望むなら﹂ ﹁じゃあ誓ってくれ。よろずの神々に誓ってくれ﹂ 銀眼でスコットの顔をじっと見つめる様は大理石像の天使だ。 ﹁誓うよ、お望みのものに誓うよ、ダン﹂ そして、翌朝カイラは出て行った。 スコットの財布から硬貨と札束を盗み、バック院長からも盗んだ。あとになって、ゲッツ夫人のも盗んだことが分かった。 スコットがつぶやいた。 ﹁院長が実際に会っておられたらなあ。僕の目をまっすぐ見て約束したんです。顔は聖母のようでした。嘘を言うなんて信じられない﹂ バック院長が、 ﹁順応という過程を経た嘘は、相手に大きな驚異となる。おそらく嘘つきの元祖は擬態動植物だろう。たとえば毒なし蛇が毒蛇に擬態、ハリナシミツバチが蜂に擬態する。現存の嘘つきだ﹂ ﹁でも、まさかカイラが……﹂ ﹁だが、やった。権力が欲しいと言ったのが何よりの証拠だ。カイラは適応の第2段階に突入した。つまり環境に自分を変えるのでなく、環境を自分向けに変える。カイラの狂気、いや天才は、どこまでいくか。ダン、両者は同じだ。見守る以外どんな手があるか﹂ ﹁見守るって? どうやって? いまどこにいるのですか﹂ ﹁大間違いしなければ、監視は簡単だ。ひとたび権力を握り始めればな。カイラのいるところ、世界の誰もがすぐに思い知る﹂ しかしながら何週間過ぎてもカイラの消息はなかった。スコットとバック院長はグランド・マーシ病院業務に戻った。 スコットは自分の研究室にこもって、残りのモルモット3匹、猫1匹、犬1匹を冷酷に始末した。殺さつ処理は気分の滅め入いる仕事であった。瓶びんに入った透明な血清液も火葬炉に投棄した。 しばらく経ったある日、拡声器でバック院長室へ呼ばれた。院長がポスト・レコード新聞にかがみこんでいた。 ﹁ここを見てみろ﹂ と言いながら、指差した政治ゴシップ欄の記事は﹃ワシントンのつむじ﹄――。 スコットが読んだ。 ﹃今夜の驚きは自称独身、清廉潔白なジョン・キャラン氏が閣僚に就任、同氏の入れ込んでいるのが、ほかならぬ豪華絢けん爛らんのカイラ・ジーラス、同嬢は、昼は黒、夜は白のかつらを愛用。読者の中には殺人裁判の無罪をご記憶の方もおられよう﹄ スコットが眼をあげて、 ﹁キャラン、ええっ? まさしく財務長官ですよ。カイラが権力とか言ってたが、ほんとに権力だったんだ﹂ バック院長が憂ゆう鬱うつそうに考え込んで、 ﹁これで終わるかな? 予感では始めたばかりのようだな﹂ ﹁そうですね、実際、女性がどこまで上れますかね﹂ 院長がスコットを見上げ、 ﹁女性だと? カイラ・ジーラスだぞ、ダン。上限を設けちゃいかん。もっと増長するぞ﹂ バック院長が正しかった。カイラの名が頻繁に現れ始めた。最初は社交界、次に隠いん然ぜんたる影響を秘密策略・政策に及ぼしてきた。 その記事。 ﹃記者達は誰を10番目の閣僚と呼ぶか﹄ ﹃秘書長官でいいじゃない。権限のある女に名称を﹄ ﹃歴史を引けば古代エジプト、その財政を握ったのが1人の女性。クレオパトラが財政を破綻﹄ スコットはちょっと苦笑い。だって、カイラの影響力がだんだん姑こそ息くになり、新聞各社が注目し始めたからだ。権力が増した証拠。というのもワシントンの新聞記者ぐらい政治動向に敏感な連中はいないもの。 大衆紙はカイラを社交界で大きく載せ始め、いつものお相手はジョン・キャラン、45歳の独身・財務長官だ。 歩いていても寝ていても、スコットは一瞬たりともカイラが忘れられなかった。なにか霊的なものがあったからだ。狂ったのか、天才なのか、怪物なのか、超人なのか。すっかり忘れたのは、やせてさえない容貌の脂ぎった黒髪の女が、隔離病室の寝台に横たわり、咳せき込んで血を吐いていた昔。 2人ともちっとも驚かなかったのであるが、ある晩スコットとバック院長が数時間の打ち合わせに院長室へ戻ってきたとき、ソファーに深々と座り、居ついていたかのようだったのがカイラ・ジーラス。見たところ、少しも変っていない。 スコットはまたもや、しげしげ素晴らしい銀髪と、けがれのない大きな銀眼を、うっとり眺めた。カイラが煙草を吸いながら、青い煙をフーと吐き、スコットに微笑みかけた。 スコットが緊張して冷静に言った。 ﹁尋ねてくれてうれしいよ。今回来た理由は何だい? 金欠か﹂ ﹁お金? まったく違う。金欠になるはずがない﹂ ﹁そうだな。逃げた時やったような方法で金を手に入れれば金欠しない﹂ カイラがハンドバックを開けて、ドル紙幣の札束を見せながら、軽蔑して言った。 ﹁ああ、あれ。ダン、返すわ。いくらだった?﹂ スコットはカッとなって、 ﹁金が何だ。傷ついたのは嘘のつき方だ。子供のように純真無垢な目で俺を見つめて、いつも嘘を言う﹂ ﹁そうお? もう嘘は言わない、ダン、誓う﹂ ﹁信じないぞ。ここで何をするつもりだ﹂ ﹁会いたかったの。ダン、あなたに言ったことは忘れない﹂ 言うが早いか、いままで以上に美しくなったような気がして、今回も胸が痛むほど物狂おしかった。 バック院長が不意に、 ﹁それじゃ、権力をあきらめたのか﹂ ﹁なぜ権力を欲しがらなきゃいけないの﹂ とカイラが無邪気に答えて、華麗なまなざしを院長に投げた。 スコットがじれはじめて、 ﹁でも言った――﹂ カイラの完璧な唇に、かすかに笑みが浮かび、 ﹁ふふふ、言ったかしら? ダン、嘘をつきたくないの。権力が欲しければもう私のものよ。夢にも勝る大きな権力よ﹂ と言葉をつぎ、少し微笑んだ。 ﹁ジョン・キャランを使ってか?﹂ とスコットがいらだった。 カイラは冷静に、 ﹁キャランなら簡単よ。たとえば一両日中に戦費に関する声明――この上なく侮辱的な声明――つまり増税策をキャランが発表するとしましょう。政府はキャランを表立って非難出来ない。だって、ほとんどの有権者が増税策を予想しているもの。もし増税確実であれば、あなたも確信してるでしょうが、ヨーロッパの戦意は西方へ向かう。さあ、この声明はどの国も無視できず、そして国民の目にも重大さが分かるなら、きっと反発を呼び起こします。3つの国が、ね、ご存知の通りです。これらの国々はひたすら関心の矛先を待っています。わかりませんか﹂ と言って、カイラが眉をひそめ、 ﹁なんてお2人ともバカなんでしょう。どんな女帝になろうかしら。きっといい女帝ね﹂ とつぶやき、華麗な容姿を伸ばし、あくびをした。 スコットは驚きあきれ、 ﹁カイラ、きみはキャランにそんな大失態をやらかすつもりか﹂ ﹁やらせるのよ。やらせる﹂ とオウム返しで軽蔑した。 ﹁君がやるってことか﹂ ﹁そうは言ってない。1〜2日ここに泊まる。おやすみ﹂ と微笑み、再びあくびして、火の消えた暖炉にたばこを投げ入れ、立ちあがった。 カイラが院長室へ消えたとき、スコットは院長に向き合い、 ﹁くそ女め。すべて信じられない﹂ とこき下ろした。唇が蒼白だ。 ﹁信じたまえ﹂ ﹁女王だって? 何の女王ですか﹂ ﹁たぶん世界のだ。狂気や天才に上限は設けられないぞ﹂ ﹁止めなくちゃ﹂ ﹁どうやってだ? ここには閉じ込められん。第一、強力な腕力を発揮して、扉の鍵なんか簡単に壊す。また壊さなくても、窓から大声で助けを呼ぶぞ﹂ スコットは真っ赤になって、 ﹁狂気は裁さばけます。助けを呼べない頑丈な所に幽閉できます﹂ ﹁ああ、出来るかもな。精神鑑定委員会に引き渡せばできるかも。もし、連れて行けるとしても、どう切り出したらいいんだ?﹂ ﹁そうですね。じゃあ、弱点を探しましょう。適応能力は無限大じゃありません。薬や傷にも不死身ですが、生物学の基本原則は越えられません。やるべきことは必要な法則を見つけることです﹂ ﹁では君が見つけろ﹂ ﹁何かしなければなりません。せめて警告を人々に……﹂ スコットは中断して、考えが全くむなしいことを悟った。 ﹁ははは、人々に警告だと! 何をだ? 精神鑑定委員会に引き渡そうとするのに。キャランは権威で無視するだろうし、カイラも軽蔑して軽く笑い飛ばすだろうし、それだけのことだ﹂ スコットは両肩をすくめ、お手上げ、 ﹁私も今晩ここへ泊まります。少なくとも朝またカイラと話せます﹂ ﹁まだここにいればな﹂ とバック院長が皮肉をこめた。 だがカイラは居た。カイラが入室したとき、スコットは書斎で朝刊を読んでいた。カイラは静かに向かい側に座り、絹の黒パジャマをひらひらさせ、真っ白な素肌と素晴らしい頭髪は驚くべき対比だ。 見ていると、朝日が部屋に差し込むにつれ、肌色と頭髪が薄い金色に変わった。どういうわけか怒りがこみ上げたのは、あまりの美しさと同時に、致命的な非人間性のせいだ。 スコットが話の口火を切った。 ﹁夕べ最後に会ってから殺人を犯してないだろうな﹂ と意地悪く、厳しく問うた。 カイラは極めて冷静だった。 ﹁どうして? 必要ないもの﹂ スコットも落ち着いて、 ﹁カイラ、きみは殺されるはずだったんだぞ﹂ ﹁でもダン、あなたに、じゃないでしょう。私を好きだもの﹂ ダンは何も言わなかった。バレバレで否定できなかった。 カイラがやさしく、 ﹁勇気さえあれば2人で乗り越えられない障害はない。障害なんて無い、やる気があれば。そのためにここに戻ったのよ。でも……。あしたワシントンへ帰る﹂ と言って両肩をすくめた。 その日の遅く、スコットはバック院長と2人きりになった。 ﹁あした発たちますよ。やれるのは今晩しかありません﹂ 院長が力なく身ぶりして、 ﹁何ができるんだ? 適応性を止める法則があるのか﹂ ﹁いいえ、しかし……。必ず、あります。あっ、今わかりました﹂ ﹁何がだ?﹂ ﹁法則ですよ。生物の基本法則で、カイラの弱点ですよ﹂ ﹁何だ﹂ ﹁これです。どんな生物も自分の廃棄物の中では生きられません。自己の廃棄物はどんな生物にも有毒です﹂ ﹁しかしだな……﹂ ﹁いいですか。2酸化炭素は人間の廃棄物です。カイラは2酸化炭素の環境には適応できません﹂ バック院長がじっと見据えて、 ﹁全くだ! じゃが、正解だとしても、どうやって……﹂ ﹁ちょっと待ってください。2〜3本、炭酸ガスボンベがグランド・マーシ病院で入手できますね。ガスをカイラの部屋へ注入する方法はありますか﹂ ﹁あるよ。この家は古い。カイラの部屋からわしの部屋へ通ずる穴があってな、ラジエーター配管が通ってる。ゆるゆるだ。配管の横にゴム管を通せる﹂ ﹁いいですね﹂ ﹁だが、窓がある。カイラは窓を開けとるはず﹂ ﹁問題ありません。見てください、石せっ鹸けんが塗ってあるので簡単に締まります。解決です﹂ ﹁でもうまくいっても、何の足しになる。ダン、殺すつもりじゃないだろうな?﹂ ダンが首を左右に振ってささやいた。 ﹁まさか。でも、無抵抗、無力になりさえすれば、そうなればですが、手術できます。以前おっしゃった松果体の手術ですよ。神の許しがあらんことを﹂ スコットはその夜、忌わしい自責の念に苦しんだ。カイラは以前にもまして、とても愛らしく、初めて自らもかわいくなろうと必死だった。 語らいは本当に素晴らしく、全身輝いていた。幾度となく魅惑され、裏切り計画が耐えがたい苦痛になった。いま冒ぼう涜とくしようとする相手はあまりにも純真で、無垢で、聖人のような容貌だ。 自分に言い聞かせた。 ﹁人間じゃないんだ。天使じゃなく悪女――なんて呼ぶんだっけ――悪魔なんだ﹂ 最後にカイラが優雅にあくびして、優美な足を床に下ろし、去ろうとするとき、思わず、話の継つぎ穂ほをした。 ﹁まだ早いじゃないか。あした行くのだから﹂ ﹁ダン、また帰ってくる。終わりじゃないよ﹂ ﹁そう願いたい﹂ と惨みじめにボソボソ言って、部屋の扉がバタンと閉まるのを眺めていた。 スコットはバック院長をじっと見た。 院長がしばし沈黙のあと、ささやいた。 ﹁バタンキューだぞ。これも適応性の一種だ﹂ じっと押し黙り、2人が見つめる先に、細い光の線が扉の下にあった。スコットが素早く行動を起こしたのは、ややあとにカイラの影が横切り、かすかにカチッと音がして光が消えたときだ。 スコットが冷酷に、 ﹁じゃあ、すぐけりをつけましょう﹂ バック院長について隣の部屋へ行った。そこには冷たい無機質な、圧縮ガスの灰色ボンベが複数置かれていた。見ていると、院長が長い管を取り付けて蒸気配管の間に這わせ、隙すき間まに濡れ布を詰め始めた。 スコットは自分の持ち場に戻った。音をたてず書斎に移動。こっそりカイラの部屋の扉を開けた。鍵はかかってなかった。たぶんそうだろうと予測していた。というのも、女が不死身であると自信を持っていたからだ。 しばらく、枕にかかる銀髪を眺めていたが、やおら慎重に、小さなろうそくを窓近くの椅子に置き、ほぼ寝台の高さにあることを確認して、ライターで火をともし、部屋鍵を奪って、立ち去った。 外側から鍵をかけて、扉の下の隙間に布を詰めた。密封するにはほど遠いが、重要じゃない、というのも空気の入れ替えには逃げ口が必要だからだ。 スコットが院長室へ戻り、ささやいた。 ﹁1分待ってください。それからガスをひねってください﹂ スコットは窓に足をかけた。外側に幅60の張り出しがあり、この危険な高所に這はいあがった。真下に通りが見えるが、極力見ないようにした。というのも、院長室と隣部屋の間の張り出しの上にいたからだ。注意散さん漫まんにならないようにひたすら祈った。 スコットは張り出しを抜き足差し足。カイラの部屋の2枚窓は開いていた。バック院長がガス栓を開いた。窓は音もなく閉まった。スコットは窓ガラスに顔を押し付けて中を覗き込んだ。 部屋の中では小さな燈とう心しんが安定してほのかに燃えている。すぐそば、手の届くところに、ついたてもなく、カイラが薄明かりの中に横たわっている。仰向きに寝て、片腕を銀髪に置き、かけた毛布はわずか1枚。空耳に聞こえる寝息は静かで、平穏で、安らか。 長い時間が過ぎたかのようだった。ついに窓からガスがシューと漏れるような音がしたが、気のせいに違いない。部屋の中は何も変わってない。華麗なカイラの寝姿は何でもないかのように、気持よく、静かで、大胆だ。 そのとき、兆しがあった。換気の無い状態で、安定して燃えていた小さなろうそくが突然ちらついた。じっと見ていると、まさに色が変わっている。またちらちらして、パッと輝き、消えた。燈心が一瞬赤くなり、消えてしまった。 ろうそくの炎が消えた。室温で2酸化炭素濃度が8〜10%ということだ。濃すぎて普通の生物は生きられない。だがカイラは生きている。ただ例外的に穏やかな呼吸が深くなったような気がするものの、不具合すら見せない。カイラは低酸素に適応している。 でもカイラの神通力にも限界がある。スコットは暗闇に見入った。確実に、確実に息が荒くなっている。いま確信した。カイラの胸がせりあがり、痙けい攣れんしてあえいだ。スコットは心乱れながらも、どこか科学者として事実を見つめた。 ﹁チェーン・ストークス呼吸だ﹂ とつぶやいたそのとき、呼吸の激しさで女が目を覚ました。 目ざめた。突如、銀眼を開けた。手で口をかきむしり、喉をつかんだ。とっさに危険を察知し、起き上がった。ベッドから降りるとき、なま足がパッと見えた。でも、ぼーっとしているようだ。だって、最初扉の方へ向かったもの。 動作がぐらついているのが分かった。ドアノブを回し、死に物狂いで引っ張り、次に窓の方へと向きを変えた。見ると、よろよろしながら、汚染空気の中をふらつき、窓にたどりついた。 眼の前に顔が来たが、俺を見てたかどうか。というのも、眼は大きく見開き、恐怖におののき、口と喉は呼吸のため激しくゆがんでいたからだ。片手を振り上げ、窓ガラスを割ろうとした。一撃を振りおろしたが、弱かった。窓は震えたが割れなかった。 もう一度、腕を持ち上げたが、振り下ろす事はなかった。しばらく不安定に立っていたが、ゆっくり揺れ、やがて大きな目が閉じて、膝ひざが崩れ、ついに床にぐにゃりと倒れ込んだ。 スコットは拷問のように長い時間を置いて、窓を押し開けた。無酸素空気がワッと押し寄せ、クラクラっとしたので、危険な張り出しの上で、窓枠にしがみついた。そのとき、建物の間から風が吹き、頭がすっきりした。 恐る恐る部屋にはいった。息苦しかったが、窓に近い為、なんとか呼吸ができた。院長室の壁を3回けった。 ガスのシュー音が止まった。両腕でカイラの体を抱えて待ってると、やがて鍵の回る音がしたので、部屋を突っ切り、書斎へ駆け込んだ。 バック院長は女の生なま身みに魅入られたかのように眺め、 ﹁女神がぐったりだ。邪悪な行為に手を貸してしまった﹂ スコットがせっついて、 ﹁急いでください。意識不明ですが麻酔状態じゃありません。再生の早さは神のみぞ知るです﹂ だが、まだ回復しないので、病院の手術台に乗せ、両腕、両足、体を革ひもで縛った。 見下ろす女の顔はなお白く、髪は明るく、スコットの心臓は痛みに縮む感じがして、見る間にうっすらと黒く美しくなるのは、手術室の明かりがまぶしくて短い波長光線のせいだ。 スコットが意識のない女にささやいた。 ﹁きみが正しかった。俺にきみの勇気があったら、得られないものはなかったかもしれない﹂ バック院長がぶっきらぼうに訊いた。 ﹁鼻びく腔うか? 穿さく頭とうか?﹂ ﹁鼻びく腔うを﹂ ﹁でもわしは松しょ果うか体たいを見てみたいのじゃ。本件は珍しいし……﹂ スコットが怒って、 ﹁鼻びく腔うで! 傷きず跡あとを残したくありません﹂ バック院長がため息をついて執しっ刀とう開始。スコットは長いこと病院に勤めているが、この手術は見ることができなかった。院長の求めに応じて手術器具を渡すものの、かわいらしい患者の顔からは眼をそらし続けた。 ﹁これで、終了﹂ とバック院長が最後に言った。初めて余裕が出て来て、カイラの顔をしみじみ眺めた。じっと見た。優雅なアルミニウム色の毛髪はボサボサで脂ぎった黒毛に変わり、かつて病院にいた女に戻った。女の目をこじ開けると、もはや銀眼ではなく、くすんだ青色だった。 かわいらしさのうち、残っているのは何? 痕跡、おそらく痕跡、青白い顔に残る聖人のような純粋さ、顔の造形だ。でも輝きが消え、もはや女神でもなく、死を免まぬがれぬ人間になった。超人は煩ぼん悩のうに苦しむただの女にすぎなかった。 院長が叫ぼうとするすんでのところで、スコットがささやいた。 ﹁なんて美しいのだろう﹂ 院長がジロリ。そのときハッと分かったのは、スコットが見てるのは現実の女じゃなく、かつての姿だ。スコットの目には、愛に惑わされ、依然として素晴らしいカイラのままだった。 完