第13回セミナー・「もう一度、組版」
参加者の意見や感想と
それに対する回答
第13回セミナーにいただいた意見・感想・批判およびそれに対する回答を掲載します ●掲載は、新しく届いたものから順に掲載しています。「感想--01」がセミナー後、最初に届いたものです |
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回答--02
西井一夫
1999.05.24
■小形さんの感想への回答
ここで話は西井氏に戻ります。あそこでの応酬で僕が問題にしたのは、﹁行の短縮に関わる原稿改変﹂でした。実はこれってどうってことない問題なんです。だって一言文字校に﹁ここをこう直せば1行短縮できますが、よいですか?﹂と書けばすむんですから︵それすら無用と言う西井氏は論外︶。
﹁無用﹂なのではない。そうしているし、し忘れても著者が、一字一句に命を削って文をつむいでいる人なら、わかるし、問題があれば注意してくれる。著者と編集者の私とは﹁カマラード﹂でありたいし、敵対者ではない。﹁ここをこう直したら良くなる﹂なんてことは私は言わない。そう思う位なら、自分で書く。
﹁行の短縮に関わる原稿改変﹂すら筆者に無断でやる西井氏が、
﹁無断﹂でやるのではない。“、”を一つ取るくらいはやる、と言っているだけです。﹁原稿改変﹂とか、大ゲサに言い変えているだけです。﹁内容にかかわらない﹂限りです。マニュアル人間には“、”1コでも﹁原稿改変﹂であるか? それなら、それでやってくれ。
僕よりもはるか年上の西井氏が、僕が悩みに悩んできた問題を無神経な手つきでないことにしようとした時、僕はキレてしまった訳です。﹁文字校を出せば許される﹂って論理は、今の世で葵の印籠を振りかざすようなもんですよ。だれもそんなウソ信じないっつーの。氏のような頭ごなしの態度をとっている限り、編集者以外のポジションの人々の信頼は得ることができず、編集者は軽んじられ、したがって現在の出版業界を覆っているDTPの現場の混乱は収まらない。かように愚考するものであります。
なら、又、﹁葵の印籠﹂だ。
﹁頭ごなし﹂は﹁葵﹂と関係ない。私の個性だっつーの。信頼は、﹁××しない﹂という、私が﹁しない﹂ことの原則を相手が知ってはじめてできる。貴方のような、余計なお世話で相手と﹁綱引き﹂したって、わずらわしく、時間のムダです。
声が大きいのは、地声であり、あの場で大きいのは、マイクを通して拡声されているからである。
同業の意見ではなく、遺業の意見をきくべきでしょう。オ仲間をつのってもくだらないよ。
■Hさんの感想への回答
その通りです。著者と編集者には、仲間、といった関係が生まれることが一番良いと思う。﹁修正﹂などという言葉で言うから、権利的概念になってしまうが、一行かせぎたいから、一字つぶした、ということで、意味変更なしに、言い廻しの部分での1字消しであれば、上下関係でも何でもない。もちろん、一字一句に身を削って書いている著者のものであれば、こちらもそれなりの配慮はしています。問題は書き散らしの雑文と珠玉の文章とを、見分けられる編集者であるか、どうかです。書き散らされたような文章なら、バサバサ削ることもある︵もちろん著者にことわった上で︶。
■金子さんの感想への回答
かつても︵新聞社の︶ぶ厚いガラスの向こうにいる人には、よく分からんだろう、と、いわゆる、﹁ブル新﹂をヤユすることで、私を批判、ないし、馬鹿にできると思っているような発言に接したことがありますが、相手はそういう﹁ヌクヌク﹂とした﹁安全地帯﹂に身を置いたことがない。いつも、いつ仕事がなくなるか、とビクビクしている人だろう、と想像して、あまり不快を感じないように訓練しているから、﹁書かせてやる﹂﹁書いていただく﹂といった対比法でモノを言う人にも、何も言わない。
私は広告部門に移っても接し方は変われません。
相憎、個人的に﹁ゴーマン﹂なタチでして。又、私は﹁新味のある内容﹂や﹁過激な発言﹂をしたとは、全然考えていません。ごく普通にいつもの編集作業でしていることを述べたまでです。あんな程度で﹁物議を醸す﹂とすれば、醸される方が変なのです。
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回答--01 |
感想--09
日本語組版から見えるもの
高野幸子 制作・校正・文書情報処理
1999.05.10
私は書籍制作に携わっております。
通常、異業種間でこのような話しをする機会はほとんどありませんから、セミナーでのやり取りを、興味深く拝見したのですが、お互いの認識がこれほど違うものかと驚愕いたしました。
最近では編集と組版現場とのやりとりの中で、こちらの意図が正しく伝わっていないことがあります。入稿の際の原稿指定や、校正ゲラに入れる赤字の指定は、従来、簡潔であるべきものです。しかし、それだけではわかってもらえないことが度々あります。校正記号というものは、いわば共通の言語のようなものですから、これでは意味をなしません。それゆえ、日本工業規格いわゆる、JIS規格でも定められているもので、お互いにこれらの理解と徹底が欠かせません。しかし、誤用されているのを多々見かけます。JISの校正記号ですが、これは、1965年以来改訂がなされていません。詳細に眺めてみますと、活字組版に特有の校正記号もあり、現状に則した適当なものであるとは、必ずしも言いがたいわけです。また、データのやりとりが増えるにしたがい、指定書などで使う制作用語の標準化、共通の理解が必要であると感じます。デジタルの文字組版の工程に合った校正記号への改訂が望まれます。
以前は熟練した職人さんの領域であった組版現場に、DTPソフトの普及によって、経験や知識に乏しい作業者が流入してきたことが、その原因のひとつであることは否めません。DTPソフトには活版や写植で培ってきた、原理原則が踏襲されていません。例えば、設定ひとつ取り上げてみても、各社各様で、驚いたことには、行間に相当する部分を行送りとしているものまでありました。経験のない若いオペレーターが、それらのDTPソフトを扱うことを考えると、まず、用語を定義することから始めなければならないのかも知れません。そういった相違点を意識しておられるというのならともかく、システムの変化によって継承されるべき原理原則が断絶されてしまった。
﹃基本 日本語文字組版﹄に書かれている、組版ルールはベーシックなもので、書籍制作に馴染んでいる方々には、なんらの違和感をおぼえることはないでしょう。実際の制作現場においては、あらゆることがおこります。それは、複合的であったり、思いがけない偶然がもたらしたものかもしれません。例題同様のことが出現するとは限らないわけです。それに、制作物によっては必ずしも必要とは限らないルールもあるでしょう。組版ルールが煩雑すぎるということをよく聞くのですが、それは、無知の開き直りとしか思えません。組版ソフトの出来が悪いから、組版ルールが複雑だからできないのではなく、選択の余地がない、方針がないのは知らないだけなのではないでしょうか。
完全無比な組版ソフトというのは、まず、あり得ません。DTPソフトは組版の汎用プログラムでしかないように、広範囲のジャンルが制作対象とされるわけですが、それらの制作物すべてに同じ設定、同じ調整方法で様々な処理をさせるには限界があります。時と場合によって適切な設定、適切な調整が施さなければなりません。
それぞれの制作物は、編集意図も異なれば、版面を構成する要素も自ずと異なってくるはずです。このように個々の持つ意味自体を考え始めたとき、意識する、しないに関わらず、文書は様々な要素の集合体であることに気がつきます。例えば、大見出し・小見出し・段落・箇条書き・註……
それらはシステマティックな一定の規則性に基づいて表記されることが望ましいからです。括られた要素は、ある一定の条件を満たした要素ごとの集合体です。組版の構造や階層性はそういった文書の論理構造を表したものと言えるでしょうか。版面を構成するのは文字や記号の羅列なのではなく、意味あってそこに存在しているものだからです。
思い通りの最終物を得るためには、共通の合意とでもいったものが、業種を越えて共有されなければならないと思います。そのためには一連の工程や組版システムに対する理解を欠かすことはできません。﹃基本
日本語文字組版﹄は、日本語組版の慣習的に行われていると思われている組版の中から、システマティックな構造という側面を鮮やかにとりだしてみせました。それは日本語文書の新鮮な発見でもあります。組版ソフトウェアの開発者側である、逆井氏によって提案された文字組版は、業種を乗り越えたご理解とご傾注を感じさせるものでありましたことに、敬意を表します。
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感想--08
日本語の文字と組版を考える会 の皆様
植村・電大出版
1999.04.23
久々に﹁日本語の文字と組版を考える会﹂セミナーに参加し,刺激的な時間を過ごしました。会場で感じた感想と,この際言っておきたいこと,さらに逆井さんへの公開質問です。
●最後のよりどころは読者
西井さんの﹁︵1字のはみ出しを防ぐには︶原稿を修正する﹂という発言で,会場がちょっとわきましたが,僕も編集者として原則的に原稿修正を行います。要はテキストを変更する権利を誰が持つか,あるいはその力関係の問題だと思います。
ライター自身が組版するのならば議論の余地はないでしょう。確かクヌースがTeXでうまく行末処理ができなければ,最後は文章を直せ,と書いていたと記憶します。これはライターの特権。
一方,DTP組版業者が,うまく行末処理ができないからと言って,文章を勝手に削ってきたら,そりゃあ,著者も編集者も怒るでしょう。編集者の立場はこの著者と組版との中間で,扱う本の性格でどちらかの立場によった仕事をしているのです。
同じく西井さんの発言に関してですが,編集者は集計用紙に書かれた中上健次の原稿でももちろん読むでしょうが,読者なら,そんな人は中上信者に限った話であって,一般の読者に広げられる話ではないでしょう。編集者の役目は,誰に読んでもらうかを常に意識して読みやすい組版を心がけることだと思います。
﹁俺の原稿は読みたいと思いやつだけが読めばいい﹂と言えるのは,︵本気かどうかは別として︶著者の中でも作家といわれる種族ではないでしょうか︵ちなみに僕はそのような原稿とつきあったことはありません︶。ただでさえ頭を悩ませながら読まなければならない専門書,学術書は,読者が誤解なく読みやすいことが第一です。
ツメ打ち問題も同じですが,もし自分の編集する書籍の読者で,過半数が﹁ツメ打ちが読みやすい﹂と感じるならば,僕はきっとツメ打ちで組むでしょう。﹁読みやすいこと﹂それが組版の最大原則だからです。
●横組みでの句読点
セミナーでの発言やレジメが残っているので,コンセンサスを得られたこととして流通していくようなことになると,ちょっと困るので書いておきます。
祖父江さんが﹁今となっては,不自然に感じてしまう正当なルール﹂として﹁横組みの基本を句読点︵、。︶とする﹂と発言され,書かれてもいますが,理工系書籍横組み組版編集者,つまり僕としては,いまだ横組み句読点︵、。︶は﹁不自然﹂です。専門書籍はもちろんのこと,この会の会報のような理工系のものでなくても,違和感を感じます。
横組みではカンマ︵,︶です。長年これで仕事してきた慣れもあるでしょうが,理由をあげれば逆井さんが本の中でかかれた通りと思います。ただ,横組みでテン︵、︶が広まった理由は,たぶんに別なことと思います。
大学ノートの登場で横書きになれてきたとはいえ,日本語文章の基本は縦書きでした。ワープロ専用機が登場した際,縦組み文字を打つのに,画面では横組み表示であり,そのためかデフォルトでは句読点でした。Macの﹁カナ漢﹂も同じです。
一太郎ver3のころのATOKはデフォルトがカンマと記憶しているのですが︵間違っていたらゴメン︶,今はテン︵、︶です。
川上では知識︵ルール︶がないDTP作業者︵デザイナー,編集者,ライター︶により,川下では一般ユーザーの手によって多量の横組み句読点文書があふれ出し,その結果,横組み句読点が市民権を得つつあるのです。
著者に﹁日本語の文章を書いたのだから横組みでもテンマルで組んでほしい﹂と主張され,却下したことがあります。これは組版の大衆化による乱れなわけで,句読点問題は横組み組版における﹁ら抜き言葉﹂だと思っています。
つまり,付け加えておきますが,ら抜き言葉が過半数を占めたとき正当化されていくように,︵、。︶のが自然と感じる読者が,僕の編集するような横組み専門書でも半数以上を占めるようになれば,そのときは前向きに切り替えると思います。これはベタ組ツメ打ち問題と同じスタンスです。
●逆井さんへの公開質問
﹃基本日本語文字組版﹄では段落の基本的な考え方として,﹁1字下げ﹂の他に﹁一切字下げをしない﹂例をあげ,後者を行う場合は﹁採用する場合は注意が必要﹂としています。ところで﹃基本日本語文字組版﹄は,まさにこの﹁一切字下げをしない﹂段落処理です。本文は◎を使い,段落を意識した組版ですが,まえがき等は,典型的な字下げなしの紙面です。
どのようなお考えからでしょうか?
-->逆井氏回答へ
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感想--07
﹃基本 日本語文字組版﹄について
金子泰祐・エーアンドイーコミュニケーションズ tainoji@air.linkclub.or.jp
1999.04.20
エーアンドイーコミュニケーションズの金子泰祐と申します。
未熟ながら、ディレクターをつとめています。
意見はあくまで個人的なものですので、自宅から送信しています。
﹁もう一度、組版﹂私、今回初めての参加でした。大変興味深くまた、楽しいひとときでありました。
会場で感じた雰囲気を、誤解を恐れずに言うならば、”神学論争の場に異教徒がまぎれこんでしまった!”とでもいえましょうか。︵以前、﹁究極のアナログオーディオ﹂とやらのの集まりに紛れ込んだ時に同じような雰囲気を感じたことを告白しておきます︶
正しい組版、あるべきルール、美しい文字、等々、真理あるいは理想の存在を信じて、誠実にそれらを探し求める姿はキリスト教など一神教の世界における神学論争の場を連想してしまったわけです。しかし今回の場合、決して皮肉でなく、その場の雰囲気をむしろ楽しむことができました。また”神学論争”と感じながらも、会に絶対的な権威や権力を持ち込む気配がなく︵これは逆井さんはじめ会の参加者の人柄がかもしだす雰囲気のせいでしょうか︶
、いわゆる異端審問の場でなかったことを大変好もしく思いました︵アナログオーディオの時は教祖様のような方がいらっしゃいましたっけ!︶。
議題に関して率直な感想を述べさせていただければ、日本語の組版ルールを確立することは、それがたとえ最低限の基本ルールということであっても、日本語のような何でも取り入れちまう融通無碍な表記体系を持つ言語のもとにあっては、おそらく無理であろうと思っております。これは特に確かな根拠があっていっているのではありません。勘でいってるだけです。すみません。
例‥想定問答
A﹁このシリーズ書籍は、2002年版日本語組版教則に則って組んでください﹂
B﹁縦組みのなかのハングルとペルシャ文字はどうしたらいいんでしょう。著者が、韓国人とイラン人に失礼のないようにといっていますが﹂
A﹁……﹂
もちろんこの度の、逆井さんの書物、また、パネラーの方々のご意見は大変参考になりました。私の職場、協力してくださる周囲の方々との実際の仕事に活かし、蓄えとしていきたいと感じました。
えー、それから西井氏の主張については、にわかに会が白熱したこともあり、感想のメールも多いのではないでしょうか。いわゆる”物議を醸す発言”も冷静に考えれば、たとえば”よい出版物と編集者のあり方を考える”という会における同様の発言であれば、氏の主張は過激な発言でもなければ、特に新味のある内容でもないように思います。出版のシステムにおけるヒエラルキーのなかで氏や我々がどのように位置しているのかを考えれば、氏のような立場の方からは当然でてくる、むしろほほえましい発言ということになりはしませんか。︵書かせてやる、か、書いていただく、か︶
出版部門から広告部門に移った途端に外部との接し方がまるで変わってしまったA新聞のある方を思い出してしまいました。
自戒を込めて編集者のありかたを考え続けたいと思います。
-->西井氏回答へ
日本文化における、職人気質を尊ぶ伝統について、私は大変好もしく、また少々誇りに感じております。この会の目的が職人の養成にあるのではないことは十分承知しておりますが、私にはには決してなれないけれど、自らの仕事に妥協を許さず、常にベストをつくそうとし、悩み、模索し続ける真摯な方々に深い敬愛の念を抱く私は、この会のなかに”職人の心意気”をみてしまったことも付け加えておきます。 ﹁いい仕事ですねー、しかし、そこまでやりますか﹂﹁当たり前でしょう!﹂﹁うーん……!﹂ 又、次も参加したいです。 なお、この文中に、事務局の方が、他者への中傷と判断されるような表現を感じるならば、WEbでの公開を特に望むものではありません。 |
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感想--06 『基本 日本語文字組版』について--V.2 道広勇司・編集者/新技術コミュニケーションズ mich@red.an.egg.or.jp 1999.04.20 『基本 日本語文字組版』を購入いたしました。大変素晴らしい内容で,買った価値がありました。組版ルールを書いた本は数多くありますが,各検討項目について,いくつかのルールを併記してそれぞれの根拠,長所・短所を考察した本は,私にとってこれが初めてでした。 ルールだけ示されても,その理由が分からないと身につきませんし,ハウスルールを作ろうとしてもあまり参考になりません。その意味で本書は画期的だと思います。議論に入る前に基本的な用語の意味が説明されている点も良かったと思います。というのは,例えば「行頭のカギが半角下げ」と言ったって,カギの大きさを二分と考える,という事を知らなければ言っている意味を理解できないからです。 日本語の文字と組版を考える会において,本書について ・あれもある,これもあるじゃなくて,反発をくらってもよいから,どれか一つのルールを挙げたほうがいい。 ・ルールをもっと簡素化したほうがいい。という趣旨の発言がありました。おっしゃるところ,分かります。 これは本書を何のための本と捉えるかの問題だと思います。私はこの本を,組版ルールについて考えるための本だと思っています。本書がマニュアルだとすれば,なるほどややこしい議論は最少限に抑えておいて,これだ,というルールを簡潔に提示していくほうがよいでしょう。しかし本書の執筆意図はそこには無いんだと思います。 誤解をまねいた原因は,帯に謳われている「新時代の組版ルールが身につく」というコピーではないかと思います。これを素直に読めば,マニュアル本と思って当然です。こういうコピーは,我々の業界ではお馴染みの,本を売るための常套手段ですよね? 次に,ではどうしてこのような「考えるための本」が必要かを考えたいと思います。ここで前田年昭さんが仰った「ルールは破綻する」という言葉が思い出されます。与えられたルールを金科玉条の如く守っていても,必ずどこかでうまくいかない場合が生ずる。そういうときに,「はて,どうしてこういうルールになってたんだろう」と考えることで,その場その場での自分なりの妥協策や解決策が見つかる(かな?)。本書はそのための手掛かりなんじゃないかと思います。本書の役割はもう一つあって,それは「組版の工程も様変わりしたことだし,ここらでもう一度組版ルールを再点検して,新しいルールをつくっていこうよ」ということだと思います。 ですから,「とにかくルールを提示してよ。それに従うから」という人には本書は適していないでしょう。「ややこしい議論はたくさんだ。簡素なルールがいくつかあればそれでいいじゃないか」という意見もあろうかと思います。デザイナーは見た目の美しさを追及したいし,編集者は文章そのものに心血を注ぎたい。私はその気持ちも非常によく分かるつもりです。私は確かに組版にも関心があるけれど,編集者として,文章を良くすることに,より強い関心があります。組み方の事ばかり,あーでもない,こーでもないって考えてたら,仕事なんてできやしない。 でもでも,組版ルールって確立してないし,ちょっとした工夫で可読性が少しでも向上するんなら,「読者に届く」っていう最終目的がよりよく達成されんのかな?とか思いつつ少ない経験を背景に,ルールについて考える日々? ◆本書の中身について 何ヶ所かで,「日本語組版では…とするのが普通」のような表現がありますが,これはどうも「日本語の本文組版では」という意味のようです。というのは,それらのルールが,見出やタイトルには適用できそうもないからです。本文の概念を明確にし,見出,タイトル,キャプションの特殊性を(鈴木一誌さんがされたように)明らかにして欲しかったと思います。 ※続編を出してほしいと思います。箇条書きの体裁(字下げの仕方など)とか,ノンブル・柱の組み方,あるいは,「いわゆるボールド」の和文・欧文書体の組み合わせなど,基本的なことで考えるべきことがたくさん積み残されていると思います。 |
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感想--05 例会御礼及びコメント 藤島雅宏・伊藤忠テクノサイエンス(株) 1999.04.20 伊藤忠テクノサイエンス(株)の藤島雅宏です。 先日のミーティングは大変刺激的なバトルトークで面白く拝聴しました。 会場の雰囲気を引きずって、二次会でも面白いお話が聞けるかと暫くロビーでお待ちしてましたが、やりかけの野暮用などが気になり失礼してしまいました。 会場でも一寸発言しましたが、気の付いたところをコメントします。 会場では、「完全な組み版ソフトはない」ということと、「やりっぱなしはだめで、気をつけて不具合個所を修正する体制作りが必要」という趣旨で発言しました。 とっさの発言でしたので、まとまりの悪いコメントでしたので、ここに再度コメントさせていただきます。 1:完璧な組み版処理システムは不可能である。 実データでは色々な組み合わせがあり、例題に示された方法でも解決しない例はほとんど苦労せずに提示できる。 例えば、2字以上の送り出しをした行の字間がバラバラに見えることの対処として、前の行に遡って一字でも送りだしてもらえば、どの行も平均して余り大きな調整スペースを使わなくてもよくなるという。 これも、例にある場合には解決するかもしれないが、段落開始から2行目で禁則が発生し、1行目がバラついたときはどうしようもない。 また、ばらついた行の前の行が、句点や受けのカッコでで終わり、丁度収まっている所で一字分の調整用字送りを要求すれば、句読点や受けカッコと共にもう一字送り出さねばならなくなり、結局不具合個所を順送りする結果になり、時には解決できなかったり、却って悪くする例もすぐ思いつく。 2:最終的には機械的な組み版処理を経て出力せざるを得ない。このとき自分の思うとおりの出力が得られるように、個々に調整スペースや調整ファンクションを入れて対処しなければならない。この場合、編集者の希望するように調整できるシステムかどうか、また、編集者に分かり易いシステムかどうかが問題になる。 3:従来のシステムでは、編集者は組み版体裁の悪いところを指摘するだけで、修正するのは組み版工や、写植オペレータであった。 他人の仕事に注文を付けてやり直しを命ずる時は、修正の苦労が身に浸みてないため、厳しい注文が付けやすい。植字工は指示された事は仕事として受け、徹夜してでも最大限の技術や裏技を使って修正してきた。 最近のように、編集者自身が組み版の修正をするとなると、 (1)その組み版システムに精通してないため修正しきれない。 (2)修正できても面倒だから適当なところで自分で妥協してしまう。 (3)当面する場面では設定の変更で対応できても、他の部分にその影響が波及してしまい、全体の解決にならない。 (4)折角裏技を使って調整したのに、校正で文字の増減が発生すると、却って裏技の処理をしたところがみっともない処理になってしまう。 など、一筋縄で行かないことが理解でき、結局妥協の産物になりやすい。 ――自分でやるなら徹底的にやる編集者も居られるでしょう。―― また逆に、組み版とは何かを理解していない編集者が増えたというなら、ワークフローでサポートする体制を組むべきだと思う。 特に、編集自体が得意であっても、組み版などの機械を扱うことには興味も湧かないし、寧ろ苦痛になる人もいるだろう。こうした人には組み版処理をきちんとする人を組にして、組織でサポートする必要がある。 4:繰り返しになるが、最終出力を自動組版処理機能を経て出力しなければならない上に、出力されたものを手修正できないシステムの中では、機能が優れていようがいまいが、出力システムの組み版機能が満足な体裁で出力してくれるように、予めシュミレーションして万全の対応をしておかねばならない。自動で組めるからとオペレータ任せのワークフローでは必ず不満足な組み版が横行するに決まっている。 5:経済原則が働く今日のシステムや体制では、自動で上手く処理できないところは割り切って目をつむるより止むを得ない。 しかし、任せ放しで、指定枠取りの中に不適当な字数で組んで、字詰がばらばらだったり、詰まりすぎたり、行間が極端に詰まっていたり、行長が文字サイズに対して長すぎて、字詰数が多すぎたり、などなど、基本的なルールは組み版システム以前の教育の問題と思う。 会社が社内教育をする体制にないから、これを読んでおけという教科書が欲しいということなら、逆井氏の本の様な教科書は有用であろう。 以上、まとまらないコメントですが、思うところを書きました。 |
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感想--04 第13回セミナーについての感想です 斎藤敏雄 fwga0478@mb.infoweb.ne.jp 1999.04.19 斎藤敏雄と申します。 1949年1月30日生まれ。50歳。 現在、貼りこみソフトという非常にマイナーなソフトを使っています。 簡単に言いますと、写研のコーダーからファイナルデータをもらい、 それをページに組む仕事です。ほとんど版下ですね。内容は。 そして、今年の7月にDTPへ移ることが決まっています。 現在、DTPの勉強をしている最中です。 経歴 最終学歴、1972年、早稲田大学教育学部社会科学科卒。 1972年、内田洋行入社。 1975年、退社。 1976年、麻布十番の建築会社で1年間総務。 1977年、写植・版下業界に入る。 1981年、有限会社サイトーアートスペースを設立。 1987年、解散。 1987年、サラリーマン生活に戻り、数社を経て、 1990年、株式会社アスクに手動写植で入社。 1992年、電算写植のチーフになり現在に至る。 今回、はじめてセミナーに出席致しました。 自分なりに、第13回セミナーの感想を述べたいと思います。 (1)逆井克己さんの講演について。 「日本語文字組版」はまだ読んでいませんので、講演の感想です。 行末処理を中心とした内容でしたが、あそこまでまとめられたのは、 素晴らしいと思いますし感心しました。 手動写植、版下、レイアウト、ロゴデザインを経験している私は、 自然と、と言いますか、仕事を経験していく過程で、周辺の印刷物とか専門書を参考にして、自分の組版のスタイルというものを持っております。しかし、それを他人に教えるとなると大変です。ですから、逆井さん、府川さんのような書物は貴重です。 しかし、DTPから、広く言いますと印刷業界に入ってきた人達に以上お二人の書物を読めと言えるでしょうか? 私は、言えないといいますか、言いません。最後に沢辺さんが言われたように、 A4、1ページに箇条書きにするとか、何しろ、抵抗のない形にして渡します。 祖父江さんも言われてましたね。もっと簡単にというようなことを。 結論です。 逆井さんの功績は認めます。 しかし、組版のルールを広く普及させるには、もうひと工夫、ふた工夫、 いや、もっと、もっと、普及させる内容と方法を議論すべきだと思います。 (2)深沢英次さんの発言について。 深沢さんの発言には、反対するところはありません。 賛成です。 ルールの簡素化。 「デザイナーの方にもっと読みやすいものを作るという意識を持ってほしい。」 と言われました。賛成です。 それと、MB31の本文は読みたくない。賛成です。 話はそれますが、今回、写研の話が出て来なかったのは、残念でした。 どなたか、前田さんでしたか写研の書体にふれていましたが。 写研はどうなるんでしょう?情報はありませんか? (3)祖父江慎さんの発言について。 1959年生まれですね。 39歳か40歳のデザイナーですね。 ですから、あの程度でしかたがないでしょ。 今、グラフィックデザイナーっているんですか? 本当のデザイナー。存在していても、もうそろそろ引退でしょ。 鈴木一誌さんならデザイナーと言ってもいいですけど。 (4)西井一夫さんの発言について。 素晴らしいの一言です。 西井さんには、大学時代の学生運動の息吹を感じます。 あれだけ、はっきり言える人、最近いません。 まぁ、私の世代ですから。 それと、西井さんには、「アメリカ」が入っています。 要するに、アメリカ的な考え方。合理主義ですね。簡単に言いますと。 ですから、今回の「レジュメ集」の4ページの下にある欧文のサンプルなんか 馬鹿らしくて、見てられないんじゃないかな、と思います。 無理矢理左右をそろえるなんて、アメリカ人はそんなことしません。 (5)太等信行さんの発言について。 発言についてというより、人柄についてです。 温厚な方で一緒に仕事が出来そうという感じです。 「写研の組みNOW」懐かしく、思い出しました。 発言については、「T-time」の話、参考になりました。 「9号の会報」読みたいですね。持っていません。 (6)前田年昭さんの発言について。 こういう方がいないといけないんだなという感じの方ですね。 発言については、「ごもっとも」です。 最後になりましたが、 沢辺均さん、司会お疲れ様でした。 名前も知らない多くのボランティアの皆さんお疲れ様でした。 2次会に参加出来なくて残念でした。 次回も参加させていただくつもりです。よろしくお願い致します。 1999年4月19日(月) 追伸 小生もホームページを持っております。 時間がありましたら、観てください。 URLは、 http://village.infoweb.ne.jp/~fwga0478/index.html |
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感想--03
第13回公開セミナーに参加して感じたこと
H・編集、制作・女 fwit0583@mb.infoweb.ne.jp
1999.04.19
今回、逆井さんの﹃基本 日本語文字組版﹄をベースに進められたセミナーに出席して、またセミナーに対する感想のメールを読んで、少々思うところがありましたので、個人的な見解を述べさせていただくことにいたしました。
コメンテイターの方々のご意見、大変興味深く拝聴させていただきました。なかでも西井さんのご意見は直接﹃基本・・・﹄の内容に対するものではありませんでしたが、配布されたレジュメをはじめとして、ご指摘のなかには大きくうなずかされるものが数々ありました。﹁組版などという見てくれはどうでもよい。大事なのは原稿の中味である﹂というのが西井さんの壇上でのお言葉でしたが、それは決して組版を否定しているものではなく﹁組版、レイアウト・デザインを問う前にまず大事なのは原稿の質である﹂﹁よい原稿なくして、よい出版物はあり得ない﹂、そして﹁その原稿の質に対する責任の所在は、編集者にある﹂という、いわばご自身への戒めも含めた発言であったのでは・・・と思うのは私だけでしょうか。
質疑応答のなかで、質問者のいわれるところの﹁行の短縮に関わる原稿改変﹂に対する西井さんのご意見も、確かに少々乱暴なものであったかもしれません。しかし、あれも西井さんの意とするところは、﹁著者の確認なしに編集サイドが修正を加え、それを見落とす著者であれば、著者のレベルは所詮その程度である﹂というようなものでは決してないのではないでしょうか。著者も認める﹁キズのあるだろう原稿﹂を編集サイドに投げることによってその仕上がりを編集者に一任するという、著者と編集者とのあいだの信頼関係あっての発言であって、決して前者を後者が見下したようなスタンスでおっしゃられているのではないと、私はとらえました。
-->西井氏回答へ
まず原稿という質の高い材料がきちんとあること、そしてそのいい材料を見た目にも美しく、味よい仕上がりにするにはどうしたらよいか。そういうとらえかたは、西井さんにとっても、また組版、レイアウトを追求したり、書体デザインを追求する方々にとってもまったく同じといえるのではないでしょうか。
私は個人的に﹁グレーゾーン﹂という言葉、そして捕らえ方が好きではありません。なぜなら、この言葉は、私にとって﹁行が単なる文字の羅列﹂とイメージさせるからなのです。そういう意味で、私は西井さんのレジュメの4.には﹁目からうろこ﹂のような思いをさせられました。一行は、単なるグレーなラインではなく、一つひとつが意味をもった﹁言葉﹂の集合体なのです。
編集畑では、素人に近い分際で、いろいろと申し上げましたが、昨日、そして今日と、このメールを打たずして、一週間を爽快に過ごせないような気がしまして、勇気を出してメールしてみました。
のどかな日曜の午後に、呑気にとんちんかんな解釈をしていたらお恥ずかしい次第です。それも一参加者のつぶやきとして受け止めていただければ幸いに思います。
今後もこういったセミナーをぜひ続けてください。貴会は﹁日本語の文字と組版を考える﹂ということで、多言語の混植に対して、今一つ保守的な姿勢が見受けられますが、﹁所詮和文と欧文は違う性質のものだから・・・﹂とおっしゃらず、ぜひ多言語に対応した組版について考えていっていただきたいと思います。
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| 感想--02 おいしい印刷物 太田温乃・フリーランス執筆&編集 mz7a-oot@asahi-net.or.j 1999.04.19 この第13回セミナー「もう一度、組版」では、いろいろな立場のコメンテーターや参加者の意見が活発に交わされ、大変面白かった。ここ1年くらい考える会のセミナーに参加しているが、もっとこういった活発な議論があるといいと思う。 司会の質疑応答の進め方もよかった。 さて、今回のセミナーの中で、コメンテーターの西井さんが編集者の立場から、「なにより大切なのは文章の中身自体だ」という趣旨の発言をされた。まあ、わざと過激に極端に表現なさったのだとは思うが、写植やデザインを生業とする人の多い会場では、反論も強かったようだ。 同じ編集者の末席に連なる私はどうかというと、基本的にその意見に賛成である。 なんで賛成なのか、以下に理由を文章化してみたので、お送りします。 もともとは、まず伝えたい内容があった。それを印刷して読むときに、同じ作るなら読みやすく分かりやすいほうがいいということで、「組版」という技術が発達してきたのだと思う。 「自ら文章も書き、写真も撮り、イラストも描き、レイアウトも組版もこなす」私もそんな人になりたいとは思うが、理想はひとまず置くとしよう。現実には私自分の専門である文章以外は、お金を払って読んでくれる人に恥ずかしくないよう、ちゃんと各分野の専門家にお願いしている。 さて、内容(文章・図版・写真)とレイアウト(組版も含めて)の関係は、料理と盛り付けの関係に喩えられるのではないだろうか。 そこでは、文章・図版・写真などの素材=食材、料理=編集、盛り付け=組版やレイアウト、器=体裁を含めた印刷物としての本という位置づけが相当する。どんなにおいしい料理でも、紙皿にぞんざいに盛り付けたのでは食欲をそそらない。まずい料理であっても、立派な器に美しく盛り付けてあれば、ちゃんとした一皿に見える。だがしかし、一口味わってみれば、本当はどうなのかその価値はすぐに分かる(もちろん、その内容を求めている人にとっての価値ということでもあるけれど)。 食材を作ってくれるお百姓さん(生産者)に当たるのが、著者やカメラマン、イラストレーターで、料理人=編集者、盛り付けの専門家がデザイナーだ。慣れない家庭菜園で作っているような野菜の出来はお百姓さん(生産者)の作った野菜とは違う。そういった「顔の見える」プロの生産者からその日に使うぶんだけ直送してもらい、料理人が腕を振るい、盛り付け担当者がTPOや料理に相応しい盛り付けを行なう。十分な連携を計り、それぞれがプロとしてのベストを尽くせば、良いものが出来あがるだろう。 もしも、料理がまずかったときには料理人の責任になる(もしくは料理長=編集長、もしくは店長=社長)。だから、良い素材を手に入れて美しく盛り付けしたおいしい料理を作ろうと努力する。これは、プロとして当然の姿勢だと思う。腕の良い料理人が「自家製のアイスクリームに使いたいから、低温殺菌した本来のおいしさを活かした牛乳を分けてくれないか」と生産者と材料を選ぶように、優れた編集者もどんな原稿が欲しいのか、ちゃんと著者に伝え、またもらった原稿について気が付いたことをフィードバックするだろう。同様に盛り付けも「季節感を出したいから、カラフルで躍動的な盛り付けにしてほしいんだ」と、担当者にリクエストするだろう。もちろん、出来上がった料理を味見した生産者や盛り付け担当者は、素材の活かし方や料理の出来具合について、料理人にアドバイスをしたり文句を言う。しかし、その交換した意見をどう反映させるかは、最終的に各担当者の責任となり、それぞれの職分は尊重される。 なにより大事なことは、「どんな人にどんな時に出すどんな料理なのか」ということをちゃんとみんなが把握して、おいしい料理を作ろうと協力することではないだろうか。 |
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感想--01
第3回公開セミナーの感想
小形克宏・うさぱら有限会社 ogwata@pop11.odn.ne.jp
1999.04.19
セミナーの後半、西井一夫氏に質問したフリー編集者の小形克宏と申します。
言い足りないことはメールでとの司会者の仰せに従い、一言させていただきます。
組版などの“見てくれ”より、まず重要なのは原稿の中身と言う西井氏が、実は肝心要の原稿を自分勝手に改変することに、恬として恥じないということを引き出せたのは、我ながら三遊間を抜くクリーンヒット、ただしその後の氏の居直りともとれる﹁筆者に校正を見せているのだから、直したことを筆者は分かっているはず、判らないとすれば筆者が問題﹂という発言に思わず激昂しヤジってしまったのは、暴走してタッチアウトというところでしょうか。お恥ずかしい限りです。
ただ、僕の発言の真意は、実のところ西井氏を糾弾することだけにあるのではなく、編集者という立場の復権を訴えるものでありました。このことについて補足させてください。
過去何回かのセミナーで、僕は何度もデザイナーやオペレーターの方々の、悲鳴にも近い訴えを聞いてきました。安いギャランティ、早い納期、無茶な要求。今回も女性が発言されていましたね、文字をこう組んだのには理由がある、その理由も省みずに勝手気ままをするのは、もういいかげんにしてくれ。なかなか心に迫るものがありました。彼女の発言は同業のデザイナーに対するもののように僕には聞こえました。でも、編集者としての僕は、やはり以下のように思わざるをえないのです。﹁しかし、編集者は何をやってたんだ?﹂と。
これは、自戒を込めて言うのですが、現在のDTPの現場で起きている混乱のほとんどは、実は編集者がしっかりディレクションをしていれば回避されるべき性質のものではないでしょうか。予算の編成権をもっているのも、発売日の決定権を持っているのも、それからデザイナー、印刷所の発注をするのも、みんな編集者です。逆井さんは﹁この本をDTPソフトの開発者に読んで欲しい﹂と仰っていましたが、僕は編集者こそ必読と思います。なぜなら、編集者はオペレーターが組んだ文字を鑑定する能力が求められるからです。仕事を発注する人間が、自分の要求通りに仕上がったかどうか鑑定できなくては、存在意義を疑われかねません。
しかし、悲しいかな、過去何回かの公開セミナーを聞くと、もはやデザイナーやオペレーター、印刷所の現場の方々は、我々編集者に過大な期待を抱くのはやめ、編集者抜きでうまくやろうとしているかのようにも思えます。つまり信頼ゼロ。いやはや。
ここで話は西井氏に戻ります。あそこでの応酬で僕が問題にしたのは、﹁行の短縮に関わる原稿改変﹂でした。実はこれってどうってことない問題なんです。だって一言文字校に﹁ここをこう直せば1行短縮できますが、よいですか?﹂と書けばすむんですから︵それすら無用と言う西井氏は論外︶。むしろ我々編集者にとって一番の問題は﹁ここをこう直した方が絶対に良くなるんだけど、さてどうする?﹂ってことです。すなわち﹁内容に関わる原稿改変﹂。
プロのライターの書いた文章と言えども瑕疵はあります。締め切りにあせって書いた原稿ならばなおさらのこと。むしろそういう﹁キズ﹂がない原稿にお目にかかることの方が非日常、ってのが正直なところではないでしょうか。
﹁行の短縮に関わる原稿改変﹂すら筆者に無断でやる西井氏が、﹁内容に関わる原稿改変﹂を果たしてどうしているのかは、この際脇におきましょう。この場合、編集者がとる態度は、僕の知る限り3つあります。
1)筆者に無断で手を入れる。
2)そのまま入稿する。
3)筆者に断って変更する。
正直に申し上げます。僕はかつてさんざん(1)をやりました。お恥ずかしい。今となっては大バカ者ですが、実際の話、入稿は早くすむし、あとで文字校を見せても何も言わない筆者が大部分でした。しかしです、やがて心あるライターは離れてゆき、残ったのは﹁編集者がリライトしてくれるから、いーかげんな原稿でいーや﹂という人間ばかり。なによりこういうテキトーな編集者の仕事ぶりが一番見えているのはデザイナーなんです。僕がいくら注文を出しても﹁時間がない﹂だのなんだの言って対応してくれない。つまり﹁あんただって時間がないと言ってズルしてるんだろ﹂って訳です。ま、当然ですね。
遠回りかもしれません、でも結局は(3)しかないんです。自分がなぜこの文章に違和感をもったか相手に伝える。そして徹底的に話し合う。もちろんこちらの言うことに納得してもらえる時もあれば、そうでない時もある。でも、その綱引きのなかで信頼感が醸成されます。なによりも、こうすることで相手を尊重しているんだ、ということがわかってもらえる。同じ姿勢をとることによってデザイナーやオペレーターの信頼も得ることができます。
僕よりもはるか年上の西井氏が、僕が悩みに悩んできた問題を無神経な手つきでないことにしようとした時、僕はキレてしまった訳です。﹁文字校を出せば許される﹂って論理は、今の世で葵の印籠を振りかざすようなもんですよ。だれもそんなウソ信じないっつーの。氏のような頭ごなしの態度をとっている限り、編集者以外のポジションの人々の信頼は得ることができず、編集者は軽んじられ、したがって現在の出版業界を覆っているDTPの現場の混乱は収まらない。かように愚考するものであります。
西井氏の反論を待つ、って本来するべきだけど、声ばかり大きいあのオヤジと話してもなあ……。むしろ僕と同業者の方々の意見をお聞きしたいです。みんな、どうしているわけ!?
-->西井氏回答へ
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| 『基本 日本語文字組版』について 道広勇司・(株)新技術コミュニケーションズ 編集部 1999.04.15 ●●●セミナーの感想を加えてV.2を送ってもらいました。感想--06にして掲載しました(編集部) |