First updated 09/20/1996
Last updated 04/03/2024
渋谷栄一校訂(C)
花散里
[凡例]
定家本﹁花散里﹂︵﹃源氏物語︵青表紙本︶ 花散里﹄原装影印古典籍覆製叢刊 昭和53年11月︶を底本とし、本文整定した。
[主要登場人物]
光る源氏︵ひかるげんじ︶
呼称---大将殿︵二十五歳 参議兼右近衛大将︶
花散里︵はなちるさと︶
呼称---三の君︵麗景殿女御の妹 源氏の恋人︶
麗景殿女御︵れいけいでんのにょうご︶
呼称---麗景殿、女御︵故桐壺院の女御︶
惟光︵これみつ︶
呼称---惟光︵源氏の乳母子︶
(一)花散里訪問を決意---人知れぬ、御心づからのもの思はしさは
(二)中川の女と和歌を贈答---何ばかりの御よそひなく、うちやつして
(三)姉麗景殿女御と昔を語る---かの本意の所は、思しやりつるもしるく
(四)花散里を訪問---西面には、わざとなく
光る源氏の二十五歳夏、近衛大将時代の物語
︻定家注釈︼
︻校訂付記︼
花散里の物語
[第一段 花散里訪問を決意]
人知れぬ、御心づからのもの思はしさは、いつとなきことなめれど︵校訂01︶、かくおほかたの世につけてさへ、わづらはしう思し乱るることのみまされば、もの心細く、世の中なべて厭はしう思しならるるに、さすがなること多かり。
麗景殿と聞こえしは、宮たちもおはせず、院隠れさせたまひて後、いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿の御心にもて隠されて、過ぐしたまふなるべし。
御おとうとの三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れも果てたまはず、わざとももてなしたまはぬに、人の御心をのみ尽くし果てたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには、思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ。
[第二段 中川の女と和歌を贈答]
何ばかりの御よそひなく、うちやつして、御前などもなく、忍びて、中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、よく鳴る琴を、あづまに調べて、掻き合はせ、にぎははしく弾きなすなり。
御耳とまりて、門近なる所なれば、すこしさし出でて、見入れたまへば、大きなる桂の木の追ひ風に、祭のころ思し出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、﹁ただ一目見たまひし宿りなり﹂と見たまふ。ただならず、﹁ほど経にける、おぼめかしくや﹂と、つつましけれど、過ぎがてにやすらひたまふ、折しも、ほととぎす鳴きて渡る。もよほしきこえ顔なれば、御車おし返させて、例の、惟光入れたまふ。
︹源氏︺﹁をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎすほの語らひし宿の垣根に﹂
寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、おぼめくなるべし。
︹女︺﹁ほととぎす言問ふ声はそれなれどあなおぼつかな五月雨の空﹂
ことさらたどると見れば、
︹惟光︺﹁よしよし、植ゑし垣根も﹂
とて出づるを、人知れぬ心には、ねたうもあはれにも思ひけり。
︹源氏︺﹁さも、つつむべきことぞかし。ことわりにもあれば、さすがなり。かやうの際に、筑紫の五節が、らうたげなりしはや﹂
と、まづ思し出づ。
いかなるにつけても、御心の暇なく苦しげなり。年月を経ても、なほかやうに、見しあたり、情け過ぐしたまはぬにしも、なかなか、あまたの人のもの思ひぐさなり。
[第三段 姉麗景殿女御と昔を語る]
かの本意の所は、思しやりつるもしるく、人目なく、静かにておはするありさまを見たまふも、いとあはれなり。まづ、女御の御方にて、昔の御物語など聞こえたまふに、夜更けにけり。
二十日の月さし出づるほどに、いとど木高き蔭ども、木暗く見えわたりて、近き橘の薫りなつかしく匂ひて、女御の御けはひ、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうたげなり。
︹源氏︺﹁すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、むつましうなつかしき方には思したりしものを﹂
など、思ひ出できこえたまふにつけても、昔のことかきつらね思されて、うち泣きたまふ。
ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。﹁慕ひ来にけるよ﹂と、思さるるほども、艶なりかし。﹁いかに知りてか︵付箋01︶﹂など、忍びやかにうち誦んじたまふ。
︹源氏︺﹁橘の香をなつかしみ︵付箋02︶ほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
いにしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るることも、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人、少なうなりゆくを、まして、つれづれも紛れなく思さるらむ﹂
と聞こえたまふに、いとさらなる世なれど、ものをいとあはれに思し続けたる御けしきの浅からぬも、人の御さまからにや、多くあはれぞ添ひにける。
︹女御︺﹁人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ﹂
とばかりのたまへる、﹁さはいへど、人にはいとことなりけり﹂と、思し比べらる。
[第四段 花散里を訪問]
西面には、わざとなく、忍びやかにうち振る舞ひたまひて、覗きたまへるも、めづらしきに添へて、世に目なれぬ御さまなれば、つらさも忘れぬべし。何やかやと、例の、なつかしく語らひたまふも、思さぬことにあらざるべし。
かりにも見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも、﹁ことわりの、世のさが﹂と、思ひなしたまふ。ありつる垣根も、さやうにて、ありさま変はりにたるあたりなりけり。
︻定家注釈︼
底本‥定家本の付箋注記を記載した。
付箋01 いにしへのこと語らへばほととぎすいかに知りてか鳴く声のする︵古今六帖2804︶
付箋02 橘の香をなつかしみほととぎす語らひしつつ鳴かぬ日ぞなき︵出典未詳︶
︻校訂付記︼
底本‥定家本の本行本文の訂正跡に従った。
校訂01 なめれど--な︵+め︶れと
源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
定家自筆本
大島本
自筆本奥入