2012年6月 目次
オトメンと指を差されて (48) 大久保ゆう
製本かい摘みましては(79) 四釜裕子
〈緑泥石〉詩学92――伝説 藤井貞和
シリア騒乱と難民 佐藤真紀
十五年前、四十年前。 仲宗根浩
しもた屋之噺(125) 杉山洋一
母の日オメデトウ 若松恵子
1960年代のジャワ宮廷舞踊の録音 冨岡三智
写真を撮りに行ってジーパンを買う話 大野晋
アジアのごはん(47)塩麹と消えたタケノコ 森下ヒバリ
犬の名を呼ぶ。 植松眞人
犬狼詩集 管啓次郎
皐月のまぼろし 璃葉
オチャノミズ(その1) スラチャイ・ジャンティマトン
掠れ書き19 高橋悠治
オトメンと指を差されて︵48︶ 大久保ゆう
わたくしがいつも妄想をたくましくしているモノのひとつに、︿翻訳村﹀というものがあります。 翻訳の歴史のなかでは、そのときそのときで翻訳者が集まっている︿場所﹀がとっても重要なものとしてあったり致しまして、たとえば江戸末期の 長崎とか中世スペインのトレドとか、あるいは紀元前のローマに唐代の長安、はたまたアッバース朝のバグダードから古代アルメニア王国のヴァガ ルシャパトに至るまで。 実際に存在するのはギルドだったり機関だったり学校だったり施設だったり色々なのですが、いずれも、おおぜいの翻訳者のいるところ、何かしら の文化が準備され、その仕込みがのちの熟成につながるという例です。 そういったものを範にした︿翻訳家コレギウム︵コレージュ︶﹀というものもある国にはあって、ある国の本を訳したい人がその国の翻訳家向け施 設を訪れて滞在して、備え付けられてある資料や辞書などを利用したり、他に留まっている同業者と交流したり、そういったことの便宜を図るもの で――そもそもはそのようなものが日本にもあればいいな、というのが妄想を支える理由のひとつ。 とはいえただ単なる施設では規模も小さくて影響力もあれなので、もうひとつ。ただいま様々なところで村おこしとか特区とかが考えられておりま すが、そういう手として、今後は︿翻訳﹀に特化させていくこともありえるのではないだろうか、と。国内の翻訳者が住み、海外の翻訳者も気軽に 訪れて仕事ができるようなところ、そういったところとして︿村﹀ってありえないかな……と。 それもそれも、そこが︿温泉﹀だったりなんかすればもっといいんじゃないかなって。集まるにしても、何かしら日本らしいところの方が惹きつけ られるんじゃないかな、などと考えてみると、昔から文士と温泉はこの島の文芸と密接な関わりがありますし、特色があれば海外からも人を呼び込 みやすいかなと。これからやれ国際化だグローバルだなどと言われておりますが、それならばやはり翻訳も振興されてしかるべきでして、そういっ た基点となるべく︿翻訳温泉村﹀なんかがあれば面白いんではないかなとわたくしは思うわけですよ。 翻訳家の住まいと滞在先、充実した図書館と翻訳学校――そこでは一週間の翻訳体験などもでき、かつての翻訳家を顕彰する施設もあっていいかも しれません。学会やシンポジウム、一般向けのイベントもできる講堂も必要かも。観光地になるのかどうか、という疑問に対しては、すでにホーム ズ訳者の延原謙のゆかりから軽井沢に像が建てられており、赤毛のアン訳者の村岡花子の記念館もありますから、前例がないわけではありません。 もし本当に日本に︿翻訳文化﹀なんていうものがあって、この国のあり方を指し示しているのだとしたら、そういうものを凝縮した場所だったりそ れだけを研究する機関があったりしていいと思うんですけどね。 しかしながら実現には高度に政治的な振る舞いとそこはかとない計画が必要でしょう。具体的に考えると、まず少数の翻訳家グループが個人または 集団である温泉街を定宿にし、そこで翻訳をしたり仲間内のイベントなどをしたりし、翻訳者特有のお願いなどを宿にお願いしたりして徐々に認知 され、そしてそのうちのひとりがにわかに売れたり名声を得たりなどして温泉街のことをエピソードとして語り業界内に周知させ、温泉街に翻訳あ りきの機運を盛り上がらせた上で、さらに人を呼び込み、そこから地方自治体などの予算で施設を作り、翻訳者はおのれの成果物をそこへ寄贈する ことで宿泊などお得な割引が…… と、ここで自分が自分に反論。 この妄想には問題点があります。まず第一にいかんせん昭和的であるところ。そもそも21世紀にもなって翻訳者の集うところというのが地理的に 存在するところでいいのか、という疑問。普通に考えるなら、21世紀の歴史に刻まれるべきところとしての︿翻訳者の居場所﹀はインターネット の方が面白いはず︵早くネット上のPD和訳のリンク集欲しい︶。 あと翻訳者︵翻訳志望者および翻訳ファン︶は果たして村の経済を支えるほどの人口があるのか。 プラスお前が温泉入りながら訳したいだけじゃねえか。 はい論破されましたおわり︵妄想も終わり︶。
製本かい摘みましては︵79︶ 四釜裕子
銀座線の新型車両1000系に遭遇した。車体は昭和2︵1927︶年開業時の1000形を模したレモンイエロー色のシートをフルラッピングし てあり、内装は明るい。開業時に通ったのは浅草駅から上野駅まで。引越しして最寄り駅となった稲荷町はその間にあって、今も入口壁面に﹁地下 鉄﹂の大きな文字が残る。この駅のつくりはほぼ当時のまま、浅草通りから降りる階段はせまく、地上の広々とのギャップが可笑しい。 銀座線で日本橋、東西線に乗り換えて九段下、千鳥ヶ淵を歩く。目的のギャラリーに向かったらフェアモントホテルの跡地だった。ホテルが出して いた﹁桜が咲きはじめました﹂の新聞広告は閉館してから千代田区が引き継いだようだが今年も出ていたのだろうか。5月も末、桜は黒く緑。跡地 はすごいマンションになっていて、1階が﹁ギャラリー册・千鳥ヶ淵﹂だった。通り一面のガラス張りの奥に3人の製本家と1人の箔押し師による 展示﹁森羅万象ミクロコスモス ―ルリユール、書物への偏愛 Les fragments de M の試み﹂がみえる。 それぞれの作家の作品はこれまでもみてきたが今回は別、﹁Les fragments de M﹂と名づけたユニットとしての活動表明だ。個々の作品の展示のほかに、ユニットとして注文に応える用意が示されている。注文制作は本の内容により依頼主 の好みにより予算により制作者の技術とセンスによりどんな風にも仕上がる。しかしそれはあまりに当たり前で、初めて出会う依頼主と制作者がそ の曖昧を緊張に変えて契約を交わすのは稀なことだろう。﹁稀﹂にしびれをきらした4人が、その原因を自分たちに課して出た。 会場の一番奥にクラシックなスタイルでパッセ・カルトンされた本が並ぶ。革と紙が幾種類も用意されている。それぞれ選び、革の使い方によって 総革装ジャンセニスト/半革両袖装/半革額縁装/半革角革装から選び注文できる。総革装16万、半革装10万円。なるほど。紙はほかにもあ る? 革の色はもうちょっと薄いほうがいいんだけど。本の内容をイメージしてモザイク入れてもらえる? これを前に互いに言葉を交わすうち、 ﹁曖昧﹂の花びらがめくれることもあるだろう。 暮れた千鳥ヶ淵を歩いて戻る。玄関にウツギの花びらが落ちている。芍薬は綿飴みたいになっている。ルリユールに趣味未満でなついている私とし ては言いにくいのだけれど、ルリユールを趣味で楽しむものの“憧れに囲まれる”のを拒否した展示だと思った。わたしたちはこんなに製本や箔押 しに夢中になっていていいのだろうか。悪いとわれても夢中でいる場所をみつけなくては。わたしたちを求めるひとはいるのだろうか、待っている テクストはあるのだろうか。いるよね、あるよね。どこにいる? どこにある? 会場は静かだが、強いミストを浴びた。展示は6月9日まで。日 曜月曜休廊。︿緑泥石﹀詩学92――伝説 藤井貞和
1960年代のジャワ宮 廷舞踊の録音 冨岡三智
今月は﹁ジャワ舞踊家列伝﹂をお休みして、先月オランダで聞いた、ジャワ宮廷音楽の録音について書きとめておきたい。 オランダに行ったのは、ヘルシンキ演劇アカデミーTheatre Academy Helisinkiで開催された、アジアのアートとパフォーマンスについてのシンポジウムで発表したあとのついでである。欧州に行ったのは初めてなので、 ここまで来たからにはオランダにも数日足をのばしてみようと思ったのだった。一番の目当てはライデン大学横にあるKITLV︵王立オランダ東 南アジア・カリビアン研究所︶。 ここで、1963-64年に録音されたジャワのスラカルタ宮廷舞踊の録音を見つけ、コピー不可というので、2日間必死で全部聞く。スリンピ ︵4人で舞う女性宮廷舞踊︶では﹁ラグドゥンプル﹂、﹁サンゴパティ﹂、﹁ガンビルサウィット﹂、﹁アングリル・ムンドゥン﹂、ブドヨと︵9人で舞う女性宮廷舞踊︶では﹁ドロダセ﹂がある。 このときの録音プロデューサーの1人がティルトアミジョヨとなっている。バティック芸術家の故イワン・ティルタのことだ。ティルトアミジョヨ はコーネル大学に留学し、そこからインドネシアへと向かって、1963年にブドヨ・クタワンの調査をし、その報告を1967年にコーネル大学 発行の雑誌﹃インドネシア vol.3﹄に書いている。ちなみに、このイワン・ティルタにくっついて入ったのがベネディクト・アンダーソン で、﹃想像の共同体﹄におけるジャワの権力観の考察で、ブドヨが取り上げられているのはそういうわけなのだ。以前、来日したアンダーソンにこ の調査の経緯を聞いたら、﹁ブドヨ・クタワン﹂という舞踊があるという情報はイワン・ティルタが聞きつけてきたとかで、彼がスラカルタ宮廷で いろんな許可を取りつけてくれたので、自分は何も分からないままに彼にくっついた入っただけだと、話していた。 生前のイワン・ティルタからは、﹁ブドヨ・クタワン﹂以外に、﹁アングリル・ムンドゥン﹂の録音もしたという話を、私は聞いていた。事実、雑 誌﹃インドネシア vol.3﹄に﹁アングリル・ムンドゥン﹂についてのレポートも掲載されている。︵ちなみにその執筆者が、この録音のプロデューサーの1人。︶しかし、そ の他にも録音したという話は聞いていなかったので、これは嬉しいサプライズである。もっとも、彼らが調査に入ったときの﹁ブドヨ・クタワン﹂ の演奏がなかったのは残念だが…。 一部のCD盤には、宮廷での日曜の定期練習の時に録音したものだとメモ書きされているが、実はこの情報は図書館の目録には書かれていない。録 音には音楽や歌などを指示する声も入り、リラックスした雰囲気が伝わってくるから、どの録音も練習のときに行われたと思う。当時の宮廷音楽 リーダーはワルソディニングラットと目録にある。あのガムラン音楽伝書﹃ウェド・プラドンゴ﹄を書いた人である。 さて、その録音についてだが、わざわざオランダに来て、録音を聞いた甲斐あって、テンポが遅いことを発見!たとえば、﹁ドロダセ﹂の前半、グ ンディン・クマナ編成で演奏されるペロッグ音階の部分だが、現在の宮廷の録音CD︵キング・レコード、KICC 5193︶では1ゴンガン︵大ゴングの音で区切られる1周期︶の速さがだいたい22〜23秒なのに対し、この1963年の録音では30秒なのだ。 この結果に私は半分は驚いたけれど、半分は予想通りだった。というのも、私は、宮廷舞踊の振付を本当に踊り込むには現行の宮廷のテンポでも速 いと思っていたからなのだ。だから、私は2006年に﹁スリンピ・ゴンドクスモ﹂の完全版をスラカルタで上演したときに、敢えて、私が振付に ふさわしいと思えるスピードで上演して︵この公演については、水牛2007年4月号、5月号を参照。特にテンポについては、5月号に書いてい ます。︶、演奏者側からも、他の舞踊家からも、そして観客として来ていた音楽家や舞踊家たちからも一様にテンポが遅いと批判された。けれど、 この時の﹁ゴンドクスモ﹂の録画をいま見直して、﹁ドロダセ﹂同様にグンディン・クマナ編成で上演される部分の速度を計ってみたら、1ゴンガ ン27〜28秒だった。なんのことはない、1963年の演奏より、まだちょっと速いではないか!もっとも、この時、太鼓奏者︵私の太鼓の先生 でもある︶は私の好みのテンポよりもちょっぴり速めに叩いたので、上演後に﹁ごめんね﹂と言ってくれた…。というわけで、この6年前の公演で の私の解釈は間違っていなかったことになる。 現在の芸大スラカルタ校においては、宮廷音楽の演奏に関しては、マルトパングラウィットの教えが指針となっている。たぶん、スラカルタ宮廷で もそうだろうと思う。彼は、1969/70年から始まるスラカルタ宮廷舞踊の解禁――PKJT︵中部ジャワ芸術発展プロジェクト︶という国の プロジェクトの中で解禁された――の頃には宮廷音楽家のリーダーになっていて、重要な役割を果たした人で、ワルソディニングラットよりも若い 世代である。 今回のオランダ滞在で、かつてマルトパングラウィットに音楽を習ったことがあるという人にも会って話を聞いたのだが、マルトパングラウィット は、スリンピやブドヨは戦いの舞踊なのだから、テンポは本来速くなければならぬという解釈の持ち主だったらしい。彼は、戦いの切迫感や臨場感 を音楽で表現したかったのだろうが、舞踊の振付から見ると、そこまで戦いらしさを表現する必要もなかろうと、私は思う。 スリンピやブドヨには、戦いのシーンがある。ほぼ全部の作品にピストランというピストルで撃ち合うシーンがあり、また、パナハンという弓で射 合うシーンがあるものもある。とはいえ、それらは、振付上の、取り合えずの枠組みに過ぎない、と私は思っている。一定の時間の流れの中で、踊 り手の身体が何かを表現するには、ストーリーというか、何らかの展開の枠組み︵起承転結とか序破急とか︶が必要だ。それが、﹁ラーマーヤナ﹂ などといった既存のストーリーに大きく乗っかれば舞踊劇となるけれど、その枠組みがより昇華・抽象化されると、﹁戦い=2つの異なるものの葛 藤・対立、再統合・融合﹂だとか、﹁人が生まれてから死ぬまで﹂とか、﹁人はどこから来てどこへ行くのか﹂に収れんされていくのだろう。今挙 げたような抽象的なテーマは、ジャワ芸術特有の哲学であるかのようによく言われるけれど、実は、意外に他の地域の舞踊や芸術でも言われている ことで、つまり、舞踊という芸術が表現しやすいテーマの普遍的・根源的枠組みなんだと、私は思っている。 要は、スリンピやブドヨは、これは戦いですよということを説明的に描写するものではなくて、戦いというメタファを借りて、﹁何か見るに値する もの﹂を表現する舞踊だと思うのだ。その何かとは、ジャワ舞踊の場合、敵と向き合ったときの緊張感というよりも、自己に向き合っているとき の、静止した時間︵それほどにゆっくりと流れる時間︶の中にある緊張感ではないかなと、振付を見る限り、思う。遅いテンポだから緊張感に欠け ると、マルトパングラウィットは思ったかもしれないが、そうとは限らない。能など、おそろしくテンポが遅いが、誰も、緊張感に欠ける芸術だと は思わないだろう。ゆったりしたテンポは、ある瞬間をクローズアップするような効果を生み出すこともあり、またこの世と違う次元の時の流れを 作り出すという働きもある。スリンピやブドヨでは、魚のように身体がうねるような動きが多い。そんな動きを十分に発揮させるためには、それな りにゆったりとした音楽のテンポを生み出すことが必要だ。でないと、舞踊が、追い立てられて行う体操のようなものになってしまう。 マルトパングラウィットが生きていたら、そんなことを訴えたかったなあと思う。 私が2006年の公演をした時に、﹁この公演のイラマ︵※テンポのこと︶は多数派とは言いがたいけれど、こういう可能性もあって良いと思っ た。自分たちは、マルトパングラウィットの教えを指針にしているけれど、そこに︵従来になかった︶彼独自の解釈が入っていなかったと断言する ことはできないのだから。﹂と言ってくれた人がいて嬉しく思ったと、水牛︵2007年5月︶にも書いた。でもこういうことを言ってくれる人は 例外的である。あのとき、公演の場に居合わせたすべての人に、この録音を聞かせたいなあ、と思う。こういう風にテンポを解釈することも有りな んだよ︵というか、実際にしていたんだよ︶と、録音を聞けば信じてもらえるだろうから…。
写真を撮りに行ってジーパンを買う話 大野晋
ゴールデンウィークは久しぶりにカメラを片手に撮影旅行としゃれ込んだ。 と、旅行に出たまでは良かったが、あいにくの雨模様。しかも、行った先の信州はまだ雪解け直後で撮影どころではない。結局のところ、県内 をあちらこちらに飛び回ることとなった。しかも、後で写真を整理してみると2010年からのデータが一切ない。どうやら、2年ぶりの撮影 旅行ということらしい。 まあ、どこにいるのか見当のつく場所をあちこち歩くのだから楽しむ対象はたくさんある。北信がだめなら南信、南信が雨なら東信と信州をさ 迷い歩くが、行く場所にはついぞ困らなかった。しかし、卒業からそろそろ30年になると思うといろいろと考えるものもある。まあ、人も場 所も、もちろん私も変わっている。そんな今を記録するという作業も、もちろん、写真撮影はかねている。さて、再開した撮影旅行。次はどこ に行こうか?まず、週末に箱根だな。 ちなみに、信州の安曇野で雨に降られるとジーパンを買うジンクスがある。今回もいつものお店で、ジーパンとなぜか味噌ポン酢を購入した。 これはこれで、いい買い物だった。
アジアのごはん︵47︶塩麹と消えたタケノコ 森下ヒバリ ﹁塩麹に漬けていたタケノコが消えた!﹂と友人からメールが届いた。茹でたタケノコの根元の固いところを、薄く切って炒め用などのために塩麹 をまぶしておけば、おいしくなって保存も効いて一石二鳥・・と彼女に教えたのはわたしである。 だれかが食べたんじゃないのかとか、自分で使って忘れたのじゃないかと、いろいろ疑ってみたが、がんとして漬けて3~4日で﹁溶けて消えた﹂ とおっしゃる。うちの冷蔵庫にしまってある塩麹漬を取り出してみると、タケノコの姿は健在である。彼女はどうも薄く切りすぎたようでは、あ る。もしや彼女の家には特殊な分解酵素を持つ特殊な菌でも繁殖しているのかしらん。 で、それから1週間ほどたって、塩麹タケノコを炒めものに使おうと、ジップロックの口を開けると、かすかなセメダイン臭がする。仕込んでから ひと月近く一度もあけていなかったので、大丈夫かと味見しようとすると、いちおうタケノコの薄切りの形を保っていたそれは、つかもうとする と、あっけなくとろとろに崩れてしまった。 ﹁と、溶けてる・・﹂先月、大量に掘りたてのタケノコをもらい、1日かかって茹でた。それから毎日、タケノコの煮物やタケノコご飯にして食べ ていたが、固いところの保存方法として薄切りにして塩麹をまぶしてジップロックして冷蔵庫にしまっておいたのである。 豆腐や茹で卵に塩麹をまぶしてひと月保存しておいても、溶けるというようなことにはならない。むしろ、脱水されて固く締まるとか、チーズみた いになるのだが、タケノコにはいったいどういう化学変化が起こったのであろうか。 どろどろのタケノコと塩麹とを掻き回すと、塩麹タケノコソース、とでも呼びたくなるようなどろどろのものができた。なめてみると、かなり臭い が、けっこうおいしい・・ような気もする。けして腐敗はしていない・・が、くさやの干物も苦手なヒバリは、秘密の調味料として使うのはやめて 捨てた。ああ、タケノコさんごめんなさい。 1月の終わりに、まだ少し残っていた塩麹をビンに入れたまま冷蔵庫に放置してタイとインドの旅に出たのであるが、3月末に戻ってきて、料理を しようとビンのふたをぱかんと開けたところ、激臭が鼻を突いた。﹁な、なんでセメダイン!?﹂その刺激臭、まるでセメダインそのもの。セメダ インというのは昔からある接着剤で、今ではあまり臭くないものもいろいろあるようだが、わたしが子供のころの製品はすべて有機溶剤の臭い、つ まりはシンナー系の臭いがしたものである。 どういう化学変化かと恐る恐るなめてみると、味はいい。化学薬品に変わったわけではないらしい。その後、料理に使ってみたが普通の塩麹と同じ であった。麹が発酵するときに出る香り成分に、シンナーを思わせるような香りの成分が少量あるのだろう。塩麹を長期保存する場合は、密封する より、時々かき混ぜて空気抜きするほうがいいようである。実山椒をみりんに漬けておいて、バラの香水のような香りのみりんを作ってしまったこ ともあるが、いやはや香りの成分というのは奥が深い・・。 とにかく、いまや塩麹はわが家の食卓に欠かせない調味料である。シンナー塩麹がなくなったので、そうだ、やっぱりいい麹を使うともっとおいし いかも、と無農薬有機米の麹を探して、それで塩麹を仕込んでみると大変おいしくできた。それから、いっきに塩麹の消費量が増えた。一番よく作 るのは、やはり豆腐の塩麹漬けであろうか。水を切り、食べやすい大きさに切って塩麹をまぶして、タッパーなどに入れて冷蔵庫に入れる。漬けて 一晩で食べてもいいし、何日おいておいてもいい。そのまま食べてもいいし、すりつぶしてクリーム状にして、白和えやサラダのトッピングなどに 使ってもコクがあっておいしい。 塩麹料理のコツは、塩麹の塩加減を覚えてしまうことにある。醤油やみその使い方ならほとんどの人が、どれくらいかけたら塩加減がちょうどいい か体感しているはず。塩麹を何度も試して、これぐらい使えば、しょっぱさはこれぐらいと感覚で覚えてしまえば、あとはもう料理の幅がぐーんと 広がる。 ちなみに今晩のメニューは﹁塩麹豆腐とアンチョビのカルボナーラ風フィットチーネ﹂でした。フィットチーネはちょっと平べったい、細めのきし めんのようなパスタ。にんにく、唐辛子、新玉ねぎの薄切りをアンチョビの浸かっていた油で炒めておき、パスタがもうすぐ茹であがるころになっ たら、塩麹豆腐、アンチョビを刻んだもの適量をさきに炒めていた玉ねぎの入った中華鍋に投入し、鍋の中で適当に豆腐をつぶしておく。 ロケットがあったのでちぎって入れ、バジルペーストもちょっと入れ、そうこうするうちに茹で上がったパスタを鍋からひきあげて、鍋に加え、オ リーブオイル、黒胡椒を足して全体を和える。味を見て、塩かナムプラーを加える。 ソースを別に作っておいて、パスタの上に乗せるほうが見た目はきれいかもしれないが、ソースを作った鍋の中で麺と和えるほうが、味が万遍なく 混ざって、断然おいしい。塩加減が足りない時に、塩麹を入れてもいいが、ここはナムプラーで調整するほうがすっきりまとまると思う。好みでレ モン少々を絞るとさらにすっきり。 先日、解凍した麹が少し残ったので、どうしようかな〜と冷蔵庫を開けたらそこに前日のお粥の残りがあった。麹の残り+お粥の残り、これは甘酒 を仕込めというお告げだろうか。お粥というのは弱った時に食べるもの、とヒバリはずっと思ってきたが、京都人の同居人にとってはごく日常的な ごはんの形態であるらしい。京都人には朝にご飯を炊いて、おひつに入れ、夜はその残りをお粥にして温めて食べたという、保温機能付き炊飯 ジャーのない平安時代︵1日2食︶からの風習がいまだにあるのか・・。朝粥を食べる和歌山県などは、夜にご飯を炊くのかな。 平安時代の風習ではないが、うちには炊飯ジャーがない。どうもあのプラスチックの塊のような存在がイヤでたまらず、所有したことがない。ご飯 はいつも圧力鍋か土鍋で炊く。炊飯ジャーの保温機能があれば、甘酒はいとも簡単にできるらしい。麹から甘酒を作るには、50度くらいの温度を6時間ほど保ってやらねばならないという。60度以上になると麹菌は死んでしまうのだ。 そういえば、共同購入の宅配の発泡スチロールの箱があったし、湯たんぽもあるじゃないか・・。温度はカンでやってみることにした。指を入れて3回ぐるぐる掻き回せるぐらいはがまんできる熱さが50度~60度らしい。 ということでお粥を温め、麹と混ぜる。湯たんぽにお湯を入れて箱に入れ保温。1時間後、温度はどうかとふたを開けると。むあっとかなりの蒸し ぶろ状態。麹のほうは、容器の中でぶくぶくと発酵中。ちょっとなめてみると、なんとすでに甘い。ミラクル! 一回湯たんぽのお湯を入れ替え、6時間ほどで食べ物のような飲み物のような、不思議な感じの甘酒ができた。甘さは飲むときに好みの甘さまで薄 めればいい。冷やしておいて、朝起きて小さなコップに一杯、おやつに一杯、デザートに一杯、とちょこちょこ飲んでいるうちに甘酒はあっという 間になくなった。 自然な甘さで、コメの粒をかみしめながら、ゆっくり食べるような飲むような甘酒。甘酒を1日何回も飲んでいた間、なにか体も心も元気だった。 甘酒にはたくさんの酵素とミネラルが含まれているというが、その効果なのかも。夏バテにもいいというし。また作ろうっと。 塩麹といい甘酒といい、麹はほんとうにおいしくて、楽しい。麹ラブ!
犬の名を呼ぶ。 植松眞人
かわいですね、と声をかけられるのが鬱陶しい。子供から年寄りまで、男も女も、誰も彼もが﹁かわいい、かわいい﹂と声をかけてくる。 たしかにこのバカ犬はまだ生後半年で大きくなる犬の子犬特有のバランスの悪さがあり妙に人の心をくすぐるようにできている。しかし、大の大人 が、しかも薄っらひげをはやしたようなオッサンまでもが﹁かわいい﹂をばかのひとつ覚えのように繰り返す気持ちがわからない。 いつから男の語彙の中に﹁かわいい﹂という言葉が追加されたのだろう。もともと﹁かわいい﹂なんて言葉は女子供の使う言葉だったじゃないか。 小津安二郎の映画の中で、笠智衆が﹁かわいい﹂なんて言っているのを聞いたことがない。 そんなことを考えながら高原は、無理矢理に娘が置いていったゴールデンレトリバーの子犬のリードをぐいっと引いた。 子犬は目の前の花の匂いを嗅ごうとして引き戻されて、少し不満気に高原を振り返る。いっちょ前に文句があるのかと思うと、もう独立して家を出 た娘と息子の幼い頃の顔を思い出して笑ってしまう。 今年で四十になる娘は﹁ボケ防止にペットはいいらしいよ﹂と理由を付けて突然この犬を我が家へ放り込んでいった。そう言いながら、どうせ知り 合いのところで生まれたかした子犬を見ているうちにどうしても欲しくなり、そのくせ散歩や毎日の世話を放棄したくてここに連れてきたのに違い ない。 隣の町に住んでいるのに年に数回しか顔を見せなかった娘だが、犬を連れてきてからは週に一度孫と一緒にやってくるようになった。孫を子犬と遊 ばせて、携帯電話で写真をパシャパシャと賑やかに撮ると、﹁晩ご飯の支度があるから﹂と帰っていく。 そんないきさつだから、高原も最初の一週間は犬をどう扱って良いのかもわからずに、おっかなびっくりの時間を過ごしていた。朝、散歩に出かけ ても、犬の行きたい方にばかり進んでしまい、いつまで経っても家に帰れなかったりもした。 妻は娘と一緒で飽きっぽく、娘が来たときにだけ思い出したように﹁かわいい、かわいい﹂と犬をなでまわす。最初の二日は高原と並んで散歩にも 出かけたが、あっちにふらふら、こっちにふらふらする先の見えない散歩に嫌気が差したのか付いてこなくなった。いまでは犬の世話は高原の仕事 と決まってしまっている。 ゴールデンレトリバーの子犬の名前は娘と孫が付けた。なんでも、いま流行の若いアイドルグループの女が飼っている犬と同じ名前なのだそうだ。 舌をかんでしまいそうな名前をふいに提案され﹁それでいいでしょ?﹂と同意を求められたが、まさか自分が犬の名を呼びながら散歩に行くことな ど考えもしていなかったので﹁すきにしろ﹂と素っ気なく答えたのがいけなかった。こんなことになるのなら、ポチとかチビとか、人前でも呼べる 名前にさせるのだったと後悔している。 犬の方では名前など気にしてはいまいと、散歩に出たときに﹁チビ、チビ﹂と呼んでみたのだが、立ち止まりも振り返りもしない。そのくせ、たま にしか来ない孫が﹁ブリオッシュ!﹂と叫ぶと一目散に走って尻尾をちぎれんばかりに振る。ブリオッシュは、断じて犬に付ける名前ではない。
犬狼詩集 管啓次郎
61 二人のどちらがより立派に食事をするかが娘たちの賭けの対象だった 数年も腐らないマージャリーンがパンに分厚く塗られる 透明な坂道の甃石としてキウィとグアヴァが選ばれた 透明な鳥たちが芳香と判断する匂いが町をみたす 個体の識別には消えない署名が必要だった 鮫の歯を上手に利用してそれで墨を入れる 椅子と椅子のあいだでみずからの背中を橋とした きわめて幾何学的なデザインだがそこにも血が流れている 四月の夕方が鈍く重く曇った 筆圧の重圧にカモメが低く飛ぶことがある 長い首をした鳥が狐の腹にくちばしをさしこんだ 痛みと音がむすびつかないようガラスを舐めてゆく 指の一本一本に蒔絵の唐草紋様をつけていった 粉骨という作業もあるとマニュアルには書かれている 視覚を触覚に翻訳するスーツで2hの訓練を受けた 所有の解消のためにもぐらたちが見えない署名を集めている 62 Animaliaは地名ではないがあえて地名のように捉えていた その土地を走り回ろうという欲望に抗うことができない 貝殻を拾ってみると意外にぽろぽろと崩れた その丈夫さによって緯度を判断することができる Simple life を選ぶかterra firmaを選ぶか、かれらは集団で迷っていた 森で彫り出した二枚の板を合わせて舟を作ろうと思う シンボリズムとして強い色を選ぼうとするとき赤と黒に行きついた 身体をきちんと制御するために白砂糖をぜんぶ床に捨てる 文化のすべては借り物で特に言語はそうだと料理人が話していた ヴァイオリニストから転向した胡弓奏者はフィンランドに移住する 一個の胡桃の最良の使用法は便箋代わりにすることらしかった 宛先を書くのが至難の業で試みてもたぶんどこにも届かない 一度通り二度と通らないすべての道路がなつかしかった 広大な小麦畑の中で車を停めると夏の嵐のようにさびしくなる 感覚が鋭くなるからと諸感覚の分離を試みたことがあった だがだめだ、こぶしのような雹がきみの車の屋根をでこぼこにする 63 かなりの時間をかけて分水嶺の東へと移動した 方角の迷いを解決するためにキツツキの巣を訪ねる Juke box を見かけるたびJudentumを思っていた どの川にも岸辺の石に腰をおろす人がいる 魚との交感を知らなければ川のすべては鏡だった 川底の小石がゆでられる卵のように踊っている 水源の池があると聞いて険しい斜面を登っていった 足が滑るたび迷信だと思いつつ火打石を鳴らす 秘密の祭壇が山頂の草地にあった 草はみずから火を放ち灰になって年ごとの更新を果たす アンドラできみに会うといったのに着いたのはネヴァダ州の一角だった その地名を消せ、さもないと、連想が野生化する 音楽が不意に聞こえるたび時間が撹拌された 鰹とシイラの論争にフェニキアの衰亡を思うことがある 犬が起き上がるたびに希望をことわざ化した もう帰ろう、あの山頂へ、しずかに焼かれた草地へ 64 舞踊家が詩を書くとすべてのスタンザに﹁踊る﹂という動詞が出てきた 私︵画家︶はピンクと緑の配合だけで跳躍を表す 彼女︵舞踊家︶は進行方向を迷わず句読点はすべて省略した 絵筆を洗えば洗うほど鮮明な叫びをあげる 始まりを記念して植樹したところすぐ林ができすぐ森に変わった 生息環境の維持によって個体数を魂の数と一致させる 遍歴を表すのに俳諧の言語はきわめて不十分だった 雲の写真を並べることで土地と土地の差異を表現する 鼓動に独特なシンコペーションを与えるつもりだった 稚鮎やフカの鰭を食べ罪だと思わないやつらは芸術を語るな 小学生に課せられた最初の課題は盛大な焚火を作ることだった 空が部分的に燃えているのを予定された損失と見なす ﹁降りる﹂という語で﹁宿る﹂を意味したけれども同時に死を含意させた 早朝の無人の地下街で﹁無原罪のお宿り﹂が高らかに告げられる おれもそろそろ左耳だけにトルコ石を飾ろうかと思った そのために欠けている銀の台を大西洋の海底に探す 65 刻み目を入れた魚を干す風が山にむかって急上昇するようだった 塩の身に対する情愛が太陽の手をやわらかくさせる スープ︵湯︶を薄味に保ち乾燥した実をいくつも入れた 波打際に舞う砂粒のような味わいが一日を明るくする 野生動物といってもまさかイリエワニまで想定していなかった 飼育中のヒグマが外に出て空から降る雪を鼻先と舌で受ける 魚を獲るという意図が環形動物に対する知識を豊富にした 文字にも文書にも文彩にもおさまりきらない言葉がある 行為の禁令という観点からするとき世界宗教は完璧だった 波打際の水中に舞う砂粒は存在の始点/終点のいずれに近いのか 生涯の洗練も摩滅も落雷のエネルギーで一気に解決したかった 溶岩が流れこむ海岸への道路を竹箒で掃き浄める日系の老人がいる アスファルトが沼のようにやわらかくて歩けそうになかった 風の強さは南極大陸の標高三千メートル地帯に匹敵する Ventoux という名は風を実体と捉え形容詞化したものだった 滑空のための翼を借りられたならそこから飛んでみます 66 芝生の上の壊れた家具の散乱がテリトリーの崩壊を思わせた 新しい何かが生まれるためには瞬間の切断が必要だ 時間が水のように連続するとは誰にもいえることではなかった Ceの綴りをツェと読むかチェと読むかをなぜ問題にしないのか 砂といっても生物由来と鉱物由来では手触りがまったくちがった 生物に時間を足せば石、鉱物は生物に常時とりこまれている 朗唱により空間を埋めて明朗さをきみにあげたかった 自動販売機にお礼をいわれても答えられないのが悲しい 翼龍の整然たる進化が列柱の整列を歪ませた 目的を欠いた行進だったため悲壮感と笑いがない アーネムランドとトレス海峡のいずれも訪問する計画を立てた 南が少しずつ転回して﹁南と北﹂になる ジュゴンを夢で見たときその目の位置が思い出せなかった Norfolk とNorwichの違いがずっと気になって仕方ない 遠くのものをめざすときだけ詩は必要なmomentumを得た 疎ましいものを考え抜くときのみ美に必要な錆が得られる
皐月のまぼろし 璃葉 空はごうごう呼吸をしていた 風と雨がつよくなる 雫滴る軒下から路地を見る 歩いていた人々は 雨と一緒に溶けてなくなってしまったのだろうか? 建物が寒そうに立っている 誰もいない 硝子の窓にはただれるような雫 何度目かの突風が吹いた 一人、真っ赤な服に身を包んだ少女が 早足に路地をすり抜けていく その赤はまるで舞台衣装のようだった 青白い世界に、入ってはいけないものが飛び込んで来たような 彼女を追うように、暖かい光が差してくる 雨は細い線に変わり、止んでいく 雪解けの朝のように澄んだ空 溶けた人々もどこからか湧いてきて 古本街は再び賑やかになる お日様を連れてきた少女はどこかへ消えていた
オチャノミズ︵その1︶ スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
実際のところ何度も日本に来ているのに、わたしの日本語がうまくなるというようなことにはならない。近頃はたまにしか来ていないから公式の表 現とか単語などますます記憶が薄れてしまっている。公式な表現というのは習い覚えたお定まりの表現ということだ。たとえば、日本人がわたしに 学校で習ったような丁寧なあいさつをしてくれると、こんにちは、私の名前は。。。。、お元気でいらっしゃいますか、とかお達者でいらっしゃい ますか、などということになる。こんなふうにはなしていると堅苦しいし、暗記してきたようで生気がない。 わたしにとっては何かはなすとしたら気持ちから湧き出てきて触れあえるようなのがいい。ところがそれが難しいのだ。それで沈黙がわたしにとっ てはどんなことばよりもすぐれた表現になる。 わたしにふさわしい表現といえば沈黙していることとうたうことに勝るものはないだろう。わたしがうたってきた多くの詩︵うた︶は哀しい歌だっ た。めざす道なかばで斃れていった多くの友、離別、山岳や森林のすがたなどだ。聴いていた日本人の中には涙をにじませている人もいて、音楽と いうことば、さまざまな歌の奏でるリズムが、絵画や演芸、園芸などと同じく人びとの楽しむアートのひとつであることに気づかされた。。 ﹁まだ大丈夫ですか﹂ユーゾーさんはいつもこんな風に訊いてくる。 ﹁ダイジョーブ﹂と、わたしは日本語で応える。 ユーゾーさんは笑顔満面で、瞳が嬉しそうに光っている。この男はそこそこ有名な歌手でギターも弾く。タイ語もかなりうまい。タイ語らしい言い 回しにはまだ苦労しているが。タイ語が好きだとはいえ日本人なのだから、われわれタイ人と同じにはなせるわけはないが。 オチャノミズに来るのは何回目だろうか。ここは学校の多いところで若者の往来がはげしい。大学もあれば中学や高校もあるし、古書店街でもある し、ギターなどの楽器店が並ぶ地区でもあるのだ。
掠れ書き19 高橋悠治
システムや方法論や構造主義を捨てて暗い時代と手にしたわずかな音で行く先の見えない音楽を書き続ける。全体の構図からではなく断片か ら断片へすこしずつ書き継いでいくと連続した流れがおもいがけないところで消えてまた他の場所に現れる。即興の速さや背後に蓄積された技 術ではなくゆっくり一滴一滴と虚空に滴る中空の雫。 音楽ではなく絵でもなくことばで書かれた脳内風景の観察プロセスたとえばベケットとウィトゲンシュタインのパラグラフを辿り直して語り 続ける声の変化を手のうごきに映す。うごく手は音の残像を後に曳きながら関係の網を織り次のうごきと音が揺りうごかし関係を組み換え対称 性を破る。 本を読みメモを書きメモからノートに移しまたメモに書き加えノートからことばを削る。一つの声それを中断する第二の声それに応える最初 の声と続く古代ギリシャ劇で stichomythia ︵隔行対話︶と言われたかけあい技法。相手のことばを取り入れながら反論しそれぞれの言い分をくりかえしながら逸れていく。もどってはやりなおし言いまち がえる声とおなじことをおなじには言わないことばが重心を移しながら流れの速度を調節する。対話する二つの声を聞く第三の声があればプ ロットを複雑にしパターンの組合せが機械的な対照におちこむかわりに距離を変えながら浮遊して見過ごす眼と聞きとれないことばを追う耳が 行き来する。空間が対話とその断片を包んであいまいにひろがる。 anaphora︵首句反復︶はおなじにはじまりちがう終りに行き着く枝の束。おなじ始まりを強調すればまとまりと構成の方へ、終りの ちがいが際立てば止められない解体と分岐で言い直し言い損ないに近づく。 allusion ︵引喩︶は昔あったなにかを思い出させるようなうごき。引用の重みはなく直接でもなくパロディーの悪意や意図はなくパスティッシュの軽みもなくはっきり見 えない影がまとわりついている。
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