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ハイネ詩集
生田春月 訳
小唄
一
ほんとにきれいでけがれのない
驚くばかりの娘さん
ただもうおまへのためだけに
わたしはこの身を捧げたい
おまへのやさしい甘い眼は
月影のやうに輝いてゐる
おまへのあかい頬からは
薔薇のひかりがさしてくる
おまへの小さな口からは
白い真珠がのぞいてゐる
けれど一番きれいな寳石は
おまへの胸にそつとしまつてある
わたしがいつかおまへを見た時に
わたしの胸に忍び込んだのが
あれが恋といふものかしら
驚くばかりの娘さん!
二
さびしくわたしはこの苦しみを訴へる
夜のふところに抱かれて
いそいそしてゐる人を避け
喜びの笑ふところも逃げずにゐられない
さびしくわたしの涙は流れてゐる
いつも静かに流れてゐる
しかも燃える心のあこがれは
涙でさへも消しはせぬ
むかしはわたしも元気な子供で
面白さうに遊んだものだ
人生といふものがたのしくて
苦しみとはどんなものかも知らなかつた
この世はいろんな花の咲いてゐる
庭(に)園(は)で、わたしの仕事といへば
薔薇や菫や素(そけ)馨(い)の花の
花守をすることのやうな気がしてゐた
青い野原で夢みるやうに
小川の流れを見てたのに
今来て見ると蒼ざめた
やつれた顔がうつゝてゐる
あの人をこの眼で見てからは
こんなにわたしは蒼ざめて
人知れず胸が痛み出した
何たる不思議なかはりやうだらう
心の底にわたしは長いこと
しづかな平和の天使を抱いてゐた
それに天使は心配にふるへながら
星の故郷に飛び去つた
くらい夜(やい)陰(ん)はわたしの日をおそひ
不気味な影がわたしを脅かす
そして胸の中ではさゝやくやうに
妙な聞きなれぬ声がひそひそいふ
馴れない苦しみ、馴れない悩みが
はげしい力でわきあがる
そしてわたしの内(はら)臓(わた)を
馴れない熱が焼きつくす
だがわたしの心をやすみなく
焔がかつと燃やすのは
わたしが苦んで死ぬるのは——
恋よ、おまへの所(しわ)業(ざ)だぞ!
三
若者たちは娘の手をとつて
菩提樹の並木を散歩する
それにわたしは、あゝなさけない
たつたひとりで歩いてる
いゝ人と楽しんでゐる人を見ると
心はむすぼほれ眼はくもる
わたしにもいゝ人はあるけれど
あいにく遠方にゐるんだもの
かうしてわたしは長いこと辛抱した
けれどももう苦しくてたまらなくなり
荷物を包んで杖をとり
わたしは旅に出て行つた
さうして幾百里も歩いて行くと
たうとう大きな市(ま)街(ち)の来た
それは河口にたつてゐて
三つの大きな塔がある
そこで忽ちわたしの恋の悩みは消えて
心はうれしさにふるへて来た
そこでわたしは恋人の手をとつて
菩提樹の並木を三歩する
四
こひしい人のところに行つてると
心が愉快になつてくる
するとわたしは心が豊かになつて来て
世界でも売つてやるやうな気持になる
けれどまたあの真白な
腕からわかれて来るときは
わたしの富はすつかり消えてしまひ
またも乞食のやうになる
底本‥﹁ハイネ詩集﹂︵新潮文庫、第三十五編︶
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年)
﹁ハイネ詩集﹂(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力‥osawa
編集‥明かりの本
2017年7月7日作成
物語倶楽部作成ファイル‥
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