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先年、武林無想庵が巴(パ)里(リ)から帰って来ての話に、欧洲の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明るい。巴里などではシャンゼリゼエの真ん中でもランプを燈す家があるのに、日本ではよほど辺鄙な山奥へでも行かなければそんな家は一軒もない。恐らく世界じゅうで電燈を贅沢に使っている国は、亜(ア)米(メ)利(リ)加(カ)と日本であろう。日本は何でも亜米利加の真似をしたがる国だと云うことであった。無想庵の話は今から四五年も前、まだネオンサインなどの流(は)行(や)り出さない頃であったから、今度彼が帰って来たらいよ〳〵明るくなっているのにさぞかし吃(びっ)驚(くり)するであろう。それからこれは﹁改造﹂の山本社長に聞いた話だが、かつて社長がアインシュタイン博士を上方へ案内する途中汽車で石山のあたりを通ると、窓外の景色を眺めていた博士が、﹁あゝ、彼処に大層不経済なものがある﹂と云うので訳を聞くと、そこらの電信柱か何かに白昼電燈のともっているのを指さしたと云う。﹁アインシュタインは猶(ユダ)太(ヤ)人ですからそう云うことが細かいんでしょうね﹂と、山本氏は注釈を入れたが、亜米利加はとにかく、欧洲に比べると日本の方が電燈を惜し気もなく使っていることは事実であるらしい。石山と云えばもう一つおかしなことがあるのだが、今年の秋の月見に何処がよかろう此処がよかろうと首をひねった揚句、結局石山寺へ出かけることに極めていると、十五夜の前日の新聞に石山寺では明晩観月の客の興を添えるため林間に拡声器を取り附け、ムーンライトソナタのレコードを聴かせると云う記事が出ている。私はそれを読んで急に石山行きを止めてしまった。拡声器も困り物だが、そう云う風ではきっとあの山の方々に電燈やイルミネーションを飾り、賑々しく景気を附けてはいないかと思ったからである。前にも私はそれで月見をフイにした覚えがあるのは、或る年の十五夜に須磨寺の池へ舟を浮かべてみようと思い、同勢を集め重詰めを持ち寄って繰り出してみると、あの池のぐるりを五色の電飾が花やかに取り巻いていて、月はあれどもなきが如くなのであった。それやこれやを考えると、どうも近頃のわれ〳〵は電燈に麻痺して、照明の過剰から起る不便と云うことに対しては案外無感覚になっているらしい。お月見の場合なんかはまあ孰方でもいゝけれども、待合、料理屋、旅館、ホテルなどが、一体に電燈を浪費し過ぎる。それも客寄せのために幾らか必要であろうけれども、夏など、まだ明るいうちから点燈するのは無駄である以上に暑くもある。私は夏は何処へ行ってもこれで弱らせられる。外が涼しいのに座敷の中が馬鹿に暑いのは、殆ど十が十まで電力が強過ぎるか電球が多過ぎるかのせいであって、試しに一部分を消してみると俄かにすうっとするのだが、客も主人も一向それに気が付かないのが不思議でならない。元来室内の燈し火は、冬は幾らか明るくし、夏は幾らか暗くすべきである。その方が冷涼の気を催すし、第一虫が飛んで来ない。然るに餘計に電燈をつけ、それで暑いからと云って煽風器を廻すのは、考えただけでも煩わしい。尤も日本座敷だと熱が傍から散って行くのでまだ我慢が出来るけれども、ホテルの洋室では風通しが悪い上に、床、壁、天井等が熱を吸い取って四方から反射するので、実にたまらない。例を挙げるのは少し気の毒だが、京都の都ホテルのロビーへ夏の晩に行ったことのある人は、私のこの説に同感してくれないであろうか。彼処は北向きの高台に拠っていて、比叡山や如意ヶ嶽や黒谷の塔や森や東山一帯の翠(すい)巒(らん)を一眸のうちに集め、見るからすが〳〵しい気持のする眺めであるが、それだけになお惜しい。夏のゆうがた、折角山紫水明に対して爽快の気分に浸ろうと思い、楼に満つる涼風を慕って出かけてみると、白い天井の此処彼処に大きな乳白ガラスの蓋(ふた)が篏(は)め込んであって、ドギツイ明りが中でかっ〳〵と燃えている。それが、近頃の洋館は天井が低いので、すぐ頭の上に火の玉がくるめいているようで、暑いことと云ったらない、体のうちでも天井に近い所ほど暑く、頭から襟頸から背筋へかけて炙(あぶ)られるように感じる。しかもその火の玉が一つあったらあれだけの廣さを照らすには十分なくらいであるのに、そう云う奴が三つも四つも天井に光っていて、その外にも小さな奴が壁に沿い柱に沿うて幾つとなく取り附けてあるのだが、そんなのはたゞ隅々に出来る隈を消している以外に、何の役にも立っていない。だから室内に蔭と云うものが一つもなく、見渡したところ、白い壁と、赤い太い柱と、派手な色をモザイクのように組み合わせた床が、刷りたての石版画のように眼に沁み込んで、これがまた相当に暑苦しい。廊下からそこへ這入って来ると、温度の違いが際立って分る。あれではたとい涼しい夜気が流れ込んで来ても、すぐ熱い風に変ってしまうから何にもなるまい。彼処は以前たび〳〵泊まりに行ったことのあるホテルで、なつかしく思うところから親切気で忠告するのだが、実際あゝ云う形勝な眺望、最適な夏の涼み場所を、電燈で打ち壊しているのはもったいない。日本人には勿論のこと、いくら西洋人が明るみを好むからと云って、あの暑さには閉口するに違いなかろうが、何より彼より、一遍明りを減らしてみたら覿(てき)面(めん)に諒解するであろう。だがこれなどは一例を挙げたまでであって、あのホテルに限ったことではない。間接照明を使っている帝国ホテルだけはまず無難だが、夏はあれをもう少し暗くしてもよかりそうに思う。何にしても今日の室内の照明は、書を読むとか、字を書くとか、針を運ぶとか云うことは最(もは)早(や)問題でなく、専ら四隅の蔭を消すことに費されるようになったが、その考は少くとも日本家屋の美の観念とは両立しない。個人の住宅では経済の上から電力を節約するので、却って巧く行っているけれども、客商売の家になると、廊下、階段、玄関、庭園、表門等に、どうしても明りが多過ぎる結果になり、座敷や泉石の底を浅くしてしまっている。冬はその方が暖かで助かることもあるが、夏の晩はどんな幽(ゆう)邃(すい)な避暑地へ逃れても、先が旅館である限り大概都ホテルと同じような悲哀に打(ぶ)つかる。だから私は、自分の家で四方の雨戸を開け放って、真っ暗な中に蚊帳を吊ってころがっているのが涼を納(い)れる最上の法だと心得ている。