2015/10/24
こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ
ぶだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ
そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと
一 秋の思
秋
秋は来(き)ぬ
秋は来ぬ
一(ひと)葉(は)は花は露ありて
風の来て弾(ひ)く琴の音に
青き葡(ぶど)萄(う)は紫の
自然の酒とかはりけり
秋は来ぬ
秋は来ぬ
おくれさきだつ秋(あき)草(ぐさ)も
みな夕(ゆふ)霜(じも)のおきどころ
笑ひの酒を悲みの
盃(さかづき)にこそつぐべけれ
秋は来ぬ
秋は来ぬ
くさきも紅(もみ)葉(ぢ)するものを
たれかは秋に酔はざらめ
智(ち)恵(え)あり顔のさみしさに
君笛を吹けわれはうたはむ
.
初恋
まだあげ初(そ)めし前(まへ)髪(がみ)の
林(りん)檎(ご)のもとに見えしとき
前にさしたる花(はな)櫛(ぐし)の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄(うす)紅(くれなゐ)の秋の実(み)に
人こひ初(そ)めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃(さかづき)を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな
林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細(ほそ)道(みち)は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
狐のわざ
庭にかくるゝ小狐の
人なきときに夜(よる)いでて
秋の葡萄の樹の影に
しのびてぬすむつゆのふさ
恋は狐にあらねども
君は葡萄にあらねども
人しれずこそ忍びいで
君をぬすめる吾(わが)心
髪を洗へば
髪を洗へば紫の
小(をぐ)草(さ)のまへに色みえて
足をあぐれば花(はな)鳥(とり)の
われに随(したが)ふ風(ふぜ)情(い)あり
目にながむれば彩(あや)雲(ぐも)の
まきてはひらく絵(えま)巻(きも)物(の)
手にとる酒は美(うま)酒(ざけ)の
若き愁(うれひ)をたゝふめり
耳をたつれば歌(うた)神(がみ)の
きたりて玉(たま)の簫(ふえ)を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ
あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな
君がこゝろは
君がこゝろは蟋(こほ)蟀(ろぎ)の
風にさそはれ鳴くごとく
朝(あさ)影(かげ)清(きよ)き花(はな)草(ぐさ)に
惜(を)しき涙をそゝぐらむ
それかきならす玉(たま)琴(ごと)の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそはきこゆめれ
あゝなどかくは触れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾(わが)こひに
触れたまはぬぞ恨(うら)みなる
傘(かさ)のうち
二(ふた)人(り)してさす一(ひと)張(はり)の
傘に姿をつゝむとも
情(なさけ)の雨のふりしきり
かわく間(ま)もなきたもとかな
顔と顔とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅(ばい)花(か)の油黒(くろ)髪(かみ)の
乱れて匂(にほ)ふ傘のうち
恋の一(ひと)雨(あめ)ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の間(ま)や
染めてぞ燃ゆる紅(も)絹(み)うらの
雨になやめる足まとひ
歌ふをきけば梅川よ
しばし情(なさけ)を捨てよかし
いづこも恋に戯(たはぶ)れて
それ忠(ちゅ)兵(うべ)衛(え)の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
傘の涙を乾(ほ)さぬ間(ま)に
手に手をとりて行きて帰らじ
秋に隠れて
わが手に植ゑし白菊の
おのづからなる時くれば
一もと花の暮(ゆふ)陰(ぐれ)に
秋に隠(かく)れて窓にさくなり
知るや君
こゝろもあらぬ秋(あき)鳥(どり)の
声にもれくる一ふしを
知るや君
深くも澄(す)める朝(あさ)潮(じほ)の
底にかくるゝ真(しら)珠(たま)を
知るや君
あやめもしらぬやみの夜に
静(しづか)にうごく星くづを
知るや君
まだ弾(ひ)きも見ぬをとめごの
胸にひそめる琴の音(ね)を
知るや君
秋風の歌
さびしさはいつともわかぬ山里に
尾花みだれて秋かぜぞふく
しづかにきたる秋風の
西の海より吹き起り
舞ひたちさわぐ白(しら)雲(くも)の
飛びて行くへも見ゆるかな
暮(ゆふ)影(かげ)高く秋は黄の
桐(きり)の梢(こずゑ)の琴の音(ね)に
そのおとなひを聞くときは
風のきたると知られけり
ゆふべ西(にし)風(かぜ)吹き落ちて
あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて
ゆふべの鶉(うづら)巣に隠(かく)る
ふりさけ見れば青(あを)山(やま)も
色はもみぢに染めかへて
霜(しも)葉(ば)をかへす秋風の
空(そら)の明(かが)鏡(み)にあらはれぬ
清(すず)しいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢ葉(ば)にきたるとき
道を伝ふる婆(ばら)羅(も)門(ん)の
西に東に散るごとく
吹き漂(ただ)蕩(よは)す秋風に
飄(ひるがへ)り行く木(こ)の葉(は)かな
朝(あさ)羽(ば)うちふる鷲(わし)鷹(たか)の
明(あけ)闇(くれ)天(そら)をゆくごとく
いたくも吹ける秋風の
羽(はね)に声あり力あり
見ればかしこし西風の
山の木(こ)の葉をはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百(もも)葉(は)を落すとき
人は利(つる)剣(ぎ)を振(ふる)へども
げにかぞふればかぎりあり
舌は時(とき)世(よ)をのゝしるも
声はたちまち滅ぶめり
高くも烈(はげ)し野も山も
息(いぶ)吹(き)まどはす秋風よ
世をかれ〴〵となすまでは
吹きも休(や)むべきけはひなし
あゝうらさびし天(あめ)地(つち)の
壺(つぼ)の中(うち)なる秋の日や
落葉と共に飄(ひるがへ)る
風の行(ゆく)衛(へ)を誰か知る
.
雲のゆくへ
庭にたちいでたゞひとり
秋(しゅ)海(うか)棠(いどう)の花を分け
空ながむれば行く雲の
更(さら)に秘密を闡(ひら)くかな
小詩二首
一
ゆふぐれしづかに
ゆめみんとて
よのわづらひより
しばしのがる
きみよりほかには
しるものなき
花かげにゆきて
こひを泣きぬ
すぎこしゆめぢを
おもひみるに
こひこそつみなれ
つみこそこひ
いのりもつとめも
このつみゆゑ
たのしきそのへと
われはゆかじ
なつかしき君と
てをたづさへ
くらき冥(よ)府(み)までも
かけりゆかん
二
しづかにてらせる
月のひかりの
などか絶間なく
ものおもはする
さやけきそのかげ
こゑはなくとも
みるひとの胸に
忍び入るなり
なさけは説(と)くとも
なさけをしらぬ
うきよのほかにも
朽(く)ちゆくわがみ
あかさぬおもひと
この月かげと
いづれか声なき
いづれかなしき
強敵
一つの花に蝶(ちょう)と蜘(く)蛛(も)
小蜘蛛は花を守(まも)り顔
小蝶は花に酔ひ顔に
舞へども〳〵すべぞなき
花は小蜘蛛のためならば
小蝶の舞(まひ)をいかにせむ
花は小蝶のためならば
小蜘蛛の糸をいかにせむ
やがて一つの花散りて
小蜘蛛はそこに眠れども
羽(つば)翼(さ)も軽き小蝶こそ
いづこともなくうせにけれ
別離
人妻をしたへる男の山に登り其
女の家を望み見てうたへるうた
誰(たれ)かとゞめん旅(たび)人(びと)の
あすは雲(くも)間(ま)に隠るゝを
誰か聞くらん旅人の
あすは別れと告げましを
清(きよ)き恋とや片(かた)し貝(がひ)
われのみものを思ふより
恋はあふれて濁(にご)るとも
君に涙をかけましを
人(ひと)妻(づま)恋ふる悲しさを
君がなさけに知りもせば
せめてはわれを罪(つみ)人(びと)と
呼びたまふこそうれしけれ
あやめもしらぬ憂(う)しや身は
くるしきこひの牢(ひと)獄(や)より
罪の鞭(しも)責(と)をのがれいで
こひて死なんと思ふなり
誰(たれ)かは花をたづねざる
誰かは色(い)彩(ろ)に迷はざる
誰かは前にさける見て
花を摘(つ)まんと思はざる
恋の花にも戯(たはむ)るゝ
嫉(ねた)妬(み)の蝶(ちょう)の身ぞつらき
二つの羽(はね)もをれ〳〵て
翼(つばさ)の色はあせにけり
人の命を春の夜の
夢といふこそうれしけれ
夢よりもいや〳〵深き
われに思ひのあるものを
梅の花さくころほひは
蓮(はす)さかばやと思ひわび
蓮の花さくころほひは
萩(はぎ)さかばやと思ふかな
待つまも早く秋は来(き)て
わが踏む道に萩さけど
濁(にご)りて待てる吾(わが)恋は
清き怨(うらみ)となりにけり
望郷
寺をのがれいでたる僧のうたひ
しそのうた
いざさらば
これをこの世のわかれぞと
のがれいでては住みなれし
御(みて)寺(ら)の蔵(く)裏(り)の白(しら)壁(かべ)の
眼にもふたたび見ゆるかな
いざさらば
住めば仏のやどりさへ
火(ほの)炎(ほ)の宅(いへ)となるものを
なぐさめもなき心より
流れて落つる涙かな
いざさらば
心の油濁るとも
ともしびたかくかきおこし
なさけは熱くもゆる火の
こひしき塵(ちり)にわれは焼けなむ
.
二 六人の処(をと)女(め)
おえふ
処(をと)女(め)ぞ経(へ)ぬるおほかたの
われは夢(ゆめ)路(ぢ)を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山(やま)河(かは)をながむれば
水(みづ)静(しづ)かなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花(はな)影(かげ)に
われは処(をと)女(め)となりにけり
都(みや)鳥(こどり)浮(う)く大川に
流れてそゝぐ川(かは)添(ぞひ)の
白(しろ)菫(すみれ)さく若(わか)草(ぐさ)に
夢多かりし吾(わが)身かな
雲むらさきの九(ここ)重(のへ)の
大宮内につかへして
清(せい)涼(りょ)殿(うでん)の春の夜(よ)の
月の光に照らされつ
雲を彫(ちりば)め濤(なみ)を刻(ほ)り
霞(かすみ)をうかべ日をまねく
玉の台(うてな)の欄(おば)干(しま)に
かゝるゆふべの春の雨
さばかり高き人の世の
耀(かがや)くさまを目にも見て
ときめきたまふさま〴〵の
ひとりのころもの香(か)をかげり
きらめき初(そ)むる暁(あか)星(ぼし)の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き
天(あま)つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名(な)の夕暮に消えて行く
秀(ひい)でし人の末(は)路(て)も見き
春しづかなる御(みそ)園(の)生(ふ)の
花に隠れて人を哭(な)き
秋のひかりの窓に倚(よ)り
夕雲とほき友を恋ふ
ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門(かど)を出(い)で
けふ江戸川に来て見れば
秋はさみしきながめかな
桜の霜(しも)葉(は)黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静かにて
あゆみは遅きわがおもひ
おのれも知らず世を経(ふ)れば
若き命(いのち)に堪へかねて
岸のほとりの草を藉(し)き
微(ほほ)笑(ゑ)みて泣く吾身かな
おきぬ
みそらをかける猛(あら)鷲(わし)の
人の処(をと)女(め)の身に落ちて
花の姿に宿(やど)かれば
風(あら)雨(し)に渇(かわ)き雲に饑(う)ゑ
天(あま)翅(かけ)るべき術(すべ)をのみ
願ふ心のなかれとて
黒(くろ)髪(かみ)長き吾身こそ
うまれながらの盲(めし)目(ひ)なれ
芙(ふよ)蓉(う)を前(さき)の身とすれば
泪(なみだ)は秋の花の露
小(をご)琴(と)を前(さき)の身とすれば
愁(うれひ)は細き糸の音
いま前(さき)の世は鷲の身の
処女にあまる羽(つば)翼(さ)かな
あゝあるときは吾心
あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき浅(あさ)茅(ぢ)生(ふ)の
茂れる宿(やど)と思ひなし
身は術(すべ)もなき蟋(こほ)蟀(ろぎ)の
夜(よる)の野(のぐ)草(さ)にはひめぐり
たゞいたづらに音(ね)をたてて
うたをうたふと思ふかな
色(いろ)にわが身をあたふれば
処女のこゝろ鳥となり
恋に心をあたふれば
鳥の姿は処女にて
処女ながらも空(そら)の鳥
猛(あら)鷲(わし)ながら人の身の
天(あめ)と地(つち)とに迷ひゐる
身の定めこそ悲しけれ
おさよ
潮(うしほ)さみしき荒(あら)磯(いそ)の
巌(いは)陰(かげ)われは生れけり
あしたゆふべの白(しろ)駒(ごま)と
故(ふる)郷(さと)遠きものおもひ
をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの
げに狂はしの身なるべき
この年までの処(をと)女(め)とは
うれひは深く手もたゆく
むすぼほれたるわが思(おもひ)
流れて熱(あつ)きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ
乱(みだ)れてものに狂ひよる
心を笛の音(ね)に吹かん
笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十(とを)の指
音(ね)にこそ渇(かわ)け口(くち)唇(びる)の
笛を尋(たづ)ぬる風(ふぜ)情(い)あり
はげしく深きためいきに
笛の小(をだ)竹(け)や曇るらん
髪は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気(い)息(き)を聴(き)け
力をこめし一ふしに
黄(つ)楊(げ)のさし櫛(ぐし)落ちてけり
吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙
短き笛の節(ふし)の間(ま)も
長き思(おもひ)のなからずや
七つの情(こころ)声を得て
音(ね)をこそきかめ歌(うた)神(がみ)も
われ喜(よろこび)を吹くときは
鳥も梢(こずゑ)に音(ね)をとゞめ
怒(いかり)をわれの吹くときは
瀬(せ)を行く魚も淵(ふち)にあり
われ哀(かなしみ)を吹くときは
獅(し)子(し)も涙をそゝぐらむ
われ楽(たのしみ)を吹くときは
虫も鳴く音(ね)をやめつらむ
愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り
悪(にくみ)をわれの吹くときは
散り行く花も止(とどま)りて
慾(よく)の思(おもひ)を吹くときは
心の闇(やみ)の響(ひびき)あり
うたへ浮(うき)世(よ)の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ
くるしむなかれ吾(わが)友よ
しばしは笛の音(ね)に帰れ
落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を
おくめ
こひしきまゝに家を出(い)で
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと来て見れば
千鳥鳴くなり夕まぐれ
こひには親も捨てはてて
やむよしもなき胸の火や
鬢(びん)の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし
河(かは)波(なみ)暗く瀬を早み
流れて巌(いは)に砕(くだ)くるも
君を思へば絶間なき
恋の火(ほの)炎(ほ)に乾(かわ)くべし
きのふの雨の小(をや)休(み)なく
水(みか)嵩(さ)や高くまさるとも
よひ〳〵になくわがこひの
涙の滝におよばじな
しりたまはずやわがこひは
花(はな)鳥(とり)の絵にあらじかし
空(かが)鏡(み)の印(かた)象(ち)砂の文字
梢の風の音にあらじ
しりたまはずやわがこひは
雄(を)々(を)しき君の手に触れて
嗚(あ)呼(あ)口(くち)紅(べに)をその口に
君にうつさでやむべきや
恋は吾身の社(やしろ)にて
君は社の神なれば
君の祭(つく)壇(ゑ)の上ならで
なににいのちを捧(ささ)げまし
砕(くだ)かば砕け河(かは)波(なみ)よ
われに命はあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなん
心のみかは手も足も
吾身はすべて火(ほの)炎(ほ)なり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千(ちす)筋(ぢ)の髪の波に流るゝ
おつた
花仄(ほの)見ゆる春の夜の
すがたに似たる吾(わが)命(いのち)
朧(おぼ)々(ろおぼろ)に父(ちち)母(はは)は
二つの影と消えうせて
世に孤(みな)児(しご)の吾身こそ
影より出でし影なれや
たすけもあらぬ今は身は
若き聖(ひじり)に救はれて
人なつかしき前(まへ)髪(がみ)の
処(をと)女(め)とこそはなりにけれ
若き聖(ひじり)ののたまはく
時をし待たむ君ならば
かの柿の実をとるなかれ
かくいひたまふうれしさに
ことしの秋もはや深し
まづその秋を見よやとて
聖に柿をすゝむれば
その口(くち)唇(びる)にふれたまひ
かくも色よき柿ならば
などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく
人の命の惜(を)しからば
嗚(あ)呼(あ)かの酒を飲むなかれ
かくいひたまふうれしさに
酒なぐさめの一つなり
まづその春を見よやとて
聖に酒をすゝむれば
夢の心地に酔ひたまひ
かくも楽しき酒ならば
などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく
道行き急ぐ君ならば
迷ひの歌をきくなかれ
かくいひたまふうれしさに
歌も心の姿なり
まづその声をきけやとて
一ふしうたひいでければ
聖は魂(たま)も酔ひたまひ
かくも楽しき歌ならば
などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく
まことをさぐる吾身なり
道の迷(まよひ)となるなかれ
かくいひたまふうれしさに
情(なさけ)も道の一つなり
かゝる思(おもひ)を見よやとて
わがこの胸に指ざせば
聖は早く恋ひわたり
かくも楽しき恋ならば
などかは早くわれに告げこぬ
それ秋の日の夕まぐれ
そゞろあるきのこゝろなく
ふと目に入るを手にとれば
雪より白き小石なり
若き聖ののたまはく
智恵の石とやこれぞこの
あまりに惜しき色なれば
人に隠して今も放(はな)たじ
.
おきく
くろかみながく
やはらかき
をんなごころを
たれかしる
をとこのかたる
ことのはを
まこととおもふ
ことなかれ
をとめごころの
あさくのみ
いひもつたふる
をかしさや
みだれてながき
鬢(びん)の毛を
黄(つ)楊(げ)の小(をぐ)櫛(し)に
かきあげよ
あゝ月(つき)ぐさの
きえぬべき
こひもするとは
たがことば
こひて死なんと
よみいでし
あつきなさけは
誰(た)がうたぞ
みちのためには
ちをながし
くにには死ぬる
をとこあり
治兵衛はいづれ
恋か名か
忠兵衛も名の
ために果(は)つ
あゝむかしより
こひ死にし
をとこのありと
しるや君
をんなごころは
いやさらに
ふかきなさけの
こもるかな
小春はこひに
ちをながし
梅川こひの
ために死ぬ
お七はこひの
ために焼け
高尾はこひの
ために果つ
かなしからずや
清姫は
蛇(へび)となれるも
こひゆゑに
やさしからずや
佐(さよ)容(ひ)姫(め)は
石となれるも
こひゆゑに
をとこのこひの
たはぶれは
たびにすてゆく
なさけのみ
こひするなかれ
をとめごよ
かなしむなかれ
わがともよ
こひするときと
かなしみと
いづれかながき
いづれみじかき
.
三 生のあけぼの
草枕
夕波くらく啼(な)く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽(はね)をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな
若き心の一(ひと)筋(すぢ)に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり
蘆(あし)葉(は)を洗ふ白波の
流れて巌(いは)を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ
かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋(たづ)ね侘(わ)び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん
われもそれかやうれひかや
野(のず)末(ゑ)に山に谷(たに)蔭(かげ)に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ
想(おもひ)も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行くへもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな
身を朝(あさ)雲(ぐも)にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕(ゆふ)雨(あめ)にたとふれば
あしたの雨の風となる
されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄(ひるがへ)り
朝の黄(きぐ)雲(も)にともなはれ
夜(よる)白河を越えてけり
道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮(みや)城(ぎ)野(の)にまで迷ひきぬ
心の宿(やど)の宮城野よ
乱れて熱き吾(わが)身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴(こと)と聴(き)き
悲み深き吾目には
色(い)彩(ろ)なき石も花と見き
あゝ孤(ひと)独(りみ)の悲(かな)痛(しさ)を
味ひ知れる人ならで
誰(たれ)にかたらん冬の日の
かくもわびしき野のけしき
都のかたをながむれば
空冬雲に覆(おほ)はれて
身にふりかゝる玉(たま)霰(あられ)
袖(そで)の氷と閉ぢあへり
みぞれまじりの風勁(つよ)く
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か
啼(な)いて羽(はか)風(ぜ)もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒(さむ)空(ぞら)の
汝(なれ)も荒れたる野にむせぶ
涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてて
ひとりさまよふ吾身かな
かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音(ね)に
声もあはれのその歌は
うれしや物の音(ね)を弾(ひ)きて
野末をかよふ人の子よ
声(しら)調(べ)ひく手も凍りはて
なに門(かど)づけの身の果(はて)ぞ
やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿
野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海
朝は海(うみ)辺(べ)の石の上(へ)に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは濤(なみ)ばかり
暮はさみしき荒(あら)磯(いそ)の
潮(うしほ)を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧(わ)きくるものは涙のみ
さみしいかなや荒波の
岩に砕(くだ)けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
潮(うしほ)とともに帰るとき
誰(たれ)か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜(をし)まざる
暦(こよみ)もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて潮となりにけり
遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音(ね)は
まだうらわかき野路の鳥
嗚(あ)呼(あ)めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑の羽(はね)もまだ弱き
それも初(はつ)音(ね)か鶯(うぐひす)の
春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌(も)えて色青き
こゝちこそすれ砂の上(へ)に
春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香(か)ぞする海の辺(べ)に
磯辺に高き大(おほ)巌(いは)の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらん東(しの)雲(のめ)の
潮(しほ)の音(ね)遠き朝ぼらけ
.
春
一 たれかおもはむ
たれかおもはむ鶯(うぐひす)の
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の間(ま)と
あゝよしさらば美(うま)酒(ざけ)に
うたひあかさん春の夜を
梅のにほひにめぐりあふ
春を思へばひとしれず
からくれなゐのかほばせに
流れてあつきなみだかな
あゝよしさらば花影に
うたひあかさん春の夜を
わがみひとつもわすられて
おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば
たもとににほふ梅の花
あゝよしさらば琴(こと)の音(ね)に
うたひあかさん春の夜を
.
二 あけぼの
紅(くれなゐ)細くたなびけたる
雲とならばやあけぼのの
雲とならばや
やみを出(い)でては光ある
空とならばやあけぼのの
空とならばや
春の光を彩(いろど)れる
水とならばやあけぼのの
水とならばや
鳩(はと)に履(ふ)まれてやはらかき
草とならばやあけぼのの
草とならばや
.
三 春は来ぬ
春はきぬ
春はきぬ
初(はつ)音(ね)やさしきうぐひすよ
こぞに別(わか)離(れ)を告げよかし
谷間に残る白雪よ
葬りかくせ去(こ)歳(ぞ)の冬
春はきぬ
春はきぬ
さみしくさむくことばなく
まづしくくらくひかりなく
みにくゝおもくちからなく
かなしき冬よ行きねかし
春はきぬ
春はきぬ
浅みどりなる新(にひ)草(ぐさ)よ
とほき野(のも)面(せ)を画(ゑが)けかし
さきては紅(あか)き春(はる)花(ばな)よ
樹(き)々(ぎ)の梢(こずゑ)を染めよかし
春はきぬ
春はきぬ
霞(かすみ)よ雲よ動(ゆる)ぎいで
氷れる空をあたゝめよ
花の香(か)おくる春風よ
眠れる山を吹きさませ
春はきぬ
春はきぬ
春をよせくる朝(あさ)汐(じほ)よ
蘆(あし)の枯(かれ)葉(は)を洗ひ去れ
霞に酔へる雛(ひな)鶴(づる)よ
若きあしたの空に飛べ
春はきぬ
春はきぬ
うれひの芹(せり)の根を絶えて
氷れるなみだ今いづこ
つもれる雪の消えうせて
けふの若菜と萌(も)えよかし
.
四 眠れる春よ
ねむれる春ようらわかき
かたちをかくすことなかれ
たれこめてのみけふの日を
なべてのひとのすぐすまに
さめての春のすがたこそ
また夢のまの風(ふぜ)情(い)なれ
ねむげの春よさめよ春
さかしきひとのみざるまに
若紫の朝霞
かすみの袖(そで)をみにまとへ
はつねうれしきうぐひすの
鳥のしらべをうたへかし
ねむげの春よさめよ春
ふゆのこほりにむすぼれし
ふるきゆめぢをさめいでて
やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ
ねむげの春よさめよ春
あゆめばたにの早(さ)わらびの
したもえいそぐ汝(な)があしを
かたくもあげよあゆめ春
たえなるはるのいきを吹き
こぞめの梅の香ににほへ
.
五 うてや鼓
うてや鼓(つづみ)の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて
世は春の日とかはりけり
ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとぢて
花と花とをぬふ糸は
けさもえいでしあをやなぎ
霞のまくをひきあけて
春をうかゞふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春の台(うてな)といふべけれ
小(こち)蝶(ょう)よ花にたはぶれて
優しき夢をみては舞ひ
酔(ゑ)ふて羽(はそ)袖(で)もひら〳〵と
はるの姿をまひねかし
緑のはねのうぐひすよ
梅の花笠ぬひそへて
ゆめ静(しづか)なるはるの日の
しらべを高く歌へかし
.
小詩
くめどつきせぬ
わかみづを
きみとくまゝし
かのいづみ
かわきもしらぬ
わかみづを
きみとのまゝし
かのいづみ
かのわかみづと
みをなして
はるのこゝろに
わきいでん
かのわかみづと
みをなして
きみとながれん
花のかげ
明星
浮べる雲と身をなして
あしたの空(そら)に出でざれば
などしるらめや明星の
光の色のくれなゐを
朝の潮(うしほ)と身をなして
流れて海に出でざれば
などしるらめや明星の
清(す)みて哀(かな)しききらめきを
なにかこひしき暁(あか)星(ぼし)の
空(むな)しき天(あま)の戸を出でて
深くも遠きほとりより
人の世近く来(きた)るとは
潮(うしほ)の朝のあさみどり
水(みな)底(そこ)深き白石を
星の光に透(す)かし見て
朝の齢(よはひ)を数ふべし
野の鳥ぞ啼(な)く山(やま)河(かは)も
ゆふべの夢をさめいでて
細く棚(たな)引(び)くしのゝめの
姿をうつす朝ぼらけ
小(さ)夜(よ)には小夜のしらべあり
朝には朝の音(ね)もあれど
星の光の糸の緒(を)に
あしたの琴(こと)は静(しづか)なり
まだうら若き朝の空
きらめきわたる星のうち
いと〳〵若き光をば
名(なづ)けましかば明星と
.
潮音
わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね
酔歌
旅と旅との君や我
君と我とのなかなれば
酔ふて袂(たもと)の歌(うた)草(ぐさ)を
醒(さ)めての君に見せばやな
若き命も過ぎぬ間(ま)に
楽しき春は老いやすし
誰(た)が身にもてる宝(たから)ぞや
君くれなゐのかほばせは
君がまなこに涙あり
君が眉には憂(うれ)愁(ひ)あり
堅(かた)く結べるその口に
それ声も無きなげきあり
名もなき道を説(と)くなかれ
名もなき旅を行くなかれ
甲(か)斐(ひ)なきことをなげくより
来(きた)りて美(うま)き酒に泣け
光もあらぬ春の日の
独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に
老いにけらしな旅人よ
心の春の燭(とも)火(しび)に
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
哀(かな)しからずや君が身は
わきめもふらで急ぎ行く
君の行(ゆく)衛(へ)はいづこぞや
琴(こと)花(はな)酒(さけ)のあるものを
とゞまりたまへ旅人よ
.
二つの声
朝
たれか聞くらん朝の声
眠(ねむり)と夢を破りいで
彩(あや)なす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空に光あり
そこに時(とき)あり始(はじめ)あり
そこに道あり力あり
そこに色あり詞(ことば)あり
そこに声あり命あり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
光のうちに朝ぞ隠るゝ
暮
たれか聞くらん暮の声
霞の翼(つばさ)雲の帯
煙の衣(ころも)露の袖(そで)
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使(つかひ)の蝙(かは)蝠(ほり)の
飛ぶ間も声のをやみなく
こゝに影あり迷(まよひ)あり
こゝに夢あり眠(ねむり)あり
こゝに闇あり休(やす)息(み)あり
こゝに永(なが)きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ
.
哀歌
中野逍遙をいたむ
﹃秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜
前柳、風流銷尽二千年﹄、これ中野逍遙が秋(しゅ)怨(うえ)十(んじ)絶(ゅうぜつ)の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、予州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年僅(わづ)かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、﹃寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯﹄、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。
思君九首 中野逍遙
思君我心傷 思君我容瘁
中夜坐松蔭 露華多似涙
思君我心悄 思君我腸裂
昨夜涕涙流 今朝尽成血
示君錦字詩 寄君鴻文冊
忽覚筆端香
外梅花白
為君調綺羅 為君築金屋
中有鴛鴦図 長春夢百禄
贈君名香篋 応記韓寿恩
休将秋扇掩 明月照眉痕
贈君双臂環 宝玉価千金
一鐫不乖約 一題勿変心
訪君過台下 清宵琴響揺
佇門不敢入 恐乱月前調
千里囀金鶯 春風吹緑野
忽発頭屋桃 似君三両朶
嬌影三分月 芳花一朶梅
渾把花月秀 作君玉膚堆
かなしいかなや流れ行く
水になき名をしるすとて
今はた残る歌(うた)反(ほ)古(ご)の
ながき愁(うれ)ひをいかにせむ
かなしいかなやする墨(すみ)の
いろに染めてし花の木の
君がしらべの歌の音に
薄き命のひゞきあり
かなしいかなや前(さき)の世は
みそらにかゝる星の身の
人の命のあさぼらけ
光も見せでうせにしよ
かなしいかなや同じ世に
生れいでたる身を持ちて
友の契(ちぎ)りも結ばずに
君は早くもゆけるかな
すゞしき眼(まなこ)つゆを帯び
葡(ぶど)萄(う)のたまとまがふまで
その面影をつたへては
あまりに妬(ねた)き姿かな
同じ時(とき)世(よ)に生れきて
同じいのちのあさぼらけ
君からくれなゐの花は散り
われ命あり八(やへ)重(むぐ)葎(ら)
かなしいかなやうるはしく
さきそめにける花を見よ
いかなればかくとゞまらで
待たで散るらんさける間(ま)も
かなしいかなやうるはしき
なさけもこひの花を見よ
いと〳〵清きそのこひは
消ゆとこそ聞けいと早く
君し花とにあらねども
いな花よりもさらに花
君しこひとにあらねども
いなこひよりもさらにこひ
かなしいかなや人の世に
あまりに惜しき才(ざえ)なれば
病(やまひ)に塵(ちり)に悲(かなしみ)に
死にまでそしりねたまるゝ
かなしいかなやはたとせの
ことばの海のみなれ棹(ざを)
磯にくだくる高(たか)潮(じほ)の
うれひの花とちりにけり
かなしいかなや人の世の
きづなも捨てて嘶(いなな)けば
つきせぬ草に秋は来て
声も悲しき天の馬
かなしいかなや音(ね)を遠み
流るゝ水の岸にさく
ひとつの花に照らされて
飄(ひるがへ)り行く一(ひと)葉(はぶ)舟(ね)
.
四 深林の逍(しょ)遙(うよう)、其他
深林の逍遙
力を刻(きざ)む木(こだ)匠(くみ)の
うちふる斧のあとを絶え
春の草(くさ)花(ばな)彫(ほり)刻(もの)の
鑿(のみ)の韻(にほひ)もとゞめじな
いろさま〴〵の春の葉に
青(あを)一(ひと)筆(ふで)の痕(あと)もなく
千(ち)枝(え)にわかるゝ赤(あか)樟(くす)も
おのづからなるすがたのみ
檜(ひのき)は荒し杉直し
五葉は黒し椎(しひ)の木の
枝をまじゆる白(しら)樫(かし)や
樗(あふち)は茎をよこたへて
枝と枝とにもゆる火の
なかにやさしき若(わか)楓(かへで)
山(やま)精(びこ)
ひとにしられぬ
たのしみの
ふかきはやしを
たれかしる
ひとにしられぬ
はるのひの
かすみのおくを
たれかしる
木(こだ)精(ま)
はなのむらさき
はのみどり
うらわかぐさの
のべのいと
たくみをつくす
大(おほ)機(はた)の
梭(をさ)のはやしに
きたれかし
山精
かのもえいづる
くさをふみ
かのわきいづる
みづをのみ
かのあたらしき
はなにゑひ
はるのおもひの
なからずや
木精
ふるきころもを
ぬぎすてて
はるのかすみを
まとへかし
なくうぐひすの
ねにいでて
ふかきはやしに
うたへかし
あゆめば蘭(らん)の花を踏み
ゆけば楊(やま)梅(もも)袖に散り
袂(たもと)にまとふ山(やま)葛(くづ)の
葛のうら葉をかへしては
女(ひか)蘿(げ)の蔭のやまいちご
色よき実こそ落ちにけれ
岡やまつゞき隈(くま)々(ぐま)も
いとなだらかに行き延(の)びて
ふかきはやしの谷あひに
乱れてにほふふぢばかま
谷に花さき谷にちり
人にしられず朽(く)つるめり
せまりて暗き峡(はざま)より
やゝひらけたる深(みや)山(ま)木(ぎ)の
春は小(こえ)枝(だ)のたゝずまひ
しげりて広き熊笹の
葉末をふかくかきわけて
谷のかなたにきて見れば
いづくに行くか滝川よ
声もさびしや白糸の
青き巌(いはほ)に流れ落ち
若き猿(ましら)のためにだに
音(おと)をとゞむる時ぞなき
山精
ゆふぐれかよふ
たびびとの
むねのおもひを
たれかしる
友にもあらぬ
やまかはの
はるのこゝろを
たれかしる
木精
夜をなきあかす
かなしみの
まくらにつたふ
なみだこそ
ふかきはやしの
たにかげの
そこにながるゝ
しづくなれ
山精
鹿はたふるゝ
たびごとに
妻こふこひに
かへるなり
のやまは枯るゝ
たびごとに
ちとせのはるに
かへるなり
木精
ふるきおちばを
やはらかき
青葉のかげに
葬れよ
ふゆのゆめぢを
さめいでて
はるのはやしに
きたれかし
今しもわたる深(みや)山(ま)かぜ
春はしづかに吹きかよふ
林の簫(しょう)の音(ね)をきけば
風のしらべにさそはれて
みれどもあかぬ白(しろ)妙(たへ)の
雲の羽(はそ)袖(で)の深山木の
千(ちえ)枝(だ)にかゝりたちはなれ
わかれ舞ひゆくすがたかな
樹(き)々(ぎ)をわたりて行く雲の
しばしと見ればあともなき
高き行(ゆく)衛(へ)にいざなはれ
千々にめぐれる巌(いは)影(かげ)の
花にも迷ひ石に倚(よ)り
流るゝ水の音をきけば
山は危ふく石わかれ
削(けづ)りてなせる青(あを)巌(いは)に
砕けて落つる飛(たき)潭(みづ)の
湧きくる波の瀬を早み
花やかにさす春の日の
光(ひか)烱(り)照りそふ水けぶり
独り苔(こけ)むす岩を攀(よ)ぢ
ふるふあゆみをふみしめて
浮べる雲をうかゞへば
下にとゞろく飛(たき)潭(みづ)の
澄むいとまなき岩波は
落ちていづくに下るらん
山精
なにをいざよふ
むらさきの
ふかきはやしの
はるがすみ
なにかこひしき
いはかげを
ながれていづる
いづみがは
木精
かくれてうたふ
野の山の
こゑなきこゑを
きくやきみ
つゝむにあまる
はなかげの
水のしらべを
しるやきみ
山精
あゝながれつゝ
こがれつゝ
うつりゆきつゝ
うごきつゝ
あゝめぐりつゝ
かへりつゝ
うちわらひつゝ
むせびつゝ
木精
いまひのひかり
はるがすみ
いまはなぐもり
はるのあめ
あゝあゝはなの
つゆに酔ひ
ふかきはやしに
うたへかし
ゆびをりくればいつたびも
かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも
もつ筆にせむ色(いろ)彩(あや)の
いつしか淡く茶を帯びて
雲くれなゐとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり
たどる林もひらけきて
いと静かなる湖の
岸辺にさける花(はな)躑(つつ)躅(じ)
うき雲ゆけばかげ見えて
水に沈める春の日や
それ紅(くれなゐ)の色染めて
雲紫(むらさき)となりぬれば
かげさへあかき水鳥の
春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ
迷ふひとりのわがみだに
深(ふか)紫(むらさき)の紅(くれなゐ)の
彩(あや)にうつろふ夕まぐれ
.
母を葬るのうた
うき雲はありともわかぬ大空の
月のかげよりふるしぐれかな
きみがはかばに
きゞくあり
きみがはかばに
さかきあり
くさはにつゆは
しげくして
おもからずやは
そのしるし
いつかねむりを
さめいでて
いつかへりこん
わがはゝよ
紅(あか)羅(ら)ひく子も
ますらをも
みなちりひぢと
なるものを
あゝさめたまふ
ことなかれ
あゝかへりくる
ことなかれ
はるははなさき
はなちりて
きみがはかばに
かゝるとも
なつはみだるゝ
ほたるびの
きみがはかばに
とべるとも
あきはさみしき
あきさめの
きみがはかばに
そゝぐとも
ふゆはましろに
ゆきじもの
きみがはかばに
こほるとも
とほきねむりの
ゆめまくら
おそるゝなかれ
わがはゝよ
.
合唱
一 暗(あん)香(こう)
はるのよはひかりはかりとおもひしを
しろきやうめのさかりなるらむ
姉
わかきいのちの
をしければ
やみにも春の
香(か)に酔はん
せめてこよひは
さほひめよ
はなさくかげに
うたへかし
妹
そらもゑへりや
はるのよは
ほしもかくれて
みえわかず
よめにもそれと
ほのしろく
みだれてにほふ
うめのはな
姉
はるのひかりの
こひしさに
かたちをかくす
うぐひすよ
はなさへしるき
はるのよの
やみをおそるゝ
ことなかれ
妹
うめをめぐりて
ゆくみづの
やみをながるゝ
せゝらぎや
ゆめもさそはぬ
香(か)なりせば
いづれかよるに
にほはまし