晶子詩篇全集 與謝野晶子（抜粋）
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焦せう燥さう
あれ、あれ、あれ、
後あとから後あとからとのし掛つて、
ぐいぐいと喉のど元もとを締める
凡俗の生せいの圧迫………
心は気い息きを次つぐ間まも無く、
どうすればいいかと
唯ただ右へ左へうろうろ………
もう是これが癖になつた心は、
大やうな、初う心ぶな、
時には迂うく濶わつらしくも見えた
あの好すいたらしい様子を丸まるで失ひ、
氷のやうに冴さえた
細身の刄はさ先きを苛いら苛いらと
ふだんに尖とがらす冷たさ。
そして心は見て見ぬ振ふり……
凡俗の生せいの圧迫に
思ひきりぶつ突つかつて、
思ひきり撥はねとばされ、
ばつたり圧おしへされた
これ、この無残な蛙かへるを――
わたしの青白い肉を。
けれど蛙かへるは死なない、
びくびくと顫ふるひつづけ、
次の刹せつ那なに
もう直すぐ前へ一歩、一歩、
裂けてはみだした膓はらわたを
両手で抱きかかへて跳ぶ、跳ぶ。
そして此この人間の蛙かへるからは血が滴たれる。
でも猶なほ心は見て見ぬ振ふり……
泣かうにも涙が切れた、
叫ぼうにも声が立たぬ。
乾いた心の唇をじつと噛かみしめ、
黙つて唯ただうろうろと
くのは
人形だ、人形だ、
苦痛の弾ば機ねの上に乗つた人形だ。
人生
被めか眼く布ししたる女にて我がありしを、
その被めか眼く布しは却かへりて我われに
奇くしき光を導き、
よく物を透とほして見せつるを、
我が行ゆく方かたに淡うす紅あかき、白き、
とりどりの石の柱ありて倚よりしを、
花束と、没もつ薬やくと、黄わう金ごんの枝の果物と、
我が水みづ鏡かゞみする青せい玉ぎよくの泉と、
また我に接くち吻づけて羽は羽ばたく白はく鳥てうと、
其それ等らみな我の傍かたへを離れざりしを。
ああ、我が被めか眼く布しは落ちぬ。
天あめ地つちは忽たちまちに状さま変かはり、
うすぐらき中に我は立つ。
こは既に日の入いりはてしか、
夜よのまだ明けざるか、
はた、とこしへに光なく、音なく、
望のぞみなく、楽たのしみなく、
唯ただ大いなる陰か影げのたなびく国なるか。
否いなとよ、思へば、
これや我が目の俄にはかにも盲しひしならめ。
古き世界は古きままに、
日は真まつ赤かなる空を渡り、
花は緑の枝に咲きみだれ、
人は皆春のさかりに、
鳥のごとく歌ひ交かはし、
うま酒は盃さかづきより滴したゝれど、
われ一ひと人りそを見ざるにやあらん。
否いなとよ、また思へば、幸ひは
かの肉にく色いろの被めか眼く布しにこそありけれ、
いでや再びそれを結ばん。
われは戦をのゝく身を屈かゞめて
闇やみの底に冷たき手をさし伸ぶ。
あな、悲し、わが推おしあての手探りに、
肉にく色いろの被めか眼く布しは触るる由よしも無し。
とゆき、かくゆき、さまよへる此こ処こは何いづ処こぞ、
かき曇りたる我が目にも其それと知るは、
永き夜よの土を一ひと際きは黒く圧おす
静かに寂さびしき扁いと柏すぎの森の蔭かげなるらし。
或る若き女性に
頼む男のありながら
添はれずと云いふ君を見て、
一いつ所しよに泣くは易やすけれど、
泣いて添はれる由よしも無し。
何なになぐさめて云いはんにも
甲か斐ひなき明あ日すの見通され、
それと知る身は本ほ意いなくも
うち黙もだすこそ苦しけれ。
片おもひとて恋は恋、
ひとり光れる宝はう玉ぎよくを
君が抱いだきて悶もだゆるも
人の羨うらやむ幸さちながら、
海をよく知る船長は
早くも暴し風けを避さくと云いひ、
賢き人は涙もて
身を浄きよむるを知ると云いふ。
君は何いづれを択えらぶらん、
かく問ふことも我はせず、
うち黙もだすこそ苦しけれ。
君は何いづれを択えらぶらん。
君死にたまふことなかれ
︵旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて︶
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末すゑに生れし君なれば
親のなさけは勝まさりしも、
親は刄やいばをにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿にじ四ふしまでを育てしや。
堺さかいの街のあきびとの
老しに舗せを誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何なに事ごとぞ、
君は知らじな、あきびとの
家いへの習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出いでまさね、
互かたみに人の血を流し、
獣けものの道みちに死ねよとは、
死ぬるを人の誉ほまれとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如い何かで思おぼされん。
ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父ちゝ君ぎみに
おくれたまへる母はゝ君ぎみは、
歎きのなかに、いたましく、
我わが子こを召めされ、家いへを守もり、
安やすしと聞ける大おほ御み代よも
母の白しら髪がは増さりゆく。
暖のれ簾んのかげに伏して泣く
あえかに若き新にひ妻づまを
君忘るるや、思へるや。
十とつ月きも添はで別れたる
少をと女めごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰たれを頼むべき。
君死にたまふことなかれ。
くのは
人形だ、人形だ、
苦痛の弾ば機ねの上に乗つた人形だ。
人生
被めか眼く布ししたる女にて我がありしを、
その被めか眼く布しは却かへりて我われに
奇くしき光を導き、
よく物を透とほして見せつるを、
我が行ゆく方かたに淡うす紅あかき、白き、
とりどりの石の柱ありて倚よりしを、
花束と、没もつ薬やくと、黄わう金ごんの枝の果物と、
我が水みづ鏡かゞみする青せい玉ぎよくの泉と、
また我に接くち吻づけて羽は羽ばたく白はく鳥てうと、
其それ等らみな我の傍かたへを離れざりしを。
ああ、我が被めか眼く布しは落ちぬ。
天あめ地つちは忽たちまちに状さま変かはり、
うすぐらき中に我は立つ。
こは既に日の入いりはてしか、
夜よのまだ明けざるか、
はた、とこしへに光なく、音なく、
望のぞみなく、楽たのしみなく、
唯ただ大いなる陰か影げのたなびく国なるか。
否いなとよ、思へば、
これや我が目の俄にはかにも盲しひしならめ。
古き世界は古きままに、
日は真まつ赤かなる空を渡り、
花は緑の枝に咲きみだれ、
人は皆春のさかりに、
鳥のごとく歌ひ交かはし、
うま酒は盃さかづきより滴したゝれど、
われ一ひと人りそを見ざるにやあらん。
否いなとよ、また思へば、幸ひは
かの肉にく色いろの被めか眼く布しにこそありけれ、
いでや再びそれを結ばん。
われは戦をのゝく身を屈かゞめて
闇やみの底に冷たき手をさし伸ぶ。
あな、悲し、わが推おしあての手探りに、
肉にく色いろの被めか眼く布しは触るる由よしも無し。
とゆき、かくゆき、さまよへる此こ処こは何いづ処こぞ、
かき曇りたる我が目にも其それと知るは、
永き夜よの土を一ひと際きは黒く圧おす
静かに寂さびしき扁いと柏すぎの森の蔭かげなるらし。
或る若き女性に
頼む男のありながら
添はれずと云いふ君を見て、
一いつ所しよに泣くは易やすけれど、
泣いて添はれる由よしも無し。
何なになぐさめて云いはんにも
甲か斐ひなき明あ日すの見通され、
それと知る身は本ほ意いなくも
うち黙もだすこそ苦しけれ。
片おもひとて恋は恋、
ひとり光れる宝はう玉ぎよくを
君が抱いだきて悶もだゆるも
人の羨うらやむ幸さちながら、
海をよく知る船長は
早くも暴し風けを避さくと云いひ、
賢き人は涙もて
身を浄きよむるを知ると云いふ。
君は何いづれを択えらぶらん、
かく問ふことも我はせず、
うち黙もだすこそ苦しけれ。
君は何いづれを択えらぶらん。
君死にたまふことなかれ
︵旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて︶
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末すゑに生れし君なれば
親のなさけは勝まさりしも、
親は刄やいばをにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿にじ四ふしまでを育てしや。
堺さかいの街のあきびとの
老しに舗せを誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何なに事ごとぞ、
君は知らじな、あきびとの
家いへの習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出いでまさね、
互かたみに人の血を流し、
獣けものの道みちに死ねよとは、
死ぬるを人の誉ほまれとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如い何かで思おぼされん。
ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父ちゝ君ぎみに
おくれたまへる母はゝ君ぎみは、
歎きのなかに、いたましく、
我わが子こを召めされ、家いへを守もり、
安やすしと聞ける大おほ御み代よも
母の白しら髪がは増さりゆく。
暖のれ簾んのかげに伏して泣く
あえかに若き新にひ妻づまを
君忘るるや、思へるや。
十とつ月きも添はで別れたる
少をと女めごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰たれを頼むべき。
君死にたまふことなかれ。