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銀河鉄道の夜
宮沢賢治
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一 午後の授業
﹁ではみなさんは、そういうふうに川だと言(い)われたり、乳(ちち)の流(なが)れたあとだと言(い)われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承(しょ)知(うち)ですか﹂先生は、黒(こく)板(ばん)につるした大きな黒い星(せい)座(ざ)の図の、上から下へ白くけぶった銀(ぎん)河(がた)帯(い)のようなところを指(さ)しながら、みんなに問(と)いをかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急(いそ)いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑(ざっ)誌(し)で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気(き)持(も)ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見つけたのでした。
﹁ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう﹂
ジョバンニは勢(いきお)いよく立ちあがりましたが、立ってみるともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席(せき)からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた言(い)いました。
﹁大きな望(ぼう)遠(えん)鏡(きょう)で銀(ぎん)河(が)をよっく調(しら)べると銀(ぎん)河(が)はだいたい何でしょう﹂
やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく困(こま)ったようすでしたが、眼(め)をカムパネルラの方へ向(む)けて、
﹁ではカムパネルラさん﹂と名(な)指(ざ)しました。
するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。
先生は意(いが)外(い)なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急(いそ)いで、
﹁では、よし﹂と言(い)いながら、自分で星図を指(さ)しました。
﹁このぼんやりと白い銀(ぎん)河(が)を大きないい望(ぼう)遠(えん)鏡(きょう)で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう﹂
ジョバンニはまっ赤(か)になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼(め)のなかには涙(なみだ)がいっぱいになりました。そうだ僕(ぼく)は知っていたのだ、もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博(はか)士(せ)のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑(ざっ)誌(し)のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑(ざっ)誌(し)を読むと、すぐお父さんの書(しょ)斎(さい)から巨(おお)きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁(ページ)いっぱいに白に点(てん)々(てん)のある美(うつく)しい写(しゃ)真(しん)を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘(わす)れるはずもなかったのに、すぐに返(へん)事(じ)をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午後にも仕(しご)事(と)がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊(あそ)ばず、カムパネルラともあんまり物を言(い)わないようになったので、カムパネルラがそれを知ってきのどくがってわざと返(へん)事(じ)をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。
先生はまた言(い)いました。
﹁ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂(すな)や砂(じゃ)利(り)の粒(つぶ)にもあたるわけです。またこれを巨(おお)きな乳(ちち)の流(なが)れと考えるなら、もっと天の川とよく似(に)ています。つまりその星はみな、乳(ちち)のなかにまるで細(こま)かにうかんでいる脂(あぶ)油(ら)の球(たま)にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと言(い)いますと、それは真(しん)空(くう)という光をある速(はや)さで伝(つた)えるもので、太(たい)陽(よう)や地(ちき)球(ゅう)もやっぱりそのなかに浮(う)かんでいるのです。つまりは私(わたし)どもも天の川の水のなかに棲(す)んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底(そこ)の深(ふか)く遠いところほど星がたくさん集まって見え、したがって白くぼんやり見えるのです。この模(もけ)型(い)をごらんなさい﹂
先生は中にたくさん光る砂(すな)のつぶのはいった大きな両(りょ)面(うめん)の凸(とつ)レンズを指(さ)しました。
﹁天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私(わたし)どもの太(たい)陽(よう)と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太(たい)陽(よう)がこのほぼ中ごろにあって地(ちき)球(ゅう)がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄(うす)いのでわずかの光る粒(つぶ)すなわち星しか見えないでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚(あつ)いので、光る粒(つぶ)すなわち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるという、これがつまり今日の銀(ぎん)河(が)の説(せつ)なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、またその中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次(つぎ)の理科の時間にお話します。では今日はその銀(ぎん)河(が)のお祭(まつ)りなのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい﹂
そして教室じゅうはしばらく机(つくえ)の蓋(ふた)をあけたりしめたり本を重(かさ)ねたりする音がいっぱいでしたが、まもなくみんなはきちんと立って礼(れい)をすると教室を出ました。
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二 活(かっ)版(ぱん)所(じょ)
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校(こう)庭(てい)の隅(すみ)の桜(さくら)の木のところに集(あつ)まっていました。それはこんやの星(ほし)祭(まつ)りに青いあかりをこしらえて川へ流(なが)す烏(から)瓜(すうり)を取(と)りに行く相(そう)談(だん)らしかったのです。
けれどもジョバンニは手を大きく振(ふ)ってどしどし学校の門(もん)を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀(ぎん)河(が)の祭(まつ)りにいちいの葉(は)の玉(たま)をつるしたり、ひのきの枝(えだ)にあかりをつけたり、いろいろしたくをしているのでした。
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲(ま)がってある大きな活(かっ)版(ぱん)所(じょ)にはいって靴(くつ)をぬいで上がりますと、突(つ)き当たりの大きな扉(とびら)をあけました。中にはまだ昼(ひる)なのに電(でん)燈(とう)がついて、たくさんの輪(りん)転(てん)機(き)がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働(はたら)いておりました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓(テー)子(ブル)にすわった人の所(ところ)へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚(たな)をさがしてから、
﹁これだけ拾(ひろ)って行けるかね﹂と言(い)いながら、一枚の紙切れを渡(わた)しました。ジョバンニはその人の卓(テー)子(ブル)の足もとから一つの小さな平(ひら)たい函(はこ)をとりだして向(む)こうの電(でん)燈(とう)のたくさんついた、たてかけてある壁(かべ)の隅(すみ)の所(ところ)へしゃがみ込(こ)むと、小さなピンセットでまるで粟(あわ)粒(つぶ)ぐらいの活(かつ)字(じ)を次(つぎ)から次(つぎ)へと拾(ひろ)いはじめました。青い胸(むね)あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
﹁よう、虫めがね君(くん)、お早う﹂と言(い)いますと、近くの四、五人の人たちが声もたてずこっちも向(む)かずに冷(つめ)たくわらいました。
ジョバンニは何べんも眼(め)をぬぐいながら活(かつ)字(じ)をだんだんひろいました。
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾(ひろ)った活(かつ)字(じ)をいっぱいに入れた平(ひら)たい箱(はこ)をもういちど手にもった紙きれと引き合わせてから、さっきの卓(テー)子(ブル)の人へ持(も)って来ました。その人は黙(だま)ってそれを受(う)け取(と)ってかすかにうなずきました。
ジョバンニはおじぎをすると扉(とびら)をあけて計算台のところに来ました。すると白(しろ)服(ふく)を着(き)た人がやっぱりだまって小さな銀(ぎん)貨(か)を一つジョバンニに渡(わた)しました。ジョバンニはにわかに顔いろがよくなって威(いせ)勢(い)よくおじぎをすると、台の下に置(お)いた鞄(かばん)をもっておもてへ飛(と)びだしました。それから元気よく口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)きながらパン屋(や)へ寄(よ)ってパンの塊(かたまり)を一つと角(かく)砂(ざと)糖(う)を一袋(ふくろ)買いますといちもくさんに走りだしました。
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三 家
ジョバンニが勢(いきお)いよく帰って来たのは、ある裏(うら)町(まち)の小さな家でした。その三つならんだ入口のいちばん左(ひだ)側(りがわ)には空(あき)箱(ばこ)に紫(むらさき)いろのケールやアスパラガスが植(う)えてあって小さな二つの窓(まど)には日(ひお)覆(お)いがおりたままになっていました。
﹁お母さん、いま帰ったよ。ぐあい悪(わる)くなかったの﹂ジョバンニは靴(くつ)をぬぎながら言いました。
﹁ああ、ジョバンニ、お仕(しご)事(と)がひどかったろう。今(きょ)日(う)は涼(すず)しくてね。わたしはずうっとぐあいがいいよ﹂
ジョバンニは玄(げん)関(かん)を上がって行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室(へや)に白い巾(きれ)をかぶって寝(やす)んでいたのでした。ジョバンニは窓(まど)をあけました。
﹁お母さん、今日は角(かく)砂(ざと)糖(う)を買ってきたよ。牛(ぎゅ)乳(うにゅう)に入れてあげようと思って﹂
﹁ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから﹂
﹁お母さん。姉(ねえ)さんはいつ帰ったの﹂
﹁ああ、三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね﹂
﹁お母さんの牛(ぎゅ)乳(うにゅう)は来ていないんだろうか﹂
﹁来なかったろうかねえ﹂
﹁ぼく行ってとって来よう﹂
﹁ああ、あたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉(ねえ)さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置(お)いて行ったよ﹂
﹁ではぼくたべよう﹂
ジョバンニは﹇#﹁ ジョバンニは﹂は底本では﹁﹁ジョバンニは﹂﹈窓(まど)のところからトマトの皿(さら)をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
﹁ねえお母さん。ぼくお父さんはきっとまもなく帰ってくると思うよ﹂
﹁ああ、あたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの﹂
﹁だって今(け)朝(さ)の新聞に今年は北の方の漁(りょう)はたいへんよかったと書いてあったよ﹂
﹁ああだけどねえ、お父さんは漁(りょう)へ出ていないかもしれない﹂
﹁きっと出ているよ。お父さんが監(かん)獄(ごく)へはいるようなそんな悪(わる)いことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄(きぞ)贈(う)した巨(おお)きな蟹(かに)の甲(こう)らだのとなかいの角(つの)だの今だってみんな標(ひょ)本(うほ)室(んしつ)にあるんだ。六年生なんか授(じゅ)業(ぎょう)のとき先生がかわるがわる教室へ持(も)って行くよ﹂
﹁お父さんはこの次(つぎ)はおまえにラッコの上(うわ)着(ぎ)をもってくるといったねえ﹂
﹁みんながぼくにあうとそれを言(い)うよ。ひやかすように言(い)うんだ﹂
﹁おまえに悪(わる)口(くち)を言(い)うの﹂
﹁うん、けれどもカムパネルラなんか決(けっ)して言(い)わない。カムパネルラはみんながそんなことを言(い)うときはきのどくそうにしているよ﹂
﹁カムパネルラのお父さんとうちのお父さんとは、ちょうどおまえたちのように小さいときからのお友(とも)達(だち)だったそうだよ﹂
﹁ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途(とち)中(ゅう)たびたびカムパネルラのうちに寄(よ)った。カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合わせるとまるくなってそれに電(でん)柱(ちゅう)や信(しん)号(ごう)標(ひょう)もついていて信(しん)号(ごう)標(ひょう)のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石(せき)油(ゆ)をつかったら、缶(かん)がすっかりすすけたよ﹂
﹁そうかねえ﹂
﹁いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家じゅうまだしいんとしているからな﹂
﹁早いからねえ﹂
﹁ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒(ほうき)のようだ。ぼくが行くと鼻(はな)を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角(かど)までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏(から)瓜(すうり)のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ﹂
﹁そうだ。今(こん)晩(ばん)は銀(ぎん)河(が)のお祭(まつ)りだねえ﹂
﹁うん。ぼく牛(ぎゅ)乳(うにゅう)をとりながら見てくるよ﹂
﹁ああ行っておいで。川へははいらないでね﹂
﹁ああぼく岸(きし)から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ﹂
﹁もっと遊(あそ)んでおいで。カムパネルラさんといっしょなら心(しん)配(ぱい)はないから﹂
﹁ああきっといっしょだよ。お母さん、窓をしめておこうか﹂
﹁ああ、どうか。もう涼(すず)しいからね﹂
ジョバンニは立って窓(まど)をしめ、お皿(さら)やパンの袋(ふくろ)をかたづけると勢(いきお)いよく靴(くつ)をはいて、
﹁では一時間半(はん)で帰ってくるよ﹂と言(い)いながら暗(くら)い戸(とぐ)口(ち)を出ました。
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四 ケンタウル祭(さい)の夜
ジョバンニは、口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いているようなさびしい口つきで、檜(ひのき)のまっ黒にならんだ町の坂(さか)をおりて来たのでした。
坂(さか)の下に大きな一つの街(がい)燈(とう)が、青白く立(りっ)派(ぱ)に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電(でん)燈(とう)の方へおりて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影(かげ)ぼうしは、だんだん濃(こ)く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振(ふ)ったり、ジョバンニの横(よこ)の方へまわって来るのでした。
︵ぼくは立(りっ)派(ぱ)な機(きか)関(んし)車(ゃ)だ。ここは勾(こう)配(ばい)だから速(はや)いぞ。ぼくはいまその電(でん)燈(とう)を通り越(こ)す。そうら、こんどはぼくの影(かげ)法(ぼう)師(し)はコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た︶
とジョバンニが思いながら、大(おお)股(また)にその街(がい)燈(とう)の下を通り過(す)ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新しいえりのとがったシャツを着(き)て、電(でん)燈(とう)の向(む)こう側(がわ)の暗(くら)い小(こう)路(じ)から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
﹁ザネリ、烏(から)瓜(すうり)ながしに行くの﹂ジョバンニがまだそう言(い)ってしまわないうちに、
﹁ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上(うわ)着(ぎ)が来るよ﹂その子が投(な)げつけるようにうしろから叫(さけ)びました。
ジョバンニは、ばっと胸(むね)がつめたくなり、そこらじゅうきいんと鳴るように思いました。
﹁なんだい、ザネリ﹂とジョバンニは高く叫(さけ)び返(かえ)しましたが、もうザネリは向(む)こうのひばの植(う)わった家の中へはいっていました。
︵ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを言(い)うのだろう。走るときはまるで鼠(ねずみ)のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを言(い)うのはザネリがばかなからだ︶
ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯(あかり)や木の枝(えだ)で、すっかりきれいに飾(かざ)られた街(まち)を通って行きました。時(とけ)計(い)屋(や)の店には明るくネオン燈(とう)がついて、一秒(びょう)ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼(め)が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝(ほう)石(せき)が海のような色をした厚(あつ)い硝(ガラ)子(ス)の盤(ばん)に載(の)って、星のようにゆっくり循(めぐ)ったり、また向(む)こう側(がわ)から、銅(どう)の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中にまるい黒い星(せい)座(ざは)早(や)見(み)が青いアスパラガスの葉(は)で飾(かざ)ってありました。
ジョバンニはわれを忘(わす)れて、その星(せい)座(ざ)の図に見入りました。
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですが、その日と時間に合わせて盤(ばん)をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕(だえ)円(んけ)形(い)のなかにめぐってあらわれるようになっており、やはりそのまん中には上から下へかけて銀(ぎん)河(が)がぼうとけむったような帯(おび)になって、その下の方ではかすかに爆(ばく)発(はつ)して湯(ゆ)げでもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の脚(あし)のついた小さな望(ぼう)遠(えん)鏡(きょう)が黄いろに光って立っていましたし、いちばんうしろの壁(かべ)には空じゅうの星(せい)座(ざ)をふしぎな獣(けもの)や蛇(へび)や魚や瓶(びん)の形に書いた大きな図(ず)がかかっていました。ほんとうにこんなような蠍(さそり)だの勇(ゆう)士(し)だのそらにぎっしりいるだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ってたりしてしばらくぼんやり立っていました。
それからにわかにお母さんの牛(ぎゅ)乳(うにゅう)のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。
そしてきゅうくつな上(うわ)着(ぎ)の肩(かた)を気にしながら、それでもわざと胸(むね)を張(は)って大きく手を振(ふ)って町を通って行きました。
空気は澄(す)みきって、まるで水のように通りや店の中を流(なが)れましたし、街(がい)燈(とう)はみなまっ青なもみや楢(なら)の枝(えだ)で包(つつ)まれ、電気会社の前の六本のプラタナスの木などは、中にたくさんの豆(まめ)電(でん)燈(とう)がついて、ほんとうにそこらは人魚の都(みやこ)のように見えるのでした。子どもらは、みんな新しい折(おり)のついた着(きも)物(の)を着(き)て、星めぐりの口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いたり、
﹁ケンタウルス、露(つゆ)をふらせ﹂と叫(さけ)んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃(も)したりして、たのしそうに遊(あそ)んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深(ふか)く首(くび)をたれて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛(ぎゅ)乳(うに)屋(ゅうや)の方へ急(いそ)ぐのでした。
ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾(いく)本(ほん)も幾(いく)本(ほん)も、高く星ぞらに浮(う)かんでいるところに来ていました。その牛(ぎゅ)乳(うに)屋(ゅうや)の黒い門(もん)をはいり、牛のにおいのするうすくらい台(だい)所(どころ)の前に立って、ジョバンニは帽(ぼう)子(し)をぬいで、
﹁今(こん)晩(ばん)は﹂と言(い)いましたら、家の中はしいんとして誰(だれ)もいたようではありませんでした。
﹁今(こん)晩(ばん)は、ごめんなさい﹂ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫(さけ)びました。するとしばらくたってから、年とった女の人が、どこかぐあいが悪(わる)いようにそろそろと出て来て、何か用かと口の中で言(い)いました。
﹁あの、今日、牛(ぎゅ)乳(うにゅう)が僕(ぼく)※﹇#小書き平仮名ん、183-7﹈とこへ来なかったので、もらいにあがったんです﹂ジョバンニが一生けん命(めい)勢(いきお)いよく言(い)いました。
﹁いま誰(だれ)もいないでわかりません。あしたにしてください﹂その人は赤い眼(め)の下のとこをこすりながら、ジョバンニを見おろして言(い)いました。
﹁おっかさんが病(びょ)気(うき)なんですから今(こん)晩(ばん)でないと困(こま)るんです﹂
﹁ではもう少したってから来てください﹂その人はもう行ってしまいそうでした。
﹁そうですか。ではありがとう﹂ジョバンニは、お辞(じ)儀(ぎ)をして台(だい)所(どころ)から出ました。
十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向(む)こうの橋(はし)へ行く方の雑(ざっ)貨(かて)店(ん)の前で、黒い影(かげ)やぼんやり白いシャツが入り乱(みだ)れて、六、七人の生徒らが、口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いたり笑(わら)ったりして、めいめい烏(から)瓜(すうり)の燈(あか)火(り)を持(も)ってやって来(く)るのを見(み)ました。その笑(わら)い声も口(くち)笛(ぶえ)も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同(どう)級(きゅう)の子(こど)供(も)らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻(もど)ろうとしましたが、思い直(なお)して、いっそう勢(いきお)いよくそっちへ歩いて行きました。
﹁川へ行くの﹂ジョバンニが言(い)おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
﹁ジョバンニ、ラッコの上(うわ)着(ぎ)が来るよ﹂さっきのザネリがまた叫(さけ)びました。
﹁ジョバンニ、ラッコの上(うわ)着(ぎ)が来るよ﹂すぐみんなが、続(つづ)いて叫(さけ)びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急(いそ)いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラがいたのです。カムパネルラはきのどくそうに、だまって少しわらって、おこらないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。
ジョバンニは、にげるようにその眼(め)を避(さ)け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過(す)ぎて行ってまもなく、みんなはてんでに口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)きました。町かどを曲(ま)がるとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いて向(む)こうにぼんやり見える橋(はし)の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも言(い)えずさびしくなって、いきなり走りだしました。すると耳に手をあてて、わあわあと言(い)いながら片(かた)足(あし)でぴょんぴょん跳(と)んでいた小さな子(こど)供(も)らは、ジョバンニがおもしろくてかけるのだと思って、わあいと叫(さけ)びました。
まもなくジョバンニは走りだして黒い丘(おか)の方へ急(いそ)ぎました。
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五 天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)
牧(ぼく)場(じょう)のうしろはゆるい丘(おか)になって、その黒い平(たい)らな頂(ちょ)上(うじょう)は、北の大(おお)熊(くま)星(ぼし)の下に、ぼんやりふだんよりも低(ひく)く、連(つら)なって見えました。
ジョバンニは、もう露(つゆ)の降(お)りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照(て)らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉(は)は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持(も)って行った烏(から)瓜(すうり)のあかりのようだとも思いました。
そのまっ黒な、松(まつ)や楢(なら)の林を越(こ)えると、にわかにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙(わた)っているのが見え、また頂(いただき)の、天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢(ゆめ)の中からでもかおりだしたというように咲(さ)き、鳥が一疋(ぴき)、丘(おか)の上を鳴き続(つづ)けながら通って行きました。
ジョバンニは、頂(いただき)の天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投(な)げました。
町の灯(あかり)は、暗(やみ)の中をまるで海の底(そこ)のお宮(みや)のけしきのようにともり、子(こど)供(も)らの歌う声や口(くち)笛(ぶえ)、きれぎれの叫(さけ)び声もかすかに聞こえて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘(おか)の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗(あせ)でぬれたシャツもつめたく冷(ひ)やされました。
野原から汽車の音が聞こえてきました。その小さな列(れっ)車(しゃ)の窓(まど)は一(いち)列(れつ)小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅(たび)人(びと)が、苹(りん)果(ご)をむいたり、わらったり、いろいろなふうにしていると考えますと、ジョバンニは、もうなんとも言(い)えずかなしくなって、また眼(め)をそらに挙(あ)げました。
︵五枚(まい)分(ぶん)なし︶
ところがいくら見ていても、そのそらは、ひる先生の言(い)ったような、がらんとした冷(つめ)たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧(ぼく)場(じょう)やらある野(のは)原(ら)のように考えられてしかたなかったのです。そしてジョバンニは青い琴(こと)の星が、三つにも四つにもなって、ちらちらまたたき、脚(あし)が何べんも出たり引っ込(こ)んだりして、とうとう蕈(きのこ)のように長く延(の)びるのを見ました。またすぐ眼(め)の下のまちまでが、やっぱりぼんやりしたたくさんの星の集(あつ)まりか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。
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六 銀(ぎん)河(が)ステーション
そしてジョバンニはすぐうしろの天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)がいつかぼんやりした三(さん)角(かく)標(ひょう)の形になって、しばらく蛍(ほたる)のように、ぺかぺか消(き)えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃(こ)い鋼(はが)青(ね)のそらの野原にたちました。いま新しく灼(や)いたばかりの青い鋼(はがね)の板(いた)のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
するとどこかで、ふしぎな声が、銀(ぎん)河(が)ステーション、銀(ぎん)河(が)ステーションと言(い)う声がしたと思うと、いきなり眼(め)の前が、ぱっと明るくなって、まるで億(おく)万(まん)の蛍(ほた)烏(るい)賊(か)の火を一ぺんに化(かせ)石(き)させて、そらじゅうに沈(しず)めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫(と)れないふりをして、かくしておいた金(こん)剛(ごう)石(せき)を、誰(だれ)かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、眼(め)の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼(め)をこすってしまいました。
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗(の)っている小さな列(れっ)車(しゃ)が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽(けい)便(べん)鉄(てつ)道(どう)の、小さな黄いろの電(でん)燈(とう)のならんだ車室に、窓(まど)から外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い天(ビロ)鵞(ー)絨(ド)を張(は)った腰(こし)掛(か)けが、まるでがらあきで、向(む)こうの鼠(ねずみ)いろのワニスを塗(ぬ)った壁(かべ)には、真(しん)鍮(ちゅう)の大きなぼたんが二つ光っているのでした。
すぐ前の席(せき)に、ぬれたようにまっ黒な上(うわ)着(ぎ)を着た、せいの高い子(こど)供(も)が、窓から頭を出して外を見ているのに気がつきました。そしてそのこどもの肩(かた)のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰(だれ)だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓(まど)から顔を出そうとしたとき、にわかにその子(こど)供(も)が頭を引っ込(こ)めて、こっちを見ました。
それはカムパネルラだったのです。ジョバンニが、
カムパネルラ、きみは前からここにいたの、と言(い)おうと思ったとき、カムパネルラが、
﹁みんなはね、ずいぶん走ったけれども遅(おく)れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追(お)いつかなかった﹂と言(い)いました。
ジョバンニは、
︵そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出かけたのだ︶とおもいながら、
﹁どこかで待(ま)っていようか﹂と言(い)いました。するとカムパネルラは、
﹁ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎(むか)いにきたんだ﹂
カムパネルラは、なぜかそう言(い)いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦(くる)しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘(わす)れたものがあるというような、おかしな気(き)持(も)ちがしてだまってしまいました。
ところがカムパネルラは、窓(まど)から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直(なお)って、勢(いきお)いよく言(い)いました。
﹁ああしまった。ぼく、水(すい)筒(とう)を忘(わす)れてきた。スケッチ帳(ちょう)も忘(わす)れてきた。けれどかまわない。もうじき白鳥の停(てい)車(しゃ)場(ば)だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛(と)んでいたって、ぼくはきっと見える﹂
そして、カムパネルラは、まるい板(いた)のようになった地(ち)図(ず)を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったく、その中に、白くあらわされた天の川の左の岸(きし)に沿(そ)って一条(じょう)の鉄(てつ)道(どう)線(せん)路(ろ)が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立(りっ)派(ぱ)なことは、夜のようにまっ黒な盤(ばん)の上に、一々の停(てい)車(しゃ)場(ば)や三(さん)角(かく)標(ひょう)、泉(せん)水(すい)や森が、青や橙(だいだい)や緑(みどり)や、うつくしい光でちりばめられてありました。
ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
﹁この地(ち)図(ず)はどこで買ったの。黒(こく)曜(よう)石(せき)でできてるねえ﹂
ジョバンニが言(い)いました。
﹁銀(ぎん)河(が)ステーションで、もらったんだ。君(きみ)もらわなかったの﹂
﹁ああ、ぼく銀(ぎん)河(が)ステーションを通ったろうか。いまぼくたちのいるとこ、ここだろう﹂
ジョバンニは、白鳥と書いてある停(てい)車(しゃ)場(ば)のしるしの、すぐ北を指(さ)しました。
﹁そうだ。おや、あの河(かわ)原(ら)は月夜だろうか﹂そっちを見ますと、青白く光る銀(ぎん)河(が)の岸(きし)に、銀(ぎん)いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波(なみ)を立てているのでした。
﹁月夜でないよ。銀(ぎん)河(が)だから光るんだよ﹂ジョバンニは言(い)いながら、まるではね上がりたいくらい愉(ゆか)快(い)になって、足をこつこつ鳴らし、窓(まど)から顔を出して、高く高く星めぐりの口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)きながら一生けん命(めい)延(の)びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水(すい)素(そ)よりもすきとおって、ときどき眼(め)のかげんか、ちらちら紫(むらさき)いろのこまかな波(なみ)をたてたり、虹(にじ)のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流(なが)れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐(りん)光(こう)の三(さん)角(かく)標(ひょう)が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙(だいだい)や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三(さん)角(かく)形(けい)、あるいは四(しへ)辺(んけ)形(い)、あるいは電(いなずま)や鎖(くさり)の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振(ふ)りました。するとほんとうに、そのきれいな野(のは)原(ら)じゅうの青や橙(だいだい)や、いろいろかがやく三(さん)角(かく)標(ひょう)も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫(ふる)えたりしました。
﹁ぼくはもう、すっかり天の野原に来た﹂ジョバンニは言(い)いました。
﹁それに、この汽車石(せき)炭(たん)をたいていないねえ﹂ジョバンニが左手をつき出して窓(まど)から前の方を見ながら言(い)いました。
﹁アルコールか電気だろう﹂カムパネルラが言(い)いました。
するとちょうど、それに返(へん)事(じ)するように、どこか遠くの遠くのもやのもやの中から、セロのようなごうごうした声がきこえて来ました。
﹁ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただうごくようにきまっているからうごいているのだ。ごとごと音をたてていると、そうおまえたちは思っているけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれているためなのだ﹂
﹁あの声、ぼくなんべんもどこかできいた﹂
﹁ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた﹂
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三(さん)角(かく)点(てん)の青じろい微(びこ)光(う)の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
﹁ああ、りんどうの花が咲(さ)いている。もうすっかり秋だねえ﹂カムパネルラが、窓(まど)の外を指(ゆび)さして言(い)いました。
線(せん)路(ろ)のへりになったみじかい芝(しば)草(くさ)の中に、月(げっ)長(ちょ)石(うせき)ででも刻(きざ)まれたような、すばらしい紫(むらさき)のりんどうの花が咲(さ)いていました。
﹁ぼく飛(と)びおりて、あいつをとって、また飛(と)び乗(の)ってみせようか﹂ジョバンニは胸(むね)をおどらせて言(い)いました。
﹁もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから﹂
カムパネルラが、そう言(い)ってしまうかしまわないうち、次(つぎ)のりんどうの花が、いっぱいに光って過(す)ぎて行きました。
と思ったら、もう次(つぎ)から次(つぎ)から、たくさんのきいろな底(そこ)をもったりんどうの花のコップが、湧(わ)くように、雨のように、眼(め)の前を通り、三(さん)角(かく)標(ひょう)の列(れつ)は、けむるように燃(も)えるように、いよいよ光って立ったのです。
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七 北(きた)十(じゅ)字(うじ)とプリオシン海(かい)岸(がん)
﹁おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか﹂
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、せきこんで言(い)いました。
ジョバンニは、
︵ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙(だいだい)いろの三(さん)角(かく)標(ひょう)のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった︶と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
﹁ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸(さいわい)なんだろう﹂カムパネルラは、なんだか、泣(な)きだしたいのを、一生けん命(めい)こらえているようでした。
﹁きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの﹂ジョバンニはびっくりして叫(さけ)びました。
﹁ぼくわからない。けれども、誰(だれ)だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸(さいわい)なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う﹂カムパネルラは、なにかほんとうに決(けっ)心(しん)しているように見えました。
にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金(こん)剛(ごう)石(せき)や草の露(つゆ)やあらゆる立(りっ)派(ぱ)さをあつめたような、きらびやかな銀(ぎん)河(が)の河(かわ)床(どこ)の上を、水は声もなくかたちもなく流(なが)れ、その流(なが)れのまん中に、ぼうっと青白く後(ごこ)光(う)の射(さ)した一つの島(しま)が見えるのでした。その島(しま)の平(たい)らないただきに、立(りっ)派(ぱ)な眼(め)もさめるような、白い十(じゅ)字(うじ)架(か)がたって、それはもう、凍(こお)った北(ほっ)極(きょく)の雲で鋳(い)たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永(えい)久(きゅう)に立っているのでした。
﹁ハレルヤ、ハレルヤ﹂前からもうしろからも声が起(お)こりました。ふりかえって見ると、車室の中の旅(たび)人(びと)たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂(た)れ、黒いバイブルを胸(むね)にあてたり、水(すい)晶(しょう)の数(じゅ)珠(ず)をかけたり、どの人もつつましく指(ゆび)を組み合わせて、そっちに祈(いの)っているのでした。思わず二(ふた)人(り)ともまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬(ほお)は、まるで熟(じゅく)した苹(りん)果(ご)のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
そして島(しま)と十(じゅ)字(うじ)架(か)とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
向(む)こう岸(ぎし)も、青じろくぼうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀(ぎん)いろがけむって、息(いき)でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐(きつ)火(ねび)のように思われました。
それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列(れつ)でさえぎられ、白鳥の島(しま)は、二度(ど)ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵(え)のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗(の)っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリックふうの尼(あま)さんが、まんまるな緑(みどり)の瞳(ひとみ)を、じっとまっすぐに落(お)として、まだ何かことばか声かが、そっちから伝(つた)わって来るのを、虔(つつし)んで聞いているというように見えました。旅(たび)人(びと)たちはしずかに席(せき)に戻(もど)り、二(ふた)人(り)も胸(むね)いっぱいのかなしみに似(に)た新しい気(き)持(も)ちを、何気なくちがった語(ことば)で、そっと談(はな)し合ったのです。
﹁もうじき白鳥の停(てい)車(しゃ)場(ば)だねえ﹂
﹁ああ、十一時かっきりには着(つ)くんだよ﹂
早くも、シグナルの緑(みどり)の燈と、ぼんやり白い柱(はしら)とが、ちらっと窓(まど)のそとを過(す)ぎ、それから硫(いお)黄(う)のほのおのようなくらいぼんやりした転(てん)てつ機(き)の前のあかりが窓(まど)の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、まもなくプラットホームの一列(れつ)の電(でん)燈(とう)が、うつくしく規(きそ)則(く)正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人はちょうど白鳥停(てい)車(しゃ)場(じょう)の、大きな時(とけ)計(い)の前に来てとまりました。
さわやかな秋の時(とけ)計(い)の盤(ばん)面(めん)には、青く灼(や)かれたはがねの二本の針(はり)が、くっきり十一時を指(さ)しました。みんなは、一ぺんにおりて、車室の中はがらんとなってしまいました。
︹二十分停(てい)車(しゃ)︺と時(とけ)計(い)の下に書いてありました。
﹁ぼくたちも降(お)りて見ようか﹂ジョバンニが言(い)いました。
﹁降(お)りよう﹂二(ふた)人(り)は一度(ど)にはねあがってドアを飛(と)び出して改(かい)札(さつ)口(ぐち)へかけて行きました。ところが改(かい)札(さつ)口(ぐち)には、明るい紫(むらさき)がかった電(でん)燈(とう)が、一つ点(つ)いているばかり、誰(だれ)もいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅(えき)長(ちょう)や赤(あか)帽(ぼう)らしい人の、影(かげ)もなかったのです。
二(ふた)人(り)は、停(てい)車(しゃ)場(ば)の前の、水(すい)晶(しょ)細(うざ)工(いく)のように見える銀(いち)杏(ょう)の木に囲(かこ)まれた、小さな広場に出ました。
そこから幅(はば)の広いみちが、まっすぐに銀(ぎん)河(が)の青(あお)光(びかり)の中へ通っていました。
さきに降(お)りた人たちは、もうどこへ行ったか一(ひと)人(り)も見えませんでした。二(ふた)人(り)がその白い道を、肩(かた)をならべて行きますと、二(ふた)人(り)の影(かげ)は、ちょうど四方に窓(まど)のある室(へや)の中の、二本の柱(はしら)の影(かげ)のように、また二つの車(しゃ)輪(りん)の輻(や)のように幾(いく)本(ほん)も幾(いく)本(ほん)も四方へ出るのでした。そしてまもなく、あの汽車から見えたきれいな河(かわ)原(ら)に来ました。
カムパネルラは、そのきれいな砂(すな)を一つまみ、掌(てのひら)にひろげ、指(ゆび)できしきしさせながら、夢(ゆめ)のように言(い)っているのでした。
﹁この砂(すな)はみんな水(すい)晶(しょう)だ。中で小さな火が燃(も)えている﹂
﹁そうだ﹂どこでぼくは、そんなことを習(なら)ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
河(かわ)原(ら)の礫(こいし)は、みんなすきとおって、たしかに水(すい)晶(しょう)や黄(トパ)玉(ーズ)や、またくしゃくしゃの皺(しゅ)曲(うきょく)をあらわしたのや、また稜(かど)から霧(きり)のような青白い光を出す鋼(コラ)玉(ンダム)やらでした。ジョバンニは、走ってその渚(なぎさ)に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀(ぎん)河(が)の水は、水(すい)素(そ)よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流(なが)れていたことは、二(ふた)人(り)の手(てく)首(び)の、水にひたったとこが、少し水(すい)銀(ぎん)いろに浮(う)いたように見え、その手(てく)首(び)にぶっつかってできた波(なみ)は、うつくしい燐(りん)光(こう)をあげて、ちらちらと燃(も)えるように見えたのでもわかりました。
川上の方を見ると、すすきのいっぱいにはえている崖(がけ)の下に、白い岩(いわ)が、まるで運(うん)動(どう)場(じょう)のように平(たい)らに川に沿(そ)って出ているのでした。そこに小さな五、六人の人かげが、何か掘(ほ)り出すか埋(う)めるかしているらしく、立ったりかがんだり、時々なにかの道(どう)具(ぐ)が、ピカッと光ったりしました。
﹁行ってみよう﹂二(ふた)人(り)は、まるで一度(ど)に叫(さけ)んで、そっちの方へ走りました。その白い岩(いわ)になったところの入口に、︹プリオシン海(かい)岸(がん)︺という、瀬(せと)戸(も)物(の)のつるつるした標(ひょ)札(うさつ)が立って、向こうの渚(なぎさ)には、ところどころ、細(ほそ)い鉄(てつ)の欄(らん)干(かん)も植(う)えられ、木(もく)製(せい)のきれいなベンチも置(お)いてありました。
﹁おや、変(へん)なものがあるよ﹂カムパネルラが、不(ふ)思(し)議(ぎ)そうに立ちどまって、岩(いわ)から黒い細(ほそ)長(なが)いさきのとがったくるみの実(み)のようなものをひろいました。
﹁くるみの実(み)だよ。そら、たくさんある。流(なが)れて来たんじゃない。岩(いわ)の中にはいってるんだ﹂
﹁大きいね、このくるみ、倍(ばい)あるね。こいつはすこしもいたんでない﹂
﹁早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘(ほ)ってるから﹂
二(ふた)人(り)は、ぎざぎざの黒いくるみの実(み)を持(も)ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚(なぎさ)には、波(なみ)がやさしい稲(いな)妻(ずま)のように燃(も)えて寄(よ)せ、右手の崖(がけ)には、いちめん銀(ぎん)や貝(かい)殻(がら)でこさえたようなすすきの穂(ほ)がゆれたのです。
だんだん近づいて見ると、一人のせいの高い、ひどい近(きん)眼(がん)鏡(きょう)をかけ、長(なが)靴(ぐつ)をはいた学(がく)者(しゃ)らしい人が、手(てち)帳(ょう)に何かせわしそうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の助(じょ)手(しゅ)らしい人たちに夢(むち)中(ゅう)でいろいろ指(さし)図(ず)をしていました。
﹁そこのその突(とっ)起(き)をこわさないように、スコップを使いたまえ、スコップを。おっと、も少し遠くから掘(ほ)って。いけない、いけない、なぜそんな乱(らん)暴(ぼう)をするんだ﹂
見ると、その白い柔(やわ)らかな岩(いわ)の中から、大きな大きな青じろい獣(けもの)の骨(ほね)が、横に倒(たお)れてつぶれたというふうになって、半(はん)分(ぶん)以(いじ)上(ょう)掘(ほ)り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄(ひづめ)の二つある足(あし)跡(あと)のついた岩(いわ)が、四(しか)角(く)に十ばかり、きれいに切り取られて番(ばん)号(ごう)がつけられてありました。
﹁君たちは参(さん)観(かん)かね﹂その大(だい)学(がく)士(し)らしい人が、眼(めが)鏡(ね)をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
﹁くるみがたくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十万(まん)年(ねん)ぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万(まん)年(ねん)前(まえ)、第(だい)三(さん)紀(き)のあとのころは海(かい)岸(がん)でね、この下からは貝(かい)がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩(しお)水(みず)が寄(よ)せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこ、つるはしはよしたまえ。ていねいに鑿(のみ)でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛(うし)の先(せん)祖(ぞ)で、昔(むかし)はたくさんいたのさ﹂
﹁標(ひょ)本(うほん)にするんですか﹂
﹁いや、証(しょ)明(うめい)するに要(い)るんだ。ぼくらからみると、ここは厚(あつ)い立(りっ)派(ぱ)な地(ちそ)層(う)で、百二十万(まん)年(ねん)ぐらい前にできたという証(しょ)拠(うこ)もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地(ちそ)層(う)に見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい、そこもスコップではいけない。そのすぐ下に肋(ろっ)骨(こつ)が埋(う)もれてるはずじゃないか﹂
大(だい)学(がく)士(し)はあわてて走って行きました。
﹁もう時間だよ。行こう﹂カムパネルラが地図と腕(うで)時(どけ)計(い)とをくらべながら言(い)いました。
﹁ああ、ではわたくしどもは失(しつ)礼(れい)いたします﹂ジョバンニは、ていねいに大(だい)学(がく)士(し)におじぎしました。
﹁そうですか。いや、さよなら﹂大(だい)学(がく)士(し)は、また忙(いそが)しそうに、あちこち歩きまわって監(かん)督(とく)をはじめました。
二(ふた)人(り)は、その白い岩(いわ)の上を、一生けん命(めい)汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息(いき)も切れず膝(ひざ)もあつくなりませんでした。
こんなにしてかけるなら、もう世(せか)界(い)じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
そして二(ふた)人(り)は、前のあの河(かわ)原(ら)を通り、改(かい)札(さつ)口(ぐち)の電(でん)燈(とう)がだんだん大きくなって、まもなく二(ふた)人(り)は、もとの車室の席(せき)にすわっていま行って来た方を、窓(まど)から見ていました。
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八 鳥を捕(と)る人
﹁ここへかけてもようございますか﹂
がさがさした、けれども親切そうな、大(おと)人(な)の声が、二(ふた)人(り)のうしろで聞こえました。
それは、茶いろの少しぼろぼろの外(がい)套(とう)を着(き)て、白い巾(きれ)でつつんだ荷(にも)物(つ)を、二つに分けて肩(かた)に掛(か)けた、赤(あか)髯(ひげ)のせなかのかがんだ人でした。
﹁ええ、いいんです﹂ジョバンニは、少し肩(かた)をすぼめてあいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに微(わ)笑(ら)いながら荷(にも)物(つ)をゆっくり網(あみ)棚(だな)にのせました。ジョバンニは、なにかたいへんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正(しょ)面(うめん)の時(とけ)計(い)を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝(ガラ)子(ス)の笛(ふえ)のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天(てん)井(じょう)を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲(かぶ)虫(とむし)がとまって、その影(かげ)が大きく天(てん)井(じょう)にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓(まど)の外から光りました。
赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊(き)きました。
﹁あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか﹂
﹁どこまでも行くんです﹂ジョバンニは、少しきまり悪(わる)そうに答えました。
﹁それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ﹂
﹁あなたはどこへ行くんです﹂カムパネルラが、いきなり、喧(けん)嘩(か)のようにたずねましたので、ジョバンニは思わずわらいました。すると、向(む)こうの席(せき)にいた、とがった帽(ぼう)子(し)をかぶり、大きな鍵(かぎ)を腰(こし)に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑(わら)いだしてしまいました。ところがその人は別(べつ)におこったでもなく、頬(ほお)をぴくぴくしながら返(へん)事(じ)をしました。
﹁わっしはすぐそこで降(お)ります。わっしは、鳥をつかまえる商(しょ)売(うばい)でね﹂
﹁何鳥ですか﹂
﹁鶴(つる)や雁(がん)です。さぎも白鳥もです﹂
﹁鶴(つる)はたくさんいますか﹂
﹁いますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか﹂
﹁いいえ﹂
﹁いまでも聞こえるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴(き)いてごらんなさい﹂
二(ふた)人(り)は眼(め)を挙(あ)げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧(わ)くような音が聞こえて来るのでした。
﹁鶴(つる)、どうしてとるんですか﹂
﹁鶴(つる)ですか、それとも鷺(さぎ)ですか﹂
﹁鷺(さぎ)です﹂ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
﹁そいつはな、雑(ぞう)作(さ)ない。さぎというものは、みんな天の川の砂(すな)が凝(かたま)って、ぼおっとできるもんですからね、そして始(しじ)終(ゅう)川へ帰りますからね、川原で待(ま)っていて、鷺(さぎ)がみんな、脚(あし)をこういうふうにしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押(おさ)えちまうんです。するともう鷺(さぎ)は、かたまって安(あん)心(しん)して死(し)んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押(お)し葉(ば)にするだけです﹂
﹁鷺(さぎ)を押(お)し葉(ば)にするんですか。標(ひょ)本(うほん)ですか﹂
﹁標(ひょ)本(うほん)じゃありません。みんなたべるじゃありませんか﹂
﹁おかしいねえ﹂カムパネルラが首(くび)をかしげました。
﹁おかしいも不(ふし)審(ん)もありませんや。そら﹂その男は立って、網(あみ)棚(だな)から包(つつ)みをおろして、手ばやくくるくると解(と)きました。
﹁さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです﹂
﹁ほんとうに鷺(さぎ)だねえ﹂二(ふた)人(り)は思わず叫(さけ)びました。まっ白な、あのさっきの北の十(じゅ)字(うじ)架(か)のように光る鷺(さぎ)のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚(あし)をちぢめて、浮(うき)彫(ぼ)りのようにならんでいたのです。
﹁眼(め)をつぶってるね﹂カムパネルラは、指(ゆび)でそっと、鷺(さぎ)の三(みか)日(づ)月(き)がたの白いつぶった眼(め)にさわりました。頭の上の槍(やり)のような白い毛もちゃんとついていました。
﹁ね、そうでしょう﹂鳥(とり)捕(と)りは風(ふろ)呂(し)敷(き)を重(かさ)ねて、またくるくると包(つつ)んで紐(ひも)でくくりました。誰(だれ)がいったいここらで鷺(さぎ)なんぞたべるだろうとジョバンニは思いながら訊(き)きました。
﹁鷺(さぎ)はおいしいんですか﹂
﹁ええ、毎日注(ちゅ)文(うもん)があります。しかし雁(がん)の方が、もっと売れます。雁(がん)の方がずっと柄(がら)がいいし、第(だい)一(いち)手(てす)数(う)がありませんからな。そら﹂鳥(とり)捕(と)りは、また別(べつ)の方の包(つつ)みを解(と)きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁(がん)が、ちょうどさっきの鷺(さぎ)のように、くちばしをそろえて、少しひらべったくなって、ならんでいました。
﹁こっちはすぐたべられます。どうです、少しおあがりなさい﹂鳥(とり)捕(と)りは、黄いろの雁(がん)の足を、軽(かる)くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
﹁どうです。すこしたべてごらんなさい﹂鳥(とり)捕(と)りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっとたべてみて、
︵なんだ、やっぱりこいつはお菓(か)子(し)だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁(がん)が飛(と)んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓(か)子(し)屋(や)だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓(か)子(し)をたべているのは、たいへんきのどくだ︶とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
﹁も少しおあがりなさい﹂鳥(とり)捕(と)りがまた包(つつ)みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
﹁ええ、ありがとう﹂といって遠(えん)慮(りょ)しましたら、鳥(とり)捕(と)りは、こんどは向(む)こうの席(せき)の、鍵(かぎ)をもった人に出しました。
﹁いや、商(しょ)売(うばい)ものをもらっちゃすみませんな﹂その人は、帽(ぼう)子(し)をとりました。
﹁いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡(わた)り鳥(どり)の景(けい)気(き)は﹂
﹁いや、すてきなもんですよ。一(おと)昨(と)日(い)の第(だい)二(にげ)限(ん)ころなんか、なぜ燈(とう)台(だい)の灯(ひ)を、規(きそ)則(くい)以(が)外(い)に間︵一時空白︶させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故(こし)障(ょう)が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡(わた)り鳥(どり)どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですからしかたありませんや、わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦(くじ)情(ょう)は、おれのとこへ持(も)って来たってしかたがねえや、ばさばさのマントを着(き)て脚(あし)と口との途(とほ)方(う)もなく細(ほそ)い大(たい)将(しょう)へやれって、こう言(い)ってやりましたがね、はっは﹂
すすきがなくなったために、向(む)こうの野原から、ぱっとあかりが射(さ)して来ました。
﹁鷺(さぎ)の方はなぜ手(てす)数(う)なんですか﹂カムパネルラは、さっきから、訊(き)こうと思っていたのです。
﹁それはね、鷺(さぎ)をたべるには﹂鳥(とり)捕(と)りは、こっちに向(む)き直(なお)りました。﹁天の川の水あかりに、十日もつるしておくかね、そうでなけぁ、砂(すな)に三、四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水(すい)銀(ぎん)がみんな蒸(じょ)発(うはつ)して、たべられるようになるよ﹂
﹁こいつは鳥じゃない。ただのお菓(か)子(し)でしょう﹂やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋(たず)ねました。鳥(とり)捕(と)りは、何かたいへんあわてたふうで、
﹁そうそう、ここで降(お)りなけぁ﹂と言(い)いながら、立って荷(にも)物(つ)をとったと思うと、もう見えなくなっていました。
﹁どこへ行ったんだろう﹂二(ふた)人(り)は顔を見合わせましたら、燈(とう)台(だい)守(もり)は、にやにや笑(わら)って、少し伸(の)びあがるようにしながら、二人の横(よこ)の窓(まど)の外をのぞきました。二(ふた)人(り)もそっちを見ましたら、たったいまの鳥(とり)捕(と)りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐(りん)光(こう)を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両(りょ)手(うて)をひろげて、じっとそらを見ていたのです。
﹁あすこへ行ってる。ずいぶん奇(きた)体(い)だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな﹂と言(い)ったとたん、がらんとした桔(きき)梗(ょう)いろの空から、さっき見たような鷺(さぎ)が、まるで雪の降(ふ)るように、ぎゃあぎゃあ叫(さけ)びながら、いっぱいに舞(ま)いおりて来ました。するとあの鳥(とり)捕(と)りは、すっかり注(ちゅ)文(うもん)通りだというようにほくほくして、両(りょ)足(うあし)をかっきり六十度(ど)に開いて立って、鷺(さぎ)のちぢめて降(お)りて来る黒い脚(あし)を両(りょ)手(うて)で片(かた)っぱしから押(おさ)えて、布(ぬの)の袋(ふくろ)の中に入れるのでした。すると鷺(さぎ)は、蛍(ほたる)のように、袋(ふくろ)の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消(き)えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼(め)をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無(ぶ)事(じ)に天の川の砂(すな)の上に降(お)りるものの方が多(おお)かったのです。それは見ていると、足が砂(すな)へつくや否(いな)や、まるで雪(ゆき)の解(と)けるように、縮(ちぢ)まってひらべったくなって、まもなく溶(よう)鉱(こう)炉(ろ)から出た銅(どう)の汁(しる)のように、砂(すな)や砂(じゃ)利(り)の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂(すな)についているのでしたが、それも二、三度(ど)明るくなったり暗(くら)くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
鳥(とり)捕(と)りは、二十疋(ぴき)ばかり、袋(ふくろ)に入れてしまうと、急(きゅう)に両(りょ)手(うて)をあげて、兵(へい)隊(たい)が鉄(てっ)砲(ぽう)弾(だま)にあたって、死(し)ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥(とり)捕(と)りの形はなくなって、かえって、
﹁ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼(かせ)いでいるくらい、いいことはありませんな﹂というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣(とな)りにしました。見ると鳥(とり)捕(と)りは、もうそこでとって来た鷺(さぎ)を、きちんとそろえて、一つずつ重(かさ)ね直(なお)しているのでした。
﹁どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか﹂ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問(と)いました。
﹁どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか﹂
ジョバンニは、すぐ返(へん)事(じ)をしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
﹁ああ、遠くからですね﹂鳥(とり)捕(と)りは、わかったというように雑(ぞう)作(さ)なくうなずきました。
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九 ジョバンニの切(きっ)符(ぷ)
﹁もうここらは白鳥区(く)のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観(かん)測(そく)所(じょ)です﹂
窓(まど)の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建(たて)物(もの)が四棟(むね)ばかり立って、その一つの平(ひら)屋(や)根(ね)の上に、眼(め)もさめるような、青(サフ)宝(ァイ)玉(ア)と黄(トパ)玉(ーズ)の大きな二つのすきとおった球(たま)が、輪(わ)になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向(む)こうへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進(すす)んで来、まもなく二つのはじは、重(かさ)なり合って、きれいな緑(みどり)いろの両(りょ)面(うめ)凸(んとつ)レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの正(しょ)面(うめん)に来ましたので、緑(みどり)の中心と黄いろな明るい環(わ)とができました。それがまただんだん横(よこ)へ外(そ)れて、前のレンズの形を逆(ぎゃく)にくり返(かえ)し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向(む)こうへめぐり、黄いろのはこっちへ進(すす)み、またちょうどさっきのようなふうになりました。銀(ぎん)河(が)の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測(そっ)候(こう)所(じょ)が、睡(ねむ)っているように、しずかによこたわったのです。
﹁あれは、水の速(はや)さをはかる器(きか)械(い)です。水も……﹂鳥(とり)捕(と)りが言(い)いかけたとき、
﹁切(きっ)符(ぷ)を拝(はい)見(けん)いたします﹂三人の席(せき)の横(よこ)に、赤い帽(ぼう)子(し)をかぶったせいの高い車(しゃ)掌(しょう)が、いつかまっすぐに立っていて言(い)いました。鳥(とり)捕(と)りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車(しゃ)掌(しょう)はちょっと見て、すぐ眼(め)をそらして︵あなた方のは?︶というように、指(ゆび)をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
﹁さあ﹂ジョバンニは困(こま)って、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないというふうで、小さな鼠(ねずみ)いろの切(きっ)符(ぷ)を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上(うわ)着(ぎ)のポケットにでも、はいっていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなものはいっていたろうかと思って、急(いそ)いで出してみましたら、それは四つに折(お)ったはがきぐらいの大さ﹇#﹁大さ﹂はママ﹈の緑(みどり)いろの紙でした。車(しゃ)掌(しょう)が手を出しているもんですからなんでもかまわない、やっちまえと思って渡(わた)しましたら、車(しゃ)掌(しょう)はまっすぐに立ち直(なお)ってていねいにそれを開いて見ていました。そして読みながら上(うわ)着(ぎ)のぼたんやなんかしきりに直(なお)したりしていましたし燈(とう)台(だい)看(かん)守(しゅ)も下からそれを熱(ねっ)心(しん)にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証(しょ)明(うめ)書(いしょ)か何かだったと考えて少し胸(むね)が熱(あつ)くなるような気がしました。
﹁これは三次(じく)空(うか)間(ん)の方からお持(も)ちになったのですか﹂車(しゃ)掌(しょう)がたずねました。
﹁なんだかわかりません﹂もう大(だい)丈(じょ)夫(うぶ)だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑(わら)いました。
﹁よろしゅうございます。南(サウ)十(ザン)字(クロス)へ着(つ)きますのは、次(つぎ)の第(だい)三時ころになります﹂車(しゃ)掌(しょう)は紙をジョバンニに渡(わた)して向(む)こうへ行きました。
カムパネルラは、その紙切れが何だったか待(ま)ちかねたというように急(いそ)いでのぞきこみました。ジョバンニも全(まった)く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐(から)草(くさ)のような模(もよ)様(う)の中に、おかしな十ばかりの字を印(いん)刷(さつ)したもので、だまって見ているとなんだかその中へ吸(す)い込(こ)まれてしまうような気がするのでした。すると鳥(とり)捕(と)りが横からちらっとそれを見てあわてたように言(い)いました。
﹁おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切(きっ)符(ぷ)だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通(つう)行(こう)券(けん)です。こいつをお持(も)ちになれぁ、なるほど、こんな不(ふか)完(んぜ)全(ん)な幻(げん)想(そう)第(だい)四(よ)次(じ)の銀(ぎん)河(がて)鉄(つど)道(う)なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね﹂
﹁なんだかわかりません﹂ジョバンニが赤くなって答えながら、それをまたたたんでかくしに入れました。そしてきまりが悪(わる)いのでカムパネルラと二(ふた)人(り)、また窓(まど)の外をながめていましたが、その鳥(とり)捕(と)りの時々たいしたもんだというように、ちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。
﹁もうじき鷲(わし)の停(てい)車(しゃ)場(じょう)だよ﹂カムパネルラが向(む)こう岸(ぎし)の、三つならんだ小さな青じろい三(さん)角(かく)標(ひょう)と、地図とを見くらべて言(い)いました。
ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にわかにとなりの鳥(とり)捕(と)りがきのどくでたまらなくなりました。鷺(さぎ)をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包(つつ)んだり、ひとの切(きっ)符(ぷ)をびっくりしたように横(よこ)目(め)で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥(とり)捕(と)りのために、ジョバンニの持(も)っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸(さいわい)になるなら、自分があの光る天の川の河(かわ)原(ら)に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙(だま)っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと訊(き)こうとして、それではあんまり出し抜(ぬ)けだから、どうしようかと考えてふり返(かえ)って見ましたら、そこにはもうあの鳥(とり)捕(と)りがいませんでした。網(あみ)棚(だな)の上には白い荷(にも)物(つ)も見えなかったのです。また窓(まど)の外で足をふんばってそらを見上げて鷺(さぎ)を捕(と)るしたくをしているのかと思って、急(いそ)いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂(すな)子(ご)と白いすすきの波(なみ)ばかり、あの鳥(とり)捕(と)りの広いせなかもとがった帽(ぼう)子(し)も見えませんでした。
﹁あの人どこへ行ったろう﹂カムパネルラもぼんやりそう言(い)っていました。
﹁どこへ行ったろう。いったいどこでまたあうのだろう。僕(ぼく)はどうしても少しあの人に物(もの)を言(い)わなかったろう﹂
﹁ああ、僕(ぼく)もそう思っているよ﹂
﹁僕(ぼく)はあの人が邪(じゃ)魔(ま)なような気がしたんだ。だから僕(ぼく)はたいへんつらい﹂ジョバンニはこんなへんてこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで言(い)ったこともないと思いました。
﹁なんだか苹(りん)果(ご)のにおいがする。僕(ぼく)いま苹(りん)果(ご)のことを考えたためだろうか﹂カムパネルラが不(ふ)思(し)議(ぎ)そうにあたりを見まわしました。
﹁ほんとうに苹(りん)果(ご)のにおいだよ。それから野(のい)茨(ばら)のにおいもする﹂
ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓(まど)からでもはいって来るらしいのでした。いま秋だから野(のい)茨(ばら)の花のにおいのするはずはないとジョバンニは思いました。
そしたらにわかにそこに、つやつやした黒い髪(かみ)の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけず、ひどくびっくりしたような顔をして、がたがたふるえてはだしで立っていました。隣(とな)りには黒い洋(よう)服(ふく)をきちんと着(き)たせいの高い青年がいっぱいに風に吹(ふ)かれているけやきの木のような姿(しせ)勢(い)で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
﹁あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ﹂青年のうしろに、もひとり、十二ばかりの眼(め)の茶いろな可(かわ)愛(い)らしい女の子が、黒い外(がい)套(とう)を着(き)て青年の腕(うで)にすがって不(ふ)思(し)議(ぎ)そうに窓(まど)の外を見ているのでした。
﹁ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州(しゅう)だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神(かみ)さまに召(め)されているのです﹂黒(くろ)服(ふく)の青年はよろこびにかがやいてその女の子に言(い)いました。けれどもなぜかまた額(ひたい)に深(ふか)く皺(しわ)を刻(きざ)んで、それにたいへんつかれているらしく、無(む)理(り)に笑(わら)いながら男の子をジョバンニのとなりにすわらせました。それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席(せき)を指(ゆび)さしました。女の子はすなおにそこへすわって、きちんと両(りょ)手(うて)を組み合わせました。
﹁ぼく、おおねえさんのとこへ行くんだよう﹂腰(こし)掛(か)けたばかりの男の子は顔を変(へん)にして燈(とう)台(だい)看(かん)守(しゅ)の向(む)こうの席(せき)にすわったばかりの青年に言(い)いました。青年はなんとも言(い)えず悲(かな)しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれたぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両(りょ)手(うて)を顔にあててしくしく泣(な)いてしまいました。
﹁お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕(しご)事(と)があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永(なが)く待(ま)っていらっしゃったでしょう。わたしの大(だい)事(じ)なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪(ゆき)の降(ふ)る朝にみんなと手をつないで、ぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたり、ほんとうに待(ま)って心(しん)配(ぱい)していらっしゃるんですから、早く行って、おっかさんにお目にかかりましょうね﹂
﹁うん、だけど僕(ぼく)、船に乗(の)らなけぁよかったなあ﹂
﹁ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立(りっ)派(ぱ)な川、ね、あすこはあの夏じゅう、ツィンクル、ツィンクル、リトル、スターをうたってやすむとき、いつも窓(まど)からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています﹂
泣(な)いていた姉(あね)もハンケチで眼(め)をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉(きょ)弟(うだい)にまた言(い)いました。
﹁わたしたちはもう、なんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅(たび)して、じき神(かみ)さまのとこへ行きます。そこならもう、ほんとうに明るくてにおいがよくて立(りっ)派(ぱ)な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代(か)わりにボートへ乗(の)れた人たちは、きっとみんな助(たす)けられて、心(しん)配(ぱい)して待(ま)っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう﹂青年は男の子のぬれたような黒い髪(かみ)をなで、みんなを慰(なぐさ)めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいてきました。
﹁あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか﹂
さっきの燈(とう)台(だい)看(かん)守(しゅ)がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。
﹁いえ、氷(ひょ)山(うざん)にぶっつかって船が沈(しず)みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急(きゅう)な用(よう)で二か月前、一足さきに本国へお帰りになったので、あとから発(た)ったのです。私は大学へはいっていて、家(かて)庭(いき)教(ょう)師(し)にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨(きの)日(う)のあたりです、船が氷(ひょ)山(うざん)にぶっつかって一ぺんに傾(かたむ)きもう沈(しず)みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧(きり)が非(ひじ)常(ょう)に深(ふか)かったのです。ところがボートは左(さげ)舷(ん)の方半(はん)分(ぶん)はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗(の)り切らないのです。もうそのうちにも船は沈(しず)みますし、私は必(ひっ)死(し)となって、どうか小さな人たちを乗(の)せてくださいと叫(さけ)びました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために祈(いの)ってくれました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかいて、とても押(お)しのける勇(ゆう)気(き)がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助(たす)けするのが私の義(ぎ)務(む)だと思いましたから前にいる子供らを押(お)しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助(たす)けてあげるよりはこのまま神(かみ)の御(みま)前(え)にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸(こう)福(ふく)だとも思いました。それからまた、その神(かみ)にそむく罪(つみ)はわたくしひとりでしょってぜひとも助(たす)けてあげようと思いました。けれども、どうしても見ているとそれができないのでした。子どもらばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが狂(きょ)気(うき)のようにキスを送(おく)りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなど、とてももう腸(はらわた)もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈(しず)みますから、私たちはかたまって、もうすっかり覚(かく)悟(ご)して、この人たち二人を抱(だ)いて、浮(う)かべるだけは浮(う)かぼうと船の沈(しず)むのを待(ま)っていました。誰(だれ)が投(な)げたかライフヴイが一つ飛(と)んで来ましたけれどもすべってずうっと向(む)こうへ行ってしまいました。私は一生けん命(めい)で甲(かん)板(ぱん)の格(こう)子(し)になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのときにわかに大きな音がして私たちは水に落(お)ち、もう渦(うず)にはいったと思いながらしっかりこの人たちをだいて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨(さく)年(ねん)没(な)くなられました。ええ、ボートはきっと助(たす)かったにちがいありません、なにせよほど熟(じゅ)練(くれん)な水(すい)夫(ふ)たちが漕(こ)いで、すばやく船からはなれていましたから﹂
そこらから小さな嘆(たん)息(そく)やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで忘(わす)れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼(め)が熱(あつ)くなりました。
︵ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷(ひょ)山(うざん)の流(なが)れる北のはての海で、小さな船に乗(の)って、風や凍(こお)りつく潮(しお)水(みず)や、はげしい寒(さむ)さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうにきのどくでそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう︶
ジョバンニは首(くび)をたれて、すっかりふさぎ込(こ)んでしまいました。
﹁なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進(すす)む中でのできごとなら、峠(とうげ)の上りも下りもみんなほんとうの幸(こう)福(ふく)に近づく一あしずつですから﹂
燈(とう)台(だい)守(もり)がなぐさめていました。
﹁ああそうです。ただいちばんのさいわいに至(いた)るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです﹂
青年が祈(いの)るようにそう答えました。
そしてあの姉(きょ)弟(うだい)はもうつかれてめいめいぐったり席(せき)によりかかって睡(ねむ)っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔(やわ)らかな靴(くつ)をはいていたのです。
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐(りん)光(こう)の川の岸(きし)を進(すす)みました。向(む)こうの方の窓(まど)を見ると、野原はまるで幻(げん)燈(とう)のようでした。百も千もの大小さまざまの三(さん)角(かく)標(ひょう)、その大きなものの上には赤い点々をうった測(そく)量(りょ)旗(うき)も見え、野(のは)原(ら)のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集(あつ)まってぼおっと青白い霧(きり)のよう、そこからか、またはもっと向(む)こうからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼(のろ)煙(し)のようなものが、かわるがわるきれいな桔(きき)梗(ょう)いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇(きれ)麗(い)な風は、ばらのにおいでいっぱいでした。
﹁いかがですか。こういう苹(りん)果(ご)はおはじめてでしょう﹂向(む)こうの席(せき)の燈(とう)台(だい)看(かん)守(しゅ)がいつか黄(き)金(ん)と紅(べに)でうつくしくいろどられた大きな苹(りん)果(ご)を落(お)とさないように両(りょ)手(うて)で膝(ひざ)の上にかかえていました。
﹁おや、どっから来たのですか。立(りっ)派(ぱ)ですねえ。ここらではこんな苹(りん)果(ご)ができるのですか﹂青年はほんとうにびっくりしたらしく、燈(とう)台(だい)看(かん)守(しゅ)の両(りょ)手(うて)にかかえられた一もりの苹(りん)果(ご)を、眼(め)を細(ほそ)くしたり首(くび)をまげたりしながら、われを忘(わす)れてながめていました。
﹁いや、まあおとりください。どうか、まあおとりください﹂
青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
﹁さあ、向(む)こうの坊(ぼっ)ちゃんがた。いかがですか。おとりください﹂
ジョバンニは坊(ぼっ)ちゃんといわれたので、すこししゃくにさわってだまっていましたが、カムパネルラは、
﹁ありがとう﹂と言(い)いました。
すると青年は自分でとって一つずつ二人に送(おく)ってよこしましたので、ジョバンニも立って、ありがとうと言(い)いました。
燈(とう)台(だい)看(かん)守(しゅ)はやっと両(りょ)腕(ううで)があいたので、こんどは自分で一つずつ睡(ねむ)っている姉(きょ)弟(うだい)の膝(ひざ)にそっと置(お)きました。
﹁どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立(りっ)派(ぱ)な苹(りん)果(ご)は﹂
青年はつくづく見ながら言(い)いました。
﹁この辺(あたり)ではもちろん農(のう)業(ぎょう)はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような約(やく)束(そく)になっております。農(のう)業(ぎょう)だってそんなにほねはおれはしません。たいてい自分の望(のぞ)む種(た)子(ね)さえ播(ま)けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺(へん)のように殻(から)もないし十倍(ばい)も大きくてにおいもいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農(のう)業(ぎょう)はもうありません。苹(りん)果(ご)だってお菓(か)子(し)だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです﹂
にわかに男の子がばっちり眼(め)をあいて言(い)いました。
﹁ああぼくいまお母(っか)さんの夢(ゆめ)をみていたよ。お母(っか)さんがね、立(りっ)派(ぱ)な戸(とだ)棚(な)や本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか、と言(い)ったら眼(め)がさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ﹂
﹁その苹(りん)果(ご)がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ﹂青年が言(い)いました。
﹁ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん﹂
姉(あね)はわらって眼(め)をさまし、まぶしそうに両(りょ)手(うて)を眼(め)にあてて、それから苹(りん)果(ご)を見ました。
男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいたそのきれいな皮(かわ)も、くるくるコルク抜(ぬ)きのような形になって床(ゆか)へ落(お)ちるまでの間にはすうっと、灰(はい)いろに光って蒸(じょ)発(うはつ)してしまうのでした。
二(ふた)人(り)はりんごをたいせつにポケットにしまいました。
川下の向(む)こう岸(ぎし)に青く茂(しげ)った大きな林が見え、その枝(えだ)には熟(じゅく)してまっ赤に光るまるい実(み)がいっぱい、その林のまん中に高い高い三(さん)角(かく)標(ひょう)が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじってなんとも言(い)えずきれいな音(ね)いろが、とけるように浸(し)みるように風につれて流(なが)れて来るのでした。
青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。
だまってその譜(ふ)を聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑(みどり)の明るい野(のは)原(ら)か敷(しき)物(もの)かがひろがり、またまっ白な蝋(ろう)のような露(つゆ)が太(たい)陽(よう)の面(めん)をかすめて行くように思われました。
﹁まあ、あの烏(からす)﹂カムパネルラのとなりの、かおると呼(よ)ばれた女の子が叫(さけ)びました。
﹁からすでない。みんなかささぎだ﹂カムパネルラがまた何気なくしかるように叫(さけ)びましたので、ジョバンニはまた思わず笑(わら)い、女の子はきまり悪(わる)そうにしました。まったく河(かわ)原(ら)の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列(れつ)になってとまってじっと川の微(びこ)光(う)を受けているのでした。
﹁かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延(の)びてますから﹂青年はとりなすように言(い)いました。
向(む)こうの青い森の中の三(さん)角(かく)標(ひょう)はすっかり汽車の正(しょ)面(うめん)に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の讃(さん)美(び)歌(か)のふしが聞こえてきました。よほどの人数で合(がっ)唱(しょう)しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまたすわりました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。
ジョバンニまでなんだか鼻(はな)が変(へん)になりました。けれどもいつともなく誰(だれ)ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラもいっしょにうたいだしたのです。
そして青い橄(かん)欖(らん)の森が、見えない天の川の向(む)こうにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまい、そこから流(なが)れて来るあやしい楽(がっ)器(き)の音も、もう汽車のひびきや風の音にすりへらされてずうっとかすかになりました。
﹁あ、孔(くじ)雀(ゃく)がいるよ。あ、孔(くじ)雀(ゃく)がいるよ﹂
﹁あの森琴(ライラ)の宿(やど)でしょう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集(あつ)まっていらっしゃると思うわ、まわりには青い孔(くじ)雀(ゃく)やなんかたくさんいると思うわ﹂
﹁ええ、たくさんいたわ﹂女の子がこたえました。
ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑(みどり)いろの貝(かい)ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔(くじ)雀(ゃく)がはねをひろげたりとじたりする光の反(はん)射(しゃ)を見ました。
﹁そうだ、孔(くじ)雀(ゃく)の声だってさっき聞こえた﹂カムパネルラが女の子に言(い)いました。
﹁ええ、三十疋(ぴき)ぐらいはたしかにいたわ﹂女の子が答えました。
ジョバンニはにわかになんとも言(い)えずかなしい気がして思わず、
﹁カムパネルラ、ここからはねおりて遊(あそ)んで行こうよ﹂とこわい顔をして言(い)おうとしたくらいでした。
ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に不(ふ)思(し)議(ぎ)なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細(ほそ)長(なが)いもので、あの見えない天の川の水の上に飛(と)び出してちょっと弓(ゆみ)のようなかたちに進(すす)んで、また水の中にかくれたようでした。おかしいと思ってまたよく気をつけていましたら、こんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでも、その黒いつるつるした変(へん)なものが水から飛(と)び出して、まるく飛(と)んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えてきました。みんな魚のように川上へのぼるらしいのでした。
﹁まあ、なんでしょう。たあちゃん。ごらんなさい。まあたくさんだわね。なんでしょうあれ﹂
睡(ねむ)そうに眼(め)をこすっていた男の子はびっくりしたように立ちあがりました。
﹁なんだろう﹂青年も立ちあがりました。
﹁まあ、おかしな魚だわ、なんでしょうあれ﹂
﹁海(いる)豚(か)です﹂カムパネルラがそっちを見ながら答えました。
﹁海(いる)豚(か)だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海じゃないんでしょう﹂
﹁いるかは海にいるときまっていない﹂あの不(ふ)思(し)議(ぎ)な低(ひく)い声がまたどこからかしました。
ほんとうにそのいるかのかたちのおかしいことは、二つのひれをちょうど両(りょ)手(うて)をさげて不(ふど)動(う)の姿(しせ)勢(い)をとったようなふうにして水の中から飛(と)び出して来て、うやうやしく頭を下にして不(ふど)動(う)の姿(しせ)勢(い)のまままた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔(ほのお)のように波(なみ)をあげるのでした。
﹁いるかお魚でしょうか﹂女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたように席(せき)にもたれて睡(ねむ)っていました。
﹁いるか、魚じゃありません。くじらと同じようなけだものです﹂カムパネルラが答えました。
﹁あなたくじら見たことあって﹂
﹁僕(ぼく)あります。くじら、頭と黒いしっぽだけ見えます。潮(しお)を吹(ふ)くとちょうど本にあるようになります﹂
﹁くじらなら大きいわねえ﹂
﹁くじら大きいです。子(こど)供(も)だっているかぐらいあります﹂
﹁そうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ﹂姉(あね)は細(ほそ)い銀(ぎん)いろの指(ゆび)輪(わ)をいじりながらおもしろそうにはなししていました。
︵カムパネルラ、僕(ぼく)もう行っちまうぞ。僕(ぼく)なんか鯨(くじら)だって見たことないや︶
ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅(かた)く、唇(くちびる)を噛(か)んでこらえて窓(まど)の外を見ていました。その窓(まど)の外には海(いる)豚(か)のかたちももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島(しま)のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれて、その上に一人の寛(ゆる)い服(ふく)を着(き)て赤い帽(ぼう)子(し)をかぶった男が立っていました。そして両(りょ)手(うて)に赤と青の旗(はた)をもってそらを見上げて信(しん)号(ごう)しているのでした。
ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗(はた)をふっていましたが、にわかに赤(あか)旗(はた)をおろしてうしろにかくすようにし、青い旗(はた)を高く高くあげてまるでオーケストラの指(しき)揮(し)者(ゃ)のようにはげしく振(ふ)りました。すると空中にざあっと雨のような音がして、何かまっくらなものが、いくかたまりもいくかたまりも鉄(てっ)砲(ぽう)丸(だま)のように川の向(む)こうの方へ飛(と)んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓(まど)からからだを半分出して、そっちを見あげました。美(うつく)しい美(うつく)しい桔(きき)梗(ょう)いろのがらんとした空の下を、実(じつ)に何(なん)万(まん)という小さな鳥どもが、幾(いく)組(くみ)も幾(いく)組(くみ)もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。
﹁鳥が飛(と)んで行くな﹂ジョバンニが窓(まど)の外で言いました。
﹁どら﹂カムパネルラもそらを見ました。
そのときあのやぐらの上のゆるい服(ふく)の男はにわかに赤い旗(はた)をあげて狂(きょ)気(うき)のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群(む)れは通らなくなり、それと同時にぴしゃあんというつぶれたような音が川下の方で起(お)こって、それからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤(あか)帽(ぼう)の信(しん)号(ごう)手(しゅ)がまた青い旗(はた)をふって叫(さけ)んでいたのです。
﹁いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥﹂その声もはっきり聞こえました。
それといっしょにまた幾(いく)万(まん)という鳥の群(む)れがそらをまっすぐにかけたのです。二(ふた)人(り)の顔を出しているまん中の窓(まど)からあの女の子が顔を出して美(うつく)しい頬(ほお)をかがやかせながらそらを仰(あお)ぎました。
﹁まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと﹂女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生(なま)意(い)気(き)な、いやだいと思いながら、だまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息(いき)をして、だまって席(せき)へ戻(もど)りました。カムパネルラがきのどくそうに窓(まど)から顔を引っ込(こ)めて地図を見ていました。
﹁あの人鳥へ教えてるんでしょうか﹂女の子がそっとカムパネルラにたずねました。
﹁わたり鳥へ信(しん)号(ごう)してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう﹂
カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込(こ)めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまってこらえてそのまま立って口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いていました。
︵どうして僕(ぼく)はこんなにかなしいのだろう。僕(ぼく)はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸(きし)のずうっと向(む)こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕(ぼく)はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ︶
ジョバンニは熱(ほて)って痛(いた)いあたまを両(りょ)手(うて)で押(おさ)えるようにして、そっちの方を見ました。
︵ああほんとうにどこまでもどこまでも僕(ぼく)といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談(はな)しているし僕(ぼく)はほんとうにつらいなあ︶
ジョバンニの眼(め)はまた泪(なみだ)でいっぱいになり、天の川もまるで遠くへ行(い)ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖(がけ)の上を通るようになりました。向(む)こう岸(ぎし)もまた黒いいろの崖(がけ)が川の岸(きし)を下(かり)流(ゅう)に下るにしたがって、だんだん高くなっていくのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉(は)はぐるぐるに縮(ちぢ)れ葉(は)の下にはもう美しい緑(みどり)いろの大きな苞(ほう)が赤い毛を吐(は)いて真(しん)珠(じゅ)のような実(み)もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増(ま)してきて、もういまは列(れつ)のように崖(がけ)と線(せん)路(ろ)との間にならび、思わずジョバンニが窓(まど)から顔を引っ込(こ)めて向(む)こう側(がわ)の窓(まど)を見ましたときは、美(うつく)しいそらの野原の地(ちへ)平(いせ)線(ん)のはてまで、その大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植(う)えられて、さやさや風にゆらぎ、その立(りっ)派(ぱ)なちぢれた葉(は)のさきからは、まるでひるの間にいっぱい日光を吸(す)った金(こん)剛(ごう)石(せき)のように露(つゆ)がいっぱいについて、赤や緑(みどり)やきらきら燃(も)えて光っているのでした。カムパネルラが、
﹁あれとうもろこしだねえ﹂とジョバンニに言(い)いましたけれども、ジョバンニはどうしても気(き)持(も)ちがなおりませんでしたから、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、
﹁そうだろう﹂と答えました。
そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルとてんてつ器(き)の灯(あかり)を過ぎ、小さな停(てい)車(しゃ)場(ば)にとまりました。
その正(しょ)面(うめん)の青じろい時(とけ)計(い)はかっきり第(だい)二(に)時(じ)を示(しめ)し、風もなくなり汽車もうごかず、しずかなしずかな野原のなかにその振(ふ)り子(こ)はカチッカチッと正しく時を刻(きざ)んでいくのでした。
そしてまったくその振(ふ)り子(こ)の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋(せん)律(りつ)が糸のように流(なが)れて来るのでした。
﹁新(しん)世(せか)界(いこ)交(うき)響(ょう)楽(がく)だわ﹂向(む)こうの席(せき)の姉(あね)がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言(い)いました。
全(まった)くもう車の中ではあの黒(くろ)服(ふく)の丈(たけ)高(たか)い青年も誰(だれ)もみんなやさしい夢(ゆめ)を見ているのでした。
︵こんなしずかないいとこで僕(ぼく)はどうしてもっと愉(ゆか)快(い)になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕(ぼく)といっしょに汽車に乗(の)っていながら、まるであんな女の子とばかり談(はな)しているんだもの。僕(ぼく)はほんとうにつらい︶
ジョバンニはまた手で顔を半(はん)分(ぶん)かくすようにして向(む)こうの窓(まど)のそとを見つめていました。
すきとおった硝(ガラ)子(ス)のような笛(ふえ)が鳴って汽車はしずかに動きだし、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)きました。
﹁ええ、ええ、もうこの辺(へん)はひどい高原ですから﹂
うしろの方で誰(だれ)かとしよりらしい人の、いま眼(め)がさめたというふうではきはき談(はな)している声がしました。
﹁とうもろこしだって棒(ぼう)で二尺も孔(あな)をあけておいてそこへ播(ま)かないとはえないんです﹂
﹁そうですか。川まではよほどありましょうかねえ﹂
﹁ええ、ええ、河(かわ)までは二千尺(じゃく)から六千尺(じゃく)あります。もうまるでひどい峡(きょ)谷(うこく)になっているんです﹂
そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。
あの姉(あね)は弟を自分の胸(むね)によりかからせて睡(ねむ)らせながら黒い瞳(ひとみ)をうっとりと遠くへ投(な)げて何を見るでもなしに考え込(こ)んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)き、男の子はまるで絹(きぬ)で包(つつ)んだ苹(りん)果(ご)のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。
突(とつ)然(ぜん)とうもろこしがなくなって巨(おお)きな黒い野(のは)原(ら)がいっぱいにひらけました。
新(しん)世(せか)界(いこ)交(うき)響(ょう)楽(がく)はいよいよはっきり地(ちへ)平(いせ)線(ん)のはてから湧(わ)き、そのまっ黒な野(のは)原(ら)のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽(は)根(ね)を頭につけ、たくさんの石を腕(うで)と胸(むね)にかざり、小さな弓(ゆみ)に矢(や)をつがえていちもくさんに汽車を追(お)って来るのでした。
﹁あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい﹂
黒(くろ)服(ふく)の青年も眼(め)をさましました。
ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
﹁走って来るわ、あら、走って来るわ。追(お)いかけているんでしょう﹂
﹁いいえ、汽車を追(お)ってるんじゃないんですよ。猟(りょう)をするか踊(おど)るかしてるんですよ﹂
青年はいまどこにいるか忘(わす)れたというふうにポケットに手を入れて立ちながら言(い)いました。
まったくインデアンは半(はん)分(ぶん)は踊(おど)っているようでした。第(だい)一(いち)かけるにしても足のふみようがもっと経(けい)済(ざい)もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽(は)根(ね)は前の方へ倒(たお)れるようになり、インデアンはぴたっと立ちどまって、すばやく弓(ゆみ)を空にひきました。そこから一羽(わ)の鶴(つる)がふらふらと落(お)ちて来て、また走り出したインデアンの大きくひろげた両(りょ)手(うて)に落(お)ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその鶴(つる)をもってこっちを見ている影(かげ)も、もうどんどん小さく遠くなり、電しんばしらの碍(がい)子(し)がきらっきらっと続(つづ)いて二つばかり光って、またとうもろこしの林になってしまいました。こっち側(がわ)の窓(まど)を見ますと汽車はほんとうに高い高い崖(がけ)の上を走っていて、その谷の底(そこ)には川がやっぱり幅(はば)ひろく明るく流(なが)れていたのです。
﹁ええ、もうこの辺(へん)から下りです。なんせこんどは一ぺんにあの水(すい)面(めん)までおりて行くんですから容(よう)易(い)じゃありません。この傾(けい)斜(しゃ)があるもんですから汽車は決(けっ)して向(む)こうからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう﹂さっきの老(ろう)人(じん)らしい声が言(い)いました。
どんどんどんどん汽車は降(お)りて行きました。崖(がけ)のはじに鉄(てつ)道(どう)がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなってきました。汽車が小さな小(こ)屋(や)の前を通って、その前にしょんぼりひとりの子(こど)供(も)が立ってこっちを見ているときなどは思わず、ほう、と叫(さけ)びました。
どんどんどんどん汽車は走って行きました。室(へや)中(じゅう)のひとたちは半(はん)分(ぶん)うしろの方へ倒(たお)れるようになりながら腰(こし)掛(かけ)にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横(よこ)手(て)をいままでよほど激(はげ)しく流(なが)れて来たらしく、ときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河(かわ)原(ら)なでしこの花があちこち咲(さ)いていました。汽車はようやく落(お)ち着(つ)いたようにゆっくり走っていました。
向(む)こうとこっちの岸(きし)に星のかたちとつるはしを書いた旗(はた)がたっていました。
﹁あれなんの旗(はた)だろうね﹂ジョバンニがやっとものを言(い)いました。
﹁さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄(てつ)の舟(ふね)がおいてあるねえ﹂
﹁ああ﹂
﹁橋(はし)を架(か)けるとこじゃないんでしょうか﹂女の子が言(い)いました。
﹁ああ、あれ工(こう)兵(へい)の旗(はた)だねえ。架(かき)橋(ょう)演(えん)習(しゅう)をしてるんだ。けれど兵(へい)隊(たい)のかたちが見えないねえ﹂
その時向(む)こう岸(ぎし)ちかくの少し下(かり)流(ゅう)の方で、見えない天の川の水がぎらっと光って、柱(はしら)のように高くはねあがり、どおとはげしい音がしました。
﹁発(はっ)破(ぱ)だよ、発(はっ)破(ぱ)だよ﹂カムパネルラはこおどりしました。
その柱(はしら)のようになった水は見えなくなり、大きな鮭(さけ)や鱒(ます)がきらっきらっと白く腹(はら)を光らせて空中にほうり出されてまるい輪(わ)を描(えが)いてまた水に落(お)ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気(き)持(も)ちが軽(かる)くなって言(い)いました。
﹁空の工(こう)兵(へい)大(だい)隊(たい)だ。どうだ、鱒(ます)なんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕(ぼく)こんな愉(ゆか)快(い)な旅(たび)はしたことない。いいねえ﹂
﹁あの鱒(ます)なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかないるんだな、この水の中に﹂
﹁小さなお魚もいるんでしょうか﹂女の子が談(はなし)につり込(こ)まれて言(い)いました。
﹁いるんでしょう。大きなのがいるんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだから、いま小さいの見えなかったねえ﹂ジョバンニはもうすっかり機(きげ)嫌(ん)が直(なお)っておもしろそうにわらって女の子に答えました。
﹁あれきっと双(ふた)子(ご)のお星さまのお宮(みや)だよ﹂男の子がいきなり窓(まど)の外をさして叫(さけ)びました。
右手の低(ひく)い丘(おか)の上に小さな水(すい)晶(しょう)ででもこさえたような二つのお宮(みや)がならんで立っていました。
﹁双(ふた)子(ご)のお星さまのお宮(みや)ってなんだい﹂
﹁あたし前になんべんもお母(っか)さんから聞いたわ。ちゃんと小さな水(すい)晶(しょう)のお宮(みや)で二つならんでいるからきっとそうだわ﹂
﹁はなしてごらん。双(ふた)子(ご)のお星さまが何をしたっての﹂
﹁ぼくも知ってらい。双(ふた)子(ご)のお星さまが野原へ遊(あそ)びにでて、からすと喧(けん)嘩(か)したんだろう﹂
﹁そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸(きし)にね、おっかさんお話しなすったわ、……﹂
﹁それから彗(ほう)星(きぼし)がギーギーフーギーギーフーて言(い)って来たねえ﹂
﹁いやだわ、たあちゃん、そうじゃないわよ。それはべつの方だわ﹂
﹁するとあすこにいま笛(ふえ)を吹(ふ)いているんだろうか﹂
﹁いま海へ行ってらあ﹂
﹁いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ﹂
﹁そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう﹂
川の向こう岸(ぎし)がにわかに赤くなりました。
楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され、見えない天の川の波(なみ)も、ときどきちらちら針(はり)のように赤く光りました。まったく向(む)こう岸(ぎし)の野原に大きなまっ赤な火が燃(もや)され、その黒いけむりは高く桔(きき)梗(ょう)いろのつめたそうな天をも焦(こ)がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく酔(よ)ったようになって、その火は燃(も)えているのでした。
﹁あれはなんの火だろう。あんな赤く光る火は何を燃(も)やせばできるんだろう﹂ジョバンニが言(い)いました。
﹁蠍(さそり)の火だな﹂カムパネルラがまた地図と首(くび)っぴきして答えました。
﹁あら、蠍(さそり)の火のことならあたし知ってるわ﹂
﹁蠍(さそり)の火ってなんだい﹂ジョバンニがききました。
﹁蠍(さそり)がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃(も)えてるって、あたし何べんもお父さんから聴(き)いたわ﹂
﹁蠍(さそり)って、虫だろう﹂
﹁ええ、蠍(さそり)は虫よ。だけどいい虫だわ﹂
﹁蠍(さそり)いい虫じゃないよ。僕(ぼく)博(はく)物(ぶつ)館(かん)でアルコールにつけてあるの見た。尾(お)にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死(し)ぬって先生が言(い)ってたよ﹂
﹁そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言(い)ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍(さそり)がいて小さな虫やなんか殺(ころ)してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命(めい)にげてにげたけど、とうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井(い)戸(ど)があってその中に落(お)ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言(い)ってお祈(いの)りしたというの。
ああ、わたしはいままで、いくつのものの命(いのち)をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命(めい)にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神(かみ)さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命(いのち)をすてず、どうかこの次(つぎ)には、まことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかいください。って言(い)ったというの。
そしたらいつか蠍(さそり)はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃(も)えて、よるのやみを照(て)らしているのを見たって。いまでも燃(も)えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ﹂
﹁そうだ。見たまえ。そこらの三(さん)角(かく)標(ひょう)はちょうどさそりの形にならんでいるよ﹂
ジョバンニはまったくその大きな火の向(む)こうに三つの三(さん)角(かく)標(ひょう)が、ちょうどさそりの腕(うで)のように、こっちに五つの三(さん)角(かく)標(ひょう)がさそりの尾(お)やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃(も)えたのです。
その火がだんだんうしろの方になるにつれて、みんなはなんとも言(い)えずにぎやかな、さまざまの楽(がく)の音(ね)や草花のにおいのようなもの、口(くち)笛(ぶえ)や人々のざわざわ言(い)う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあって、そこにお祭(まつ)りでもあるというような気がするのでした。
﹁ケンタウル露(つゆ)をふらせ﹂いきなりいままで睡(ねむ)っていたジョバンニのとなりの男の子が向(む)こうの窓(まど)を見ながら叫(さけ)んでいました。
ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐(とう)檜(ひ)かもみの木がたって、その中にはたくさんのたくさんの豆(まめ)電(でん)燈(とう)がまるで千の蛍(ほたる)でも集(あつ)まったようについていました。
﹁ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭(さい)だねえ﹂
﹁ああ、ここはケンタウルの村だよ﹂カムパネルラがすぐ言(い)いました。
の間原(げん)稿(こう)なし︶
﹁ボール投げなら僕(ぼく)決(けっ)してはずさない﹂
男の子が大いばりで言(い)いました。
﹁もうじきサウザンクロスです。おりるしたくをしてください﹂青年がみんなに言(い)いました。
﹁僕(ぼく)、も少し汽車に乗ってるんだよ﹂男の子が言(い)いました。
カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立ってしたくをはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
﹁ここでおりなけぁいけないのです﹂青年はきちっと口を結(むす)んで男の子を見おろしながら言(い)いました。
﹁厭(いや)だい。僕(ぼく)もう少し汽車へ乗(の)ってから行くんだい﹂
ジョバンニがこらえかねて言(い)いました。
﹁僕(ぼく)たちといっしょに乗(の)って行こう。僕(ぼく)たちどこまでだって行ける切(きっ)符(ぷ)持(も)ってるんだ﹂
﹁だけどあたしたち、もうここで降(お)りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから﹂
女の子がさびしそうに言(い)いました。
﹁天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕(ぼく)の先生が言(い)ったよ﹂
﹁だっておっ母(か)さんも行ってらっしゃるし、それに神(かみ)さまがおっしゃるんだわ﹂
﹁そんな神(かみ)さまうその神(かみ)さまだい﹂
﹁あなたの神(かみ)さまうその神(かみ)さまよ﹂
﹁そうじゃないよ﹂
﹁あなたの神(かみ)さまってどんな神(かみ)さまですか﹂青年は笑(わら)いながら言(い)いました。
﹁ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一(ひと)人(り)の神(かみ)さまです﹂
﹁ほんとうの神(かみ)さまはもちろんたった一(ひと)人(り)です﹂
﹁ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの神(かみ)さまです﹂
﹁だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神(かみ)さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈(いの)ります﹂青年はつつましく両(りょ)手(うて)を組みました。
女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別(わか)れが惜(お)しそうで、その顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣(な)き出そうとしました。
﹁さあもうしたくはいいんですか。じきサウザンクロスですから﹂
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙(だいだい)や、もうあらゆる光でちりばめられた十(じゅ)字(うじ)架(か)が、まるで一本の木というふうに川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい環(わ)になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈(いの)りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜(うり)に飛(と)びついたときのようなよろこびの声や、なんとも言いようない深(ふか)いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十(じゅ)字(うじ)架(か)は窓(まど)の正(しょ)面(うめん)になり、あの苹(りん)果(ご)の肉(にく)のような青じろい環(わ)の雲も、ゆるやかにゆるやかに繞(めぐ)っているのが見えました。
﹁ハレルヤ、ハレルヤ﹂明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとおったなんとも言(い)えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電(でん)燈(とう)の灯(あかり)のなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう十(じゅ)字(うじ)架(か)のちょうどま向(む)かいに行ってすっかりとまりました。
﹁さあ、おりるんですよ﹂青年は男の子の手をひき姉(あね)は互(たが)いにえりや肩(かた)をなおしてやってだんだん向(む)こうの出口の方へ歩き出しました。
﹁じゃさよなら﹂女の子がふりかえって二人に言(い)いました。
﹁さよなら﹂ジョバンニはまるで泣(な)き出したいのをこらえておこったようにぶっきらぼうに言(い)いました。
女の子はいかにもつらそうに眼(め)を大きくして、も一度(ど)こっちをふりかえって、それからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半(はん)分(ぶん)以(いじ)上(ょう)も空(す)いてしまいにわかにがらんとして、さびしくなり風がいっぱいに吹(ふ)き込(こ)みました。
そして見ているとみんなはつつましく列(れつ)を組んで、あの十(じゅ)字(うじ)架(か)の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりのこうごうしい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝(ガラ)子(ス)の呼(よ)び子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ううちに銀(ぎん)いろの霧(きり)が川下の方から、すうっと流(なが)れて来て、もうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉(は)をさんさんと光らしてその霧(きり)の中に立ち、黄(き)金(ん)の円光をもった電(でん)気(き)栗(り)鼠(す)が可(かわ)愛(い)い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
そのとき、すうっと霧(きり)がはれかかりました。どこかへ行く街(かい)道(どう)らしく小さな電(でん)燈(とう)の一(いち)列(れつ)についた通りがありました。それはしばらく線(せん)路(ろ)に沿(そ)って進(すす)んでいました。そして二(ふた)人(り)がそのあかしの前を通って行くときは、その小さな豆いろの火はちょうどあいさつでもするようにぽかっと消(き)え、二(ふた)人(り)が過ぎて行くときまた点(つ)くのでした。
ふりかえって見ると、さっきの十(じゅ)字(うじ)架(か)はすっかり小さくなってしまい、ほんとうにもうそのまま胸(むね)にもつるされそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚(なぎさ)にまだひざまずいているのか、それともどこか方(ほう)角(がく)もわからないその天上へ行ったのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
ジョバンニは、ああ、と深(ふか)く息(いき)しました。
﹁カムパネルラ、また僕(ぼく)たち二(ふた)人(り)きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕(ぼく)はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕(ぼく)のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない﹂
﹁うん。僕(ぼく)だってそうだ﹂カムパネルラの眼(め)にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。
﹁けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう﹂
ジョバンニが言(い)いました。
﹁僕(ぼく)わからない﹂カムパネルラがぼんやり言(い)いました。
﹁僕(ぼく)たちしっかりやろうねえ﹂ジョバンニが胸(むね)いっぱい新しい力が湧(わ)くように、ふうと息(いき)をしながら言(い)いました。
﹁あ、あすこ石(せき)炭(たん)袋(ぶくろ)だよ。そらの孔(あな)だよ﹂カムパネルラが少しそっちを避(さ)けるようにしながら天の川のひととこを指(ゆび)さしました。
ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔(あな)が、どおんとあいているのです。その底(そこ)がどれほど深(ふか)いか、その奥(おく)に何があるか、いくら眼(め)をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼(め)がしんしんと痛(いた)むのでした。ジョバンニが言(い)いました。
﹁僕(ぼく)もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕(ぼく)たちいっしょに進(すす)んで行こう﹂
﹁ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集(あつ)まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ﹂
カムパネルラはにわかに窓(まど)の遠くに見えるきれいな野原を指(さ)して叫(さけ)びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが言(い)ったように思われませんでした。
なんとも言(い)えずさびしい気がして、ぼんやりそっちを見ていましたら、向(む)こうの河(かわ)岸(ぎし)に二本の電(でん)信(しん)ばしらが、ちょうど両(りょ)方(うほう)から腕(うで)を組んだように赤い腕(うで)木(ぎ)をつらねて立っていました。
﹁カムパネルラ、僕(ぼく)たちいっしょに行こうねえ﹂ジョバンニがこう言(い)いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていた席(せき)に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
ジョバンニはまるで鉄(てっ)砲(ぽう)丸(だま)のように立ちあがりました。そして誰(だれ)にも聞こえないように窓(まど)の外へからだを乗(の)り出して、力いっぱいはげしく胸(むね)をうって叫(さけ)び、それからもう咽(の)喉(ど)いっぱい泣(な)きだしました。
もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。そのとき、
﹁おまえはいったい何を泣(な)いているの。ちょっとこっちをごらん﹂いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
ジョバンニは、はっと思って涙(なみだ)をはらってそっちをふり向(む)きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた席(せき)に黒い大きな帽(ぼう)子(し)をかぶった青白い顔のやせた大(おと)人(な)が、やさしくわらって大きな一冊(さつ)の本をもっていました。
﹁おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ﹂
﹁ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言(い)ったんです﹂
﹁ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹(りん)果(ご)をたべたり汽車に乗(の)ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸(こう)福(ふく)をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ﹂
﹁ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう﹂
﹁ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切(きっ)符(ぷ)をしっかりもっておいで。そして一しんに勉(べん)強(きょう)しなけぁいけない。おまえは化(かが)学(く)をならったろう、水は酸(さん)素(そ)と水(すい)素(そ)からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑(うたが)やしない。実(じっ)験(けん)してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔(むかし)はそれを水(すい)銀(ぎん)と塩(しお)でできていると言(い)ったり、水(すい)銀(ぎん)と硫(いお)黄(う)でできていると言(い)ったりいろいろ議(ぎろ)論(ん)したのだ。みんながめいめいじぶんの神(かみ)さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互(たが)いほかの神(かみ)さまを信(しん)ずる人たちのしたことでも涙(なみだ)がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議(ぎろ)論(ん)するだろう。そして勝(しょ)負(うぶ)がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉(べん)強(きょう)して実(じっ)験(けん)でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実(じっ)験(けん)の方(ほう)法(ほう)さえきまれば、もう信(しん)仰(こう)も化(かが)学(く)と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地(ち)理(り)と歴(れき)史(し)の辞(じて)典(ん)だよ。この本のこの頁(ページ)はね、紀(きげ)元(んぜ)前(ん)二千二百年の地(ち)理(り)と歴(れき)史(し)が書いてある。よくごらん、紀(きげ)元(んぜ)前(ん)二千二百年のことでないよ、紀(きげ)元(んぜ)前(ん)二千二百年のころにみんなが考えていた地(ち)理(り)と歴(れき)史(し)というものが書いてある。
だからこの頁(ページ)一つが一冊(さつ)の地(ちれ)歴(き)の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀(きげ)元(んぜ)前(ん)二千二百年ころにはたいてい本(ほん)当(とう)だ。さがすと証(しょ)拠(うこ)もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次(つぎ)の頁(ページ)だよ。
紀(きげ)元(んぜ)前(ん)一千年。だいぶ、地(ち)理(り)も歴(れき)史(し)も変(か)わってるだろう。このときにはこうなのだ。変(へん)な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴(れき)史(し)だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか﹂
そのひとは指(ゆび)を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学(がく)者(しゃ)や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広(ひろ)い世(せか)界(い)ががらんとひらけ、あらゆる歴(れき)史(し)がそなわり、すっと消(き)えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
﹁さあいいか。だからおまえの実(じっ)験(けん)は、このきれぎれの考えのはじめから終(お)わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖(くさり)を解(と)かなければならない﹂
そのときまっくらな地(ちへ)平(いせ)線(ん)の向(む)こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
﹁ああマジェランの星(せい)雲(うん)だ。さあもうきっと僕(ぼく)は僕(ぼく)のために、僕(ぼく)のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸(こう)福(ふく)をさがすぞ﹂
ジョバンニは唇(くちびる)を噛(か)んで、そのマジェランの星(せい)雲(うん)をのぞんで立ちました。そのいちばん幸(こう)福(ふく)なそのひとのために!
﹁さあ、切(きっ)符(ぷ)をしっかり持(も)っておいで。お前はもう夢(ゆめ)の鉄(てつ)道(どう)の中でなしにほんとうの世(せか)界(い)の火やはげしい波(なみ)の中を大(おお)股(また)にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切(きっ)符(ぷ)を決(けっ)しておまえはなくしてはいけない﹂
あのセロのような声がしたと思うとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹(ふ)き自分はまっすぐに草の丘(おか)に立っているのを見、また遠くからあのブルカニロ博(はか)士(せ)の足おとのしずかに近づいて来るのをききました。
﹁ありがとう。私はたいへんいい実(じっ)験(けん)をした。私はこんなしずかな場(ばし)所(ょ)で遠くから私の考えを人に伝(つた)える実(じっ)験(けん)をしたいとさっき考えていた。お前の言(い)った語はみんな私の手(てち)帳(ょう)にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢(ゆめ)の中で決(けっ)心(しん)したとおりまっすぐに進(すす)んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相(そう)談(だん)においでなさい﹂
﹁僕(ぼく)きっとまっすぐに進(すす)みます。きっとほんとうの幸(こう)福(ふく)を求(もと)めます﹂ジョバンニは力(ちか)強(らづよ)く言(い)いました。
﹁ああではさよなら。これはさっきの切(きっ)符(ぷ)です﹂
博(はか)士(せ)は小さく折(お)った緑(みどり)いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)の向(む)こうに見えなくなっていました。
ジョバンニはまっすぐに走って丘(おか)をおりました。
そしてポケットがたいへん重(おも)くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべてみましたら、あの緑(みどり)いろのさっき夢(ゆめ)の中で見たあやしい天の切(きっ)符(ぷ)の中に大きな二枚(まい)の金(きん)貨(か)が包(つつ)んでありました。
﹁博(はか)士(せ)ありがとう、おっかさん。すぐ乳(ちち)をもって行きますよ﹂
ジョバンニは叫(さけ)んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸(むね)に集(あつ)まってなんとも言(い)えずかなしいような新しいような気がするのでした。
琴(こと)の星がずうっと西の方へ移(うつ)ってそしてまた夢(ゆめ)のように足をのばしていました。
ジョバンニは眼(め)をひらきました。もとの丘(おか)の草の中につかれてねむっていたのでした。胸(むね)はなんだかおかしく熱(ほて)り、頬(ほお)にはつめたい涙(なみだ)がながれていました。
ジョバンニはばねのようにはね起(お)きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯(あかり)を綴(つづ)ってはいましたが、その光はなんだかさっきよりは熱(ねっ)したというふうでした。
そしてたったいま夢(ゆめ)であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地(ちへ)平(いせ)線(ん)の上ではことにけむったようになって、その右には蠍(さそ)座(りざ)の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位(い)置(ち)はそんなに変(か)わってもいないようでした。
ジョバンニはいっさんに丘(おか)を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待(ま)っているお母さんのことが胸(むね)いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松(まつ)の林の中を通って、それからほの白い牧(ぼく)場(じょう)の柵(さく)をまわって、さっきの入口から暗(くら)い牛(ぎゅ)舎(うしゃ)の前へまた来ました。そこには誰(だれ)かがいま帰ったらしく、さっきなかった一つの車が何かの樽(たる)を二つ載(の)っけて置(お)いてありました。
﹁今(こん)晩(ばん)は﹂ジョバンニは叫(さけ)びました。
﹁はい﹂白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
﹁なんのご用ですか﹂
﹁今日牛(ぎゅ)乳(うにゅう)がぼくのところへ来なかったのですが﹂
﹁あ、済(す)みませんでした﹂その人はすぐ奥(おく)へ行って一本の牛(ぎゅ)乳(うに)瓶(ゅうびん)をもって来てジョバンニに渡(わた)しながら、また言(い)いました。
﹁ほんとうに済(す)みませんでした。今日はひるすぎ、うっかりしてこうしの柵(さく)をあけておいたもんですから、大(たい)将(しょう)さっそく親(おや)牛(うし)のところへ行って半(はん)分(ぶん)ばかりのんでしまいましてね……﹂その人はわらいました。
﹁そうですか。ではいただいて行きます﹂
﹁ええ、どうも済(す)みませんでした﹂
﹁いいえ﹂
ジョバンニはまだ熱(あつ)い乳(ちち)の瓶(びん)を両(りょ)方(うほう)のてのひらで包(つつ)むようにもって牧(ぼく)場(じょう)の柵(さく)を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になって、その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流(なが)しに行った川へかかった大きな橋(はし)のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ集(あつ)まって橋(はし)の方を見ながら何かひそひそ談(はな)しているのです。それから橋(はし)の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。
ジョバンニはなぜかさあっと胸(むね)が冷(つめ)たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、
﹁何かあったんですか﹂と叫(さけ)ぶようにききました。
﹁こどもが水へ落(お)ちたんですよ﹂一(ひと)人(り)が言(い)いますと、その人たちは一(いっ)斉(せい)にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢(むち)中(ゅう)で橋(はし)の方へ走りました。橋(はし)の上は人でいっぱいで河(かわ)が見えませんでした。白い服(ふく)を着(き)た巡(じゅ)査(んさ)も出ていました。
ジョバンニは橋(はし)の袂(たもと)から飛(と)ぶように下の広い河(かわ)原(ら)へおりました。
その河(かわ)原(ら)の水ぎわに沿(そ)ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向(む)こう岸(ぎし)の暗(くら)いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏(から)瓜(すうり)のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰(はい)いろにしずかに流(なが)れていたのでした。
河(かわ)原(ら)のいちばん下(かり)流(ゅう)の方へ洲(す)のようになって出たところに人の集(あつ)まりがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会(あ)いました。マルソがジョバンニに走り寄(よ)って言(い)いました。
﹁ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ﹂
﹁どうして、いつ﹂
﹁ザネリがね、舟(ふね)の上から烏(からす)うりのあかりを水の流(なが)れる方へ押(お)してやろうとしたんだ。そのとき舟(ふね)がゆれたもんだから水へ落(お)っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛(と)びこんだんだ。そしてザネリを舟(ふね)の方へ押(お)してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ﹂
﹁みんなさがしてるんだろう﹂
﹁ああ、すぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ連(つ)れられてった﹂
ジョバンニはみんなのいるそっちの方へ行きました。そこに学生たちや町の人たちに囲(かこ)まれて青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服(ふく)を着(き)てまっすぐに立って左手に時(とけ)計(い)を持(も)ってじっと見つめていたのです。
みんなもじっと河(かわ)を見ていました。誰(だれ)も一(ひと)言(こと)も物(もの)を言(い)う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして、黒い川の水はちらちら小さな波(なみ)をたてて流(なが)れているのが見えるのでした。
下(かり)流(ゅう)の方の川はばいっぱい銀(ぎん)河(が)が巨(おお)きく写(うつ)って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀(ぎん)河(が)のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの波(なみ)の間から、
﹁ぼくずいぶん泳(およ)いだぞ﹂と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らない洲(す)にでも着(つ)いて立っていて誰(だれ)かの来るのを待(ま)っているかというような気がしてしかたないらしいのでした。けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり言(い)いました。
﹁もう駄(だ)目(め)です。落(お)ちてから四十五分たちましたから﹂
ジョバンニは思わずかけよって博(はか)士(せ)の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っています、ぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのです、と言(い)おうとしましたが、もうのどがつまってなんとも言(い)えませんでした。すると博(はか)士(せ)はジョバンニがあいさつに来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、
﹁あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今(こん)晩(ばん)はありがとう﹂とていねいに言(い)いました。
ジョバンニは何も言(い)えずにただおじぎをしました。
﹁あなたのお父さんはもう帰っていますか﹂博(はか)士(せ)は堅(かた)く時(とけ)計(い)を握(にぎ)ったまま、またききました。
﹁いいえ﹂ジョバンニはかすかに頭をふりました。
﹁どうしたのかなあ、ぼくには一(おと)昨(と)日(い)たいへん元気な便(たよ)りがあったんだが。今(きょ)日(う)あたりもう着(つ)くころなんだが。船(ふね)が遅(おく)れたんだな。ジョバンニさん。あした放(ほう)課(か)後(ご)みなさんとうちへ遊(あそ)びに来てくださいね﹂
そう言(い)いながら博(はか)士(せ)はまた、川下の銀(ぎん)河(が)のいっぱいにうつった方へじっと眼(め)を送(おく)りました。
ジョバンニはもういろいろなことで胸(むね)がいっぱいで、なんにも言(い)えずに博(はか)士(せ)の前をはなれて、早くお母さんに牛(ぎゅ)乳(うにゅう)を持(も)って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに河(かわ)原(ら)を街(まち)の方へ走りました。
底本‥﹁銀河鉄道の夜﹂角川文庫、角川書店
1969︵昭和44︶年7月20日改版初版発行
1987︵昭和62︶年3月30日改版50版
入力‥幸野素子
校正‥土屋隆
2005年8月18日作成
2010年11月1日修正
青空文庫作成ファイル‥
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