.
ワグネル︵竈(かまど)の傍にて。︶
恐ろしいベルの響が
この煤けた壁を震わせる。
熱心に期待している事の成不成が、
もうこれより長く決せられずにはいまい。
もう暗く濁っている所が澄んで来る。
もう一番心(しん)になっている瓶(びん)の中に、
燃え立つ炭火のように、いや、赫(かがや)く
紅宝石のように照っている物が出来て、
電光のように闇を射はじめる。
明るい、白い光が現れる。
こん度こそ取り留めんではならん。
や。なんだ。戸をがたがた云わせるのは。
メフィストフェレス︵入る。︶
推参ですが、お為(ため)になる客です。
ワグネル︵懸念らしく。︶
おいでなさい。好い星の下(もと)に来られました。
︵小声にて。︶
しかし物を言わないで下さい。それにしっかり
息を殺していて下さい。大事業が今成就します。
メフィストフェレス
︵一層小声にて。︶
なんですか。
ワグネル
︵一層小声にて。︶
人間を拵えるのです。
メフィストフェレス
人間ですと。そしてそのけむたい穴に、どんな、
色気のある男(おとこ)女(おんな)を閉じ籠めたのですか。
ワグネル
大(おお)違(ちがい)です。今まで流(は)行(や)っていた、人間の拵方は、
わたし共は下らぬ戯だと云ってしまうのです。
今まで性命を生んだ、優しい契合点ですね、
あの、親の体の内から迫り出て、遣(やり)取(とり)をして、
我と我が影像を写すようになって、先ず近いものを、
次に遠いものを取り込むことになっていた、
恵ある力ですね、あれはもう貶(へん)黜(ちゅつ)せられるのです。
よしや今(こん)後(ご)も動物はあんな事を楽むとしても、
大いなる天分を享けた人間だけは将来これまでより
迥(はるか)に高い出(でど)所(ころ)を有せなくてはならんのです。
︵竈に向ふ。︶
光っている。御覧なさい。こうなればただ数百の物質を
調合して、調合の為(しか)方(た)が大事ですよ、楽(らく)々(らく)と
人間と云うものの原質を組み立てるですね。
それを硝子瓶(びん)に入れて封じる、それを十分に
蒸(じょ)餾(うりゅう)するですね。そして例の為(しご)事(と)を、こっそりと
我手で成就すると云うことになるのです。それが
今そろそろ出来掛かっているのです。
︵また竈に向ふ。︶
出来ますね。調合した物が動いて澄んで来る。
確信の基礎が刹那々々に堅くなって来る。
古来造化の秘密だと称えた事を、
我々は敢て悟性で遣って見ようとする。
自然が機関的に構成していた事を、
我々は結晶させて造るのです。
メフィストフェレス
人間は長く生きていると、種々の経験をするもので、
その目で見ると、この世界には新しい事は一つもない。
わたしなんぞは所々を流浪しているうちに
結晶して出来た人間の群も見ましたよ。
ワグネル
︵これまで始終瓶に注目してゐる。︶
はあ。昇って行く。光る。凝り固まって来る。
もうすぐに成功する。大きい企は最初
馬鹿げて見えるものだ。しかし未来ではこんな事を
偶然に委ねていたのを笑って遣ろう。
旨く物を考えることの出来る脳髄をも、
未来では思索家が造り得るはずだ。
︵感歎して瓶を見る。︶
優しい力が瓶に音を立てさせる。濁っては
また澄んで来る。もう出来るのだ。小さい、
可哀らしい人間が、優しい姿をして
動いている。此上我々も何を望もう。
此上世界にもなんの望があろう。秘密は
白日の下に曝露せられてしまった。
あの声に耳を傾けて御覧なさい。
あれが人の声になります。言語になります。
小人
︵瓶の中にてワグネルに。︶
さて、お父っさん。いかがです。笑談では
ありませんでしたね。さあ、いらっしゃい。優しく
わたくしを胸に抱いて下さい。しかし硝子の
破れるようにひどくしてはいけません。物事は
こうしたものです。﹁自然の物には宇宙も狭い。
人工の物には為(し)切(き)った空間がいる。﹂
︵メフィストフェレスに。︶
所で、横著者のおじさん、あなたもここにいますね。
丁度好(い)い時にいらっしゃって難(あり)有(がと)う。あなたを
ここへ来させたのは、好い廻(まわ)合(りあわせ)です。わたしも
こうして出来て見れば、働かなくてはなりません。
為(しご)事(と)に掛かられる様に、すぐに身支度をしましょう。
あなたはお巧者です。無駄をさせないで下さい。
ワグネル
一寸一言言わせてくれ。これまで老人も若いものも、
己に種々な事を問うて困らせおった。
例えばこうだ。﹁一体霊と肉とは旨く適合していて、
決して分離しないように、食っ附いているのに、
その二つが断えず人間の生活を難渋にしている。それを
これまで誰一人会得したものがない。
それから。﹂
メフィストフェレス
お待(まち)なさい。それを問う程なら、
﹁一体男と女とはなぜ中が悪いか﹂とでも問いたい。
お前さんなんぞには所詮これは分からない。
ここに為(しご)事(と)がある。それをこの小さいのが遣ります。
小人
何をするのですか。
メフィストフェレス
︵側の戸を指さす。︶
ここでお前の腕を見せてくれ。
ワグネル
︵旧に依りて瓶を凝視す。︶
実にお前は可哀らしい子だなあ。
︵側の戸開(あ)く。ファウストの床の上に臥したるが、見物に見ゆ。︶
小人︵驚く。︶
大した物だ。
︵瓶ワグネルの手を脱して、ファウストの上の空中に懸かり、ファウストを照す。︶
美しい所だ。茂った森に清い水が
流れている。女子達が著物を脱いでいる。
可哀らしい。はあ、段々面白くなって来る。
中に一人立派に別物になって見えるのがある。
第一流の英雄の種か。それとも神々の種か。
今透き通る水の中へ足を漬ける。
気高い体の、恵ある生(せい)の火が、物に触れて
形を変える、波の結晶の中で冷される。
しかしなんと云う、急な羽(はば)搏(たき)の音だろう、ざわざわ
ぴちゃぴちゃと鏡のような水面が掻き乱される。
女子達はこわがって逃げる。それに女王だけは
平気な様子で、鵠(くぐい)の王があつかましく、
馴々しく、自分の膝に摩り寄るのを、
驕(おご)った、女らしい楽しさで、見ていられる。
鵠の王は馴れるようだ。や。突然
靄(もや)が立ち籠めて来て、あらゆる
看(みも)物(の)の中の一番可哀らしい看物を、
細かに編んだ羅(うすもの)の奥に隠してしまった。
メフィストフェレス
好くそんなに沢山饒(しゃ)舌(べ)る事があるなあ。
お前は小さいが、空想家としては大きいぞ。己には
なんにも見えん。
小人
そうでしょう。あなたのように
北の国に生れて、蒙昧時代に、騎士や坊主の
ごたごたの中に人となっては、目が善く
開(あ)いていないでしょう。あなたの領分は
暗黒の境です。
︵四辺を見廻す。︶
茶いろになった石(いし)壁(かべ)が剣形迫(せり)持(もち)の形をして、
曲りくねって、低く、朽ちて、厭(いや)らしくなっている。
ここでこの人が目を醒ますと、厄介な事になります。
即坐に死んでしまいますから。
森の中の泉、鵠、裸体の美人、こんな物を
未来を予想して夢に見ていました。
それがどうしてこの境界に馴れられましょう。
一番のん気なわたくしですが、見ていられません。
どこかへ連れて行きましょうね。
メフィストフェレス
その始末には賛成だ。
小人
軍(いく)人(さにん)を軍(いくさ)に遣るなら、あなた
娘は踊にお遣(やり)なさい。そうなされば
万事かたが附きます。ちょっと
わたくしが考えて見たのですが、今は丁度
古代のワルプルギスの晩に当ります。
一番都合の好いのは、この人を性(しょう)に合った
境界へ連れて行って上げる事ですね。
メフィストフェレス
そんな催(もよおし)の事はこれまで聞いたことがない。
小人
それはあなたの耳には這入るはずがありません。
あなたのお馴染はロオマンチックの化物だけです。
化物でも本当のはクラッシックですよ。
メフィストフェレス
それにしてもどこへ向いて出掛けるのだ。
聞いただけで大(おお)時(じだ)代(い)の先生方の胸悪さを感じるて。
小人
あなたの遊山の領分は西北方です。
所がこん度は東南方へ飛んで行きます。
広い平原をペネイオスの川が楽に流れて、木立や
藪に囲まれて、静かな、空気の湿った入江をなしている。
平原は山の谷合まで延びていて、
上には新古二つのファルサロスがある。
メフィストフェレス
厭だな。御免を蒙りたい。暴君と奴隷との、
あの争は見たくもない。やっと済んだかと
思うと、また新規に前から始めるのだから、
己は退屈してしまう。そして実は背(うし)後(ろ)に
アスモジがいて、揶(から)揄(か)っているのだとは、
誰も気が附かない。自由の権利のために
闘っているのだと云うが、好く見れば、
奴隷が奴隷と勝負をしているのだ。
小人
人間の喧嘩好(ずき)な事だけは、認めて遣らなくては
いけません。子供の時から一人々々、力(ちか)限(らかぎり)に
防禦をしていて、それでとうとう人となるのです。
ここでの問題はこの人をどうして直そうかと
云うのです。あなた方(ほう)があるなら、お験(ためし)なさい。
出来ないなら、わたくしにお任(まかせ)なさい。
メフィストフェレス
それはブロッケンの趣向に、随分験(ため)して好(い)いのも
あるが、この際異端の方角には錠が卸してあるらしい。
一体グレシア人は慥(しか)と役に立ったことのない民族だ。
それでも皆を放縦な官能の発動で迷わせて、
人間の胸を晴やかな罪悪に誘うことは出来る。
己達の罪悪はどうせ陰気に思われるだろう。
そこでどうする。
小人
あなたも不断は野暮ではない。
わたくしがテッサリアの魔女と云ったら、幾らか
なるほどとお思(おも)当(いあたり)なさらないことはありますまい。
メフィストフェレス
︵欲望あるらしく。︶
テッサリアの魔女だと。好し。己が永(なが)年(ねん)聞いていて
見たく思った女共だ。そいつ等と
毎晩一しょにいるとなると、己の考では、
好い心持ではなさそうだ。だが験(ためし)に
お見まい申すだけなら好(い)い。
小人
その外套を下さい。
この騎士さんに被(かぶ)せて遣りましょう。
これまで通(どおり)にその切(きれ)が、あなた方を
二人共一しょに載せて飛ぶでしょう。わたくしが
明(あかり)を見せます。
ワグネル︵気遣はしげに。︶
そして己は。
小人
さればですね。
あなたは内で大切な事をなさっていらっしゃい。
古い巻物を開(あ)けて見て、方(ほう)に拠(よ)って
生活の元素を集めて、あれと此とを綿密に
抱合させて御覧なさい。﹁何を﹂と云うことも
大切ですが、﹁奈(いか)に﹂と云うことが一層大切です。
わたくしはその間に世界の一部をさまよって、
画竜の睛(ひとみ)の一点を見出しましょう。そうすれば、
大目的が達せられたと云うものです。こう云う
努力には相応の酬(むくい)がありましょう。黄金、地位、
名聞、それに健康な、長い生活、それから
学問、事によったら、道徳も得られましょうか。
さようなら。
ワグネル︵悲しげに。︶
さようなら。実に己はがっかりする。
もうお前にまた逢うことは出来そうにないなあ。
メフィストフェレス
さあ、すぐにペネイオスの川辺へ行こう。
小僧さん、なかなか話せるぜ。
︵見物に向きて。︶
とうとう我々は、自分の拵えた人間に
巻(まき)添(ぞえ)せられるものかも知れませんね。