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第拾四章
︵一︶
月曜の朝早く校長は小学校へ出勤した。応接室の側の一間を自分の室と定めて、毎朝授業の始まる前には、必ず其処に閉(とぢ)籠(こも)るのが癖。それは一日の事務の準(した)備(く)をする為でもあつたが、又一つには職員等(たち)の不平と煙草の臭(にほ)気(ひ)とを避ける為で。丁度其朝は丑松も久し振の出勤。校長は丑松に逢つて、忌服中のことを尋ねたり、話したりして、軈てまた例の室に閉籠つた。
この室の戸を叩(たゝ)くものが有る。其音で、直に校長は勝野文平といふことを知つた。いつも斯ういふ風にして、校長は斯(こ)の鍾(きに)愛(いり)の教員から、さま〴〵の秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口、其他時間割と月給とに関する五(うる)月(さ)蠅(い)ほどの嫉(ねた)みと争ひとは、是(こ)処(ゝ)に居て手に取るやうに解るのである。其朝も亦、何か新しい注進を齎(もたら)して来たのであらう、斯う思ひ乍ら、校長は文平を室の内へ導いたのであつた。
いつの間にか二人は丑松の噂(うはさ)を始めた。
﹃勝野君。﹄と校長は声を低くして、﹃君は今、妙なことを言つたね――何か瀬川君のことに就いて新しい事実を発見したとか言つたね。﹄
﹃はあ。﹄と文平は微(ほゝ)笑(ゑ)んで見せる。
﹃どうも君の話は解りにくゝて困るよ。何時でも遠廻しに匂はせてばかり居るから。﹄
﹃だつて、校長先生、人の一生の名誉に関(かゝ)はるやうなことを、左(さ)様(う)迂(うく)濶(わつ)には喋(しや)舌(べ)れないぢや有ませんか。﹄
﹃ホウ、一生の名誉に?﹄
﹃まあ、私の聞いたのが事実だとして、其が斯の町へ知れ渡つたら、恐らく瀬川君は学校に居られなくなるでせうよ。学校に居られないばかりぢや無い、あるひは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなるかも知れません。﹄
﹃へえ――学校にも居られなくなる、社会からも放逐される、と言へば君、非常なことだ。それでは宛(まる)然(で)死刑を宣告されるも同じだ。﹄
﹃先(ま)づ左(さ)様(う)言つたやうなものでせうよ。尤も、私が直(ぢ)接(か)に突留めたといふ訳でも無いのですが、種(いろ)々(〳〵)なことを綜(あつ)めて考へて見ますと――ふふ。﹄
﹃ふゝぢや解らないねえ。奈(ど)何(ん)な新しい事実か、まあ話して聞かせて呉れ給へ。﹄
﹃しかし、校長先生、私から其(そ)様(ん)な話が出たといふことになりますと、すこし私も迷惑します。﹄
﹃何(な)故(ぜ)?﹄
﹃何故ツて、左様ぢや有ませんか。私が取つて代りたい為に、其様なことを言ひ触らしたと思はれても厭ですから――毛頭私は其様な野心が無いんですから――なにも瀬川君を中傷する為に、御話するのでは無いんですから。﹄
﹃解つてますよ、其様なことは。誰が君、其様なことを言ふもんですか。其様な心配が要るもんですか。君だつても他の人から聞いたことなんでせう――それ、見たまへ。﹄
文平が思はせ振な様子をして、何か意味ありげに微笑めば微笑むほど、余計に校長は聞かずに居られなくなつた。
﹃では、勝野君、斯ういふことにしたら可(いゝ)でせう。我輩は其話を君から聞かない分にして置いたら可(いゝ)でせう。さ、誰も居ませんから、話して聞かせて呉れ給へ。﹄
斯う言つて、校長は一寸文平に耳を貸した。文平が口を寄せて、何か私(さゝ)語(や)いて聞かせた時は、見る〳〵校長も顔色を変へて了(しま)つた。急に戸を叩く音がする。ついと文平は校長の側を離れて窓の方へ行つた。戸を開けて入つて来たのは丑松で、入るや否や思はず一(ひと)歩(あし)逡(あと)巡(ずさり)した。
﹃何を話して居たのだらう、斯(こ)の二人は。﹄と丑松は猜(うた)疑(ぐり)深(ぶか)い目付をして、二人の様子を怪まずには居られなかつたのである。
﹃校長先生、﹄と丑松は何気なく尋ねて見た。﹃どうでせう、今日はすこし遅く始めましたら。﹄
﹃左(さや)様(う)――生徒は未(ま)だ集りませんか。﹄と校長は懐中時計を取出して眺める。
﹃どうも思ふやうに集りません。何を言つても、是雪ですから。﹄
﹃しかし、最(も)早(う)時間は来ました。生徒の集る、集らないは兎(と)に角(かく)、規則といふものが第一です。何(どう)卒(ぞ)小使に左様言つて、鈴を鳴らさせて下さい。﹄
︵二︶
其朝ほど無思想な状(あり)態(さま)で居たことは、今迄丑松の経験にも無いのであつた。実際其朝は半分眠り乍ら羽織袴を着けて来た。奥様が詰て呉れた弁当を提げて、久し振で学校の方へ雪道を辿(たど)つた時も、多くの教員仲間から弔(くや)辞(み)を受けた時も、受持の高等四年生に取(とり)囲(ま)かれて種(いろ)々(〳〵)なことを尋ねられた時も、丑松は半分眠り乍ら話した。授業が始つてからも、時々眼(めの)前(まへ)の事(こと)物(がら)に興味を失つて、器械のやうに読本の講釈をして聞かせたり、生徒の質問に答へたりした。其日は遊戯の時間の監督にあたる日、鈴が鳴つて休みに成る度に、男女の生徒は四方から丑松に取(とり)縋(すが)つて、﹃先生、先生﹄と呼んだり叫んだりしたが、何を話して何を答へたやら、殆んど其感覚が無かつた位。丑松は夢見る人のやうに歩いて、あちこちと馳せちがふ多くの生徒の監督をした。
銀之助が駈寄つて、
﹃瀬川君――君は気分でも悪いと見えるね。﹄
と言つたのは覚えて居るが、其他の話はすべて記憶に残らなかつた。
斯(か)ういふ中にも、唯一つ、あの省吾に呉れたいと思つて、用意したものを持つて来ることだけは忘れなかつた。昼休みには、高等科から尋常科までの生徒が学校の内で飛んだり跳ねたりして騒いだ。なかには広い運動場に出て、雪投げをして遊ぶものもあつた。丁度高等四年の教室には誰も居なかつたので、そこへ丑松は省吾を連れて行つて、新聞紙に包んだものを取出して見せて、
﹃君に呈(あ)げようと思つて斯ういふものを持つて来ました。帳面です、内に入つてるのは。是(これ)は君、家へ帰つてから開けて見るんですよ。いいかね。学校の内で開けて見るんぢや無いんですよ――ね、是を君に呈げますから。﹄
と言つて、丑松は自分の前に立つ少年の驚き喜ぶ顔を見たいと思ふのであつた。意外にも省吾は斯の贈物を受けなかつた。唯もう目を円(まる)くして、丑松の様子と新聞紙の包とを見比べるばかり。奈(ど)何(う)して斯(こ)様(ん)なものを呉れるのであらう。第一、それからして不思議でならない。と言つたやうな顔付。
﹃いゝえ、私は沢山です。﹄
と省吾は幾度か辞退した。
﹃其(そ)様(ん)な、君のやうな――﹄と丑松は省吾の顔を眺めて、﹃人が呈(あ)げるツて言ふものは、貰ふもんですよ。﹄
﹃はい、難有う。﹄と復た省吾は辞退した。
﹃困るぢやないか、君、折(せつ)角(かく)呈げようと思つて斯うして持つて来たものを。﹄
﹃でも、母さんに叱られやす。﹄
﹃母さんに? 其様な馬鹿なことが有るもんか。私が呈げるツて言ふのに、叱るなんて――私は君の父(おと)上(つ)さんとも懇意だし、それに、君の姉さんには種(いろ)々(〳〵)御世話に成つて居るし、此(こな)頃(ひだ)から呈げよう〳〵と思つて居たんです。ホラ、よく西洋綴の帳面で、罫の引いたのが有ませう。あれですよ、斯の内に入つてるのは。まあ、君、其(そ)様(ん)なことを言はないで、是を家へ持つて帰つて、作文でも何でも君の好なものを書いて見て呉れたまへ。﹄
斯う言つて、其を省吾の手に持たして居るところへ、急に窓の外の方で上草履の音が起る。丑松は省吾を其処に残して置いて、周(あ)章(わ)てゝ教室を出て了つた。
︵三︶
東の廊下の突当り、二階へ通ふやうになつて居る階段のところは、あまり生徒もやつて来なかつた。丑松が男女の少年の監督に忙(せは)しい間に、校長と文平の二人は斯(こ)の静かな廊下で話した――並んで灰色の壁に倚(より)凭(かゝ)り乍(なが)ら話した。
﹃一体、君は誰から瀬川君のことを聞いて来たのかね。﹄と校長は尋ねて見た。
﹃妙な人から聞いて来ました。﹄と文平は笑つて、﹃実に妙な人から――﹄
﹃どうも我輩には見当がつかない。﹄
﹃尤も、人の名誉にも関はることだから、話だけは為(す)るが、名前を出して呉れては困る、と先(さ)方(き)の人も言ふんです。兎(と)に角(かく)代議士にでも成らうといふ位の人物ですから、其様な無責任なことを言ふ筈(はず)も有ません。﹄
﹃代議士にでも?﹄
﹃ホラ。﹄
﹃ぢやあ、あの新しい細君を連れて帰つて来た人ぢや有ませんか。﹄
﹃まあ、そこいらです。﹄
﹃して見ると――はゝあ、あの先生が地方廻りでもして居る間に、何処かで其様な話を聞込んで来たものかしら。悪い事は出来ないものさねえ。いつか一度は露(あら)顕(は)れる時が来るから奇体さ。﹄と言つて、校長は嘆息して、﹃しかし、驚ろいたねえ。瀬川君が穢多だなぞとは、夢にも思はなかつた。﹄
﹃実際、私も意外でした。﹄
﹃見給へ、彼(あ)の容(よう)貌(ばう)を。皮膚といひ、骨格といひ、別に其様な賤民らしいところが有るとも思はれないぢやないか。﹄
﹃ですから世間の人が欺(だま)されて居たんでせう。﹄
﹃左様ですかねえ。解らないものさねえ。一寸見たところでは、奈(ど)何(う)しても其様な風に受取れないがねえ。﹄
﹃容貌ほど人を欺すものは有ませんさ。そんなら、奈何でせう、彼(あ)の性質は。﹄
﹃性質だつても君、其様な判断は下せない。﹄
﹃では、校長先生、彼の君の言ふこと為(な)すことが貴方の眼には不思議にも映りませんか。克(よ)く注意して、瀬川丑松といふ人を御覧なさい――どうでせう、彼(あ)の物を視る猜(うた)疑(がひ)深(ぶか)い目付なぞは。﹄
﹃はゝゝゝゝ、猜疑深いからと言つて、其が穢多の証拠には成らないやね。﹄
﹃まあ、聞いて下さい。此(こな)頃(ひだ)迄(まで)瀬川君は鷹(たか)匠(しやう)町の下宿に居ましたらう。彼(あ)の下宿で穢多の大尽が放逐されましたらう。すると瀬川君は突(だし)然(ぬけ)に蓮華寺へ引越して了ひましたらう――ホラ、をかしいぢや有ませんか。﹄
﹃それさ、それを我輩も思ふのさ。﹄
﹃猪子蓮太郎との関係だつても左(さ)様(う)でせう。彼(あ)様(ん)な病的な思想家ばかり難(あり)有(がた)く思はないだつて、他にいくらも有さうなものぢや有ませんか。彼様な穢多の書いたものばかり特に大騒ぎしなくても好ささうなものぢや有ませんか。どうも瀬川君が贔(ひい)顧(き)の仕方は普通の愛読者と少(すこ)許(し)違ふぢや有ませんか。﹄
﹃そこだ。﹄
﹃未(ま)だ校長先生には御話しませんでしたが、小(こも)諸(ろ)の与(よ)良(ら)といふ町には私の叔父が住んで居ます。其町はづれに蛇(じや)堀(ぼり)川(がは)といふ沙(すな)河(がは)が有まして、橋を渡ると向町になる――そこが所(いは)謂(ゆる)穢多町です。叔父の話によりますと、彼処は全町同じ苗字を名乗つて居るといふことでしたツけ。其苗字が、確か瀬川でしたツけ。﹄
﹃成程ねえ。﹄
﹃今でも向町の手合は苗字を呼びません。普通に新平民といへば名前を呼捨です。おそらく明治になる前は、苗字なぞは無かつたのでせう。それで、戸籍を作るといふ時になつて、一村挙(こぞ)つて瀬川と成つたんぢや有るまいかと思ふんです。﹄
﹃一寸待ちたまへ。瀬川君は小諸の人ぢや無いでせう。小(ちひ)県(さがた)の根津の人でせう。﹄
﹃それが宛(あて)になりやしません――兎に角、瀬川とか高橋とかいふ苗字が彼(あ)の仲間に多いといふことは叔父から聞きました。﹄
﹃左様言はれて見ると、我輩も思当ることが無いでも無い。しかしねえ、もし其が事実だとすれば、今迄知れずに居る筈も無からうぢやないか。最(も)早(う)疾(とつく)に知れて居さうなものだ――師範校に居る時代に、最早知れて居さうなものだ。﹄
﹃でせう――それそこが瀬川君です。今(こん)日(にち)まで人の目を暗(くらま)して来た位の智(ち)慧(ゑ)が有るんですもの、余程狡(かう)猾(くわつ)の人間で無ければ彼(あ)の真似は出来やしません。﹄
﹃あゝ。﹄と校長は嘆息して了つた。﹃それにしても、よく知れずに居たものさ、どうも瀬川君の様子がをかしい〳〵と思つたよ――唯、訳も無しに、彼(あ)様(ゝ)考へ込む筈(はず)が無いからねえ。﹄
急に大鈴の音が響き渡つた。二人は壁を離れて、長い廊下を歩き出した。午後の課業が始まると見え、男女の生徒は上草履鳴らして、廊下の向ふのところを急いで通る。丑松も少年の群に交り乍ら、一寸是(こち)方(ら)を振向いて見て行つた。
﹃勝野君。﹄と校長は丑松の姿を見送つて、﹃成(なる)程(ほど)、君の言つた通りだ。他(ひと)の一生の名誉にも関はることだ。まあ、もうすこし瀬川君の秘密を探つて見ることに為(し)ようぢやないか。﹄
﹃しかし、校長先生。﹄と文平は力を入れて言つた。﹃是話が彼の代議士の候補者から出たといふことだけは決して他(ひと)に言はないで置いて下さい――さもないと、私が非常に迷惑しますから。﹄
﹃無論さ。﹄
︵四︶
時間表によると、其日の最(をは)終(り)の課業が唱歌であつた。唱歌の教師は丑松から高等四年の生徒を受取つて、足拍子揃へさして、自分の教室の方へ導いて行つた。二時から三時まで、それだけは丑松も自由であつたので、不図、蓮太郎のことが書いてあつたとかいふ昨日の銀之助の話を思出して、応接室を指して急いで行つた。いつも其机の上には新聞が置いてある。戸を開けて入つて見ると、信毎は一昨日の分も残つて、まだ綴込みもせずに散(とり)乱(ちら)した儘。その読みふるしを開けた第二面の下のところに、彼の先輩のことを見つけた時は、奈(どん)何(な)に丑松も胸を踊らせて、﹃むゝ――あつた、あつた﹄と驚き喜んだらう。
﹃何処へ行つて是(この)新聞を読まう。﹄先づ心に浮んだは斯うである。﹃斯(こ)の応接室で読まうか。人が来ると不(いけ)可(ない)。教室が可(いゝ)か。小使部屋が可か――否、彼処へも人が来ないとは限らない。﹄と思ひ迷つて、新聞紙を懐に入れて、応接室を出た。﹃いつそ二階の講堂へ行つて読め。﹄斯う考へて、丑松は二階へ通ふ階段を一階づゝ音のしないやうに上つた。
そこは天長節の式場に用ひられた大広間、長い腰掛が順序よく置並べてあるばかり、平(ふだ)素(ん)はもう森(しん)閑(かん)としたもので、下手な教室の隅なぞよりは反つて安全な場処のやうに思はれた。とある腰掛を択(えら)んで、懐から取出して読んで居るうちに、いつの間にか彼の高柳との間答――﹃懇意でも有ません、関係は有ません、何にも私は知りません﹄と三度迄も心を偽つて、師とも頼み恩人とも思ふ彼の蓮太郎と自分とは、全く、赤の他人のやうに言消して了つたことを思出した。﹃先生、許して下さい。﹄斯(か)う詑(わ)びるやうに言つて、軈(やが)て復(ま)た新聞を取上げた。
漠(ばく)然(ぜん)とした恐(おそ)怖(れ)の情は絶えず丑松の心を刺激して、先輩に就いての記事を読み乍らも、唯もう自分の一生のことばかり考へつゞけたのであつた。其から其へと辿つて反省すると、丑松は今、容易ならぬ位置に立つて居るといふことを感ずる。さしかゝつた斯の大きな問題を何とか為なければ――左(さ)様(う)だ、何とか斯(こ)の思(かん)想(がへ)を纏めなければ、一切の他の事は手にも着かないやうに思はれた。
﹃さて――奈(ど)何(う)する。﹄
斯う自分で自分に尋ねた時は、丑松はもう茫(ばう)然(ぜん)として了(しま)つて、其答を考へることが出来なかつた。
﹃瀬川君、何を君は御読みですか。﹄
と唐(だし)突(ぬけ)に背(うし)後(ろ)から声を掛けた人がある。思はず丑松は顔色を変へた。見れば校長で、何か穿(さぐ)鑿(り)を入れるやうな目付して、何時の間にか腰掛のところへ来て佇(たゝ)立(ず)んで居た。
﹃今――新聞を読んで居たところです。﹄と丑松は何気ない様子を取(とり)装(つくろ)つて言つた。
﹃新聞を?﹄と校長は不思議さうに丑松の顔を眺めて、﹃へえ、何か面白い記(こ)事(と)でも有ますかね。﹄
﹃ナニ、何でも無いんです。﹄
暫(しば)時(らく)二人は無言であつた。校長は窓の方へ行つて、玻(ガラ)璃(ス)越(ご)しに空の模様を覗(のぞ)いて見て、
﹃瀬川君、奈何でせう、斯の御天気は。﹄
﹃左様ですなあ――﹄
斯ういふ言葉を取交し乍ら、二人は一緒に講堂を出た。並んで階段を下りる間にも、何となく丑松は胸騒ぎがして、言ふに言はれぬ不快な心(こゝ)地(ろもち)に成るのであつた。
邪推かは知らないが、どうも斯(こ)の校長の態(しむ)度(け)が変つた。妙に冷(しら)淡(〴〵)しく成つた。いや、冷淡しいばかりでは無い、可(い)厭(や)に神経質な鼻でもつて、自分の隠して居る秘密を嗅ぐかのやうにも感ぜらるゝ。﹃や?﹄と猜(うた)疑(ぐり)深(ぶか)い心で先(さ)方(き)の様子を推量して見ると、さあ、丑松は斯の校長と一緒に並んで歩くことすら堪へ難い。どうかすると階段を下りる拍子に、二人の肩と肩とが触(すれ)合(あ)ふこともある。冷(つめた)い戦(みぶ)慄(るひ)は丑松の身体を通して流れ下るのであつた。
小使が振鳴らす最(をは)終(り)の鈴の音は、其時、校内に響き渡つた。そここゝの教室の戸を開けて、後から〳〵押して出て来る少年の群は、長い廊下に満ち溢(あふ)れた。丑松は校長の側を離れて、急いで斯の少年の群に交つた。
やがて生徒は雪道の中を帰つて行つた。いづれも学問する児(こど)童(も)らしい顔付の殊勝さ。弁当箱を振廻して行くもあれば、風呂敷包を頭の上に戴(の)せて行くもある。十(そろ)露(ば)盤(ん)小脇に擁(かゝ)へ、上草履提げ、口笛を吹くやら、唱歌を歌ふやら。呼ぶ声、叫ぶ声は、犬の鳴声に交つて、午後の空気に響いて騒しく聞える、中には下駄の鼻緒を切らして、素足で飛んで行く女の児もあつた。
不安と恐怖との念(おもひ)を抱き乍ら、丑松も生徒の後に随いて、学校の門を出た。斯(か)うしてこの無邪気な少年の群を眺めるといふことが、既にもう丑松の身に取つては堪へがたい身の苦(くる)痛(しみ)を感ずる媒(なかだち)とも成るので有る。
﹃省吾さん、今御帰り?﹄
斯う丑松は言葉を掛けた。
﹃はあ。﹄と省吾は笑つて、﹃私(わし)も後(あ)刻(と)で蓮華寺へ行きやすよ、姉さんが来ても可(いゝ)と言ひやしたから。﹄
﹃むゝ――今夜は御説教があるんでしたツけねえ。﹄
と思出したやうに言つた。暫(しば)時(らく)丑松は可(なつ)懐(か)しさうに、駈出して行く省吾の後姿を見送りながら立つた。雪の大路の光(あり)景(さま)は、丁度、眼(めの)前(まへ)に展(ひら)けて、用事ありげな人々が往つたり来たりして居る。急に烈しい眩(めま)暈(ひ)に襲(おそ)はれて、丑松は其処へ仆(たふ)れかゝりさうに成つた。其時、誰か斯(か)う背(うし)後(ろ)から追迫つて来て、自分を捕(つかま)へようとして、突(だし)然(ぬけ)に﹃やい、調(てう)里(りツ)坊(ぱう)﹄とでも言ふかのやうに思はれた。斯う疑へば恐しくなつて、背後を振返つて見ずには居られなかつたのである――あゝ、誰が其様なところに居よう。丑松は自分を嘲(あざけ)つたり励ましたりした。