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第拾六章
︵一︶
次第に丑松は学校へ出勤するのが苦しく成つて来た。ある日、あまりの堪へがたさに、欠席の届を差出した。其朝は遅くまで寝て居た。八時打ち、九時打ち、軈(やが)て十時打つても、まだ丑松は寝て居た。窓の障(しや)子(うじ)は冬の日をうけて、其光が部屋の内へ射しこんで来たのに、丑松は枕(まく)頭(らもと)を照らされても、まだそれでも起きることが出来なかつた。下女の袈裟治は部屋々々の掃除を済(す)まして、最(も)早(う)とつくに雑(ざふ)巾(きん)掛(がけ)まで為(し)て了(しま)つた。幾度か二階へも上つて来て見た。来て見ると、丑松は疲れて、蒼(あを)ざめて、丁度酣(たべ)酔(すご)した人のやうに、寝床の上に倒れて居る。枕頭は取散らした儘(まゝ)。あちらの隅に書物、こちらの隅に風呂敷包、すべて斯の部屋の内に在る道具といへば、各(めい)自(〳〵)勝手に乗出して踊つたり跳ねたりした後のやうで、其乱雑な光(あり)景(さま)は部屋の主人の心の内(な)部(か)を克(よ)く想像させる。軈てまた袈裟治が湯(ゆわ)沸(かし)を提げて入つて来た時、漸(やうや)く丑松は起上つて、茫(ぼん)然(やり)と寝床の上に座つて居た。寝過ぎと衰(おと)弱(ろへ)とから、恐しい苦痛の色を顔に表して、半分は未だ眠り乍ら其処に座つて居るかのやう。﹃御飯を持つて来ませうか。﹄斯う袈裟治が聞いて見ても、丑松は食ふ気に成らなかつたのである。
﹃あゝ、気分が悪くて居なさると見える。﹄
と独(ひと)語(りごと)のやうに言ひ乍ら、袈裟治は出て行つた。
それは北国の冬らしい、寂しい日であつた。ちひさな冬の蠅は斯の部屋の内に残つて、窓の障子をめがけては、あちこち〳〵と天井の下を飛びちがつて居た。丑松が未だ斯の寺へ引越して来ないで、あの鷹匠町の下宿に居た頃は、煩(うるさ)いほど沢山蠅の群が集つて、何(ど)処(こ)から塵(ほこ)埃(り)と一緒に舞込んで来たかと思はれるやうに、鴨居だけばかりのところを組(く)んづ離(ほぐ)れつしたのであつた。思へば秋風を知つて、短い生(いの)命(ち)を急いだのであらう。今は僅かに生残つたのが斯うして目につく程の季節と成つた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、十二月の近いたことを思ひ浮べたのである。
斯(か)うして、働けば働ける身をもつて、何(なんに)も為(せ)ずに考へて居るといふことは、決して楽では無い。官費の教育を享(う)けたかはりに、長い義務年限が纏(つき)綿(まと)つて、否でも応でも其間厳重な規則に服(した)従(が)はなければならぬ、といふことは――無論、丑松も承知して居る。承知して居乍ら、働く気が無くなつて了つた。噫(あゝ)、朝寝の床は絶望した人を葬る墓のやうなもので有らう。丑松は復たそこへ倒れて、深い睡(ねむ)眠(り)に陥(おち)入(い)つた。
︵二︶
﹃瀬川先生、御客様でやすよ。﹄
と喚(よび)起(おこ)す袈裟治の声に驚かされて、丑松は銀之助が来たことを知つた。銀之助ばかりでは無い、例の準教員も勤(つと)務(め)の儘の服(みな)装(り)でやつて来た。其日は、地方を巡回して歩く休職の大尉とやらが軍事思想の普及を計る為、学校の生徒一同に談(はな)話(し)をして聞かせるとかで、午後の課業が休みと成つたから、一寸暇を見て尋ねて来たといふ。丑松は寝床の上に起直つて、半ば夢のやうに友達の顔を眺めた。
﹃君――寝て居たまへな。﹄
斯う銀之助は無造作な調子で言つた。真実丑松をいたはるといふ心が斯(この)友達の顔色に表れる。丑松は掛蒲団の上にある白い毛布を取つて、丁度褞(どて)袍(ら)を着たやうな具合に、其を身に纏(まと)ひ乍ら、
﹃失敬するよ、僕は斯(こ)様(ん)なものを着て居るから。ナニ、君、其(そん)様(な)に酷(ひど)く不(わ)良(る)くも無いんだから。﹄
﹃風(か)邪(ぜ)ですか。﹄と準教員は丑松の顔を熟(みま)視(も)る。
﹃まあ、風邪だらうと思ふんです。昨夜から非常に頭が重くて、奈(ど)何(う)しても今朝は起きることが出来ませんでした。﹄と丑松は準教員の方へ向いて言つた。
﹃道理で、顔色が悪い。﹄と銀之助は引取つて、﹃インフルヱンザが流(は)行(や)るといふから、気をつけ給へ。何か君、飲んで見たら奈何だい。焼味噌のすこし黒(くろ)焦(こげ)に成つたやつを茶漬茶椀かなんかに入れて、そこへ熱(にえ)湯(ゆ)を注(つぎ)込(こ)んで、二三杯もやつて見給へ。大抵の風邪は愈(なほ)つて了(しま)ふよ。﹄と言つて、すこし気を変へて、﹃や、好い物を持つて来て、出すのを忘れた――それ、御(おみ)土(や)産(げ)だ。﹄
斯(か)う言つて、風呂敷包の中から取出したのは、十一月分の月給。
﹃今日は君が出て来ないから、代理に受取つて置いた。﹄と銀之助は言葉を続けた。
﹃克(よ)く改めて見て呉れ給へ――まあ有る積りだがね。﹄
﹃それは難有う。﹄と丑松は袋入りの銀貨取混ぜて受取つて、﹃確に。して見ると今日は二十八日かねえ。僕はまた二十七日だとばかり思つて居た。﹄
﹃はゝゝゝゝ、月給取が日を忘れるやうぢやあ仕様が無い。﹄と銀之助は反(そり)返(かへ)つて笑つた。
﹃全く、僕は茫(ぼん)然(やり)して居た。﹄と丑松は自分で自分を励ますやうにして、﹃今月は君、小だらう。二十九、三十と、十一月も最(も)早(う)二日しか無いね。あゝ今年も僅かに成つたなあ。考へて見ると、うか〳〵して一年暮して了つた――まあ、僕なぞは何(なんに)も為なかつた。﹄
﹃誰だつて左(さ)様(う)さ。﹄と銀之助も熱心に。
﹃君は好いよ。君はこれから農科大学の方へ行つて、自分の好きな研究が自由にやれるんだから。﹄
﹃時に、僕の送別会もね、生徒の方から明日にしたいと言出したが――﹄
﹃明日に?﹄
﹃しかし、君も斯うして寝て居るやうぢやあ――﹄
﹃なあに、最早愈(なほ)つたんだよ。明日は是非出掛ける。﹄
﹃はゝゝゝゝ、瀬川君の病気は不(わ)良(る)くなるのも早いし、快(よ)くなるのも早い。まあ大病人のやうに呻(う)吟(な)つてるかと思ふと、また虚(う)言(そ)を言つたやうに愈(なほ)るから不思議さ――そりやあ、もう、毎(いつ)時(も)御極りだ。それはさうと、斯うして一緒に馬鹿を言ふのも僅かに成つて来た。其内に御別れだ。﹄
﹃左様かねえ、君はもう行つて了ふかねえ。﹄
斯ういふ言葉を取交して、二人は互に感慨に堪へないといふ様子であつた。其時迄、黙つて二人の談(はな)話(し)を聞いて、巻煙草ばかり燻(ふか)して居た準教員は、唐(だし)突(ぬけ)に斯(こ)様(ん)なことを言出した。
﹃今日僕は妙なことを聞いて来た。学校の職員の中に一人新平民が隠れて居るなんて、其(そ)様(ん)なことを町の方で噂(うはさ)するものが有るさうだ。﹄
︵三︶
﹃誰が其様なことを言出したんだらう。﹄と銀之助は準教員の方へ向いて言つた。
﹃誰が言出したか、其は僕も知らないがね。﹄と準教員はすこし困(こ)却(ま)つたやうな調子で、﹃要するに、人の噂に過ぎないんだらうと思ふんだ。﹄
﹃噂にもよりけりさ。其様なことを言はれちやあ、大に吾(われ)儕(〳〵)が迷惑するねえ。克(よ)く町の人は種(いろ)々(〳〵)なことを言触らす。やれ、女の教員が奈(ど)何(う)したの、男の教員が斯(か)様(う)したのツて。何(な)故(ぜ)、左(さ)様(う)人の噂が為たいんだらう。そんなら、君、まあ学校の職員を数へて見給へ。穢多らしいやうな顔付のものが吾儕の中にあるかい。実に怪しからんことを言ふぢやないか――ねえ、瀬川君。﹄
斯う言つて、銀之助は丑松の方を見た。丑松は無言で、白い毛布に身を包んだまゝ。
﹃はゝゝゝゝ。﹄と銀之助は笑ひ出した。﹃校長先生は随分几(きち)帳(やう)面(めん)な方だが、なんぼなんでも新平民とは思はれないし、と言つて、教員仲間に其様なものは見当りさうも無い。左様さなあ――いやに気取つてるのは勝野君だ――まあ、其様な嫌疑のかゝるのは勝野君位のものだ。﹄
﹃まさか。﹄と準教員も一緒になつて笑つた。
﹃そんなら、君、誰だと思ふ。﹄と銀之助は戯れるやうに、﹃さしづめ、君ぢやないか。﹄
﹃馬鹿なことを言ひ給へ。﹄と準教員はすこし憤(む)然(つ)とする。
﹃はゝゝゝゝ、君は直に左(さ)様(う)怒(おこ)るから不(いか)可(ん)。なにも君だと言つた訳では無いよ。真(ほん)箇(たう)に、君のやうな人には戯(じよ)語(うだん)も言へない。﹄
﹃しかし。﹄と準教員は真(ま)面(じ)目(め)に成つて、﹃是(これ)がもし事実だと仮定すれば――﹄
﹃事実? 到(たう)底(てい)其様なことは有得べからざる事実だ。﹄と銀之助は聞入れなかつた。﹃何故と言つて見給へ。学校の職員は大抵出(でど)処(こ)が極(きま)つて居る。君等のやうに講習を済まして来た人か、勝野君のやうに検定試験から入つて来た人か、または吾(われ)儕(〳〵)のやうに師範出か――是より外には無い。若(も)し吾儕の中に其(そ)様(ん)な人が有るとすれば、師範校時代にもう知れて了ふね。卒業する迄も其が知れずに居るなんてことは、寄宿舎生活が許さないさ。検定試験を受けるやうな人は、いづれ長く学校に関係した連中だから、是も知れずに居る筈が無し、君等の方はまた猶(なほ)更(さら)だらう。それ見給へ。今になつて、突然其様なことを言触らすといふは、すこし可(を)笑(か)しいぢやないか。﹄
﹃だから――﹄と準教員は言葉に力を入れて、﹃僕だつても事実だと言つた訳では無いサ。若(もし)事実だと仮定すれば、と言つたんサ。﹄
﹃若(もし)かね。はゝゝゝゝ。君の言ふ若は仮定する必要の無い若だ。﹄
﹃左(さ)様(う)言へばまあ其迄だが、しかし万一其(そ)様(ん)なことが有るとすれば、奈(ど)何(う)いふ結果に成つて行くものだらう――僕は考へたばかりでも恐しいやうな気がする。﹄
銀之助は答へなかつた。二人の客はもうそれぎり斯(こ)様(ん)な話を為なかつた。
軈(やが)て二人が言葉を残して出て行かうとした時は、丑松は喪心した人のやうで、其顔色は白い毛布に映つて、一層蒼ざめて見えたのである。﹃あゝ、瀬川君は未だ快(よ)くないんだらう。﹄斯(か)う銀之助は自分で自分に言ひ乍ら、準教員と一緒に楼(はし)梯(ごだん)を下りて行つた。
暫(しば)時(らく)丑松は茫然として部屋の内を眺め廻して居たが、急に寝床を片付けて、着物を着更へて見た。不(ふ)図(と)思ひついたやうに、押入の隅のところに隠して置いた書物を取出した。それはいづれも蓮太郎を思出させるもので、彼の先輩が心血と精力とを注ぎ尽したといふ﹃現代の思潮と下層社会﹄、小冊子には﹃平凡なる人﹄、﹃労働﹄、﹃貧しきものゝ慰め﹄、それから﹃懴悔録﹄なぞ。丑松は一々内(な)部(か)を好く改めて見て、蔵書の印がはりに捺(お)して置いた自分の認(みと)印(め)を消して了つた。ほかに、床の間に置並べた語学の参考書の中から、五六冊不要なのを抜取つて、塵(ほこ)埃(り)を払つて、一緒にして風呂敷に包んで居ると、丁度そこへ袈裟治が入つて来た。
﹃御出掛?﹄
斯う声を掛ける。丑松はすこし周(あ)章(わ)てたといふ様子して、別に返事もしないのであつた。
﹃この寒いのに御出掛なさるんですか。﹄と袈裟治は呆(あき)れて、蒼(あを)ざめた丑松の顔を眺めた。﹃気分が悪くて寝て居なさる人が――まあ。﹄
﹃いや、もう悉(すつ)皆(かり)快くなつた。﹄
﹃ほゝゝゝゝ。それはさうと、御(おな)腹(か)が空きやしたらう。何か食べて行きなすつたら――まあ、貴(あん)方(た)は今朝から何(なんに)も食べなさらないぢやごはせんか。﹄
丑松は首を振つて、すこしも腹は空かないと言つた。壁に懸けてある外(ぐわ)套(いたう)を除(はづ)して着たのも、帽子を冠つたのも、着る積りも無く着、冠る積りも無く冠つたので、丁度感覚の無い器械が動くやうに、自分で自分の為(す)ることを知らない位であつた。丑松はまた、友達が持つて来て呉れた月給を机の抽(ひき)匣(だし)の中へ入れて、其内を紙の袋のまゝ袂へも入れた。尤も幾(いく)許(ら)置いて、幾許自分の身に着けたか、それすら好くは覚えて居ない。斯うして書物の包を提げて、成るべく外套の袖で隠すやうにして、軈てぶらりと蓮華寺の門を出た。
︵四︶
雪は往来にも、屋根の上にもあつた。﹃みの帽子﹄を冠り、蒲(がま)の脛(はゞ)穿(き)を着け、爪(つま)掛(かけ)を掛けた多くの労働者、または毛布を頭から冠つて深く身を包んで居る旅人の群――其(そ)様(ん)な手合が眼(めの)前(まへ)を往つたり来たりする。人や馬の曳く雪(ゆき)橇(ぞり)は幾(いく)台(つ)か丑松の側を通り過ぎた。
長い廻廊のやうな雪(ゆき)除(よけ)の﹃がんぎ﹄︵軒(のき)廂(びさし)︶も最(も)早(う)役に立つやうに成つた。往来の真中に堆(うづ)高(だか)く掻集めた白い小山の連(つゞ)接(き)を見ると、今に家々の軒丈よりも高く降り積つて、これが飯山名物の﹃雪山﹄と唄(うた)はれるかと、冬期の生(なり)活(はひ)の苦(くる)痛(しみ)を今更のやうに堪へがたく思出させる。空の模様はまた雪にでも成るか。薄い日のひかりを眺めたばかりでも、丑松は歩き乍ら慄(ふる)へたのである。
上(かみ)町(まち)の古本屋には嘗(かつ)て雑誌の古を引取つて貰つた縁故もあつた。丁度其店(みせ)頭(さき)に客の居なかつたのを幸(さいはひ)、ついと丑松は帽子を脱いで入つて、例の風呂敷包を何気なく取出した。﹃すこしばかり書(ほ)籍(ん)を持つて来ました――奈(ど)何(う)でせう、是(これ)を引取つて頂きたいのですが。﹄と其を言へば、亭主は直に丑松の顔色を読んで、商(あき)人(んど)らしく笑つて、軈(やが)て膝を進め乍ら風呂敷包を手前へ引寄せた。
﹃ナニ、幾(いく)許(ら)でも好いんですから――﹄
と丑松は添(つけ)加(た)して言つた。
亭主は風呂敷包を解(ほど)いて、一冊々々書物の表紙を調べた揚句、それを二通りに分けて見た。語学の本は本で一通り。兎も角も其(それ)丈(だけ)は丁寧に内(なか)部(み)を開けて見て、それから蓮太郎の著したものは無造作に一方へ積重ねた。
﹃何(いか)程(ほど)ばかりで是は御譲りに成る御積りなんですか。﹄と亭主は丑松の顔を眺めて、さも持余したやうに笑つた。
﹃まあ、貴方の方で思つたところを附けて見て下さい。﹄
﹃どうも是節は不景気でして、一向に斯(か)ういふものが捌(は)けやせん。御引取り申しても好うごはすが、しかし金高があまり些(いさ)少(ゝか)で。実は申上げるにしやしても、是(こち)方(ら)の英語の方だけの御(おね)直(だ)段(ん)で、新刊物の方はほんの御(ごあ)愛(いけ)嬌(う)――﹄と言つて、亭主は考へて、﹃こりや御持帰りに成りやした方が御為かも知れやせん。﹄
﹃折(せつ)角(かく)持つて来たものです――まあ、左様言はずに、引取れるものなら引取つて下さい。﹄
﹃あまり些(いさ)少(ゝか)ですが、好うごはすか。そんなら、別々に申上げやせうか。それとも籠(こ)めて申上げやせうか。﹄
﹃籠めて言つて見て下さい。﹄
﹃奈(いか)何(ゞ)でせう、精一杯なところを申上げて、五十五銭。へゝゝゝゝ。それで宜(よろ)しかつたら御引取り申して置きやす。﹄
﹃五十五銭?﹄
と丑松は寂しさうに笑つた。
もとより何(いく)程(ら)でも好いから引取つて貰ふ気。直に話は纏(まとま)つた。あゝ書物ばかりは売るもので無いと、予(かね)て丑松も思はないでは無いが、然しこゝへ持つて来たのは特別の事情がある。やがて自分の宿処と姓名とを先(さ)方(き)の帳面へ認(したゝ)めてやつて、五十五銭を受取つた。念の為、蓮太郎の著したものだけを開けて見て、消して持つて来た瀬川といふ認(みと)印(め)のところを確めた。中に一冊、忘れて消して無いのがあつた。﹃あ――ちよつと、筆を貸して呉れませんか。﹄斯う言つて、借りて、赤々と鮮(あざ)明(やか)に読まれる自分の認印の上へ、右からも左からも墨黒々と引いた。
﹃斯うして置きさへすれば大丈夫。﹄――丑松の積りは斯うであつた。彼の心は暗かつたのである。思ひ迷ふばかりで、実は奈(ど)何(う)していゝか解らなかつたのである。古本屋を出て、自分の為(し)たことを考へ乍ら歩いた時は、もう哭(な)きたい程の思に帰つた。
﹃先生、先生――許して下さい。﹄
と幾度か口の中で繰返した。其時、あの高柳に蓮太郎と自分とは何の関係も無いと言つたことを思出した。鋭い良心の詰(とが)責(め)は、身を衛(まも)る余儀なさの弁(いひ)解(わけ)と闘つて、胸には刺されるやうな深い〳〵悲(いた)痛(み)を感ずる。丑松は羞(は)ぢたり、畏(おそ)れたりしながら、何処へ行くといふ目(めあ)的(て)も無しに歩いた。
︵五︶
一ぜんめし、御(おん)酒(さけ)肴(さかな)、笹屋、としてあるは、かねて敬之進と一緒に飲んだところ。丑松の足は自然とそちらの方へ向いた。表の障子を開けて入ると、そここゝに二三の客もあつて、飲(のみ)食(くひ)して居る様子。主(かみ)婦(さん)は流(なが)許(しもと)へ行つたり、竈(かまど)の前に立つたりして、多(いそ)忙(が)しさうに尻(しり)端(はし)折(をり)で働いて居た。
﹃主(か)婦(み)さん、何か有ますか。﹄
斯(か)う丑松は声を掛けた。主婦は煤(すゝ)けた柱の傍に立つて、手を拭(ふ)き乍(なが)ら、
﹃生(あい)憎(にく)今(こん)日(ち)は何(なんに)も無くて御気の毒だいなあ。川魚の煮(た)いたのに、豆腐の汁(つゆ)ならごはす。﹄
﹃そんなら両方貰ひませう。それで一杯飲まして下さい。﹄
其時、一人の行商が腰掛けて居た樽(たる)を離れて、浅黄の手拭で頭を包み乍ら、丑松の方を振返つて見た。雪靴の儘(まゝ)で柱に倚(より)凭(かゝ)つて居た百姓も、一寸盗むやうに丑松を見た。主(かみ)婦(さん)が傾(かし)げた大徳利の口を玻(コ)璃(ッ)杯(プ)に受けて、茶色に気(いき)の立つ酒をなみ〳〵と注いで貰ひ、立つて飲み乍ら、上目で丑松を眺める橇(そり)曳(ひき)らしい下等な労働者もあつた。斯ういふ風に、人々の視線が集まつたのは、兎(と)に角(かく)毛色の異(かは)つた客が入つて来た為、放(ほし)肆(いまゝ)な雑談を妨(さまた)げられたからで。尤(もつと)も斯(こ)の物見高い沈黙は僅かの間であつた。やがて復(ま)た盛んな笑声が起つた。炉(ろ)の火も燃え上つた。丑松は炉(ろば)辺(た)に満ち溢(あふ)れる﹃ぼや﹄の烟のにほひを嗅(か)ぎ乍(なが)ら、そこへ主婦が持出した胡(くる)桃(みあ)足(し)の膳を引寄せて、黙つて飲んだり食つたりして居ると、丁度出て行く行商と摺違ひに釣の道具を持つて入つて来た男がある。
﹃よう、めづらしい御客様が来てますね。﹄
と言ひ乍ら、釣竿を柱にたてかけたのは敬之進であつた。
﹃風間さん、釣ですか。﹄斯(か)う丑松は声を掛ける。
﹃いや、どうも、寒いの寒くないのツて。﹄と敬之進は丑松と相(さし)対(むかひ)に座を占めて、﹃到(とて)底(も)川端で辛棒が出来ないから、廃(や)めて帰つて来た。﹄
﹃ちつたあ釣れましたかね。﹄と聞いて見る。
﹃獲(えも)物(の)無しサ。﹄と敬之進は舌を出して見せて、﹃朝から寒い思をして、一匹も釣れないでは君、遣(やり)切(き)れないぢやないか。﹄
其調子がいかにも可(を)笑(か)しかつた。盛んな笑声が百姓や橇(そり)曳(ひき)の間に起つた。
﹃不(とり)取(あへ)敢(ず)、一つ差上げませう。﹄と丑松は盃(さかづき)の酒を飲乾して薦(すゝ)める。
﹃へえ、我輩に呉れるのかね。﹄と敬之進は目を円(まる)くして、﹃こりやあ驚いた。君から盃を貰はうとは思はなかつた――道理で今日は釣れない訳だよ。﹄と思はず流れ落ちる涎(よだれ)を拭つたのである。
間も無く酒(てう)瓶(し)の熱いのが来た。敬之進は寒さと酒慾とで身を震はせ乍ら、さも〳〵甘(うま)さうに地酒の香を嗅いで見て、
﹃しばらく君には逢(あ)はなかつたやうな気がするねえ。我輩も君、学校を休(や)めてから別に是(これ)といふ用が無いもんだから、斯(こ)様(ん)な釣なぞを始めて――しかも、拠(よんどころ)なしに。﹄
﹃何ですか、斯の雪の中で釣れるんですか。﹄と丑松は箸を休(や)めて対手の顔を眺めた。
﹃素(しろ)人(うと)は其だから困る。尤も我輩だつて素人だがね。はゝゝゝゝ。まあ商売人に言はせると、冬はまた冬で、人の知らないところに面白味がある。ナニ、君、風さへ無けりや、左(さ)様(う)思つた程でも無いよ。﹄と言つて、敬之進は一口飲んで、﹃然し、瀬川君、考へて見て呉れ給へ。何が辛いと言つたつて、用が無くて生きて居るほど世の中に辛いことは無いね。家内やなんかが々(せつせ)と働いて居る側で、自分ばかり懐(ふと)手(ころで)して見ても居られずサ。まだそれでも、斯うして釣に出られるやうな日は好いが、屋(そ)外(と)へも出られないやうな日と来ては、実に我輩は為(す)る事が無くて困る。左様いふ日には、君、他に仕方が無いから、まあ昼寝を為ることに極(き)めてね――﹄
至極真面目で、斯(こ)様(ん)なことを言出した。この﹃昼寝を為ることに極めてね﹄が酷(ひど)く丑松の心を動かしたのである。
﹃時に、瀬川君。﹄と敬之進は酒(さけ)徒(のみ)らしい手付をして、盃を取上げ乍ら、﹃省吾の奴も長々君の御世話に成つたが、種(いろ)々(〳〵)家の事情を考へると、どうも我輩の思ふやうにばかりもいかないことが有るんで――まあ、その、学校を退(ひ)かせようかと思ふのだが、君、奈(ど)何(う)だらう。﹄
︵六︶
﹃そりやあもう我輩だつて退校させたくは無いさ。﹄と敬之進は言葉を続けた。﹃せめて普通教育位は完全に受けさせたいのが親の情さ。来年の四月には卒業の出来るものを、今茲(こゝ)で廃(や)めさせて、小僧奉公なぞに出して了(しま)ふのは可愛さうだ、とは思ふんだが、実際止むを得んから情ない。彼(あ)様(ん)な茫(ぼん)然(やり)した奴(やつ)だが、万(まん)更(ざら)学問が嫌ひでも無いと見えて、学校から帰ると直に机に向つては、何か独りでやつてますよ。どうも数学が出来なくて困る。其かはり作文は得意だと見えて、君から﹁優﹂なんて字を貰つて帰つて来ると、それは大(おほ)悦(よろこ)びさ。此(こな)頃(ひだ)も君に帳面を頂いた時なぞは、先生が作文を書けツて下すつたと言つてね、まあ君どんなに喜びましたらう。その嬉しがりやうと言つたら、大切に本箱の中へ入れて仕舞つて置いて、何度出して見るか解らない位さ。彼(あ)の晩は寝言にまで言つたよ。それ、左(さ)様(う)いふ風だから、兎(と)に角(かく)やる気では居るんだねえ。其を思ふと廃して了へと言ふのは実際可愛さうでもある。しかし、君、我輩のやうに子供が多勢では左(どう)にも右(かう)にも仕様が無い。一概に子供と言ふけれど、その子供がなか〳〵馬鹿にならん。悪(いた)戯(づら)なくせに、大(おほ)飯(めし)食(ぐら)ひばかり揃つて居て――はゝゝゝゝ、まあ君だから斯(こ)様(ん)なことまでも御話するんだが、まさか親の身として、其(そん)様(な)に食ふな、三杯位にして節(ひか)へて置け、なんて過(あん)多(まり)吝(けち)嗇(〳〵)したことも言へないぢやないか。﹄
斯ういふ述懐は丑松を笑はせた。敬之進も亦(ま)た寂しさうに笑つて、
﹃ナニ、それもね、継(まゝ)母(はゝ)ででも無けりや、またそこにもある。省吾の奴を奉公にでも出して了つたら、と我輩が思ふのは、実は今の家内との折合が付かないから。我輩はお志保や省吾のことを考へる度に、どの位あの二人の不(ふし)幸(あはせ)を泣いてやるか知れない。奈(ど)何(う)して継母といふものは彼(あん)様(な)邪推深いだらう。此(こな)頃(ひだ)も此頃で、ホラ君の御寺に説教が有ましたらう。彼(あの)晩(ばん)、遅くなつて省吾が帰つて来た。さあ、家内は火のやうになつて怒つて、其(そん)様(な)に姉さんのところへ行きたくば最(も)早(う)家(うち)なんぞへ帰らなくても可(いゝ)。出て行つて了へ。必(きつ)定(と)また御寺へ行つて余計なことをべら〳〵喋(しや)舌(べ)つたらう。必定また姉さんに悪い智慧を付けられたらう。だから私の言ふことなぞは聞かないんだ。斯う言つて、家内が責める。すると彼(あい)奴(つ)は気が弱いもんだから、黙つて寝床の内へ潜り込んで、しく〳〵やつて居ましたつけ。其時、我輩も考へた。寧(いつ)そこりや省吾を出した方が可(いゝ)。左(さ)様(う)すれば、口は減るし、喧(けん)嘩(くわ)の種は無くなるし、あるひは家(う)庭(ち)が一(もつ)層(と)面白くやつて行かれるかも知れない。いや――どうかすると、我輩は彼(あ)の省吾を連れて、二人で家(うち)を出て了はうか知らん、といふやうな気にも成るのさ。あゝ。我輩の家(う)庭(ち)なぞは離散するより外(ほか)に最(も)早(う)方法が無くなつて了つた。﹄
次第に敬之進は愚痴な本性を顕した。酒気が身体へ廻つたと見えて、頬も、耳も、手までも紅(あか)く成つた。丑松は又、一向顔色が変らない。飲めば飲む程、反(かへ)つて頬は蒼(あを)白(じろ)く成る。
﹃しかし、風間さん、左(さ)様(う)貴方のやうに失望したものでも無いでせう。﹄と丑松は言ひ慰めて、﹃及ばず乍ら私も力に成つて上げる気で居るんです。まあ、其盃を乾したら奈(ど)何(う)ですか――一つ頂きませう。﹄
﹃え?﹄と敬之進はちら〳〵した眼付で、不思議さうに対(あひ)手(て)の顔を眺めた。﹃これは驚いた。盃を呉れろと仰るんですか。へえ、君は斯の方もなか〳〵いけるんだね。我輩は又、飲めない人かとばかり思つて居た。﹄
と言つて盃をさす。丑松は其を受取つて、一息にぐいと飲(のみ)乾(ほ)して了つた。
﹃烈しいねえ。﹄と敬之進は呆(あき)れて、﹃君は今日は奈(ど)何(う)かしやしないか。左(さ)様(う)君のやうに飲んでも可(いゝ)のか。まあ、好加減にした方が好からう。我輩が飲むのは不思議でも何でも無いが、君が飲むのは何だか心配で仕様が無い。﹄
﹃何(な)故(ぜ)?﹄
﹃何故ツて、君、左様ぢやないか。君と我輩とは違ふぢや無いか。﹄
﹃はゝゝゝゝ。﹄
と丑松は絶望した人のやうに笑つた。
︵七︶
何か敬之進は言ひたいことが有つて、其を言ひ得ないで、深い溜息を吐くといふ様子。其時はもう百姓も、橇(そり)曳(ひき)も出て行つて了つた。余念も無く流(なが)許(しもと)で鍋(なべ)を鳴らして居る主(かみ)婦(さん)、裏口の木戸のところに佇(たゝ)立(ず)んで居る子供、この人達より外に二人の談(はな)話(し)を妨(さまた)げるものは無かつた。高い天井の下に在るものは、何もかも暗く煤(すゝ)けた色を帯びて、昔の街道の名(なご)残(り)を顕(あらは)して居る。あちらの柱に草(わら)鞋(ぢ)、こちらの柱に干(かん)瓢(ぺう)、壁によせて黄な南(かぼ)瓜(ちや)いくつか並べてあるは、いかにも町はづれの古い茶屋らしい。土間も広くて、日あたりに眠る小猫もあつた。寒さの為に身を潜(すく)め乍ら目を瞑つて居る鶏もあつた。
薄い日の光は明(あか)窓(りまど)から射して、軒から外へ泄(も)れる煙の渦を青白く照した。丑松は茫然と思ひ沈んで、炉(ろ)に燃え上る﹃ぼや﹄の焔(ほのほ)を熟(み)視(つ)めて居た。赤々とした火の色は奈(どん)何(な)に人の苦痛を慰めるものであらう。のみならず、強ひて飲んだ地酒の酔心地から、やたらに丑松は身を慄(ふる)はせて、時には人目も関はず泣きたい程の思に帰つた。あゝ声を揚げて放(ほし)肆(いまゝ)に泣いたなら、と思ふ心は幾度起るか知れない。しかし涙は頬を霑(うるほ)さなかつた――丑松は嗚(すゝ)咽(りな)くかはりに、大きく口を開いて笑つたのである。
﹃あゝ。﹄と敬之進は嘆息して、﹃世の中には、十年も交(つき)際(あ)つて居て、それで毎(いつ)時(でも)初対面のやうな気のする人も有るし、又、君のやうに、其(そん)様(な)に深い懇意な仲で無くても、斯うして何もかも打明けて話したい人が有る。我輩が斯(こ)様(ん)な話をするのは、実際、君より外に無い。まあ、是非君に聞いて貰ひたいと思ふことが有るんでね。﹄とすこし言淀んで、﹃実は――此(こな)頃(ひだ)久し振で娘に逢ひました。﹄
﹃お志保さんに?﹄丑松の胸は何となく踊るのであつた。
﹃といふのは、君、あの娘(こ)の方から逢つて呉れろといふ言(こと)伝(づけ)があつて――尤(もつと)も、我輩もね、君の知つてる通り蓮華寺とは彼(あ)様(ゝ)いふ訳だし、それに家内は家内だし、するからして、成るべく彼の娘には逢はないやうにして居る。ところが何か相談したいことが有ると言ふもんだから、まあ、その、久し振で逢つて見た。どうも若いものがずん〳〵大きく成るのには驚いて了ふねえ。まるで見違へる位。それで君、何の相談かと思ふと、最(も)早(う)々(/)々(\)奈(ど)何(う)しても蓮華寺には居られない、一日も早く家(うち)へ帰るやうにして呉れ、頼む、と言ふ。事情を聞いて見ると無理もない。其時我輩も始めて彼の住職の性質を知つたやうな訳サ。﹄
と言つて、敬之進は一寸徳利を振つて見た。生(あい)憎(にく)酒は盃(さかづき)に満たなかつた。やがて一口飲んで、両手で口の端(はた)を撫(な)で廻して、
﹃斯(か)うです。まあ、君、聞いて呉れ給へ。よく世間には立派な人物だと言はれて居ながら、唯女(をん)性(な)といふものにかけて、非常に弱い性(た)質(ち)の男があるものだね。蓮華寺の住職も矢(やは)張(り)其だらうと思ふよ。彼(あれ)程(ほど)学問もあり、弁才もあり、何一つ備はらないところの無い好い人で、殊(こと)に宗(をし)教(へ)の方の修行もして居ながら、それでまだ迷が出るといふのは、君、奈(ど)何(う)いふ訳だらう。我輩は娘から彼(あ)の住職のことを聞いた時、どうしても其が信じられなかつた。いや、嘘だとしか思はれなかつた。実に人は見かけによらないものさね。ホラ、彼の住職も長いこと西京へ出張して居ましたよ。丁度帰つて来たのは、君が郷里の方へ行つて留守だつた時さ。それからといふものは、まあ娘に言はせると、奈(ど)何(う)しても養(おと)父(つ)さんの態(しむ)度(け)とは思はれないと言ふ。かりそめにも仏の御弟子ではないか。袈(け)裟(さ)を着(つけ)て教を説く身分ではないか。自分の職業に対しても、もうすこし考へさうなものだと思ふんだ。あまり浅(あさ)猿(ま)しい、馬鹿馬鹿しいことで、他(ひと)に話も出来ないやね。奥様はまた奥様で、彼(あ)様(ゝ)いふ性質の女だから、人並勝れて嫉(しつ)妬(とぶ)深(か)いと来て居る。娘はもう悲いやら恐しいやらで、夜も碌々眠られないと言ふ。呆(あき)れたねえ、我輩も是(この)話を聞いた時は。だから、君、娘が家(うち)へ帰りたいと言ふのは、実際無理もない。我輩だつて、其様なところへ娘を遣(や)つて置きたくは無い。そりやあもう一日も早く引取りたい。そこがそれ情ないことには、今の家内がもうすこし解つて居て呉れると、奈(ど)何(う)にでもして親子でやつて行かれないことも有るまいと思ふけれど、現に省吾一人にすら持余して居るところへ、またお志保の奴が飛込んで来て見給へ――到(とて)底(も)今の家内と一緒に居られるもんぢや無い。第一、八人の親子が奈何して食へよう。其や是やを考へると、我輩の口から娘に帰れとは言はれないぢやないか。噫(あゝ)、辛抱、辛抱――出来ることを辛抱するのは辛抱でも何でも無い、出来ないところを辛抱するのが真(ほん)実(たう)の辛抱だ。行け、行け、心を毅(しつ)然(かり)持て。奥様といふものも附いて居る。その人の傍に居て離れないやうにしたら、よもや無理なことを言懸けられもしまい。たとへ先(さ)方(き)が親らしい行為をしない迄(まで)も、これまで育てゝ貰つた恩義も有る。一旦蓮華寺の娘と成つた以上は、奈(ど)何(ん)な辛いことがあらうと決して家(うち)へ帰るな。そこを勤め抜くのが孝行といふものだ。とまあ、賺(すか)したり励(はげま)したりして、無理やりに娘を追立てゝやつたよ。思へば可愛さうなものさ。あゝ、あゝ、斯ういふ時に先の家内が生きて居たならば――﹄
敬之進の顔には真実と苦痛とが表れて、眼は涙の為に濡(ぬ)れ輝いた。成程、左様言はれて見ると、丑松も思ひ当ることがないでもない。あの蓮華寺の内(な)部(か)の光(あり)景(さま)を考へると、何か斯う暗い雲が隅のところに蟠(わだかま)つて、絶えず其が家庭の累(わづらひ)を引起す原(も)因(と)で、住職と奥様とは無言の間に闘つて居るかのやう――譬(たと)へば一方で日があたつて、楽しい笑声の聞える時でも、必ず一方には暴(あ)風(ら)雨(し)が近(ちかづ)いて居る。斯ういふ感(かん)想(じ)は毎日のやうに有つた。唯其は何処の家(う)庭(ち)にも克(よ)くある角(つの)突(づき)合(あひ)――まあ、住職と奥様とは互ひに仏弟子のことだから、言はゞ高尚な夫婦喧嘩、と丑松も想像して居たので、よもや其雲のわだかまりがお志保の上にあらうとは思ひ設けなかつたのである。奥様がわざ〳〵磊(らい)落(らく)らしく装(よそほ)つて、剽(へう)軽(きん)なことを言つて、男のやうな声を出して笑ふのも、其為だらう。紅(なん)涙(だ)が克(よ)くお志保の顔を流れるのも、其為だらう。どうもをかしい〳〵と思つて居たことは、この敬之進の話で悉(すつ)皆(かり)読めたのである。
長いこと二人は悄(しよ)然(んぼり)として、互ひに無言の儘(まゝ)で相(さし)対(むかひ)に成つて居た。