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第拾八章
︵一︶
毎(まい)年(とし)降る大雪が到(たう)頭(とう)やつて来た。町々の人家も往来もすべて白く埋(うづ)没(も)れて了つた。昨夜一晩のうちに四尺余(あまり)も降積るといふ勢で、急に飯山は北国の冬らしい光(あり)景(さま)と変つたのである。
斯うなると、最(も)早(う)雪の捨てどころが無いので、往来の真中へ高く積上げて、雪の山を作る。両側は見事に削り落したり、叩き付けたりして、すこし離れて眺めると、丁度長い白壁のやう。上へ〳〵と積上げては踏み付け、踏み付けては又た積上げるやうに為るので、軒(のき)丈(だけ)ばかりの高さに成つて、対(むか)ひあふ家と家とは屋根と廂(ひさし)としか見えなくなる。雪の中から掘出された町――譬(たと)へば飯山の光(あり)景(さま)は其であつた。
高柳利三郎と町会議員の一人が本町の往来で出(で)逢(あ)つた時は、盛んに斯雪を片付ける最中で、雪(ゆき)掻(かき)を手にした男(をと)女(こをんな)が其(そ)処(こ)此(こ)処(ゝ)に群(むらが)り集つて居た。﹃どうも大降りがいたしました。﹄といふ極りの挨拶を交(とり)換(かは)した後、軈(やが)て別れて行かうとする高柳を呼留めて、町会議員は斯う言出した。
﹃時に、御聞きでしたか、彼(あ)の瀬川といふ教員のことを。﹄
﹃いゝえ。﹄と高柳は力を入れて言つた。﹃私は何(なんに)も聞きません。﹄
﹃彼の教員は君、調(てう)里(り)︵穢多の異名︶だつて言ふぢや有ませんか。﹄
﹃調里?﹄と高柳は驚いたやうに。
﹃呆(あき)れたねえ、是(これ)には。﹄と町会議員も顔を皺(しか)めて、﹃尤(もつと)も、種(いろ)々(〳〵)な人の口から伝(つたは)り伝つた話で、誰が言出したんだか能(よ)く解らない。しかし保証するとまで言ふ人が有るから確(たし)実(か)だ。﹄
﹃誰ですか、其保証人といふのは――﹄
﹃まあ、其は言はずに置かう。名前を出して呉れては困ると先(さ)方(き)の人も言ふんだから。﹄
斯う言つて、町会議員は今更のやうに他(ひと)の秘密を泄(もら)したといふ顔付。﹃君だから、話す――秘密にして置いて呉れなければ困る。﹄と呉々も念を押した。高柳はまた口唇を引歪めて、意味ありげな冷(あざ)笑(わらひ)を浮べるのであつた。
急いで別れて行く高柳を見送つて、反(あべ)対(こべ)な方角へ一町ばかりも歩いて行つた頃、斯(こ)の噂(うは)好(さず)きな町会議員は一人の青年に遭(で)遇(あ)つた。秘密に、と思へば思ふ程、猶(なほ)々(〳〵)其を私(さゝ)語(や)かずには居られなかつたのである。
﹃彼の瀬川といふ教員は、君、是(これ)だつて言ひますぜ。﹄
と指を四本出して見せる。尤も其意味が対手には通じなかつた。
﹃是だつて言つたら、君も解りさうなものぢや無いか。﹄と町会議員は手を振り乍ら笑つた。
﹃どうも解りませんね。﹄と青年は訝(いぶか)しさうな顔付。
﹃了(さと)解(り)の悪い人だ――それ、調里のことを四(しそ)足(く)と言ふぢやないか。はゝゝゝゝ。しかし是は秘密だ。誰にも君、斯様なことは話さずに置いて呉れ給へ。﹄
念を押して置いて、町会議員は別れて行つた。
丁度、そこへ通りかゝつたのは、学校へ出勤しようとする準教員であつた。それと見た青年は駈寄つて、大雪の挨拶。何時の間にか二人は丑松の噂を始めたのである。
﹃是(これ)はまあ極(ご)く〳〵秘密なんだが――君だから話すが――﹄と青年は声を低くして、﹃君の学校に居る瀬川先生は調里ださうだねえ。﹄
﹃其さ――僕もある処で其話を聞いたがね、未だ半信半疑で居る。﹄と準教員は対手の顔を眺め乍ら言つた。﹃して見ると、いよ〳〵事実かなあ。﹄
﹃僕は今、ある人に逢つた。其人が指を四本出して見せて、彼の教員は是だと言ふぢやないか。はてな、とは思つたが、其意味が能く解らない。聞いて見ると、四足といふ意味なんださうだ。﹄
﹃四足? 穢多のことを四足と言ふかねえ。﹄
﹃言はあね。四足と言つて解らなければ、﹁よつあし﹂と言つたら解るだらう。﹄
﹃むゝ――﹁よつあし﹂か。﹄
﹃しかし、驚いたねえ。狡(かう)猾(くわつ)な人間もあればあるものだ。能(よ)く今(い)日(ま)まで隠(か)蔽(く)して居たものさ。其(そ)様(ん)な穢(けがらは)しいものを君等の学校で教員にして置くなんて――第一怪しからんぢやないか。﹄
﹃叱(しツ)。﹄
と周(あ)章(わ)てゝ制するやうにして、急に準教員は振返つて見た。其時、丑松は矢張学校へ出勤するところと見え、深く外(ぐわ)套(いたう)に身を包んで、向ふの雪の中を夢見る人のやうに通る。何か斯う物を考へ〳〵歩いて行くといふことは、其の沈み勝ちな様子を見ても知れた。暫(しば)時(らく)丑松も佇(たち)立(どま)つて、熟(じつ)と是(こち)方(ら)の二人を眺めて、軈て足早に学校を指して急いで行つた。
︵二︶
雪に妨げられて、学校へ集る生徒は些(すく)少(な)かつた。何(い)時(つ)まで経(た)つても授業を始めることが出来ないので、職員のあるものは新聞縦覧所へ、あるものは小使部屋へ、あるものは又た唱歌の教室に在る風琴の周(まは)囲(り)へ――いづれも天の与へた休(やす)暇(み)として斯の雪の日を祝ふかのやうに、思ひ〳〵の圜(わ)に集つて話した。
職員室の片隅にも、四五人の教員が大火鉢を囲(とり)繞(ま)いた。例の準教員が其中へ割込んで入つた時は、誰が言出すともなく丑松の噂を始めたのであつた。時々盛んな笑声が起るので、何事かと来て見るものが有る。終(しまひ)には銀之助も、文平も来て、斯の談(はな)話(し)の仲間に入つた。
﹃奈(ど)何(う)です、土屋君。﹄と準教員は銀之助の方を見て、﹃吾(われ)儕(〳〵)は今、瀬川君のことに就いて二派に別れたところです。君は瀬川君と同窓の友だ。さあ、君の意見を一つ聞かせて呉れ給へ。﹄
﹃二派とは?﹄と銀之助は熱心に。
﹃外でも無いんですがね、瀬川君は――まあ、近頃世間で噂のあるやうな素性の人に相違ないといふ説と、いや其様な馬鹿なことが有るものかといふ説と、斯う二つに議論が別れたところさ。﹄
﹃一寸待つて呉れ給へ。﹄と薄(うす)鬚(ひげ)のある尋常四年の教師が冷静な調子で言つた。﹃二派と言ふのは、君、少(すこ)許(し)穏当で無いだらう。未(ま)だ、左(さ)様(う)だとも、左様では無いとも、断言しない連中が有るのだから。﹄
﹃僕は確に其様なことは無いと断言して置く。﹄と体操の教師が力を入れた。
﹃まあ、土屋君、斯ういふ訳です。﹄と準教員は火鉢の周(まは)囲(り)に集る人々の顔を眺(なが)め廻して、﹃何(な)故(ぜ)其(そ)様(ん)な説が出たかといふに、そこには種(いろ)々(〳〵)議論も有つたがね、要するに瀬川君の態度が頗(すこぶ)る怪しい、といふのがそも〳〵始りさ。吾(われ)儕(〳〵)の中に新平民が居るなんて言触らされて見給へ。誰だつて憤慨するのは至(あた)当(りまへ)ぢやないか。君始め左様だらう。一体、世間で其様なことを言触らすといふのが既にもう吾儕職員を侮辱してるんだ。だからさ、若し瀬川君に疚(やま)しいところが無いものなら、吾儕と一緒に成つて怒りさうなものぢやないか。まあ、何とか言ふべきだ。それも言はないで、彼(あ)様(ゝ)して黙つて居るところを見ると、奈(ど)何(う)しても隠して居るとしか思はれない。斯う言出したものが有る。すると、また一人が言ふには――﹄と言ひかけて、軈(やが)て思付いたやうに、﹃しかし、まあ、止さう。﹄
﹃何だ、言ひかけて止すやつが有るもんか。﹄と背の高い尋常一年の教師が横(よこ)鎗(やり)を入れる。
﹃やるべし、やるべし。﹄と冷笑の語気を帯びて言つたのは、文平であつた。文平は準教員の背(うし)後(ろ)に立つて、巻煙草を燻(ふか)し乍ら聞いて居たのである。
﹃しかし、戯(じよ)語(うだん)ぢや無いよ。﹄と言ふ銀之助の眼は輝いて来た。﹃僕なぞは師範校時代から交(つき)際(あ)つて、能く人物を知つて居る。彼(あ)の瀬川君が新平民だなんて、其(そ)様(ん)なことが有つて堪るものか。一体誰が言出したんだか知らないが、若(も)し世間に其様な風評が立つやうなら、飽(あく)迄(まで)も僕は弁護して遣らなけりやならん。だつて、君、考へて見給へ。こりや真(ま)面(じ)目(め)な問題だよ――茶を飲むやうな尋(あた)常(りまへ)な事とは些(すこ)少(し)訳が違ふよ。﹄
﹃無論さ。﹄と準教員は答へた。﹃だから吾(われ)儕(〳〵)も頭を痛めて居るのさ。まあ、聞き給へ。ある人は又た斯ういふことを言出した。瀬川君に穢多の話を持掛けると、必ず話(はな)頭(し)を他(わき)へ転(そら)して了ふ。いや、転して了ふばかりぢや無い、直に顔色を変へるから不思議だ――其顔色と言つたら、迷惑なやうな、周(あ)章(わ)てたやうな、まあ何ともかとも言ひやうが無い。それそこが可(を)笑(か)しいぢやないか。吾儕と一緒に成つて、﹁むゝ、調(てう)里(りツ)坊(ぱう)かあ﹂とかなんとか言ふやうだと、誰も何とも思やしないんだけれど。﹄
﹃そんなら、君、あの瀬川丑松といふ男に何(ど)処(こ)か穢多らしい特色が有るかい。先づ、其からして聞かう。﹄と銀之助は肩を動(ゆす)つた。
﹃なにしろ近頃非常に沈んで居られるのは事実だ。﹄と尋常四年の教師は、腮(あご)の薄(うす)鬚(ひげ)を掻上げ乍ら言ふ。
﹃沈んで居る?﹄と銀之助は聞(きゝ)咎(とが)めて、﹃沈んで居るのは彼(あの)男(をとこ)の性質さ。それだから新平民だとは無論言はれない。新平民でなくたつて、沈(ちん)欝(うつ)な男はいくらも世間にあるからね。﹄
﹃穢多には一種特別な臭(にほ)気(ひ)が有ると言ふぢやないか――嗅いで見たら解るだらう。﹄と尋常一年の教師は混(まぜ)返(かへ)すやうにして笑つた。
﹃馬鹿なことを言給へ。﹄と銀之助も笑つて、﹃僕だつていくらも新平民を見た。あの皮膚の色からして、普通の人間とは違つて居らあね。そりやあ、もう、新平民か新平民で無いかは容(かほ)貌(つき)で解る。それに君、社(よの)会(なか)から度(のけ)外(もの)にされて居るもんだから、性質が非常に僻(ひが)んで居るサ。まあ、新平民の中から男らしい毅(しつ)然(かり)した青年なぞの産れやうが無い。どうして彼(あ)様(ん)な手合が学問といふ方面に頭を擡(もちあ)げられるものか。其から推(お)したつて、瀬川君のことは解りさうなものぢやないか。﹄
﹃土屋君、そんなら彼(あ)の猪子蓮太郎といふ先生は奈(ど)何(う)したものだ。﹄と文平は嘲(あざけ)るやうに言つた。
﹃ナニ、猪子蓮太郎?﹄と銀之助は言(いひ)淀(よど)んで、﹃彼(あ)の先生は――彼(あれ)は例外さ。﹄
﹃それ見給へ。そんなら瀬川君だつても例外だらう――はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。﹄
と準教員は手を拍(う)つて笑つた。聞いて居る教員等(たち)も一緒になつて笑はずには居られなかつたのである。
其時、斯の職員室の戸を開けて入つて来たのは、丑松であつた。急に一同口を噤(つぐ)んで了(しま)つた。人々の視線は皆な丑松の方へ注ぎ集つた。
﹃瀬川君、奈(ど)何(う)ですか、御病気は――﹄
と文平は意味ありげに尋ねる。其調子がいかにも皮肉に聞えたので、準教員は傍に居る尋常一年の教師と顔を見合せて、思はず互に微(ほゝ)笑(ゑみ)を泄(もら)した。
﹃難(あり)有(がた)う。﹄と丑松は何気なく、﹃もうすつかり快(よ)くなりました。﹄
﹃風(か)邪(ぜ)ですか。﹄と尋常四年の教師が沈(おち)着(つ)き澄まして言つた。
﹃はあ――ナニ、差(たい)したことでも無かつたんです。﹄と答へて、丑松は気を変へて、﹃時に、勝野君、生(あい)憎(にく)今日は生徒が集まらなくて困つた。斯(こ)の様子では土屋君の送別会も出来さうも無い。折角準(した)備(く)したのにツて、出て来た生徒は張合の無いやうな顔してる。﹄
﹃なにしろ是(この)雪(ゆき)だからねえ。﹄と文平は微笑んで、﹃仕方が無い、延ばすサ。﹄
斯(か)ういふ話をして居るところへ、小使がやつて来た。銀之助は丑松の方にばかり気を取られて、小使の言ふことも耳へ入らない。それと見た体操の教師は軽く銀之助の肩を叩いて、
﹃土屋君、土屋君――校長先生が君を呼んでるよ。﹄
﹃僕を?﹄銀之助は始めて気が付いたのである。
︵三︶
校長は郡視学と二人で応接室に居た。銀之助が戸を開けて入つた時は、二人差向ひに椅子に腰懸けて、何か密議を凝(こら)して居るところであつた。
﹃おゝ、土屋君か。﹄と校長は身を起して、そこに在る椅子を銀之助の方へ押(おし)薦(すゝ)めた。﹃他(ほか)の事で君を呼んだのでは無いが、実は近頃世間に妙な風評が立つて――定めし其はもう君も御承知のことだらうけれど――彼(あ)様(ゝ)して町の人が左(と)や右(かく)言ふものを、黙つて見ても居られないし、第一斯(か)ういふことが余り世間へ伝(ひろ)播(が)ると、終(しまひ)には奈(ど)何(ん)な結果を来すかも知れない。其に就いて、茲(こゝ)に居られる郡視学さんも非常に御心配なすつて、態(わざ)々(〳〵)斯(こ)の雪に尋ねて来て下すつたんです。兎(と)に角(かく)、君は瀬川君と師範校時代から御一緒ではあり、日頃親しく往(ゆき)来(ゝ)もして居られるやうだから、君に聞いたら是(この)事(こと)は一番好く解るだらう、斯う思ひましてね。﹄
﹃いえ、私だつて其(そ)様(ん)なことは解りません。﹄と銀之助は笑ひ乍ら答へた。﹃何とでも言はせて置いたら好いでせう。其様な世間で言ふやうなことを、一々気にして居たら際(き)限(り)が有ますまい。﹄
﹃しかし、左様いふものでは無いよ。﹄と校長は一寸郡視学の方を向いて見て、軈(やが)て銀之助の顔を眺め乍ら、﹃君等は未だ若いから、其程世間といふものに重きを置かないんだ。幼稚なやうに見えて、馬鹿にならないのは、世間さ。﹄
﹃そんなら町の人が噂(うはさ)するからと言つて、根も葉も無いやうなことを取上げるんですか。﹄
﹃それ、それだから、君等は困る。無論我輩だつて其様なことを信じないさ。しかし、君、考へて見給へ。万(まん)更(ざら)火の気の無いところに煙の揚る筈(はず)も無からうぢやないか。いづれ是には何か疑はれるやうな理由が有つたんでせう――土屋君、まあ、君は奈(ど)何(う)思ひます。﹄
﹃奈何しても私には左様思はれません。﹄
﹃左様言へば、其迄だが、何かそれでも思ひ当る事が有さうなものだねえ。﹄と言つて校長は一段声を低くして、﹃一体瀬川君は近頃非常に考へ込んで居られるやうだが、何が原(も)因(と)で彼(あ)様(ゝ)憂欝に成つたんでせう。以前は克(よ)く吾輩の家(うち)へもやつて来て呉れたツけが、此節はもう薩(さつ)張(ぱり)寄付かない。まあ吾(われ)儕(〳〵)と一緒に成つて、談(はな)したり笑つたりするやうだと、御互ひに事情も能(よ)く解るんだけれど、彼(あ)様(ゝ)して独りで考へてばかり居られるもんだから――ホラ、訳を知らないものから見ると、何かそこには後暗い事でも有るやうに、つい疑はなくても可い事まで疑ふやうに成るんだらうと思ふのサ。﹄
﹃いえ。﹄と銀之助は校長の言葉を遮(さへぎ)つて、﹃実は――其には他に深い原因が有るんです。﹄
﹃他に?﹄
﹃瀬川君は彼様いふ性(た)質(ち)ですから、なか〳〵口へ出しては言ひませんがね。﹄
﹃ホウ、言はない事が奈何して君に知れる?﹄
﹃だつて、言葉で知れなくたつて、行(おこ)為(なひ)の方で知れます。私は長く交(つき)際(あ)つて見て、瀬川君が種(いろ)々(〳〵)に変つて来た径(みち)路(すぢ)を多少知つて居ますから、奈(ど)何(う)して彼(あ)様(ゝ)考へ込んで居るか、奈何して彼様憂欝に成つて居るか、それはもう彼の君の為(す)ることを見ると、自然と私の胸には感じることが有るんです。﹄
斯(か)ういふ銀之助の言葉は深く対手の注意を惹いた。校長と郡視学の二人は巻煙草を燻(ふか)し乍ら、奈(ど)何(う)銀之助が言出すかと、黙つて其話を待つて居たのである。
銀之助に言はせると、丑松が憂欝に沈んで居るのは世間で噂(うはさ)するやうなことゝ全く関係の無い――実は、青年の時代には誰しも有勝ちな、其胸の苦(くる)痛(しみ)に烈しく悩まされて居るからで。意中の人が敬之進の娘といふことは、正に見当が付いて居る。しかし、丑松は彼様いふ気象の男であるから、其を友達に話さないのみか、相手の女にすらも話さないらしい。それそこが性分で、熟(じつ)と黙つて堪(こら)へて居て、唯敬之進とか省吾とか女の親兄弟に当る人々の為に種(さま)々(〴〵)なことを為(し)て遣(や)つて居る――まあ、言はないものは、せめて尽して、それで心を慰めるのであらう。思へば人の知らない悲(かな)哀(しみ)を胸に湛へて居るのに相違ない。尤(もつと)も、自分は偶然なことからして、斯ういふ丑松の秘密を感(かん)得(づ)いた。しかも其はつい近頃のことで有ると言出した。﹃といふ訳で、﹄と銀之助は額へ手を当てゝ、﹃そこへ気が付いてから、瀬川君の為ることは悉(すつ)皆(かり)読めるやうに成ました。どうも可(を)笑(か)しい〳〵と思つて見て居ましたツけ――そりやあもう、辻(つじ)褄(つま)の合はないやうなことが沢(たく)山(さん)有つたものですから。﹄
﹃成(なる)程(ほど)ねえ。あるひは左様いふことが有るかも知れない。﹄
と言つて、校長は郡視学と顔を見合せた。
︵四︶
軈(やが)て銀之助は応接室を出て、復(ま)たもとの職員室へ来て見ると、丑松と文平の二人が他の教員に取(とり)囲(ま)かれ乍ら頻(しきり)に大火鉢の側で言争つて居る。黙つて聞いて居る人々も、見れば、同じやうに身を入れて、あるものは立つて腕組したり、あるものは机に倚(より)凭(かゝ)つて頬(ほゝ)杖(づゑ)を突いたり、あるものは又たぐる〳〵室内を歩き廻つたりして、いづれも熱心に聞耳を立てゝ居る様子。のみならず、丑松の様子を窺(うかゞ)ひ澄まして、穿(さぐ)鑿(り)を入れるやうな眼付したものもあれば、半信半疑らしい顔付の手合もある。銀之助は談(はな)話(し)の調子を聞いて、二人が一方ならず激昂して居ることを知つた。
﹃何を君等は議論してるんだ。﹄
と銀之助は笑ひ乍ら尋ねた。其時、人々の背(うし)後(ろ)に腰掛け、手帳を繰り繙(ひろ)げ、丑松や文平の肖(にが)顔(ほ)を写生し始めたのは準教員であつた。
﹃今ね、﹄と準教員は銀之助の方を振向いて見ながら、﹃猪子先生のことで、大分やかましく成つて来たところさ。﹄と言つて、一寸鉛筆の尖(さ)端(き)を舐(な)めて、復(ま)た微(ほゝ)笑(ゑ)み乍ら写生に取懸つた。
﹃なにも其(そん)様(な)にやかましいことぢや無いよ。﹄斯う文平は聞(きゝ)咎(とが)めたのである。﹃奈(ど)何(う)して瀬川君は彼(あ)の先生の書いたものを研究する気に成つたのか、其を僕は聞いて見たばかりだ。﹄
﹃しかし、勝野君の言ふことは僕に能(よ)く解らない。﹄丑松の眼は燃え輝いて居るのであつた。
﹃だつて君、いづれ何か原因が有るだらうぢやないか。﹄と文平は飽(あ)く迄(まで)も皮肉に出る。
﹃原因とは?﹄丑松は肩を動(ゆす)り乍ら言つた。
﹃ぢやあ、斯(か)う言つたら好からう。﹄と文平は真面目に成つて、﹃譬(たと)へば――まあ僕は例を引くから聞き給へ。こゝに一人の男が有るとしたまへ。其男が発狂して居るとしたまへ。普(な)通(み)のものが其様な発狂者を見たつて、それほど深い同情は起らないね。起らない筈(はず)さ、別に是(こち)方(ら)に心を傷(いた)めることが無いのだもの。﹄
﹃むゝ、面白い。﹄と銀之助は文平と丑松の顔を見比べた。
﹃ところが、若(も)しこゝに酷(ひど)く苦んだり考へたりして居る人があつて、其人が今の発狂者を見たとしたまへ。さあ、思ひつめた可(いた)傷(ま)しい光(あり)景(さま)も目に着くし、絶望の為に痩せた体格も目に着くし、日影に悄(しよ)然(んぼり)として死といふことを考へて居るやうな顔付も目に着く。といふは外でも無い。発狂者を思ひやる丈(だけ)の苦(くる)痛(しみ)が矢張是(こち)方(ら)にあるからだ。其処だ。瀬川君が人生問題なぞを考へて、猪子先生の苦んで居る光(あり)景(さま)に目が着くといふのは、何か瀬川君の方にも深く心を傷めることが有るからぢや無からうか。﹄
﹃無論だ。﹄と銀之助は引取つて言つた。﹃其が無ければ、第一読んで見たつて解りやしない。其だあね、僕が以(ま)前(へ)から瀬川君に言つてるのは。尤も瀬川君が其を言へないのは、僕は百も承知だがね。﹄
﹃何(な)故(ぜ)、言へないんだらう。﹄と文平は意味ありげに尋ねて見る。
﹃そこが持つて生れた性分サ。﹄と銀之助は何か思出したやうに、﹃瀬川君といふ人は昔から斯うだ。僕なぞはもうずん〳〵暴(さら)露(けだ)して、蔵(しま)つて置くといふことは出来ないがなあ。瀬川君の言はないのは、何も隠す積りで言はないのぢや無い、性分で言へないのだ。はゝゝゝゝ、御気の毒な訳さねえ――苦むやうに生れて来たんだから仕方が無い。﹄
斯う言つたので、聞いて居る人々は意味も無く笑出した。暫(しば)時(らく)準教員も写生の筆を休(や)めて眺めた。尋常一年の教師は又、丑松の背(うし)後(ろ)へ廻つて、眼を細くして、密(そつ)と臭(にほ)気(ひ)を嗅(か)いで見るやうな真似をした。
﹃実は――﹄と文平は巻煙草の灰を落し乍ら、﹃ある処から猪子先生の書いたものを借りて来て、僕も読んで見た。一体、彼(あ)の先生は奈(ど)何(う)いふ種類の人だらう。﹄
﹃奈何いふ種類とは?﹄と銀之助は戯れるやうに。
﹃哲学者でもなし、教育家でもなし、宗教家でもなし――左様かと言つて、普通の文学者とも思はれない。﹄
﹃先生は新しい思想家さ。﹄銀之助の答は斯うであつた。
﹃思想家?﹄と文平は嘲(あざけ)つたやうに、﹃ふゝ、僕に言はせると、空想家だ、夢想家だ――まあ、一種の狂(きち)人(がひ)だ。﹄
其調子がいかにも可(を)笑(か)しかつた。盛んな笑声が復(ま)た聞いて居る教師の間に起つた。銀之助も一緒に成つて笑つた。其時、憤慨の情は丑松が全身の血潮に交つて、一時に頭(あた)脳(ま)の方へ衝きかゝるかのやう。蒼(あを)ざめて居た頬は遽(には)然(かに)熱して来て、も耳も紅(あか)く成つた。
︵五︶
﹃むゝ、勝野君は巧いことを言つた。﹄と斯う丑松は言出した。﹃彼(あ)の猪子先生なぞは、全く君の言ふ通り、一種の狂(きち)人(がひ)さ。だつて、君、左(さ)様(う)ぢやないか――世間体の好いやうな、自分で自分に諂(へつ)諛(ら)ふやうなことばかり並べて、其を自伝と言つて他(ひと)に吹(ふい)聴(ちやう)するといふ今の世の中に、狂(きち)人(がひ)ででも無くて誰が冷汗の出るやうな懴悔なぞを書かう。彼の先生の手から職業を奪(うば)取(ひと)つたのも、彼様いふ病気に成る程の苦(くる)痛(しみ)を嘗(な)めさせたのも、畢(つま)竟(り)斯(こ)の社会だ。其社会の為に涙を流して、満(まん)腔(かう)の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛(たゞ)れる迄も思ひ焦(こが)れて居るなんて――斯(こ)様(ん)な大(おほ)白(たは)痴(け)が世の中に有らうか。はゝゝゝゝ。先生の生涯は実に懴悔の生(しや)涯(うがい)さ。空想家と言はれたり、夢想家と言はれたりして、甘んじて其冷笑を受けて居る程の懴悔の生涯さ。﹁奈(ど)何(ん)な苦しい悲しいことが有らうと、其を女々しく訴へるやうなものは大丈夫と言はれない。世間の人の睨(にら)む通りに睨ませて置いて、黙つて狼のやうに男らしく死ね。﹂――其が先生の主義なんだ。見給へ、まあ其主義からして、もう狂(きち)人(がひ)染(じ)みてるぢやないか。はゝゝゝゝ。﹄
﹃君は左様激するから不(いか)可(ん)。﹄と銀之助は丑松を慰(なだ)撫(め)るやうに言つた。
﹃否(いや)、僕は決して激しては居ない。﹄斯(か)う丑松は答へた。
﹃しかし。﹄と文平は冷(あざ)笑(わら)つて、﹃猪子蓮太郎だなんて言つたつて、高が穢多ぢやないか。﹄
﹃それが、君、奈何した。﹄と丑松は突込んだ。
﹃彼(あ)様(ん)な下等人種の中から碌(ろく)なものゝ出よう筈が無いさ。﹄
﹃下等人種?﹄
﹃卑(い)劣(や)しい根性を持つて、可(い)厭(や)に癖(ひが)んだやうなことばかり言ふものが、下等人種で無くて君、何だらう。下手に社会へ突(でし)出(やば)らうなんて、其様な思(かん)想(がへ)を起すのは、第一大間違さ。獣(か)皮(は)いぢりでもして、神(しん)妙(べう)に引込んでるのが、丁度彼の先生なぞには適当して居るんだ。﹄
﹃はゝゝゝゝ。して見ると、勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言ふのだね。はゝゝゝゝ。僕は今迄、君も彼の先生も、同じ人間だとばかり思つて居た。﹄
﹃止せ。止せ。﹄と銀之助は叱るやうにして、﹃其様な議論を為たつて、つまらんぢやないか。﹄
﹃いや、つまらなかない。﹄と丑松は聞入れなかつた。﹃僕は君、是(これ)でも真(ま)面(じ)目(め)なんだよ。まあ、聞き給へ――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言はれたが、実際御説の通りだ。こりや僕の方が勘違ひをして居た。左様だ、彼の先生も御説の通りに獣(か)皮(は)いぢりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさへして黙つて居れば、彼様な病気なぞに罹(かゝ)りはしなかつたのだ。その身体のことも忘れて了つて、一日も休まずに社会と戦つて居るなんて――何といふ狂(きち)人(がひ)の態(ざま)だらう。噫(あゝ)、開化した高尚な人は、予(あらかじ)め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事して居る。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞは其様な成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいぢやないか、勇しいぢやないか。﹄
と丑松は上歯を顕(あらは)して、大きく口を開いて、身を慄(ふる)はせ乍ら欷(すゝ)咽(りな)くやうに笑つた。欝(うつ)勃(ぼつ)とした精神は体(から)躯(だ)の外(そ)部(と)へ満ち溢(あふ)れて、額は光り、頬の肉も震へ、憤怒と苦痛とで紅く成つた時は、其の粗野な沈欝な容貌が平(いつ)素(も)よりも一(もつ)層(と)男(をと)性(こ)らしく見える。銀之助は不思議さうに友達の顔を眺めて、久し振で若く剛(つよ)く活々とした丑松の内(な)部(か)の生(いの)命(ち)に触れるやうな心(こゝ)地(ろもち)がした。
対手が黙つて了(しま)つたので、丑松もそれぎり斯(こ)様(ん)な話をしなかつた。文平はまた何時までも心の激昂を制(おさ)へきれないといふ様子。頭ごなしに罵(のゝし)らうとして、反(かへ)つて丑松の為に言(いひ)敗(まく)られた気味が有るので、軽(けい)蔑(べつ)と憎(にく)悪(しみ)とは猶(なほ)更(さら)容貌の上に表れる。﹃何だ――この穢多めが﹄とは其の怒(いか)気(り)を帯びた眼が言つた。軈て文平は尋常一年の教師を窓の方へ連れて行つて、
﹃奈(ど)何(う)だい、君、今の談(はな)話(し)は――瀬川君は最(も)早(う)悉(すつ)皆(かり)自分で自分の秘密を自白したぢやないか。﹄
斯(か)う私(さゝ)語(や)いて聞かせたのである。
丁度準教員は鉛筆写生を終つた。人々はいづれも其周(まは)囲(り)へ集つた。