明かりの本
ブラウザですばらしい読書体験を
破戒 島崎藤村 第拾章
.
破
戒
島
崎
藤
村
第
拾
章
︵
一
︶
い
よ
〳
〵
苦
(
く
る
)
痛
(
し
み
)
の
重
荷
を
下
す
時
が
来
た
。
丁
度
蓮
太
郎
は
弁
護
士
と
一
緒
に
、
上
田
を
指
し
て
帰
る
と
い
ふ
の
で
、
丑
松
も
同
行
の
約
束
し
た
。
そ
れ
は
父
を
傷
(
き
ず
つ
)
け
た
種
牛
が
上
田
の
屠
(
と
ぎ
)
牛
(
う
)
場
(
ば
)
へ
送
ら
れ
る
朝
の
こ
と
。
叔
父
も
、
丑
松
も
其
立
会
と
し
て
出
掛
け
る
筈
に
な
つ
て
居
た
の
で
。
昨
夜
の
丑
松
の
決
心
―
―
あ
れ
を
実
行
す
る
に
は
是
(
こ
の
)
上
(
う
へ
)
も
無
い
好
い
機
(
し
)
会
(
ほ
)
。
復
(
ま
)
た
逢
(
あ
)
は
れ
る
の
は
何
時
の
こ
と
や
ら
覚
(
お
ぼ
)
束
(
つ
か
)
な
い
。
ど
う
か
し
て
叔
父
や
弁
護
士
の
聞
い
て
居
な
い
と
こ
ろ
で
―
―
唯
先
輩
と
二
人
ぎ
り
に
成
つ
た
時
に
―
―
斯
う
考
へ
て
、
丑
松
は
叔
父
と
一
緒
に
出
掛
け
る
仕
度
を
し
た
の
で
あ
つ
た
。
上
田
街
道
へ
出
よ
う
と
す
る
角
の
と
こ
ろ
で
、
そ
こ
に
待
合
せ
て
居
る
二
人
と
一
緒
に
な
つ
た
。
丑
松
は
叔
父
を
弁
護
士
に
紹
介
し
、
そ
れ
か
ら
蓮
太
郎
に
も
紹
介
し
た
。
﹃
先
生
、
こ
れ
が
私
の
叔
父
で
す
。
﹄
と
言
は
れ
て
、
叔
父
は
百
姓
ら
し
い
大
な
手
を
擦
(
も
)
み
乍
(
な
が
)
ら
、
﹃
丑
松
の
奴
が
い
ろ
〳
〵
御
世
話
様
に
成
り
ま
す
さ
う
で
―
―
昨
(
さ
く
)
日
(
じ
つ
)
は
ま
た
御
出
下
す
つ
た
さ
う
で
し
た
が
、
生
(
あ
い
)
憎
(
に
く
)
と
留
守
に
い
た
し
や
し
て
。
﹄
斯
(
か
)
う
い
ふ
挨
拶
を
す
る
と
、
蓮
太
郎
は
丁
寧
に
亡
(
な
)
く
な
つ
た
人
の
弔
(
く
や
)
辞
(
み
)
を
述
べ
た
。
四
人
は
早
く
発
(
た
)
つ
た
。
朝
じ
め
り
の
し
た
街
道
の
土
を
踏
ん
で
、
深
い
霧
の
中
を
辿
(
た
ど
)
つ
て
行
つ
た
時
は
、
遠
(
を
ち
)
近
(
こ
ち
)
に
鶏
の
鳴
き
交
す
声
も
聞
え
る
。
其
日
は
春
先
の
や
う
に
温
(
あ
た
)
暖
(
ゝ
か
)
で
、
路
傍
の
枯
草
も
蘇
(
い
き
)
生
(
か
へ
)
る
か
と
思
は
れ
る
程
。
灰
色
の
水
蒸
気
は
低
く
集
つ
て
来
て
、
僅
か
に
離
れ
た
杜
(
も
り
)
の
梢
(
こ
ず
ゑ
)
も
遠
く
深
く
烟
(
け
ぶ
)
る
や
う
に
見
え
る
。
四
人
は
後
に
な
り
前
に
な
り
、
互
に
言
葉
を
取
交
し
乍
ら
歩
い
た
。
就
(
わ
け
)
中
(
て
も
)
、
弁
護
士
の
快
活
な
笑
声
は
朝
の
空
気
に
響
き
渡
る
。
思
は
ず
足
も
軽
く
道
も
果
(
は
か
)
取
(
ど
)
つ
た
の
で
あ
る
。
東
上
田
へ
差
懸
つ
た
頃
、
蓮
太
郎
と
丑
松
の
二
人
は
少
(
す
こ
)
許
(
し
)
連
(
つ
れ
)
に
後
(
お
く
)
れ
た
。
次
第
に
道
(
み
)
路
(
ち
)
は
明
く
な
つ
て
、
と
こ
ろ
〴
〵
に
青
空
も
望
ま
れ
る
や
う
に
成
つ
た
。
白
い
光
を
帯
び
乍
ら
、
頭
の
上
を
急
い
だ
は
、
朝
雲
の
群
。
行
(
ゆ
く
)
先
(
て
)
に
あ
た
る
村
落
も
形
を
顕
(
あ
ら
は
)
し
て
、
草
(
く
さ
)
葺
(
ぶ
き
)
の
屋
根
か
ら
は
煙
の
立
ち
登
る
光
(
さ
)
景
(
ま
)
も
見
え
た
。
霧
の
眺
め
は
、
今
、
お
も
し
ろ
く
晴
れ
て
行
く
の
で
あ
る
。
蓮
太
郎
は
苦
し
い
様
子
も
見
せ
な
か
つ
た
。
こ
の
石
(
い
し
)
塊
(
こ
ろ
)
の
多
い
歩
き
難
い
道
を
彼
(
あ
)
様
(
ゝ
)
し
て
徒
(
ひ
)
歩
(
ろ
)
つ
て
も
可
(
い
ゝ
)
の
か
し
ら
ん
、
と
丑
松
は
そ
れ
を
案
じ
つ
ゞ
け
て
、
時
々
蓮
太
郎
を
待
合
せ
て
は
、
一
緒
に
遅
く
歩
く
や
う
に
為
た
が
、
ま
あ
素
(
し
ろ
)
人
(
う
と
)
目
(
め
)
で
眺
め
た
と
こ
ろ
で
は
格
別
気
(
い
)
息
(
き
)
の
切
れ
る
で
も
無
い
ら
し
い
。
漸
(
や
う
や
)
く
安
心
し
て
、
軈
(
や
が
)
て
話
し
〳
〵
行
く
連
の
二
人
の
後
姿
は
、
と
見
る
と
其
時
は
凡
(
お
よ
)
そ
一
町
程
も
離
れ
た
ら
う
。
急
に
日
が
あ
た
つ
て
、
湿
(
し
め
)
つ
た
道
路
も
輝
き
初
め
た
。
温
(
や
は
)
和
(
ら
か
)
に
快
(
こ
ゝ
)
暢
(
ろ
よ
)
い
朝
の
光
は
小
(
ち
ひ
)
県
(
さ
が
た
)
の
野
に
満
ち
溢
(
あ
ふ
)
れ
て
来
た
。
あ
ゝ
、
告
(
う
ち
)
白
(
あ
)
け
る
な
ら
、
今
だ
。
丑
松
に
言
は
せ
る
と
、
自
分
は
決
し
て
一
生
の
戒
を
破
る
の
で
は
無
い
。
是
(
こ
れ
)
が
若
(
も
)
し
世
間
の
人
に
話
す
と
い
ふ
場
合
で
で
も
有
つ
た
ら
、
そ
れ
こ
そ
今
迄
の
苦
心
も
水
の
泡
で
あ
ら
う
。
唯
斯
(
こ
の
)
人
(
ひ
と
)
だ
け
に
告
白
け
る
の
だ
。
親
兄
弟
に
話
す
も
同
じ
こ
と
だ
。
一
向
差
支
が
無
い
。
斯
う
自
分
で
自
分
に
弁
(
い
ひ
)
解
(
ほ
ど
)
い
て
見
た
。
丑
松
も
思
慮
の
無
い
男
で
は
無
し
、
彼
(
あ
れ
)
程
(
ほ
ど
)
堅
い
父
の
言
葉
を
忘
れ
て
了
(
し
ま
)
つ
て
、
好
ん
で
死
地
に
陥
る
や
う
な
、
其
(
そ
)
様
(
ん
)
な
愚
(
お
ろ
か
)
な
真
似
を
為
(
す
)
る
積
り
は
無
か
つ
た
の
で
あ
る
。
﹃
隠
せ
。
﹄
と
い
ふ
厳
粛
な
声
は
、
其
時
、
心
の
底
の
方
で
聞
え
た
。
急
に
冷
(
つ
め
た
)
い
戦
(
み
ぶ
)
慄
(
る
ひ
)
が
全
身
を
伝
つ
て
流
れ
下
る
。
さ
あ
、
丑
松
も
す
こ
し
躊
(
た
め
)
躇
(
ら
)
は
ず
に
は
居
ら
れ
な
か
つ
た
。
﹃
先
生
、
先
生
﹄
と
口
の
中
で
呼
ん
で
、
ど
う
其
を
切
出
し
た
も
の
か
と
悶
(
も
が
)
い
て
居
る
と
、
何
か
目
に
見
え
な
い
力
が
背
(
う
し
)
後
(
ろ
)
に
在
つ
て
、
妙
に
自
分
の
無
法
を
押
止
め
る
や
う
な
気
が
し
た
。
﹃
忘
れ
る
な
﹄
と
ま
た
心
の
底
の
方
で
。
︵
二
︶
﹃
瀬
川
君
、
君
は
恐
し
く
考
へ
込
ん
だ
ね
え
。
﹄
と
蓮
太
郎
は
丑
松
の
方
を
振
返
つ
て
見
た
。
﹃
時
に
、
大
分
後
れ
ま
し
た
よ
。
奈
(
ど
)
何
(
う
)
で
す
か
、
少
(
す
こ
)
許
(
し
)
急
が
う
ぢ
や
有
ま
せ
ん
か
。
﹄
斯
う
言
は
れ
て
、
丑
松
も
其
後
に
随
(
つ
)
い
て
急
い
だ
。
間
も
無
く
二
人
は
連
に
追
付
い
た
。
鳥
の
や
う
に
逃
げ
易
い
機
会
は
捕
ま
ら
な
か
つ
た
。
い
づ
れ
未
(
ま
)
だ
先
輩
と
二
人
ぎ
り
に
成
る
時
は
有
る
で
あ
ら
う
、
と
其
を
丑
松
は
頼
み
に
思
ふ
の
で
あ
る
。
日
は
次
第
に
高
く
な
つ
た
。
空
は
濃
く
青
く
透
(
す
)
き
澄
(
と
ほ
)
る
や
う
に
な
つ
た
。
南
の
方
(
か
た
)
に
当
つ
て
、
ち
ぎ
れ
〳
〵
な
雲
の
群
も
起
る
。
今
は
温
(
あ
た
)
暖
(
ゝ
か
)
い
光
の
為
に
蒸
(
む
)
さ
れ
て
、
野
も
煙
り
、
岡
も
呼
吸
し
、
踏
ん
で
行
く
街
道
の
土
の
灰
色
に
乾
く
臭
(
に
ほ
)
気
(
ひ
)
も
心
(
こ
ゝ
)
地
(
ろ
も
ち
)
が
好
い
。
浅
々
と
萌
(
も
え
)
初
(
そ
)
め
た
麦
畠
は
、
両
側
に
連
つ
て
、
奈
(
ど
ん
)
何
(
な
)
に
春
待
つ
心
の
烈
し
さ
を
思
は
せ
た
ら
う
。
斯
(
か
)
う
し
て
眺
(
な
が
)
め
〳
〵
行
く
間
に
も
、
四
人
の
眼
に
映
る
田
(
ゐ
な
)
舎
(
か
)
が
四
色
で
有
つ
た
の
は
を
か
し
か
つ
た
。
弁
護
士
は
小
作
人
と
地
主
と
の
争
(
あ
ら
)
闘
(
そ
ひ
)
を
、
蓮
太
郎
は
労
働
者
の
苦
(
く
る
)
痛
(
し
み
)
と
慰
(
な
ぐ
)
藉
(
さ
め
)
と
を
、
叔
父
は
﹃
え
ご
﹄
、
﹃
山
(
や
ま
)
牛
(
ご
ば
)
蒡
(
う
)
﹄
、
﹃
天
(
て
ん
)
王
(
わ
う
)
草
(
ぐ
さ
)
﹄
、
又
は
﹃
水
(
み
づ
)
沢
(
お
も
)
瀉
(
だ
か
)
﹄
等
の
雑
草
に
苦
し
め
ら
れ
る
耕
作
の
経
験
か
ら
、
収
(
と
り
)
穫
(
い
れ
)
に
関
係
の
深
い
土
質
の
比
較
、
さ
て
は
上
州
地
方
の
平
野
に
住
む
農
夫
に
比
べ
て
斯
の
山
の
上
の
人
々
の
粗
(
な
げ
)
懶
(
や
り
)
な
習
慣
な
ぞ
を
―
―
流
(
さ
す
)
石
(
が
)
に
三
人
の
話
は
、
生
活
と
い
ふ
こ
と
を
離
れ
な
か
つ
た
が
、
同
じ
田
舎
を
心
に
描
い
て
も
、
丑
松
の
は
若
々
し
い
思
(
か
ん
)
想
(
が
へ
)
か
ら
割
出
し
て
、
働
く
ば
か
り
が
田
舎
で
は
な
い
と
言
つ
た
や
う
な
風
に
観
察
す
る
。
斯
(
か
)
う
い
ふ
思
ひ
〳
〵
の
話
に
身
が
入
つ
て
、
四
人
は
疲
(
つ
か
)
労
(
れ
)
を
忘
れ
乍
ら
上
田
の
町
へ
入
つ
た
。
上
田
に
は
弁
護
士
の
出
張
所
も
設
け
て
有
る
。
そ
こ
に
は
蓮
太
郎
の
細
君
が
根
津
か
ら
帰
る
夫
を
待
受
け
て
居
た
の
で
。
蓮
太
郎
と
弁
護
士
と
は
、
一
寸
立
寄
つ
て
用
事
を
済
(
す
)
ま
し
た
上
、
ま
た
屠
牛
場
で
一
緒
に
成
る
と
い
ふ
こ
と
に
し
よ
う
、
其
種
牛
の
最
後
を
も
見
よ
う
―
―
斯
(
か
)
う
い
ふ
約
束
で
別
れ
た
。
丑
松
は
叔
父
と
連
立
つ
て
一
(
ひ
と
)
歩
(
あ
し
)
先
へ
出
掛
け
た
。
屠
牛
場
近
く
行
け
ば
行
く
程
、
亡
く
な
つ
た
牧
夫
の
こ
と
が
烈
し
く
二
人
の
胸
に
浮
ん
で
来
た
。
二
人
の
話
は
其
追
(
お
も
)
懐
(
ひ
で
)
で
持
切
つ
た
。
他
人
が
居
な
け
れ
ば
遠
慮
も
要
(
い
)
ら
ず
、
今
は
何
を
話
さ
う
と
好
(
す
き
)
自
(
じ
い
)
由
(
う
)
で
あ
る
。
﹃
な
あ
、
丑
松
。
﹄
と
叔
父
は
歩
き
乍
ら
嘆
息
し
て
、
﹃
へ
え
、
も
う
今
日
で
六
日
目
だ
ぞ
よ
。
兄
貴
が
亡
く
な
る
、
お
前
(
め
へ
)
が
や
つ
て
来
る
。
葬
(
お
じ
)
式
(
や
ん
ぼ
ん
)
を
出
す
、
御
苦
労
招
び
か
ら
、
礼
廻
り
と
、
丁
度
今
日
で
六
日
目
だ
。
あ
ゝ
、
明
日
は
最
(
も
)
早
(
う
)
初
七
日
だ
。
日
数
の
早
く
経
(
た
)
つ
に
は
魂
(
た
ま
)
消
(
げ
)
て
了
ふ
。
兄
貴
に
別
れ
た
の
は
、
つ
い
未
だ
昨
日
の
や
う
に
し
か
思
は
れ
ね
え
が
な
あ
。
﹄
丑
松
は
黙
つ
て
考
へ
乍
ら
随
い
て
行
つ
た
。
叔
父
は
言
葉
を
継
い
で
、
﹃
真
(
ほ
ん
)
実
(
た
う
)
に
世
の
中
は
思
ふ
や
う
に
行
か
ね
え
も
の
さ
。
兄
貴
も
、
是
か
ら
楽
を
し
よ
う
と
い
ふ
と
こ
ろ
で
、
彼
(
あ
)
様
(
ん
)
な
災
難
に
罹
る
な
ん
て
。
ま
あ
、
金
を
遺
(
の
こ
)
す
ぢ
や
無
し
、
名
を
遺
す
ぢ
や
無
し
、
一
生
苦
労
を
為
つ
ゞ
け
て
、
其
苦
労
が
誰
の
為
か
と
言
へ
ば
―
―
畢
(
つ
ま
)
竟
(
り
)
、
お
前
や
俺
の
為
だ
。
俺
も
若
え
時
は
、
克
(
よ
)
く
兄
貴
と
喧
嘩
し
て
、
擲
(
な
ぐ
)
ら
れ
た
り
、
泣
か
せ
ら
れ
た
り
し
た
も
の
だ
が
、
今
と
な
つ
て
考
へ
て
見
る
と
、
親
兄
弟
程
難
(
あ
り
)
有
(
が
た
)
い
も
の
は
無
え
ぞ
よ
。
仮
(
た
と
)
令
(
ひ
)
世
界
中
の
人
が
見
放
し
て
も
、
親
兄
弟
は
捨
て
ね
え
か
ら
な
あ
。
兄
貴
を
忘
れ
ち
や
な
ら
ね
え
と
言
ふ
の
は
―
―
其
処
だ
は
サ
。
﹄
暫
(
し
ば
)
時
(
ら
く
)
二
人
は
無
言
で
歩
い
た
。
﹃
忘
れ
る
な
よ
。
﹄
と
叔
父
は
復
た
初
め
た
。
﹃
何
(
ど
の
)
程
(
く
れ
え
)
ま
あ
兄
貴
も
お
前
の
為
に
心
配
し
て
居
た
も
の
だ
か
。
あ
る
時
、
俺
に
、
﹁
丑
松
も
今
が
一
番
危
え
時
だ
。
斯
う
し
て
山
の
中
で
考
へ
た
と
、
世
間
へ
出
て
見
た
と
は
違
ふ
か
ら
、
そ
こ
を
俺
が
思
つ
て
や
る
。
な
か
〳
〵
他
人
の
中
へ
突
出
さ
れ
て
、
内
(
う
ち
)
兜
(
か
ぶ
と
)
を
見
(
み
)
透
(
す
)
か
さ
れ
ね
え
や
う
に
遂
(
や
り
)
行
(
と
)
げ
る
の
は
容
易
ぢ
や
ね
え
。
何
(
ど
う
)
卒
(
か
)
し
て
う
ま
く
行
(
や
)
つ
て
呉
れ
ゝ
ば
可
(
い
ゝ
)
が
―
―
下
手
に
学
問
な
ぞ
を
し
て
、
つ
ま
ら
ね
え
思
(
か
ん
)
想
(
が
へ
)
を
起
さ
な
け
れ
ば
可
(
い
ゝ
)
が
―
―
ま
あ
、
三
十
に
成
つ
て
見
ね
え
内
は
、
安
心
が
出
来
ね
え
。
﹂
と
斯
う
い
ふ
か
ら
、
﹁
な
あ
に
、
大
丈
夫
―
―
丑
松
の
こ
と
な
ら
俺
が
保
証
す
る
。
﹂
と
言
つ
て
や
つ
た
よ
。
す
る
と
、
兄
貴
は
首
を
振
つ
て
、
﹁
ど
う
も
不
(
い
か
)
可
(
ね
え
)
も
の
で
、
親
の
悪
い
と
こ
ろ
ば
か
り
子
に
伝
は
る
。
丑
松
も
用
心
深
い
の
は
好
(
い
ゝ
)
が
、
然
し
又
、
あ
ん
ま
り
用
心
深
過
ぎ
て
反
つ
て
疑
は
れ
る
や
う
な
事
が
出
来
や
す
ま
い
か
。
﹂
と
し
き
り
に
其
を
言
ふ
。
其
時
俺
が
、
﹁
左
(
さ
)
様
(
う
)
心
配
し
た
日
に
は
際
(
き
)
限
(
り
)
が
無
え
。
﹂
と
笑
つ
た
こ
と
サ
。
は
ゝ
ゝ
ゝ
ゝ
。
﹄
と
思
出
し
た
や
う
に
慾
の
無
い
声
で
笑
つ
て
、
軈
て
気
を
変
へ
て
、
﹃
し
か
し
、
能
く
ま
あ
、
お
前
も
是
迄
に
漕
付
け
て
来
た
。
最
早
大
丈
夫
だ
。
全
く
お
前
に
は
其
丈
の
徳
が
具
(
そ
な
)
は
つ
て
居
る
の
だ
。
な
に
し
ろ
用
心
す
る
に
越
し
た
こ
と
は
ね
え
ぞ
よ
。
奈
(
ど
)
何
(
ん
)
な
先
生
だ
ら
う
が
、
同
じ
身
分
の
人
だ
ら
う
が
、
決
し
て
気
は
許
せ
ね
え
―
―
そ
り
や
あ
、
も
う
、
他
人
と
親
兄
弟
と
は
違
ふ
か
ら
な
あ
。
あ
ゝ
、
兄
貴
の
生
き
て
る
時
分
に
は
、
牧
場
か
ら
下
つ
て
来
る
、
俺
や
婆
さ
ん
の
顔
を
見
る
、
直
に
お
前
の
噂
(
う
は
さ
)
だ
つ
た
。
も
う
兄
貴
は
居
ね
え
。
是
か
ら
は
俺
と
婆
さ
ん
と
二
人
ぎ
り
で
、
お
前
の
噂
を
し
て
楽
む
ん
だ
。
考
へ
て
見
て
呉
れ
よ
、
俺
も
子
は
無
し
サ
―
―
お
前
よ
り
外
に
便
り
に
す
る
も
の
は
無
え
の
だ
か
ら
。
﹄
︵
三
︶
例
の
種
牛
は
朝
の
う
ち
に
屠
(
と
ぎ
)
牛
(
う
)
場
(
ば
)
へ
送
ら
れ
た
。
種
牛
の
持
主
は
早
く
か
ら
詰
掛
け
て
、
叔
父
と
丑
松
と
を
待
受
け
て
居
た
。
二
人
は
、
空
車
引
い
て
馳
(
か
)
け
て
行
く
肉
屋
の
丁
(
で
つ
)
稚
(
ち
)
の
後
に
随
い
て
、
軈
て
屠
牛
場
の
前
迄
行
く
と
、
門
の
外
に
持
主
、
先
(
ま
)
づ
見
る
よ
り
、
克
(
よ
)
く
来
て
呉
れ
た
を
言
ひ
継
(
つ
ゞ
)
け
る
。
心
か
ら
老
牧
夫
の
最
後
を
傷
(
い
た
)
む
と
い
ふ
情
(
じ
や
)
合
(
う
あ
ひ
)
は
、
斯
持
主
の
顔
色
に
表
れ
る
の
で
あ
つ
た
。
﹃
い
え
。
﹄
と
叔
父
は
対
手
の
言
葉
を
遮
(
さ
へ
ぎ
)
つ
て
、
﹃
全
く
是
(
こ
ち
)
方
(
ら
)
の
不
(
て
ぬ
)
注
(
か
)
意
(
り
)
か
ら
起
つ
た
事
な
ん
で
、
貴
(
あ
ん
)
方
(
た
)
を
恨
(
う
ら
)
み
る
筋
は
些
(
ち
つ
)
少
(
と
)
も
ご
は
せ
ん
。
﹄
と
そ
れ
を
言
へ
ば
、
先
(
さ
)
方
(
き
)
は
猶
(
な
ほ
)
々
(
〳
〵
)
痛
み
入
る
様
子
。
﹃
私
は
へ
え
、
面
目
な
く
て
、
斯
(
か
)
う
し
て
貴
(
あ
ん
)
方
(
た
が
)
等
(
た
)
に
合
せ
る
顔
も
無
い
の
で
や
す
―
―
ま
あ
畜
生
の
為
(
し
)
た
こ
と
だ
か
ら
せ
え
て
︵
せ
え
て
は
、
し
て
の
訛
(
な
ま
り
)
、
農
夫
の
間
に
用
ゐ
ら
れ
る
︶
、
御
災
難
と
思
つ
て
絶
(
あ
き
)
念
(
ら
)
め
て
下
さ
る
や
う
に
。
﹄
と
か
へ
す
〴
〵
言
ふ
。
是
(
こ
)
処
(
ゝ
)
は
上
田
の
町
は
づ
れ
、
太
郎
山
の
麓
に
迫
つ
て
、
新
し
く
建
て
ら
れ
た
五
棟
ば
か
り
の
平
屋
。
鋭
い
目
付
の
犬
は
五
六
匹
門
外
に
集
つ
て
来
て
、
頻
(
し
き
り
)
に
二
人
の
臭
(
に
ほ
)
気
(
ひ
)
を
嗅
い
で
見
た
り
、
低
声
に
つ
た
り
し
て
、
や
ゝ
と
も
す
れ
ば
吠
(
ほ
)
え
懸
り
さ
う
な
気
(
け
は
)
勢
(
ひ
)
を
示
す
の
で
あ
つ
た
。
持
主
に
導
か
れ
て
、
二
人
は
黒
い
門
を
入
つ
た
。
内
に
庭
を
隔
(
へ
だ
)
て
ゝ
、
北
は
検
査
室
、
東
が
屠
殺
の
小
屋
で
あ
る
。
年
の
頃
五
十
余
の
で
つ
ぷ
り
肥
つ
た
男
が
人
々
の
指
図
を
し
て
居
た
が
、
其
老
練
な
、
愛
(
あ
い
)
嬌
(
け
う
)
の
あ
る
物
の
言
振
で
、
屠
(
と
し
)
手
(
ゆ
)
の
頭
(
か
し
ら
)
と
い
ふ
こ
と
は
知
れ
た
。
屠
手
と
し
て
是
処
に
使
(
つ
)
役
(
か
)
は
れ
て
居
る
壮
(
わ
か
)
丁
(
も
の
)
は
十
人
計
(
ば
か
)
り
、
い
づ
れ
紛
(
ま
が
)
ひ
の
無
い
新
平
民
―
―
殊
に
卑
(
い
)
賤
(
や
)
し
い
手
合
と
見
え
て
、
特
色
の
あ
る
皮
膚
の
色
が
明
(
あ
り
)
白
(
〳
〵
)
と
目
に
つ
く
。
一
人
々
々
の
赤
ら
顔
に
は
、
烙
(
や
き
)
印
(
が
ね
)
が
押
当
て
ゝ
あ
る
と
言
つ
て
も
よ
い
。
中
に
は
下
層
の
新
平
民
に
克
(
よ
)
く
あ
る
愚
鈍
な
目
付
を
為
(
し
な
)
乍
(
が
)
ら
是
(
こ
ち
)
方
(
ら
)
を
振
返
る
も
あ
り
、
中
に
は
畏
(
い
ぢ
)
縮
(
け
)
た
、
兢
(
お
づ
)
々
(
〳
〵
)
と
し
た
様
子
し
て
盗
む
や
う
に
客
を
眺
め
る
も
あ
る
。
目
(
め
ざ
)
鋭
(
と
)
い
叔
父
は
直
に
其
(
そ
れ
)
と
看
(
み
)
て
取
つ
て
、
一
寸
右
の
肘
(
ひ
ぢ
)
で
丑
松
を
小
(
こ
)
衝
(
づ
)
い
て
見
た
。
奈
何
し
て
丑
松
も
平
気
で
居
ら
れ
よ
う
。
叔
父
の
肘
が
触
(
さ
は
)
る
か
触
ら
な
い
に
、
其
暗
号
は
電
(
エ
レ
)
気
(
キ
)
の
や
う
に
通
じ
た
。
幸
ひ
案
じ
た
程
で
も
無
い
ら
し
い
の
で
、
漸
(
や
つ
)
と
安
心
し
て
、
そ
れ
か
ら
二
人
は
他
の
談
(
は
な
)
話
(
し
)
の
仲
間
に
入
つ
た
。
繋
留
場
に
は
、
種
牛
の
外
に
、
二
頭
の
牡
牛
も
繋
(
つ
な
)
い
で
あ
つ
て
、
丁
度
死
刑
を
宣
告
さ
れ
た
罪
人
が
牢
(
ひ
と
)
獄
(
や
)
の
内
に
押
(
お
し
)
籠
(
こ
)
め
ら
れ
た
と
同
じ
や
う
に
、
一
刻
々
々
と
近
い
て
行
く
性
(
い
の
)
命
(
ち
)
の
終
を
翹
(
ま
ち
)
望
(
の
ぞ
)
ん
で
居
た
。
丑
松
は
今
、
叔
父
や
持
主
と
一
緒
に
、
斯
(
こ
の
)
繋
留
場
の
柵
(
さ
く
)
の
前
に
立
つ
た
の
で
あ
る
。
持
主
の
言
草
で
は
な
い
が
、
﹃
畜
生
の
為
た
こ
と
﹄
と
思
へ
ば
、
別
に
腹
が
立
つ
の
何
の
と
い
ふ
其
(
そ
)
様
(
ん
)
な
心
(
こ
ゝ
)
地
(
ろ
も
ち
)
に
は
成
ら
な
い
か
は
り
に
、
可
(
い
た
)
傷
(
ま
)
し
い
父
の
最
後
、
牧
場
の
草
の
上
に
流
れ
た
血
潮
―
―
堪
へ
が
た
い
追
(
お
も
)
憶
(
ひ
で
)
の
情
は
丑
松
の
胸
に
浮
ん
で
来
た
の
で
あ
る
。
見
れ
ば
他
の
は
佐
渡
牛
と
い
ふ
種
類
で
、
一
頭
は
黒
く
、
一
頭
は
赤
く
、
人
間
の
食
慾
を
満
す
よ
り
外
に
は
最
(
も
)
早
(
う
)
生
き
な
が
ら
へ
る
価
(
ね
う
)
値
(
ち
)
も
無
い
程
に
痩
(
や
)
せ
て
、
其
憔
(
み
す
)
悴
(
ぼ
ら
)
し
さ
。
そ
れ
に
比
べ
る
と
、
種
牛
は
体
格
も
大
き
く
、
骨
組
も
偉
(
た
く
ま
)
し
く
、
黒
毛
艶
々
と
し
て
美
し
い
雑
種
。
持
主
は
柵
の
横
木
を
隔
て
ゝ
、
其
鼻
面
を
撫
で
ゝ
見
た
り
、
咽
(
の
)
喉
(
ど
)
の
下
を
摩
(
さ
す
)
つ
て
や
つ
た
り
し
て
、
﹃
わ
り
や
︵
汝
(
な
ん
ぢ
)
は
︶
飛
ん
で
も
ね
え
こ
と
を
為
て
呉
れ
た
な
あ
。
何
も
俺
だ
つ
て
、
好
ん
で
斯
(
こ
)
様
(
ん
)
な
処
へ
貴
様
を
引
張
つ
て
来
た
訳
ぢ
や
ね
え
―
―
是
と
い
ふ
の
も
自
(
じ
ご
)
業
(
ふ
じ
)
自
(
と
)
得
(
く
)
だ
―
―
左
(
さ
)
様
(
う
)
思
つ
て
絶
(
あ
き
)
念
(
ら
)
め
ろ
よ
。
﹄
吾
児
に
因
果
で
も
言
含
め
る
や
う
に
掻
(
か
き
)
口
(
く
)
説
(
ど
)
い
て
、
今
更
別
(
わ
か
)
離
(
れ
)
を
惜
む
と
い
ふ
様
子
。
﹃
そ
れ
、
こ
ゝ
に
居
な
さ
る
の
が
瀬
川
さ
ん
の
子
(
む
す
)
息
(
こ
)
さ
ん
だ
。
御
(
お
わ
)
詑
(
び
)
を
し
な
。
御
詑
を
し
な
。
わ
れ
︵
汝
︶
の
や
う
な
畜
生
だ
つ
て
、
万
更
霊
(
た
ま
)
魂
(
し
ひ
)
の
無
え
も
の
で
も
有
る
め
え
。
ま
あ
俺
の
言
ふ
こ
と
を
好
く
覚
え
て
置
い
て
、
次
の
生
(
よ
)
に
は
一
(
も
つ
)
層
(
と
)
気
の
利
い
た
も
の
に
生
れ
変
つ
て
来
い
。
﹄
斯
(
か
)
う
言
ひ
聞
か
せ
て
、
軈
(
や
が
)
て
持
主
は
牛
の
来
歴
を
二
人
に
語
つ
た
。
現
に
今
、
多
く
を
飼
養
し
て
居
る
が
、
是
(
こ
れ
)
に
勝
(
ま
さ
)
る
血
(
ち
す
)
統
(
ぢ
)
の
も
の
は
一
頭
も
無
い
。
父
牛
は
亜
(
ア
)
米
(
メ
)
利
(
リ
)
加
(
カ
)
産
、
母
牛
は
斯
(
し
か
)
々
(
〴
〵
)
、
悪
い
癖
さ
へ
無
く
ば
西
(
に
し
)
乃
(
の
い
)
入
(
り
)
牧
場
の
名
牛
と
も
唄
は
れ
た
で
あ
ら
う
に
、
と
言
出
し
て
嘆
息
し
た
。
持
主
は
又
附
(
つ
け
)
加
(
た
)
し
て
、
斯
(
こ
の
)
種
牛
の
肉
の
売
(
う
り
)
代
(
し
ろ
)
を
分
け
て
、
亡
く
な
つ
た
牧
夫
の
追
善
に
供
へ
た
い
か
ら
、
せ
め
て
其
で
仏
の
心
を
慰
め
て
呉
れ
と
い
ふ
こ
と
を
話
し
た
。
其
時
獣
医
が
入
つ
て
来
て
、
鳥
打
帽
を
冠
つ
た
儘
、
人
々
に
挨
拶
す
る
。
つ
ゞ
い
て
、
牛
肉
屋
の
亭
主
も
入
つ
て
来
た
は
、
屠
(
つ
ぶ
)
さ
れ
た
後
の
肉
を
買
取
る
為
で
あ
ら
う
。
間
も
無
く
蓮
太
郎
、
弁
護
士
の
二
人
も
、
叔
父
や
丑
松
と
一
緒
に
な
つ
て
、
庭
に
立
つ
て
眺
め
た
り
話
し
た
り
し
た
。
﹃
む
ゝ
、
彼
(
あ
れ
)
が
御
話
の
あ
つ
た
種
牛
で
す
ね
。
﹄
と
蓮
太
郎
は
小
声
で
言
つ
た
。
人
々
は
用
意
に
取
掛
か
る
と
見
え
、
い
づ
れ
も
白
の
上
(
う
は
)
被
(
つ
ぱ
り
)
、
冷
飯
草
履
は
脱
い
で
素
足
に
尻
端
折
。
笑
ふ
声
、
私
(
さ
ゝ
)
語
(
や
)
く
声
は
、
犬
の
鳴
声
に
交
つ
て
、
何
と
な
く
構
内
は
混
雑
し
て
来
た
の
で
あ
る
。
い
よ
〳
〵
種
牛
は
引
出
さ
れ
る
こ
と
に
な
つ
た
。
一
同
の
視
線
は
皆
な
其
方
へ
集
つ
た
。
今
迄
沈
ま
り
か
へ
つ
て
居
た
二
頭
の
佐
渡
牛
は
、
急
に
騒
ぎ
初
め
て
、
頻
と
頭
を
左
右
に
振
動
か
す
。
一
人
の
屠
手
は
赤
い
方
の
鼻
面
を
確
(
し
つ
)
乎
(
か
)
と
制
(
お
さ
)
へ
て
、
声
を
し
て
制
し
た
り
叱
つ
た
り
し
た
。
畜
生
な
が
ら
に
本
(
む
)
能
(
し
)
が
知
ら
せ
る
と
見
え
、
逃
げ
よ
う
〳
〵
と
焦
り
出
し
た
の
で
あ
る
。
黒
い
佐
渡
牛
は
繋
が
れ
た
ま
ゝ
柱
を
一
廻
り
し
た
。
死
地
に
引
か
れ
て
行
く
種
牛
は
寧
(
む
し
)
ろ
冷
(
お
ち
)
静
(
つ
)
き
澄
ま
し
た
も
の
で
、
他
の
二
頭
の
や
う
に
悪
(
わ
る
)
を
為
(
す
)
る
で
も
無
く
、
悲
し
い
鳴
声
を
泄
(
も
)
ら
す
で
も
無
く
、
僅
か
に
白
い
鼻
息
を
見
せ
て
、
悠
(
い
う
)
々
(
〳
〵
)
と
獣
医
の
前
へ
進
ん
だ
。
紫
色
の
潤
(
う
る
)
み
を
帯
び
た
大
き
な
目
は
傍
で
観
て
居
る
人
々
を
睥
(
へ
い
)
睨
(
げ
い
)
す
る
か
の
や
う
。
彼
の
西
乃
入
の
牧
場
を
荒
(
あ
ば
)
れ
廻
つ
て
、
丑
松
の
父
を
突
殺
し
た
程
の
悪
牛
で
は
有
る
が
、
斯
(
か
)
う
し
た
潔
(
い
さ
ぎ
よ
)
い
臨
終
の
光
(
あ
り
)
景
(
さ
ま
)
は
、
又
た
人
々
に
哀
(
あ
は
)
憐
(
れ
み
)
の
情
を
催
(
お
こ
)
さ
せ
た
。
叔
父
も
、
丑
松
も
す
く
な
か
ら
ず
胸
を
打
た
れ
た
の
で
あ
る
。
獣
医
は
あ
ち
こ
ち
と
廻
つ
て
歩
き
乍
ら
、
種
牛
の
皮
を
撮
(
つ
ま
)
ん
で
見
た
り
、
咽
(
の
)
喉
(
ど
)
を
押
へ
て
見
た
り
、
ま
た
は
角
を
叩
(
た
ゝ
)
い
て
見
た
り
し
て
、
最
後
に
尻
尾
を
持
上
た
か
と
思
ふ
と
、
検
査
は
最
(
も
)
早
(
う
)
其
で
済
ん
だ
。
屠
手
は
総
懸
り
で
寄
つ
て
群
(
た
か
)
つ
て
、
﹃
し
ツ
〳
〵
﹄
と
声
を
揚
げ
乍
ら
、
無
理
無
体
に
屠
殺
の
小
屋
の
方
へ
種
牛
を
引
入
れ
た
。
屠
手
の
頭
(
か
し
ら
)
は
油
断
を
見
澄
ま
し
て
、
素
早
く
細
引
を
投
げ
搦
(
か
ら
)
む
。
と
音
し
て
牛
の
身
体
が
板
敷
の
上
へ
横
に
成
つ
た
は
、
足
と
足
と
が
引
締
め
ら
れ
た
か
ら
で
あ
る
。
持
主
は
茫
(
ば
う
)
然
(
ぜ
ん
)
と
し
て
立
つ
た
。
丑
松
も
考
深
い
目
付
を
し
て
眺
め
沈
ん
で
居
た
。
や
が
て
、
種
牛
の
眉
(
み
け
)
間
(
ん
)
を
目
懸
け
て
、
一
人
の
屠
手
が
斧
(
を
の
)
︵
一
方
に
長
さ
四
五
寸
の
管
(
く
だ
)
が
あ
つ
て
、
致
命
傷
を
与
へ
る
の
は
是
(
こ
の
)
管
で
あ
る
︶
を
振
(
ふ
り
)
翳
(
か
ざ
)
し
た
か
と
思
ふ
と
、
も
う
其
が
是
畜
生
の
最
後
。
幽
(
か
す
か
)
な
呻
(
う
め
)
吟
(
き
)
を
残
し
て
置
い
て
、
直
に
息
を
引
取
つ
て
了
つ
た
―
―
一
撃
で
種
牛
は
倒
さ
れ
た
の
で
あ
る
。
︵
四
︶
日
の
光
は
斯
(
こ
)
の
小
屋
の
内
へ
射
入
つ
て
、
死
ん
で
其
処
に
倒
れ
た
種
牛
と
、
多
(
い
そ
)
忙
(
が
)
し
さ
う
に
立
働
く
人
々
の
白
い
上
(
う
は
)
被
(
つ
ぱ
り
)
と
を
照
し
た
。
屠
手
の
頭
は
鋭
い
出
刃
庖
丁
を
振
つ
て
、
先
づ
牛
の
咽
(
の
)
喉
(
ど
)
を
割
(
さ
)
く
。
尾
を
牽
(
ひ
)
く
も
の
は
直
に
尾
を
捨
て
、
細
引
を
持
つ
も
の
は
細
引
を
捨
て
ゝ
、
い
づ
れ
も
牛
の
上
に
登
つ
た
。
多
勢
の
壮
(
わ
か
)
丁
(
も
の
)
が
力
に
任
せ
、
所
嫌
は
ず
踏
付
け
る
の
で
、
血
潮
は
割
か
れ
た
咽
喉
を
通
し
て
紅
(
あ
か
)
く
板
敷
の
上
へ
流
れ
た
。
咽
喉
か
ら
腹
、
腹
か
ら
足
、
と
次
第
に
黒
い
毛
皮
が
剥
(
は
ぎ
)
取
(
と
)
ら
れ
る
。
膏
と
血
と
の
臭
(
に
ほ
)
気
(
ひ
)
は
斯
の
屠
牛
場
に
満
ち
溢
(
あ
ふ
)
れ
て
来
た
。
他
の
二
頭
の
佐
渡
牛
が
小
屋
の
内
へ
引
入
れ
ら
れ
て
、
撃
(
う
)
ち
殺
さ
れ
た
の
は
間
も
無
く
で
あ
つ
た
。
斯
の
可
(
い
た
)
傷
(
ま
)
し
い
光
(
あ
り
)
景
(
さ
ま
)
を
見
る
に
つ
け
て
も
、
丑
松
の
胸
に
浮
ぶ
は
亡
く
な
つ
た
父
の
こ
と
で
。
丑
松
は
考
深
い
目
付
を
為
(
し
な
)
乍
(
が
)
ら
、
父
の
死
を
想
(
お
も
)
ひ
つ
ゞ
け
て
居
る
と
、
軈
て
種
牛
の
毛
皮
も
悉
(
す
つ
)
皆
(
か
り
)
剥
取
ら
れ
、
角
も
撃
ち
落
さ
れ
、
脂
肪
に
包
ま
れ
た
肉
(
な
か
)
身
(
み
)
か
ら
は
湯
気
の
や
う
な
息
の
蒸
(
む
し
)
上
(
の
ぼ
)
る
さ
ま
も
見
え
た
。
屠
手
の
頭
は
手
も
庖
丁
も
紅
く
血
潮
に
交
(
ま
み
)
れ
乍
ら
、
あ
ち
こ
ち
と
小
屋
の
内
を
廻
つ
て
指
(
さ
し
)
揮
(
づ
)
す
る
。
そ
こ
に
は
竹
(
た
け
)
箒
(
ば
う
き
)
で
牛
の
膏
(
あ
ぶ
ら
)
を
掃
い
て
居
る
も
の
が
あ
り
、
こ
ゝ
に
は
砥
石
を
出
し
て
出
刃
を
磨
い
で
居
る
も
の
も
あ
つ
た
。
赤
い
佐
渡
牛
は
引
割
と
言
つ
て
、
腰
(
こ
し
)
骨
(
ぼ
ね
)
を
左
右
に
切
開
か
れ
、
其
骨
と
骨
と
の
間
へ
横
木
を
入
れ
ら
れ
て
、
逆
(
さ
か
)
方
(
さ
ま
)
に
高
く
釣
る
し
上
げ
ら
れ
る
こ
と
に
な
つ
た
。
﹃
そ
ら
、
巻
く
ぜ
。
﹄
と
一
人
の
屠
手
は
天
井
に
あ
る
滑
(
く
る
)
車
(
ま
)
を
見
上
げ
乍
ら
言
つ
た
。
見
る
〳
〵
小
屋
の
中
(
ま
ん
)
央
(
な
か
)
に
は
、
巨
(
お
ほ
)
大
(
き
)
な
牡
牛
の
肉
(
か
ら
)
身
(
だ
)
が
釣
る
さ
れ
て
懸
つ
た
。
叔
父
も
、
蓮
太
郎
も
、
弁
護
士
も
、
互
に
顔
を
見
合
せ
て
居
た
。
一
人
の
屠
手
は
鋸
(
の
こ
ぎ
り
)
を
取
出
し
た
、
脊
(
あ
ば
)
髄
(
ら
)
を
二
つ
に
引
割
り
始
め
た
の
で
あ
る
。
回
(
ゑ
か
)
向
(
う
)
す
る
や
う
な
持
主
の
目
は
種
牛
か
ら
離
れ
な
か
つ
た
。
種
牛
は
最
(
も
)
早
(
う
)
足
さ
へ
も
切
離
さ
れ
た
。
牧
場
の
草
踏
散
ら
し
た
双
(
ふ
た
)
叉
(
ま
た
)
の
蹄
(
つ
め
)
も
、
今
は
小
屋
か
ら
土
間
の
方
へ
投
(
は
ふ
)
出
(
り
だ
)
さ
れ
た
。
灰
紫
色
の
膜
に
掩
(
お
ほ
)
は
れ
た
臓
腑
は
、
丁
度
斯
う
大
風
呂
敷
の
包
の
や
う
に
、
べ
ろ
〳
〵
し
た
儘
(
ま
ゝ
)
で
其
処
に
置
い
て
あ
る
。
三
人
の
屠
手
は
互
に
庖
丁
を
入
れ
て
、
骨
に
添
ふ
て
肉
を
切
開
く
の
で
あ
つ
た
。
烈
し
い
追
(
お
も
)
憶
(
ひ
で
)
は
、
復
た
〳
〵
丑
松
の
胸
中
を
往
来
し
始
め
た
。
﹃
忘
れ
る
な
﹄
―
―
あ
ゝ
、
そ
の
熱
い
臨
終
の
呼
吸
は
、
ど
ん
な
に
深
い
響
と
な
つ
て
、
生
残
る
丑
松
の
骨
の
膸
(
ず
ゐ
)
ま
で
も
貫
(
し
み
)
徹
(
と
ほ
)
る
だ
ら
う
。
其
を
考
へ
る
度
に
、
亡
く
な
つ
た
父
が
丑
松
の
胸
中
に
復
(
い
き
)
活
(
か
へ
)
る
の
で
あ
る
。
急
に
其
時
、
心
の
底
の
方
で
声
が
し
て
、
丑
松
を
呼
び
警
(
い
ま
し
)
め
る
や
う
に
聞
え
た
。
﹃
丑
松
、
貴
様
は
親
を
捨
て
る
気
か
。
﹄
と
其
声
は
自
分
を
責
め
る
や
う
に
聞
え
た
。
﹃
貴
様
は
親
を
捨
て
る
気
か
。
﹄
と
丑
松
は
自
分
で
自
分
に
繰
返
し
て
見
た
。
成
(
な
る
)
程
(
ほ
ど
)
、
自
分
は
変
つ
た
。
成
程
、
一
に
も
二
に
も
父
の
言
葉
に
服
従
し
て
、
そ
れ
を
器
械
的
に
遵
(
じ
ゆ
)
奉
(
ん
ぽ
う
)
す
る
や
う
な
、
其
(
そ
)
様
(
ん
)
な
児
(
こ
ど
)
童
(
も
)
で
は
無
く
な
つ
て
来
た
。
成
程
、
自
分
の
胸
の
底
は
父
ば
か
り
住
む
世
界
で
は
無
く
な
つ
て
来
た
。
成
程
、
父
の
厳
し
い
性
格
を
考
へ
る
度
に
、
自
分
は
反
つ
て
反
(
あ
べ
)
対
(
こ
べ
)
な
方
へ
逸
(
ぬ
け
)
出
(
だ
)
し
て
行
つ
て
、
自
由
自
在
に
泣
い
た
り
笑
つ
た
り
し
た
い
や
う
な
、
其
(
そ
)
様
(
ん
)
な
思
(
か
ん
)
想
(
が
へ
)
を
持
つ
や
う
に
成
つ
た
。
あ
ゝ
、
世
の
無
情
を
憤
(
い
き
ど
ほ
)
る
先
輩
の
心
(
こ
ゝ
)
地
(
ろ
も
ち
)
と
、
世
に
随
へ
と
教
へ
る
父
の
心
地
と
―
―
そ
の
二
人
の
相
違
は
奈
(
ど
ん
)
何
(
な
)
で
あ
ら
う
。
斯
う
考
へ
て
、
丑
松
は
自
分
の
行
く
道
(
み
)
路
(
ち
)
に
迷
つ
た
の
で
あ
る
。
気
が
つ
い
て
我
に
帰
つ
た
時
は
、
蓮
太
郎
が
自
分
の
傍
に
立
つ
て
居
た
。
い
つ
の
間
に
か
巡
査
も
入
つ
て
来
て
、
獣
医
と
一
緒
に
成
つ
て
眺
め
て
居
た
。
見
れ
ば
種
牛
は
股
(
も
ゝ
)
か
ら
胴
へ
か
け
て
四
つ
の
肉
(
か
た
)
塊
(
ま
り
)
に
切
(
た
ち
)
断
(
き
)
ら
れ
る
と
こ
ろ
。
右
の
前
足
の
股
の
肉
は
、
既
に
天
井
か
ら
垂
(
た
れ
)
下
(
さ
が
)
る
細
引
に
釣
る
さ
れ
て
、
海
綿
を
持
つ
た
一
人
の
屠
手
が
頻
と
其
血
を
拭
ふ
の
で
あ
つ
た
。
斯
う
し
て
巨
(
お
ほ
)
大
(
き
)
な
種
牛
の
肉
(
か
ら
)
体
(
だ
)
は
実
に
無
造
作
に
屠
(
ほ
ふ
)
ら
れ
て
了
(
し
ま
)
つ
た
の
で
あ
る
。
屠
手
の
頭
が
印
判
を
取
出
し
て
、
そ
れ
ぞ
れ
の
肉
の
上
へ
押
し
て
居
る
か
と
見
る
う
ち
に
、
一
方
で
は
引
取
り
に
来
た
牛
肉
屋
の
丁
(
で
つ
)
稚
(
ち
)
、
編
(
ア
ン
)
席
(
ペ
ラ
)
敷
い
た
箱
を
車
の
上
に
載
せ
て
、
威
勢
よ
く
小
屋
の
内
へ
が
ら
〳
〵
と
引
き
こ
ん
だ
。
﹃
十
二
貫
五
百
。
﹄
と
い
ふ
声
は
小
屋
の
隅
の
方
に
起
つ
た
。
﹃
十
一
貫
七
百
。
﹄
と
ま
た
。
屠
(
ほ
ふ
)
ら
れ
た
種
牛
の
肉
は
、
今
、
大
き
な
秤
(
は
か
り
)
に
懸
け
ら
れ
る
の
で
あ
る
、
屠
手
の
一
人
が
目
方
を
読
み
上
げ
る
度
に
、
牛
肉
屋
の
亭
主
は
鉛
筆
を
舐
(
な
)
め
て
、
其
を
手
帳
へ
書
留
め
た
。
や
が
て
其
日
の
立
会
も
済
み
、
持
主
に
も
別
れ
を
告
げ
、
人
々
と
一
緒
に
斯
の
屠
牛
場
か
ら
引
取
ら
う
と
し
た
時
、
も
う
一
度
丑
松
は
小
屋
の
方
を
振
返
つ
て
見
た
。
屠
手
の
あ
る
も
の
は
残
物
の
臓
腑
を
取
片
付
け
る
、
あ
る
も
の
は
手
(
て
を
)
桶
(
け
)
に
足
を
突
込
ん
で
牛
の
血
潮
を
洗
ひ
落
す
、
種
牛
の
片
股
は
未
(
ま
)
だ
釣
る
さ
れ
た
儘
で
、
黄
な
膏
(
あ
ぶ
ら
)
と
白
い
脂
肪
と
が
日
の
光
を
帯
び
て
居
た
。
其
時
は
最
早
あ
の
可
(
い
た
)
傷
(
ま
)
し
い
回
(
お
も
)
想
(
ひ
で
)
の
断
片
と
い
ふ
感
(
か
ん
)
想
(
じ
)
も
起
ら
な
か
つ
た
。
唯
大
き
な
牛
肉
の
塊
と
し
か
見
え
な
か
つ
た
。