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ロマン・ローラン 豊島与志雄訳 ジャン・クリストフ
ジャン・クリストフ
ロマン・ローラン
豊島与志雄訳
前がき
﹃ジャン・クリストフ﹄の作(さく)者(しゃ)ロマン・ローランは、西(せい)暦(れき)千八百六十六年(ねん)フランスに生(う)まれて、現(げん)在(ざい)ではスウィスの山(さん)間(かん)に住(す)んでいます。純(じゅ)粋(んすい)のフランス人(じん)の血(ち)すじをうけた人(ひと)で、するどい知(ちり)力(ょく)をもっています。世(せか)界(いじ)中(ゅう)の人(ひと)々(びと)がみなお互(たがい)に愛(あい)しあい、そして力(ちか)強(らづよ)く生(い)きてゆくこと、それが彼(かれ)の理(りそ)想(う)であり、そして彼(かれ)はいつも平(へい)和(わ)と自(じゆ)由(う)と民(みん)衆(しゅう)との味(みか)方(た)であります。
これまでの彼(かれ)の仕(しご)事(と)は、いろいろな方(ほう)面(めん)にわたっています。第(だい)一に、五つの小(しょ)説(うせつ)があり、そのなかで﹃ジャン・クリストフ﹄は、いちばん長(なが)いもので、そしていちばん有(ゆう)名(めい)です。ここに掲(かか)げたのはその中(うち)の一節(せつ)です。第(だい)二に、十あまりの戯(ぎき)曲(ょく)があり、そのなかで、フランス革(かく)命(めい)についてのものと信(しん)仰(こう)についてのものとが、重(おも)なものです。第(だい)三に、十ばかりの偉(いじ)人(ん)の伝(でん)記(き)があり、そのなかで、ベートーヴェンとミケランゼロとトルストイとの三つの伝(でん)記(き)は、もっとも有(ゆう)名(めい)です。第(だい)四に、音(おん)楽(がく)や文(ぶん)学(がく)や社(しゃ)会(かい)問(もん)題(だい)やそのほかにいろいろなものについて多(おお)くの評(ひょ)論(うろん)があります。
彼(かれ)はいま、スウィスの田(いな)舎(か)に静(しず)かな生(せい)活(かつ)をしながら、仕(しご)事(と)をしつづけています。そして人(にん)間(げん)はどういう風(ふう)に生(い)きてゆくべきかということについて、考(かんが)えつづけています。︵訳者︶
クリストフがいる小さな町(まち)を、ある晩、流(りゅ)星(うせい)のように通りすぎていったえらい音(おん)楽(がく)家(か)は、クリストフの精(せい)神(しん)にきっぱりした影(えい)響(きょう)を与えた。幼(よう)年(ねん)時(じだ)代(い)を通じて、その音楽家の面(おも)影(かげ)は生きた手(てほ)本(ん)となり、彼(かれ)はその上(うえ)に眼(め)をすえていた。わずか六歳の少(しょ)年(うねん)たる彼が、自分もまた楽曲を作ってみようと決(けっ)心(しん)したのは、この手本に基(もとづ)いてであった。だがほんとうのことをいえば、彼(かれ)はもうずいぶん前から、知(し)らず知(し)らずに作(さっ)曲(きょく)していた。彼が作曲し始(はじ)めたのは、作曲していると自(じぶ)分(ん)で知るよりも前(まえ)のことだったのである。
音(おん)楽(がく)家(か)の心にとっては、すべてが音(おん)楽(がく)である。ふるえ、ゆらぎ、はためくすべてのもの、照(て)りわたった夏(なつ)の日、風の夜、流(なが)れる光、星のきらめき、雨(あめ)風(かぜ)、小(こと)鳥(り)の歌、虫の羽(はお)音(と)、樹(き)々(ぎ)のそよぎ、好(この)ましい声(こえ)やいとわしい声、ふだん聞(き)きなれている、炉(ろ)の音(おと)、戸の音、夜の静(しず)けさのうちに動(どう)脈(みゃく)をふくらます血(けつ)液(えき)の音、ありとあらゆるものが、みな音(おん)楽(がく)である。ただそれを聞きさえすればいいのだ。ありとあらゆるものが奏(かな)でるそういう音(おん)楽(がく)は、すべてクリストフのうちに鳴(な)りひびいていた。彼(かれ)が見(み)たり感(かん)じたりするあらゆるものは、みな音(おん)楽(がく)に変(か)わっていた。彼(かれ)はちょうど、そうぞうしい蜂(はち)の巣(す)のようだった。しかし誰(たれ)もそれに気づかなかった。彼(かれ)自(じし)身(ん)も気(き)づかなかった。
どの子(こど)供(も)でもするように、彼もたえず小(こご)声(え)で歌(うた)っていた。どんな時(とき)でも、どういうことをしてる時でも、たとえば片(かた)足(あし)でとびながら往(おう)来(らい)を歩きまわっている時でも――祖(そ)父(ふ)の家の床(ゆか)にねころがり、両(りょ)手(うて)で頭を抱(かか)えて書(しょ)物(もつ)の挿(さし)絵(え)に見入っている時でも――台(だい)所(どころ)のいちばんうす暗い片(かた)隅(すみ)で、自分の小さな椅(い)子(す)に坐(すわ)って、夜になりかかっているのに、何(なに)を考えるともなくぼんやり夢(むそ)想(う)している時でも――彼はいつも、口(くち)を閉(と)じ、頬(ほほ)をふくらし、唇(くちびる)をふるわして、つぶやくような単(たん)調(ちょう)な音(おと)をもらしていた。幾(いく)時(じか)間(ん)たっても彼はあきなかった。母(はは)はそれを気にもとめなかったが、やがて、たまらなくなって、ふいに叱(しか)りつけるのだった。
その半(なか)ば夢(ゆめ)心(ごこ)地(ち)の状(じょ)態(うたい)にあきてくると、彼は動(うご)きまわって音(おと)をたてたくてたまらなくなった。そういう時には、楽(がっ)曲(きょく)を作(つく)り出して、それをあらん限(かぎ)りの声(こえ)で歌った。自分の生(せい)活(かつ)のいろんな場(ばあ)合(い)にあてはまる音楽をそれぞれこしらえていた。朝、家(あひ)鴨(る)の子のように盥(たらい)の中をかきまわす時の音(おん)楽(がく)もあったし、ピアノの前の腰(こし)掛(かけ)に上って、いやな稽(けい)古(こ)をする時の音楽も――またその腰(こし)掛(かけ)から下る時の特(とく)別(べつ)な音(おん)楽(がく)もあった。︵この時の音(おん)楽(がく)はひときわ輝(かがや)かしいものだった。︶それから、母(はは)が食(しょ)卓(くたく)に食物を運ぶ時の音(おん)楽(がく)もあった――その時、彼は喇(らっ)叭(ぱ)の音で彼女をせきたてるのだった。――食堂から寝(しん)室(しつ)に厳(おごそ)かにやっていく時には、元(げん)気(き)のいい行(マ)進(ー)曲(チ)を奏(そう)した。時によっては、二(ふた)人(り)の弟(おとうと)といっしょに行(ぎょ)列(うれつ)をつくった。三人は順(じゅ)々(んじゅん)にならんで、威(い)ばってねり歩(ある)き、めいめい自分の行(マ)進(ー)曲(チ)をもっていた。もちろん、いちばん立(りっ)派(ぱ)なのがクリストフのものだった。そういう多くの音(おん)楽(がく)は、みなぴったりとそれぞれの場(ばあ)合(い)にあてはまっていた。クリストフは決(けっ)してそれを混(こん)同(どう)したりしなかった。ほかの人なら誰(たれ)だって、まちがえるかも知(し)れなかった。しかし彼は、はっきりと音(ねい)色(ろ)を区(くべ)別(つ)していた。
ある日、彼は祖(そ)父(ふ)の家(いえ)で、そりくりかえって腹(はら)をつき出(だ)し、踵(かかと)で調(ちょ)子(うし)をとりながら、部(へ)屋(や)の中をぐるぐるまわっていた。自分で作(つく)った歌(うた)をやってみながら、気(きも)持(ち)が悪(わる)くなるほどいつまでもまわっていた。祖(そ)父(ふ)はひげをそっていたが、その手(て)をやすめて、しゃぼんだらけな顔をつき出(だ)し、彼の方を眺(なが)めていった。
﹁何(なに)を歌ってるんだい。﹂
クリストフは知(し)らないと答えた。
﹁もう一度(ど)やってごらん。﹂と祖(そ)父(ふ)はいった。
クリストフはやってみた。だが、どうしてもさっきの節(ふし)が思い出せなかった。でも、祖(そ)父(ふ)から注(ちゅ)意(うい)されてるのに得(とく)意(い)になり、自分のいい声をほめてもらおうと思って、オペラのむずかしい節(ふし)を自(じこ)己(りゅ)流(う)にうたった。しかし祖(そ)父(ふ)が聞(き)きたいと思ってるのは、そんなものではなかった。祖(そ)父(ふ)は口をつぐんで、もうクリストフに取りあわない風(ふう)をした。それでもやはり、子(こど)供(も)が隣(となり)の部(へ)屋(や)で遊んでいる間、部(へ)屋(や)の戸を半(はん)分(ぶん)開(あけ)放(はな)しにしておいた。
それから数(すう)日(じつ)後(ご)のこと、クリストフは自分のまわりに椅(い)子(す)をまるくならべて芝(しば)居(い)へいった時のきれぎれな思(おも)い出(で)をつなぎあわせて作った音(おん)楽(がく)劇(げき)を演(えん)じていた。まじめくさった様子で、芝(しば)居(い)で見た通り、三(ミニ)拍(ュエ)子(ッ)曲(ト)の節(ふし)にあわせて、テーブルの上(うえ)にかかっているベートーヴェンの肖(しょ)像(うぞう)に向かい、ダンスの足どりや敬(けい)礼(れい)をやっていた。そして爪(つま)先(さき)でぐるっとまわって、ふりむくと、半(はん)開(びら)きの扉(ドア)の間(あいだ)から、こちらを見ている祖(そ)父(ふ)の顔が見えた。祖父に笑われてるような気(き)がした。たいへんきまりが悪(わる)くなって、ぴたりと遊(あそ)びを止(や)めてしまった。そして窓のところへ走っていき、ガラスに顔を押(お)しあてて、何かを夢(むち)中(ゅう)で眺(なが)めてるような風(ふう)をした。しかし、祖(そ)父(ふ)は何ともいわないで、彼の方へやって来て抱(だ)いてくれた。クリストフには祖(そ)父(ふ)が満(まん)足(ぞく)しているのがよくわかった。彼は小さな自(じそ)尊(んし)心(ん)から、そういう好(こう)意(い)がうれしかった。そしてかなり機(きび)敏(ん)だったので、自(じぶ)分(ん)がほめられたのをさとった。けれども、祖(そ)父(ふ)が自分のうちの何を一番ほめたのか、それがよくわからなかった。戯(ぎき)曲(ょく)家(か)としての才(さい)能(のう)か、音楽家としての才(さい)能(のう)か、歌い手としての才能か、または舞(ぶよ)踊(う)家(か)としての才能か。彼はそのいちばんおしまいのものだと思いたかった。なぜなら、それを立(りっ)派(ぱ)な才(さい)能(のう)だと思っていたから。
それから一週(しゅ)間(うかん)たって、クリストフがそのことをすっかり忘(わす)れてしまった頃、祖(そ)父(ふ)はもったいぶった様(よう)子(す)で、彼に見せるものがあるといった。そして机(つくえ)をあけて、中から一冊(さつ)の楽(がく)譜(ふち)帖(ょう)をとり出し、ピアノの楽(がく)譜(ふだ)台(い)にのせて、弾(ひ)いてごらんといった。クリストフは大変困ったが、どうかこうか読み解(と)いていった。その楽(がく)譜(ふ)は、老(ろう)人(じん)の太い書(しょ)体(たい)で特別に念(ねん)をいれて書いてあった。最(さい)初(しょ)のところには輪や花(はな)形(がた)の飾(かざり)がついていた。――祖父はクリストフのそばに坐(すわ)ってページをめくってやっていたが、やがて、それは何の音(おん)楽(がく)かと尋(たず)ねた。クリストフは弾(ひ)くのに夢(むち)中(ゅう)になっていて、何を弾(ひ)いてるのやらさっぱりわからなかったので、知らないと答(こた)えた。
﹁気(き)をつけてごらん。それがわからないかね。﹂
そうだ、たしかに知っていると彼は思った。しかし、どこで聞いたのかわからなかった。……祖(そ)父(ふ)は笑っていた。
﹁考(かんが)えてごらん。﹂
クリストフは頭(あたま)をふった。
﹁わからないよ。﹂
ほんとうをいえば、思(おも)いあたることがあるのだった。どうもこの節は……という気(き)がした。だがそうだとは、いいきれなかった……いいたくなかった。
﹁お祖(じ)父(い)さん、わからないよ。﹂
彼は顔を赤(あか)らめた。
﹁ばかな子だね。自(じぶ)分(ん)のだということがわからないのかい。﹂
たしかにそうだとは思っていた。けれどはっきりそうだと聞(き)くと、はっとした。
﹁ああ、お祖(じ)父(い)さん。﹂
老(ろう)人(じん)は顔を輝(かがや)かしながら、クリストフにその楽(がく)譜(ふ)を説(せつ)明(めい)してやった。
﹁これは詠(ア)唱(リ)曲(ア)だ。火(かよ)曜(う)日(び)にお前が床にねころんでうたっていたあれだ。それから、行(マ)進(ー)曲(チ)。先(せん)週(しゅう)だったね、もう一度やってごらんといっても、思(おも)いだせなかったろう、あれだ。それから三(ミニ)拍(ュエ)子(ッ)曲(ト)。肱(ひじ)掛(かけ)椅(い)子(す)の前で踊っていた時の歌だ。……みてごらん。﹂
表紙には、見事な花(はな)文(も)字(じ)で、こう書いてあった。
少年時代の快(かい)楽(らく)――詠(ア)唱(リ)曲(ア)、三(ミニ)拍(ュエ)子(ッ)曲(ト)、円(ワ)舞(ル)曲(ツ)、行(マ)進(ー)曲(チ)。ジャン・クリストフ・クラフト作(さく)品(ひん)。
クリストフは目(め)がくらむような気がした。自(じぶ)分(ん)の名前、立(りっ)派(ぱ)な表(ひょ)題(うだい)、大きな帖(ちょ)面(うめん)、自分の作(さく)品(ひん)! これがそうなんだ。……彼はまだよく口がきけなかった。
﹁ああ、お祖(じ)父(い)さん! お祖(じ)父(い)さん!……﹂
老(ろう)人(じん)は彼を引(ひき)寄(よ)せた。クリストフはその膝(ひざ)に身(から)体(だ)を投(な)げかけ、その胸(むね)に顔をかくした。彼は嬉(うれ)しくて真(まっ)赤(か)になっていた。老(ろう)人(じん)は子供よりもっと嬉(うれ)しかったが、わざと平(へい)気(き)な声で――感(かん)動(どう)しかかってることに自(じぶ)分(ん)でも気づいていたから――いった。
﹁もちろん、お祖(じ)父(い)さんが伴(ばん)奏(そう)をつけたし、また歌の調(ちょ)子(うし)に和(ハー)声(モニー)を入れておいた。それから……︵彼は咳(せき)をした︶……それから、三(ミニ)拍(ュエ)子(ッ)曲(ト)に中(ト)間(リ)奏(オ)部をそえた。なぜって……なぜって、そういう習(しゅ)慣(うかん)だからね。それに……とにかく、悪くなったとは思(おも)わないよ。﹂
老人はその曲(きょく)を弾(ひ)いた。――クリストフは祖(そ)父(ふ)と一しょに作(さっ)曲(きょく)したことが、ひどく得(とく)意(い)だった。
﹁でも、お祖(じ)父(い)さん、お祖父さんの名(なま)前(え)も入れなきゃいけないよ。﹂
﹁それには及ばないさ。お前(まえ)よりほかの人に知らせる必(ひつ)要(よう)はない。ただ……︵ここで彼の声はふるえた︶……ただ、あとで、お祖(じ)父(い)さんがもういなくなった時、お前はこれを見て、年とったお祖(じ)父(い)さんのことを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖(じ)父(い)さんを忘(わす)れやしないね。﹂
憐(あわ)れな老(ろう)人(じん)は思ってることをすっかりいえなかった。彼(かれ)は、自分よりも長い生(いの)命(ち)があるに違(ちが)いないと感じた孫(まご)の作(さく)品(ひん)の中に、自分のまずい一(ひと)節(ふし)をはさみ込むという、きわめて罪(つみ)のない楽(たの)しみを、おさえることができなかったのである。けれども、今から想(そう)像(ぞう)される孫(まご)の光(こう)栄(えい)に一しょに加わりたいというその願(ねが)いは、ごくつつましい哀(あわ)れなものだった。彼は自分が全(まった)く死にうせてしまわないようにと、自分の思(しそ)想(う)の一(いっ)片(ぺん)を自分の名もつけずに残しておくだけで、満(まん)足(ぞく)していたのである。――クリストフは、ひどく感(かん)動(どう)して、老(ろう)人(じん)の顔にやたらに接(せっ)吻(ぷん)した。老人はさらに心を動かされて、彼の頭(あたま)を抱きしめた。
﹁ねえ、思(おも)い出(だ)してくれるね。これから、お前が立(りっ)派(ぱ)な音(おん)楽(がく)家(か)になり、えらい芸(げい)術(じゅ)家(つか)になって、一家の光(こう)栄(えい)、芸術の光栄、祖(そこ)国(く)の光(こう)栄(えい)となった時、お前が有名になった時、その時になって、思い出してくれるだろうね、お前(まえ)を最(さい)初(しょ)に見出し、お前の将(しょ)来(うらい)を予(よげ)言(ん)したのは、この年(とし)とったお祖(じ)父(い)さんだったということをね……﹂
その日(ひ)以(いら)来(い)、クリストフはもう作(さっ)曲(きょ)家(くか)になったのだったから、作(さっ)曲(きょく)にとりかかった。まだ字(じ)を書(か)くことさえよく出(で)来(き)ないうちから、家(かけ)計(い)簿(ぼ)の紙(かみ)をちぎりとっては、いろいろな音(おん)符(ぷ)を一生(しょ)懸(うけ)命(んめい)書(か)きちらした。けれども、自(じぶ)分(ん)がどんなことを考えているかそれを知(し)るために、そしてそれをはっきり書(か)きあらわすために、あまり骨(ほね)折(お)っていたので、ついには、何か考(かんが)えてみようとするだけで、もう何も考えなくなってしまった。それでも彼は、やはり楽(がっ)句(く)︵楽曲の一節︶を組みたてようとりきんでいた。そして音楽の天(てん)分(ぶん)がゆたかだったので、まだ何の意(い)味(み)も持たないものではあったけれど、ともかくも楽(がっ)句(く)をこしらえ上げることができた。すると彼は喜び勇(いさ)んで、それを祖(そ)父(ふ)のところへ持っていった。祖(そ)父(ふ)は嬉(うれ)し涙をながし――彼はもう年をとっていたので涙(なみだ)もろかった――そして、素(す)晴(ば)らしいものだといってくれた。
そんなふうに、彼はすっかり甘(あま)やかされてだめになるところだった。しかし幸(さいわい)なことに、彼は生(う)まれつき賢(かしこ)い性(せい)質(しつ)だったので、ある一人の男のよい影(えい)響(きょう)をうけて救(すく)われた。その男というのは、ほかの人に影(えい)響(きょう)を与(あた)えるなどとは自分でも思っていなかったし、誰(たれ)が見(み)ても平(へい)凡(ぼん)な人(にん)間(げん)だった。――それはクリストフの母(はは)親(おや)ルイザの兄だった。
彼はルイザと同(おな)じように小(こが)柄(ら)で、痩(や)せていて、貧(ひん)弱(じゃく)で、少し猫(ねこ)背(ぜ)だった。年(とし)のほどはよくわからなかった。四十をこしている筈(はず)はなかったが、見たところでは五十以(いじ)上(ょう)に思われた。皺(しわ)のよった小さな顔は赤みがかって、人のよさそうな青(あお)い眼(め)が色(いろ)のさめかけた瑠(るり)璃(そ)草(う)のような色(いろ)合(あい)だった。隙(すき)間(まか)風(ぜ)がきらいで、どこででも寒(さむ)そうに帽(ぼう)子(し)をかぶっていたが、その帽子をぬぐと、円(えん)錐(すい)形(けい)の赤い小さな禿(はげ)頭(あたま)があらわれた。クリストフと弟(おとうと)たちはそれを面(おも)白(しろ)がった。髪(かみ)の毛はどうしたのと聞いてみたり、父(ちち)親(おや)メルキオルの露(ろこ)骨(つ)な常(じょ)談(うだん)におだてられて、禿(はげ)をたたくぞとおどしたりして、いつもそのことで彼(かれ)をからかってあきなかった。すると小(お)父(じ)はまっさきに笑(わら)いだし、されるままになって少しも怒(おこ)らなかった。彼はちっぽけな行(ぎょ)商(うし)人(ょうにん)だった。香(こう)料(りょう)、紙類、砂(さと)糖(う)菓(が)子(し)、ハンケチ、襟(えり)巻(まき)、履(はき)物(もの)、缶(かん)詰(づめ)、暦(こよみ)、小唄集、薬類など、いろんなもののはいってる大きな梱(こり)を背(せ)負(お)って、村から村へと渡(わた)り歩(ある)いていた。家の人たちは何(なん)度(ど)も、雑(ざっ)貨(か)屋(や)や小(こま)間(も)物(の)屋(や)などの小さな店を買(か)ってやって、そこにおちつくようにすすめたことがあった。しかし彼(かれ)は腰(こし)をすえることが出来なかった。夜(よな)中(か)に起(おき)上(あが)って、戸の下に鍵(かぎ)をおき、梱(こり)をかついで出ていってしまうのだった。そして幾(いく)月(つき)も姿(すがた)を見せなかった。それからまた戻(もど)ってきた。夕(ゆう)方(がた)、誰かが戸にさわる音(おと)がする。そして戸が少しあいて、行(ぎょ)儀(うぎ)よく帽(ぼう)子(し)をとった小さな禿(はげ)頭(あたま)が、人のいい目つきとおずおずした微(びし)笑(ょう)と共にあらわれるのだった。﹁皆さん、今晩は。﹂と彼(かれ)はいった。はいる前によく靴(くつ)をふき、みんなに一(ひと)人(りひ)一(と)人(り)年(とし)の順に挨(あい)拶(さつ)をし、それから部(へ)屋(や)のいちばん末(まつ)座(ざ)にいって坐った。そこで彼はパイプに火をつけ、背(せ)をかがめて、いつものひどい悪(わる)洒(じゃ)落(れ)がすむのを、静かに待(ま)つのであった。クリストフの祖(そ)父(ふ)と父は、彼を嘲(あざけ)りぎみに軽(けい)蔑(べつ)していた。そのちっぽけな男がおかしく思(おも)われたし、行(ぎょ)商(うし)人(ょうにん)という賤(いや)しい身分に自(じそ)尊(んし)心(ん)を傷(きず)つけられるのだった。彼(かれ)等(ら)はそのことをあからさまに見せつけたが、彼は気づかない様(よう)子(す)で、彼等に深い敬(けい)意(い)をしめしていた。そのため、二人の気(きも)持(ち)はいくらか和(やわら)いだ。ひとから尊(そん)敬(けい)されるとそれに感じ易い老(ろう)人(じん)の方は、殊(こと)にそうだった。二人はルイザがそばで顔を真(まっ)赤(か)にするほどひどい常(じょ)談(うだん)を浴(あび)せかけて、それで満(まん)足(ぞく)した。ルイザはクラフト家の人たちの優(すぐ)れていることを文(もん)句(く)なしにいつも認(みと)めていたから、夫(おっと)と舅(しゅうと)が間(まち)違(が)っているなどとは夢(ゆめ)にも思っていなかった。しかし、彼(かの)女(じょ)は兄をやさしく愛していたし、兄も口には出さないが彼女を大(たい)切(せつ)にしていた。彼等は二(ふた)人(り)きりでほかに身(みよ)寄(り)の者(もの)もなかった。二(ふた)人(り)とも生活のためにひどく苦(くろ)労(う)して、やつれはてていた。人(ひと)知(し)れず忍(しの)んできた同じような苦(くる)しみとお互(たがい)の憐(あわ)れみの気(きも)持(ち)とが、悲しいやさしみをもって二人を結(むす)びつけていた。生(い)きるように、楽しく生きるように頑(がん)固(こ)に出来上ってる、丈(じょ)夫(うぶ)な騒(そう)々(ぞう)しい荒(あら)っぽいクラフト家(け)の人たちの間にあって、いわば人生の外(そと)側(がわ)か端(はし)っこにうち捨てられてるこの弱い善(ぜん)良(りょう)な二(ふた)人(り)は、今までお互に一言(こと)も口には出(だ)さなかったが、互(たがい)に理(りか)解(い)しあい憐(あわ)れみあっていた。
クリストフは子(こど)供(も)によく見られる思いやりのない軽(けい)率(そつ)さで、父や祖(そ)父(ふ)の真(ま)似(ね)をして、この小さい行(ぎょ)商(うし)人(ょうにん)をばかにしていた。おかしな玩(がん)具(ぐ)かなんかのように彼を面白がったり、悪(わる)ふざけをしてからかったりした。それを小(お)父(じ)︵小さい行商人︶はおちつき払って我(がま)慢(ん)していた。でもクリストフは、知らず知らずに彼を好(す)いてるのだった。第一に、思うままになるおとなしい玩(がん)具(ぐ)として、彼が好(す)きだった。それからまた、いつも待(ま)ちがいのあるいいもの、菓(か)子(し)とか絵(え)とか珍(めず)らしい玩具などを持って来(き)てくれるから、好(す)きだった。この小さい男が戻(もど)って来(く)ると、思いがけなく何(なに)か貰(もら)えるので、子供たちはうれしがった。彼は貧(びん)乏(ぼう)だったけれど、どうにか工(くめ)面(ん)して一(ひと)人(りび)一(と)人(り)に土(みや)産(げも)物(の)を持って来(き)てくれた。また彼は家の人たちの祝(いわ)い日を一度(ど)も忘(わす)れることがなかった。誰(だれ)かの祝(いわ)い日になると、きっとやってきて、心をこめて選(えら)んだかわいい贈(おく)物(りもの)をポケットからとりだした。誰(だれ)もお礼をいうのを忘(わす)れるほどそれに馴(な)れきっていた。彼の方(ほう)では、贈(おく)物(りもの)をすることがうれしくて、それだけでもう満(まん)足(ぞく)してるらしかった。けれど、クリストフはいつも夜(よる)よく眠れないで、夜の間に昼(ひる)間(ま)の出(でき)来(ご)事(と)を思いかえしてみる癖(くせ)があって、そんな時に、小(お)父(じ)はたいへん親(しん)切(せつ)な人だと考え、その憐(あわ)れな人に対する感(かん)謝(しゃ)の気(きも)持(ち)がこみ上げて来(く)るのだった。しかし昼(ひる)になると、また彼をばかにすることばかり考えて、感(かん)謝(しゃ)の様子などは少(すこ)しも見せなかった。その上、クリストフはまだ小(ちい)さかったので、善(ぜん)良(りょう)であるということの価(か)値(ち)が十分にわからなかった。子(こど)供(も)の頭(あたま)には、善良と馬鹿とは、だいたい同じ意(い)味(み)の言葉と思(おも)われるものである。小(お)父(じ)のゴットフリートは、その生(い)きた証(しょ)拠(うこ)のようだった。
ある晩(ばん)、クリストフの父が夕食をたべに町に出(で)かけた時、ゴットフリートは下の広(ひろ)間(ま)に一人残っていたが、ルイザが二(ふた)人(り)の子(こど)供(も)をねかしている間(あいだ)に、外に出(で)てゆき、少し先の河(か)岸(し)にいって坐(すわ)った。クリストフはほかにすることもなかったので、あとからついていった。そしていつもの通り、子(こい)犬(ぬ)のようにじゃれついていじめた揚(あげ)句(く)、とうとう息(いき)を切(き)らして、小(お)父(じ)の足もとの草(くさ)の上にねころんだ。腹(はら)ばいになって芝(しば)生(ふ)に顔をうずめた。息切れがとまると、また何(なに)か悪(わる)口(くち)をいってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地(じべ)面(た)に埋(うず)めたまま、笑(わら)いこけながら大(おお)声(ごえ)でそれをいってやった。けれど何(なん)の返事もなかった。それでびっくりして顔(かお)を上(あ)げ、もう一度(ど)そのおかしな常(じょ)談(うだん)をいってやろうとした。すると、ゴットフリートの顔(かお)が目の前にあった。その顔は、金(こん)色(じき)の靄(もや)のなかに沈(しず)んでゆく夕(ゆう)日(ひ)の残りの光(ひかり)に照らされていた。クリストフの言葉は喉(のど)もとにつかえた。ゴットフリートは目を半(なか)ばとじ、口を少しあけて、ぼんやり微(ほほ)笑(え)んでいた。そのなやましげな顔には、何(なん)ともいえぬ誠(せい)実(じつ)さが見えていた。クリストフは頬(ほお)杖(づえ)をついて、彼を見(みま)守(も)りはじめた。もう夜(よる)になりかかっていた。ゴットフリートの顔(かお)は少しずつ消(き)えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔にうかんでる神(しん)秘(ぴて)的(き)な感じに、クリストフも引きこまれていった。地(じめ)面(ん)は影(かげ)におおわれており、空(そら)はあかるかった。星(ほし)がきらめきだしていた。河の小(さざ)波(なみ)が岸(きし)にひたひた音をたてていた。クリストフは気(き)がぼうとして来(き)た。目にも見ないで、草の小さな茎(くき)をかみきっていた。蟋(こお)蟀(ろぎ)が一匹(ぴき)そばで鳴いていた。彼(かれ)は眠(ねむ)りかけてるような気(きも)持(ち)だった。
と突(とつ)然(ぜん)、暗(くら)いなかで、ゴットフリートが歌(うた)いだした。胸(むね)の中で響(ひび)くようなおぼろな弱(よわ)い声(こえ)だった。少しはなれてたら、聞(き)きとれなかったかも知れない。しかしその声には、人の心を打(う)つ誠(まこと)がこもっていた。声に出(だ)して考(かんが)えているのかと思えるほどだった。ちょうど透(す)きとおった水を通(とお)して見るように、その音(おん)楽(がく)を通(とお)して彼の心の奥(おく)底(そこ)までも読(よ)みとられそうだった。クリストフはこれまで、そんな風(ふう)な歌い方(かた)をきいたことがなかった。またそんな歌(うた)を聞(き)いたこともなかった。ゆるやかな単(たん)純(じゅん)な幼(よう)稚(ち)な歌で、重々しい寂(さび)しげな、そして少し単(たん)調(ちょう)な足どりで、決して急(いそ)がずに進んでゆく――時々長い間やすんで――それからまた行(ゆく)方(え)もかまわず進み出(だ)し、夜のうちに消(き)えていった。ごく遠いところからやって来(く)るようでもあるし、どこへ行(ゆ)くのかわからなくもあった。朗(ほがら)かではあるが、なやましいものがこもっていた。表(うわ)面(べ)は平和だったが、下には長い年(とし)月(つき)のなやみがひそんでいた。クリストフはもう息(いき)もつかず、身(から)体(だ)を動かすことも出(で)来(き)ないで、感動のあまり冷(つめ)たくなっていた。歌が終わると、彼はゴットフリートの方(ほう)へはい寄(よ)った。そして喉(のど)をつまらした声でいいかけた。
﹁小(お)父(じ)さん!……﹂
ゴットフリートは返(へん)事(じ)をしなかった。
﹁小(お)父(じ)さん!﹂とクリストフはくりかえして、両手と顎(あご)を彼の膝(ひざ)にのせた。
ゴットフリートはやさしい声でいった。
﹁何(なん)だい……﹂
﹁それ何(なん)なの、小(お)父(じ)さん。教(おし)えてよ。小父さんが歌ったのなあに?﹂
﹁知らないね。﹂
﹁何(なん)だか教えとくれよ。﹂
﹁知らないよ。歌だよ。﹂
﹁小(お)父(じ)さんの歌かい。﹂
﹁おれのなもんか、ばかな……古い歌だよ。﹂
﹁誰(だれ)がつくったの?﹂
﹁わからないね。﹂
﹁いつ出来たの?﹂
﹁わからないね。﹂
﹁小(お)父(じ)さんの小さい時(じぶ)分(ん)にかい?﹂
﹁おれが生(う)まれる前(まえ)だ。おれのお父(とう)さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのそのまたお父さんが生まれる前だ……。この歌(うた)はいつでもあったんだよ。﹂
﹁変(へん)だね! 誰(だれ)にもそんなこと聞いたことがないよ。﹂
彼(かれ)はちょっと考えた。
﹁小(お)父(じ)さん、まだほかのを知ってる?﹂
﹁ああ。﹂
﹁もう一つ歌って。﹂
﹁なぜもう一つ歌うんだい? 一つで沢(たく)山(さん)だよ。歌いたい時に、歌わなくちゃならない時に、歌うものなんだ。面(おも)白(しろ)半(はん)分(ぶん)に歌っちゃいけない。﹂
﹁でも、音(おん)楽(がく)をつくる時はどうなの?﹂
﹁これは音楽じゃないよ。﹂
子(こど)供(も)は考えこんだ。よくわからなかった。けれど説(せつ)明(めい)してもらわなくてもよかった。なるほど、それは音(おん)楽(がく)ではなかった。普(ふつ)通(う)の歌みたいに音楽ではなかった。彼はいった。
﹁小(お)父(じ)さん、小父さんはつくったことある?﹂
﹁何をさ。﹂
﹁歌を。﹂
﹁歌? どうして歌をつくるのさ。歌はつくるものじゃないよ。﹂
子(こど)供(も)はいつもの論(ろん)法(ぽう)でいいはった。
﹁でも、小(お)父(じ)さん、一度(ど)は誰(だれ)かがつくったにちがいないよ。﹂
ゴットフリートは頑(がん)として頭を振(ふ)った。
﹁いつでもあったんだ。﹂
子供はいい進(すす)んだ。
﹁だって、小(お)父(じ)さん、ほかの歌を、新しい歌を、つくることは出(で)来(き)るんじゃないか。﹂
﹁なぜつくるんだ。もうどんなのでもあるんだ。悲(かな)しい時のもあれば、嬉(うれ)しい時のもある。疲(つか)れた時のもあれば、遠い家(いえ)のことを思う時のもある。自分がいやしい罪(つみ)人(びと)だったからといって、まるで虫(むし)けらみたいなものだったからといって、自(じぶ)分(ん)の身がつくづくいやになった時のもある。ほかの人が親(しん)切(せつ)にしてくれなかったからといって、泣(な)きたくなった時のもある。天気がよくて、いつも親切に笑(わら)いかけて下さる神(かみ)様(さま)のような大(おお)空(ぞら)が見えるからといって、楽しくなった時のもある。……どんなのでも、どんなのでもあるんだよ。何(なん)でほかのをつくる必(ひつ)要(よう)があるものか。﹂
﹁偉(えら)い人になるためにさ……﹂と子(こど)供(も)はいった。彼の頭は、祖(そ)父(ふ)の教(おしえ)と子供らしい夢(ゆめ)とで一ぱいになっていた。
ゴットフリートは穏(おだや)かに笑(わら)った。クリストフは少しむっとして尋(たず)ねた。
﹁なぜ笑(わら)うんだい!﹂
ゴットフリートはいった。
﹁ああ、おれは、おれはつまらない人間さ。﹂
そして子(こど)供(も)の頭をやさしく撫(な)でながらきいた。
﹁お前は、偉(えら)い人になりたいんだね?﹂
﹁そうだよ。﹂とクリストフは得(とく)意(い)げに答えた。
彼はゴットフリートがほめてくれるだろうと思っていた。しかしゴットフリートはきき返した。
﹁何(なん)のためにだい?﹂
クリストフはまごついた。そして、ちょっと考(かんが)えてからいった。
﹁立(りっ)派(ぱ)な歌をつくるためだよ。﹂
ゴットフリートはまた笑(わら)った。そしていった。
﹁偉(えら)い人になるために歌(うた)をつくりたいんだね。そして、歌をつくるために偉い人になりたいんだね。それじゃあ、尻(しっ)尾(ぽ)を追(お)っかけてぐるぐるまわってる犬(いぬ)みたいだ。﹂
クリストフはひどく気(き)にさわった。ほかの時だったら、いつもばかにしている小(お)父(じ)からあべこべにばかにされるなんて、我(がま)慢(ん)が出来なかったかもしれない。それにまた理(りく)窟(つ)で自分をやりこめるほどゴットフリートが利(りこ)口(う)だなどとは、思いもよらないことだった。彼(かれ)はやり返してやる議(ぎろ)論(ん)か悪(あっ)口(こう)を考えたが、思いあたらなかった。ゴットフリートは続(つづ)けていった。
﹁もしお前が、ここからコブレンツまであるほど大きな人(じん)物(ぶつ)になったところで、たった一つの歌もつくれやすまい。﹂
クリストフはむっとした。
﹁つくろうと思(おも)っても……﹂
﹁思(おも)えば思うほど出(で)来(き)なくなるんだ。歌をつくるには、あの通りでなくちゃいけない。おききよ……﹂
月は野の向こうに昇(のぼ)って、まるく輝(かがや)いていた。銀(ぎん)色(いろ)の靄(もや)が、地(じめ)面(ん)とすれすれに、また鏡(かがみ)のような水(すい)面(めん)に漂(ただよ)っていた。蛙(かえる)が語りあっていた。牧(まき)場(ば)の中には、美しい調(ちょ)子(うし)の笛(ふえ)のような蟇(がま)のなく声が聞えていた。蟋(こお)蟀(ろぎ)の鋭(するど)い顫(ふる)え声は、星のきらめきに答(こた)えてるかのようだった。風(かぜ)は静(しず)かに榛(はん)の枝(えだ)をそよがしていた。河の向こうの丘からは、鶯(うぐいす)のか弱い歌がひびいてきた。
﹁いったいどんなものを歌う必(ひつ)要(よう)があるのか?﹂ゴットフリートは長い間黙(だま)っていてから、ほっと息(いき)をしていった。――︵自(じぶ)分(ん)に向かっていっているのか、クリストフに向かっていっているのか、よくわからなかった。︶――﹁お前(まえ)がどんな歌(うた)をつくろうと、ああいうものの方(ほう)が一そう立(りっ)派(ぱ)に歌っているじゃないか。﹂
クリストフはこれまで何(なん)度(ど)も、それらの夜(よる)の声を聞いていた。しかしまだこんな風(ふう)に聞いたことはなかった。本(ほん)当(とう)だ、どんなものを歌う必(ひつ)要(よう)があるか?……彼はやさしさと悲(かな)しみで胸(むね)が一ぱいになるのを感(かん)じた。牧(まき)場(ば)を、河を、空を、なつかしい星(ほし)を、胸(むね)に抱(だ)きしめたかった。そして小(お)父(じ)のゴットフリートに対(たい)して、しみじみと愛(あい)情(じょう)を覚(おぼ)えた。もう今は、すべての人のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん賢(かしこ)く、いちばん立(りっ)派(ぱ)に思われた。彼は小(お)父(じ)をどんなに見(みち)違(が)えていたことかと考えた。自(じぶ)分(ん)から見違えられていたために、小父は悲(かな)しんでいるのだと考えた。彼は後(こう)悔(かい)の念(ねん)にうたれた。こう叫(さけ)びたい気がした。﹁小父さん、もう悲しまないでね。もう意(いじ)地(わ)悪(る)はしないよ。許(ゆる)しておくれよ。僕は小(お)父(じ)さんが大好きだ!﹂しかし彼(かれ)はいえなかった。――そしていきなり小(お)父(じ)の腕(うで)の中にとびこんだ。言葉は出(で)なかった。彼はただくり返(かえ)した。﹁僕(ぼく)は小(お)父(じ)さんが好(す)きだ!﹂そして心をこめて抱(だ)きついた。ゴットフリートはびっくりし、感(かん)動(どう)して、﹁何(なん)だ、何だ?﹂とくり返(かえ)しながら、同(おな)じように彼を抱(だ)きしめた。――それから彼(かれ)は立(たち)上(あが)り、子(こど)供(も)の手をとっていった。﹁もう家(うち)へかえろう。﹂クリストフは自(じぶ)分(ん)の気(きも)持(ち)が小(お)父(じ)にはわからなかったのではないかしらと、また悲(かな)しい気持になった。しかし家(うち)のところまで来(く)ると、小父はいった。﹁また晩(ばん)に、お前さえよかったら、一しょに神(かみ)様(さま)の音(おん)楽(がく)をききに行こう。もっとほかの歌(うた)も歌ってあげよう。﹂そしてクリストフは、感(かん)謝(しゃ)の気(きも)持(ち)で一ぱいになって、おやすみの挨(あい)拶(さつ)をしながら、抱(だ)きついた時、小父がよくわかってくれたのを見てとった。
それ以(いら)来(い)、二(ふた)人(り)は夕(ゆう)方(がた)、しばしば一しょに散(さん)歩(ぽ)に出(で)かけた。黙(だま)って歩いて、河に沿(そ)っていったり、野を横(よこ)切(ぎ)ったりした。ゴットフリートはゆっくり煙(たば)草(こ)をすい、クリストフは夕(ゆう)闇(やみ)が怖(こわ)くて、小(お)父(じ)に手をひかれていた。彼(かれ)等(ら)はよく草の上に坐(すわ)った。ゴットフリートはしばらく黙(だま)ってたあとで、星(ほし)や雲(くも)の話(はなし)をしてくれた。土(つち)や空(くう)気(き)や水のいぶき、または闇(やみ)の中にうごめいてる、飛(と)んだりはったり泳(およ)いだりしている小(ちい)さな生(いき)物(もの)の、歌や叫(さけ)びや音、または晴(せい)天(てん)や雨の前(ぜん)兆(ちょう)、または夜(よる)の交(シン)響(フォ)曲(ニー)の数(かぞ)えきれないほどの楽(がっ)器(き)など、それらのものを一々聞きわけることを教えてくれた。時とすると、歌(うた)もうたってくれた。悲(かな)しい節(ふし)の時も楽しい節の時もあったが、しかしいつも同(おな)じような種(しゅ)類(るい)のものだった。そしてクリストフはいつも同じ切(せつ)なさを感(かん)じた。ゴットフリートは一晩(ばん)に一つきり歌わなかった。頼(たの)んでも気(きも)持(ち)よく歌ってはくれないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時に自(しぜ)然(ん)に出(で)てくるのでなくてはだめだった。長い間待(ま)っていなければならないことが多かった。もう今(こん)夜(や)は歌わないんだな……とクリストフが思ってる頃(ころ)、やっと小父は歌い出(だ)すのだった。
ある晩(ばん)、ゴットフリートがどうしても歌ってくれそうもなかった時(とき)、クリストフは自(じぶ)分(ん)が作(つく)った小(しょ)曲(うきょく)を一つ彼(かれ)に聞かしてやろうと思いついた。それは作(つく)るのに大へん骨(ほね)が折れたし、得(とく)意(い)なものであった。自分がどんなに芸(げい)術(じゅ)家(つか)であるか見せてやりたかった。ゴットフリートは静(しず)かに耳(みみ)を傾(かたむ)けた。それからいった。
﹁実(じつ)にまずいね、気(き)の毒(どく)だが。﹂
クリストフは面(めん)目(ぼく)を失(うしな)って、答える言(こと)葉(ば)もなかった。ゴットフリートは憐(あわ)れむようにいった。
﹁どうしてそんなものを作(つく)ったんだい。どうにもまずい。誰(だれ)もそんなものを作れとはいわなかったろうにね。﹂
クリストフは怒(おこ)って赤くなり、いいさからった。
﹁お祖(じ)父(い)さんは僕の音(おん)楽(がく)をたいへんいいといってるよ。﹂と彼は叫(さけ)んだ。
﹁そう!﹂とゴットフリートは平(へい)気(き)でいった。﹁お祖(じ)父(い)さんのいうことが本(ほん)当(とう)なんだろう。あの人はたいへん学(がく)者(しゃ)だ。音楽のことは何(なん)でも知っている。ところがおれは、音楽のことはあまり知らないんだ。﹂
そして少し間(ま)をおいていった。
﹁だが、おれは、たいへんまずいと思うよ。﹂
彼(かれ)はおだやかにクリストフを眺(なが)め、その不(ふき)機(げ)嫌(ん)な顔を見て、微(ほほ)笑(え)んでいった。
﹁何(なに)かほかに作(つく)ったのがあるかい? 今のより外(ほか)のものの方が、おれの気(き)にいるかも知れない。﹂
クリストフはほかの歌(うた)が小(お)父(じ)の感じをかえてくれるかも知れないと思って、あるだけ歌った。ゴットフリートは何(なん)ともいわなかった。彼はおしまいになるのを待(ま)っていた。それから頭を振(ふ)って、ふかい自(じし)信(ん)のある調(ちょ)子(うし)でいった。
﹁なおまずい。﹂
クリストフは唇(くちびる)をかみしめた。顎(あご)がふるえていた。彼(かれ)は泣(な)きたかった。ゴットフリートは自分でもまごついてるようにいいはった。
﹁実(じつ)にまずい。﹂
クリストフは涙(なみ)声(だごえ)で叫(さけ)んだ。
﹁では、どうしてまずいというんだい?﹂
ゴットフリートはあからさまの眼(め)つきで彼を眺(なが)めた。
﹁どうしてって……おれにはわからない……お待(ま)ちよ……じっさいまずい……第一、ばかげているから……そうだ、その通(とお)りだ……ばかげている、何(なん)の意(い)味(み)もない……そこだ。それを書いた時、お前は何(なに)も書(か)きたいことがなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?﹂
﹁知(し)らないよ。﹂とクリストフは悲(かな)しい声でいった。﹁ただ美(うつく)しい曲(きょく)を作りたかったんだよ。﹂
﹁それだ。お前は書(か)くために書いたんだ。偉(えら)い音(おん)楽(がく)家(か)になりたくて、人にほめられたくて、書いたんだ。お前は高(こう)慢(まん)だった、お前は嘘(うそ)つきだった、それで罰(ばつ)をうけた……そこだ。音楽では、高(こう)慢(まん)になって嘘(うそ)をつけば、きっと罰(ばち)があたる。音楽は謙(けん)遜(そん)で誠(せい)実(じつ)でなくてはならない。そうでなかったら、音(おん)楽(がく)というのは何(なん)だ? 神様に対する不(ふし)信(ん)だ、神様をけがすことだ、正(しょ)直(うじき)な真(しん)実(じつ)なことを語(かた)るために、われわれに美しい歌を下さった神様をね。﹂
彼はクリストフが悲(かな)しがってるのに気がついて、抱(だ)いてやろうとした。しかしクリストフは怒(おこ)って横を向いた。そして彼は幾(いく)日(にち)も不(ふき)機(げ)嫌(ん)だった。小(お)父(じ)を憎(にく)んでいた。――けれども、﹁あいつはばかだ、なんにも知るもんか! ずっと賢(かしこ)いお祖(じ)父(い)さんが、僕の音楽をすてきだといってくれてるんだ。﹂といくら自分でくり返(かえ)してみてもだめだった。心の底(そこ)では、小父の方(ほう)が正(ただ)しいとわかっていた。ゴットフリートの言葉が胸(むね)の奥(おく)に刻(きざ)みこまれていた。彼は嘘(うそ)をついたのがはずかしかった。
それで、彼はしつっこく怨(うら)んではいたものの、作(さっ)曲(きょく)をする時には、今ではいつもゴットフリートのことを考(かんが)えていた。そしてしばしば、ゴットフリートがどう思(おも)うだろうかと考えると、はずかしくなって、書(か)いたものを破(やぶ)いてしまうこともあった。そういう気(きも)持(ち)をおしきって、全く誠(せい)実(じつ)でないとわかっている曲(きょく)を書くような時には、気(き)をつけてかくしておいた。どう思われるだろうかとびくびくしていた。そしてゴットフリートが、﹁そんなにまずくはない……気(き)にいった……﹂とただそれだけでもいってくれると、嬉(うれ)しくてたまらなかった。
また、時には意(いし)趣(ゅ)がえしに、偉(えら)い音楽家の曲(きょく)を自分のだと嘘(うそ)をいって、たちのわるい悪(いた)戯(ずら)をすることもあった。そして小(お)父(じ)がたまたまそれをけなしたりすると、彼はこおどりして喜(よろこ)んだ。しかし小(お)父(じ)はまごつかなかった。クリストフが手(て)をたたいて、喜(よろこ)んでまわりをはねまわるのを見(み)ながら、人がよさそうに笑っていた。そしていつもの意(いけ)見(ん)をもち出(だ)した。﹁うまくは書いてあるかも知れないが、何(なん)の意(い)味(み)もない。﹂――彼はいつも、クリストフの家で催(もよ)おされる小(しょ)演(うえ)奏(んそ)会(うかい)に出(しゅ)席(っせき)したがらなかった。その時の音(おん)楽(がく)がどんなに立(りっ)派(ぱ)なものであっても、彼は欠(あく)伸(び)をしだし、退(たい)屈(くつ)でぼんやりしてる様(よう)子(す)だった。やがて辛(しん)抱(ぼう)出来なくなり、こっそり逃(に)げ出(だ)してしまうのだった。彼はいつもいっていた。
﹁ねえ、坊(ぼう)や、お前が家(いえ)の中で書くものは、どれもこれも音(おん)楽(がく)じゃないよ。家の中の音楽は、部(へ)屋(や)の中の太(たい)陽(よう)と同じだ。音楽は家(いえ)の外(そと)にあるものなんだ、外で神様のさわやかな空(くう)気(き)を吸(す)う時(とき)なんかに……。﹂
あとがき
クリストフはその後(ご)、偉(えら)い音(おん)楽(がく)家(か)になりました。彼(かれ)の音(おん)楽(がく)はいつも、彼(かれ)の思(しそ)想(う)や感(かん)情(じょう)をありのままに表(ひょ)現(うげん)したもので、彼(かれ)の心(こころ)とじかにつながってるものでありました。そして彼(かれ)がえらい音(おん)楽(がく)家(か)になったのは、ゆたかな天(てん)分(ぶん)と苦(くる)しい努(どり)力(ょく)とによるのですが、また幼(おさな)い時(とき)にゴットフリートから受(う)けた教(きょ)訓(うくん)は、ふかく心(こころ)にきざみこまれていて、たいへん彼(かれ)のためになりました。
底本‥﹁日本少国民文庫 世界名作選︵一︶﹂新潮社
1998︵平成10︶年12月20日発行
底本の親本‥﹁世界名作選︵一︶﹂日本少國民文庫、新潮社
1936︵昭和11︶年2月8日
入力‥川山隆
校正‥門田裕志、小林繁雄
2008年1月15日作成
青空文庫作成ファイル‥
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