躑つつ躅じか丘おか
日は午ごなり。あらら木ぎのたらたら坂に樹きの蔭もなし。寺の門もん、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を挟さしはさみて町の入口にはあたれど、のぼるに従ひて、ただ畑はたばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき処ところに見ゆ。谷には菜なの花はな残りたり。路みちの右左、躑つつ躅じの花の紅くれないなるが、見渡す方かた、見返る方かた、いまを盛さかりなりき。ありくにつれて汗あせ少しいでぬ。
空よく晴れて一点の雲もなく、風あたたかに野のづ面らを吹けり。
一人にては行ゆくことなかれと、優やさしき姉上のいひたりしを、肯きかで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の方かたより一ひと束たばの薪たきぎをかつぎたる漢おのこおり来きたれり。眉まゆ太く、眼めの細きが、向むこうざまに顱はち巻まきしたる、額ひたいのあたり汗になりて、のしのしと近づきつつ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかへり、
﹁危ないぞ危ないぞ。﹂
といひずてに眦まなじりに皺しわを寄せてさつさつと行ゆき過すぎぬ。
見返ればハヤたらたらさがりに、その肩かた躑つつ躅じの花にかくれて、髪かみ結ゆひたる天あた窓まのみ、やがて山やま蔭かげに見えずなりぬ。草がくれの径こみち遠く、小川流るる谷たに間あいの畦あぜ道みちを、菅すげ笠がさ冠かむりたる婦おん人なの、跣はだ足しにて鋤すきをば肩にし、小さき女むすめの児この手をひきて彼あな方たにゆく背うし姿ろすがたありしが、それも杉の樹こだ立ちに入りたり。
行ゆく方かたも躑躅なり。来こし方かたも躑躅なり。山やま土つちのいろもあかく見えたる。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わがゐたる一ひと株かぶの躑躅のなかより、羽はお音とたかく、虫のつと立ちて頬を掠かすめしが、かなたに飛びて、およそ五、六尺隔へだてたる処ところに礫つぶてのありたるそのわきにとどまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかかれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五、六尺ばかりのところにとまりたり。そのまま小石を拾ひあげて狙ねらひうちし、石はそれぬ。虫はくるりと一ツまはりて、また旧もとのやうにぞをる。追ひかくれば迅はやくもまた遁にげぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラとささやかなる羽はばたきして、鷹おう揚ようにその二ふたすぢの細き髯ひげを上うえ下したにわづくりておし動かすぞいと憎にくさげなりける。
われは足あし踏ぶみして心こころいらてり。そのゐたるあとを踏みにじりて、
﹁畜生、畜生。﹂
と呟つぶやきざま、躍おどりかかりてハタと打ちし、拳こぶしはいたづらに土によごれぬ。
渠かれは一ひと足あし先なる方かたに悠ゆう々ゆうと羽はづくろひす。憎しと思ふ心を籠こめて瞻みまもりたれば、虫は動かずなりたり。つくづく見れば羽はあ蟻りの形して、それよりもやや大おおいなる、身はただ五ごさ彩いの色を帯びて青みがちにかがやきたる、うつくしさいはむ方かたなし。
色彩あり光こう沢たくある虫は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ出いでたれば、打うち置おきてすごすごと引ひつ返かえせしが、足あし許もとにさきの石の二ふたツに砕くだけて落ちたるより俄にわかに心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒虫をねらひたり。
このたびはあやまたず、したたかうつて殺しぬ。嬉うれしく走りつきて石をあはせ、ひたと打うちひしぎて蹴け飛とばしたる、石は躑つつ躅じのなかをくぐりて小こじ砂や利りをさそひ、ばらばらと谷深くおちゆく音しき。
袂たもとのちり打うちはらひて空を仰あおげば、日ひあ脚しやや斜ななめになりぬ。ほかほかとかほあつき日ひな向たに唇かわきて、眼のふちより頬のあたりむず痒がゆきこと限りなかりき。
心ここ着ろづけば旧もと来きし方かたにはあらじと思ふ坂道の異ことなる方かたにわれはいつかおりかけゐたり。丘ひとつ越えたりけむ、戻る路みちはまたさきとおなじのぼりになりぬ。見渡せば、見まはせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり果はてしなきに、両側つづきの躑つつ躅じの花、遠き方かたは前後を塞ふさぎて、日かげあかく咲さき込こめたる空のいろの真まさ蒼おき下に、彳たたずむはわれのみなり。
鎮ちん守じゆの社やしろ
坂は急ならず長くもあらねど、一つ尽つくればまたあらたに顕あらわる。起伏あたかも大波の如く打うち続つづきて、いつ坦たんならむとも見えざりき。
あまり倦うみたれば、一ツおりてのぼる坂の窪くぼみに踞つくばひし、手のあきたるまま何なにならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。曲りたるもの、直すぐなるもの、心の趣くままに落らく書がきしたり。しかなせるあひだにも、頬のあたり先さ刻きに毒虫の触れたらむと覚ゆるが、しきりにかゆければ、袖そでもてひまなく擦こすりぬ。擦りてはまたもの書きなどせる、なかにむつかしき字のひとつ形よく出来たるを、姉に見せばやと思ふに、俄にわかにその顔の見たうぞなりたる。
立たちあがりてゆくてを見れば、左右より小枝を組みてあはひも透すかで躑つつ躅じ咲きたり。日影ひとしほ赤あこうなりまさりたるに、手を見たれば掌たなそこに照りそひぬ。
一文字にかけのぼりて、唯と見ればおなじ躑躅のだらだらおりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでかかくてあらむ、こたびこそと思ふに違たがひて、道はまた蜿うねれる坂なり。踏ふみ心ごこ地ち柔やわらかく小石ひとつあらずなりぬ。
いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顔なつかしく、しばらくも得え堪たへずなりたり。
再びかけのぼり、またかけりおりたる時、われしらず泣きてゐつ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある処ところに至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと茜あかねさして、眼もあやに躑躅の花、ただ紅くれないの雪の降ふり積つめるかと疑はる。
われは涙の声たかく、あるほど声を絞しぼりて姉をもとめぬ。一ひとたび二ふたたび三みたびして、こたへやすると耳を澄すませば、遥はるかに滝の音聞えたり。どうどうと響くなかに、いと高く冴さえたる声の幽かすかに、
﹁もういいよ、もういいよ。﹂
と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得たる、一ひと声こえくりかへすと、ハヤきこえずなりしが、やうやう心たしかにその声したる方かたにたどりて、また坂ひとつおりて一つのぼり、こだかき所に立ちて瞰みおろせば、あまり雑ぞう作さなしや、堂の瓦かわ屋らや根ね、杉の樹こだ立ちのなかより見えぬ。かくてわれ踏ふみ迷まよひたる紅くれないの雪のなかをばのがれつ。背うし後ろには躑つつ躅じの花飛び飛びに咲きて、青き草まばらに、やがて堂のうらに達せし時は一ひと株かぶも花のあかきはなくて、たそがれの色、境けい内だいの手みた洗ら水しのあたりを籠こめたり。柵さく結ゆひたる井戸ひとつ、銀いち杏ようの古ふりたる樹あり、そがうしろに人の家の土どべ塀いあり。こなたは裏木戸のあき地にて、むかひに小さき稲いな荷りの堂あり。石の鳥とり居いあり。木の鳥居あり。この木の鳥居の左の柱には割れめありて太き鉄の輪を嵌はめたるさへ、心たしかに覚えある、ここよりはハヤ家に近しと思ふに、さきの恐しさは全く忘れ果てつ。ただひとへにゆふ日照りそひたるつつじの花の、わが丈たけよりも高き処ところ、前後左右を咲さき埋うずめたるあかき色のあかきがなかに、緑と、紅くれないと、紫と、青せい白はくの光を羽はい色ろに帯びたる毒虫のキラキラと飛びたるさまの広き景色のみぞ、画えの如く小さき胸にゑがかれける。
かくれあそび
さきにわれ泣きいだして救すくいを姉にもとめしを、渠かれに認められしぞ幸さいわいなる。いふことを肯きかで一人いで来きしを、弱りて泣きたりと知られむには、さもこそとて笑はれなむ。優やさしき人のなつかしけれど、顔をあはせていひまけむは口くち惜おしきに。
嬉うれしく喜ばしき思ひ胸にみちては、また急に家に帰らむとはおもはず。ひとり境けい内だいに彳たたずみしに、わツといふ声、笑ふ声、木の蔭、井戸の裏、堂の奥、廻廊の下よりして、五ツより八やツまでなる児この五、六人前あと後さきに走り出いでたり、こはかくれ遊びの一いち人にんが見いだされたるものぞとよ。二ふた人りみ三た人り走り来て、わが其そ処こに立てるを見つ。皆瞳ひとみを集めしが、
﹁お遊びな、一いつ所しよにお遊びな。﹂とせまりて勧めぬ。小こい家えあちこち、このあたりに住むは、かたゐといふものなりとぞ。風俗少しく異なれり。児こどもが親たちの家富とみたるも好よき衣きぬ着たるはあらず、大たい抵てい跣はだ足しなり。三さみ味せ線ん弾ひきて折おり々おりわが門かどに来きたるもの、溝みぞ川かわに鰌どじようを捕ふるもの、附つけ木ぎ、草ぞう履りなど鬻ひさぎに来るものだちは、皆この児こどもが母なり、父なり、祖母などなり。さるものとはともに遊ぶな、とわが友は常に戒いましめつ。さるに町まち方かたの者としいへば、かたゐなる児こども尊とうとび敬ひて、頃しば刻らくもともに遊ばんことを希こいねがふや、親しく、優しく勉めてすなれど、不断はこなたより遠ざかりしが、その時は先にあまり淋さびしくて、友欲ほしき念の堪たへがたかりしその心のまだ失せざると、恐しかりしあとの楽しきとに、われは拒こばまずして頷うなずきぬ。
児こどもはさざめき喜びたりき。さてまたかくれあそびを繰返すとて、拳けんしてさがすものを定めしに、われその任にあたりたり。面おもてを蔽おおへといふままにしつ。ひツそとなりて、堂の裏うら崖がけをさかさに落つる滝の音どうどうと松まつ杉すぎの梢こずえゆふ風に鳴り渡る。かすかに、
﹁もう可いいよ、もう可いよ。﹂
と呼ぶ声、谺こだまに響けり。眼をあくればあたり静まり返りて、たそがれの色また一ひと際きわ襲ひ来きたれり。大おおいなる樹のすくすくとならべるが朦もう朧ろうとしてうすぐらきなかに隠れむとす。
声したる方かたをと思ふ処ところには誰たれもをらず。ここかしこさがしたれど人らしきものあらざりき。
また旧もとの境けい内だいの中央に立ちて、もの淋しく瞶みまわしぬ。山の奥にも響くべく凄すさまじき音して堂の扉を鎖とざす音しつ、闃げきとしてものも聞えずなりぬ。
親しき友にはあらず。常にうとましき児どもなれば、かかる機お会りを得てわれをば苦めむとや企たくみけむ。身を隠したるまま密ひそかに遁にげ去りたらむには、探せばとて獲えらるべき。益やくもなきことをとふと思ひうかぶに、うちすてて踵くびすをかへしつ。さるにても万も一しわがみいだすを待ちてあらばいつまでも出いでくることを得ざるべし、それもまたはかりがたしと、心こころ迷まよひて、とつ、おいつ、徒いたずらに立ちて困こうずる折しも、何いず処くより来きたりしとも見えず、暗うなりたる境内の、うつくしく掃はいたる土のひろびろと灰色なせるに際きわ立だちて、顔の色白く、うつくしき人、いつかわが傍かたわらにゐて、うつむきざまにわれをば見き。
極めて丈たけ高たかき女なりし、その手を懐ふところにして肩を垂れたり。優やさしきこゑにて、
﹁こちらへおいで。こちら。﹂
といひて前さきに立ちて導きたり。見知りたる女ひとにあらねど、うつくしき顔の笑えみをば含みたる、よき人と思ひたれば、怪あやしまで、隠れたる児このありかを教ふるとさとりたれば、いそいそと従ひぬ。
あふ魔まが時とき
わが思ふ処ところに違たがはず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突つきあたりに小さき稲いな荷りの社やしろあり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山の裾すそなる雑ぞう樹き斜めに生おひて、社の上を蔽おおひたる、その下のをぐらき処ところ、孔あなの如き空くう地ちなるをソとめくばせしき。瞳ひとみは水のしたたるばかり斜ななめにわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。
さればいささかもためらはで、つかつかと社やしろの裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽くち葉ば堆うずたかく水くさき土のにほひしたるのみ、人の気けは勢いもせで、頸えりもとの冷ひややかなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふ彼かの女ひとはハヤ見えざりき。何いず方かたにか去りけむ、暗くなりたり。
身の毛よだちて、思はず呀あなやと叫びぬ。
人ひと顔がおのさだかならぬ時、暗き隅すみに行ゆくべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を惑まどはすと、姉上の教へしことあり。
われは茫ぼう然ぜんとして眼まなこをりぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左ゆん手でに坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き出いづると思ふ黒こく闇あん々あんたる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社やしろの裏の狭きなかににげ入りつ。眼を塞ふさぎ、呼い吸きをころしてひそみたるに、四よつ足あしのものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。
われは人ひと心ごこ地ちもあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの女ひとのうつくしかりし顔、優やさしかりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる児こどものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここに潜ひそめ、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小こぢ提よう灯ちんの火ほか影げあかきが坂下より急ぎのぼりて彼かな方たに走るを見つ。ほどなく引ひつ返かえしてわがひそみたる社やしろの前に近づきし時は、一人ならず二ふた人りみ三た人り連つれ立だちて来きたりし感あり。
あたかもその立たち留どまりし折から、別なる跫あし音おと、また坂をのぼりてさきのものと落おち合あひたり。
﹁おいおい分らないか。﹂
﹁ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。﹂
とあとよりいひたるはわが家いえにつかひたる下男の声に似たるに、あはや出いでむとせしが、恐しきものの然さはたばかりて、おびき出いだすにやあらむと恐しさは一ひとしほ増しぬ。
﹁もう一度念のためだ、田たん圃ぼの方でも廻つて見よう、お前も頼む。﹂
﹁それでは。﹂といひて上うえ下したにばらばらと分れて行ゆく。
再び寂せきとしたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し差さし出いだして、外との方かたをうかがふに、何ごともあらざりければ、やや落おち着つきたり。怪あやしきものども、何とてやはわれをみいだし得む、愚おろかなる、と冷ひややかに笑ひしに、思ひがけず、誰たれならむたまぎる声して、あわてふためき遁にぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。
﹁ちさとや、ちさとや。﹂と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。
大おお沼ぬま
﹁ゐないツて私わたしあどうしよう、爺じいや。﹂
﹁根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前まえ様さま遊びに出します時、帯の結むすびめを丁とんとたたいてやらつしやれば好よいに。﹂
﹁ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。﹂
﹁それはハヤ不ぶね念んなこんだ。帯の結むすびめさへ叩たたいときや、何がそれで姉様なり、母おふ様くろさまなりの魂たましいが入るもんだで魔エテめはどうすることもしえないでごす。﹂
﹁さうねえ。﹂とものかなしげに語らひつつ、社やしろの前をよこぎりたまへり。
走りいでしが、あまりおそかりき。
いかなればわれ姉上をまで怪あやしみたる。
悔くゆれど及ばず、かなたなる境けい内だいの鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。
涙ぐみて彳たたずむ時、ふと見る銀いち杏ようの木のくらき夜の空に、大おおいなる円まるき影して茂れる下に、女の後うし姿ろすがたありてわが眼まなこを遮さえぎりたり。
あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此こ処こにあるを知られむは、拙つたなきわざなればと思ひてやみぬ。
とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが優やさしき姉上の姿に化けしたる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とて言ことばはかけざりしと、打うち泣なきしが、かひもあらず。
あはれさまざまのものの怪あやしきは、すべてわが眼まなこのいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、術すべこそありけれ、かなたなる御みた手ら洗しにて清めてみばやと寄りぬ。
煤すすけたる行あん燈どうの横長きが一つ上にかかりて、ほととぎすの画えと句など書いたり。灯ひをともしたるに、水はよく澄すみて、青き苔こけむしたる石いし鉢ばちの底もあきらかなり。手に掬むすばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠こめて、気を鎮しずめて、両の眼まなこを拭ぬぐひ拭ひ、水に臨のぞむ。
われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかかるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわななきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
﹁お、お、千ちさ里と。ええも、お前は。﹂と姉上ののたまふに、縋すがりつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、
﹁あれ!﹂
といひて一足すさりて、
﹁違つてたよ、坊や。﹂とのみいひずてに衝つと馳はせ去りたまへり。
怪あやしき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつつ、ひたばしりに追いかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの口くち惜おしければ、とにかくもならばとてなむ。
坂もおりたり、のぼりたり、大おお路みちと覚しき町にも出いでたり、暗き径こみちも辿たどりたり、野もよこぎりぬ。畦あぜも越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。
道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く横よこたはりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、大おお沼ぬまとも覚しきが、前ゆく途てを塞ふさぐと覚ゆる蘆あしの葉の繁きがなかにわが身から体だ倒れたる、あとは知らず。
五ごい位さ鷺ぎ
眼のふち清すが々すがしく、涼しき薫かおりつよく薫ると心ここ着ろづく、身は柔やわらかき蒲ふと団んの上に臥したり。やや枕をもたげて見る、竹ちく縁えんの障しよ子うじあけ放はなして、庭つづきに向ひなる山やま懐ふところに、緑の草の、ぬれ色青く生おい茂しげりつ。その半はん腹ぷくにかかりある厳いわ角かどの苔こけのなめらかなるに、一いつ挺ちようはだか蝋ろうに灯ひともしたる灯ほか影げすずしく、筧かけいの水むくむくと湧わきて玉たまちるあたりに盥たらいを据ゑて、うつくしく髪かみ結ゆうたる女ひとの、身に一糸もかけで、むかうざまにひたりてゐたり。
筧かけいの水はそのたらひに落ちて、溢あふれにあふれて、地の窪くぼみに流るる音しつ。
蝋ろうの灯ひは吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす膚はだえ白かりき。
わが寝ねが返える音に、ふとこなたを見返り、それと頷うなずく状さまにて、片手をふちにかけつつ片足を立てて盥たらいのそとにいだせる時、颯さと音して、烏からすよりは小さき鳥の真まし白ろきがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の脛はぎのあたりをかすめつ。そのままおそれげもなう翼を休めたるに、ざぶりと水をあびせざま莞につ爾ことあでやかに笑うてたちぬ。手早く衣きぬもてその胸をば蔽おおへり。鳥はおどろきてはたはたと飛とび去さりぬ。
夜の色は極めてくらし、蝋ろうを取りたるうつくしき人の姿さやかに、庭にわ下げ駄た重く引く音しつ。ゆるやかに縁えんの端に腰をおろすとともに、手をつきそらして捩ねじ向むきざま、わがかほをば見つ。
﹁気分は癒なおつたかい、坊や。﹂
といひて頭こうべを傾けぬ。ちかまさりせる面おもてけだかく、眉あざやかに、瞳ひとみすずしく、鼻やや高く、唇の紅くれないなる、額ひたいつき頬のあたりたけたり。こは予かねてわがよしと思ひ詰つめたる雛ひなのおもかげによく似たれば貴とうとき人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。知しり人びとにはあらざれど、はじめて逢ひし方かたとは思はず、さりや、誰たれにかあるらむとつくづくみまもりぬ。
またほほゑみたまひて、
﹁お前あれは斑はん猫みようといつて大変な毒虫なの。もう可いいね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは姉ねえ様さんが見違へるのも無理はないのだもの。﹂
われもさあらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふままに頷うなずきつ。あたりのめづらしければ起きむとする夜よ着ぎの肩、ながく柔やわらかにおさへたまへり。
﹁ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、落おち着ついて、ね、気をしづめるのだよ、可いいかい。﹂
われはさからはで、ただ眼めをもて答へぬ。
﹁どれ。﹂といひて立つたる折、のしのしと道みち芝しばを踏む音して、つづれをまとうたる老おや夫じの、顔の色いと赤きが縁えん近ちこう入はいり来つ。
﹁はい、これはお児こさまがござらつせえたの、可かわ愛いいお児じや、お前様も嬉うれしかろ。ははは、どりや、またいつものを頂きましよか。﹂
腰をななめにうつむきて、ひつたりとかの筧かけいに顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつづけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を仰あおぎぬ。
﹁やれやれ甘いことかな。はい、参ります。﹂
と踵くびすを返すを、こなたより呼びたまひぬ。
﹁ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この児こを返さねばならぬから。﹂
﹁あいあい。﹂
と答へて去る。山やま風かぜ颯さつとおろして、彼かの白き鳥また翔たちおりつ。黒き盥たらいのふちに乗りて羽はづくろひして静まりぬ。
﹁もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。﹂とて静しずかに雨戸をひきたまひき。
九ここのツ谺こだま
やがて添そい臥ぶししたまひし、さきに水を浴びたまひし故ゆえにや、わが膚はだをりをり慄りつ然ぜんたりしが何の心もなうひしと取とり縋すがりまゐらせぬ。あとをあとをといふに、をさな物語二ふたツ三みツ聞かせ給たまひつ。やがて、
﹁一ひとツ谺こだま、坊や、二ふたツ谺こだまといへるかい。﹂
﹁二ツ谺。﹂
﹁三みツ谺こだま、四よツ谺こだまといつて御覧。﹂
﹁四ツ谺。﹂
﹁五いつツ谺こだま。そのあとは。﹂
﹁六むツ谺こだま。﹂
﹁さうさう七ななツ谺こだま。﹂
﹁八やツ谺こだま。﹂
﹁九ここのツ谺こだま――ここはね、九ここのツ谺こだまといふ処ところなの。さあもうおとなにして寝るんです。﹂
背に手をかけ引ひき寄よせて、玉たまの如きその乳ちぶ房さをふくませたまひぬ。露あらわに白き襟えり、肩のあたり鬢びんのおくれ毛はらはらとぞみだれたる、かかるさまは、わが姉上とは太いたく違へり。乳ちちをのまむといふを姉上は許したまはず。
ふところをかいさぐれば常に叱しかりたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた三みと年せを経へつ。乳ちの味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。垂すい玉ぎよくの乳ちぶ房さただ淡あわ雪ゆきの如く含むと舌にきえて触るるものなく、すずしき唾つばのみぞあふれいでたる。
軽く背せなをさすられて、われ現うつつになる時、屋やの棟むね、天井の上と覚おぼし、凄すさまじき音してしばらくは鳴りも止やまず。ここにつむじ風吹くと柱はしら動く恐しさに、わななき取とりつくを抱だきしめつつ、
﹁あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪かん忍にんしておくれよ、いけません。﹂
とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。
﹁恐こわくはないよ。鼠ねずみだもの。﹂
とある、さりげなきも、われはなほその響ひびきのうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。
うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある蒔まき絵えものの手箱のなかより、一ひと口ふりの守まも刀りがたなを取とり出だしつつ鞘さやながら引ひきそばめ、雄お々おしき声にて、
﹁何が来てももう恐くはない。安心してお寝よ。﹂とのたまふ、たのもしき状さまよと思ひてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残あり燈あけ暗く床とこ柱ばしらの黒うつややかにひかるあたり薄き紫の色いろ籠こめて、香こうの薫かおり残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく閉とじたまひたる眼めの睫まつ毛げかぞふるばかり、すやすやと寝入りてゐたまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし瞻みまもりしが、淋さびしさにたへねばひそかにその唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと打うちまもりぬ。ふとその鼻はな頭さきをねらひて手をふれしに空くうを捻ひねりて、うつくしき人は雛ひなの如く顔の筋すじひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで近ちか々ぢかとありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、乳ちの下に面おもてをふせて、強く額ひたいもて圧おしたるに、顔にはただあたたかき霞かすみのまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、薄うす葉よう一ひと重えの支ささふるなく着けたる額ひたいはつと下に落ち沈むを、心ここ着ろづけば、うつくしき人の胸は、もとの如く傍かたわらにあをむきゐて、わが鼻は、いたづらにおのが膚はだにぬくまりたる、柔やわらかき蒲ふと団んに埋うもれて、をかし。
渡わた船しぶね
夢ゆめ幻まぼろしともわかぬに、心をしづめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまひし元のまま柔やわらかに力なげに蒲ふと団んのうへに垂れたまへり。
片手をば胸にあてて、いと白くたをやかなる五ご指しをひらきて黄おう金ごんの目めぬ貫きキラキラとうつくしき鞘さやの塗ぬりの輝きたる小さき守まも刀りがたなをしかと持つともなく乳ちのあたりに落して据すゑたる、鼻たかき顔のあをむきたる、唇のものいふ如き、閉ぢたる眼めのほほ笑む如き、髪のさらさらしたる、枕にみだれかかりたる、それも違たがはぬに、胸に剣つるぎをさへのせたまひたれば、亡なき母上のその時のさまに紛まがふべくも見えずなむ、コハこの君きみもみまかりしよとおもふいまはしさに、はや取とり除のけなむと、胸なるその守まも刀りがたなに手をかけて、つと引く、せつぱゆるみて、青き光眼まなこを射いたるほどこそあれ、いかなるはずみにか血ちし汐おさとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両の拳こぶしもてしかとおさへたれど、留とどまらで、たふたふと音するばかりぞ淋りん漓りとしてながれつたへる、血ちし汐おのくれなゐ衣きぬをそめつ。うつくしき人は寂せきとして石像の如く静しずかなる鳩みず尾おちのしたよりしてやがて半身をひたし尽つくしぬ。おさへたるわが手には血の色つかぬに、燈ともしびにすかす指のなかの紅くれないなるは、人の血の染そみたる色にはあらず、訝いぶかしく撫なで試こころむる掌たなそこのその血汐にはぬれもこそせね、こころづきて見定むれば、かいやりし夜のものあらはになりて、すずしの絹をすきて見ゆるその膚はだにまとひたまひし紅くれないの色なりける。いまはわれにもあらで声こわ高だかに、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、効かいなくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと覚おぼし。顔あたたかに胸をおさるる心ここ地ちに眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。
われはハヤゆうべ見し顔のあかき老お夫じの背せなに負はれて、とある山やま路じを行ゆくなりけり。うしろよりは彼かのうつくしき人したがひ来ましぬ。
さてはあつらへたまひし如く家に送りたまふならむと推おしはかるのみ、わが胸の中うちはすべて見すかすばかり知りたまふやうなれば、わかれの惜おしきも、ことのいぶかしきも、取とり出いでていはむは益やくなし。教ふべきことならむには、彼かな方たより先んじてうちいでこそしたまふべけれ。
家に帰るべきわが運うんならば、強ひて止とどまらむと乞こひたりとて何かせん、さるべきいはれあればこそ、と大おと人なしう、ものもいはでぞ行ゆく。
断崖の左右に聳そびえて、点てん滴てき声こえする処ところありき。雑ざつ草そう高き径こみちありき。松まつ柏かしわのなかを行ゆく処ところもありき。きき知らぬ鳥うたへり。褐色なる獣けものありて、をりをり叢くさむらに躍おどり入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去こ年ぞの落おち葉ば道を埋うずみて、人多く通かよふ所としも見えざりき。
をぢは一いつ挺ちようの斧おのを腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、茨いばらなど生おひしげりて、衣きぬの袖そでをさへぎるにあへば、すかすかと切つて払ひて、うつくしき人を通し参らす。されば山路のなやみなく、高き塗ぬり下げ駄たの見えがくれに長き裾すそさばきながら来たまひつ。
かくて大おお沼ぬまの岸に臨みたり。水は漫々として藍らんを湛たたへ、まばゆき日のかげも此こ処この森にはささで、水面をわたる風寒く、颯さつ々さつとして声あり。をぢはここに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を抱いだきたまふ、衣きぬの袖そで左右より長くわが肩にかかりぬ。
蘆あし間まの小おぶ舟ねの纜ともづなを解きて、老お夫じはわれをかかへて乗せたり。一いつ緒しよならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに棹さおを立てぬ。船は出いでつ。わツと泣きて立たち上あがりしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背うし後ろにゐたまへりとおもふ人の大おおいなる環わにまはりて前ゆく途てなる汀みぎわにゐたまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左ゆん手でなる汀みぎわに見えき。見る見る右め手てなる汀みぎわにまはりて、やがて旧もとのうしろに立ちたまひつ。箕みの形したる大おおいなる沼は、汀みぎわの蘆あしと、松の木と、建たて札ふだと、その傍かたわらなるうつくしき人ともろともに緩ゆるき環わを描いて廻転し、はじめは徐おもむろにまはりしが、あとあと急になり、疾はやくなりつ、くるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処ところに松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の前さきにうつくしき顔のたけたるが莞につ爾ことあでやかに笑えみたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は繁しげく丈たけよりも高き汀みぎわに、船はとんとつきあたりぬ。
ふるさと
をぢはわれを扶たすけて船より出いだしつ。またその背せなを向けたり。
﹁泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの家うちぢや。﹂と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてただ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるるやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある板いた塀べいのあたりに来て、日のややくれかかる時、老お夫じはわれを抱いだき下おろして、溝のふちに立たせ、ほくほく打うちゑみつゝ、慇いん懃ぎんに会えし釈やくしたり。
﹁おとなにしさつしやりませ。はい。﹂
といひずてに何いず地ちゆくらむ。別れはそれにも惜おしかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。指す方かたもあらでありくともなく歩ほをうつすに、頭かしらふらふらと足の重おもたくて行ゆき悩なやむ、前に行ゆくも、後ろに帰るも皆見みし知りご越しのものなれど、誰たれも取りあはむとはせで往ゆきつ来きたりつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつつ行ゆくが、冷ひややかに嘲あざけるが如く憎にくさげなるぞ腹はら立だたしき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず向むき直なおりて、とぼとぼとまた山ある方かたにあるき出いだしぬ。
けたたましき跫あし音おとして鷲わし掴づかみに襟えりを掴つかむものあり。あなやと振ふり返かえればわが家いえの後うし見ろみせる奈なし四ろ郎うといへる力ちから逞たくましき叔父の、凄すさまじき気けし色きして、
﹁つままれめ、何ど処こをほツつく。﹂と喚わめきざま、引ひつ立たてたり。また庭に引ひき出いだして水をやあびせられむかと、泣なき叫さけびてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、
﹁しつかりしろ。やい。﹂
とめくるめくばかり背を拍うちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。立たち騒さわぐ召めしつかひどもを叱しかりつも細ほそ引びきを持て来さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き一ひと室まに引ひつ立たてゆきてそのまま柱に縛いましめたり。近く寄れ、喰くいさきなむと思ふのみ、歯がみして睨にらまへたる、眼めの色こそ怪あやしくなりたれ、逆さかつりたる眦まなじりは憑つきもののわざよとて、寄りたかりて口々にののしるぞ無念なりける。
おもての方かたさざめきて、何いず処くにか行ゆきをれる姉上帰りましつと覚おぼし、襖ふすまいくつかぱたぱたと音してハヤここに来たまひつ。叔父は室しつの外にさへぎり迎へて、
﹁ま、やつと取とり返かえしたが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つてゐて、すきがあると駈け出すぢや。魔エテどのがそれしよびくでの。﹂
と戒いましめたり。いふことよくわが心を得たるよ、しかり、隙ひまだにあらむにはいかでかここにとどまるべき。
﹁あ。﹂とばかりにいらへて姉上はまろび入りて、ひしと取とり着つきたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん情なさけ手てにこもりて抱いだかれたるわが胸絞しぼらるるやうなりき。
姉上の膝に臥ふしたるあひだに、医師来きたりてわが脈をうかがひなどしつ。叔父は医師とともに彼あな方たに去りぬ。
﹁ちさや、どうぞ気をたしかにもつておくれ。もう姉ねえ様さんはどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。﹂
といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、涙るい痕こんしたたるばかりなり。
その心の安んずるやう、強しひて顔つくりてニツコと笑うて見せぬ。
﹁おお、薄うす気き味みが悪いねえ。﹂
と傍かたわらにありたる奈なし四ろ郎うの妻なる人呟つぶやきて身ぶるひしき。
やがてまた人々われを取とり巻まきてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて疑うたがいを解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、根ね問どひ、葉は問どひするに一いち々いち説とき明あかさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつつ心に何をかいひたる。
やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること皆みな人の疑うたがいを増すをいかにせむ。ひしと取とり籠こめて庭にも出いださで日を過しぬ。血色わるくなりて痩やせもしつとて、姉上のきづかひたまひ、後うし見ろみの叔父夫婦にはいとせめて秘かくしつつ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、門かど辺べにありたる多くの児こども我が姿を見ると、一いつ斉せいに、アレさらはれものの、気きち狂がいの、狐つきを見よやといふいふ、砂じや利り、小こじ砂や利りをつかみて投げつくるは不ふだ断ん親しかりし朋とも達だちなり。
姉上は袖そでもてわれを庇かばひながら顔を赤うして遁にげ入りたまひつ。人目なき処ところにわれを引ひき据すゑつと見るまに取つて伏ふせて、打ちたまひぬ。
悲しくなりて泣なき出だせしに、あわただしく背せなをばさすりて、
﹁堪かん忍にんしておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。﹂
といひかけて、
﹁私わたしあもう気でも違ひたいよ。﹂としみじみと掻かき口く説どきたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を確たしかに、心を鎮しずめよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を危あやぶむやうそのたびになりまさりて、果はてはまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。
たとへば怪あやしき糸の十と重え二は十た重えにわが身をまとふ心ここ地ちしつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく思おもいあり。それをば刈かり払はらひ、遁のが出れいでむとするにその術すべなく、すること、なすこと、人見て必ず、眉まゆを顰ひそめ、嘲あざけり、笑ひ、卑いやしめ、罵ののしり、はた悲かなしみ憂うれひなどするにぞ、気あがり、心こころ激げきし、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。
口くち惜おしく腹立たしきまま身の周まわ囲りはことごとく敵かたきぞと思わるる。町も、家も、樹も、鳥とり籠かごも、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには一ひとたびわれを見てその弟を忘れしことあり。塵ちり一つとしてわが眼に入るは、すべてものの化けしたるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて現げんじたるものならむ。さればぞ姉がわが快かい復ふくを祈る言ことばもわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、一ひとたびおもひては堪たふべからず、力あらば恣ほしいままにともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴け飛とばしやらむ、掻かきむしらむ、透すきあらばとびいでて、九ここのツ谺こだまとをしへたる、たうときうつくしきかのひとの許もとに遁にげ去らむと、胸の湧わきたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。
千せん呪じゆ陀だ羅ら尼に
毒ありと疑へばものも食はず、薬もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、優やさしきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、罵ののしり叫びてあれたりしが、つひには声も出いでず、身も動かず、われ人をわきまへず心ここ地ち死ぬべくなれりしを、うつらうつら舁かきあげられて高き石壇をのぼり、大おおいなる門を入りて、赤あか土つちの色きれいに掃はきたる一ひと条すじの道長き、右左、石いし燈どう籠ろうと石ざく榴ろの樹の小さきと、おなじほどの距離にかはるがはる続きたるを行ゆきて、香こうの薫かおりしみつきたる太き円まる柱ばしらの際きわに寺の本堂に据すゑられつ、ト思ふ耳のはたに竹を破わる響ひびききこえて、僧ども五ごさ三んに人ん一斉に声を揃そろへ、高らかに誦じゆする声耳を聾ろうするばかり喧かしましさ堪たふべからず、禿とく顱ろならびゐる木のはしの法師ばら、何をかすると、拳こぶしをあげて一人にんの天あた窓まをうたむとせしに、一ひと幅はばの青き光颯さつと窓を射て、水晶の念ねん珠じゆ瞳ひとみをかすめ、ハツシと胸をうちたるに、ひるみて踞うずくまる時、若じや僧くそう円えん柱ちゆうをいざり出いでつつ、ついゐて、サラサラと金きん襴らんの帳とばりを絞しぼる、燦さん爛らんたる御み廚ず子しのなかに尊とうとき像すがたこそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたたがみ天てん地ちに鳴りぬ。
端たん厳げん微みみ妙ようのおんかほばせ、雲の袖そで、霞かすみの袴はかまちらちらと瓔よう珞らくをかけたまひたる、玉たまなす胸に繊せん手しゆを添へて、ひたと、をさなごを抱いだきたまへるが、仰あおぐ仰ぐ瞳ひとみうごきて、ほほゑみたまふと、見たる時、やさしき手のさき肩にかかりて、姉上は念じたまへり。
滝やこの堂にかかるかと、折しも雨の降りしきりつ。渦うずまいて寄する風の音、遠き方かたより呻うなり来て、どつと満まん山ざんに打うちあたる。
本堂青あお光びかりして、はたたがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつつ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝ひざにはひあがりて、ひしとその胸を抱いだきたれば、かかるものをふりすてむとはしたまはで、あたたかき腕かいなはわが背せなにて組くみ合あはされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る明あきらかに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹ふき降ぶりのなかに陀だ羅ら尼にを呪じゆする聖ひじりの声こえ々ごえさわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの凄すごきに、身の置おき処どころあらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋すがりながら顔もてその胸を押しわけたれば、襟えりをば掻かきひらきたまひつつ、乳ちの下にわがつむり押おし入いれて、両りよ袖うそでを打うちかさねて深くわが背せなを蔽おおひ給たまへり。御みほ仏とけのそのをさなごを抱いだきたまへるもかくこそと嬉うれしきに、おちゐて、心ここ地ちすがすがしく胸のうち安く平たいらになりぬ。やがてぞ呪じゆもはてたる。雷らいの音も遠ざかる。わが背せをしかと抱いだきたまへる姉上の腕かいなもゆるみたれば、ソとその懐ふところより顔をいだしてこはごはその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく外おもてをうかがふことだにならざる、静まるを待てば夜よもすがら暴あれ通とおしつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通つ夜やしたまひぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に九ここのツ谺こだまといひたる谷、あけがたに杣そまのみいだしたるが、忽たちまち淵ふちになりぬといふ。
里の者、町の人皆みな挙こぞりて見にゆく。日を経へてわれも姉上とともに来きたり見き。その日一いつ天てんうららかに空の色も水の色も青く澄すみて、軟なん風ぷうおもむろに小ささ波なみわたる淵の上には、塵ちり一ひと葉はの浮べるあらで、白き鳥の翼つばさ広きがゆたかに藍らん碧ぺきなる水面を横ぎりて舞へり。
すさまじき暴あ風ら雨しなりしかな。この谷もと薬やげ研んの如き形したりきとぞ。
幾いく株かぶとなき松まつ柏かしわの根こそぎになりて谷間に吹ふき倒たおされしに山腹の土つち落ちたまりて、底をながるる谷川をせきとめたる、おのづからなる堤防をなして、凄すさまじき水をば湛たたへつ。一ひとたびこのところ決けつ潰かいせむか、城じようの端はなの町は水みな底そこの都となるべしと、人々の恐れまどひて、怠おこたらず土を装もり石を伏ふせて堅き堤防を築きしが、あたかも今の関せき屋や少将の夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、嫩ふたばなりし常とき磐わ木ぎもハヤ丈たけのびつ。草生おひ、苔こけむして、いにしへよりかかりけむと思ひ紛まがふばかりなり。
あはれ礫つぶてを投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたづらを叱しかり留とどめつ。年若く面おもて清きよき海軍の少尉候補生は、薄はく暮ぼあ暗んぺ碧きを湛たたへたる淵ふちに臨みて粛しゆ然くぜんとせり。