藪の中
芥川龍之介
さようでございます。あの死(しが)骸(い)を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今(け)朝(さ)いつもの通り、裏山の杉を伐(き)りに参りました。すると山(やま)陰(かげ)の藪(やぶ)の中に、あの死骸があったのでございます。あった処でございますか? それは山(やま)科(しな)の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩(や)せ杉の交(まじ)った、人(ひと)気(け)のない所でございます。
死骸は縹(はなだ)の水(すい)干(かん)に、都(みや)風(こふう)のさび烏帽子をかぶったまま、仰(あお)向(む)けに倒れて居りました。何しろ一(ひと)刀(かたな)とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇(すほ)芳(う)に滲(し)みたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾(かわ)いて居ったようでございます。おまけにそこには、馬(うま)蠅(ばえ)が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。
太(た)刀(ち)か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄(なわ)が一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛(くし)が一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通(かよ)う路とは、藪一つ隔たって居りますから。
あの死骸の男には、確かに昨(きの)日(う)遇(あ)って居ります。昨日の、――さあ、午(ひる)頃(ごろ)でございましょう。場所は関(せき)山(やま)から山(やま)科(しな)へ、参ろうと云う途中でございます。あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟(む)子(し)を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩(はぎ)重(がさ)ねらしい、衣(きぬ)の色ばかりでございます。馬は月(つき)毛(げ)の、――確か法(ほう)師(しが)髪(み)の馬のようでございました。丈(たけ)でございますか? 丈は四(よ)寸(き)もございましたか? ――何しろ沙(しゃ)門(もん)の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太(た)刀(ち)も帯びて居(お)れば、弓矢も携(たずさ)えて居りました。殊に黒い塗(ぬ)り箙(えびら)へ、二十あまり征(そ)矢(や)をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真(まこと)に人間の命なぞは、如(にょ)露(ろや)亦(くに)如(ょで)電(ん)に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。
わたしが搦(から)め取った男でございますか? これは確かに多(たじ)襄(ょう)丸(まる)と云う、名高い盗(ぬす)人(びと)でございます。もっともわたしが搦(から)め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟(あわ)田(だぐ)口(ち)の石(いし)橋(ばし)の上に、うんうん呻(うな)って居りました。時刻でございますか? 時刻は昨(さく)夜(や)の初(しょ)更(こう)頃でございます。いつぞやわたしが捉(とら)え損じた時にも、やはりこの紺(こん)の水(すい)干(かん)に、打(うち)出(だ)しの太(た)刀(ち)を佩(は)いて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携(たずさ)えて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革(かわ)を巻いた弓、黒塗りの箙(えびら)、鷹(たか)の羽の征(そ)矢(や)が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通り、法(ほう)師(しが)髪(み)の月(つき)毛(げ)でございます。その畜(ちく)生(しょう)に落されるとは、何かの因(いん)縁(ねん)に違いございません。それは石橋の少し先に、長い端(はづ)綱(な)を引いたまま、路ばたの青(あお)芒(すすき)を食って居りました。
この多(たじ)襄(ょう)丸(まる)と云うやつは、洛(らく)中(ちゅう)に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥(とり)部(べで)寺(ら)の賓(びん)頭(ず)盧(る)の後(うしろ)の山に、物(もの)詣(もう)でに来たらしい女房が一人、女(め)の童(わらわ)と一しょに殺されていたのは、こいつの仕(しわ)業(ざ)だとか申して居りました。その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差(さし)出(で)がましゅうございますが、それも御(ごせ)詮(ん)議(ぎ)下さいまし。
はい、あの死骸は手前の娘が、片(かた)附(づ)いた男でございます。が、都のものではございません。若(わか)狭(さ)の国(こく)府(ふ)の侍でございます。名は金(かな)沢(ざわ)の武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気(きだ)立(て)でございますから、遺(いこ)恨(ん)なぞ受ける筈はございません。
娘でございますか? 娘の名は真(まさ)砂(ご)、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼(めじ)尻(り)に黒(ほく)子(ろ)のある、小さい瓜(うり)実(ざね)顔(がお)でございます。
武弘は昨(きの)日(う)娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻(むこ)の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥(うば)が一生のお願いでございますから、たとい草(くさ)木(き)を分けましても、娘の行(ゆく)方(え)をお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多(たじ)襄(ょう)丸(まる)とか何とか申す、盗(ぬす)人(びと)のやつでございます。壻ばかりか、娘までも………︵跡は泣き入りて言葉なし︶
× × ×
あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷(ごう)問(もん)にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑(ひき)怯(ょう)な隠し立てはしないつもりです。
わたしは昨(きの)日(う)の午(ひる)少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍(ひょ)子(うし)に、牟(む)子(し)の垂(たれ)絹(ぎぬ)が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女(にょ)菩(ぼさ)薩(つ)のように見えたのです。わたしはその咄(とっ)嗟(さ)の間(あいだ)に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪(うば)うとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太(た)刀(ち)を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立(りっ)派(ぱ)に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。︵皮肉なる微笑︶
しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山(やま)科(しな)の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工(くふ)夫(う)をしました。
これも造(ぞう)作(さ)はありません。わたしはあの夫婦と途(みち)づれになると、向うの山には古(ふる)塚(づか)がある、この古塚を発(あば)いて見たら、鏡や太(た)刀(ち)が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪(やぶ)の中へ、そう云う物を埋(うず)めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半(はん)時(とき)もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山(やま)路(みち)へ馬を向けていたのです。
わたしは藪(やぶ)の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇(かわ)いていますから、異(いぞ)存(ん)のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺(つぼ)にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。
藪はしばらくの間(あいだ)は竹ばかりです。が、半(はん)町(ちょう)ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都(つご)合(う)の好(い)い場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩(や)せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎(まば)らになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩(は)いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括(くく)りつけられてしまいました。縄(なわ)ですか? 縄は盗(ぬす)人(びと)の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬(ほお)張(ば)らせれば、ほかに面倒はありません。
わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図(ずぼ)星(し)に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市(いち)女(めが)笠(さ)を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛(しば)られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐(ふところ)から出していたか、きらりと小(さす)刀(が)を引き抜きました。わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈(はげ)しい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾(ひば)腹(ら)を突かれたでしょう。いや、それは身を躱(かわ)したところが、無(むに)二(む)無(ざ)三(ん)に斬り立てられる内には、どんな怪(け)我(が)も仕兼ねなかったのです。が、わたしも多(たじ)襄(ょう)丸(まる)ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小(さす)刀(が)を打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後(あと)に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋(すが)りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥(はじ)を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘(あえ)ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。︵陰鬱なる興奮︶
こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残(ざん)酷(こく)な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳(ひとみ)を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神(かみ)鳴(なり)に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念(ねん)頭(とう)にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑(いや)しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴(けた)倒(お)しても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太(た)刀(ち)に、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹(せつ)那(な)、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
しかし男を殺すにしても、卑(ひき)怯(ょう)な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。︵杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。︶男は血(けっ)相(そう)を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利(き)かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合(ごう)目(め)に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。︵快活なる微笑︶
わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡(あと)も残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉(のど)に、断(だん)末(まつ)魔(ま)の音がするだけです。
事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山(やま)路(みち)へ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後(ご)の事は申し上げるだけ、無用の口(くち)数(かず)に過ぎますまい。ただ、都(みやこ)へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗(おうち)の梢(こずえ)に、懸ける首と思っていますから、どうか極(ごっ)刑(けい)に遇わせて下さい。︵昂(こう)然(ぜん)たる態度︶
――その紺(こん)の水(すい)干(かん)を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲(あざけ)るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身(みも)悶(だ)えをしても、体(から)中(だじゅう)にかかった縄(なわ)目(め)は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転(ころ)ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄(とっ)嗟(さ)の間(あいだ)に、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途(とた)端(ん)です。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚(さと)りました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身(みぶ)震(る)いが出ずにはいられません。口さえ一(いち)言(ごん)も利(き)けない夫は、その刹(せつ)那(な)の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃(ひらめ)いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑(さげす)んだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
その内にやっと気がついて見ると、あの紺(こん)の水(すい)干(かん)の男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫が縛(しば)られているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑(さげす)みの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中(うち)は、何と云えば好(よ)いかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
﹁あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥(はじ)を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。﹂
わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌(いま)わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂(さ)けそうな胸を抑えながら、夫の太(た)刀(ち)を探しました。が、あの盗(ぬす)人(びと)に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小(さす)刀(が)だけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
﹁ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。﹂
夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇(くちびる)を動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、﹁殺せ。﹂と一(ひと)言(こと)云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹(はなだ)の水干の胸へ、ずぶりと小(さす)刀(が)を刺し通しました。
わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交(まじ)った杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死(しが)骸(い)の縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小(さす)刀(が)を喉(のど)に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自(じま)慢(ん)にはなりますまい。︵寂しき微笑︶わたしのように腑(ふ)甲(が)斐(い)ないものは、大慈大悲の観(かん)世(ぜお)音(んぼ)菩(さ)薩(つ)も、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗(ぬす)人(びと)の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好(よ)いのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――︵突然烈しき歔(すす)欷(りなき)︶
――盗(ぬす)人(びと)は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利(き)けない。体も杉の根に縛(しば)られている。が、おれはその間(あいだ)に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真(ま)に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄(しょ)然(うぜん)と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬(ねたま)しさに身(みも)悶(だ)えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大(だい)胆(たん)にも、そう云う話さえ持ち出した。
盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡(もた)げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中(ちゅ)有(うう)に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔(しん)恚(い)に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――﹁ではどこへでもつれて行って下さい。﹂︵長き沈黙︶
妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇(やみ)の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔(がん)色(しよく)を失ったなり、杉の根のおれを指さした。﹁あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。﹂――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。﹁あの人を殺して下さい。﹂――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆(さか)様(さま)におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪(のろ)わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――︵突然迸(ほとばし)るごとき嘲(ちょ)笑(うしょう)︶その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。﹁あの人を殺して下さい。﹂――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋(すが)っている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴(けた)倒(お)された、︵再(ふたた)び迸るごとき嘲笑︶盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。﹁あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷(うなず)けば好(よ)い。殺すか?﹂――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦(ゆる)してやりたい。︵再び、長き沈黙︶
妻はおれがためらう内に、何か一(ひと)声(こえ)叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄(とっ)嗟(さ)に飛びかかったが、これは袖(そで)さえ捉(とら)えなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
盗人は妻が逃げ去った後(のち)、太(た)刀(ち)や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄(なわ)を切った。﹁今度はおれの身の上だ。﹂――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟(つぶや)いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? ︵三(みた)度(び)、長き沈黙︶
おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小(さす)刀(が)が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺(さ)した。何か腥(なまぐさ)い塊(かたまり)がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山(やま)陰(かげ)の藪の空には、小鳥一羽囀(さえず)りに来ない。ただ杉や竹の杪(うら)に、寂しい日影が漂(ただよ)っている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄(うす)闇(やみ)が立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小(さす)刀(が)を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢(あふ)れて来る。おれはそれぎり永久に、中(ちゅ)有(うう)の闇へ沈んでしまった。………
︵大正十年十二月︶
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