私の家は代々お奥おく坊ぼう主ずだったのですが、父も母もはなはだ特徴のない平凡な人間です。父には一いっ中ちゅ節うぶし、囲碁、盆栽、俳句などの道楽がありますが、いずれもものになっていそうもありません。母は津つと藤うの姪めいで、昔の話をたくさん知っています。そのほかに伯お母ばが一人いて、それが特に私のめんどうをみてくれました。今でもみてくれています。家うちじゅうで顔がいちばん私に似ているのもこの伯母なら、心もちの上で共通点のいちばん多いのもこの伯母です。伯母がいなかったら、今こん日にちのような私ができたかどうかわかりません。
文学をやることは、誰だれも全然反対しませんでした。父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。その代わり実業家になるとか、工学士になるとか言ったらかえって反対されたかもしれません。
芝居や小説はずいぶん小さい時から見ました。先せんの団だん十じゅ郎うろう、菊きく五ごろ郎う、秀しゅ調うちょうなぞも覚えています。私がはじめて芝居を見たのは、団十郎が斎さい藤とう内くら蔵の之す助けをやった時だそうですが、これはよく覚えていません。なんでもこの時は内蔵之助が馬をひいて花はな道みちへかかると、桟さじ敷きの後ろで母におぶさっていた私が、うれしがって、大きな声で﹁ああうまえん﹂と言ったそうです。二つか三つくらいの時でしょう。小説らしい小説は、泉いず鏡みき花ょうか氏の﹁化ばけ銀いち杏ょう﹂が始めだったかと思います。もっともその前に﹁倭やま文とぶ庫んこ﹂や﹁妙みょ々うみ車ょうぐるま﹂のようなものは卒業していました。これはもう高等小学校へはいってからです。