一
ある花曇りの朝だった。広ひろ子こは京きょ都うとの停車場から東京行ゆきの急行列車に乗った。それは結婚後二年ぶりに母親の機きげ嫌んを伺うかがうためもあれば、母かたの祖父の金婚式へ顔をつらねるためもあった。しかしまだそのほかにもまんざら用のない体ではなかった。彼女はちょうどこの機会に、妹の辰たつ子この恋愛問題にも解決をつけたいと思っていた。妹の希望をかなえるにしろ、あるいはまたかなえないにしろ、とにかくある解決だけはつけなければならぬと思っていた。
この問題を広子の知ったのは四五日前に受け取った辰子の手紙を読んだ時だった。広子は年ごろの妹に恋愛問題の起ったことは格別意外にも思わなかった。予期したと言うほどではなかったにしろ、当然とは確かに思っていた。けれどもその恋愛の相手に篤あつ介すけを選んだと言うことだけは意外に思わずにはいられなかった。広子は汽車に揺ゆられている今でも、篤介のことを考えると、何か急に妹との間に谷あいの出来たことを感ずるのだった。
篤介は広子にも顔かお馴な染じみのあるある洋画研究所の生徒だった。処しょ女じょ時代の彼女は妹と一しょに、この画の具だらけの青年をひそかに﹁猿さる﹂と諢あだ名なしていた。彼は実際顔の赤い、妙に目ばかり赫かがやかせた、――つまり猿じみた青年だった。のみならず身なりも貧しかった。彼は冬も金きん釦ボタンの制服に古いレエン・コオトをひっかけていた。広子は勿もち論ろん篤介に何の興味も感じなかった。辰子も――辰子は姉に比べると、一層彼を好まぬらしかった。あるいはむしろ積極的に憎んでいたとも云われるほどだった。一度なども辰子は電車に乗ると、篤介の隣りに坐ることになった。それだけでも彼女には愉ゆか快いではなかった。そこへまた彼は膝ひざの上の新聞紙包みを拡ひろげると、せっせとパンを噛かじり出した。電車の中の人々の目は云い合せたように篤介へ向った。彼女は彼女自身の上にも残ざん酷こくにその目の注そそがれるのを感じた。しかし彼は目まじろぎもせずに悠々とパンを食いつづけるのだった。……
﹁野やば蛮んじ人んよ、あの人は。﹂
広子はこのことのあって後のち、こう辰子の罵ののしったのをいまさらのように思い出した。なぜその篤介を愛するようになったか?――それは広子には不可解だった。けれども妹の気きし質つを思えば、一旦篤介を愛し出したが最後、どのくらい情熱に燃えているかはたいてい想像出来るような気がした。辰子は物ぶっ故こした父のように、何ごとにも一いち図ずになる気質だった。たとえば油あぶ画らえを始めた時にも、彼女の夢中になりさ加減は家族中の予想を超ちょ越うえつしていた。彼女は華きゃ奢しゃな画の具箱を小こわ脇きに、篤介と同じ研究所へ毎日せっせと通かよい出した。同時にまた彼女の居い間まの壁には一週に必ず一枚ずつ新しい油画がかかり出した。油画は六号か八号のカンヴァスに人体ならば顔ばかりを、風景ならば西洋風の建物を描えがいたのが多いようだった。広子は結婚前の何箇月か、――殊に深い秋の夜よなどにはそう云う油画の並んだ部屋に何時間も妹と話しこんだ。辰子はいつも熱心にゴオグとかセザンヌとかの話をした。当時どこかに上演中だった武むし者ゃの小こう路じ氏の戯曲の話もした。広子も美術だの文芸だのに全然興味のない訣わけではなかった。しかし彼女の空想は芸術とはほとんど縁のない未来の生活の上に休み勝ちだった。目はその間も額がく縁ぶちに入れた机の上の玉たま葱ねぎだの、繃ほう帯たいをした少女の顔だの、芋いも畑ばたけの向うに連つらなった監かん獄ごくの壁だのを眺めながら。……
﹁何なんと言うの、あなたの画えの流儀は?﹂
広子はそんなことを尋たずねたために辰子を怒おこらせたのを思い出した。もっとも妹に怒られることは必ずしも珍らしい出来事ではなかった。彼等は芸術の見かたは勿論、生活上の問題などにも意見の違うことはたびたびあった。現にある時は武者小路氏の戯曲さえ言い合いの種になった。その戯曲は失明した兄のために犠ぎせ牲いて的きの結婚を敢あえてする妹のことを書いたものだった。広子はこの上演を見物した時から、︵彼女はよくよく退屈しない限り、小説や戯曲を読んだことはなかった。︶芸術家肌の兄を好まなかった。たとい失明していたにしろ、按あん摩まにでも何なんにでもなれば好いいのに、妹の犠牲を受けているのは利己主義者であるとも極言した。辰子は姉とは反対に兄にも妹にも同情していた。姉の意見は厳げん粛しゅくな悲劇をわざと喜劇に翻訳する世間人の遊戯であるなどとも言った。こう言う言い合いのつのった末には二人ともきっと怒り出した。けれどもさきに怒り出すのはいつも辰子にきまっていた。広子はそこに彼女自身の優ゆう越えつを感ぜずにはいられなかった。それは辰子よりも人間の心を看かん破ぱしていると言う優越だった。あるいは辰子ほど空疎な理想に捉とらわれていないと言う優越だった。
﹁姉さん。どうか今夜だけはほんとうの姉さんになって下さい。聡そう明めいないつもの姉さんではなしに。﹂
三度目に広子の思い出したのは妹の手紙の一いち行ぎょうだった。その手紙は不あい相かわ変らず白い紙を細かいペンの字に埋うずめていた。しかし篤介との関係になると、ほとんど何ごとも書いてなかった。ただ念入りに繰り返してあるのは彼等は互に愛し合っていると云う、簡単な事実ばかりだった。広子は勿論行ぎょうの間に彼等の関係を読もうとした。実際またそう思って読んで行けば、疑わしい個所もないではなかった。けれども再さい応おう考えて見ると、それも皆彼女の邪じゃ推すいらしかった。広子は今もとりとめのない苛いら立だたしさを感じながら、もう一度何か憂ゆう鬱うつな篤介の姿を思い浮べた。すると急に篤介の匂におい――篤介の体の発散する匂は干ほし草くさに似ているような気がし出した。彼女の経験に誤りがなければ、干し草の匂のする男性はたいてい浅ましい動物的の本能に富んでいるらしかった。広子はそう云う篤介と一しょに純粋な妹を考えるのは考えるのに堪えない心もちがした。
広子の聯れん想そうはそれからそれへと、とめどなしに流れつづけた。彼女は汽車の窓まど側ぎわにきちりと膝ひざを重ねたまま、時どき窓の外へ目を移した。汽車は美み濃のの国くに境ざかいに近い近おう江みの山やま峡かいを走っていた。山峡には竹たけ藪やぶや杉林の間に白じろと桜の咲いているのも見えた。﹁この辺へんは余ほど寒いと見える。﹂――広子はいつか嵐あら山しやまの桜も散り出したことなどを思い出していた。
二
広ひろ子こは東京へ帰った後のち、何かと用ばかり多かったために二三日の間は妹とも話をする機会を捉とらえなかった。それをやっと捉えたのは母かたの祖父の金婚式から帰って来た夜よるの十時ごろだった。妹の居い間まには例の通り壁と云う壁に油あぶ画らえがかかり、畳に据すえた円えん卓たくの上にも黄色い笠をかけた電燈が二年前の光りを放っていた。広子は寝ね間ま着きに着換えた上へ、羽織だけ紋もんのあるのをひっかけたまま、円卓の前の安あん楽らく椅い子すへ坐った。
﹁ただ今お茶をさし上げます。﹂
辰たつ子こは姉の向うに坐ると、わざと真ま面じ目めにこんなことを言った。
﹁いえ、もうどうぞ。――ほんとうにお茶なんぞ入いらないことよ。﹂
﹁じゃ紅茶でも入れましょうか?﹂
﹁紅茶も沢山。――それよりもあの話を聞かせて頂ちょ戴うだい。﹂
広子は妹の顔を見ながら、出来るだけ気軽にこう言った。と言うのは彼女の感情を、――かなり複雑な陰影を帯びた好奇心だの非難だのあるいはまた同情だのを見み透すかされないためもあれば、被告じみた妹の心もちを楽らくにしてやりたいためもあったのだった。しかし辰子は思いのほか、困ったらしいけはいも見せなかった。いや、その時の彼女のそぶりに少しでも変化があったとすれば、それは浅黒い顔のどこかにほとんど目にも止らぬくらい、緊きん張ちょうした色が動いただけだった。
﹁ええ、ぜひわたしも姉さんに聞いて頂きたいの。﹂
広子は内心プロロオグの簡単にすんだことに満足した。けれども辰子はそう言ったぎり、しばらく口を開ひらかなかった。広子は妹の沈黙を話し悪にくいためと解釈した。しかし妹を促うながすことはちょっと残ざん酷こくな心もちがした。同時にまたそう云う妹の羞しゅ恥うちを享楽したい心もちもした。かたがた広子は安楽椅子の背に西せい洋よう髪がみの頭を靠もたせたまま、全然当面の問題とは縁のない詠嘆の言葉を落した。
﹁何だか昔に返ったような気がするわね、この椅子にこうやって坐っていると。﹂
広子は彼女自身の言葉に少女じみた感動を催しながら、うっとり部屋の中を眺めまわした。なるほど椅子も、電燈も、円卓も、壁の油画も昔の記憶の通りだった。が、何かその間に不思議な変化が起っていた。何か?――広子はたちまちこの変化を油画の上に発見した。机の上の玉たま葱ねぎだの、繃ほう帯たいをした少女の顔だの、芋いも畠ばたけの向うの監獄だのはいつの間まにかどこかへ消え失うせていた。あるいは消え失せてしまわないまでも、二年前には見られなかった、柔かい明るさを呼吸していた。殊に広子は正しょ面うめんにある一枚の油画に珍らしさを感じた。それはどこかの庭を描えがいた六号ばかりの小しょ品うひんだった。白しら茶ちゃけた苔こけに掩おおわれた木々と木こず末えに咲いた藤の花と木々の間に仄ほのめいた池と、――画面にはそのほかに何もなかった。しかしそこにはどの画えよりもしっとりした明るさが漂ただよっていた。
﹁あなたの画、あそこにあるのも?﹂
辰子は後うしろを振り向かずに、姉の指ゆびさした画を推察した。
﹁あの画? あれは大おお村むらの。﹂
大村は篤介の苗みょ字うじだった。広子は﹁大村の﹂に微笑を感じた。が、一瞬間羨うらやましさに似た何ものかを感じたのも事実だった。しかし辰子は無むと頓んじ着ゃくに羽織の紐ひもをいじりいじり、落ち着いた声に話しつづけた。
﹁田いな舎かの家うちの庭を描かいたのですって。――大村の家は旧家なんですって。﹂
﹁今は何をしているの?﹂
﹁県会議員か何なんかでしょう。銀行や会社も持っているようよ。﹂
﹁あの人は次男か三男かなの?﹂
﹁長男――って云うのかしら? 一人きりしかいないんですって。﹂
広子はいつか彼等の話が当面の問題へはいり出した、――と言うよりもむしろその一部を解決していたのに気がついた。今度の事件を聞かされて以来、彼女の気がかりになっていたのはやはり篤介の身みぶ分んだった。殊に貧しげな彼の身なりはこの世俗的な問題に一層の重みを加えていた。それを今彼等の問答は無むぞ造う作さに片づけてしまったのだった。ふとその事実に気のついた広子は急に常じょ談うだんを言う寛くつろぎを感じた。
﹁じゃ立りっ派ぱな若旦那様なのね。﹂
﹁ええ、ただそりゃボエエムなの。下げし宿ゅくも妙なところにいるのよ。羅らし紗ゃ屋やの倉そう庫この二階を借りているの。﹂
辰子はほとんど狡こう猾かつそうにちらりと姉へ微笑を送った。広子はこの微笑の中に突然一いち人にん前まえの女を捉とらえた。もっともこれは東京駅へ出迎えた妹を見た時から、時々意識へ上のぼることだった。けれどもまだ今のように、はっきり焦点の合ったことはなかった。広子はその意識と共にたちまち篤介との関係にも多少の疑惑を抱き出した。
﹁あなたもそこへ行ったことがあるの?﹂
﹁ええ、たびたび行ったことがあるわ。﹂
広子の聯れん想そうは結婚前のある夜よの記憶を呼び起した。母はその夜よ風ふ呂ろにはいりながら、彼女に日どりのきまったことを話した。それから常じょ談うだんとも真ま面じ目めともつかずに体の具ぐあ合いを尋ねたりした。生あい憎にくその夜の母のように淡白な態度に出られなかった彼女は、今もただじっと妹の顔を見守るよりほかに仕かたはなかった。しかし辰子は不あい相かわ変らず落ち着いた微笑を浮べながら、眩まぶしそうに黄色い電燈の笠へ目をやっているばかりだった。
﹁そんなことをしてもかまわないの?﹂
﹁大村が?﹂
﹁いいえ、あなたがよ。誤解でもされたら、迷惑じゃなくって?﹂
﹁どうせ誤解はされ通しよ。何しろ研究所の連中と来たら、そりゃ口がうるさいんですもの。﹂
広子はちょっと苛いら立だたしさを感じた。のみならず取り澄ました妹の態度も芝居ではないかと言う猜さい疑ぎさえ生じた。すると辰子は弄もてあそんでいた羽織の紐ひもを投げるようにするなり、突然こう言う問といを発した。
﹁母かあさんは許して下さるでしょうか?﹂
広子はもう一度苛いら立だたしさを感じた。それは恬てん然ぜんと切りこんで来る妹に対する苛立たしさでもあれば、だんだん受うけ太だ刀ちになって来る彼女自身に対する苛立たしさでもあった。彼女は篤介の油画へ浮かない目を遊ばせたまま﹁そうねえ﹂と煮にえ切らない返事をした。
﹁姉さんから話していただけない?﹂
辰子はやや甘えるように広子の視線を捉とらえようとした。
﹁わたしから話すったって、――わたしもあなたたちのことは知らないじゃないの?﹂
﹁だから聞いて頂ちょ戴うだいって言っているのよ。それをちっとも姉さんは聞く気になってくれないんですもの。﹂
広子はこの話のはじまった時、辰子のしばらく沈黙したのを話し悪にくいためと解釈した。が、今になって見ると、その沈黙は話し悪いよりも、むしろ話したさをこらえながら、姉の勧すすめるのを待っていたのだった。広子は勿論後うしろめたい気がした。
しかしまた咄とっ嗟さに妹の言葉を利用することも忘れなかった。
﹁あら、あなたこそ話さないんじゃないの?――じゃすっかり聞かせて頂戴。その上でわたしも考えて見るから。﹂
﹁そう? じゃとにかく話して見るわ。その代りひやかしたり何かしちゃ厭いやよ。﹂
辰子はまともに姉の顔を見たまま、彼女の恋愛問題を話し出した。広子は小こく首びを傾けながら、時々返事をする代りに静かな点てん頭とうを送っていた。が、内心はこの間も絶えず二つの問題を解決しようとあせっていた。その一つは彼等の恋愛の何のために生じたかと言うことであり、もう一つは彼等の関係のどのくらい進んでいるかと言うことだった。しかし正直な妹の話もほとんど第一の問題には何の解決も与えなかった。辰子はただ篤介と毎日顔を合せているうちにいつか彼と懇こん意いになり、いつかまた彼を愛したのだった。のみならず第二の問題もやはり判然とはわからなかった。辰子は他人の身の上のように彼の求婚した時のことを話した。しかもそれは抒じょ情じょ詩うしよりもむしろ喜劇に近いものだった。――
﹁大村は電話で求婚したの。可お笑かしいでしょう? 何なんでも画えに失敗して、畳の上にころがっていたら、急にそんな気になったんですって。だっていきなりどうだって言ったって、返事に困ってしまうじゃないの? おまけにその時は電話室の外へ母かあさんも探さがしものに来ているんでしょう? わたし、仕かたがなかったから、ただウイ、ウイって言って置いたの。……﹂
それから?――それから先も妹の話は軽快に事件を追って行った。彼等は一しょに展覧会を見たり、植物園へ写生に行ったり、ある独ドイ逸ツのピアニストを聴きいたりしていた。が、彼等の関係は辰子の言葉を信用すれば、友だち以上に出ないものだった。広子はそれでも油断せずに妹の顔色を窺うかがったり、話の裏を考えたり、一二度は鎌かまさえかけて見たりした。しかし辰子は電燈の光に落ち着いた瞳ひとみを澄すませたまま、少しも臆おくした色を見せないのだった。
﹁まあ、ざっとこう言う始しま末つなの。――ああ、それから姉さんにわたしから手紙を上げたことね、あのことは大村にも話して置いたの。﹂
広子は妹の話し終った時、勿論歯はが痒ゆいもの足らなさを感じた。けれども一ひと通とおり打ち明けられて見ると、これ以上第二の問題には深入り出来ないのに違いなかった。彼女はそのためにやむを得ず第一の問題に縋すがりついた。
﹁だってあなたはあの人は大だい嫌きらいだって言っていたじゃないの?﹂
広子はいつか声の中にはいった挑ちょ戦うせんの調子を意識していた。が、辰子はこの問にさえ笑えが顔おを見せたばかりだった。
﹁大村もわたしは大嫌いだったんですって。ジン・コクテルくらいは飲みそうな気がしたんですって。﹂
﹁そんなものを飲む人がいるの?﹂
﹁そりゃいるわ。男のように胡あぐ坐らをかいて花を引く人もいるんですもの。﹂
﹁それがあなたがたの新時代?﹂
﹁かも知れないと思っているの。……﹂
辰子は姉の予想したよりも遥はるかに真ま面じ目めに返事をした。と思うとたちまち微びし笑ょうと一しょにもう一度話わと頭うを引き戻した。
﹁それよりもわたしの問題だわね、姉さんから話していただけない?﹂
﹁そりゃ話して上げないこともないわ。上げないこともないけれども、――﹂
広子はあらゆる姉のように忠告の言葉を加えようとした。すると辰子はそれよりも先にこう話を截せつ断だんした。
﹁とにかく大村を知らないじゃね。――じゃ姉さん、二三日中うちに大村に会っちゃ下さらない? 大村も喜んでお目にかかると思うの。﹂
広子はこの話頭の変化に思わず大村の油画を眺めた。藤の花は苔こけばんだ木々の間になぜか前よりもほのぼのとしていた。彼女は一瞬間心の中に昔の﹁猿さる﹂を髣ほう髴ふつしながら、曖あい昧まいに﹁そうねえ﹂を繰くり返した。が、辰子は﹁そうねえ﹂くらいに満足する気けし色きも見せなかった。
﹁じゃ会って下さるわね。大村の下宿へ行って下さる?﹂
﹁だって下宿へも行いかれないじゃないの?﹂
﹁じゃここへ来て貰もらいましょうか? それも何なんだか可お笑かしいわね。﹂
﹁あの人は前にも来たことはあるの?﹂
﹁いいえ、まだ一度もないの。それだから何だか可笑しいのよ。じゃあと、――じゃこうして下さらない? 大村は明あさ後っ日て表ひょ慶うけ館いかんへ画を見に行ゆくことになっているの。その時刻に姉さんも表慶館へ行って大村に会っちゃ下さらない?﹂
﹁そうねえ、わたしも明後日ならば、ちょうどお墓参りをする次つい手でもあるし。……﹂
広子はうっかりこう言った後のち、たちまち軽けい率そつを後悔した。けれども辰子はその時にはもう別べつ人じんかと思うくらい、顔中に喜びを漲みなぎらせていた。
﹁そうお? じゃそうして頂ちょ戴うだい。大村へはわたしから電話をかけて置くわ。﹂
広子は妹の顔を見るなり、いつか完全に妹の意志の凱がい歌かを挙げていたことを発見した。この発見は彼女の義務心よりも彼女の自尊心にこたえるものだった。彼女は最後にもう一度妹の喜びに乗じながら、彼等の秘密へ切りこもうとした。が、辰子はその途とた端んに、――姉の唇くちびるの動こうとした途端に突然体を伸べるが早いか、白おし粉ろいを刷はいた広子の頬ほおへ音の高いキスを贈った。広子は妹のキスを受けた記憶をほとんど持ち合せていなかった。もし一度でもあったとすれば、それはまだ辰子の幼よう稚ちえ園んへ通っていた時代のことだけだった。彼女はこう言う妹のキスに驚きよりもむしろ羞はずかしさを感じた。このショックは勿論浪なみのように彼女の落ち着きを打ち崩した。彼女は半なかば微笑した目にわざと妹を睨にらめるほかはなかった。
﹁いやよ。何をするの?﹂
﹁だってほんとうに嬉しいんですもの。﹂
辰子は円えん卓たくの上へのり出したまま、黄色い電燈の笠越しに浅黒い顔を赫かがやかせていた。
﹁けれども始めからそう思っていたのよ。姉さんはきっとわたしたちのためには何なんでもして下さるのに違いないって。――実は昨きの日うも大村と一いち日んち姉さんの話をしたの。それでね、……﹂
﹁それで?﹂
辰子はちょっと目の中に悪いた戯ずらっ児こらしい閃ひらめきを宿した。
﹁それでもうおしまいだわ。﹂
三
広ひろ子こは化粧道具や何かを入れた銀ぎん細ざい具くのバッグを下げたまま、何なん年ねんにもほとんど来たことのない表ひょ慶うけ館いかんの廊ろう下かを歩いて行った。彼女の心は彼女自身の予期していたよりも静かだった。のみならず彼女はその落ち着きの底に多少の遊ゆう戯ぎし心んを意識していた。数年前の彼女だったとすれば、それはあるいは後うしろめたい意識だったかも知れなかった。が、今は後めたいよりもむしろ誇らしいくらいだった。彼女はいつか肥ふとり出した彼女の肉体を感じながら、明るい廊下の突き当りにある螺らせ旋んじ状ょうの階段を登って行った。
螺旋状の階段を登りつめた所は昼も薄暗い第一室だった。彼女はその薄暗い中に青あお貝がいを鏤ちりばめた古代の楽がっ器きや古代の屏びょ風うぶを発見した。が、肝かん腎じんの篤あつ介すけの姿は生あい憎にくこの部屋には見当らなかった。広子はちょっと陳列棚の硝ガラ子スに彼女の髪かみ形かたちを映して見た後のち、やはり格別急ぎもせずに隣となりの第二室へ足を向けた。
第二室は天てん井じょうから明りを取った、横よりも竪たての長い部屋だった。そのまた長い部屋の両側を硝ガラ子ス越しに埋うずめているのは藤ふじ原わらとか鎌かま倉くらとか言うらしい、もの寂さびた仏画ばかりだった。篤介は今きょ日うも制服の上に狐きつ色ねいろになったクレヴァア・ネットをひっかけ、この伽がら藍んに似た部屋の中をぶらぶら一ひと人り歩いていた。広子は彼の姿を見た時、咄とっ嗟さに敵意の起るのを感じた。しかしそれは掛け値なしにほんの咄嗟の出来事だった。彼はもうその時にはまともにこちらを眺めていた。広子は彼の顔や態度にたちまち昔の﹁猿﹂を感じた。同時にまた気安い軽けい蔑べつを感じた。彼はこちらを眺めたなり、礼をしたものかしないものか判断に迷っているらしかった。その妙に落ち着かない容よう子すは確かに恋愛だのロマンスだのと縁の遠いものに違いなかった。広子は目だけ微笑しながら、こう言う妹の恋人の前へ心もち足あし早ばやに歩いて行った。
﹁大おお村むらさんでいらっしゃいますわね? わたしは――御ごぞ存ん知じでございましょう?﹂
篤介はただ﹁ええ﹂と答えた。彼女はこの﹁ええ﹂の中にはっきり彼の狼ろう狽ばいを感じた。のみならずこの一瞬間に彼の段だん鼻ばなだの、金きん歯ばだの、左の揉もみ上あげの剃かみ刀そり傷きずだの、ズボンの膝ひざのたるんでいることだの、――そのほか一々数えるにも足らぬ無数の事実を発見した。しかし彼女の顔色は何も気づかぬように冴さえ冴ざえしていた。
﹁今きょ日うは勝手なことをお願い申しまして、さぞ御迷惑でございましょう。そんな失礼なことをとは思ったんでございますが、何なんでもと妹が申すもんでございますから。……﹂
広子はこう話しかけたまま、静かにあたりを眺めまわした。リノリウムの床ゆかには何なん脚きゃくかのベンチも背中合せに並んでいた。けれどもそこに腰をかけるのは却かえって人ひと目めに立ち兼ねなかった。人目は?――彼等の前後には観かん覧らん人にんが三四人、今も普ふげ賢んや文もん珠じゅの前にそっと立ち止まったり歩いたりしていた。
﹁いろいろ伺いたいこともあるんでございますけれども、――じゃぶらぶら歩きながら、お話しすることに致しましょうか?﹂
﹁ええ、どうでも。﹂
広子はしばらく無言のまま、ゆっくり草ぞう履りを運んで行った。この沈黙は確かに篤介には精神的拷ごう問もんに等ひとしいらしかった。彼は何か言おうとするようにちょっと一度咳せき払ばらいをした。が、咳払いは天井の硝ガラ子スにたちまち大きい反響を生じた。彼はその反響に恐れたのか、やはり何も言わずに歩きつづけた。広子はこう言う彼の苦痛に多少の憐れん憫びんを感じていた。けれどもまた何なんの矛むじ盾ゅんもなしに多少の享楽をも感じていた。もっとも守しゅ衛えいや観覧人に時々一いち瞥べつを与えられるのは勿論彼女にも不快だった。しかし彼等も年齢の上から、――と言うよりもさらに服装の上から決して二人の関係を誤解しないには違いなかった。彼女はその気安さの上から不安らしい篤介を見みお下ろしていた。彼はあるいは彼女には敵であるかも知れなかった。が、敵であるにもしろ、世よ慣なれぬ妹と五十歩百歩の敵であることは確かだった。……
﹁伺いたいと申しますのは大したことではないんでございますけれどもね、――﹂
彼女は第二室を出ようとした時、ことさら彼へ目をやらずにやっと本ほん文もんへはいり出した。
﹁あれにも母親が一ひと人りございますし、あなたもまた、――あなたは御両親ともおありなんでございますか?﹂
﹁いいえ、親おや父じだけです。﹂
﹁お父とう様さまだけ。御兄弟は確かございませんでしたね?﹂
﹁ええ、僕だけです。﹂
彼等は第二室を通り越した。第二室の外は円まる天井の下に左右へ露ろだ台いを開いた部屋だった。部屋も勿論円形をしていた。そのまた円形は廊ろう下かほどの幅をぐるりと周囲へ余したまま、白い大理石の欄らん干かん越ごしにずっと下の玄関を覗のぞかれるように出来上っていた。彼等は自然と大理石の欄干の外をまわりながら、篤介の家族や親戚や交友のことを話し合った。彼女は微笑を含んだまま、かなり尋ね悪にくい局きょ所くしょにも巧たくみに話を進めて行った。しかしその割に彼女や辰たつ子この家庭の事情などには沈黙していた。それは必ずしも最初から相手を坊ぼっちゃんと見みく縊びった上の打ださ算んではないのに違いなかった。けれどもまた坊ちゃんと見縊らなければ、彼女ももっとこちらの内うち輪わを窺うかがわせていたことは確かだった。
﹁じゃ余りお友だちはおありにならないんでございますね?﹂︵未完︶
︵大正十四年四月︶