病牀苦語 正岡子規

 今日は、正岡子規の「病牀苦語」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
  これは約100回ほどにわたって連載された正岡子規の闘病日記の「病牀六尺」この序盤のところと関わり深い随筆です。闘病中の痛みのことと、人生のこと、この2つを主に記しています。
 子規は「今日の我輩は死を恐れて煩悶して居るのでない」と、記しています。「宗教家らしい人は自分のために心配してくれていろいろの方法を教えてくれる人があるが、いずれも精神安慰法ともいうべきもので、一口にいえば死を恐れしめない方法である。その好意は謝するに余りあるけれども、見当が違った注意であるから何にもならぬ。今日の我輩は死を恐れて煩悶して居るのでない。」ということをなんだかユーモラスに書いているのでした。漱石もこの子規の随筆は読んでいるわけでなんだか「吾輩は猫である」という正岡子規の文芸誌に載せた処女作と、似かよっているところがあるのでは、と思いました。
 子規はこう記します。
「苦痛が少し減じると最早死にたくも何にもない。大概覚悟はして居るけれど、それでも平和な時間が少し余計つづいた時に、ふと死ということを思い出すと、常人と同じように厭な心持になる。人間は実に現金なものであるということを今更に知ることが出来る。」
 昔は仏教もキリスト教も嫌いだったが、文学上の趣味を楽しむようになってから「信仰のある所には愉快な感じが起るようになった」と書いていました。
 また、若い頃からずっと唯物論だった子規が、仏教の坊さんと話していると「他力信心」と正岡子規の唯物的思念は似ているところがある、という指摘を受けたのでした。
 それから別の日の日記が始まり、小鳥のことや植物のことや、ツクシのことを書いていて、これを俳句にしています。病床であっても嬉しかったことを描いているところが印象に残りました。
 寝込みながらも絵具で絵を描いたことなどを、細部まで克明に写生していて、文字で風景を克明に描いてゆく、子規独特の芸術性がこの随筆にも現れているように思いました。子規によると、俳句は短いものであるのに、作者によってまったく違う個性が出てくるのだという指摘があって、なんだかちょっと驚きました。
 げんげの花については、この歳時記の頁にいろいろ記されていました。文芸誌の仲間たちとのことや、高浜虚子や石井露月にかんする評論のことについても書いていました。
 

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