ある崖上の感情 梶井基次郎

 今日は、梶井基次郎の「ある崖上の感情」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 梶井基次郎は、主人公の「私」が街を放浪し軽妙な幻想に耽ってゆく、一人称の小説が多いと思うんですが、今回は2人の青年を描きだす三人称の記載の短編小説でした。
 2人の感覚の相違について、カフェで話し込むところが序盤に展開されます。梶井基次郎は二人の男を描くんですが、どうもたった1人の「俺」のなかに何もかもが収束してゆくように思えるんです。漱石の「吾輩は猫である」の場合は逆に「吾輩」である猫はほとんど物語の全体を俯瞰する眼になっていってけっきょくは三人称のような鳥瞰図を描きだしていって、街で起きるさまざまな事態を観覧するという展開になって一人称に集約できない世界観になると思うんですが、梶井基次郎は三人称で記しても、「檸檬」の全篇をおおう「私」のような一人の人間が立ち現れてくるように思いました。
 好きなことを夢中でやってしまったので、自分は家を持てないのでは……未来の家族を養えるだけの財力が生じないのでは、といったような焦燥が、物語をおおっているように思えました。梶井基次郎と言えば「檸檬」「器楽的幻覚」がおすすめなんです。本文の、こういう箇所が印象に残りました。
quomark03 - ある崖上の感情 梶井基次郎
  ……ある一つの窓ではレシーヴァを耳に当てて一心にラジオを聴いている人の姿が見えた。その一心な姿を見ていると、彼自身の耳の中でもそのラジオの小さい音がきこえて来るようにさえ思われるのだった。quomark end - ある崖上の感情 梶井基次郎
   
 本作では、崖の上からみえる多くの窓をとおして、人々をじっと覗き見ることは、白いベッドで恋人と戯れるよりももっと蠱惑的な事態であると、男が述べるんです。さらにこれを昇華した空想を描いていました。「朝餉の膳」の箇所が、梶井基次郎の家族愛を感じさせる描写なんです。あまたの窓が記されてその中に生きる人間の姿が活写されて、なんだか十数もの掌編小説を蒐集した本を読み終えたような気持ちになる小説でした。
   

0000 - ある崖上の感情 梶井基次郎

装画をクリックするか、ここから全文を読む。 (使い方はこちら) (無料オーディオブックの解説)
(総ページ数/約10頁 ロード時間/約5秒)