今日は、芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
これは谷崎と芥川の有名な文学論争で、芥川はまずこう書いています。
「話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外にある筈である」
谷崎といえば、与謝野晶子訳があるにもかかわらず、源氏物語の現代語訳を1938年ごろから晩年の1965年にかけて三回も作っていることで有名だと思うんですが、今回の議論で、芥川はこう告げています。
僕は決して谷崎氏のやうに我々東海の孤島の民に「構成する力」のないのを悲しんでゐない。
「入り組んだ筋を幾何学的に組み立てる才能」は「源氏物語」のころから盤石で日本作家は「かう云ふ才能を持ち合せてゐる」というように芥川は、指摘しています。谷崎はこれにどうも影響を受けて、十数年後の1938年ごろに源氏物語訳をはじめて、谷崎はこの源氏物語の翻訳を一生の仕事にすることに、したのでは、というように自分には思えました。
序盤で志賀直哉論が記されているんですが、氏の思想の「清潔さ」に重きを置いて論じているのが印象的でした。芥川と谷崎の論争は、おそらく志賀直哉氏が持っている道徳的な清潔さに欠けている創作の箇所に、両者の文学上の問題意識があったのではと、思います。
ほかにも漱石や北原白秋や啄木や正宗白鳥や芭蕉や、ゲーテやシェイクスピアやトルストイ、神曲や近松、ランボーやヴィヨンなど、近代の代表的な文学性についてさまざまに論じているので、近代文芸の全体像が見えてくる、すてきな評論に思いました。本論の主な論旨は本文にこう書いていました。
僕は何度も繰り返して言ふやうに「筋のない小説」ばかり書けと言つてゐる訣ではない。従つて何も谷崎潤一郎氏と対蹠点に立つてゐる訣ではない。唯かう云ふ小説の価値も認めて貰ひたいと言つてゐるのである。
中盤で中国文化を模倣すること、西洋人が日本の美術を模倣すること、創作における模倣と昇華について論じています。文芸における、代作と師弟にかんしてちょっと書いているんですが、そういえば哲学者のソクラテスや老子は、弟子によって公式に書かれた思想書なので、文学に代作者が居てもなんの不思議も無いはずだ、と思いました。遠野物語などの、聞き書きの文学はいわば代作の芸術に近いところがあるのでは、と思いました。終盤では、ギリシャ芸術に関する、憧憬と不可思議さについて書いています。
中盤65%あたりから、谷崎潤一郎と源氏物語のことを記していて、やはりこの本の文芸的思索も手伝って、谷崎は1938年ごろから1965年にかけて、繰り返し源氏物語を翻訳するようになったんだろうと、思いました。芥川が小説論を盛んに論じながら「詩人」という言葉に深い思い入れのあることが印象に残りました。本文こうです。
僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する為に作つてゐるのではない。況んや現世の社会組織を一新する為に作つてゐるのではない。唯僕の中の詩人を完成する為に作つてゐるのである。
終盤では、森鴎外と批評、それから新感覚派や横光利一について書いていました。
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追記 文学上の不思議な話をいくつも書いていて、とくにトルストイとヒステリイについての挿話が興味深かったです。
ほかにも、書かれた作品が古典として残るには「アナトオル・フランスの言つたやうに後代へ飛んで行く為には身軽であることを条件としてゐる。すると古典と呼ばれるものは或はどう云ふ人々にも容易に読み通し易いものかも知れない」というのもすてきな考察に思いました。それから以下の寸評が、芥川の文学創作に於いて重要な記載に思いました。
僕は義理にも芸術上の叛逆に賛成したいと思ふ一人である。が、事実上叛逆者は決して珍らしいものではない。或は前人の蹤を追つたものよりも遙かに多いことであらう。彼等は成程叛逆した。しかし何に叛逆するかをはつきりと感じてゐなかつた。大抵彼等の叛逆は前人よりも前人の追従者に対する叛逆である。
最後は、ゲーテの偉大な芸術を前にして、去勢された自己を認識せざるを得なかったハイネの文芸論で締めくくっていました。