今日は、萩原朔太郎の「僕の孤独癖について」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
欧米でも近代日本でも、作家といえば社交的で、世界中の人々と幅広く交際しているという……ゲーテや鴎外のように、人づきあいの盛んな人が多いと思います。ところが萩原朔太郎はそうではなくて、昔から「人嫌ひ」「交際嫌ひ」で小中学校でもさんざんいじめられてしまって「人嫌ひになり、非社交的な人物になつてしまつた」
それだけではなく困った癖があって「意識の反対衝動に駆られ」て「例へば町へ行かうとして家を出る時、逆に森へ行けといふ強迫命令が起つて来る」さらには、愛すべき友人に対して、ののしりの言葉が口をついて出てしまう、というのでした。
その萩原の好きな哲学者は、ニーチェやショーペンハウアーで、思想上でも孤高を好むようになっていった。
「詩人と、哲学者と、天才とは、孤独であるやうに宿命づけられて居る」というショーペンハウアーの言葉を愛して「常に群集の中を徘徊してゐる人間は、この世に於て、常に最も孤独な寂しい人間なのである」というボードレールの言葉を信じ「常に孤独で居る人間は、稀れに逢ふ友人との会合を、さながら宴会のやうに嬉しがる」というニーチェの言葉に、生の喜びを知るのでした。萩原は本を読んで、言葉を記すことが、魂を治癒し慰撫をもたらすものであると考えているようです。
破天荒で人との諍いが絶えなかった青年時代を過ぎ、成人すると神経が図太くなって、日ごろの妄想も減退していった。
若いころの性格とはまるで異なっていって「代りに、詩は年齢と共に拙くなつて」平凡な人間性に至っていったという自己分析をしているのでした。萩原はまたこう書きます。
ニイチェは読書を「休息」だと言つたが、今の僕にとつて、交際はたしかに一つの「休息」である。人と話をして居る間だけは、何も考へずに愉快で居られるからである。
次の文章が印象に残りました。
友人が無ければ、人は犬や鳥とさへ話をするのだ。畢竟人が孤独で居るのは、周囲に自分の理解者が無いからである。天才が孤独で居るのは、その人の生きてる時代に、自己の理解者がないためである。
さいごの「ミネルバのふくろうは迫り来る黄昏に飛び立つ」というのはこれはヘーゲルが記したローマ神話のエピソードなんだそうです。萩原が記した一文がなんだか、印象に残りました。
ミネルバの梟は、もはやその暗い洞窟から出て、白昼を飛ぶことが出来るだらう。僕はその希望を夢に見て楽しんでゐる。
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