今日は、三木清の「如何に読書すべきか」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
知識人は1冊の本を書くのに前もって100冊の本を精読する、という話しを聞いたことがあって、それはちょっと無理だなと思ったことがあるんですが、この三木清の読書論は、おもに本をいろいろ読みはじめたばかりの、一般的な学生に対して記しているもので、分かりやすい内容の随筆でした。良く読書するには、それを習慣にすることが良いと、はじめにすすめています。
本の危険性についてもいくつか論じていて、乱読の結果、身を滅ぼしたり過ちに至ったりということはありえるけれども「しかしひとは濫読の危険を通じて自分の気質に適した読書法に達することができる」というように記載していました。
また「悪い本」にかんする考察があって、益がないだけでなく「善いものと悪いものとを区別することができなくなってしまう」という指摘がなんだかおそろしく感じました。振り込め詐欺師の言語活動には、判断力を失わせるという方針がありますが、善いものを選びとるためには、これらを見分けられるようになる必要がある。
古典の現代語訳なら、たいてい悪いものごとは淘汰されているところがあって、三木清は「全部理解されなくても好い、ともかく善いものにぶっつかってゆくことが肝要である」というように説いていました。
中盤には、この古典を読むことの魅力をいろいろ書いていました。
また、ザッと目を通してみてから繰り返し読むという読書法や、のちのちに再読することの重要性などについて書いていました。強制されて本を読むのはまずくて、自分の問題意識や自分の考えと結びつけて、思索のために本を読んだり「発見的」に本を読みすすめる。そのためには「その本を批評するためにも、その本を楽しむためにも、緩やかに読むことが大切である。」と三木清は論じています。
つねに考えながら読みすすめ「読書は思索のためのものでなければならず、むしろ読書そのものに思索が結び附かなければならない」と書いていました。
本の文面を信じて疑わない、ということは辞めて、批評しつつ考えて読みすすめてゆく。文や物語を観察し、なにかを発見して読む、という三木清の読書論でした。
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