今日は、坂口安吾の「推理小説について」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
ネタバレを許せないジャンルはあまたにあるわけで現代映画や、数時間おくれで追いかけるスポーツ観戦の場合は、検索中にこのオチの部分が表示されてしまうと、その魅力がとにかく激減することがあると思うんです。ところがダンテ「神曲」やゲーテ「ファウスト」や「古事記」や「源氏物語」などの場合は、むしろ作品の概要や要点をあらかじめ知ってから読むほうが、読書中に迷子にならずに済んで、その魅力の見落としを防げるわけで、人によるとは思うんですが、古典の名作の場合は、国語の教科書みたいに、いきなり話しの中心の抜粋だけを読んでしまったり、名作の噂を聞いたり、要約版を事前に読んだほうが、その長大な物語を楽しめると思います。
今回坂口安吾は、推理小説全般を読み解くにあたって、横溝正史の名作「蝶々殺人事件」のトリックの重大部分を盛大にネタバレして書いていて、推理小説はいちばんこれが禁じられていると思うんですが、こんなに堂々と書いてしまうのが、坂口安吾の独特な文体なんだと思いました。二段落目に推理小説によくある、もっとも重大な欠点を指摘していて「なぞのために人間性を不当にゆがめている」のが問題だ、というように坂口安吾は主張します。ポーの「黒猫」では、謎がそのまま文学性に繋がっていて、全容が見えてからのほうが読み応えがあって、再読したときのほうがむしろ興味深かったりすると思うんですが、推理小説の場合は、再読ができない「ピンからキリまで人間性をゆがめ放題にゆがめてい」て「読者に犯人の当るはずはない」というような作品があったりする。2回目に読んだときのほうが、新鮮に読めた、というようなことがほとんど起きない……。また推理小説の「フェアな作品」と「アンフェアな作品」の判断基準として、読者に作中で、手がかりを知らせていないで終盤に情報が出るのは、謎解きゲームとしてのゲーム性が乏しいというように書いていました。ほかに、ドストエフスキーと娯楽小説を比較して、こう書いていました。
文学は人間を描くものだから犯罪も描く。犯罪は探偵小説の専売特許ではない、文学が人間の問題として自ら犯罪にのびるのに比べて、探偵小説は、犯罪というものが人間の好奇心をひく、そういう俗な好奇心との取引から自然に専門的なジャンルに生育したもので、本来好奇心に訴えるたのしいものであるべきで、もとよりそれが同時に芸術であって悪かろう筈のものでもない。
近代の娯楽は小説くらいしか無かったと思うんですが、実際に読んでみると、娯楽の小説は圧倒的に現代作品のほうが優れているんです。近代の映画は音もガサガサしていて、動きも悪く、これを娯楽として楽しむことはほとんど不可能なように、近代日本の小説も、娯楽性がとぼしいものが多いんです。今回の「謎解きゲームとして」の「推理小説」論を読んでいて、当時の小説家は、遊びに夢中になって遊ぶふけるためのものを作れるほど、豊かな環境は存在しなかったんだろうと思いました。
長距離走者でも短距離走者でも現代のほうが優れていて、百年前のボクサーと今のボクサーがやりあったら結果は見えていて、たいてい現代のほうが技術が磨かれて強くなっているのに、百数十年前の漱石作品や、千年前の『源氏物語』を越えて長く深く読み継がれる作品は現代ではほぼ現れない、というのはなんだか不思議な事態に思えました。坂口安吾は、推理小説についてこうまとめていました。
謎ときゲームとしての推理小説は、探偵が解決の手がゝりとする諸条件を全部、読者にも知らせてなければならぬこと、謎を複雑ならしめるために人間性を納得させ得ないムリをしてはならないこと、これが根本ルールである。
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