片信 有島武郎

 今日は、有島武郎の「片信」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 引きこもりの時期のことを、近代では「蟄伏期」と記したようです。現代的な問題を取り上げつつ、自然界の言葉を豊かに使いこなすのが近代小説の魅力のうちの1つなのでは、と思いました。本文こうです。
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  全く僕は蟄虫が春光に遇っておもむろに眼を開くような悦ばしい気持ちでいることができる。僕は今不眠症にも犯されていず、特別に神経質にもなっていない。これだけは自分に満足ができる。quomark end - 片信 有島武郎
 
 また社会構造と芸術の関わりを論じていて「僕はブルジョアは必ず消滅して、プロレタリアの生活、したがって文化が新たに起こらねばならぬと考えているものだ。ここに至って僕は何処に立つべきであるかということを定める立場を選ばねばならぬ。僕は芸術家としてプロレタリアを代表する作品を製作するに適していない。だから当然消滅せねばならぬブルジョアの一人として、そうした覚悟をもってブルジョアに訴えることに自分を用いねばならぬ。これがだいたい僕の主張なのである。」と書いていました。
 有島武郎はじっさいに、北海道の農場主となって水田づくりをしたり農場が栄えるように苦心したのち、おおよそ10年後には、農場主という自己自身のブルジョアの権力を自らの意志ですっかり消滅させ、農家が主体となって農を営む世界をいちはやく実現し……小さな改革を実現したのでした。書いたことを、そのまま実践にうつしていったようなのです。なんだか、アルチュール・ランボーがフランスでの詩生活をすっかりやめてアフリカに渡った、というような革命的な生きかたというのを連想させる、有島氏の「片信」でした。
 

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追記  ところで、札幌に十年ほど暮らしていた兄と弟という記載があるのですが……じっさいに札幌に居たのは有島武郎ただ1人だけなんです。現実に起きたことも織り交ぜつつ、豊かに想像を拡げてゆくところがこの私小説的な小説の魅力なんだなと、思う記載でした。