細雪(34) 谷崎潤一郎

 今日は、谷崎潤一郎の「細雪」その34を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 学校に行ったまま、安否が分からなくなった妙子を探して、父の貞之助は洪水が起きている本山駅の周辺を歩きつづけています。大河が氾濫したかのような「川でなくて海、———どす黒く濁った、土用波が寄せる時の泥海である。」けっきょく貞之助は大水によって立ち往生している汽車の中に入りこんで、水の引くのを待つしか無くなった。
 駅の中に避難している人々の描写が、ほんとうに谷崎がこの現場を見て帰ってきて書いたような、克明な描き方でした。なぜか線路のところに、どこかの犬が洪水と雨の中を迷子になっていて、これをみんなで助け出し、貞之助は家から持ってきていたブランデーを飲んで煙草を吸う場面がありました。半島の家族たちが汽車の中で避難している描写があり、妙子の通っている小学校が遠くに見えるけれども、大水のためにどうにもならない。今まで楽しそうだった学生も「事態が笑いごとでなくなりつつある」状況に疲弊しはじめている。「窓の外では濁流と濁流とが至る所で衝突し」ている。妙子のことを思って、貞之助はこう感じます。「今から一箇月前、先月の五日に「雪」を舞った時の妙子の姿が、異様ななつかしさとあでやかさを以て脳裡のうりに浮かんだ。」 数時間ほどしてやっと水がすこしだけ引いてきた。この前後の描写がみごとだと思いました。
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  一心に外を見守っていた間に、はっと胸を躍らせるようなことが起っていた。と云うのは、いつの間にか線路の南側の方の水が減って行って、ところどころ砂があらわれて来たのである。反対に北側の方はいよいよ水が殖え、波が上りの線路を越えて、此方の線路へ打ち寄せつつあった。
「此方側は水が減ったぞ」
と、生徒の一人が叫んだ。
「あ、ほんとうだ。おい、これなら行けるぞ」quomark end - 細雪(34) 谷崎潤一郎
  
 まだ濁流が続いていて油断できない状況で、妙子の女学校にようやっと辿りついた貞之助なのでした。次回に続きます。
  

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当サイトでは『細雪 中巻一』を通し番号で『細雪 三十』と記載しています。『中巻三十五』は通し番号で『六十四』と表記しています。
 
「細雪」の上中下巻、全巻を読む。(原稿用紙換算1683枚)
谷崎潤一郎『卍』を全文読む。 『陰翳礼賛』を読む。
  
■登場人物
蒔岡4姉妹 鶴子(長女)・幸子(娘は悦ちゃん)・雪子(きやんちゃん)・妙子(こいさん)
 
 

夏の葬列 山川方夫

 今日は、山川方夫の「夏の葬列」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは、はじめ見知らぬ村の葬列を目の当たりにするところから物語が始まるんですが、他人の葬儀のお饅頭を欲しがる、軽薄な少年の奇妙な描写があって、30%あたりの中盤から、意外なことが起きます。読み終えてみると納得のゆく物語展開なんですが、なにも知らずに読んでみると、なんだか唐突な展開で妙なものに思いました。後半で、戦時中に被害を受けた少女がどうなったのか、この記憶と事実を探る男の思惟が描かれます。死にかけた少女がじつはそのあと十数年は生きていたということを知った歓びのあとに、悲しい事実が明らかになります。良い未来と悪い未来を重ね合わせて見ることになる。実体験から少し離れたところで、事態を観察していた作家のまなざしが鋭いように思いました。物語の筋が分からない箇所があったので三回読んでみて、作者の構成の妙に唸る作品に思いました。
  

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生産を目標とする科学 戸坂潤

 今日は、戸坂潤の「生産を目標とする科学」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 100年前は工作機械が大規模に発展した時代で、今は情報機械と言えばいいのかAIが人間の仕事以上の仕事量をこなしはじめている時代で、ちょうどいま読むと、100年前の科学論が、今の問題も示唆しているように思いました。思想家の戸坂潤は、まず科学と技術の関係について読み解いて、科学の進展によって技術の進展がなされることがある、それから科学は技術と無縁に、認識だけを進展させることがある「科学は認識を目的とするもの」とも一般には考えられてきた。「科学の目的は認識であり、そして認識は実践と統一されている」それから「やがて科学は技術への手段であるという風に考えられ」てゆく、と戸坂は指摘しています。
 科学の進展が何をもたらすかというと、いっぽうでは認識だけを進展させ(軽薄なヒューマニティーや軽薄な文化を進展させ)る。もういっぽうでは実践と技術を発展させ、功利主義や実行主義というのをうみだす。二極ともまあまあ行き詰まってゆく。ここで思想家の戸坂潤はこういう疑問を提示します。「科学の目標は認識であるだろうか」そうではないはず、と戸坂は考えます。人間がつくる「科学の目標を技術と直接結びついたものとして設定すべき」だろうと述べるんです。現代の高度な科学者は、AIが作り出す新しい社会についてさまざまに論じているんですけど、おおよそ百年前の戸坂は、本論では、こういうことを述べています。
「科学は認識を目標とすると云う代りに、科学は生産を目標に」して「物を造るものだ」そして、「本当の問題は科学に於ける生産」とは何かを考えることが重要で、アインシュタインの「測定し得るもののみが科学的に存在する」という考えをもう一歩まえに進めて「操作し得るもののみが人間に貢献する科学」であって「操作」というものを「造る」という範疇に連絡してみればどうなるか、考えてみようと、読者に呼びかけていました。
 

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(総ページ数/約10頁 ロード時間/約5秒)
 
 操作不可能な科学技術は、人類に貢献しない……というのはたしかにその通りだなと思います。電車は操作せずに乗るからこそ安全なんですが、操作の権限が人間にある。核や公害について考えると、なにをもって操作できている技術とするのか、も問題に思いました。
  

学問のすすめ(5)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その5を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 「学問のすすめ」第1編から3編までは、じつは小学生が読めるように、わかりやすい言葉で書いてきた、と福沢諭吉は書きます。古い言葉で読みにくいところはあるんですが、内容は分かりやすいところも多いと思います。4編と5編は、学者批判を記しているので難しい内容で、6編からはまた小中学生が読める内容を書いている、そうです。
 福沢諭吉は独立して生きられる状態をとかく重んじていて、これが失われれば悲しいことであると、書いています。
 近代の日本はまだ、国際関係が出来ているわけでは無く、まだ幼子が家の外に出てないようなものだと、書いています。不当な支配を受けないための闘いが出来る知恵がある人のことを「独立の気力」がある者、というように述べているんです。学校や工業や軍事を表向きそろえたとしても、独立が成立するわけでは無い、という指摘がありました。
 独立した状態というのはほんの数年くらいで失われがちな存在であって、初期の慶應義塾であっても、これは失われる可能性がある。形だけ整っているのはこれは独立の状態では無いようなんです。人々が独立しようという気力を漲らせられるように、なすべき事をなせていることを、独立している、と記しているのでした。今回の論は、研究所や私立大学の経営論なのでは、と思いました。
 

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★ 『学問のすすめ』第一編(初編)から第一七編まで全文を通読する

 

文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは谷崎と芥川の有名な文学論争で、芥川はまずこう書いています。
「話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外にあるはずである」
 谷崎といえば、与謝野晶子訳があるにもかかわらず、源氏物語の現代語訳を1938年ごろから晩年の1965年にかけて三回も作っていることで有名だと思うんですが、今回の議論で、芥川はこう告げています。
quomark03 - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
 僕は決して谷崎氏のやうに我々東海の孤島の民に「構成する力」のないのを悲しんでゐない。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
 
「入り組んだ筋を幾何学的に組み立てる才能」は「源氏物語」のころから盤石で日本作家は「かう云ふ才能を持ち合せてゐる」というように芥川は、指摘しています。谷崎はこれにどうも影響を受けて、十数年後の1938年ごろに源氏物語訳をはじめて、谷崎はこの源氏物語の翻訳を一生の仕事にすることに、したのでは、というように自分には思えました。
 序盤で志賀直哉論が記されているんですが、氏の思想の「清潔さ」に重きを置いて論じているのが印象的でした。芥川と谷崎の論争は、おそらく志賀直哉氏が持っている道徳的な清潔さに欠けている創作の箇所に、両者の文学上の問題意識があったのではと、思います。
 ほかにも漱石や北原白秋や啄木や正宗白鳥や芭蕉や、ゲーテやシェイクスピアやトルストイ、神曲や近松、ランボーやヴィヨンなど、近代の代表的な文学性についてさまざまに論じているので、近代文芸の全体像が見えてくる、すてきな評論に思いました。本論の主な論旨は本文にこう書いていました。
quomark03 - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  僕は何度も繰り返して言ふやうに「筋のない小説」ばかり書けと言つてゐるわけではない。従つて何も谷崎潤一郎氏と対蹠点に立つてゐる訣ではない。唯かう云ふ小説の価値も認めて貰ひたいと言つてゐるのである。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  
 中盤で中国文化を模倣すること、西洋人が日本の美術を模倣すること、創作における模倣と昇華について論じています。文芸における、代作と師弟にかんしてちょっと書いているんですが、そういえば哲学者のソクラテスや老子は、弟子によって公式に書かれた思想書なので、文学に代作者が居てもなんの不思議も無いはずだ、と思いました。遠野物語などの、聞き書きの文学はいわば代作の芸術に近いところがあるのでは、と思いました。終盤では、ギリシャ芸術に関する、憧憬と不可思議さについて書いています。
中盤65%あたりから、谷崎潤一郎と源氏物語のことを記していて、やはりこの本の文芸的思索も手伝って、谷崎は1938年ごろから1965年にかけて、繰り返し源氏物語を翻訳するようになったんだろうと、思いました。芥川が小説論を盛んに論じながら「詩人」という言葉に深い思い入れのあることが印象に残りました。本文こうです。
quomark03 - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する為に作つてゐるのではない。いはんや現世の社会組織を一新する為に作つてゐるのではない。唯僕の中の詩人を完成する為に作つてゐるのである。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  
 終盤では、森鴎外と批評、それから新感覚派や横光利一について書いていました。

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(総ページ数/約10頁 ロード時間/約5秒)
 
追記  文学上の不思議な話をいくつも書いていて、とくにトルストイとヒステリイについての挿話が興味深かったです。
ほかにも、書かれた作品が古典として残るには「アナトオル・フランスの言つたやうに後代へ飛んで行く為には身軽であることを条件としてゐる。すると古典と呼ばれるものは或はどう云ふ人々にも容易に読み通し易いものかも知れない」というのもすてきな考察に思いました。それから以下の寸評が、芥川の文学創作に於いて重要な記載に思いました。
quomark03 - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  僕は義理にも芸術上の叛逆に賛成したいと思ふ一人である。が、事実上叛逆者は決して珍らしいものではない。或は前人の蹤を追つたものよりも遙かに多いことであらう。彼等は成程叛逆した。しかし何に叛逆するかをはつきりと感じてゐなかつた。大抵彼等の叛逆は前人よりも前人の追従者に対する叛逆である。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介 
 最後は、ゲーテの偉大な芸術を前にして、去勢された自己を認識せざるを得なかったハイネの文芸論で締めくくっていました。
  

神童の死 北原白秋

 今日は、北原白秋の「神童の死」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは猟奇的な事件について、北原白秋が事態を空想しながら、現場の状況を書いているごく数頁の短編です。前半でゴアな表現があって要注意なんですが、後半で事件の様相や言葉の問題について論じていて、悪に関する考察の部分が興味深いように思いました。
  

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文豪ゲーテが「どんなに理にそむいたことでも、分別か偶然によって正道に引きもどされないものはない。どんなに理にかなったことでも、無分別と偶然によって邪道に導かれ得ないものはない。」ということを述べていたんですが、この古い事件は、まさにこの問題と共通したことが生じていたように思いました。