発句私見 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「発句私見」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 芥川龍之介と言えば、短編小説がもっとも有名だと思うんですが、今回は俳句のことだけを記しています。芭蕉の時代の発句(今でいう俳句)について記している、文学論なんです。
 連歌の書き出しである発句に着目し、芭蕉が発句をつくることを好み、発句だけで成立する地発句をあまたにつくりました。この芭蕉の5.7.5の発句の創作から、のちの明治時代に子規の俳句という文学世界が作られてゆきました。俳句の元祖のような発句に、どのような芸術性があるのかを、芥川龍之介が読み解いています。
 発句と俳句のちがいとして、発句には、季節は必要無い場合がある。「しかし季題は無用にしても、詩語は決して無用ではない」詩心がつぎつぎに広がっていって連歌になってゆく、その出発点として発句がある。
 だから芭蕉の発句集を読むと、詩心の色濃さというのを感じられる。
 芥川龍之介は芭蕉が作ったこの発句の詩心について注目しています。
 
 行春を近江の人と惜しみける 芭蕉
 
 なにか思いがつぎつぎに連なってゆきそうな詩心というのが、芭蕉の発句から感じられるのでは、と思いました。
 ちょっと調べてみると、芥川龍之介は、子規の俳句よりも、芭蕉の発句のほうを重んじて創作していたのでは、と思いました。以下は芥川の発句なんです。
quomark03 - 発句私見 芥川龍之介
 ぢりぢりと向日葵枯るる残暑かな
 或夜半の炭火かすかにくづれけり
 凧三角、四角、六角、空、硝子quomark end - 発句私見 芥川龍之介
  

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一茶の書 北大路魯山人

 今日は、北大路魯山人の「一茶の書」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 近代俳句における一茶の魅力は破格だ、という話しはなんども聞いたことがあるんですが、今回は魯山人による、一茶の芸術論で、とくにこの箇所が印象に残りました。
一茶の句は「装わない心境直写の妙相をたたえている」「一茶の書に今一倍気品があり、そして、同時に気力があったら、どんなに立派であったろうか——などという人も中にはあるようだが、私は一茶の書には、むしろそれがないのが、その真実ではなかろうかとするものである。」
 一茶の句は青空文庫にはほとんど無いんですが、俳句ブログやwikiquoteにいろいろありました。ちょっと再読してみて、春を愛でる句がみごとで、動物のことを思い描いた句が、印象に残るように思いました。小さい問いを書いているのに雄大な時間が流れるところが一茶の特長のように思いました。
quomark03 - 一茶の書 北大路魯山人
 我と来て 遊べや親の ない雀
 蟻の道雲の峰よりつづきけん
 雪とけて村いっぱいの子どもかなquomark end - 一茶の書 北大路魯山人
  

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旅の旅の旅 正岡子規

 今日は、正岡子規の「旅の旅の旅」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは正岡子規の紀行文で、旅に詠んだ四十一首の俳句が記されています。
「旅の旅その又旅の秋の風」の句から始まり「木のうろに隠れうせけりけらつゝき」で終わる、羇旅の句があまたに記されます。侘しいところや当て所ないところを描く句がいくつかありました。
 正岡子規の親友といえば漱石で、漱石は作家になる前後にこの本を、暗記するくらい読んだはずなんです。そう思って読むと、『三四郎』『草枕』の、印象深い漱石の文章は、この子規の「旅の旅の旅」を想起しつつ書いたところがあるように思えました。
 

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日光の紅葉 正岡子規

 今日は、正岡子規の「日光の紅葉」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 紅葉のシーズンはそろそろ終わりでもう冬なんですけれども、本で紅葉の感覚を味わってみました。
 こんかい正岡子規は、内藤鳴雪や新海非風の秋の俳句を取り上げていろいろ紹介しています。
 ぼくは子規の俳句「石壇や一つ一つに散紅葉」というのがすてきだと思いました……。
 作中に記された「中宮祠」というのは日光の二荒山神社中宮祠のことです。
 この華厳の滝はおそらく、子規の時代の100年前とまったく同じ姿なんだろう、と思いました。秋も素晴らしいはずですけど、初夏の日光に行ってみたいなあ、とか思いました。
  

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俳句上の京と江戸 正岡子規

 今日は、正岡子規の「俳句上の京と江戸」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 正岡子規が京都と東京の俳句の違いを記しています。
 漱石の言葉づかいと、親友の子規の言葉づかいは、時代がまったく同じなのになんだかちがうんです。江戸、という言葉一つをとっても、漱石は『江戸川』とか『江戸名所図絵』ということを記す時くらいしか使わないんです。いっぽうで子規は東京のことを江戸、江戸、と記します。俳句の研究を通して古典文学を学んでいった子規と、英文学を学びながら新しい小説を書いていった漱石とで、言葉の考え方がかなり違うようです。
 東京、東京府、という言葉を使いはじめたのは明治の始まりの頃なんです。
 漱石はこれを気に入っていたようで、東京という言葉を多用しています。
 漱石の「こころ」では、東京という言葉が七十四回も使われているのに、江戸という言葉はたったの一回しか使っていない。
 子規はこの随筆で「江戸」を八十七回も記していていちども東京と書かない。
 ちょっと、種ふくべ、にかんする俳句を調べてみると、漱石と子規と虚子でこういう俳句がありました。
 
 誰彼にくれる印や種瓢 高浜虚子
 恩給に事を欠かでや種瓢 夏目漱石
 くりぬいて中へはいらん種ふくべ 正岡子規

 

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夜寒十句 正岡子規

 今日は、正岡子規の「夜寒十句」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 言語の活動に関してどこから行為できなくなるか、というのは人によってちがうわけで、小学生のころはルビをふっていない小説は読めなかったわけで、大人になったら英語の本をすらすら読めるようになる人も居るらしいんですけど、そういう人でも詩を英語に翻訳するのは無理だったりもする。ぼくは近代文学なら読めるんですけど、それより古くなって口語体が消え去ってゆくとあんまり読めないです。
 漱石の親友だった正岡子規の文学を読んでみたい、とよく思うんですけど、これが言文一致体が完成する寸前の文体なので、難読の文章になっていて、読みすすめるのがどうもむつかしいです。これはごく短い作品で、ある夜に起きたことを随筆みたいに順番に描いていって、夜寒よさむかな、でおわる俳句を十句かきしるしています。おわりの二句がなんとも文学的情景に思いました。

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