苦しく美しき夏 原民喜

 今日は、原民喜の「苦しく美しき夏」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 『苦しく美しき夏』は昭和二十四年に記された「私」と「妻」の物語で、妻がとつぜん体調を崩すところが描かれます。入院をして治癒して家に帰ってくる場面があります。本文こうです。
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  妻が家に戻って来て、療養生活をつづけるようになってからも、烈しく突き離されたものと美しくきつけられたものが、いつもうずいていた。quomark end - 苦しく美しき夏 原民喜
 
 ここの前段の、赤の描写が印象的でした。「静かに少しずつ恢復へ向っているようなきざし」がみえてくる描写があります。原民喜の妻は、原爆投下の1年前である昭和19年9月に亡くなっています。この掌編小説を書いたのはその5年後のことです。原民喜の小説を読むときは、同時に「WEB広島文学資料館」のサイトを閲覧することをお薦めします。
 

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羅生門 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「羅生門」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは有名な近代小説なんですけれども、平安時代の1177年から1180年あたりの天災によって荒れはてた羅生門で生きる老婆と男の話なんです。
 鴨長明の『方丈記』を参考文献として書いたんだろうと、思われます。調べてみると『方丈記』のこの箇所を、芥川龍之介は引用していました。ほかにも『今昔物語集』から引用を行っているそうです。
 この鴨長明たちの古典を掘り下げるかたちで芥川が語る、廃墟となった羅生門に住む老婆と男の物語なんです。
 災害による餓死とぬすびとのことが描かれるんです。
 中盤から現れるおばあさんは、餓死や天災や悪行が押しよせる時代に、権力の力を借りずに長く生きのびてきたわけで、その描写が生々しいと思いました。
 方丈記に鴨長明はこう記します。「寺院の中へこっそりと入って行って仏像を盗んで来たり、御堂の道具をむしり取ったりして、それを薪にして売りに出した」(佐藤春夫訳)そんな餓え死にしかかっているぬすびとも居た。
 本を重ね合わせて読むと、今まで見えてこなかった風景が広がってゆくように思うんです。芥川龍之介はとくにコラージュ技法が秀逸で、中国の伝奇小説をリライトしているのでも有名です。
 こんかい五年ぶりくらいに再読してみて、芥川龍之介が用いる文学の引用とその手法が見えて「誰も知らない」という芥川の言葉が、鴨長明の「知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る」という文と結びついていて、連歌のように連なっているんだなと、思いました。おそらく空海の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く……」というのに連なっていって、さらにこれもブッダの言葉にたぶん連なってゆくんだろうと、いうように思われました。「羅生門」といえば黒沢明が、芥川の「藪の中」と本作「羅生門」を融合させて映画を作っています。これとこれが結ばれて、これとこれが連なって、という文学の果てしない山脈がちょっと見えたように思いました。
 

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花を持てる女 堀辰雄

 今日は、堀辰雄の「花を持てる女」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 堀辰雄が、父やおじの病について記しています。苦について書いているはずなのに、苦を増幅しないところが、ふだん読む文章とまるでちがっていて文学だと思いました。本文こうです。
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「雪の下がきれいに咲いたものですね、こんなのもめずらしい。……」私はその縁先きちかくに坐りながら、気やすげにそう言ってしまってから思わずはっとした。
目を患っているおじさんにはもうそれさえよく見えないでいるらしかった。しかし、おじさんは、花林かりんの卓のまえに向ったまま、思いのほか、上機嫌じょうきげんそうに答えた。
「うん、雪の下もそうなるときれいだろう。」quomark end - 花を持てる女 堀辰雄
 
 ほかにも、母の若いころのことをよくしらないので仕事はどういうものだったのだろうか、と空想を広げていて、谷崎潤一郎の「吉野葛」のようなことを考えていたりします、華やかなのかそうではないのか……。堀辰雄は、父だと思い込んでいた人が養父だった、という事態を丁寧に記しています。生老病死だけを書いているはずなのに、不安な気配のまったくないことに驚きました。みごとな自伝的小説でした。
 

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きりぎりす 太宰治

 今日は、太宰治の「きりぎりす」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 「おわかれいたします」という妻からの言葉ではじまる独白のような小説です。伴侶と別れる……となると学校を卒業してもうずっと会えなくなるとか、ふるさとを離れて都会に出るのだとか、恋人と別れることになってしまって悲しいとか、いうこと以上の厳しい事態なわけですけれども、太宰治はそこで、人間性の激しい否定というようなことをちっとも記さずに、幽かな小言のように、柔らかく書き記してゆくんです。なぜ近代の女性性というのをここまで確実に書けるんだろうかと、読んでみて衝撃を受けました。なんともみごとな小説で……事実から遠く離れない描写をすることによって、迫力が出ているように思うんです。どこにでもありそうなことを積み重ねて書いているんです。100年経ってもありえそうな、大陸の片隅でも愛読されそうな、素朴なことだけを書いています。ほんとうにちょっとした、ごく静かな小言のように見える範囲で、重大なことを言っているんです。聞こえないほど小さな声を記すのが文学なんだ、と思いました。終盤の一文が印象に残りました。本文こうです。
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  この小さい、かすかな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。quomark end - きりぎりす 太宰治
  

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侏儒の言葉 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「侏儒の言葉」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 今回いちばんはじめに、芥川龍之介が論じているのは、クレオパトラの鼻が変だったときに、恋人はいったいどう考えるのか、という問題でユーモアを交えつつ、こういうことを指摘しています。
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  恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞ぎまんは一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。(略)我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限ったことではない。我々は多少の相違さえ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変えている。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
  
 「1984」に描かれるような事実の改変は、人間や組織人ならとうぜんのように、やってしまう。自己欺瞞と「壮厳な我我の愚昧」というのが、永々つづくよと、芥川は指摘しています。この「侏儒の言葉」は、英知を学ぶということと、とんでもない話しを聞いて目を見ひらく、というのとが並行して書き記されています。
 これはさすがにふざけて書いたんだろうというような箇所もいくつか見受けられます。モーパッサンに対する評もたった一文だけで、奇妙なんです。「モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。」と書いていてただのことば遊びだろうと思う箇所や、詩としてみごとな箇所もあって、諧謔の書としても読めるんです。再読であっても新鮮に読めて、すごいように思いました。
 いっぽうで暴力や迫害に関する考察は、哲学書のごとき思弁に富んだ内容に思いました。近代の社会主義者の言い分はいま読むと当然のことを言っているだけなのになぜ彼らは迫害されねばならなかったんだと思っていた時に、芥川の「迫害を受けるものは常に強弱の中間者である」という指摘が腑に落ちました。
quomark03 - 侏儒の言葉 芥川龍之介
  強者は道徳を蹂躙じゅうりんするであろう。弱者は又道徳に愛撫あいぶされるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
 
 全体の12%のところや60%近辺で記される、芥川龍之介による軍人批判も学ぶところがあるように思いました。くわしくは本文を読んでもらいたいのですが、「帝王」に関する考察も興味深いです。
quomark03 - 侏儒の言葉 芥川龍之介
 ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅かに一歩である」と云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉にふさわしそうである。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
   
 この指摘は、数十年後のナチスと「チャップリンの独裁者」に関する、適切な未来予測のようにも思います。芥川龍之介は独裁者に関してこう指摘しています。「一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱そうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に仆れる外はない。つまり帝王も王冠の為におのずから支配を受けているのである」ほかにも芥川はこう記します「我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云うことである。」現代の独裁者について考えてみたい、という人にとってこの「侏儒の言葉」にはさまざまな示唆があるように思います。
quomark03 - 侏儒の言葉 芥川龍之介
 革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹あんたんとしているはずである。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。quomark end - 侏儒の言葉 芥川龍之介
    
 中盤52%のところに記される「罪」に関する考察がみごとでした。諧謔に富む名言、というのを堪能したように思いました。恋愛論や芸術論も魅力的で、いろんな読み方の出来る本だと思います。
 

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外套 ゴーゴリ

 今日は、ニコライ・ゴーゴリの「外套」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 ウクライナ生まれのゴーゴリの文学作品を読んでみました。
 ゴーゴリの描く外套は……極寒の地において暖がとれ衣食住がやっと整ったという意味あいもありそうで、ボロボロになった外套をあきらめ、新しい服を手に入れようと決意してこれがやっと実現した時の、主人公の喜びは迫力のある描写に思いました。
これは1840年に記された小説なのですが、このころのウクライナの文化についてはwikipediaに少し記されていました。
 ここからはネタバレになってしまうので、未読の方は本文だけを読んでもらいたいのですが、後半の、事件を解決するためのロビー活動のことが印象に残りました……。要人に対面して折衝を願い出て、これが無碍に廃棄されてしまうのが哀れでした。初見の時は気がつかなかったのですが、正しい側や被害者側は問題解決に向けての努力が必要となってしまい、それらの努力が不運にも壊されてしまうのがおそろしく思いました。有力者の「閣下」の言い分はずいぶんおかしい。有力者は主人公の事情を鑑みず無碍に威圧すると、彼は青ざめてしまいます。翌日から仕事が出来なくなり、病にかかって亡くなってしまう。主人公は新調した外套について誉めそやされて良い気分になって気が緩んでしまい、それが原因で不幸に見舞われ大病に陥っていて、この禍福をあざなう描写が忘れがたいものに思いました。有力者はさいご、死者の蒼白な顔がまるで忘れられなくなるのでした。
 

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ウクライナ情勢に関しては、CNNNHKと、wikipedia、が参考になると思いました。
yahooネット募金にて、ウクライナの緊急人道支援が必要とされています。