学問のすすめ(10)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その10を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
第10章では、前回までの「学問のすすめ」をまとめておさらいしていて「衣食ができるようになる、というところだけで満足せずに、高遠な目標をもって、交際を盛んにして、世界の進展に貢献する学を身につける」ということが重大と、書いていました。学問にもいろいろあって、飯を炊いたり風呂を清潔に保つのも学問である。ただ、世界全体の経国を改善してゆくといった学問のほうが難しく重要な学問である。近代や現代の学者は、難しいことをやらずに安っぽいことをしがちである、という福沢諭吉の指摘なのでした。学んだことは現実に実践してみよ、と書いていました。また、優れた学生が貧しさによって学が断たれることがないよう、良い環境を与え、学を実践に移せるようにすればもっとも良い投資となるので、経済的な配慮をするように、という記載がありました。
 自由や独立を重んじるなら、同時に義務を果たさなければならない、共同体そのものが自由と独立を得られるだけの環境を持てるように、みなで力を尽くすという義務がある、という話しが書かれています。
 福沢は軍事について、こう書くんです。日本の「文明はその名あれどもいまだその実を見ず、外の形は備われども内の精神はむなし。今のわが海陸軍をもって西洋諸国の兵と戦うべきや、けっして戦うべからず」近代日本の知を代表する福沢諭吉の教えを壊してまで半世紀後に真珠湾で米国に宣戦布告してしまった経緯は、いったいどういうものだったのだろうかと思いました。
 それから、鎖国を辞めたばかりで、まだ国際交流に慣れてない日本のことをこう描いています。「もとより数百年来の鎖国を開きて、とみに文明の人に交わることなれば、その状あたかも火をもって水に接するがごとく」あと農業や産業の自給自足の重要性についても書いています。
「この国に欠くべからざるの事業は、人々の所長によりて今より研究」を盛んにし、学者はこの研究に勤しむべし、と書いていました。
 学問して、自力で独り立ちして環境を改善してゆく、ということを説いていて、飲酒や放蕩を減らして学びに向かう、それには学問と生計の両輪を手にすることが重大だ、と福沢は書いていました。次回に続きます。
 

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詩とはなにか 山之口貘

 今日は、山之口貘の「詩とはなにか」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 詩人が「詩とはなにか」ということについて論じている随筆で、山之口貘はこう書いていました。「ぼくは常々、詩を求めるこころは、バランスを求めるこころであるとおもっている」「いたければさすりたくなるこころのようなものだ」
 ここから詩と随筆を入り混じらせたものを記しています。「僕と称する人間がばたついて生きてゐる」という詩の言葉が印象に残りました。自身が探り当てたり発見したものが詩になるので、教えられたり技法どおりに作って、詩が書けるわけではない、それが山之口貘にとっての詩なのでした。後半で山之口はこう記していました。「ぼくは、書くということ、それは、生きるということの同義語のようなものではないかとおもうわけである。」
 wikipediaの「詩」のページにどうやっても書きえなかったことが山之口にとっての詩で、両者を並べて読んでみると、言語のもっとも不思議なところが立ち現れてくるように思いました。
  

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実語教

 今日は、「実語教」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 実語教は平安のころに書かれ、江戸時代の寺子屋で読まれていた、子どものための道徳の本で、修身について書いてあります。孔子や経書の教えを要約した本が、実語教なんだそうです。ぼくはこれを読むのは3回目で、初回は漢文の書き下し文でむずかしそうに思えるんですが、内容は優しくて分かりやすいものになっています。繰り返し記されているのは、財宝は消え去ることがあっても、学びは消え去ることが無い、という教えでこれが本文に5回くらい書かれているんです。
「山高きがゆえたっとからず。木るをもってて貴しとす」という一文がなんだか妙に記憶に残りました。
 「悪を見たら、すぐさま去れ」という教えも書いてありました。八正道や三学などの仏教の教えも少し記されています。江戸時代には、いちばんはじめに書を学ぶ時にこれをまず読んだそうです。裕福になっても貧しい環境について忘れることの無いように注意しなさい、と書いていました。いちばんはじめの学びを忘れてはならない、と記されていました。憂いあるときは共に憂い「他人のよろこびを聞いては、即ち自ら共によろこぶべし。」というのが印象に残りました。
   

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食慾 豊島与志雄

 今日は、豊島与志雄の「食慾」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
  この小説の舞台になっている火山は、今の日本ではちょっと存在していないかと思うんです。登山者がハイキングのついでに観光できて、火口を目の当たりにできるような、場所です。活火山の溶岩を見つめながら「私」は野口とのこれまでの結婚生活や「木村さん」のことについて考えるのでした。「私」と、その夫の「野口」と、「木村さん」の三角関係が描きだされます。
 

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追記 夫である野口の欲深さや生臭い匂いを嫌う「私」は、食欲を失ったような生きかたをしていたんですが、噴火口に魅入られた木村さんとの交流を通して、ある変化が生まれます。野口を裏切って「木村さん」と結ばれる未来について夢想し、2人でその可能性について語りあい、「私」は「ただ白痴のような微笑を浮べて」しまうのでした……。

学問のすすめ(9)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その9を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 今回は、文明論と技術論をいくつか書いていました。すり鉢だけを使っていた時代から、石臼や風車を使って、小麦粉を大量生産できるようになっていった。古人の遺物や先人の技術によって、現代の文明の根本ができた。
 人の活動には二種類あって、ひとつは個人の働きで、もうひとつは人と人の交際によって生じる活動だ、と福沢諭吉は指摘しています。自然界の働きから人が食料をもらい受ける、99%が自然界による働きで、人は1%だけ動いてこの食材というのを得ている。この食糧獲得だけで終わらずに、人間の交際による働きで、学問や工業や法治を盛んにして、人と人の交際を豊かにする、ということが何千年も続けられてきた。食えるようになったのは先祖の活動の結果なので、そこに安んじて自分の生を停止させてはいけない、という指摘がありました。
 古代から未来に繋がってゆく仕事に加わりたい、という感性は、ほとんどの人にあって、人々はただたんに日銭だけを稼ぎたいわけではない、ということを説いています。ゼニ儲けや戦というところに目を奪われずに、それらの活動の内奥にある、古代から未来につながる文明の進展によってもたらされる、変動を捉えよ、学問せよ、というように書いていました。次回に続きます。
 

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帰去来 太宰治

 今日は、太宰治の「帰去来」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 作家が経済的に自立するのが難しかった81年前の文芸事情を、太宰が記しています。祝賀会で着るための着物を中畑さんに調達してもらった。このすごい着物を1回だけ着て、すぐに質屋に持っていって売り払ってしまった。若いころの太宰は、住み家さえ確保できずに「北さん」の家に居候して、お金や生活費を工面してもらった。三十歳のころ結婚したときにも、ほとんど無一文だったことなども滔々と記しています。wikipediaの経歴と比較すると、二年くらい記載がズレていて間違えているところがあるのですが、今回の小説ではかなり事実に近いことを書いているように思います。以下の文章が印象に残りました。
quomark03 - 帰去来 太宰治
 私は嫁を連れて新宿発の汽車で帰る事になったのだが、私はその時、洒落しゃれや冗談でなく、懐中に二円くらいしか持っていなかったのだ。お金というものは、無い時には、まるで無いものだ。まさかの時には私は、あの二十円の結納金の半分をかえしてもらうつもりでいた。quomark end - 帰去来 太宰治
 
 北さんは太宰治に、ときおり生活費をあげていたんです。本文こうです。
quomark03 - 帰去来 太宰治
 今は、北さんも中畑さんも、私にいて、やや安心をしている様子で、以前のように、ちょいちょいおいでになって、あれこれ指図さしずをなさるような事は無くなった。けれども、私自身は、以前と少しも変らず、やっぱり苦しい、せっぱつまった一日一日を送り迎えしているのであるから、北さん中畑さんが来なくなったのは、なんだかさびしいのである。来ていただきたいのである。昨年の夏、北さんが雨の中を長靴はいて、ひょっこりおいでになった。quomark end - 帰去来 太宰治
 
 終戦まであと二年の、1943年の初夏に書かれた小説です。生活を成り立たせることがもっとも苦しかった時代に、太宰がどう生きていたのかが書かれています。太宰の実家はお金持ちではあるんですが、厳格な実家で、そこに疎開して帰るのがどうしてもつらい……。北さんにすすめられて、久しぶりに帰郷することになった。「私は、十年振りに故郷の土を踏んでみた。わびしい土地であった。凍土の感じだった。」この前後の描写が印象に残りました。

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追記  実家では、作家のお仕事で儲かっているということを母に述べるのでした。本文こうです「どれくらいの収入があるものです、と母が聞くから、はいる時には五百円でも千円でもはいります、と朗らかに答えた」当時の千円というと25万円から35万円くらいの価値があります。
 立派な大人になって帰って来たということを主張したく、十円紙幣を二枚ならべて載せて、母に贈ったら「母と叔母は顔を見合せて、クスクス笑っていた」。それでお返しに熨斗袋を持たされた、あとで開けてみると100枚の原稿料くらいの大金が入っていて、なんとも言えない気分になって、また東京へ帰っていった。
 お金を工面してもらいに、いったんは実家に帰ってみましょうと、太宰治を説得してくれた、親切な北さんは、その時の旅行で無理をしてしまったのか、敗戦間近の資金難が原因か、少し体調を崩してしまった。そのことをなんだか気にしている太宰治なのでした。