今日は、夏目漱石の「それから」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
これは漱石の前期三部作のうちの一つです。「三四郎」「それから」「門」という三つの長編作品があって、ぼくはこれが近代文学でいちばん読みやすくて格調高い純文学だと思いました。
三四郎とはべつの、代助という名前の青年が中心になって描かれた物語なんですけれども、前作と共通しているところもあって、主人公は将来の生き方が決まっていない。
漱石は、養子として育てられて、家を取り替えられて子どもの頃をすごしたそうですけど、そういう経験が、この小説の主人公に反映されているように思いました。学生時代に、正岡子規と一緒にメシを食いにいったり野球をしたりした、そういう漱石の人生のいくつかが物語に反映されているように思いました。
ゴッホについて 三好十郎
今日は、三好十郎の「ゴッホについて」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
三好十郎は「ゴッホの人間及び仕事を支えていた三本の大きな柱」があると考え、一つに「純粋な創造的な性格」の激しかったこと。二つめに「貧乏人の画家」であったこと。三つめに「キリスト教」の影響のことを書いています。
ぼくはほとんど読めていないのですが、ゴッホが自ら執筆した本を読むと、キリスト教のことを中心にして書いているので、キリスト教の影響が色濃いことは明らかです。ゴッホの絵を見ていると、キリスト教のとくに教会からの影響はいっさい感じられない。これがすごく不思議で、昔は理解できなかったのですが、この箇所について、三好氏はこういう面白い指摘をしていました。ゴッホは「キリスト教の教師の家に生れ育って青年時代に宣教師になって後しばらくしてキリスト教を捨てている」のですが、そのあとにこう書いています。
私の言うのは、キリスト教を彼が捨ててからさえも、彼の血肉の中に生き残りつづけた宗教性のことである。(略)ゴッホの人間には終生を通じてキリスト教的血肉を除外しては理解出来ないものの在るのを私は感じる。
この指摘を読んでから、「ゴッホ ~最期の手紙~」と「炎の人ゴッホ」という二本の映画のことを思いだしてみると、なんだか今まで分からなかったゴッホが見えたような気がしました。
おかしいまちがい 小川未明
今日は、小川未明の「おかしいまちがい」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
近代文学の特徴のひとつに、貧乏の描写が現代より色濃い、というのがあると思います。こんな記述があります。
夜は寺の縁の下にガタガタと寒さに震えながら、寝たこともあります。
旅をして、危険な貧乏におちいる男が書かれています。本文と関係ないんですけど漱石はイギリスに留学して、そこでなんだかおかしくなってしまったらしく、その留学を終えてからすぐに処女作を書きはじめたという実話があるらしいのですけど、旅をすると、違う世界が見えるだけじゃなくって、ちがう自分というのが現れてくるんじゃなかろうか、と思いました。
赤い蝋燭と人魚 小川未明
今日は、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
今回から童話を何作か読んでゆきたいと思います。これは小川未明の代表作で、西洋の人魚姫から着想を得て書いたのかと思ったのですが、読んでみると、日本の伝統的な「野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり」といったような竹取物語とよく似ている物語のはじまりかたで、日本昔話に出てくるような不気味な展開もあって、自然界と近代文明の相剋も描かれていて、公害を描いた文学と、どこか通底しているところがあるように思いました。作中に書きあらわされた「悲しい」という言葉が印象に残りました。
がちょうのたんじょうび 新美南吉
東京に生れて 芥川龍之介
今日は、芥川龍之介の「東京に生れて」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
芥川龍之介がおおよそ100年前の東京の、風景について語っているのですけれども、今の東京とぜんぜんまったくちがう街のことが描かれています。けれどもなんだか、関東全域とか、現代の東日本全体のことと比べてみると、なんだか今の時代と通底しているところがあるように思いました。
古い東京は、このさき二度と未来永劫出現しない都市なわけで、ずいぶん不思議な風物をちょっと見せてもらったような気がしました。芥川龍之介って、ふだんはこの随筆に書いているような話しを、友だちとしていたのかもなあ、と思う作品でした。