自己の肯定と否定と 和辻哲郎

 今日は、和辻哲郎の「自己の肯定と否定と」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 ぼくは哲学者のウィトゲンシュタインのことが好きで、氏の哲学と思想と、それから日記と伝記にすごく興味があって、これを少しずつ調べて読んでいってるんですけれども、その中で気になったのが、ウィトゲンシュタインが独我論である、というところで、なぜウィトゲンシュタインが独我論だったのか、ウィトゲンシュタインの生活は独善的なところもないし、利他的な生き方の多い人生だったんです。収入や社会的地位はしっかりしていて恋愛や家庭に興味もあったはずなのに結婚もせず子孫も残さなかった(ウィトゲンシュタインが同性愛者でもあったという記録は氏の日記にちょっとだけ残ってるんですが)、不思議な人生の哲学者なんですけど、そのウィトゲンシュタインの前期哲学は独我論で結ばれている箇所がある。どうしてウィトゲンシュタインが独我論なのか、そこのところをもっとちゃんと知りたいなあと思って、日記や伝記を読んでいるんですけれども、この和辻哲郎の随筆に、独我主義のことが書いていて、おもしろかったです。同時代の哲学者でも考え方がまったくちがう。ウィトゲンシュタインだったらこの問題はこう考えるんじゃないかとか、むだな空想をしながら読んでみました。
 和辻哲郎はこの随筆で、自己に対する否定と肯定の、観念と作用について論じてから、急に「顔」という具体性を持つものごとについて論じるところが興味深かったです。
 ぼくは近代文学を読む意義は、別の時代の生き方を知ってみると、現代人から不当に左右されたりしない、そういう知力がつく、というところがちょっとはあるんじゃないかと思ってるんですけど、和辻哲郎が戦前戦中に作っていった哲学は、自分にはあまりにも問題が大きすぎて難解で、理解がむつかしいなーと思いながら、この随筆を、読んでみました。
 自己否定をすることについて、和辻は本論でこう語っています。
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  この要求は自分の個性の建立、自己の完成の道途の上に、正しい方向を与えてくれる。quomark end - 自己の肯定と否定と 和辻哲郎
 

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東京に生れて 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「東京に生れて」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。 
 芥川龍之介がおおよそ100年前の東京の、風景について語っているのですけれども、今の東京とぜんぜんまったくちがう街のことが描かれています。けれどもなんだか、関東全域とか、現代の東日本全体のことと比べてみると、なんだか今の時代と通底しているところがあるように思いました。
 古い東京は、このさき二度と未来永劫出現しない都市なわけで、ずいぶん不思議な風物をちょっと見せてもらったような気がしました。芥川龍之介って、ふだんはこの随筆に書いているような話しを、友だちとしていたのかもなあ、と思う作品でした。
 

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科学者とあたま 寺田寅彦

 今日は、寺田寅彦の「科学者とあたま」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 物理学者の寺田寅彦が、科学者に必要な性格について語っています。科学者は頭が良いだけじゃなくって、頭の悪さ、みたいなものを持っていないといけない、というはなしで本文にこう書いていました。
quomark03 - 科学者とあたま 寺田寅彦
  いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。quomark end - 科学者とあたま 寺田寅彦
 
 寺田寅彦が科学と言っているとき、それはたいてい自然科学のことを言っているんだなと思って、なんだが得心がいった箇所がありました。寺田寅彦を精読してきた科学者なら、原発のどこに問題があるのかも、事前にわかっていたんだろうなと、思いました。本文こうです。
quomark03 - 科学者とあたま 寺田寅彦
  頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。quomark end - 科学者とあたま 寺田寅彦
 
 ほかにも「頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。」と書いていました。
 

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鼠の湯治 中谷宇吉郎

 今日は、中谷宇吉郎の「鼠の湯治」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 食事の違いによってネズミの治癒はどう変化するのかを調べた、近代の学者たちのハナシなんですけれども、実験科学と統計学の問題点について記されています。中谷氏はこういうことを書いちゃうんです。
quomark03 - 鼠の湯治 中谷宇吉郎
  平均をとって出て来た結果が嘘か本当かは、まず勘で判断するより仕方がない。こうなると物理的研究も少々あやしいものである。もっとも正統の物理学ではそんな問題はあまり取扱わないから、こんな白状をしても物理学の権威を損うことにはならないだろう。quomark end - 鼠の湯治 中谷宇吉郎
 
 そういえば、飲料水とかの「水」その水の危険性を「DHMOの危険性」として一般の聴衆に発表すると、80%以上の人が、水の使用を法で規制せねばならない、という間違った結論に至ってしまう、という実験があったことを思いだしました。
 中谷氏は、怪我をしたときに、脂肪の多い食事をとっていたネズミの治癒は遅く、また温泉に浸かったネズミは傷の治りが早かったという実験結果を書いています。温泉に関しては多忙な現代人にはかえって移動のつらさや休憩時間の減少で、むしろ体調を悪くするって話しを何処かで読んだことがあるのですが、湯治場が近い人には良いのかもしれません。
 病気の治りかけは、たしかに油っこいモノを食わずに、おじやや、おうどんとかを食うもんだよなあと思いました。
 wikipediaには温泉療法について、こう書いていました。
 
 

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日本文化私観 坂口安吾

 今日は、坂口安吾の「日本文化私観」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 第二次大戦中の1942年に、坂口安吾はこう記します。
quomark03 - 日本文化私観 坂口安吾
  昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。 quomark end - 日本文化私観 坂口安吾
 
 日本人には憎悪がないのだ、というとてつもないことを言いはじめる坂口安吾なんですけれども、しかし戦中から敗戦後にかけての数年間の、その時代の謎を追っていると、たしかに、坂口安吾の話は腑に落ちるんです。
 戦争責任があったはずの人間に対しても、A級戦犯に対しても、米兵に対しても、敗戦後すぐに、憎悪を激化させて起きた事件というのがほとんどまったく見受けられない。そこがすごく謎だと思っていたんですけど、坂口安吾を読んでいると、戦中と戦後すぐの日本人の考え方が、ちょっとだけわかるような気がしました。戦時中にこういうことを堂々と書けた坂口安吾は……破格だなと思いました。
 えっ? これほんとに戦時中に発表された本なの? と思うほど、自由な随筆なんですけど、ところどころ、たしかに戦中だと思う記述があるんです。たとえば十数年前の左翼活動を警察が取り締まっていた話しとか「わが帝国の無敵駆逐艦」という記述とかヒトラーについてとか、戦後には絶対に書かないようなことが、いくつか記されているんです。
 機械の美しさについて、安吾が書いているのが印象に残って、そういえばぼくは学生時代に美術とデザインを学んでいたときに、電車の台車のほうが、ぜんぜん美しいということにある日とつぜん気が付いてしまって、それ以来どうも自分の学んでいる美というのが薄っぺらく思えてきてしまったのを思いだしました。
 おそらく学生時代に、誰か美術教授が、坂口安吾の以下の記述を読んでいて、それを伝聞として聞いて、又聞きの又聞きから自分でもいろいろかんがえて、その時に目の前にあった電車の車輪が美しい、と当時思ったんだろうなあーと思いました。本文には、機械の美しさについて、安吾はこう書いていますよ。
quomark03 - 日本文化私観 坂口安吾
  ……終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。quomark end - 日本文化私観 坂口安吾
 
 本文とぜんぜん関係が無いんですけど、ぼくが大人になってからショックを受けたことのひとつに、動物園にもいるカピバラっていう動物は、ものっすごい足が遅そうに思うんですけど、人類最速のボルトよりもぜんぜん速く走れるカピバラがいるって聞いた時、なんだか自分のまちがったものの捉え方がイヤになったことがあります。
 ほかにも、かなり多岐にわたる物事が記されていて、ちょっとどうでも良い箇所なんですけれども、この坂口安吾の指摘には、納得がゆきました。自分の満足は、他人の評価とは、まったく関係が無い。
quomark03 - 日本文化私観 坂口安吾
  短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。quomark end - 日本文化私観 坂口安吾
 
 このほかに、京都に旅したときの旅芸人のサーカスというか興行の、貧しいところを捉えた描写があったり、それから中国の隠元の挿話も興味深く現代中国映画の特徴とも共通しているように思えて、また文学論もちょっとだけ記されていて、戦時中に発表されたものとは思えないすてきな随筆でした。
 
 

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歩くこと 三好十郎

 今日は、三好十郎の「歩くこと」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 「自分の頭が混乱したり、気持がよわくなったり、心が疲れたりしたときには、私はよく歩きに出かけます。」という文章から始まるこの随筆は、作家の三好十郎が、歩くことや旅をすることについて書いています。この文章が印象に残りました。
 
  もし私という作家の仕事の中に少しでもよいものがあるとしたら、それらが皆、歩くことや旅することと無関係に生れたりできたりしたものは一つもない…………
 
 またこういう指摘をしています。「歴史をふりかえってみても、西洋でも日本でも、えらい思想家や宗教家や芸術家や政治家や科学者などは、たいがい他の人たちよりも、ひじょうによく歩いている。」これは戦後の混乱期に記された随筆なのですが、三好十郎は、歩くことや一人で旅をすることの意味を、あまたの歴史的人物や、あるいは青年の心から読み解いてゆきます。歩くときに自然に生じる、人とモノとの関係のことが記されています。旅をする寸前には自身の健康に気を配っていて、移動をすることによって、いろんな客観的な力が備わってくる。
 ひとつの場所にずっと居ると、無意識に権力に従うようになったり損得を考えて「縦」の仕組みにばかり目がゆくようになるわけですけれども、自分で旅をして自分で歩いてみると、ものごとを横から見る、横の繋がりを発見する。
 現代の作家の随筆を読んでいて、物事に取り組むには、手足を動かして、あるいは体ごと問題にぶつかってゆかねばならない、という話しを聞いたことがあるのですが、今回の随筆はその話しとも通底していて、オチもみごとで、三好十郎はすてきなことを書く随筆家だと思いました……。
 

0000 - 歩くこと 三好十郎

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