ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
抒情挿曲
 

  四十

わたしはどうしても忘れない
わたしの愛したかはいゝ女
おまへがむかしわたしのもので
心も身体からだもあつたのを

その身体からだがわたしはまだ慾しい
若いしなやかなその身体からだ
だが心は要らない、埋めてしまへ
心はわたしが有つてゐる

わたしの心を二つに切つて
その一つをおまへに吹き込みたい
そしておまへを抱いたなら
ふたりは一心同体になる筈だ
 

  四十一

日曜の晴着をまとうた俗物が
森や野原を散歩する
こうしのやうに飛んだり叫んだり
美しい自然に挨拶したり
ロマンティックな風景を
眼を据ゑてぢつと眺めたり
雀の歌やおしやべりに
耳を長くして聞きとれたり

それにわたしは黒いきれをかけた
部屋の小窓にもたれてゐる
わたしの馴染の幽霊が
真昼間さへ訪ねてくる

むかしの恋が泣きながら
死人の国からあらはれて
わたしの傍にそつと来て
わたしの胸を涙にまでもやはらげる
 

  四十二

かへらぬ時の幻影まぼろし
墓のなかからあらはれて
昔のさまをまのあたり
見よとばかりにさし示す

昼は巷をよろめいて
おぼつかなげに悲しげに
ものも言はずにさまよふを
あやしと人も見たであらう

夜は人目もないことゆゑ
まちのとほりをあちこちと
影を追うたり追はれたり
ゆめみ心地でゆきゝする

橋をわたつて行く時は
足音ばかりが高う鳴る
雲間を洩れる月かげは
むづかしさうな目を投げる

おまへのうちの前に来て
ただひと目でも会ひたいと
たかい小窓を見上げては——
どんなに心をいためたらう

わたしは知つてるその窓から
月の光にてらされて石像のやうに
たゝずんでゐるわたしの影を
おまへがいつでも見てたのを
 

  四十三

ある若者がある娘を慕うてゐたら
その娘はほかの男に恋をした
ところがその男はまたほかの女に惚れて
その女といつしよになつたとさ

娘は大そう腹を立て
出あひがしらに好きでもない
男といつしよになつたので
とうとうその若者は気がふれてしまつたとさ

これは昔の話ぢやあるけれど
いつまでたつても古くはならぬ
そしてその話が自分に起つたなら
心が二つに裂けてしまふ
 

  四十四

友情と、恋と、智慧の石と
この三つを誰れでも賞めたてる
わたしも賞めてさがしたが
あゝ!つひに一つも見あたらぬ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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