ハイネ詩集
生田春月 訳
帰郷
五
夜はしめつぽく荒れてゐる
空には星のかげもない
森のざわめく木の下を
わたしは黙つて歩きまはる
遠くのさびしい猟師の家に
あかりが一つともつてゐる
でもわたしは入つて行く気がしない
なんだか不気味に思はれて
めくらのお祖母さんは気味わるく
革の肱つき椅子にぢつとして
石像のやうに動かずに
たゞひと言も口にしない
赤い
罵りながら部屋を往つたり来たりして
さうして鉄砲を壁へ投げつけて
腹立たしげに
糸を紡いでゐる美しい娘は泣いて
涙で
その足もとにはすりよつて
六
旅でわたしがはからずも
恋人の
その妹とお父さんお母さんに出逢つたとき
彼等はわたしを歓迎してくれた
彼等はわたしの
さうしてすぐにつけ加へていつた
あなたはそんなに変つてもゐられぬが
たゞなぜか顔色がおわるいと
わたしは叔母さん逹や
その外の退屈きはまる先生方の様子をたづね
それからあの小さな犬ころはどうしてます
やつぱり可愛らしく鳴くでせうねと訊いた
それから急に思ひ出したやうにたづねて見た
お嫁に行つた彼女のことを
すると親切に彼等はこたへてくれた
彼女がいまお産で寝てゐると
わたしはさもうれしいといふ顔をして
いろいろと喜びを述べてからかう言つた
どうぞお帰りになつたらくれぐれも
わたしがよろしく申したとおつしやつて下さいと
妹はその間に口をはさんで言ふのには
『あのかはいらしかつた子犬はね
大きくなつて乱暴でね
ライン河へはふり込まれたのよ』
このかはいらしい子はあの人によく似て来て
笑ふときなんかそつくりだ
そしてあの目付と同じ目付でもつて
またもわたしを悩ました
七
わたし逹は漁師の家にすわつて
海の方を眺めてゐると
夕の霧がやつて来て
高く高くのぼつて行く
灯台には
だんだんひろがつて行つて
はるかかなたの沖合ひに
船が一隻見えて来た
わたし逹は話した、
難船のこと舟乗のこと
空と水との間に、心配と
喜びとの間に漂ふ生活のこと
わたし逹は話した、南や北の
遠い国々の岸のこと
そこの不思議な
またその不思議な風俗のこと
ガンゲス河の岸辺は風がにほはしく
巨大な樹木が花咲いて
美しいもの静かな人たちが
蓮の花のまへに跪いてゐる
ラプランドには背の低い
頭の平たい口の大きな汚ない連中が
焚火をかこんでうづくまり
魚を焼いてはがやがや言つてゐる
娘たちは親身に聞いてゐた
そしてたうたう誰ももう話さなくなつた
船はもう見えなくなつてしまひ
すつかり暗くなつて来た
八
きれいな漁師の娘よ、その舟を
岸に漕ぎ寄せ来てごらん
こゝにすわつて手をとつて
二人仲よくはなさうよ
わたしの胸におまへの頭をおゝき
何もおそれることはない
毎日おそれ気もなく荒海に
んかせきつてる身ぢやないか!
わたしの胸も海とおなじこと
嵐もあれば、潮の
底にはたくさん美しい
真珠もかくれてゐるからね
九
月はしづかにのぼつて来て
波を隈なく照らしてゐる
わたしは恋しい人を抱いてゐる
さうして二人の胸は波を打つてゐる
やさしい人のやさしい腕に抱かれて
わたしは海辺にやすんでゐる
『どうしてそんなに風の音を聞いてるの?
どうしておまへの白い手はふるへるの?』
《それは風の音ではありません
海の娘の歌です
あれは昔海に呑まれてしまつた
わたしの
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年)
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
物語倶楽部作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、物語倶楽部で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。