ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  十

月は雲間にやすんでゐる
大きなオレンヂみたやうに
きらめく光は一面に
灰色の海を照らしてゐる

白い波のくだける海岸を
わたしはさびしく歩いて行く
すると水の底からひそひそと
いろんな甘い言葉が聞えて来る

あゝ、夜は長いあんまり長い
わたしの心はもう黙つちやゐられない——
きれいな水の娘よ、出ておいで
出て来てお通りよ、お歌ひよ!

わたしの頭をおまへたちの膝に取つてくれ
身体からだ霊魂こゝろもみんなあげるから!
わたしが死ぬまで歌つて抱いてくれ
はげしい接吻きすでわたしの生命いのちを取つてくれ
 

  十一

灰いろの雲につゝまれて
今神々は眠つてゐる
わたしは彼等の鼾を聞く
人間はそれを嵐と呼んでゐる

あゝこの嵐!このはげしい大暴雨おほあれ
あはれな舟は砕けちまふ——
あゝ、誰がこの風を鎮めよう
この我儘な大波を!

わたしは嵐を鎮め得ない
帆檣マスト舷板ふなはたのこはれるのも
それでわたしは外套に身をくるむ
神々のやうに眠らうと
 

  十二

風はズボンを身に着ける
水の真白なズボンを!
風は烈しく波を打つ
波は逆巻き吼え立てる

暗い空からはすさまじく
篠つく雨が落ちて来る
まるで古い夜が古い海を
溺れさせてしまはうとするやうに

かもめは帆檣にしがみついて
しやがれた声で鳴き叫ぶ
ばたばたいやな羽搏はばたきをする
何か不幸を予言でもするやうに
 

  十三

嵐は舞踏をどりの曲を弾く
嵐は吠えに吠えたける
なんとまあ、あの船の揺れること!
夜は物凄くまた楽しげだ

さかまく海はすさまじく
山なす海はすさまじく
こゝに真黒な淵を穿つては
かしこに白い山を築く

船室ケビンからは呪咀のろひの声や嘔吐の音や
祈りの声が洩れてくる
わたしは帆檣マストにしつかりつかまつて
うちにゐたらよかつたのに!と考へる
 

  十四

夕闇がだんだん迫つて来て
霧は海一面を蔽うてしまつた
波は不思議な音立てゝ
白い柱を立てゝゐる

人魚は波から海辺に上つて来て
わたしの傍に来てすわる
そのましろな胸を美しく
紗衣うすものの下からのぞかせて

彼女は息さへ出来ぬほど
わたしをしつかりかきいだく——
これはあんまりきついぢやないか
ねえ、美しい人魚さん!

『わたしはあなたをこの腕で
力いつぱい抱きますわ
あなたのお胸であたゝまりたいの
あんまり寒い夜ですもの』

月はだんだん蒼ざめて
くら雲間に照つてゐる
おまへの眼はだんだん曇つて濡れて来る
ねえ、美しい人魚さん!

『だんだん曇つて濡れて来るのぢやありません
わたしの眼はもとから濡れて曇つてゐるのです
水の中から出てまゐつた身ですもの
眼の中に雫が残つてゐるんです』

かもめは悲しげに鳴きさけび
海はさかまき吼え立てる——
おまへの胸は大そう動悸が打つてるよ
ねえ、美しい人魚さん!

『わたしの胸は大そう動悸が打つてます
えゝ、あなたが仰しやる通りだわ
大層あなたを愛してゐますもの
ねえ、かはいらしい人間さん!』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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