ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  十五

どんなにまあわたしは喜ぶか
おまへの家のかたはらを
毎朝通りすぎるとき
おまへの姿がもしも窓辺に見えたなら

おまへの黒い眼はぢつと
たづねるやうにわたしを見る
『あなたは誰です?見知らぬ方
病人の方、何をあなたは求めます?』
その国ぢゆうに知られてる
わたしは独逸の詩人です
もし一等いゝ名を挙げたなら
わたしの名前もそれでせう

さうしてわたしの求めるものは
独逸で求められてるものがそれですよ
もし一等ひどい苦痛いたみを挙げたなら
私の苦痛いたみもそれでせう
 

  十六

海は沖まで輝いてゐた
入日の余光に照らされて
ふたりは寂しい漁夫れふしの小屋に
たつたふたりきりで黙つてすわつてゐた

霧立ちのぼり波立つて
かもめはあちこちへ飛んでゐた
おまへのかはいゝふたつの眼から
涙の雫が落ちて来た

涙がおまへの手に落ちたとき
わたしはおまへの前に跪いて
おまへの白い手を取つて
その涙をすつかり飲んぢまつた

その日からわたしはだんだん痩せて来て
逢ひたさ見たさに死ぬばかり
あゝ、あの不幸な女の涙
涙といふ毒を飲んでから
 

  十七

むかうの山の頂きに
きれいなお城がたつてゐる
そこにはわたしが恋を味つた
三人のお嬢さんが住んでゐる

土曜日はイェッテがわたしを接吻きすします
日曜日にはユウリアが
さうして月曜日にはクニグンデが
すんでの事わたしを窒息させようとした

けれども火曜日にはこの三人の
お嬢さんのゐるお城には饗宴おひはひがあつて
近隣ちかくの紳士たち淑女たちが
馬や車でやつて来た

わたしはところが招かれなかつた
何といふ馬鹿なことをしたものだ!
おしやべるの叔母さんたちや従姉妹いとこたち
それに気が附いて大笑ひ
 

  十八

《わたしの愛する百合子さん
おまへは夢みるやうに河辺に立つて
かなしげに川をながめては
嘆息してるね『あゝ!』とか『つらい!』とか》

『あなたの愛撫をもつてお行きなさい!
嘘つき、わたしは知つてます
わたしの従姉妹いとこの薔薇さんが
あなたの薄情な心に気に入つたのを』
 

  十九

遥か彼方の地平線ホライゾン
うすぼんやりと見えてゐる
たくさん塔のあるあの市街まちが——
夕の時につゝまれて

しめつぽい風は渦を巻いてゆく
灰色をした水の上を
悲しい櫓音で漕いで行く
わたしの舟の船頭は

日はまたもう一度あらはれて
もう一度さつと輝いて
わたしが愛する人を失つた
あの場処をわたしに見せてくれる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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